花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

日本と中国はきっと誤解が解けて仲良くなれると思います。

2012-09-27 02:47:04 | Weblog

若い頃中国に行ったとき
ずーと昔、、、

何千年も前
私は
ここで、、、生まれた、、、

そのような、理屈を超えた
大地の子

懐かしさでいっぱいでした。
四川省の
三国志の世界も

懐かしさでいっぱいでした。

竹の林の中を潜り抜けて
たくさんの種類があるのでびっくりしました。

どこか、日本と中国はそっくりな感性があります。

博物館で見た
数多の焼き物も、

中国がルーツのように
懐かしかった。

西安の唐招提寺だって
鑑真和尚さまの

日本のとおんなじですよね

こんなに親しく
影響を受けて北日本と

中国は親しく
同類の親しさも感じます。

原点に戻って
自然の気持ちに立ち返ると、、、

実は、、、東洋人は皆仲間のような
似たところだらけです。

兄弟喧嘩は
きっと
誤解が解けたら、元に戻ると信じています。

又、中国には行ってみたいです。

日本の政治家の皆様、
中国と、仲良くしてください。

孫子の時代には
親友になっていてほしいですね。

政治家の一存で変わる、国立がんセンターにびっくり!

2012-09-22 01:15:02 | Weblog

昭和38年ごろでした。

私は父が、最後の力を振り絞り

疎開先の山奥から

戦後の教育を、子供たちにうけさせねば、と

敗戦を期に「アメリカの教育が入ってきました。」

父は「イギリス医学」を学んだ外科医でした。

新宮のおじさんは「ドイツ医学を学び、
すでに、ドイツ式のレントゲンなど診療に使っていました。

激動の戦乱をはさんで、時代の波に翻弄され
戦地では「戦陣外科」を体得したまま

薬も、包帯もない、、、惨憺たる現場で
「神に、、、祈るしかなかった、、、」
そのとき、、、確かに!確かに!
戦場にクリストが現れたのを見た!


父は、唇を少し痙攣させていた。


後日、薬科大学を出て、医史薬学に興味を持った私に
東京大学の、医史薬学のリーダーでいらした「S先生」から

ヨーロッパの500年から健在中で今なお機能している病院など
イギリス、フランス、を中心に、パリ大学なども見学するのですが
参加しませんか?と
お誘い下さったのでした。

参加先のヨーロッパの歴史的な時代からの
とある著名な病院の「医療美術館」で

父が話していた戦場の野戦病院の現場に現れたクリストの絵画を
ここで、、、!私は観ることが出来たのでした。

父よ、、、貴方のであった戦場の医師と傷病兵とクリストの場景が
今、私は、胸につまされて、、、観ています。

医史薬史を実践していられる先生方は時空を超えて
私に過去の父の生きた時代を紹介してくださったのでした。

医史薬学はもうすぐ50周年を迎えようとしていました。

医学薬学を志した史跡を巡る旅は、筆舌に尽くせぬほど
「科学と魂の融合」
「大いなるスケールで
生命を見つめ続けた
繊細な高度な次元の努力の積み上げられた
神と共存した科学の足跡に出会いました。

イギリスの、セントメリーホスピタルでは

ペニシリンが研究していたアオカビのシャーレーが
院内に展示してありました。

狂犬病のワクチンや
エーズの研究で有名なので

どなたもご存知の
パスツール研究所では

パリの某大学の中心的スタッフの娘さんと
結婚したパスツールは
奥さん方の大いなるサポートで、
世界から名は知れていなくとも
よい仕事をする研究者を一同に集められて

大学という権威とは別に
世界にとどろく実験で
狂犬病も、エーズも
医学の手の中に握りこんだのでした。

昭和38年ごろ
父が、、、「がんセンターが出来るんだよ!」

医師として、「ビジョンのある計画だ!」
医者の卵の兄に
熱っぽく言っていました。

そして、私が大学中に父は亡くなりました。
粗悪なレントゲンは父の手に潰瘍を作っていました。

父の突然の死で、
弟は、国立一本の受験で千葉大に合格しました。

その頃、市川平三郎先生の
二重造影が、胃の中にガスを入れて

立体の臓器写真を写すという、センセーションを起こしました。

我が医療施設にも、回転する二重造影を出来るレントゲンが
400万前後で設備されました。

採算度外視の夢に
万難排して医学の黎明期の
ご来光を信じました。


崎田先生の胃カメラを扱う胃の中のカラー写真を
はじめてみたときは、
興奮してしまいました。

医療費や採算を度外視して
医学の黎明期の波に乗ろうと

志を持った「弟は、医局を飛び出して」
「無給の研修医として、
がんセンターの医学の夜明けにのめりこみました。」

医局を飛び出して、、、夢を追いかけて
もう、、、後ろは振り返れない生き方でした。

最後に、、、米粒一つ無くなり、、、
がんセンターを去らねばと、、、涙が出たそうです。

そのとき、
当時としては斬新な手技であったのでしょうね!
CTの開発部隊として、
国立のささやかな月給が支払われることが知らされ

彼は、ひたすら、手遅れにならない前の患者さんを救いたいと言って
CTの改良に、東芝の技師さんらと
日夜、、、廊下に寝泊りしながら、日本の医療の夢に駆けたのでした。

医師の多くは家庭を振り返る時間は無いと思いますが
弟は、外科の医局時代、
手遅れになっては手術も無力。
何とか、痛みのない治癒を目指して、
がんを未然に防げないかと、、、いつも言っていた。

人生を「がんの診断の研究に捧げた弟は、私たち兄弟の光でもありました。」

一般病院の外科医をしていた若き日の夫のところに、
学会で、同僚とともにやってきて、二人とも
夜明かしで夫とともに医学談義や、趣味や夢やビジョンを語り明かし

布団も敷かないまま、話疲れて、
床で、ソファーで、クッションを抱えて
夜明かし談義でした。

彼らが帰った後、
夫は、目からうろこが落ちた!
こうしてはいられない、、、
大学にU-ターンしてしまったのでした。

月給は三分の一になるし、
夜は土日しか、まともに帰ってこないし、、、
いきなり大阪から「国内留学で、しばらく帰れない、、、」
とんでもない電話一本です。

やがて、医局の世話を筆頭で、何でも引き受け
大学の講師になった頃、

弟のように、若き頃、出来たばかりのがんセンターに
人生の夢をかけてのめり込んだ医師は

ほかに追従を許さない
「がんセンターが」世界に向けて日本の医療が
患者さんを、築地まで通わせていました。

柳田邦男さんが
当時の様子を
「がん回廊の朝」「明日への挑戦」などの
単行本に書かれています。
アフリカ大陸の夜明けのように、
「がんは早期発見される時代に突入」していました。

パリ大学でも、ウエルカム医史博物館でも
イギリスの500年から今なお健在な病院でも
医学の発展の足跡は大切にされていました。

教会が庭にあった病院を見学しましたが

ここ2-3年のがんセンターには
政治が同居して、
スタッフがコロコロと
まるで、一人の人間の意志で
医学以外のセンスで、かき混ぜられているように

行くたびに院長や先生が交代しています。

私は5年ごとに検診を受け
そのデーターを
がんの発展に使っていただけるようにと
アンケートなどにこまめに回答してきましたが、

激動のがんセンターの先生方の入れ替わりに
不安になり、忙しさも手伝って

今は傍観者のように
外側から見ています。

横浜の博物館になっている軍艦にも似て
検診研究センターになっている建物が
市川先生と、若き医学の夢を追って燃えていた弟の出発点だったと

団塊の世代! 戦争を知らない世代!

日本の立ち上がりを見せてくれた医学!

築地の国立がんセンターは、
政治や、法学部の偉いさんが、学問で切って捨てるのは
どこかちぐはぐな感じで、患者の私は傍観しています。

医師たちのビジョン
医師たちの夢
医師たちのひたむきな努力を支えた東芝や
東北大学の先生や、世界の巨匠たち、

メイヨークリニックで学んだ弟

日本ではありえなかった
総合的なスピードの管理された技術を
素晴らしい専門性に到達した
「心と技とビジョンと夢」で

築地に患者さんたちの
早期発見!
命の光を放ったのに!

頑張る人たちを見ているだけで
何もいらなかった、、、

黙々と40年間
雪掻きをしながら
孤独な冬も乗り切れた。

さわやかで、頑張りやで、理解されなくても、
視点を広く持って、苦笑いしながら、
彼は彼の道を行くだろう!

世界に通用するコロンブスの医師たちのメッカだった
国立がんセンター

権力や、政治や、学閥で
人事がコロコロと動かされて、

貴重な発展の足跡が見えなくなってゆく。

壊してしまってはならない医師たちの夢は消えはしない。

人間が、どんな精巧なロボットよりも、
しょっぱい涙を流せることを

政治家は知っているのだろうか、、、!

ありがとう、、、私の卵巣腫瘍を見つけてくれた先生!
おかげであれから、、、病気知らずの70歳が見えてきました。

来年は、、、先生は、、、もう、、、がんセンターには居ない。

政治家が介入する日本の医療は、、、どこに行くのか?
選挙が老人の票が多いだけに、、、医療はかき混ぜてほしくない
結界があってこそ、、、と思うのは、
戦争から立ち上がった緊張感が続きっぱなしの
団塊の世代の姉だからでしょうか。

人間だから、、、命は生き物だから、、、刻々と変わる状況!
ピアニストは、満員の聴衆の中で
たった一人の、、、わかってくれる人のために
渾身の思いを込めて演奏する、、、、

ピアニストの母
がんセンターに人生をかけたその息子

たった一人、解かる人のために。笑顔で
前進あるのみ。


医師たちの、ノルマ過剰の、突然死や、一歩手前の健康状態はなぜ?

2012-09-13 23:26:54 | Weblog

正直なところ、
毎日が心配です。

息子は今日で、38歳になりました。

人間として、
基本的に、
健康生活を維持するには

どのようなサポートが
出来るのか、
日夜、、、悩んでいます。

尊敬していましたが
親しかった、某教授も
ストレスと、激務で、
惜しまれながら、、、若くして突然なくなりました。

時間貧乏な先生方は
生きるか死ぬかの命を対象に、日夜勉強しています。

そのせいか、、、これからどんどん役に立てると思われる
40代、50代の医師たちが、
ばたばたと
倒れれいます。

息子は尊敬する先輩の医師を慕って
地方の、大きな病院に赴任しました。

そこには、パックスはありません。

患者さんを診察しながら
データーとして入力し
明日は、よりよい実績で、病気の診断に向かうはずですが、

パックスが無いため

手書きのスピードで
事務をこなしているような状況名でしょうね。

主人の勤めている病院では
パックスが入っています。

それでも、医師の先生方は
少ないスタッフで
多くの患者さんを診て

さらに電子カルテの入力
データーの整理

日進月歩の医療レベルに遅れないように
早朝から、カンフアレンス、
後輩への気使い

きっと、医師の身内にならなければ
医師をすることの「激務」は想像できないでしょうね、、、

私の父は「外科医」でした。
そして55歳の若さで死んでしまいました。

過労死、、、です。

命を前にした仕事だけに、
力の似通ったスタッフがいたり
尊敬する先輩や

世に言う「助教授」「講師」クラスの
指導の下では

体はきつくても
頼れたり、相談できるというだけで
ストレスは、過剰にはならないのではないかと推測されます。

大学病院で博士論文が出来上がった頃
大学で博士号をいただく前に
軍医として、
大陸の医科大学の教官として赴任命令によって
従軍して「戦陣外科」をしてきたという父は

当地で博士となり、「髭の医師」として
大きな手術を評価された新聞記事が
顔写真入りの、十数枚の切抜きの新聞記事を
母は、私に見せてくれたのは

父が55歳で、患者さんの手術を終わらせた後
眠るように、死んでしまった数ヵ月後でした。

戦乱の中、外科用の鋏だけ持って
新聞記事にくるんで、日本についたのは
敗戦が確実になった昭和20年に近い秋でした。

爆撃から逃げて、、、逃げて、、、疎開地で
総ての科の診療も、手術もこなし

戦後、故郷の東京へ戻り
第二の人生の「開業」に踏み切ってから
わずか10年で、父は55歳で

過労死でした。

今息子は、父よりずっと楽なはずだと思っていましたのに、

あのときの、、、過労死した父のスタイルとそっくりになってきました。

疲れて、、、疲れて、、、運動もすることも無く
ひたすら、仕事のために「いすに座っているのです。」

飛行機の中の座席にいるようなものなのでしょうか?

心配で、、、心配で、、、電話をすると、、、
「心配なら、1分でも多く寝かせてくれ、、、」

ブロイラーのように閉じこもって
卵を産む代わりに、
一人でコツコツと
パックスのないデーター処理の中で
論文を書ける状況ではないし、

せっかく医師になっても
医師の競争相手は、親の代から
条件のそろった、優秀な先生方であるから、

指導者の居なくなった病院で孤軍奮闘しながらも

体はストレスで、過労死寸前のストレス体形になってきた。

、、、ここよりは、
よい条件で引き抜かれていった
指導者を、ここに来るまで、居なくなってしまうことは
予想は、出来無かったのが本音だと推察する。

上司が、『ほかへ勤め替え』してしまった。
「一人で診断しなければならないことが多くって、、、緊張で、孤独で、、、」

先生、、、戻ってきてくれないかな。。。


三顧の礼を尽くして
教授として、
指導者として戻ってくださいと、、、大学が許してくれるなら
僕が使いでお迎えに行ってもいいよ!

ぼやきながら、、、べそかきながら、、、

僕には、学びたいことがいっぱいあった優秀な先生が
居なくなってしまった。

とても、つらそうでした。

戻ってくれるようなら、教授として
大学が、あの先生の凄腕に惚れて
現状に
気がついてくれたら、、、、どんなにいいだろう。

働きながら、先輩の技術を取得できるわけだから、
「孤独な診断のストレスは消えて、
明日に夢を持って、学びながら、博士論文かけるのだが、、、。

パックスが無いのと、指導者を失ったのとで

異常なほどの、ストレス体形になってしまった。

もともとは、好男子のスリムなスタイルの息子に
戻れるのではないかと、思いました。

開業も、「孤独な命との戦いのストレス」
がありますが

結婚相手は当分見つからないでしょう、

卒業生を愛している暇も、スタッフも、絶対欠如の
医師の世界は、

心無い風評被害のために
お金持ちと思われているから

オリンピックのアスリートのような
絶大な応援が得られないのも、現代の医療状況だ。

息子よ、、、結婚などはもう、、、どうでもいいから、

一日も早く、ストレスを抜け出して、

スリムなぁら谷なってください。

今のままでは、

メタボ、、、ですよ、

今日も、素晴らしい、充実期のお年の若い先生が
過労で亡くなりました。

どうか、、、上手にストレスを回避して
素の、好男子の、スリムな君に戻れるように、

足間サージ器と、ダイエット筋トレの鏡を送りましたからね!

ピアニストの母は、会場の中でも
わかってくれる「一人の聴衆のために弾く」

常々言っていましたが、
去ってしまった先生の医学の凄腕の独奏を
僕は聞きほれるように、まなんでいたのに、、、

嘆きながらも、
きっと大学は
教授クラスの凄腕の師匠をよこしてくれると。
外野のママは、、、祈っています。

どんなに苦しくても、

ママのお父さんのように
早く死ぬような
健康管理のない生活だけは、

国家の損害だから、、、何とか休養して
健康な体型に戻ってください。

生きた心地がしません、、、

このストレスは

孤独で一人で診療することが
いかに、、、ストレスか、、、

神様、、、息子を護ってください。
もう少し頑張れば、、、

診断にも上司との連帯の診療が出来ると信じています。

せっかく、、、親も、懇親の力で応援しますから

せっかく医師になった、、、

「的確な診断力」で患者さんの命を延命できるという
医療の世界の(金の卵)に匹敵する力を持った彼を
ガチョウだとしたら、

むちゃくちゃな環境に甘んじることは
ハラを裂いて、未熟な卵を出してしまい
ガチョウを史に至らしめるのと
同じよう名、目先の為に
延々と金の卵を産み続ける
若き医師をつぶしてしまうことになると

とても、、、母は、、、不安です。


ロンドンの舞台

2012-09-08 03:36:10 | Weblog



精神力、、、
凄い精神力、、、

記録への挑戦というより、、

克己という

凄いものを見せていただきました。

涙が出てくるのですが、、、

神は、、試練を乗り越えられる人をご存じだったのですね。

そして、大いなる役割を与えられたような気がしました。

人間は「精神力」が、宝石より勝る輝きがあることを

知りました。

親が勝手に、、、息子の婚活を考えるとき

2012-09-01 02:04:02 | Weblog








時代が読めない、
、、
国会も、落ち着きのない会議に明け暮れている。

NHKは「もう一度!日本!」を叫んでいる

女性は子供を産まない志向が時代の流れになってきている。

男は結婚に躊躇する。

生きてる間に、、、二男の孫に、、、遇いたいから、

、、、、、、、

もい一度、、、豊かな命育む日本に!