花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

猿の惑星。 ドクトルジバゴ の時代に青春を送った回想の日記

2015-06-27 01:26:53 | Weblog




24歳、
運命という一言で片づける気持ちにはなれない、
段差が突然来ることに、逆らえなかった。
心が 何かに突き当たってしまった隙を、、
自分では、どうすることもできない回り合わせであった。

見えない力で、引っ張られてゆく自分が、
流れに逆らう術がなかった。

54歳で、、、父が亡くなった

頼みの柱になるべき長男は、
私立の医科大学を卒業して
無給のインターンの時代でした。

二男の兄も、私も、
私立の薬学大学に在籍中でした、

大学病院に勤務していた父にとって、
当時は、宮内庁や、宮様の御親戚や、
やんごとなき方が入院される大学病院に
外科医として在籍していた。

時代の流れでしょうか!
関東大震災や、
出兵することが不思議な時代ではなかったという事です。
医師という職業と使命の導くままに

戦争の始まった仁川での勤務は
緊張の毎日であったことでしょう、

母が生前、捨てきれなくて
父が従軍で、野戦病院にも携帯した手帳や、
武運長久と、
一針づつ、祈りで刺した
「千人針」や神社の社印と、
多くの方々の寄せ書きでうずめつくされた
「日の丸」の旗と

父の卒業した、慈恵医科大学の「卒業証書」でした。

現地で、西洋医学を指導する父の
掲載された新聞の切り抜きが、、
医師になったばかりの長男が持っていきました。

当時 、、、国のインフレに備えて発行されたらしい
後日紙切れ同様になった、知っていながらの国への寄付替わり。
「日本国債」を、解っていながら、
大量購入して、国に還元したと言っていた。
仁川でいただいたお給料も、全て、国に還して
気のみ着のまま、帰国したのでした。

古い茶色に変色した写真には  」

父に抱かれた長男が
真ん中に
交差している日本の旗の下で
緊張して、
カメラ目線で全員が写真に映っていた。

提灯袖のように肩がふっくらした
日赤の看護婦さんが、凛として並んで居る後方に

現地の病院のスタッフが並んで居た。
なにかのイベントの集合写真は
歴史的な一枚に思えた。

戦乱が、原子爆弾2発で終戦に導かれた昭和20年
玉音放送に、皆、大地に伏して、泣いたという。

我が家には「紫宸殿の御儀」と書かれた
御大典記念写真という、4枚一組のうちの一枚が戦乱の中で無事でした。
めったな扱いは国民として、非国民と言われた時代の
小さな名刺大のお写真を、どうしてよいかわからないまま
いつも、バックに入れて、
平和の為に
耐えがたきを耐えられた、玉音放送の
国民が全員泣いた戦争を、二度Dと起こさないでと、
お守りにしています。

昭和陛下のもとで、
戦前は、白い手袋をはめて、
勅語を朗読するのが、
校長先生のおじいちゃんの役目であったと
母は言っていた。

明治生まれで、斬髪のヘップバーンスタイルの元祖のような母。
ピアノなど、よっぽどのハイカラさんでないと引けなかった時代、

新橋の、「フロリダ」という、
ダンスホールに、ピアノを弾きに行っていたという。
新橋からほど近い慈恵会医科大学の学生だった父が
タンゴが踊りたくて、フロリダに通っていたという。

新橋ー横浜間に鉄道が走って、新橋は
ハイカラさんや、モダン学生の
集まり所が多かったという。

父母は、敗戦の戦後を生きた日本暴落時代の私とは、文化が違っていた。

戦争は、母から笑顔を奪い、父から健康を奪っていた。
それでも、生き残ったのですから、
外科医は、戦場で、死ぬほど苦しい現場で、
英霊の手を握り締め、
人として、死んでゆける一瞬を温め続けたのだろう。
生きていたら、75歳前後の兄弟姉妹に別れを告げに
母の依頼で、韓国の山に登ってきました。

何処を、どう生きたのか?、、、
患者さんを診療する以外の生きがいはなかったのでしょうか?

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それから、激動の生き残りの激流を超えて、、、20年
「開業」という、居場所だけを残して、父は「医者をする人生から昇華してしまった。」
そろばんも、商魂も皆無の育ちだけに、
患者さんの診療費が、「大根」「アユ」「ウナギ」「山芋」
米だったり、我が家はそれらを、また、皆に分けていた。
思い出は尽きない、やっと休めた、、、、かわいそうな父。

父の早逝した朝
クロッカスの鉢植えが、
一日で、おどろきの速さでぐんぐんと茎を伸ばし、
夕方には花を咲かせた。
母は一日中、動かないで、
クロッカスを見続けていた。
後日、
押し花にしたクロッカスを、
ミニ額に入れて、仏壇に飾ってあった。
母にとって、
クロッカスは、父の命の気配のおしばなだったのだろうか?

父の後を継いだ兄が、
院長室に、思い出の集合写真を
しばらく保存していたが

医科大学を卒業したばかりでは、
開業医では役に立たなかった。
兄に結婚の恋人が居たのですが、
これまた、、、ピアニストで、
我が家で、お迎えできるような、
お嫁さんの枠には入れ切れない才媛で、

父が亡くなった世代交代のテンヤワンヤの時、
我が道を目指して、どこかへ飛び立つ後姿を
私に伝えて、消えてしまった。
国立一期生の母が、ポツンと言っていた。
結婚することは、ピアノを捨てることだから、
彼女は、音楽を選んだのよ、、、

テンやワンヤの取り込み中の日々を過ぎると、
嫁さんの方で、突然、我が家に引っ越してきました。
家政学部の助手をしていたという、
奥さん専科とでもいったらいいのでしょうか?

     再び父に焦点を戻します。

大学で医師として働く父の写真が
大きく掲載された新聞の切り抜きだけが、
兄の所に有って、見出しの
「髭の博士、丸々医師の**手術」という見出しが
妙に、記憶に残っている。
当時はイギリス医学の手術法は、
仁川に於いては
新聞記事になるほど、斬新だったようです。

文化の違う病院で、
孤軍奮闘滅菌方法から指導している記事に、
誘導されるかのように、

我が父の激動の時代を過ごしたという
大陸に行ってみたいと、思っていただけで
チャンスは巡ってきた。

私は40代になって、
中国、韓国の医療を見て回り、
東洋医学のゼミを受ける事の出来る大学関係者からの御誘いで、、
4大中医学院をめぐるチャンスをいただいたのです。

多くの、素晴らしい外国の先生方の、医療は
心の哲学に沿って行動されているような、凛とした
動かしがたい考えを持っていらっしゃるのが、伺いしれました。


文化の違い、、、一概に近代科学にすれば納得という
受験の考え方とは次元の違う流れが覆っていました。

風土気候、宇宙の動きまで五感を使って採用された医学に
科学とは違う、存在の愛のような、、、筆舌に尽くせぬ
自然のバランスのとり方に、改めて、認識を新たにしました。
成都の生薬市場には、一千件を超える屋台で埋まった市場がありました。
チベット高原から、学校生活を知らない民族が、
背中に籠を背負って、霊芝の特大のものを、無造作に持って市場に卸してゆく。
当時、日本では桐の箱に入った小ぶりのものが一本2万円していた時代であった。

「トウシャテェン?」、、、、日本円で100円である。特大のを5本くれました。
ここまでやってこれたのは、
薬剤師という仕事が
導いてくれたと言えるのかもしれませんが、

三国志で知る人ぞ、ウルムチの見えるところまで、
勇気をくれたのは、
戦争中は、シベリア抑留で、もっと遠くに、日本人の足跡があるという
先立ちの、大いなる勇気の遺産の爪の垢を私も飲んでいたのですね。

子供達に、命を懸けて、
戦後教育のできる東京の故郷に、戻ってくれた父の勇気は
生き残った兄弟全員の「大いなる勇気のいさん」でした。

父の遺品は、それ以外、何もなかった。
父の財産は、、、
見えるものではなかった。
金目のものを遺産というなら、
一切の遺産はなかった。
父の後をついで、怪獣のようにエネルギーのある母を
守り、父の残した患者さんを引き継ぎ、
医師をする事、、、そのもので、
誰も、相続できるものではなかった。
医師以外、その遺産は意味がなかった。

人生の流れに沿って、いつも医者をすることを続けて、
急逝する前夜
Tさんという患者さんの手術を終えて、
麻酔が覚めるのを管理しながら、、、

自分が、永遠の眠りについた父は、
自分が死んだことに気が付かないで
一足飛びに「神」の光の中に粒子になって
霧散したのかもしれません。

この去り方こそ、受け取りたい、、、
大いなる遺産であると考えている。

あれから、、、何十年もたって
母がいつも言っていた「千の光になって」という歌が
聴こえてきた。

父と見た蛍の夕べ。
母と見た縁側からの薄の向こうのお月様・
木漏れ日の中を歌いながら走る風
吊り橋の上から見た輝く瀬音に戯れる波しぶき。
東京に戻ってからは、ピアノだけが生きがいだった母。


その後、30年近く長生きした母は、
3日前までピアノコンサートや、
お弟子さんを育てながら、、、父を追っていった。

光の中で、父とであっても、わからないかもしれません。
父は54歳、母は81歳ですから、、、。

母のグランドピアノは、
お弟子さんの一人に遺品として送られた。
アップライトの一台は、老人施設に贈られた。
後の一台は、どこに運ばれて行ったのか?

お弟子さんの中で、音楽大学に進学された人が居ましたが、
母の子供以上の存在だったと思います。

私は、母にも、子供にも、一方通行の愛を、
今も、キイに指で語り続けています。

天国の光の中に、全ての命は
神様が吸い上げてくれたのかもしれません。

多くのお弟子さんという娘たちの涙にとりまかれ、
弟の仕事のお仲間に取り巻かれ、
孫が、、、「みなさん!おしずかに!おばあちゃまが起きてしまいますよ!」
と、大声を上げるので、皆失笑しながらも、
母の生き方はすごい!と思いました。

これで、紀由子、高栄 輝栄の娘と息子にも、
会えるのでしょうね!?

母のこの生き方と、幕の閉じ方の
目には見えない幕こそが、
、、
戦争を体験し、多くの御霊に守られた
精霊たちの贈り物ではなかろうか?

目に見える 
そのほかの戦争体験時の携帯品は
思い出をぼろぼろにしてしまうからと
処分してしまった物が多かった。
おじいちゃんが、いただいた
勲章もいっぱいありましたが、
どうなったのでしょうね。
従兄弟が持って行ったのかもしれません。
銀の懐中時計は、子供のころ、おじいちゃんに言いました。
「おじいちゃんが死んじゃったら、この時計頂戴!1」
「ハハハハハ、、、、死んじゃったら、あげようね!(^^!」

おじいちゃんが死んだ日、
私は、予期せぬ結婚んで、留萌に居ました。

「おじいちゃんが死んじゃった!、、、時計受け取らなくっちゃ!」
免許とりたての主人の運転は、一瞬、スピードが落ちました。
「なんだって???、、、なんでそんなことがわかるんだよ?!」
「おじいちゃんが、夕日の中で、懐中時計を取りに来い!、、、」って
言ったのよ。

夫は信じなかった。
しかし、奇妙なことに、その時刻に祖父が死んだと電報があった。

懐中時計は、誰が持って行ったのか、、、いまだにわからない。
祖父の死に目にも、母の死に目にも間に合いませんでした。
北海道で、苦学生と結婚するという事は、
東京は、アメリカよりも遠いことが、わかりました。

母の死に目には、一見間に合わない時間にお寺に着いた私でしたが、

女性の私に、母は北海道まで会いに来てくれました。

ベランダに出て、両手を挙げて、
「お母さん!皆の所に送ってゆくから、私の体にお入りなさい!」

深呼吸とともに、背中が、さく裂した痛みがが走るのを覚え、
涙となった私の体液を外に押し出し、汗と涙がコップ一杯以上、流れた。
母が、同居したのがわかりました。

オカルトのような体験でした。
脳の一部の異常な緊張が、神経を、以上刺激したのかもしれません。

オカルト現象は、異常緊張の脳や神経のなせる科学なのかもしれません。


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再び、父に話の焦点を戻しますと。

父が、持っていた、軍隊手帳、旗、ゼロ円の国債
仁川で、現地の医学生を指導した時の、
記念の、手術道具
これは、母が引き上げる異常事態の時、
唯一持参できた医療具でした。

この医療用具は、平成13年の夏
医者になりたくない症候群で、医大半ばで
退学を考えていた父にとっての、孫に
「あなたの爺ちゃんは、戦場で、多くの命を見送った外科医だった。」
おじいちゃんが、、おばあちゃんが、退学する前に、これを君に!
おばさんの夢枕に立ったから、
おばさんが持っているより、君に、預けに来た。」

おせっかいでも、なんでもない、、、
本当に、父と母が、夢枕に立ったのでした。

その成果どうか計り知れないが、
兄から、「息子が、やっぱり医師になると、復学して頑張って、
国家試験を通りました。」と、国家試験合格の新聞の切り抜きを送ってきた。

その後、結婚したらしい。、、、が
人生の悩みの時期を思い出させたくないから、
一切、逢っていない。
照れくささが、消えるのは、自分の子供が、また、悩みの時代に入ったとき。
おばさんのことを、思い出すかも、しれないね。

、、、おじいちゃんや、おばあちゃんに、頼まれた事は、、本当だよ!
再開しても、事実を繰り返すだろうね。、、、
私としては、、、本当だったから。

霊験は、母の葬儀の日にも起きた。
お寺に行ってしまった奇妙な、
誰も居ない空間の中で。
ひんやりとした空間の中で、

母の、母(祖母)が来ていたという留袖が、
和紙に包まれて、置いてありました。

不思議な空間の中で、
硯と墨と筆が目につき、書初め半紙に、
「私は、死んではいない、必ず戻ってきます、」
、、
自動書記のように、手が走り、

書き終わると、凄い虚脱感がして、寝てしまった。

目が覚めた時には、、、
不思議な霊験は消滅していた。


************************************

高校時代の思い出。パッチワーク。。。

   映画など。観たことがなかった家族。

ドクトルジバゴを観に行った後、
北大に進学した高校時代の同級生と
ドクトルジバゴを。
もう一度観に行きました。


北大の旧校舎の絵葉書や、
ニーチェの全巻を送ってきたりした
北大生の
同級生と、
夏休みに、誘い合わせて、
もう一回見に行った。

恋人とか、恋愛という感情ではなくて、
お互いに、
これから行かねばならない道が遠いので、
友を求めたぐらいの
気楽な時代でもありました

帰り道
靖国神社に行ってみた。

その後、戦争の実態を感じる資料のある
博物館にも行ってみた。

                   つづく

息子の小学校時代。

2015-06-25 03:58:01 | Weblog

どんなに眠くても、           *      サッカー少年団の思い出
どんなに忙しくても、                   
終活の思い出話を、
記憶の中から手繰り寄せてる最中でも、  *    長男が小学生の時

****ジャパンの                atarasii小学校が出来ました。
サーカーが               *
すべてを中断させて                  それまでは
テレビの前に
私を引き寄せる。            * H丘とS駅の真ん中あたりの

****ジャパンが               N小学校に通っていました。
まだ、
観客席に人がまばらな時代から          まっさらピンの校舎、
私は応援している。                  家から10分
                    *   若くて、フレッシュな先生方!
監督さんの
包むような、                     その中には
                        忘れられない先生方が居た。
寄り添うような
選手たちを見守るような、         * パンチパーマのようなくせ毛のイメージ
そして、
チームを一つの生き物のように         アイドルにも負けない動きの美しさ
ひとつとして接してゆく              家族のように、思った事を、
凛とした                    ずばずばおっしゃるが、
導き方が                   なぜか、心に傷が残らない。
変化自在の不思議な形を変えながら
サッカー場の****頭脳のように   * 「サッカー少年団」のような

動きが考えを描きながら       ***  サッカーの少年倶楽部を創立した(^^
見ているものを巻き込んでいく            父兄も夢中でグラウンドに
                     * キノコのように立って見守った。
****ジャパンの
選手たちのおかげで                 公式の旗が出来るまでにと、
                     * **  赤と青との布を買ってきて  *

意味が理解!できた。       *  パッチワークの
変化自在の一枚岩の連動の中の       * タンゴ * のサッカーボールを
「和」と環と輪と倭と心の話のスピードを    真ん中に旗をささげた。
目で見てるような                 新しい小学校への感謝が
感動があります。              *     形になった

本日は、
思い出話のパッチワークのお仕事は   ***  ありがとう! サッカー 
お休みして
* 思えば、、あの時  **                      
****ジャパンの             *  私、大学生だったっけ。。
私の娘たちへ。。。と      (^^m **   観戦に行ったっけ!*****

 多くのフアンが、                   釜本選手の 足の魅力よ!
家族を感じておることを、、、、伝えたかった。 *

パッチワークのように記憶を繋げて思い出したい父の言葉

2015-06-24 08:12:43 | Weblog

私の記憶の始まりは、
赤子の時の、
「おしめ」をしていたころに

はっきりとした記憶の始まりを思い出すのです。

今のような、すっきりとした[吸収おむつ]
のないころに
さらしや、浴衣でつくられた
「おしめ」と呼ばれたおむつをしていたという記憶です。

赤ん坊の私は、異物感が腰のあたりにあるたびに
目が覚めて、薄暗い天井を見つめながら、全身を動かし
おしめを取り去ろうと、
大格闘していたという記憶の中に
黒っぽい母のタンスと
、8角形の柱時計が見えていたという事です、

となりには、
一つ違いの兄さんが、頭のてっぺんまで
おねしょの地図を描いた布団の上で寝息をたてていた。

父と母は唐紙で仕切られた隣の部屋で寝ていたという事です。

引き上げで命拾いをした9歳の長男の兄は

二階の自分の部屋で寝ていたという事が。
3歳の時にわかりました。

なぜ?3歳とだんげんできるのか?って?

書かねば信じてもらえないかもしれませんね!
2歳半の時、父は七か村の中で
唯一の、なんでも見てくれる神様のような医師としての
特別な、存在になっていました。
穏やかで、都会人で、柔和なのに、無口で、
ひたすら、患者さんの話を聞き続け、話を聞いてもらっているうちに
患者さんのすべての人が、自分にとって特別の人のように、
父に親しみと尊敬と、不思議な親近感を覚えていったようでした

山奥の小さなから準看になるために
診療所に勤めていた十代の乙女に
母は縁談を持ちかけて、しまったのでした。
そのショックで、囲炉りのそばで抱いてた私を
その中に落としてしまい
対面にデスク越しに居た母は、
父のように、自分で、デスクを乗り越えることに気が付いたのは
私の手が、団子のように焼けてくっついてしまった時でした、
「みのりさん!、、、早く抱き上げて!!!叫んでばかりいたのでした。

2歳と半年目の。ピアニストを母に持つ、どんぐり眼の娘の右手は
人差し指と親指と、後は手のひらにくっついたお団子になってしまったのでした。

この日から、私の頭の中は覚醒し、
人見知りもする、言葉をすぐに覚える2歳半の幼児に変身したのでした。

3歳の誕生日の日から、父は外科医となって、
「この手を治す!」と
小さな幼女に約束し、
湯の中でのマッサージ、
タルクという粉をつけてのまさーじ、
くっついた指の切開を始めました。

精神的に追い詰められていた私は、
おしっこを漏らしてしまう赤ちゃん返りをしていました。

3歳になったのに、、、おっしっこを漏らすなんて、、、
母がぼやいているのを、父は、母をたしなめながら
「おしっこを、漏らさなくなったら、精神的に正常に戻ったと思えばいいよ。」

後になって、母から父の医師としてのサポートを聞くことが出来ました。

おしっこ漏らしはかなりの間続きました。
父は、成長する指の骨が曲がらないようにと、
第3関節の付け根の部分を切開しては、マーキュロガーゼでふさぎ、
「矯正のしゃもじ」のような板を右手にタコ糸で固定し
首から右手を吊ることを強制してきた。

おしっこは、治療が進むたびに、思い出したように漏らす日々が続いた。
「みのりさん、という準看修行の乙女は、血tの叱責を受けることもなく
準看になり、小学校に私が進学する頃診療所から去って行った。

このような経過の中の、三歳のパッチワークの思い出を語るなら、
家族にショックなことが起きると、
兄弟は皆、おねしょマンになるという事を経験しました。

子供の部屋の蚊帳は白い小さな蚊帳で、子供が覇っきりと見えました。
父と母の部屋の蚊帳は濃い緑色の大きなひゃいっぱいに拡がった蚊帳だった。

私は、おしめを、何とかとって、すっきりしたくて、
もぞもぞ動き、寝返り、足をこすり、しまいには泣き出しました。

となりの蚊帳が動いて、
おしめをとってくれるのかと、泣き止んだが
いっこうに、おしめを変えてくれる様子もなく
父と母を呼ぶように泣きながら、再び、寝てしまったことが
妙に鮮明に覚えています。

次の日の夕方、私を負んぶした母が
帰国してから村の人にほとんどを手伝ってもらってキャベツを植えたのが
私の頭ほどに成長しているのを、毎日見に行っては
背中をゆすりながら、歌ってくれていた。

きゃべつチャン、、きゃべつチャン、、、かわいいね~~~

「*+@。。。ネエ!!!」と大きな声で母の言葉をまねようと
同じ言葉を繰り返そうとして、、、私は「、、、、ネエ~~」と
語尾だけを繰り返した。

キャベツ畑の向こう側に
真っ赤な「カンナ」の花が
黒緑の細長いうちわのような葉を重ねて
花といえども、
強そうなパンチで母を振り向かせていた。

ぼろぼろになって、
あちこち板が抜けている垣根の向こうには
ダリヤの花がポンポンと小さなリズムで
まき巻の花びらを
空に向けておしゃべりしていた。

ガンギを積んでる端っこには、
びっくりグミの大きな細長い実が
鈴なりにさがって。ダンスをしていた。

母は野菜畑がいたく気に入っているのか、

納屋の手前に広がったかぼちゃの花のしおれた下に
小さなかぼちゃがうずくまっているのを見つけて、
背中の私を見るように
首を捻じ曲げて、嬉しそうに言った。

かぼちゃの赤ちゃん!!!   
カワイイネ~、、、、
「小さな馬車で、お城に行って、お姫様になりましょ~~~ネ!」

診療所の赤い電気、
住宅との境にあった「大きなキンモクセイの木」
並ぶように滑らかな木肌の「ヤマモモの木」が立ち並び、

住宅に向かう間は、
長い長い折れ曲がった。つるつると滑りやすい廊下であった。
広縁と呼んでいた幅の広い縁側が、
後になって、
月見団子を囲んでの、
おじいちゃんや、おばあちゃん、
親戚や、母の仲良しの、
サロンのような役割を果たしていたのを知るようになったのは

弟が、青い木製のトラックにまたがって、
ご機嫌で、庭を走り回っていたころでした。

大きくなってきた弟を見つめていると、
赤ちゃんの頃の、
あわや!と思った出来事が甦ってきます。

まだ、赤ちゃんだった弟が、
廊下に面した戸を、
自分で開けて、広縁に這ってきたのです。

3歳の私は
広縁から、寝っころがって
弟の這い這いの真似をしてはしゃいでいると、

廊下の突き当りの事務室の板を蹴って
父がすっ飛んで走ってきたのでした。

父はそのまま、
一メートル以上の高さのある広縁の下に
身を投げ出して
横に這いつくばり、
とっさのところで

広縁の端っこから落ちた弟を体で受け止めたのでした。

事の重大さのわからない弟は、
父の上にまたがったまま
大はしゃぎをしていたことが、
生涯忘れられない記憶として、残っています。



晩年になって、、、大学を出るころ、ふと
すでに亡くなっていた父の面影を慕いながら、、、

戦場で、球が飛んできたのを避けるために、
塹壕に自分の身を放り投げる
兵隊さんの身のこなしではなかったのかと
突然に、育児戦争だったのだと、
命の危険を察知する父の緊張感が伝わってきて
父が恋しくなり、
涙が出てきたことがありました。

無一文になった引き揚げ命令からの
23年目。
父が命をかけての
「鮭の里帰り」のように
子供の教育の為に、
すべてを捨てて、
父が育った市谷に戻ろうと動き始めた。

42歳という年波は、
下町の太陽に続いて
、下町の皆の医者として
江戸川の流れる近くに開業をするなら、
臨床の経験がきっと、皆の役に立てるはずだ!。

お父さんは医師を辞めてしまっているような人生だけれど、
戦場で、戦陣外科を体当たりで駆使し、
敵も味方もなく手当てをして、
野草の薬効を熟知している父は
皆の必要とする「医者」であり続けることが出来る
キャリアの持ち主であった。

思い起こせば、こんなこともあった。
疎開地の熊野の奥では、
村人、町民が空き地を提供してくれて
「大きな薬草園になっていた。」

小学校の階段の脇から広がる薬草園にだけは、
音楽の先生の大好きな
グラジョウラスやダリヤ、トリトマ、矢車草、ナデシコ、
学童の好きな小さな個人の花壇が、河原の丸い石で区切ってあった。
園芸に興味のある学童が、父とほうずきなどを植えながら、
いきなり飛び出してきたモグラを追い回して、奇声を張り上げていたりした。
そして、百合の花、などを、境界線の畝に栽培し、
花が満開になるころを楽しみにしていた。

私は、父から頼まれて、職員室に花を届けに行ったものでした。

種は、手紙を書いて、方々から取り寄せていました。
特に、グラジオラスなどは、祖父母の友人のアメリカ人から
船便で送ってもらっていました。

小学校4年生の時、ジギタリスの葉っぱを乾かして、
粉にして、それを、カエルを使って、薬の強さを測り、
使ったのだと父は教えてくれた。

紫の「シオン」はぜんそくの時、
植えている植物は、
美しい花が咲いているが、
その花さえ薬になる植物でした。

オレガノ、ユキノシタ、大文字草、ウイキョウ、タチジャコウソウ、、、

パパベラゾムニヘルムのように
、保健所の許可の必要な「けしの花」はさすがに無かった。

既定以外の、けし坊主の小さな、
花の色のピンクに近い芥子等が記憶に残っている。
大輪の、ポピーなども風に揺れていた。

今では、ハーブとして、
主婦の間でもてはやされている料理の香料なども、
香りが楽しかった。

村人、町のひと、あたり、七か村集合の町には医師は一人もいなかった。
その状況下で、日時はス飛んで行ったと、父が生前話していた。

戦後、13年もここにとどまる気がしれないと、他人は思うでしょうね。
患者さんが、父と心の絆で結ばれる「田舎の医師」を続けているうち
診療が途切れる日曜日など、
若者が、碁を教えてほしいと、押しかけてきていた。

かって、総合病院の医師をしていたことも、
仁川の日赤で日夜傷病兵の手術に追い回された戦争体験も、
野戦病院で、薬も包帯もなくなったときのことなどを
考えながら、
疎開地の、心も体も傷だらけの戦後を
次代を担う若者と胸襟を開いて接することのできる日々が愛しくて
一緒に生きて親身になって寄り添っているうちに、
気が付いたら42歳になっていたのでしょう。

きっと父は、医師として、
東京に戻るのがストレスだったのでしょう。
近代医学の病院の配置された真ん中に
臨床医として生きた実績が、都会では必要とされるのかどうか?
慈恵会医科大学時代の友人たちが、江戸川区に開業しており、
父の開業を、精神的にも、多角的にサポートしてくれました。

まして、自営、計算、健康保険制度、ややこしい請求事務。
事務員を雇い、正看護婦さんの婦長さんを迎え、準看さんを十数人雇用し、
家族丸ごと背負ってゆく責任はストレスだったことと思います。
高校に進学してからは、
私も、従業員の一番嫌うことをどんどん手伝うようにしました。
父は、戦前は、かなりの貴公子だったと想像されます。

従事したことのない医術以外の仕事には向かない人であったと思いました。
貧しい人たちから、医療費が滞納されても、催促もしないで
次の治療を引き受けて、ツケはたまる一方でした。
この時代から、日本の医療は世界の医療感覚に比較すると、
医師に依存する兆候が出始めてきていました。

容量の良い医師、銀座で、患者の出せる値段で診療するという
名物の医師が現れたのも、このころでしょうか?

いろいろな話題の名物ドクターが世に現れた時代に
弟は、父を亡くし、国立一本の背水の陣の
医学部受験戦争に挑み、
千葉大から、合格電話を受け取った姉の私が受話器を渡すとき、
彼の手が震えていてのを、思い出します。
父の早逝でにわかに貧困家庭になった我が家でしたが、

母は、ピアノ教室で、数十人のお弟子を抱え、
弟を7年間の医科大学性生活を支え切ったのでした。

晩年、弟が、名物先生の主治医となり、
画像診断を出来たというご縁は
家族の間ではトピックスでした。
思い起こさば、
父はストレスと、
過労と、
戦争の時代を強く生きたと思います。

開業12年で、
深夜手術の後、
うとうととしながら54歳で急逝しました。

もう休めるんですよ!お父さん!

家族は、開業の忙しさで忙殺されていたこともあり
涙が出てくる余裕もなく、
明日のことを考えねばなりませんでした。

外からは、よく見える医師の生涯を内側から見ながら
「風評被害に近い、、、ぼろぼろの酷使からくる尊敬」に
答え続けたのか?
無関係に、激務のリズムを身に着けてしまっていたのか?
医者バカでは済まされない、
子供たちの、グレードを守ろうとした生き残りなのか?
教育に全財産をかけた人生には、
明治生まれの女性でありながら、
経済力で医学生を卒業させた母の存在が大きいと思いました。
阿部首相が女性の活躍をと声を大にしておりますが、
主役になって、支えられ、サポーターによって
世に出てゆく恵まれた女性ばかりがキャリアウーマンとは限りませんよね。
医師になるのも難しいが、医師をするのはもっと難しいと、
岩手医大の先生が、ホームページに書いてあったことが、忘れられません。
母は自分のキャリアを前面に出せないまま、医師を続けるための捨て石となり、
医師を育てる捨て石となったのかもしれません。
子供に生きる。
子供を育てる。
教育こそ世界の中に居場所を作れる大きな力、
語学音楽、芸術、芸事、など
国境のない財産づくりの捨て石になる「愛の権化の母」が
今までの日本を支えてきたような、

父の場合、

30歳で一人前の医師となり、
24年間の濃密な医療人生に終止符を打っています。

私たちは、とかく時間貧乏です
8時から5時の勤めの人は
人生の時間があります。

24時間中睡眠も継ぎはぎの、医療にささげた時間貧乏の家族は
持ち時間を、医療以外の父の時間を代行して、
影の部分を、支えていたと思いました。
戦争で、ボロボロになった当時の従軍の医師達は

早逝を万感の思いで受容して戦い続けたのでした。。

このわずかな父との20年を、希望に変えたいと思うのです。、

民族を超えて、国を超えて、住民に寄与できる音楽も、医学も、
それをサポートできる看護婦さんも、

長生きのできる日本にならねば、、、と。

平和を願う71歳の、今、長寿の手探りをしています。

アフリカの独立などの歴史のプロセスを知るとき、
民族の、諍いを、超えて、
共存共栄する地球規模の協力国家が出来るまでに必要な
最大公約数、最大公倍数になるのは、いったい何なのか?

地球のクラスメートのような
友達国家になれば、愛も芽生えるでしょう。

人間と、動物と、植物と、輪廻転生のように地球の生命に依存して、
恵みを自覚して、地球から「愛」を教えてもらうのには

コンクリートの摩天楼のひしめく
無機質な世界のコンクリートジャングルを、

世界中に作って、地球の呼吸を止めてはいけないと思います。

自然と共存出来る設計を、地球規模で模索して、知恵を出し合い
円卓を囲み、、
孫子子孫への戦争体験を
逆に財産にするといいですね。

22日には、韓国と日本の女性の、
「チマチャゴリ」と「着物」の
美しい姿の切手を買ってきました。

まず、隣の国とは、
仲良く助け合ってゆけるのがうれしいですね。

恩讐の彼方に、地球の未来の光を共に見れるのなら!
「地球丸ごとの平和があるという事に、
アフリカのある国も気が付いたようですね。」

まして日本は、
文化国家の仲間入りを果たしたのですから、
戦争のない世界へのお手本になってほしいと
心から願いながら、
思い出す事を、
パッチワークの記憶でつなげてゆきたいと思っています。


大正から昭和11年までの東京の青春

2015-06-24 02:38:18 | Weblog






女性はまだ日本髪と着物の時代に
私の母は
ヘップバーンのようなショートカット
編上げブーッツ、

大学卒業までは、それでも
袴にブーツ
学校以外では、ワンピースと
まだ、、常識的なおしゃれの写真が微笑ましい。

やがて、ハンチングのテニス姿、
ベビー帽子の水日姿、
ロングドレスの演奏会、、、

きっと、母は 
世に言われている「モダンガール」の一人だったのかもしれない。

17歳で家庭科の先生になったおばあちゃんと
27歳で、3か月もかかって船でアメリカに留学した祖父の
長女として、熊野の奥でうまれながら、
新宮の女学校に進学し、
「佐藤春夫」文士の妹さんと同級になり
佐藤春夫さんの影響を受けて、
自分も文学に進みたいと思ったという。

また、昭和40年前後に
NHKでラジオ番組で、
「街の音で詩のような情景」を放送して、「イタリヤ賞」をとられた
Sさんの母上とも親友だった。

卒業後、母は東京の音楽大学へ
Sさんの母上は画家とパリへ旅立ったという手紙がありました。

彼女の話になると
母の顔は輝きました。

日本にはないような「素敵なハットを、素敵にかぶり、、、
肩にミニマントのような翼のあるコートを着て、、、

ソウソウ、、、こんなスタイルで、、
わら半紙に、彼女の洋服のスタイル画を描きながら
魚目見るような瞳で、少女のように、

理系に行ってしまった私を相手に
語りながら、
いくつになっても、頑固なまでに
母は母の夢を持ちつづけておりました。

そのような母が、
日本の近代化の荒波の中で
ヨーロッパの
イギリス、フランス、ドイツ
そしてロシア

さらにアメリカ、、、

イデオロギーの違う、
他民族の、中国の「眠れる獅子」と言われた時代

アジアの覇者としての役作りの映画のように
に隣国の韓国に
日本の文化人が、派遣された時代でもありました。

韓国との関係も、歴史の物語る激動の時代に差し掛かり

父母は戦乱に巻き込まれ、
従軍で仁川の大学病院に
銃創や爆撃での負傷者の手術回復の為
戦場にきわめて近い医師として
指導、治療、などに赴任した父に同行したのです。

一度は帰国したものの
第二次世界大戦がはじまり
再び、戦場近くの基幹病院の院長として赴任した父に
同行して、海を渡ったのでした。

そして、戦乱の中で、
紀由子、高栄、輝栄、 流産と、4人の子供を失ったのでした。
戦争直前、
最後の韓宇連絡船で、日本に帰るときは
亡き子供たちの、遺骨も持ち帰れなかったそうです。

日本に着くや、
焼夷弾の雨降る爆撃の中を
東京の実家も親類も、
四散して、どこに行ったかもわからず、

夢に出てきた親が。振り向き、ながら、
古座川を、
熊野の奥に向かって、上ることを、
いざなって暮れたそうです。

串本の防空壕の中で、
私を産み、古座に向かったそうです。
産湯も古座川の清流が清めてくれたそうです。

これから、お話しする、あらすじだけを
目次のように記しましたが、

ゆっくりと、戦争の中を
どのように母たちは 生き残ったかを
お話してゆきたいと思います。

恵まれすぎているはずなのに、雑用で過ぎた人生を反省

2015-06-21 05:44:39 | Weblog

公開しているプログなら、かけない日記も、知人だけのクリック日記には、ベソカキ、
反省、相談も、次に会った時には、話しやすいので、、、、聞いてください。

熊野の奥の、疎開地で、はっきり覚えているのは。。。
医者の家に男の子がうまれたよーーーー!!!!!と
まだ、赤ら顔の母の周りに、親戚やら、知人やら、患者さんやら、次々と
厚真ttr来るのに、私に目もくれず、皆
赤ちゃんに飛びつくように。笑顔で突進していたことでした。

宿屋のやっちゃん、滝本のおばさん、
アメリカ帰りのおばあちゃん、大工のウトウサン、
学校の先生の奥さん、
町長をしていたおじいちゃん、、、

戦争を知らない時代の子供が誕生したのです

団塊の世代とのちに称賛されるたくましい年代の誕生でした。

:::::::::::::::::::*********;;;;;;;;;;;;;

(^^

父も母も、この子を見てくれ!とばかり、

心の終戦を実感している輝いた顔で、笑顔が絶えませんでした。

この瞬間から、私の地位は転落の一途を行く羽目になったのです。

どんぐり眼で、キューピーさんのようにかわいい弟は
今までの私の座布団を、簡単に奪ってゆきました。

一歳になる五月には
屋根より高い鯉のぼりが、6匹 大空を泳ぎ、

おばあちゃんは、
てんこ盛りの「かしわもち」を造ってきました、
お爺ちゃんは、
アメリカで使っていたお気に入りの蔦で編んだ殿様椅子を持ってきました。

串本の薬局の髭のおじさんからも、お母さんに
「エビオス」という
育児戦争に胃袋が負けないようにと、
茶色の瓶を届けてきました。


この時、母は、「茶色の小瓶」という曲を 教えてくれました。
この薬は、最高にええでのし。。。おじさんの口真似をしながら
ちゃいろの小瓶をかわいがっていました。

エビオスは今では錠剤ですが、
当時は、酵素の匂いがそのままの散剤で、匙を使って
目分量で飲んでいる母の大きく開けた口が、思い出されて、
クスクスと笑いがこみあげてくる時があります。

、、、のし?、、

変な言葉が語尾につく髭の叔父さんでした。

初節句の話から横道にそれて、余談ですが、
エビオスおじさんのことが、気になりませんか?
エビオスおじさんの家族について、余談ですが
ここで紹介しておきますね。


:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

後日小学校に上がってからのことですが、
母から串本の、S薬局に連れて行ってえもらいました、

この時、
エビオスおじさんが、どこの何者なのかを、
私は知る機会が与えられたのです。
そこで、何日か泊り、桟橋に一人で遊びに行くと、

大きなクジラが、近くの屋根だけのセメント広場に横たわっておりました。

長靴を履いたオッチャンが、
「クジラを捌くの見たいかい?」というので
「見たい!!!!!」と黄色い声で答えると、
広場の端っこに、木でできた箱をひっくり返しておいてから、
この箱に座れ、箱から離れたらあかんからの!。」

私は箱の上に立ち、弩で買い刃物で、クジラが解体されるのを見ていました。
興奮しました、
帰り道、市場のオチャンが、「ソフトクリーム」を買ってくれました。
生まれて初めて、こんなおいしいものを食べました。
「ソフトクリームって言うんけ?」
「ソヤ!アメリカの兵隊さんが串本に持ってきたのが始まりや、
造り方皆で覚えて、今では、店には結構あっちでもこっちでもうっとるでのし」
「オッチャンは、古座から来たん?」
「うん、ここで魚いっぱいもろうて、古座に持って行って、決まった店に
もっていくんでのし」
「マグロも、お刺身も、古座へもってゆくん?」
「マグロもドテのまま店にもってゆく。
さえら(さんま)もトビウオも、貝もやで!(^^」


串本の桟橋では、ウツボがうようよ海底に見えた。
夕方になる前に、母がおしゃべりしているもう一つの親戚に向かった。
オッチャンからもらったお魚をあげたかったから。

そのおばちゃんは「歯医者さんで、夕方になる前に、ご飯を作ってから、
また、夜の患者さんを診ていた。

ミドリ先生と、患者さんは呼んでいたが、母は「みどりさん」と
呼んでいた。みどり先生は母のことを「ミサチャン」と呼んでいた。
母はミサチャンという名前で呼ばれているのを初めて知った。
節という字はミサとも読むんだと、初めて知った。
桟橋のおじさんにもらったクジラの赤黒い肉をミドリ先生にあげると、

「ミサチャン、エエ娘やろー。コンナン手に入れてくる子供初めてや!」
腰をかがめて、私の顔の前に顔をくっつけるように近づけて
「待ッっとって!これ、一緒にたべようー。すぐ、焼いてくるから」
「ミサチャン、蓼酢と、しょうがと、どっちがええ?」

母は、しょうが醤油にお砂糖少しと酢を混ぜて、クジラが焼きあがってくるのを
ニコニコしながら待っていた。

平成のこんにちはシーシェパードや、世界の保護団体の影響で、
串本のクジラは影をひそめてしまっていることでしょうね。

ミドリ先生の、テンポの速い会話が美味く聞き取れないまま、
母と先生の盛り上がりを、感じつつ、一人堅めのクジラ肉を噛み続けていた、
夕日が海に落ちるころ、


母と連れ立って、今夜泊まる薬局に向かった。

髭のおじさんは、薬剤師の音先生と呼ばれている薬局の創始者でした。

夜になると、
若いお相撲さんのような長男坊の薬剤師のお兄さんが
体をゆするように肩で息をしながら帰ってきた。
T先生と呼ばれていた。
食事が始まると、
あっちからこっちから、
家族が集合してきた。

薬科大学を受けるという、HA姉ちゃん、
やせた弟、
赤ちゃんを負んぶした、T先生と呼ばれていた長男のお嫁さん。

しばらくして、
黄八丈のような上等の紬を着た
冷たい感じのするおばあさんが加わった。

この人たちは、熊野に本家のある母の実家からの枝分かれて
串本に根を下ろして、3代の親戚筋の人たちだと知った。

   もくもくとおかずを運びながらも、くじらを食べているせいか、
早く、ここから、離れたかった。
この時すでに、誰も私に気が付いてくれず、
一人ぽちで、笑い声の行き交う人の、がやがや声を
ボーとして、聞いていました。

背中に背負われていた赤ちゃんがぐずりだしたとき、
おばあさんが、眉を吊り上げて、
「あっちの部屋に連れて行って、寝かしつけておいで!」と厳しく言いました。
私は、赤ちゃんとおばさんにくっついて、ソート出てゆきました。

親類といっても、母は歓迎されていたが、
私は母のおまけのようなものであり、
平成の今と違って、子供は肩身が狭い時代でした。

     話は再び診療所に戻ります。生まれて一年になろうとする
弟の初節句の部屋の様子からでしたよね、、
;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;

疎開地の診療所の二階のサロンのような無料集会は日ごとに
文化教室のように成長してゆきました。

疎開地の診療所の二階は、皆が会合を開いたり、
後に始めた、心のケアのための、
ダンス教室や日舞教室や、
楽器がおける広いぶち抜きの日本間でした。

一間以上の「床の間」があり、
見たこともないお人形がずらりと並び壮観でした。

入口に、
「もろぶた」と
大人たちが言っていた、木の箱がとどけられました。
それはちょうど、
旅館の浴衣入れのような平べったい箱で
色は塗ってありませんでした。

箱に近づくと、ごそごそと音がして、大きな「伊勢海老」が
次から次へと這い出してきました。
畳の上を何匹もの伊勢海老がごそごそと、後ろ向きに飛ぶのを見たのは
後にも先にもこの時が初めで終わりでした。
伊勢海老は、襖にぶつかっては向きを変えて、

ごそごそと、部屋中をはい回り、その光景は、71歳になった今も
思わず笑みが出るほどの、驚きでした。

床の間には


桜の下にお侍さんや、白髭のおじいさんが居て、端っこには
パンチパーマを髭にかけたような、変な形の槍を持った武将のような人形が
私をにらんでいます。

診療の合間に父がニコニコ顔で二階の人形の前にやってきました。

「これなーに?」
片っ端から、指さして父に問いかけたのは、
構ってほしかったからかもしれません。

それほどさみしくなってしまったのは


人気を弟に取られてしまったからでした。

「これはね、、、五月人形っていうんだよ」
「桜の下の侍はね、楠正成、正行親子だよ」

いま思えば、私の父は
私の脳の中に歴に興味を持つような、一粒の種を植えて行ったのでした。

後に父が亡くなってから、私は一人で吉野の山を歩きにゆきました、
如意輪堂にたどり着いたとき、幼いころ父が話してくれた扉の前に佇みました。

「かえらじと かねて思えば 梓弓 なき数に入る 名をぞ とどむる」
鏃(矢じり)で書かれたと、父が言っていた、文字に出逢ったのでした。

お父さん!一緒に来れましたね!  お父さん!

私は心の中で父に出逢えました。

負け戦とわかっていても、昔の武士の魂は輝くほど、切ない魂がありますね。

それから、、、これは「ショウキ様」だよ、、、父の髭の下から
唇がゆっくり動くのを見つめながら、「ショウキ?さま」と
繰り返していた私でした。

その時、母が弟を抱いて、とんとんと階段を上がる音が聞こえてきました。
父はまるで、私の頭の中の興味の糸車を止めてしまったかのように

弟を母から抱き取り、べろべろに破顔一笑の顔で、
初節句の主人公である弟の僕となってしまいました。

確かに、、、かわいい!

もうすぐ一歳になろうかという弟は、
プクプクに太って
顔と胴体がつながって見えるほど
栄養が行き届いていた。
愛情も独り占めしていた。

後になって、母に聞いてみた。
「お母さんは、どうして、弟ばかりかわいがるの?」

「お母ちゃんはね、この子は自分にそっくりだから嬉しいのよ!」

「ジャー、、、のんちゃんは?」
「あなたは、お父ちゃんの妹さんにそっくりな顔をしてるのよ」

「おばさん?、、、あの先生をしていたという、、ふみおばさん?」
「そうなのよ、、、、あのおばさんは,かしこすぎるし、きちんとしすぎてるから、

お母ちゃんは苦手なの、のん子は、顔がおばさんそっくりだから
損をしてるのよ。同じくらい可愛いんだけど、お母ちゃんは
ついつい、、、緊張しちゃうのよ。」

かしこすぎる人は、敬遠されるのだ、、、
子供心に傷ついた、

私は、賢くない!、
でも、賢い人に似ているだけで、
大人は、
私を抱きしめてはくれなかった。

皆、弟ばかり、取り合いして、
ほほ摺り寄せて、体をゆすっていた。

すぐ上の兄は、お母さんのお気に入りの性格をしていた。

歌はうまいし、
アコーデオンを引けるし、
誕生日には親を説得し手回しの蓄音機を買ってもらい、

レコードをかけては、父も母もともに喜ばしていた。

レコードが我が家に来てから、
父は「タンゴ」のレコードを集め出した。







ブルータンゴ
夜のタンゴ
ラ、クンパルシータ―
、、、、等々

南京豆売り
イタリヤの庭
李香蘭のレコード

バルトシュタイン
ムーンライト
バッハ
ファンタージアンプロンプチュ
ショパン

いつの間にか、母のレコードも増えてきた、
診療に来た患者さんも、二階に上がってレコードを聴くようになってきた。
いっそのこと曜日を決めて、二階を開放しましょう!

母は、ダンスの日、三味線の日、日舞の日、と
新宮や、田辺や古座から、お師匠さんを呼んで、疎開の皆と楽しむようになった。

診療所の二階は、戦争で傷ついて疎開してきた人たちの
心の回復室のように、いろいろなおけいこ事で盛り上がっていった。

このころ、母は、ヤマハから、アップライトの88鍵盤のピアノを取り寄せた。
ピアノが付いた日、皆は大騒ぎして興奮して、母を取り巻いていた。

母は・ハノンのような一連の音を引くと、運送屋さんが還らないうちに、
返品して、しまった。

次に持ってきたときも、端から端まで、32ブン音符のような速さで引くと、
今度は怒り出した。

何の為に、天下のヤマハで買って、遠くから、運賃かけて
運んでもらっているのよ!

調律がなってないじゃないの!

母は癇癪を起して、壁にかかったおっぱいの二つ付いた電話機で
遠距離電話を申し込み。えらい剣幕で、ピアノのことを言っていた。

周りには、もう人が居ない
「医者の奥さんは、、、あんなに機嫌が悪くなる人だとは思わなかった!?」

宿屋のヤっちゃんも、滝本のおばさんも、おばあちゃんも、お父さんも
あきれ返って、頑固なお母さんの一歩も譲らない気難しさを
初めて見たと、、、唖然としていた。

その後、ヤマハからは、調律師の同行で、3回目のピアノが来た。

一階の柿の木のある縁側の手前の部屋に、
ピアノをセットすることを、母は承諾した、

調律師はピアノを分解し、
弦を一つずつ音合わせしながら、調律を始めた。

あんなに機嫌の悪かった母は、まるで別人のように笑顔で、

さすが、ヤマハの本店の調律はお見事ですね。と

ショパンや、エリーゼを片手で連打しながら、
「遠いところ、本当にありがとうございました。」
「私は、ピアノの音を買ったつもりだったので、
調律が気に入るまで戻してしまいご苦労をかけました。」


当時、、、見たこともない「聖徳太子」のお札を
ごっそりと積み上げて、頭を下げる母の笑顔が、、、怪物のように思えました。

周りの人々は誰もいなかったから、
母のわがままは私と父との秘密になりました。

大きくなってから、知ったことですが
母は父と結婚する前は、音楽大学を卒業し、て、東京都では
第一号と思えるほど、女の先生の居ない時代に
女学校で、音楽の教師をしており、
当時、NHKでの学生コンクールで、教え子の生徒に一位入賞させた快挙があり
音楽には、真に厳しい女性だったと、聞かされたのは、昭和42年ごろでした。
私は、薬科大学を卒業して、東京大学の薬理学教室に勤務していた時でした。

父が54歳で、過労死した後、

母は未亡人になってから、ピアノ教室を始めました。
水を得た魚のように、母は、教室の生徒を50人ほどに増やし、
「よつ葉会」という、コンサートを毎年開催するようになりました。

母のコンサートに協力を惜しまず助けてくださった友人たちがおりました。
母校の教授に就任されていたという、
学生時代は母の友人だったと言ってくださった、「高嶺の花」のようなピアニスト。

母は「髭の、、、大きいことはいいことだー」で有名な音楽家の母上と、音大時代
ルームメートで、日本中演奏旅行や、コンサートやオペラを共演していたそうです。
残されたアルバムには、髭の音楽家のおかあさまとの写真もあり


和服でオペラの舞台などにもご一緒していたらしいのです。
なるほど。。。。音に気難しいわけがわかりました。

しかし、ピアノ事件以来、母はすっかり敬遠されて
、親しみの会話で盛り上がっていた集いも、メンバーが限られるようになってきた。
校長先生だとか、O先生の長女だとか、音楽のS先生だとか、、、

もはや、ピアノを習いたい人の集まりになってゆきました。
母は、自宅に来るよりも、小学校の音楽室に、週に何回か出かけて行った。

我が家には、あの懐かしい訛りのある集いの声が遠のいて行った。

     つづく

お手本になれる人

2015-06-20 11:15:08 | Weblog

103歳の芸術家、そして、男性なのに、長寿現役のドクター先生

人は、、、、ここまで強くなれるんですね!

神様が。まだまだ、皆のお手本になって、生きてくださいと

お二人に、、、お願いしているのでしょうね。

素晴らしすぎて、、、

私ごとき、お名前をここに記してもいいような、何物も持ち合わせていないけれど

力をいただけて、、、今日も頑張れそうです。

凄いお人がいらっしゃるものですね。


人生って、、、なんなんだろうね???

2015-06-20 03:03:14 | Weblog


ことしから、国民健康保険に加入するのです。
配偶者が働いていても、分離することを、知っていらっしゃいましたか?

住民税、介護保険料、後期高齢者保健 特別被災地の税、 固定資産税
確定申告税、、、

税金がてんこ盛りで、にっちもさっちもいきません。

不動産は、買った時より、当然思いっきり安く処分。
前の年の税金が、辞めた時に支払いが来るそうでス。

6月15日についた書類は、
6月30日までに支払う、義務があり、
老後の蓄えも無い、

宵越しの金銭を残さないで戦っても、
強敵ばかりで、
頭脳は限りなく金千をかけて、磨き続けないと

日進月歩の医学の世界は通用しなくなる。

本は10年でヴァージョンアップのPC.よりも短い年月で役に立たなくなる。

また、新しいのを買う。

認定やら、指導の資格も更新、試験と

まるで受験の学生が要るような学問環境。

早朝出勤、夜間帰宅

お土産残業どころではない、激務が続く。

早めに不動産処分して、

維持費の税金を、何とかしなくては、、、

いきなり仕事を辞めても不思議でない年齢が来ているから、

一気に税金が来たら払えないから、

最近は、眠れない日々が続く。

たった2週間の余裕しかない値上げラッシュの公的支払いに、

冷や汗が出る。

年金は、ストップしているし、

支払いは増える。

企業家ではないから、不器用にひたすら真面目に。

盆暮れ返上で、過ごしてきた今までを振り返り、

宵越しのお金を持たないで頑張ったから、

今でも、必要とされて、

80人からの患者様と、話、
電子カルテに自ら所見を打ち込んで、夜の9時まで、勉強して

働ける場所が、あるのだと思うと、

最後は、自宅を処分して、施設に入ることになるのが

駆け抜けた、サラリーマン医師の人生なのかもしれませんね。

めまぐるしく忙しかった人生を

振り返る暇もなかったけれど。

主人は75過ぎても医師として必要とされている。

我が家の財産は、、、何をしたか、、という事であり、

裸で生まれ、裸で天に宇宙に霧散して、

お線香の煙とともに、私は、、、はい、、、さようなら。

何も残らない、何も出来なかった、時間に追いまくられた人生も

もうすぐ、、、、幕が来る。

ソウソウ、、、孫につなげた、、、私ができたことは子育てだけ。



人生って、、、何なんだろうね?

東京オリンピックまでは、、、生きてなくっちゃね!

リラ冷えの北海道

2015-06-07 17:28:23 | Weblog

梅雨のない北海道に、旅行を予定している人も、
きっとびっくりするでしょう。
今、寒いんです、セーターが必要です。

リラの花の咲くころ
毎年、寒いんです。




6月になると
戦後の、心まで、冷えそうだった冬が過ぎて

皆、立ち上がり、
身の回りの、できることから、やりましょう!と

導くもの、導かれるもの、
上下なく、ひたすらに、がむしゃらに頑張ってた、

南紀の6月は、雨ばかりだった、
懐かしくって、
那智の滝まで行った時も

瀧が雨に撃たれて、
神々しい姿が
、まるで、母のようだった。

いくつになっても、
母なる何かに支えられて
今日という日に

負けずに生きてきた。

お母さん、
あなたは、自然の中に、

生きていますね


サヨナラ、、、マニュアル車

2015-06-05 00:38:32 | Weblog

平成2年、コンチェルトトなる、、マニュアル車を買った。

東京で運転していた時期が7年間あった。
北海道で暮らすようになって、日産からホンダになった。

アコードを買ったのが手始めだった。
後輪駆動の日産のサニーは、後ろに砂を積まないと、
雪道の坂は登れなかった。というより、雪道運転は私には難敵だった。

それが、アコードの前輪駆動車は、面白いように、坂を登れる、
フロアーシフトのマニュアル車のアコードは頼もしかった。

16年乗った後、平成2年にコンチェルトに変えた。
これもマニュアル車である。
木目の落ち着いた運転席、ウイングのある若者らしさ、
ワイルドな、マニュアル車の、フロントギアの操作が楽しかった25年間。

とうとう、6月の車検は部品がない部分があり、通過しない。

今なら、プロのディーラーに買い取ってもらえると思った。

サヨナラ、、、家族だったよ、この車。

洗車して、長年の労をねぎらうビールで、次のステップで、役立ってください。





学校から 観に行った「ひめゆりの塔」

2015-06-04 01:51:27 | Weblog

昭和10年~20年あたりの誕生日の友人達は、* ひめゆりの塔 *という
白黒の映画を、先生に引率されて、見たと思うのです。

映画館を出るころは、皆、泣きじゃくっていました。

私も、涙がとまりませんでした。

国会で、喧々諤々議論している若き議員に、日本の未来を託して、
私たちは、日本の平和を祈っています。

岩井喜一郎さんの書かれた「ひめゆりの塔」を
40年以上も、見ておりますが、
体験した者にしかわからない、戦争という人災は、

世界が一つになれば、防げるのではなかろうか?


       ひめゆりの塔

連戦利あらず 祖国危うし      戦雲俄かに覆う沖縄の空
惨たるかな  絶海の一孤島     居民 天を仰いで空拳を嘆く


 勿
 心ち聞く海空砲爆の轟       地は裂け山は砕けて島形改る

時に健やかなる哉          学園の乙女
唇固く結んで            殉国を誓う
報国の純情は            凝って鉄の如く
花顔                繊肢 防戦に当たる

天を仰いで母を呼び         伏して父を呼ぶ
飲むに 水無く           食するに 糧無し

鮮血は花を染め           弾片飛ぶ

友は斃れ肌は裂けて         心魂尽きたり

相抱き    相擁して       涙 潸々
遙かに東天を拝して         全員玉砕す

岩枕 かたくもあらむ        安らかに
眠れとぞ祈る            学びの友よ
嗚呼 春なお浅し          桜花の蕾

天哭き  地は泣いて        風声潤う
哀痛限りなし            姫百合の塔
可憐人をして千歳に泣かしむ


私の父も戦争にいった。

兄弟も姉も 戦争のさなか3人死んだ。

岩井喜一郎さんは、、、きっと、そのままの感情をペンに託したのだろう。

かな文字で「ひめゆりの塔」で、、、書き始め
最後は  「姫百合の塔」 と、、、漢字で終わっている。

若き日に、沖縄を訪ね、英霊に花をささげてきました。

世界の情勢が、沖縄の、花も、サンゴも守れないのでしょうか?

桜の花も、蕾のまま、咲くことも、見事な花吹雪となって散ることもできなかった。

作者の思いは いかばかりであったろうか?

沖縄よ、日本よ、戦争の空しさを、体験した私たちに
出来ることは、、、世界に、戦争の空しさを伝えることしか、見当たらない。