24歳、
運命という一言で片づける気持ちにはなれない、
段差が突然来ることに、逆らえなかった。
心が 何かに突き当たってしまった隙を、、
自分では、どうすることもできない回り合わせであった。
見えない力で、引っ張られてゆく自分が、
流れに逆らう術がなかった。
54歳で、、、父が亡くなった
頼みの柱になるべき長男は、
私立の医科大学を卒業して
無給のインターンの時代でした。
二男の兄も、私も、
私立の薬学大学に在籍中でした、
大学病院に勤務していた父にとって、
当時は、宮内庁や、宮様の御親戚や、
やんごとなき方が入院される大学病院に
外科医として在籍していた。
時代の流れでしょうか!
関東大震災や、
出兵することが不思議な時代ではなかったという事です。
医師という職業と使命の導くままに
戦争の始まった仁川での勤務は
緊張の毎日であったことでしょう、
母が生前、捨てきれなくて
父が従軍で、野戦病院にも携帯した手帳や、
武運長久と、
一針づつ、祈りで刺した
「千人針」や神社の社印と、
多くの方々の寄せ書きでうずめつくされた
「日の丸」の旗と
父の卒業した、慈恵医科大学の「卒業証書」でした。
現地で、西洋医学を指導する父の
掲載された新聞の切り抜きが、、
医師になったばかりの長男が持っていきました。
当時 、、、国のインフレに備えて発行されたらしい
後日紙切れ同様になった、知っていながらの国への寄付替わり。
「日本国債」を、解っていながら、
大量購入して、国に還元したと言っていた。
仁川でいただいたお給料も、全て、国に還して
気のみ着のまま、帰国したのでした。
古い茶色に変色した写真には 」
父に抱かれた長男が
真ん中に
交差している日本の旗の下で
緊張して、
カメラ目線で全員が写真に映っていた。
提灯袖のように肩がふっくらした
日赤の看護婦さんが、凛として並んで居る後方に
現地の病院のスタッフが並んで居た。
なにかのイベントの集合写真は
歴史的な一枚に思えた。
戦乱が、原子爆弾2発で終戦に導かれた昭和20年
玉音放送に、皆、大地に伏して、泣いたという。
我が家には「紫宸殿の御儀」と書かれた
御大典記念写真という、4枚一組のうちの一枚が戦乱の中で無事でした。
めったな扱いは国民として、非国民と言われた時代の
小さな名刺大のお写真を、どうしてよいかわからないまま
いつも、バックに入れて、
平和の為に
耐えがたきを耐えられた、玉音放送の
国民が全員泣いた戦争を、二度Dと起こさないでと、
お守りにしています。
昭和陛下のもとで、
戦前は、白い手袋をはめて、
勅語を朗読するのが、
校長先生のおじいちゃんの役目であったと
母は言っていた。
明治生まれで、斬髪のヘップバーンスタイルの元祖のような母。
ピアノなど、よっぽどのハイカラさんでないと引けなかった時代、
新橋の、「フロリダ」という、
ダンスホールに、ピアノを弾きに行っていたという。
新橋からほど近い慈恵会医科大学の学生だった父が
タンゴが踊りたくて、フロリダに通っていたという。
新橋ー横浜間に鉄道が走って、新橋は
ハイカラさんや、モダン学生の
集まり所が多かったという。
父母は、敗戦の戦後を生きた日本暴落時代の私とは、文化が違っていた。
戦争は、母から笑顔を奪い、父から健康を奪っていた。
それでも、生き残ったのですから、
外科医は、戦場で、死ぬほど苦しい現場で、
英霊の手を握り締め、
人として、死んでゆける一瞬を温め続けたのだろう。
生きていたら、75歳前後の兄弟姉妹に別れを告げに
母の依頼で、韓国の山に登ってきました。
何処を、どう生きたのか?、、、
患者さんを診療する以外の生きがいはなかったのでしょうか?
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それから、激動の生き残りの激流を超えて、、、20年
「開業」という、居場所だけを残して、父は「医者をする人生から昇華してしまった。」
そろばんも、商魂も皆無の育ちだけに、
患者さんの診療費が、「大根」「アユ」「ウナギ」「山芋」
米だったり、我が家はそれらを、また、皆に分けていた。
思い出は尽きない、やっと休めた、、、、かわいそうな父。
父の早逝した朝
クロッカスの鉢植えが、
一日で、おどろきの速さでぐんぐんと茎を伸ばし、
夕方には花を咲かせた。
母は一日中、動かないで、
クロッカスを見続けていた。
後日、
押し花にしたクロッカスを、
ミニ額に入れて、仏壇に飾ってあった。
母にとって、
クロッカスは、父の命の気配のおしばなだったのだろうか?
父の後を継いだ兄が、
院長室に、思い出の集合写真を
しばらく保存していたが
医科大学を卒業したばかりでは、
開業医では役に立たなかった。
兄に結婚の恋人が居たのですが、
これまた、、、ピアニストで、
我が家で、お迎えできるような、
お嫁さんの枠には入れ切れない才媛で、
父が亡くなった世代交代のテンヤワンヤの時、
我が道を目指して、どこかへ飛び立つ後姿を
私に伝えて、消えてしまった。
国立一期生の母が、ポツンと言っていた。
結婚することは、ピアノを捨てることだから、
彼女は、音楽を選んだのよ、、、
テンやワンヤの取り込み中の日々を過ぎると、
嫁さんの方で、突然、我が家に引っ越してきました。
家政学部の助手をしていたという、
奥さん専科とでもいったらいいのでしょうか?
再び父に焦点を戻します。
、
大学で医師として働く父の写真が
大きく掲載された新聞の切り抜きだけが、
兄の所に有って、見出しの
「髭の博士、丸々医師の**手術」という見出しが
妙に、記憶に残っている。
当時はイギリス医学の手術法は、
仁川に於いては
新聞記事になるほど、斬新だったようです。
文化の違う病院で、
孤軍奮闘滅菌方法から指導している記事に、
誘導されるかのように、
我が父の激動の時代を過ごしたという
大陸に行ってみたいと、思っていただけで
チャンスは巡ってきた。
私は40代になって、
中国、韓国の医療を見て回り、
東洋医学のゼミを受ける事の出来る大学関係者からの御誘いで、、
4大中医学院をめぐるチャンスをいただいたのです。
多くの、素晴らしい外国の先生方の、医療は
心の哲学に沿って行動されているような、凛とした
動かしがたい考えを持っていらっしゃるのが、伺いしれました。
文化の違い、、、一概に近代科学にすれば納得という
受験の考え方とは次元の違う流れが覆っていました。
風土気候、宇宙の動きまで五感を使って採用された医学に
科学とは違う、存在の愛のような、、、筆舌に尽くせぬ
自然のバランスのとり方に、改めて、認識を新たにしました。
成都の生薬市場には、一千件を超える屋台で埋まった市場がありました。
チベット高原から、学校生活を知らない民族が、
背中に籠を背負って、霊芝の特大のものを、無造作に持って市場に卸してゆく。
当時、日本では桐の箱に入った小ぶりのものが一本2万円していた時代であった。
「トウシャテェン?」、、、、日本円で100円である。特大のを5本くれました。
ここまでやってこれたのは、
薬剤師という仕事が
導いてくれたと言えるのかもしれませんが、
三国志で知る人ぞ、ウルムチの見えるところまで、
勇気をくれたのは、
戦争中は、シベリア抑留で、もっと遠くに、日本人の足跡があるという
先立ちの、大いなる勇気の遺産の爪の垢を私も飲んでいたのですね。
子供達に、命を懸けて、
戦後教育のできる東京の故郷に、戻ってくれた父の勇気は
生き残った兄弟全員の「大いなる勇気のいさん」でした。
父の遺品は、それ以外、何もなかった。
父の財産は、、、
見えるものではなかった。
金目のものを遺産というなら、
一切の遺産はなかった。
父の後をついで、怪獣のようにエネルギーのある母を
守り、父の残した患者さんを引き継ぎ、
医師をする事、、、そのもので、
誰も、相続できるものではなかった。
医師以外、その遺産は意味がなかった。
人生の流れに沿って、いつも医者をすることを続けて、
急逝する前夜
Tさんという患者さんの手術を終えて、
麻酔が覚めるのを管理しながら、、、
自分が、永遠の眠りについた父は、
自分が死んだことに気が付かないで
一足飛びに「神」の光の中に粒子になって
霧散したのかもしれません。
この去り方こそ、受け取りたい、、、
大いなる遺産であると考えている。
あれから、、、何十年もたって
母がいつも言っていた「千の光になって」という歌が
聴こえてきた。
父と見た蛍の夕べ。
母と見た縁側からの薄の向こうのお月様・
木漏れ日の中を歌いながら走る風
吊り橋の上から見た輝く瀬音に戯れる波しぶき。
東京に戻ってからは、ピアノだけが生きがいだった母。
その後、30年近く長生きした母は、
3日前までピアノコンサートや、
お弟子さんを育てながら、、、父を追っていった。
光の中で、父とであっても、わからないかもしれません。
父は54歳、母は81歳ですから、、、。
母のグランドピアノは、
お弟子さんの一人に遺品として送られた。
アップライトの一台は、老人施設に贈られた。
後の一台は、どこに運ばれて行ったのか?
お弟子さんの中で、音楽大学に進学された人が居ましたが、
母の子供以上の存在だったと思います。
私は、母にも、子供にも、一方通行の愛を、
今も、キイに指で語り続けています。
天国の光の中に、全ての命は
神様が吸い上げてくれたのかもしれません。
多くのお弟子さんという娘たちの涙にとりまかれ、
弟の仕事のお仲間に取り巻かれ、
孫が、、、「みなさん!おしずかに!おばあちゃまが起きてしまいますよ!」
と、大声を上げるので、皆失笑しながらも、
母の生き方はすごい!と思いました。
これで、紀由子、高栄 輝栄の娘と息子にも、
会えるのでしょうね!?
母のこの生き方と、幕の閉じ方の
目には見えない幕こそが、
、、
戦争を体験し、多くの御霊に守られた
精霊たちの贈り物ではなかろうか?
目に見える
そのほかの戦争体験時の携帯品は
思い出をぼろぼろにしてしまうからと
処分してしまった物が多かった。
おじいちゃんが、いただいた
勲章もいっぱいありましたが、
どうなったのでしょうね。
従兄弟が持って行ったのかもしれません。
銀の懐中時計は、子供のころ、おじいちゃんに言いました。
「おじいちゃんが死んじゃったら、この時計頂戴!1」
「ハハハハハ、、、、死んじゃったら、あげようね!(^^!」
おじいちゃんが死んだ日、
私は、予期せぬ結婚んで、留萌に居ました。
「おじいちゃんが死んじゃった!、、、時計受け取らなくっちゃ!」
免許とりたての主人の運転は、一瞬、スピードが落ちました。
「なんだって???、、、なんでそんなことがわかるんだよ?!」
「おじいちゃんが、夕日の中で、懐中時計を取りに来い!、、、」って
言ったのよ。
夫は信じなかった。
しかし、奇妙なことに、その時刻に祖父が死んだと電報があった。
懐中時計は、誰が持って行ったのか、、、いまだにわからない。
祖父の死に目にも、母の死に目にも間に合いませんでした。
北海道で、苦学生と結婚するという事は、
東京は、アメリカよりも遠いことが、わかりました。
母の死に目には、一見間に合わない時間にお寺に着いた私でしたが、
女性の私に、母は北海道まで会いに来てくれました。
ベランダに出て、両手を挙げて、
「お母さん!皆の所に送ってゆくから、私の体にお入りなさい!」
深呼吸とともに、背中が、さく裂した痛みがが走るのを覚え、
涙となった私の体液を外に押し出し、汗と涙がコップ一杯以上、流れた。
母が、同居したのがわかりました。
オカルトのような体験でした。
脳の一部の異常な緊張が、神経を、以上刺激したのかもしれません。
オカルト現象は、異常緊張の脳や神経のなせる科学なのかもしれません。
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再び、父に話の焦点を戻しますと。
父が、持っていた、軍隊手帳、旗、ゼロ円の国債
仁川で、現地の医学生を指導した時の、
記念の、手術道具
これは、母が引き上げる異常事態の時、
唯一持参できた医療具でした。
この医療用具は、平成13年の夏
医者になりたくない症候群で、医大半ばで
退学を考えていた父にとっての、孫に
「あなたの爺ちゃんは、戦場で、多くの命を見送った外科医だった。」
おじいちゃんが、、おばあちゃんが、退学する前に、これを君に!
おばさんの夢枕に立ったから、
おばさんが持っているより、君に、預けに来た。」
おせっかいでも、なんでもない、、、
本当に、父と母が、夢枕に立ったのでした。
その成果どうか計り知れないが、
兄から、「息子が、やっぱり医師になると、復学して頑張って、
国家試験を通りました。」と、国家試験合格の新聞の切り抜きを送ってきた。
その後、結婚したらしい。、、、が
人生の悩みの時期を思い出させたくないから、
一切、逢っていない。
照れくささが、消えるのは、自分の子供が、また、悩みの時代に入ったとき。
おばさんのことを、思い出すかも、しれないね。
、、、おじいちゃんや、おばあちゃんに、頼まれた事は、、本当だよ!
再開しても、事実を繰り返すだろうね。、、、
私としては、、、本当だったから。
霊験は、母の葬儀の日にも起きた。
お寺に行ってしまった奇妙な、
誰も居ない空間の中で。
ひんやりとした空間の中で、
母の、母(祖母)が来ていたという留袖が、
和紙に包まれて、置いてありました。
不思議な空間の中で、
硯と墨と筆が目につき、書初め半紙に、
「私は、死んではいない、必ず戻ってきます、」
、、
自動書記のように、手が走り、
書き終わると、凄い虚脱感がして、寝てしまった。
目が覚めた時には、、、
不思議な霊験は消滅していた。
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高校時代の思い出。パッチワーク。。。
映画など。観たことがなかった家族。
ドクトルジバゴを観に行った後、
北大に進学した高校時代の同級生と
ドクトルジバゴを。
もう一度観に行きました。
北大の旧校舎の絵葉書や、
ニーチェの全巻を送ってきたりした
北大生の
同級生と、
夏休みに、誘い合わせて、
もう一回見に行った。
恋人とか、恋愛という感情ではなくて、
お互いに、
これから行かねばならない道が遠いので、
友を求めたぐらいの
気楽な時代でもありました
帰り道
靖国神社に行ってみた。
その後、戦争の実態を感じる資料のある
博物館にも行ってみた。
つづく