花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

本州とツナガッタ感ありますね!

2016-03-27 21:29:54 | Weblog



北海道はアメリカンドリームのように
新大陸のイメージが

どこかにあった。
漁業とソ連、、

北方領土とソ連

医療の応援とソ連。。。


日本でありながら、
独立した地域のような
歴史観が、本州とは異なっていた、、、50年前。

ボーイズ、ビ アンビシャス、、、
教科書にも出ていた。

クラーク博士が、
学生たと別れた羊が丘近辺。

タケノコ山だった時代、
60歳になったら、
終の棲家を建てようね、、、

土地を買ったのが、始まりだった。

と言うより、

このあたりの土地なら、いつか家が建てられる、、、

バルブで、
マイホームに手の届かなかった時代

人生、
どこに飛ばされて
生きねばならないかもしれないが

絶対君主よりも、イエス以外は言葉のない
無給医で、
博士号を取得しなければ
独立できない
昭和40年代の医学部事情。

終の棲家は此処にしようよ、、、と

あたり一帯雪景色の原野に近い、、。

定山渓鉄道が廃止になり、
このあたりを造成した矢先。

日の丸宅地と言う、、聞きなれない会社が
パンフレットをもってきた。

北方領土返還とナヒモフノタカラ?
北海道新聞は
地方紙の特徴が濃かった時代。

本州にはない、未開拓の希望と夢に
戦後の若者は、新天地に夢を託して
北大に向かったようだった。

家を出なければならない
二男の夫も、
北大に入学して
東京時代のあくせくした
時間の支配から脱出して、
のんびりとした北の大地で
野球を楽しみながら
大学を卒業したと言っていた。

小学校から大学卒業まで東京で暮らした私と

ひょんなことから、
人生登山の相棒として、
戦友として、
北海道の暮らしを始めたのは
54歳で外科医だった父が急逝し
開業が難航していた矢先
ゆくゆくは我が家の開業の片棒を担うと
母との間に約束が交わされた結果であった。
30歳までは、一人前の薬剤師になるまでは
勤務を続ける覚悟だった私の前に
結婚によって、家族とも、夫とも
至近距離で子供を育てられるという
しかも、自分の病院で薬剤師をできる、、、
こんないい条件は無いと
母は乗り気であった。

ほんの2,3年だから
北海道暮らしは
人生の宝物になるはずよ!

回りからも、言われ、
自分も、薬剤師と、家庭と両立する
千載一遇の機会かもしれない。

そう思って、勤務をやめて結婚に踏み切った。

大学から、配属された病院はローテで
留萌の寿町にある
日本海に面した病院の外科だった。

留萌の寿町の冬は
登山が好きだった私にも
かなりの強敵だった。

ハイヒールは全部捨てた。

吹きすさぶ吹雪
虎落笛聞こえる氷紋、
氷の模様のガラス窓からは
ピーンと張りつめた
不思議な風の演奏音が響く。

新幹線の来る北海道なんて
銀河鉄道のはるか向こうの
蜃気楼のように思えるほど
現実からは遠かった。

雪解けの留萌の海沿いを走る電車は
たった一両の電車?

キンコンカンコン、、霧の音高く響くと
波の音をかき分けて、
海の生き物のように、
たった一両の電車が現れる。

波の中から現れた、、、生き物のように。

あれから40年以上経った。

あの時から、
新幹線が出来て、
札幌と東京は5時間で結ばれる、、、と。
マスコミは特大見出しで書き立てていた。

夢が膨らんで、今か今かと待ち焦がれた。

結婚してから、初めの3年ぐらいは
必死で里に帰っていた。
往復だけで二日は乗り物の仲だった

4年目ぐらいから、
夫には、東京に帰る気が無いとわかるほど
道産子になってゆく夫。
博士論文が認められ
タフト大学から留学OKの手紙が届いた。

しかし、大学の人事は
地域貢献が優先した臨床医へ向かってまっしぐら。

地域の医師になる事は、
北海道を離れては生きてゆけない。

夫は、生涯の職場を北海道と決めた瞬間が
私にも伝わってきた。

臨床の腕を磨くからと、
症例の多い、手術の登板のまわってくる
中小の病院に移動した。

北海道の臨床医になる道を選んだのでした。

それからは、一切里帰りはしなった。

もしもあの時、、
新幹線があれば、
里心が断ち切れず、
毎年里帰りしていたかもしれなかった。

母は「雪祭りが観たい。新幹線はいつ来るの?」

電話の度ごとに「新幹線」「新幹線」と言っていた。

フジテレビが主催した
「オリエント急行」番組で
函館までの急行券が当たり、
母は、いそいそと電話をくれた。

函館まで行くから来てよね!

「わんぱく時代の二人の男の子は、天真爛漫!」

函館まで、母を迎えに行く直前

花の展示会で、
とんがった花活けの花器におでこをぶつけて
救急車で夫の病院へ搬送。

何針か縫った後、
二人の息子たちを無事に
函館まで連れてゆく自信が無くなった。

函館には、オリエント急行で
母も兄も、兄嫁も来ているという。

母は一人ではない。

断腸の思いで私は函館行きをあきらめた。

夫は今でも覚えている。
僕は、息子も、お前さんも
縫った、、、と、

当時は、本州と、北海道は
30年から40年の
タイムスリップ状の不便度が感じられた。

なにか?ハプニングが起きた時の
打つ手が思いつかない不安があった。

あの時以来、、、

実家は、私から離れて行った。

母が亡くなった時にも、新幹線はまだだった。

札幌駅から一人電車に乗り翌日上野駅に着いた。

母のもとに着いたときは、
母は眠っていた、、、、永遠の眠りから、

「遅かったじゃないの。。。と、
微笑みだけが伝わってきた。」

外科医だった夫は、
予約患者さんを抱えていたため
泊りがけの「東京には来なかった。」

進学試験中の息子たちも、
東京、札幌の往復時間を考えると
御婆ちゃんとのお別れには来れなかった。




もし、、新幹線が有ったなら、、、

東京と札幌はお隣さんになれていたかもしれません。

そのようなことを、思い出しながら、

安くなったヒコーキで、
頻繁に東京に行くようになったのは
息子が東京の大学に進学した時からでした。

同僚の開業医の息子さんの先生からは
「おめでとうございます。最高の
私立医大では名門と言われている
J大学に合格されたんだから、

まさか!!!金が無いから進学させないなんて!
そんな無様なことは言いませんよね!、、カンラ、、カンラ!」

ムシンケイナ生まれながらの開業医の坊ちゃまの言葉に、

主人は「当然です!頑張って卒業させますとも!」

二男と三女の組み合わせの私たち。
しかも、ワツィの自宅開業を継ぐと言って
やむなくとはいえ、、
我が家の母の期待をかなえなかった我らに
一銭の遺産も、形見分けもなかった。

息子に進学ローンを組んで
出世払いで良いことにして
20年ローンで入学を果たした。

医師の親が、国立であろうと
私立で有ろうと

自分の同僚を育てることには
命を懸ける頑張りを見せるものであると、
卒業後に、
火事場の馬鹿力の「夫婦の頑張り」に
乾杯をしたものだった。

背中合わせに
医師と、薬剤師が働いて、
やっと一人の
世間様に役立つ医師と、
立派に自立した薬剤師を世間さんに還した。

人生で、やっと
之だけした。

そして、70歳をすでに過ぎていた。

勤務医に
もう少し、、税制が
学問や、学会の控除があれば
家内も、一枚ぐらいは
小紋が買えたかもしれません。
生涯の受験生を抱えたように
本屋からの10万単位の請求書が
積み上がるのが、
日進月歩の医学の世界に
ついてゆく最低条件の
維持費だからですよね。

それを思うと、
医者になれたからって
息子は、日進月歩の医学会に
ついてゆくのが精一杯ではなかろうか?

医師として必要とされ続けるための
維持費を考えると、

医師をしている、医師を続けている、
地域から必要とされて、役立っている

そのことが、、、本人の生きている証であり
本人の生きがいにつながり、
時には、家族が幸せになるための「手段」であったはずの
職業が、逆転して
「医師をすることが目的になる」

それほどのことがあっても、
家庭が捨てられた、、、置き去られた、、、と
嘆かないお嫁さんが
きてくれるだろうか?

もうすぐ今年の9月で41歳になる息子には
結婚相手が現れてくるだろうか?

二人で、新居を探し、
二人で家庭を、0から始めてくれる
30歳そこそこの、大人の女性が
息子の「永遠の幼さ」の生き方を
理解してくれるだろうか?

私の友人も
「うちの娘が30歳で行き遅れなのよ!
もらってくれない?」

などと、、、軽口をたたいてくるのが
とてもうれしいが、、、
息子の性質を考えると、

息子を好きになって
理解してくれて、
今日は、、、こんなクランケを
こんなにして、助けられた!、、、とか、、
誰にも言えない雄たけびを
聞いてくれる女性が現れるか、、、心配です。

神様、、、彼ほど、、理解すれば、、、
幼い少年の誇りの中で、
医師と言う職業を天職として生きている者は少ないでしょう!

母親の方から、頻繁に行って
家族の絆を保たねば、
息子の方には、
来れる余裕は無いと教えてくれたのは

妻の母の葬式にも来れなかった夫の職業の性質だった。
今、息子も、
臨床医が第一線で必要とされる
救急指定病院の医師である。

ドクターヘリが、救急患者さんを搬送してくる病院だ。

私は、夫と同じで、死んでゆく人と
生きてゆく人との狭間で

すでに「匙を投げられた母の葬式」より
職務をとった夫に、
職業病のような「死んでいる者」への鈍感さを
攻める気は起きなかった。

息子も、十年単位で里帰りは未定である。

もう、、、待たない。

定期的に、、、
「お前は一人で生きているのではないんだよ!
離れていても、お前を愛する家族が要るんだよ!」

待たないで、、、こちらから、、、
定期的に出向くことにした。

息子は、大学の臨床部門の病院で
地域の為にも、瀕死の患者さんの延命に
役立てることを、生きがいにしているようだ。

多くの優秀な他科の先生方からも
可愛がっていただき
教えを請っている今の状況は
医師として、自分を完成してゆける満足が
全ての、逆境遇の不便さも
苦にはならないで、
アグレッシヴに前進して行けているようである。

親も最後の力を振り絞って
家庭を持てるように
これからの収入を切り詰めて
協力するから、
家庭を持つことで、、、
大人になれる部分のあることをゲットしようよ!
解って理解さえしてくれれば
君ほど「好男子」はいないと思っているよ。


今日も「NHKのダーウインが来た」を拝聴しながら

息子の卒業した大学の先生が、コメントに出ているのを
嬉しく、神妙にほほえみながら、TVに観いていた。

医師になるのも大変であるが、
医師をするのはもっと大変だと
その度胸と冷静さと決断と技の前には、

ボロボロに、裏を守る家事や雑用の集積で
世間様に役立てる「医師をする事」を
側面から支えられることの意義を見出せるなら
例え、独りよがりであっても、
登頂成功目指して、右足の次には左足が出ている自然態。
光と影は一体であるから

支える影は、光はあたらないが
「生きた!」と感じれば、
愛があろうが、無かろうが、生きて付かねば
家族の人生ゲームはばらばらになってしまう。

連帯の登山の喜びがあるはずであろう。

名門の私立大学に合格した君は
陰で支える親の頑張りは「影」であるから

それも含めて、医師になろうと頑張って、
前に前にと進むだけで
後ろの頑張りは、
出世払いと割り切って
きわめて、、、おおらかである。

私は、母の終焉を目の当たりにして、
60歳から、80歳までの
母を訪ねなかったお詫びもあり

3000メーター近い白山登山の
フィールドワークの学会に申し込んでいた。

白山に登山した日が思い出される。

君は、登山口まで来て
お母さんを送ってくれたよね。
「てっぺんに雪があるだろう!夏なのに!
母さん、、、母さんはバカか?
登れても、降りられなくなったらどうするんだ!」

「大丈夫、、、ヒマラヤを庭のように歩き回る
金沢のM教授の主催する生薬学会の一環のイベントだから!
リーダーにぴったりくっついてゆくから、
大丈夫なのよ!」

登山口から、君は引き返して行ったね。
「僕には。医師国家試験突破と言う
ヒマラヤ登山がまっているんだ、、とか?」

翌日、兼六園の松の前で
落ち合ったよね、、、。

医科大学生の時だったよね。
今、北陸にも新幹線が走っているよ、
もう一度、行ってみたいね。
親子で金沢へ。

母も、嫁に行った娘の私が、
とうとう、、実家を継ぎに帰って来ない人生登山を

ピアノを教えながら
80歳まで頑張った。

80過ぎても、ピアノのお弟子さんが50人以上いてくれた。
中には音楽大学に合格した御嬢さんもいた。

娘の私は、、必要ないかに思えたが、、、
亡くなる直前、、、

「待ちくたびれた、、、婿さんは
3年たったら、東京に帰って、家を助けるなんて、、、

とうとう帰ってこない、、、」

娘が医科大学合格した時、
女医になったら、黒メガネかけて
独身で、嫌な女性の仲間入りすると思ったけど、

あの時、娘を医者にしていたら、、、
独身でも、一緒に暮らせたのにね、、
男兄弟にもらしていたそうだ。

独身だったら、、、孫にも会えなかったでしょう。
それに、医師になれても、医師をすることの
難しさが、親を観ていてわかるだけに、

女医になるという事のリスクは

それを感じない強い女性でないと
不幸だと思うのですよ。

それだけ、強敵の怪獣君と闘わねばなりませんから。

夫のように、
怪獣の懐に飛び込んでも、
優しさも、労わりも、愛も感謝も

交している暇のない怪獣君の足元で。

今度生まれてくる時は、
大王イカになって、深海をゆっくりと泳ぎ、
研究者の垂らしたエサには食いつかないでおこうと思う。

やっぱり、新幹線が有ったら、行き来出来て
こんな愚痴やら、不満やら
「、、、だったら節」も
母の口からは出なかったろう。

北海道は嫁ぐには遠すぎた昭和40年代。
良かったね、
「時は金也、宝なり、愛の樹も時間無くしては育たない。」

時間を超えた新幹線に未来を託そう。

新幹線云々の話から、
距離を飛び越えた情報が入る今日だから。

北海道は、、、とうとう、、、
日本の北海道になった、、、と
痛感しました。

私にとっての新幹線は、
時間軸が本州と重なり始めた北海道が、

あと、平成30年ごろまでに札幌に来る間に

生きてるスピードを、
東京都と
どのように合わせてゆくのかと、、、!

短縮時間を燃料にして
黒船到来の予告の中で
ザンギリ頭を
タタイテいる自分を感じるのです。

舞台の白鳥の湖と
アイススケートの
陰陽師のデュエッとは可能なのか?

昨日観た「羽生さんの、、、」

ショパンのバラードは、、素晴らしかった。

ショパンを、、、あれほどに演じられるスケーターは
今後もう、、、現れないのではないか?!

お母さんと、一緒に観たかった唯一のイベントが

羽生さんの「ショパンのバラード」だたあな~~~

お母さんがいつも弾いていた
ショパンの即興曲を思い出しながら

白鳥の湖のように
羽生さんは
ショパンで、スケートが芸術入りするのではないだしょうか?

もしも、、母が生きていたら、
二人でショパンを観に行って、、
母は最高の満足の顔を見せてくれたでしょう。
最高の「親孝行のひと時を持ててでしょうね、、、」

人の寿命は、、、、ゆく川の水のごとく
しかも、、もとの水に有らず、、、

泡沫のように、、、私も消えゆく年齢になったけど、、
明日も、若者たちが届けてくれる光の中で

今日が、、、一番若いと
自分に言い聞かせて、、、流れてゆく。


混乱の中で72歳のお婆ちゃんは
札幌の新幹線到来を待たずに昇天するでしょうね?!

東京オリンピックまでは、、、頑張りますが、、、

時間を支配する科学の力が
国土の中で
時間ごと置き去られる文化を
造ることも確かですよね。

何を書いていたのかわからなくなりました、

息子よ!、、、

あなたの周りに必要とされ、
仲間にしてもらい
時代とともに、
その役割を果たせる自分に
感謝して、
健康に気を付けて、
いつかは、
お前さんを指導してくれている先生のように
君も、
研修医に「ここにきてよかった!」と
感謝されるような、
指導ができる医師になれることを
祈っています。

good night!(^^  








今回の風邪か?インフルエンザか?

2016-03-24 22:30:18 | Weblog



猛烈に肩が凝ってくる。
鼻水、くしゃみ、のどの痛み、
摂氏36,8度の微熱。

イソジンガーグルで頻繁にうがいする。

サワシリン、ビタメジン、ショウカコウソ、も
いつもの風邪のように症状がとれてくれない。

喉のひりひりは、いつもなら、抗生剤が良く効いて
扁桃腺なども痛快に治った。

ところが今回の風邪と思しき喉のひりひりは、
気管支から、肺に向かって降りてゆく。

以前、肺炎の時もらった残りの
タリビッドを飲み始めた。

3日目になっても、効果が無い。

この薬が効かないなんて、、、

どうしたら良いか?

肩の痛みと、のどの痛み。。。

とりあえず、熱は出ないから、

瞬間風呂で肩をほぐし、

以前もらって残っていた、

「漢方の麦門冬」蕩を飲んでみた。

タリビッドが効いたのか?
麦門冬蕩が効いたのか?

東西の医学の相乗効果なのか?

其処は学者さんでないとわからないが、

鼻水には小青龍湯が、私の症状には

どんぴしゃりと効果が表れる。

若かりし頃は、家庭と両立するように
漢方薬局を開きたいと思ったものだった。

近くの、大先輩の経営する漢方薬局に

色々教えてもらいに行ったりもしていた。

その薬剤師の方は、かなりの「漢方のおたく」でありました。

木製の、丸薬を造る製剤器具や、
あまり自家製で注文に応じる薬剤師さんは少ないのではと
今でも思っているのは、

「ダイオウシャチュウガン」の
製剤技術を教えてもらった時でした。

このような処方をされるドクターも少ないと思いますが、
受けている薬局も少ないのではないかと思いながら。
薬研を使って、シャチュウヲスリツブシ、
さすがに、、秘伝の滅菌を施し、丸薬にしてゆくのですが

直径5ミリほどの大きさになりました。
ふと思い出したのは、医歯薬学会で上海の総合薬店で
ゼミに相当する説明を受講した帰りの事でした。

上海の大きな薬店では、入り口で医師が脈診をしてくれて、
処方箋をその場で書いてくれた時、
直径1,5センチ以上の大きな、、、大きすぎる丸薬を渡された。
さすがに、、、飲めなくて、しばらくは、飾り棚に置いておきました。
20個ぐらいで1000円でした。

ダイオウシャチュウガンを指導してくださった先生からは
荒木先生の「方術」とかの、臨床経験の本を
わけていただいた。

荒木先生は小岩一中に通っていたころ、
我が家の近所に住んでいらっしゃいました。

その話をすると、

一緒に読んで、討論してくださったり、

5年ほどは、夢中になり、
方術を、自分流に読みふけり、

桑白皮は、南向きの日航に宛てて育てるのが良いのか
東向きが良いのか?
之は、、日照時間のかんけいなのか?
手探りの研究読みに、はまり込んでいました。

春になると、
原野に漢方薬の草根木皮の採集に行ったりした。
北海道では、春は山菜のあずきな、
で、籠はいっぱいになったりしていた。
薬草が目立ち始めるのは、夏過ぎだった。

秋は、キノコを探したり、登山の傍ら、
自然の植生の探索に出かけたものでした。

「げんのしょうこ」や「ドクダメ(どくだみ)」を

畑で栽培して、収穫のお手伝いをしたり、
年齢を超えて、
漢方の製剤が繋ぐ知的な発想に惹かれていた。

この先生のような、
無医村からの注文んで
体に良い漢方生薬を発送して、
蕩液の造り方を、

懇切丁寧に書き送り、
労力を人生の楽しみにしている生活も

とてもいいものだと、
いつか、家事が暇になったら、

自分も、採算度外視で、
漢方薬局をしたいと思っていた。

第二の人生を手探りしていたころ

学会の募集の
日中友好大学交流の機会があったときに

北京、杭州、上海 西安、成都の
中医学院のゼミナールに参加したことが有った。

西洋医学と、コースが別になっており、
成都では、1千軒にもなる、
生薬市場にも行ってみた事があった。

こーいーまー?

断ってカメラで撮影させてもらった。
チベット高原から、かごいっぱいの
霊子などを持って来たと
褐色の汗を流しているチベットの店主から
手のひら大の霊子を5本買った。
当時、100円だった。

その写真は帰国してから、

北大と、北海道薬科大学の生薬学と
漢方学の教室を訪ね、

より細かな説明をしていただいたりして、
旅の収穫を、少しでも公に力のある先生方に
報告して、それについての
より深い、説明などしていただき、
京都大の教授の学会長の時
大きなパネルにして、成都の生薬市場の写真を
ポスターセッションに展示していただきました。

当時、北京の大学関連の先生方の鑑定で、
生薬に、グレードがつけられていたのが興味をそそり、
その資料のグレード表も、ポスターに張り付けておいた。

会場では、神戸大学の
若き日の北原三枝さんとどちらが美人?と
見とれるような、大学の教官と話す機会に恵まれ、
勢いで、朝まで生薬の話をした。

ケモタキソノミーの分類をどのように思うか?と
質問されたとき、
北大で聴講した、
小林先生の「天然物化学」のまとめ方の方が、

壁や突き当りを感じないで、受講できると言っておいた。

しばらく、カッコイイキャリアウーマンの
彼女の才色兼備に圧倒されていた。

その頃は、、、、思い起こせば、、、
かなり、、本気で、漢方や生薬に浸かっていた。

しかし、私の卒業した日大の生薬学は

「生薬科学」と言う、天然物化学が先端を行っており、
学生時代に、すでに植物の科学の面白さに目覚めていた。

当時の恩師が
生薬学会会長をされており、
日韓の国際学会に参加された、、
滝戸先生は
今は亡き、
上田(あげた)先生や、九大の
西岡先生らと信州の山を探索され
研究発表のフィールドワークがあると
母校の定期的な会誌で知り、、
公募のメンバーに応募して
私も、
8月の信州の生薬探索会に参加しました。
教室で、黒板を背に、教わる授業とは別格で、

ヤナギランの山から山に敷き詰められた花の絨毯に
思いっきり見とれて、立ち尽くしていると、
母校の恩師の滝戸先生が
「ヤナギランはね、、、アカバナ科だよ!」
と、教えてくれた。

花の魅力に惑わされている場合ではないと、、、
葉や花や、茎をルーペで観察をしたのでした。

水の流れる溝っこのそばで、
燕尾センノウの淦褐色の可愛い花を見つけた。
またまた、、、ペンを放り出して、

燕尾服着た恋の花を歌にしたり、
山の魔力は計り知れなかった。

植物に天与のパワーがみなぎる中で
説明を受けると、
生薬や、漢方薬の興味に、

目覚めたという瞬間が、何回もありますよね。
鑑真和尚の時代からの
歴史と情熱で保存されている正倉院の植物と
山の神様が育てている植物と人とのかかわりで
世界の平和があり続けてくれるなら

科学がどんなに進んでも、
山から籠を背負い
太陽の子供のような薬草を糧にしている民族が
永遠に、時間の隙間に取り残されないように
仕事の世界遺産があってもいいと思ったりしていました。

薬草や、香料や、染料にと下された
山の神様、、、ありがとう。
滝戸先生が、学会参加の記念品として
小石川の
東大植物園で売っている植物画の入った葉書を下さった。
フィールドワークに参加して
その葉書を持っている人は、
きっと、植物の虜になるかもしれません。

実に美しい葉書でした。

連想して、、、思い出すのは、、、
小磯良平さんの植物の画集です。
薬大の刈米先生との共著だったと記憶しています。

小磯良平さんは、芸術家でいらっしゃいますが、
植物画集を出されています。

60年前、私の父が戦後の疎開先で、
七か村、無医村地区の唯一の外科、~全科の
患者さんの押しかけてくる診療所の
医師だったのですが、

父の診療所の机の上に
「武田薬報」と書かれた
美しい植物画が表紙の雑誌が、毎週来ていました。

戦争で軍の命令で戦地に行った父の草色の奉公袋や
千人針の刺繍の字を観ていると、

戦地では、薬も包帯もなくなり
あたりの植物を火で処理して薬にしたと言っていた
父の話を思い出します。

今は北大の植物演習林もあると聞いていますが、
あのあたりから、多くの薬草が採取され、
村人が、耕してくれたレンタルの畑に
多くの薬草が、植えられていました。

当時は珍しかった、アメリカやヨーロッパの植物の種を
取り寄せては、
父は、見事な薬草園を楽しんでいた。

その表紙に描かれていた植物が
目の前の自然でであったがごとく描かれているのが
小磯画伯の、植物を観ている目の素晴らしい作品集でした。

父が亡くなって、私が薬剤師になって
病院薬局に勤務していたころだっただろうか?

子供のころ見た
懐かしい{ジギタリスの薬草}が
ページに入った画集の出版を、
新聞で見ました。
あの時の表紙の絵を
一冊の植物画集にまとめた本でした。

この本は万と言う値段ですが、
この本と出逢ってから、

私はイギリスの
チェルシー植物園の
薬草ゼミに参加することのできる縁が降ってきました。

其処では1400年代からの
ジギタリスの原種を株分けして保存栽培をしており、
実に!!!
黄色い原種のジギタリスの花が咲いておりました。

勿論、、スライドは撮ってきました。

このような運を運んできた本を

私は、探し探して

追いかけました。その本を探して、、、
大阪まで、、、。

大阪で手に入れたのでした。

医師の臨床漢方とは、
いささか方向が異なり、
薬剤師の漢方学は
生薬の研究と、

科学的解明の
生薬科学の
基礎から考えるものでした。

そして、
材料の生薬の品質を選ぶのが
学問的な裏付けが必要でした。

構成生薬を見ると薬効の流れが、
気に乗って、
各セクションの臓器や筋肉で
プロドラッグのように
形を変えながら、

宇宙の一部である人間と言う流れの中で
バランスを保ちながら
ホメヲスタシスの状態へと渦を巻いて
流れながら、
気が整えられてゆくのが

閉じた瞼のスクリーンに映るようでした。

木村雄四郎先生や、
木島先生は、
学会参加の時
ご自分の著作の御本に
サインをしてくださいました。

「北海道の薬草」と言う
御本を書かれた本間先生も

名寄の薬草園や、
ヒノキ製薬の薬草園で

栽培の指導をしてくださる学会を
サポートしておられ、

そこで、ゲンチアナの栽培に成功した
爺ちゃんが残された布製の本と、
学者さんでも先生でもなかった一人の爺ちゃんが
銅像になっているところへ案内してくださいました。

その本は、後日北大の生薬学の植物栽培の実践の大家だった
助手の先生に頼んで取り寄せてもらい
聴講生だった私の教科書として使わせてもらいました。

植物が繋ぐ地域と人々と山河や、海外の文化交流は
まさに、、、民間外交の歴史だと思ったものでした。

西安の塀の上の唐招提寺の原型を観た時も
タンポポの種になって、
世界中に拡がっている
自然界の力を感じたものでした。

自然を壊すのではなくて、
自然の中にお邪魔さしていただいて
自然の恵みを生業とする人々が、

仮に、、、
時間を止めて、生き続けたとしても
置き去りにならない、世界遺産ゾーンの社会が
成り立てば、、、

科学化する世界の脅威を感じる人は居なくなり、
地球上に、銀行を経由しない生きる居場所があれば

世界平和に、

人類愛、自然愛、地球愛の
一大観光地が出現するのではなかろうか?

植物園、、、などと言うスケールではなくて、、、

人間や動物、森羅万象、全てが自然体のままの、、
自然遺産、、、すなわち、、、世界遺産保護区が有れば、
イイね。

いずれにしても、私の時代の日大の生薬学は輝いていました。
後世に残る
師匠でした。
植物の分類で著名な牧野富太郎博士らと
同時代の、植物に造詣の深い先生でした。

日大の学生時代、
私はラッキーなことに、

温故知新の木村勇四郎先生と、
化学で生薬学を説明する滝戸先生と、

パスツール研究所にもいられたという
パリ大学で博士号を取得された女性の先生が
講座の教授でした。

女性のパリ帰りの教授は
フランス語で授業をされるので、

さっぱりわからない授業が、残念でした。

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何処にも出られず安静な毎日は
学生時代からの思い出を
走馬灯のように、頭の中で回り始めて
終わりなき思い出話になりました。

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風邪なのか、、インフルエンザウイルスなのか、

抗生剤の効果のないこの一週間、

生薬と、漢方薬に、最後の望みを搔けて
奇跡的にも、症状が、とれて、ラッキーでした。

西洋医学と、漢方薬のコラボレーションの
効果を、体感しました。

本来なら、かっての自分なら、
タリビッドが効力ないとわかったときは、
近くのかかりつけ医の所に駆け込んでいるはずですが、

若かりし日々の、漢方に夢中だったころを思い出し、

年寄りの自分には、麦門蕩も小青龍湯もがあるではないかと、
服用をしたのでした。


「科学の目」で生薬を研究する秀逸な授業が有った。

そして、「温故知新」と、授業の初めに
黒板に大きな文字を書かれてから講義をされた教授は
和漢薬の大御所の木村勇四郎先生でした。

恩師の教えは、いつまでも、引き継がれてゆくことを祈ります、


春の兆しで、甦ることが出来るか?70代

2016-03-21 01:00:44 | Weblog



冬の間
雪かきの主役である、、、72歳の私。
さすがに今年は、右腕が上がらなくなった。
肩が、じりじりとほてり続ける。

50肩の時の症状と極めて似ているが
今年は、雪かきのママさんダンプごと

足が滑って、地面の堅い雪氷と顔面衝突した。

眼鏡は曲り、肩には青あざが出来た。

2。3日後には方の青たんが
どす黒くなって、上腕まで黒くなった。

夫が持ってきてくれた湿布を包帯のように細く切って

腕と肩をぐるぐる巻きにして、

それでも降り続ける雪を搔いていた。

やっと春が来そうなのに

思いきっりくしゃみと咳のひどい風邪をもらった。

体力が消耗している証拠かもしれない。

少し、、、自分をいたわって

娘時代のように

ハンドバックより重いものは持ちませんと

頭脳で生きることを考えないと

筋肉では限界の72歳であると痛感した。

かといって、

北海道の暮らしの中では、

地元卒業が、優先なのは

何処の地域もよくあることですから、

政治と地方がコラボって

一枚岩の日本にならない限り

所属が難しい。

多くのヴォランティアもしたかったし、

地域活動もしたかったが

結局は、筋肉を使って

家庭を守って、72歳になってしまった。

大学時代の友人からは、

マチュピチュや、南極や、アルプスからの

登頂成功のはがきが来る。

気軽にオーストラリアに別荘を持ったから

一緒に行かないか、、、など。

彼女たちは、独身でキャリアウーマンを通した

高校や。大学の。。。かっては親友だった。

結婚した友人からは、

姑が92歳で、自分も72歳で

明日がわからない年になり、

姑が、管につながれて

意識もなく、病院に居るが、、、

延命効果を続けることが、良いのか、、、

嫁の私が元気で、葬式をしてあげれる方がいいのか

毎日苦しい、、、思案の日々だと

電話が来る。

けっこん。。。結婚、、

可愛い孫と逢えたから、後悔はしてないが、、、

その責任と、将来の健康を考えると、

独身の彼女たちの、自分だけの事を
心配すればよい人生も

今となっては、、、

苦しみの無いという点においては
独身貴族に軍配が上がるかもしれませんね




終わってしまった相棒

2016-03-18 01:30:01 | Weblog

ダイナミックな社会の構造を背景に。警察の特別係の
刑事さんが二人、タイプの違う追及が。まさに「相棒」。

時々、心の中まで踏み込んでしまう勇み足も。それなりに
ありうる感情だと、考えさせられた。

賢すぎる推理が、エリートの世界の特別の能力に思えたり、
授業を受ける気持ちで、拝聴していた。

コマーシャルが長いのを良いことに。
夕飯の支度をしながら楽しめた。

5時からは、「コロンボさん」
まるで、「学者そこのけの、データー集めのコロンボさん。」

TVや、映画でなければ、疑似体験すらできない上層社会の

むしろ、社会の牽引役と言えそうなエリートが

頭の良さに頼った「事件の主役」である。

一方、コロンボさんは「殺人事件のプロの刑事魂の天才刑事。」

初めに犯人が事件を起こすのを画面に出してから、
コロンボさんが登場する。

犯人が分かっているのに、
知恵比べである。

最優秀の頭脳の人間も
その筋のプロにかかると、

穴だらけであるという、
プロ、、、「プロとはなんなのか?」を
つくづく考えさせられる。

頭の良さだけで
自分の仕事以外の事を考えたって

プロにかかれば、おみ透視という
痛快な「勧善懲悪」の痛快さが良い。

相棒も、楽しませていただいた。

お疲れさんでした。
事件を起こした人が、
コロンボさんのように、

同情しなくてもよい、多少、
うぬぼれていて、
世間を甘く見ている犯人だと
コロンボさんに
とっちめられてゆくのが
愉快だ。

痛快になるから、良いかもしれないね。

相棒は、スケールの大きい時と、
きわめて、個人的なスケールの時と、
想定と、条件が一定ではなかっただけに

犯人が

一生懸命生きている人が、
社会のひずみの中で
事件を起こすのは、
観終わった後、
スカッとしない
重さが残る
哀しいものがあるのが
後味の重さだった。

コロンボさんと大きく違う点だと思った。


想いでの食卓

2016-03-10 20:27:06 | Weblog
息子が、東京の大学に進学した時、私自身もお茶の水の大学で、過ごした4年間が
宝物だっただけに、あのまま本籍地の文京区に住み続けたかった思いが甦る、

老後は、夏は札幌、冬は東京にと、夢を抱いて、共働きで頑張った。
20年ローンが終わり、やっと手に入れたマンションでしたが、
断腸の思いで手放しました。

70歳を過ぎてから、空港で「空いてますか?JAL便」で、
シルバー格安往復を
天の恵みと想い、利用していたが、

着替えや、荷物を持って、旅行鞄を持って、行く気になれなくて
もっぱら、家で、
NHKのプレミアム番組で旅気持ちに浸っています。

5時からはコロンボさん、でも、ほとんど見ているのですが、
社会派の犯人を、プロ根性の刑事魂で追及するのが面白い。
筋もわかっているのに、またまたTVに首ったけである。

急な物入りで、出費がかさみ、
行動資金にはさようならをした72歳の婆さんは、

コロンボさんに出てくるキャパシティもアビリティもある
御婆さんのような、
スーパーウーマンを観ながら、
朝ドラのあささんと重なっている。

ナポレオンが、「不動産もお金も何とか後で挽回がきく。」
「今は生きよ!」。。。と。言ったかどうかは知りませんが、

セントヘレナのナポレオンは、「進め―!」と言っていたとか???

人間は、パソコンとTVが、あるんですもの、
今日が一番若いのですから、

心は、進め―!
塞翁が馬のTV登山、
TV旅行、

ゲリークーパーの懐かしき軍曹さんと
TVデート、、、

80近い義兄弟、義姉妹も、、
痴呆が始まり
実家も売られて、
費用は施設費になった。

月額も
入居時の3倍の浪費が続く。
余裕のある兄弟は、
何処にもいない後期高齢者の日本!

TVを観ましょう!
絶対に、
惚ける気がしませんよ!

往年のスターと
茶の間デートですから。

仮想の愛が、痴呆から救ってくれますよ。

おにぎりと、なっとうと、みそ汁があれば

クルーズだって体験できるんですから!

急な物入りが続き、
金銭的には旅行などできなくなりましたが、

TVの面白さを知って
塞翁が馬の、
茶の間の青春を謳歌しています。

雪かきで、50肩で右手は動きませんが

70歳過ぎても50肩なんて、、

若いでしょう!

ロバートミテャムさん!、、、
お花見もTVでめぐる東北です。

3月11日の津波の被害の事は、
どうか、、、

あまりに、哀しすぎる画面は、見れません。

涙をこらえて、前に進む番組をお願いしますね。







ナデシコさん、、、ありのまま、頑張ってください!

2016-03-08 01:40:40 | Weblog

まだ、ナデシコさんが有名になる前から
深夜に起きては、観戦していました。

そして、、、世界のナデシコさんになるまで、
睡眠不足になるほどでした。

光陰矢のごとし。。。

誉さんは、万感の思いで
世代交代を見つめていると思います。

ナデシコさんのチームも、

善戦しました。

監督さんは、次世代が再び育つことを
信じていると思います。

主力選手と、キーパーの世代交代は

時が解決してくれるはずですよね。

新しい世代の、結束と連携と

気力の充実を祈るばかりです。

ずーと観てます。

これからも、ナデシコさんを応援してます。