結婚以来、年賀状は、いただいた方に
FAXで、お礼を書いてきました。
雪掻きとかさなり、かえって、冬のあわただしさを増すからです。
70歳過ぎてから、さっぱり、。
今日も、雪かきをしながら、
年賀状を配達する方の正月は、どうなっているんだろう~~~と、
われとわが身に置き換えて、
日本の正月にかける、
それぞれの役割の大変さと、頑張りを想像する。
主人は仕事上、、、
こまめに賀状をしたためる方だと思います。
毎日のように入る、、、
[喪中につき、賀状は御遠慮します、、、]という葉書。
皆、
親を亡くされる年に入っている。
親しい知人が、
春には,,,母上を無くされて、寂しいと、
。、、喪中のはがきで、その悲しみを知った。
80歳過ぎての大往生なので、
寂しさはしばらくは続くでしょうが、
子供より、
一足先に、
一足飛びに光のもとへ飛翔した母とは
又、天界で、会えると思うと、
この世の老後の大変な具体的な諸々を
卒業で来てよかったとも思います。
私も、やがてはやってくる
「この世の卒業式の為に!」
1000円のフクロウのアクセサリーの収集を、、、そろそろやめようと、、、
丁寧に、お菓子の箱に、テープで固定して、片づけた。
暖簾いくっつけてあった、
フクロウや、
鳥や、
トンボや
昆虫や、
魚や
竜のおとしごの、、、1000円ブローチは、
大いなる業界の中の、、、自分を見ているようで
ブローチなのに、、、なぜか、、、、いとおしい。
認定薬剤師の講習会が某ホテルの地下で在ったため
ロビーのワゴンのショップで、気に入ると買って、
その日の講習内容を、関連して、記憶にとどめ、
ブローチを観ると、
講師の
力を入れていたスライドを思い出していた。
そのブローチも、、、、73歳になると、役割も卒業になった。
73歳の、薬剤師は、なかなか、、、仕事をするのは難しい。
家庭と、仕事の両立のスタミナが不足してくる。
これからは、、、主人が惚けないように、
仕事のサポートは、
未来の、介護を先送りできる。
仕事が医師だけに、
ボケは全くないが、多分、、、仕事を辞めると、、、
生きがいが、仕事だけに、
急転直下、惚けはじめるかもしれない。
サポートは、そういう意味でも、
社会に還元できている今を!、
一日でも多くして、
働いている限り、、、
患者さんが待っているという責任感の緊張が
惚けるのを防いでくれている。
300通は今年も書くだろう年賀状の束を、
整理しながら、、、年ごとに喪中が増える葉書が哀しい。
喪中のはがきを選り分けてゆく。
、、、、、、、
人間は、名誉も、技術も、お金も、愛蔵品も、、、
持っては死ねない。
教えてくれたのは祖父だった。
あすありと、、思うな、、桜の花も、、、夜中に嵐があるかもしれないと、、、、
13歳まで 、疎開地で、、、、
戦争で家族を亡くして、PTSD?心の癒えない患者さんが
にわかに、、、町をつくりあげた時代だった。
七か村の唯一の医師だった父のもとに
ひねもす運ばれてくる、患者さんの死を観ながら
人は、「死と隣り合わせの生」が
いとおしいと、、、思って育ってきた。
4歳の時、
祖父に連れられて」、高野山に行った事があった。
祖父は、、、
人は死んだら、この山の樹となり、川となり、大地となって
生きて行く者たちを、助けるのだよ、、、と、
笑いながら言った。
一枚の、素焼きの皿を渡してくれた。
「投げてごらん、、、」
私は、、、小さな手で、思いっきり皿を投げた。
皿は、目の前の藪に引っかかった。
「まだまだ、、、生きねばのう、、、」、、、
にこやかに笑った笑顔が忘れられない。
私は、、、運がいいと思った、
お爺ちゃんを尊敬していたから、、、
お爺ちゃんだけは死なないと思っていた。
80歳を過ぎて、、、私の長男がヨチヨチ歩くころ、、、
爺ちゃんは居なくなった。
若き頃、アメリカで過ごした爺ちゃんは
いつも、、、三つ揃えの正装をして
内ポケットに、お気に入りの銀の懐中時計を持っていた。
学校の校長先生やら、
町長さんやら、(頼まれて引き受けたという)
何やら、、、かんやら、、、世話役をしていた祖父は
晩年も、年賀状が積み上がっていた。
筆で、一枚一枚、時間をかけて、書いていた。
遠友とは、、、ありがたい存在だ、、、と。
80歳過ぎてからは、
母の弟の家(叔父さんの家)に行ってしまった。
寝たきりになった爺ちゃんを訪ねて
幼い長男を連れて会いに行った。
長男が、爺ちゃんを観て泣き出した。
私は、、、なんで泣き出したのかわからないまま
長男をあやしていたら、
「私の体から出るオーラーが怖いのだろう、、、」
「おーよしよし、、、爺ちゃんは後ろを向いて居ようかの、、、」
爺ちゃんは、息子に背を向けた。
息子は泣き止んで、、、
しゃっくりをしながら落ち着いてきた。
、、、、、、、複雑な気持ちだった、、、。
「おじいちゃん、、、かえって気を使ってもらって、、、ごめんね!」
私は、二階の、爺ちゃんの寝間から、息子を外に連れ出した。
その夏、、、
留萌の寿町の病院に出張の主人について、
病院脇の宿舎に移動していた。
海辺が、、、赤く染まり、、、真っ赤な空が燃え始めた、、、
「おじいちゃんが、、、おじいちゃんが、、、死んだ!」
私は叫んだ、、、おじいちゃん!お爺ちゃん!、、、オジイチャン、、、
さようなら、、、!!!!!!
その夜、宿舎に電報が来た。
冬になると、宿舎は、シベリアの抑留所の話を連想させる寒さである。
シベリアに抑留されt叔父さんが
トイレにはトンカチがおいてあったと言った話を思い出した。
何処にも、宿舎には水洗トイレが無かった、
トイレは町のミニデパートで買い物ついでに済ませた。
風呂は、煙突が壊れていた。
一間だけの共同住宅に、共同の台所がある。
お米を研いでいると、居眠りから目覚めた当番の出番のドクターが
ウガイを師にやってくる。
洗いかけのコメを持って、一時的に部屋に戻る。
足音が消えた頃、又、、続きの炊事に戻る。
数人の医師達が出張の間、泊まっていた。
暮れの忘年会シーズンには
食堂に酔いつぶれたスタッフが、
水分でしけったかび臭い蒲団にくるまって
転寝してしまっていた。
ワイヤーの出ているボロの椅子が一つ、
アンテナのない白黒テレビが
スイッチを入れると、雑音のあるかすれた音で、、、
画面に雨を降らせたような映像が見えた。
何の画面なのか?、、、判定は難しいが、、、
都はるみの「北の宿から」の歌が、、、
途切れ、、、途切れ、、、聞こえたが、
若き日の、、恋を思い出すような、、、
生ぬるい環境ではなかった。
生きねば、、、と。
雪の降りこんでくる廊下を長靴を履いて、米を焚いた。
水道は、水を使うたびに、、、地下まで落とさないと
5分で水道管が凍り付いた。
娯楽も、一冊の雑誌もなかった。
聞き苦しいので、テレビは之っきりであった。
備え付けの蒲団は、、
すが漏れの水を吸って、、、
しずくが落ちるほど、、、湿気がひどくて
マイナス20度の寒さの中で、
ストーブで温めている部屋なのに
シャーベットになっていた。
長男が生まれる前、スキーヤッケで過ごしていたが、、、
寒さで、、、万年、、、膀胱炎であった。
サワシリンは、折に触れて、飲んでいた。
抗生剤の連用は避けねば、、、と思いながらも
腎盂腎炎になるのが怖かった。
スキーヤッケを着て、毛布をかぶって、ストーブのそばで
編み物をして過ごした。
新婚間もないころ。。。
私はここで、流産をした。
雪の中を。一人で這いながら、病院にたどり着いた。
婦人科の先生は、
外科医としての研修中なのはわかるが、
前の日の夜から、
陣痛を訴えている妻を、考えに入れる余裕のなさが
外科の研修医の哀しさだったかもしれない。
現場で手術の助手に入る事の責任で、
陣痛で唸っている妻に、
手術のイメージトレーニングの邪魔だと
癇癪を起しながら、明日の手術にまっしぐらな様子だった。
もしも流産したら、、どうしよう、、?と
不安をほのめかしても、
お産なんて自然現象で、病気じゃないから、
心配し過ぎると、
明日の手術の準備の邪魔だから、、、と、
学べることの機会を逃すまいと、、、
私の事は上の空で聞いていた。
大きな外科の医局では
ノイヘレンの主人に、こー引き以外の役は無かった。
このままでは、、、外科医になれない、、、主人は焦っていた。
主人が出かけた後、渋るような腹痛が襲ってきた。
腹痛が止んでる間に、雪の中を這って、
私は自力で病院に着いた。
流産が終わって、処置が済んでから、
産婦人科の先生は、手術の研修中の主人に
院内電話を入れてくれた、
緊急の処置が終わりましたので、
奥さんを迎えに来てあげてください、、、と。
主人は、目下、指導を受けている最中なので
手が離せませんので、一人で、待合室で待つか、
還れるようなら、寮は近いので、返してください、、、と
研修の技術取得以外は眼中にないと言う返事だった。
産婦人科の先生は、多少、怒ったような表情であった。
切迫流産だったら大変だったんだよ、、、正常だったから良かったが、、
「いくら、医師として、技術の取得のチャンスに全力を尽くすとはいえ、
陣痛が始まっている伴侶の危険を察知できないのは
鈍感すぎる。
早朝に、腹痛を訴える伴侶の言葉も上の空で
自分の研修に出かけてしまうのは、
医師としての、技術の取得に夢中なのはさておき
自分の事を考える前に、
、「命の危うさに気が付くべき」だと、
「医師の基本を、教えるから!、、」と。
「先生が、仕事を終わって、奥さんを迎えに来て、一緒に還るのでなければ
私は、当直室で、奥さんをお預かりしていますから、仕事が一段落したら
必ず、迎えに来て下さい」、、、
自分の娘の流産でもあるかのように、、、怒っていた。
私は、深夜になるまで、当直室に於いていただき、
主人の帰宅に合わせて、
冷え切った寮の一室に戻った。
そして、、、今度ばかりは、南国育ちの私ごときが
留萌の冬に順応できると思った甘さを思い知った。
、、、、別れよう、、、、
彼が一人前になって、我が家の外科医に入ってくれるまで
私自身が持たない。、、、愛のないそろばん結婚は自業自得だった。
子は鎹というけれど、、、、天は、お産は無理ですよ、、、と
判決を下したのだ。
子供は「愛の結晶」と言うではないか!
まず、愛情の芽を育てねば、、、無理がある!
体調が、、、少し戻って、
私は、、、東京の実家に、、、寒さから逃げて帰った。
2月でも、セーター2枚で、、、ほくほくとあたたかな
小春日和だった。
高校時代の親友たちがやってきて、
今からでも遅くないから、、、我ら独身グループに戻っておいでよ!
大学卒業させてもらっているんだから!
ぬかみそ女房以下の生活をすることはないよ!
「結婚生活3か月の忘年会」に皆でハワイに行こうよ、
成田離婚だってあるのだから、、、なんてことないわよ、
しっかり立ち直れるって!!!、、、
誰も、北に還れとは言わなかった。
私は、、、悩んだ、、、
その時、主人の母上から、電話が入った。
「留萌には、隣の家があるのでしょう?
病院だってあるし、
女性たちは、そこで子供を産み育て、生活しているのでしょう?!」
「ハイ、、寒いところですが、人は住んでいます。」
「あなたは、医者のお嬢ちゃんとして、甘やかされて育ったから、
自分を守る事も出来ない、、、お荷物になってしまったのよ。」
「いいえ、、、甘えではなくて、留萌の女性は、すでに寒冷地に対応した
皮膚の構造そのものが違うようです。」
「あなただって、きっとそのうち慣れてきますよ。」
「なれるとは思えませんので、このまましばらく東京に居ます。」
「私の子に離婚歴を付けないでください。あなたのわがままで、、
未来をダメにしないでください、、」、、、怒っていた。
確かに、、、私が甘かった。
そして、私は、、病院に通院しながら、健康の回復に専念した。
母は、「北海道に嫁にやった事は、、、間違いだった。」
母も一緒に悩んだ日々であった。
春になって、身体も回復したころ、
主人から、一通の封書が届いた。
「自分の研修で体得した成果。大学に戻ってからの、尊敬する先輩医師とともに
切断された腕の血管をすべて繋ぎ合わせ、
農機具で、片腕になったかもしれない人の腕をすくえた、、、、
その先輩の、血管をつなぐ技術には、外科医としての誇りを感じた、、、
、、、、、、
とにかく、自分の事しか書いていなかった。
流産に対する配慮の無さなども、、、一行も無い!」
完全無欠の「医者バカである。」
医師としての
「自分の居場所となる、俺にしかできない技術取得の頭しかないと思われる。」
とんでもない、、タイプの「俺、俺、、」と出逢ってしまっていたのだった。
一生かかっても、対話にならないと思った。
一度失敗した子供の出産を、あきらめないで
再度挑戦して、お産に成功すれば、
父親としての自覚から、「愛情」や、愛しきものを守ろうとする本能を
引き出せるかもしれない、、、。
ひどい目にあったからと、、、すぐ離婚というのは早計かもしれない。
別れるのはいつでもできる、、、、
傷物の、バツイチになるのは、、、、もう一回しっぱいしてからでも遅くはない。
ある種の「俺しか愛せない愛情音痴に、父親の愛を芽生えさせたら、
全ては、改良するきっかけになるかもしれない、、、
途中放棄は、、、登山でいえば、一人下山である。
結婚という事自体、登山と一緒なのだから、
片方が、片方を頼ったら、ザイルにつながれて居るだけに
共倒れである。
たっぷり実家にァ世話になって、
初夏の木漏れ日のさざ波の中を、
リニュアルした心で、札幌の、焦げ臭い、火事の臭いの残る
木賃アパートに戻ってきた。
夜中に実験用の白衣を着たまま帰宅して、
事件の意義の深さを喋りながら、
ご飯をかっ込むと、
白衣の腰のあたりで手を拭きながら
大学にもどっていった .
自分しか見えない早足で大学に戻る主人に
「白衣ぐらい汚いものはないから、、、明日は白衣で』帰ってこないでね!、、、」
「。。。。。。?」
聞いているのかいないのか、、、?
「30年、、、文化の遅れた未開国に北津守で、、、
まず、父親という、、、自分以外の愛に目覚めてもらわなければ
話が見えない、、、受験制度のひずみの中で、
価値観そのものが、、、偏ってしまっている、、、。」
私も、今までとは根性を入れ替えて、
大学で取得した高校教員、中学教員の免許書を引き出して
しばらく、、、どうしてやろうか?、、、睨んでいた。
地味な先生根性で、
「偏った価値観しか見えない点取り虫」の新米外科医の卵先生と
対決する結婚生活に再度チャレンジし始めたのでした。」
次の年に」
長男が、、、お腹の中に居ると知った日に
私は、東京の実家に帰った。
今度は、、、ゼッタイに、、、失敗は許されない里帰りをした。
実家を手伝いながら、居候をして、、、
兄の世話で、
日大病院に通い
時には、研修医の学用患者の役を頼まれながら
一年近く、主人とは別居した、
まだ駆け出しの
循環器外科の勉強中の主人は
妻子がいない方が、
仕事に専念できたと言っていた。
独身気分のまま、、自分の事で精一杯の主人は、消息不明のように
連絡が無かった。
全ては、、、父親にならないと、自分以外の他者を愛するというのは
けん玉の「世界一周」より訓練が難しいと思われたから、
私からも、梨のつぶての数か月が過ぎた。
主人はその頃、独身に戻った自由さで
激務の名に於いて、妻を振り返る時間がないことを、
自分の世界だけで納得して、
目の前の、医師としての熟練の腕に向かって、
先輩や、仲間から、技術を授かるためにも、、、
「御意!???」だったのかもしれません。
正月になっても、
東京の妻には年賀状も届かなかった。
近所の人は、、、私の事を、、、出戻りだと思っていた
盆暮れの妊娠妻の一切の配慮は無かった。
仕送りもなかった。
私も手紙は書かなかった。
兄は、文句も言いたかったのだろうが、、、
一切、主人の事には触れなかった。
「母と、妊娠の期間を過ごせるのは、ラキーな事だから
一生分、親孝行して行きなさい。」、、、
「本来なら、筋違いの滞在だが、母の為には、天のめぐみだよ。」
苦笑いをして、兄嫁のお古のセーターを着替えにとおいて行った。
父からの時代から、職員だった看護婦さんが、
近所の、兄の知り合いの病院の院長さんと結婚した。
兄は、これからは、彼女の事を名前で呼ばないで
「奥様と呼ぶように、、、」と、
名前で呼び合ってふざけていると、
注意に来た。
私は、、、結婚している自分を意識することが少なくなった。
腹だけが大きくなり、長男がなかから、蹴っ飛ばしてきて
「いるぞ、、居るぞ!、、と、、対話を仕掛けてきた。」
電話も一度もしなかった。
又、かかても来なかった。
それほど、、、留萌は遠かった。
2月の厳寒期に、、、長男は産声を上げた。
留萌での出産は、私には無理だったと思うと、
実家には、、、感謝をしても、、、仕切れない。
夫も居ない。夫の家族も居ない、
母が、兄が、実家の家族が、
我が家の子供が生まれるかのように
世話をしてくれました。
長男が生まれてから、、、一日たって、
主人が上京してくれました。
主治医に、名刺を差し出して、
初めて挨拶を交わすと
主治医の驚いたような言葉があった。
「ご主人は医師だったのですね!
どうして、、それを先にいってくれなかったのですか?」
、、、、、、、、、。
答えようがありませんでした。
ご主人が医師と知っていたら、、、学用患者さんの
役は、他の人に頼めたのに、、、と、恐縮していたが
「兄の卒業大学で、学用に役立てていただき、こちらこそ
お役にたてて、嬉しいです。」と、、、本心で答えた。
医師と医師の間には、その奥さんにも、、、忖度があるのかもしれませんね。
出産してから、息子は母のお気に入りの孫であり
母を幸せにしているのが、伝わってきました。
産んでよかった!
「さ、、ぁ、!、、、、、お父様に、あなたを愛する事の気持ちを呼び覚ますのよ!」
私は、息子に、毎日話しかけながら、
「愛する事」を、お父様に教えるのは、あなたですよ!
私は、男女の愛などなくていいと思った。
家族を自分の分身と気が付いてくれて、
自分以外の話題が「幸せだと思える時間になってくれれば、、、」
医師以外の時間が、人間として、普通の喜びがあればいいと思っていた。
大学院生の主人からは、、、仕送りもない。
逆に、母からは
「出世払いでよいから、、、」と
生活費も、通院費、衣食すべてを、、、面倒見てもらった。
母は、「四葉会」という、、、ピアノのお弟子さんの会の主催者だった。
収入も、サラリーマン以上で、自分の力で「グランドピアノも買っていた。」
アップライトも3台あった。
コンサートも開催しては、
母校から大学院生が参加してくれて、盛大な拍手とともに
盛会であった、
大きなお腹で、コンサートの花束を造りながら、
娘以上の絆で結ばれている、神が遣わされた多くの娘たちを観たとき、
私が居なくても、、、母は大丈夫だと、心から伝わってくるものがあった。
仕事オンリー、
自分オンリーの、、、当時の主人には
一言も、不平を言わなかった。
自分も外科医の妻として、
東京都の高校で教師をしながら
私の父が、、、若き日に
一人前の外科医になるために、
大学に残った夫を支えた日々が懐かしいと言った。
研修病院の門の前からの公衆電話にも
「手術中で忙しいとだけ、、、看護師さんから伝言だけいただいて
しょんぼり帰った若き日が 、、、思い出される出されると言った後で、
「人間はね、一人で生まれ、一人で死ぬのだからね、、、強くならないとね!」と、言った。
5月になって、、、ほとんど、
一年ぶりで、札幌に帰還することになったが
、結婚直後、アパートは、階下から火が出て
半分焦げたまま、建材を張り替えたので、
焦げ臭かった。火元の若夫婦はとうとう一度も現れないまま
階下から引越していったらしい。
消火で水浸しになった絨毯は、濡れたまま巻いてあったので、
タール状の煙がへばりついて、丸まったままだった。
5月の札幌は、ストーブが焚かれていて
はじめに、ストーブの防御サークルを買ってきた。
札幌に帰還した時は、
真ん前の薬局にお世話になりながら、
部屋の掃除から始めた。
決して、、、押しかけ女房ではなく、、、
私は、自分の役割に徹した。
主人の一方的な、
「自分も東京に、やがては帰りたい」という
博士号をとり、一人前の医師になって、
我が家を継ぐメンバーとして、母との話し合いでの
必要結婚だった。
次男として生まれた主人は
卒業と同時に親元からの仕送りがストップしてしまい
東京に足場となる居場所を確保するための
主人なりに、無給医時代を漏りきるための、知恵を絞った結果の
医師になっても、医師をする事の難しさの中で
苦肉の策の、
必要な結婚だった。、、、と、我が家全体は、彼を包み、
おなじ外科医として、心からの応援の心もあったはずである。
外科医の夫を54歳で亡くした母にとっても
次男で、やがては東京に帰ってくる希望のある主人は
実家の継続のためには、必要な人材だった。
それが、実現しようが、学閥で不可能になろうが、目前のわずかな可能性に
娘の結婚を重ねて、父の早逝の悲しみをそらす、、夢だったかもしれません。
戦後という、、、日本全国貧乏状態の復活国土の中で
主人は激流の中で、無給医という条件で、大学院を出るという
難問を、解いた。
沈まぬために流れていた小枝を掴んだような、、薬剤師の私だったが
彼の浮力を支えるだけの、総合力がアッ長である。
戦後の国民総貧乏な学生の例にもれず、、
賢く妥協して、本物を生み出す努力を惜しまない者が、生き残れる時代でもあった。
現在と違って、、、無給医の時代であった。
夢が実現して、、、やがては
母も、未来の外科医が、我が家に来てくれると信じていた、
娘の私も、50歳代で、、、未亡人になった母の心が大切だった。
母が気に入る人であれば、、、それでよかった。
主人も、音楽家の母を高く評価してくれていた、、、。
私は、、、主役に見えて、、、全てにおいて、脇役の結婚でした。
しかし、、、
脇役が、きわめて大切な人生ドラマの結婚であること、、、!
孤独な自覚があった。
点灯鬼になって、灯りを燈せるのなら
石の鬼にも成ろうと、思っていた。
長男が、、、日ごとに可愛くなり、
6か月を過ぎるころ、
主人は、、、父親になった自覚が出てきたようであった。
アパートには、、、
「ほくさんバスオール」という、小さなお風呂も自前でセットした。
大家さんには、、、出るとき無料で、寄付してゆきますからと
バスオールのセットの許可をもらった。
之で、、、
子供を連れて、銭湯に行かなくても、育児が出来ると、ほっとした。
戦後の貧困時代に、
サラリーマンの家庭の二男が
医師をするという事、、、
一人前の医師になるまでの難しさは
「生きる知恵があるか?、、、と、」
、、天からの試験問題を解く力にも似ていた。
主人は、愛とか恋とかは無縁の結婚をゲットして、
まっしぐらに、
自分を完成させることだけに専念した。
私が風疹で40度Cの熱を出して
育児が無理な状態の時でも
当直から三日も帰宅しなかった。
関節がガクガクになりながら、、、赤ちゃんを抱くとき、
この子には、早く風疹が移り、精子が健全な子になる事を
祈りながら、ほほ刷り寄せていた。
初めての給料が出た!!!
風疹でも還ってこなかった主人が
当直を忘れて帰ってきた。
「ママ!、、給料だよ!!!」
その喜びは、、半端なものではなかった。
大学での身分は「国家公務員〇号報」
、、、つまり、、、初めて助手になったときのことでした。
40歳になったころ、一人前の外科医として、
世間様に還元できるようになっていった。
経済的に苦しかったことが、意外な出会いを導き出してくれた。
サポートに回った私は、、、結婚生活を通して、
あの世まで持ってゆけるような財産には縁がなかったが、、、
子供を連れて、HBCラジオで、朝の番組のアナウンサーをしたり
UHBのテレビで
「かがたけし、、、さん」「ジュディオングさん」など
ゲストにお迎えして、
「フライデーおくさん」のアナウンサー司会をさせていただき
ジュディオングさんの、、、プロとしての優れた探究心と
如才なく、どんな人からも、学び取ろうとする謙虚な姿勢にふれて、
フアンになりました。
間もなく、、、ヒット曲が出ましたね、、、!ベールをまとって、、、
私の中で、、、お眠りなさい、、、と、、、
歌声は、響き渡りましたね。
、、、、連棟長屋に住みながら、
恵まれたアルバイトに没頭しました。
近所の教会の牧師さんの奥様が
子供を連れて、日本語の習得に、我が家を訪れては
一緒に料理をしました。
私は、あの難解な聖書がボロボロになって
ページが外れてくるまで、
彼女のおかげで、愛読しました。
苦しいとは、、感じる暇のない、、、戦いの日々の中で
武将が錦の兜を、、、袴を身に着けるように
私も、自分のスタイルを決めていました。
すっぴん、、、パンタロン、、、子連れ、、、の30歳代でした。
ボランティアで、キャンプに参加したり
世の中の、多くの集団の人々の、一生懸命生きている事も
キャンプを通して解りました。
*******************************
子供が大きくなり、主人も単身赴任していったのを機会に
40歳になって、薬剤師に社会復帰しました。
過労や長年のストレスや、戦時中の栄養不足が重なったのかもしれません。
大きな手術を受けました。
手術は最高の結果を出して成功しましたが
大学の講師の時代に、国立病院の医長として
臨床現場のチーム医療に専念することになりました。
主人が、単身赴任して、のびのびと独身同様の中で働くことに
新しい目標を見つけました・
++++++++++++私、、主婦に飽きていたこともあり
「鬼の居ぬ間に洗濯を、、、という、、、うがった考えは毛頭ありませんが、、、
自分が初めて、主体になれるときが来ました。
薬剤師は、ブランクがあっても、
日々、この日の為に、
知識を反芻して、講習会にも出席していたことが
認定されていましたので、、
割合に、スムースに、職場に復帰できました。
医師をする事の難しさや、
一人前の外科医になる事の困難さを
身近に観ていたせいもあり、、
くるしい、、、と思ったことはありませんでした。
医師の息子を育てることの緊張感、
医師をサポートする事の、相手に合わす大変さ、、
愛が邪魔ですらある科学への洗礼、、、
、、、、、、
子供を創るという、、、天の恵みを受け入れた以外は
私たちは、、、70歳にして
キスさえしたことのない、、、そんなムードが起きないような
早飯が芸の家のように、、、実質に追い掛け回された夫婦でした。
早い話が、精根尽き果てる忙しさの時間貧乏の中で
子作り以外の接点が有ったら、
休んで、、、爆睡したい二人でした。
合法的に、生き残る健康維持の余力の睡眠が先で
、、、つまるところ、、、結果としてセックスレス夫婦でした。
不満も、フラストレーションも、イライラも、、、
私の方はありませんでした。
主人の方は、、、激務が続いた事もあり、
結婚生活の、ノルマをかけないように、サポートしても
ギリギリの、健康状態で、、、
7時間、8時間とロングランの手術には、
へたばって帰ってくることも
珍しくありませんでした。
足がつる
方が張る
首がコル
、、、緊張の8時間の手術場での後は
術後管理の当直です。
ファロウ四徴症というのでしょうか?
心臓の手術に入っていた若き日は
週末帰宅出来ればよい方でした。
*****************************
もう一度、、生まれてきたら、、、
今度は女性が主役になれる結婚を選ぼうと思った。
とうとう、、、サポートの
便利屋で終わりつつある人生を振り返り、、、
私も、年賀状を書きたくなるような、
主役で、
又、私から年賀状を受け取って喜んでくれるような知人に囲まれ、
人から待たれる役をやろうと思う晩年です。
誰それの奥さん、、、誰ちゃんのママ、、、
固有名詞が消されたウムラウトになった日が
子供を産むという、、、伝家の宝刀を使える日になった。
男社会は、あらゆる権力が女性に集中することを
上手に避けて、分散している賢さの塊であるから、、、
長い者には巻かれて、権力は放棄して「愛情」を選んだ、
******************
********
医師にはサポートが必要だと、、、心から認識するのです。
主人の、年賀状文化を観ながら、
主役をやる事の大変さに、
好きこそものの上手と思える、、、職業選びが
世間様のお役に立っていることを感じた人生でした。
女性には、、、子供を生めるという
天与の恵みが無かったら、、、
私は、ステージで、役をもらえなかった役者のように
自分を訪ねて探し回り、、、私は何処にいるのでしょうか?、、と。
年賀状って、書く人は、人生劇場の役割をもらえた人の
読み合わせのような交流なんだと、、、思っていたかもしれません。
女性は、、、子育てこそ主役だと、、、
この年になって、
自分の役割が見えて気がするのです。
毎年来る、、、息子からの年賀状に、
自分の生きてきた跡を感じながら、
この一枚だけは、、、宝物のメッセージになっています。
今回は、、、自分の為に書き綴った
自分の為の日記になってしまいました。
お父さん、、、54歳で、飛翔したお父さん、、、
医者って、、、その職業が好きでないと、、、
勤まりませんよね、、、
そちらの世界は、、、休めますか?
お父さんにだけは、、年賀状を送りたい。