花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

目覚めてほしい、、、今度戦争が始まったら、地球は終わりだ!

2017-11-28 22:30:04 | Weblog

ロック冒険記、、、実に70年近く前、、、たんかい  という雑誌で読み始めた。

ヒゲ親父、御茶ノ水博士、ランプ、  ロック、、

やがて、月世界旅行、、、頭ばかり大きな宇宙人の登場。

いつしか、、鉄腕アトム。。。

人間よりも優れた人工知能のアトムは、、、、涙が出ない。

アトムの時代に、、、息子たちは育った。

息子たちも、手塚漫画で育っていった。

宇宙戦艦ヤマト、

スターウォーズ

ロボット戦争。

今や、人間よりも優れたバランス感覚のロボットの出現。

放射線の中をロボット兵士は突き進む。

人工知能に命令された指先が

地球の壊滅のボタンを押すだろう。

猿の惑星で、自由の女神が土に埋もれて、

此処は地球なんだと、、、叫ぶのは

一握りの、、、生き残った、、、ノアの方舟の命だけ。

地球は、、、又、、、何億年もかけて、放射能や、

人工元素の中性子を周期律表の中にはめ込むまで

元素の秩序も連鎖的に太陽系のバランスを壊すかもしれない。

「戦争をしない心」、、、世界に必要なのは、この一点に集約。

戦争で、支配者は生まれない。

戦争で、今度は、地球が住めない星になる。

欲は恐ろしいと思います。

地球という、宇宙のバランスの中の、稀有なる命の星を

科学で、何億年単位の未来にしかありえないという

人工元素の核爆発で、住めない地球にしても良いと言うのだろうか?

明日は、ガラケーを、、、I-フオンに買い換えて

科学の世界になってゆく時代に、心や、霊性や、弟六勘 、第七感、、

そして、天与のインスピレーションで生きてきた時代を終わらせ

科学の舟で、時代とともに流れて行くことにしよう。

人は、、、時代に遅れないためにと言うが、、、

時代を受け入れるという事は、

天与の

大自然からの

見えない波長の

受容体である皮膚の細胞の表面の

精神の集中で作り出す

セグメントのような受容体の感度に

蓋をしてしまう事だ。。。。と。。。そのようなひらめきがよぎる。

五感を、最大限に働かせて、

ドコモ、ソフトバンク、グー、、などからの配信の僕となって

地球全員が、、、

羊飼いに飼いならされた頭脳集団の家畜になる事かもしれない。

形は違うが、茶の間の炬燵に入って、TVを観ている世界の

次世代バージョンが、情報社会と思えてくる。

人間は、人間に戻って、

科学や、人工知能や、情報の、条件を、スーパーP、Cによって

次世代パソコンまで創り上げてしまった今日!

人工知能が学習しながら、データーの世界を完璧に泳ぎ渡るかもしれないが

2進法が考える東京には、

感性と、人類の歴史と、国民のみならず

世界の平和を願う、象徴の心あるゾーンと、

国民が正月にこぞって参拝する、明治神宮と

その国民の止まり木になっているここかしこのホテルが、

やっとの思いで、緑豊かな植物の生い茂る「命の深呼吸のゾーン」を

保つのみの、デジタルな発達を見せている。

しかし、ビルディングになじみの薄かった

昭和生まれの私たちの感性とは別に、、、

都心のマンションで生まれ、都心のコンクリートの感触が子守唄だった新人類は

都心から離れて里山に向かうローカル線の中で

山々の間を縫って走る車窓の風景が、

「千と千尋の神隠し」の漫画映画に出てくる

ガードの向こうの世界に吸い込まれてゆくようで

森も山も、怖いという。

碧多き田園地帯に吸い込まれてしまい、居場所が見つからないともいう。

旅行ならまだよい、

転勤は、孤独な異次元に囲まれるようで、吸い込まれてしまうという。

人工知能が「正しい」と出してくるデーターの上に

人間の決定を駆使してゆく「正しい設計が、、、」

関東平野を人工都市に発展させていったのだろうか?

エデンの園の天与の価値観が隅に追いやられ

コンクリートジャングルを友と感じることのできない者たちは

都心を離れて、時代の光が通過するのを待って

各駅停車で、故郷を次代へと、繫げてゆく。

人工知能の世界も、ロボット戦争の世界も、

人工元素の核爆発エネルギーの時代も

もう、、、後戻りができない。

時代の先生が正解と認めてゆくのが、、、怖い。

 

最後の天才が狂気の指で、地球を破壊するのを、

誰が、、制御できるというのだろうか?

核戦争にならないように、今、世界は、結束して

体温のある文化の尊さを守ってゆくべき結束してほしい。

一国の欲で、地球を滅ぼさないでほしいと、、、

73歳の人生から、未来の若者に、伝えられたらと、、、

せめて、今日の日記には、

宇宙の神様が平和を下さる事を祈っています。

バランスの神様、、、穏やかなロンダリングで、エデンの園よ、、再び。


年賀状の 準備

2017-11-25 23:57:53 | Weblog

 

結婚以来、年賀状は、いただいた方に

FAXで、お礼を書いてきました。

雪掻きとかさなり、かえって、冬のあわただしさを増すからです。

70歳過ぎてから、さっぱり、。

今日も、雪かきをしながら、

年賀状を配達する方の正月は、どうなっているんだろう~~~と、

われとわが身に置き換えて、

日本の正月にかける、

それぞれの役割の大変さと、頑張りを想像する。

主人は仕事上、、、

こまめに賀状をしたためる方だと思います。

毎日のように入る、、、

[喪中につき、賀状は御遠慮します、、、]という葉書。

皆、

親を亡くされる年に入っている。

親しい知人が、

春には,,,母上を無くされて、寂しいと、

。、、喪中のはがきで、その悲しみを知った。

80歳過ぎての大往生なので、

寂しさはしばらくは続くでしょうが、

子供より、

一足先に、

一足飛びに光のもとへ飛翔した母とは

又、天界で、会えると思うと、

この世の老後の大変な具体的な諸々を

卒業で来てよかったとも思います。

 

私も、やがてはやってくる

「この世の卒業式の為に!」

1000円のフクロウのアクセサリーの収集を、、、そろそろやめようと、、、

丁寧に、お菓子の箱に、テープで固定して、片づけた。

暖簾いくっつけてあった、

フクロウや、

鳥や、

トンボや

昆虫や、

魚や

竜のおとしごの、、、1000円ブローチは、

大いなる業界の中の、、、自分を見ているようで

ブローチなのに、、、なぜか、、、、いとおしい。

 

認定薬剤師の講習会が某ホテルの地下で在ったため

ロビーのワゴンのショップで、気に入ると買って、

その日の講習内容を、関連して、記憶にとどめ、

ブローチを観ると、

講師の

力を入れていたスライドを思い出していた。

 

そのブローチも、、、、73歳になると、役割も卒業になった。

73歳の、薬剤師は、なかなか、、、仕事をするのは難しい。

家庭と、仕事の両立のスタミナが不足してくる。

 

これからは、、、主人が惚けないように、

仕事のサポートは、

未来の、介護を先送りできる。

 

仕事が医師だけに、

ボケは全くないが、多分、、、仕事を辞めると、、、

生きがいが、仕事だけに、

急転直下、惚けはじめるかもしれない。

 

サポートは、そういう意味でも、

社会に還元できている今を!、

一日でも多くして、

働いている限り、、、

患者さんが待っているという責任感の緊張が

惚けるのを防いでくれている。

 

300通は今年も書くだろう年賀状の束を、

整理しながら、、、年ごとに喪中が増える葉書が哀しい。

 

喪中のはがきを選り分けてゆく。

、、、、、、、

人間は、名誉も、技術も、お金も、愛蔵品も、、、

持っては死ねない。

 

教えてくれたのは祖父だった。

あすありと、、思うな、、桜の花も、、、夜中に嵐があるかもしれないと、、、、

 

13歳まで 、疎開地で、、、、

戦争で家族を亡くして、PTSD?心の癒えない患者さんが

にわかに、、、町をつくりあげた時代だった。

七か村の唯一の医師だった父のもとに

ひねもす運ばれてくる、患者さんの死を観ながら

人は、「死と隣り合わせの生」が

いとおしいと、、、思って育ってきた。

 

4歳の時、

祖父に連れられて」、高野山に行った事があった。

祖父は、、、

人は死んだら、この山の樹となり、川となり、大地となって

生きて行く者たちを、助けるのだよ、、、と、

笑いながら言った。

一枚の、素焼きの皿を渡してくれた。

「投げてごらん、、、」

私は、、、小さな手で、思いっきり皿を投げた。

皿は、目の前の藪に引っかかった。

「まだまだ、、、生きねばのう、、、」、、、

にこやかに笑った笑顔が忘れられない。

私は、、、運がいいと思った、

お爺ちゃんを尊敬していたから、、、

お爺ちゃんだけは死なないと思っていた。

80歳を過ぎて、、、私の長男がヨチヨチ歩くころ、、、

爺ちゃんは居なくなった。

若き頃、アメリカで過ごした爺ちゃんは

いつも、、、三つ揃えの正装をして

内ポケットに、お気に入りの銀の懐中時計を持っていた。

学校の校長先生やら、

町長さんやら、(頼まれて引き受けたという)

何やら、、、かんやら、、、世話役をしていた祖父は

晩年も、年賀状が積み上がっていた。

 

筆で、一枚一枚、時間をかけて、書いていた。

遠友とは、、、ありがたい存在だ、、、と。

 

80歳過ぎてからは、

母の弟の家(叔父さんの家)に行ってしまった。

寝たきりになった爺ちゃんを訪ねて

幼い長男を連れて会いに行った。

 

長男が、爺ちゃんを観て泣き出した。

 

私は、、、なんで泣き出したのかわからないまま

長男をあやしていたら、

 

「私の体から出るオーラーが怖いのだろう、、、」

 

「おーよしよし、、、爺ちゃんは後ろを向いて居ようかの、、、」

爺ちゃんは、息子に背を向けた。

 

息子は泣き止んで、、、

しゃっくりをしながら落ち着いてきた。

、、、、、、、複雑な気持ちだった、、、。

 

「おじいちゃん、、、かえって気を使ってもらって、、、ごめんね!」

私は、二階の、爺ちゃんの寝間から、息子を外に連れ出した。

その夏、、、

留萌の寿町の病院に出張の主人について、

病院脇の宿舎に移動していた。

海辺が、、、赤く染まり、、、真っ赤な空が燃え始めた、、、

「おじいちゃんが、、、おじいちゃんが、、、死んだ!」

私は叫んだ、、、おじいちゃん!お爺ちゃん!、、、オジイチャン、、、

さようなら、、、!!!!!!

その夜、宿舎に電報が来た。

 

冬になると、宿舎は、シベリアの抑留所の話を連想させる寒さである。

シベリアに抑留されt叔父さんが

トイレにはトンカチがおいてあったと言った話を思い出した。

何処にも、宿舎には水洗トイレが無かった、

トイレは町のミニデパートで買い物ついでに済ませた。

風呂は、煙突が壊れていた。

 一間だけの共同住宅に、共同の台所がある。

お米を研いでいると、居眠りから目覚めた当番の出番のドクターが

ウガイを師にやってくる。

洗いかけのコメを持って、一時的に部屋に戻る。

足音が消えた頃、又、、続きの炊事に戻る。

数人の医師達が出張の間、泊まっていた。

暮れの忘年会シーズンには

食堂に酔いつぶれたスタッフが、

水分でしけったかび臭い蒲団にくるまって

転寝してしまっていた。

 ワイヤーの出ているボロの椅子が一つ、

アンテナのない白黒テレビが

スイッチを入れると、雑音のあるかすれた音で、、、

画面に雨を降らせたような映像が見えた。

何の画面なのか?、、、判定は難しいが、、、

都はるみの「北の宿から」の歌が、、、

途切れ、、、途切れ、、、聞こえたが、

若き日の、、恋を思い出すような、、、

生ぬるい環境ではなかった。

 

生きねば、、、と。

雪の降りこんでくる廊下を長靴を履いて、米を焚いた。

水道は、水を使うたびに、、、地下まで落とさないと

5分で水道管が凍り付いた。

娯楽も、一冊の雑誌もなかった。

聞き苦しいので、テレビは之っきりであった。

備え付けの蒲団は、、

すが漏れの水を吸って、、、

しずくが落ちるほど、、、湿気がひどくて

マイナス20度の寒さの中で、

ストーブで温めている部屋なのに

シャーベットになっていた。

 

長男が生まれる前、スキーヤッケで過ごしていたが、、、

寒さで、、、万年、、、膀胱炎であった。

サワシリンは、折に触れて、飲んでいた。

抗生剤の連用は避けねば、、、と思いながらも

腎盂腎炎になるのが怖かった。

スキーヤッケを着て、毛布をかぶって、ストーブのそばで

編み物をして過ごした。

新婚間もないころ。。。

私はここで、流産をした。

雪の中を。一人で這いながら、病院にたどり着いた。

婦人科の先生は、

外科医としての研修中なのはわかるが、

前の日の夜から、

陣痛を訴えている妻を、考えに入れる余裕のなさが

外科の研修医の哀しさだったかもしれない。

現場で手術の助手に入る事の責任で、

陣痛で唸っている妻に、

手術のイメージトレーニングの邪魔だと

癇癪を起しながら、明日の手術にまっしぐらな様子だった。

もしも流産したら、、どうしよう、、?と

不安をほのめかしても、

お産なんて自然現象で、病気じゃないから、

心配し過ぎると、

明日の手術の準備の邪魔だから、、、と、

学べることの機会を逃すまいと、、、

私の事は上の空で聞いていた。

大きな外科の医局では

ノイヘレンの主人に、こー引き以外の役は無かった。

このままでは、、、外科医になれない、、、主人は焦っていた。

主人が出かけた後、渋るような腹痛が襲ってきた。

腹痛が止んでる間に、雪の中を這って、

私は自力で病院に着いた。

流産が終わって、処置が済んでから、

産婦人科の先生は、手術の研修中の主人に

院内電話を入れてくれた、

緊急の処置が終わりましたので、

奥さんを迎えに来てあげてください、、、と。

主人は、目下、指導を受けている最中なので

手が離せませんので、一人で、待合室で待つか、

還れるようなら、寮は近いので、返してください、、、と

研修の技術取得以外は眼中にないと言う返事だった。

産婦人科の先生は、多少、怒ったような表情であった。

切迫流産だったら大変だったんだよ、、、正常だったから良かったが、、

「いくら、医師として、技術の取得のチャンスに全力を尽くすとはいえ、

陣痛が始まっている伴侶の危険を察知できないのは

鈍感すぎる。

早朝に、腹痛を訴える伴侶の言葉も上の空で

自分の研修に出かけてしまうのは、

医師としての、技術の取得に夢中なのはさておき

自分の事を考える前に、

、「命の危うさに気が付くべき」だと、

「医師の基本を、教えるから!、、」と。

「先生が、仕事を終わって、奥さんを迎えに来て、一緒に還るのでなければ

私は、当直室で、奥さんをお預かりしていますから、仕事が一段落したら

必ず、迎えに来て下さい」、、、

自分の娘の流産でもあるかのように、、、怒っていた。

私は、深夜になるまで、当直室に於いていただき、

主人の帰宅に合わせて、

冷え切った寮の一室に戻った。

そして、、、今度ばかりは、南国育ちの私ごときが

留萌の冬に順応できると思った甘さを思い知った。

、、、、別れよう、、、、

彼が一人前になって、我が家の外科医に入ってくれるまで

私自身が持たない。、、、愛のないそろばん結婚は自業自得だった。

子は鎹というけれど、、、、天は、お産は無理ですよ、、、と

判決を下したのだ。

子供は「愛の結晶」と言うではないか!

まず、愛情の芽を育てねば、、、無理がある!

体調が、、、少し戻って、

私は、、、東京の実家に、、、寒さから逃げて帰った。

2月でも、セーター2枚で、、、ほくほくとあたたかな

小春日和だった。

高校時代の親友たちがやってきて、

今からでも遅くないから、、、我ら独身グループに戻っておいでよ!

大学卒業させてもらっているんだから!

ぬかみそ女房以下の生活をすることはないよ!

「結婚生活3か月の忘年会」に皆でハワイに行こうよ、

成田離婚だってあるのだから、、、なんてことないわよ、

しっかり立ち直れるって!!!、、、

誰も、北に還れとは言わなかった。

私は、、、悩んだ、、、

その時、主人の母上から、電話が入った。

「留萌には、隣の家があるのでしょう?

病院だってあるし、

女性たちは、そこで子供を産み育て、生活しているのでしょう?!」

「ハイ、、寒いところですが、人は住んでいます。」

「あなたは、医者のお嬢ちゃんとして、甘やかされて育ったから、

自分を守る事も出来ない、、、お荷物になってしまったのよ。」

「いいえ、、、甘えではなくて、留萌の女性は、すでに寒冷地に対応した

皮膚の構造そのものが違うようです。」

「あなただって、きっとそのうち慣れてきますよ。」

「なれるとは思えませんので、このまましばらく東京に居ます。」

「私の子に離婚歴を付けないでください。あなたのわがままで、、

未来をダメにしないでください、、」、、、怒っていた。

確かに、、、私が甘かった。

そして、私は、、病院に通院しながら、健康の回復に専念した。

母は、「北海道に嫁にやった事は、、、間違いだった。」

母も一緒に悩んだ日々であった。

春になって、身体も回復したころ、

主人から、一通の封書が届いた。

「自分の研修で体得した成果。大学に戻ってからの、尊敬する先輩医師とともに

切断された腕の血管をすべて繋ぎ合わせ、

農機具で、片腕になったかもしれない人の腕をすくえた、、、、

その先輩の、血管をつなぐ技術には、外科医としての誇りを感じた、、、

、、、、、、

とにかく、自分の事しか書いていなかった。

流産に対する配慮の無さなども、、、一行も無い!」

完全無欠の「医者バカである。」

医師としての

「自分の居場所となる、俺にしかできない技術取得の頭しかないと思われる。」

とんでもない、、タイプの「俺、俺、、」と出逢ってしまっていたのだった。

一生かかっても、対話にならないと思った。

一度失敗した子供の出産を、あきらめないで

再度挑戦して、お産に成功すれば、

父親としての自覚から、「愛情」や、愛しきものを守ろうとする本能を

引き出せるかもしれない、、、。

ひどい目にあったからと、、、すぐ離婚というのは早計かもしれない。

別れるのはいつでもできる、、、、

傷物の、バツイチになるのは、、、、もう一回しっぱいしてからでも遅くはない。

ある種の「俺しか愛せない愛情音痴に、父親の愛を芽生えさせたら、

全ては、改良するきっかけになるかもしれない、、、

途中放棄は、、、登山でいえば、一人下山である。

結婚という事自体、登山と一緒なのだから、

片方が、片方を頼ったら、ザイルにつながれて居るだけに

共倒れである。

たっぷり実家にァ世話になって、

初夏の木漏れ日のさざ波の中を、

リニュアルした心で、札幌の、焦げ臭い、火事の臭いの残る

木賃アパートに戻ってきた。

夜中に実験用の白衣を着たまま帰宅して、

事件の意義の深さを喋りながら、

ご飯をかっ込むと、

白衣の腰のあたりで手を拭きながら

大学にもどっていった .

自分しか見えない早足で大学に戻る主人に

「白衣ぐらい汚いものはないから、、、明日は白衣で』帰ってこないでね!、、、」

「。。。。。。?」

聞いているのかいないのか、、、?

「30年、、、文化の遅れた未開国に北津守で、、、

まず、父親という、、、自分以外の愛に目覚めてもらわなければ

話が見えない、、、受験制度のひずみの中で、

価値観そのものが、、、偏ってしまっている、、、。」

私も、今までとは根性を入れ替えて、

大学で取得した高校教員、中学教員の免許書を引き出して

しばらく、、、どうしてやろうか?、、、睨んでいた。

地味な先生根性で、

「偏った価値観しか見えない点取り虫」の新米外科医の卵先生と

対決する結婚生活に再度チャレンジし始めたのでした。」

次の年に」

長男が、、、お腹の中に居ると知った日に

私は、東京の実家に帰った。

今度は、、、ゼッタイに、、、失敗は許されない里帰りをした。

実家を手伝いながら、居候をして、、、

兄の世話で、

日大病院に通い

時には、研修医の学用患者の役を頼まれながら

一年近く、主人とは別居した、

まだ駆け出しの

循環器外科の勉強中の主人は

妻子がいない方が、

仕事に専念できたと言っていた。

 

独身気分のまま、、自分の事で精一杯の主人は、消息不明のように

連絡が無かった。

全ては、、、父親にならないと、自分以外の他者を愛するというのは

けん玉の「世界一周」より訓練が難しいと思われたから、

私からも、梨のつぶての数か月が過ぎた。

主人はその頃、独身に戻った自由さで

激務の名に於いて、妻を振り返る時間がないことを、

自分の世界だけで納得して、

目の前の、医師としての熟練の腕に向かって、

先輩や、仲間から、技術を授かるためにも、、、

「御意!???」だったのかもしれません。

 

正月になっても、

東京の妻には年賀状も届かなかった。

近所の人は、、、私の事を、、、出戻りだと思っていた

盆暮れの妊娠妻の一切の配慮は無かった。

仕送りもなかった。

私も手紙は書かなかった。

兄は、文句も言いたかったのだろうが、、、

一切、主人の事には触れなかった。

「母と、妊娠の期間を過ごせるのは、ラキーな事だから

一生分、親孝行して行きなさい。」、、、

「本来なら、筋違いの滞在だが、母の為には、天のめぐみだよ。」

苦笑いをして、兄嫁のお古のセーターを着替えにとおいて行った。

父からの時代から、職員だった看護婦さんが、

近所の、兄の知り合いの病院の院長さんと結婚した。

兄は、これからは、彼女の事を名前で呼ばないで

「奥様と呼ぶように、、、」と、

名前で呼び合ってふざけていると、

注意に来た。

私は、、、結婚している自分を意識することが少なくなった。

腹だけが大きくなり、長男がなかから、蹴っ飛ばしてきて

「いるぞ、、居るぞ!、、と、、対話を仕掛けてきた。」

電話も一度もしなかった。

又、かかても来なかった。

それほど、、、留萌は遠かった。

 

2月の厳寒期に、、、長男は産声を上げた。

留萌での出産は、私には無理だったと思うと、

実家には、、、感謝をしても、、、仕切れない。

夫も居ない。夫の家族も居ない、

母が、兄が、実家の家族が、

我が家の子供が生まれるかのように

世話をしてくれました。

 

長男が生まれてから、、、一日たって、

主人が上京してくれました。

 

主治医に、名刺を差し出して、

初めて挨拶を交わすと

主治医の驚いたような言葉があった。

「ご主人は医師だったのですね!

どうして、、それを先にいってくれなかったのですか?」

、、、、、、、、、。

答えようがありませんでした。

ご主人が医師と知っていたら、、、学用患者さんの

役は、他の人に頼めたのに、、、と、恐縮していたが

「兄の卒業大学で、学用に役立てていただき、こちらこそ

お役にたてて、嬉しいです。」と、、、本心で答えた。

医師と医師の間には、その奥さんにも、、、忖度があるのかもしれませんね。

出産してから、息子は母のお気に入りの孫であり

母を幸せにしているのが、伝わってきました。

産んでよかった!

「さ、、ぁ、!、、、、、お父様に、あなたを愛する事の気持ちを呼び覚ますのよ!」

私は、息子に、毎日話しかけながら、

「愛する事」を、お父様に教えるのは、あなたですよ!

私は、男女の愛などなくていいと思った。

家族を自分の分身と気が付いてくれて、

自分以外の話題が「幸せだと思える時間になってくれれば、、、」

医師以外の時間が、人間として、普通の喜びがあればいいと思っていた。

 

大学院生の主人からは、、、仕送りもない。

逆に、母からは

「出世払いでよいから、、、」と

生活費も、通院費、衣食すべてを、、、面倒見てもらった。

母は、「四葉会」という、、、ピアノのお弟子さんの会の主催者だった。

収入も、サラリーマン以上で、自分の力で「グランドピアノも買っていた。」

アップライトも3台あった。

コンサートも開催しては、

母校から大学院生が参加してくれて、盛大な拍手とともに

盛会であった、

大きなお腹で、コンサートの花束を造りながら、

娘以上の絆で結ばれている、神が遣わされた多くの娘たちを観たとき、

私が居なくても、、、母は大丈夫だと、心から伝わってくるものがあった。

 

仕事オンリー、

自分オンリーの、、、当時の主人には

一言も、不平を言わなかった。

自分も外科医の妻として、

 

東京都の高校で教師をしながら

私の父が、、、若き日に

一人前の外科医になるために、

大学に残った夫を支えた日々が懐かしいと言った。

 

研修病院の門の前からの公衆電話にも

「手術中で忙しいとだけ、、、看護師さんから伝言だけいただいて

しょんぼり帰った若き日が 、、、思い出される出されると言った後で、

「人間はね、一人で生まれ、一人で死ぬのだからね、、、強くならないとね!」と、言った。

 

5月になって、、、ほとんど、

一年ぶりで、札幌に帰還することになったが

 

、結婚直後、アパートは、階下から火が出て

半分焦げたまま、建材を張り替えたので、

焦げ臭かった。火元の若夫婦はとうとう一度も現れないまま

階下から引越していったらしい。

 

消火で水浸しになった絨毯は、濡れたまま巻いてあったので、

タール状の煙がへばりついて、丸まったままだった。

5月の札幌は、ストーブが焚かれていて

はじめに、ストーブの防御サークルを買ってきた。

 

札幌に帰還した時は、

真ん前の薬局にお世話になりながら、

部屋の掃除から始めた。

 

決して、、、押しかけ女房ではなく、、、

私は、自分の役割に徹した。

 

主人の一方的な、

「自分も東京に、やがては帰りたい」という

博士号をとり、一人前の医師になって、

我が家を継ぐメンバーとして、母との話し合いでの

必要結婚だった。

次男として生まれた主人は

卒業と同時に親元からの仕送りがストップしてしまい

東京に足場となる居場所を確保するための

主人なりに、無給医時代を漏りきるための、知恵を絞った結果の

医師になっても、医師をする事の難しさの中で

苦肉の策の、

必要な結婚だった。、、、と、我が家全体は、彼を包み、

おなじ外科医として、心からの応援の心もあったはずである。

 

外科医の夫を54歳で亡くした母にとっても

次男で、やがては東京に帰ってくる希望のある主人は

実家の継続のためには、必要な人材だった。

それが、実現しようが、学閥で不可能になろうが、目前のわずかな可能性に

娘の結婚を重ねて、父の早逝の悲しみをそらす、、夢だったかもしれません。

 

戦後という、、、日本全国貧乏状態の復活国土の中で

主人は激流の中で、無給医という条件で、大学院を出るという

難問を、解いた。

 

沈まぬために流れていた小枝を掴んだような、、薬剤師の私だったが

彼の浮力を支えるだけの、総合力がアッ長である。

戦後の国民総貧乏な学生の例にもれず、、

賢く妥協して、本物を生み出す努力を惜しまない者が、生き残れる時代でもあった。

現在と違って、、、無給医の時代であった。

夢が実現して、、、やがては 

母も、未来の外科医が、我が家に来てくれると信じていた、

娘の私も、50歳代で、、、未亡人になった母の心が大切だった。

母が気に入る人であれば、、、それでよかった。

主人も、音楽家の母を高く評価してくれていた、、、。

 

私は、、、主役に見えて、、、全てにおいて、脇役の結婚でした。

しかし、、、

脇役が、きわめて大切な人生ドラマの結婚であること、、、!

孤独な自覚があった。

 

点灯鬼になって、灯りを燈せるのなら

石の鬼にも成ろうと、思っていた。

長男が、、、日ごとに可愛くなり、

6か月を過ぎるころ、

主人は、、、父親になった自覚が出てきたようであった。

 

アパートには、、、

「ほくさんバスオール」という、小さなお風呂も自前でセットした。

大家さんには、、、出るとき無料で、寄付してゆきますからと

バスオールのセットの許可をもらった。

之で、、、

子供を連れて、銭湯に行かなくても、育児が出来ると、ほっとした。

戦後の貧困時代に、

サラリーマンの家庭の二男が

医師をするという事、、、

一人前の医師になるまでの難しさは

 

「生きる知恵があるか?、、、と、」

 

、、天からの試験問題を解く力にも似ていた。

 

主人は、愛とか恋とかは無縁の結婚をゲットして、

まっしぐらに、

自分を完成させることだけに専念した。

私が風疹で40度Cの熱を出して

育児が無理な状態の時でも

当直から三日も帰宅しなかった。

関節がガクガクになりながら、、、赤ちゃんを抱くとき、

この子には、早く風疹が移り、精子が健全な子になる事を

祈りながら、ほほ刷り寄せていた。

初めての給料が出た!!!

風疹でも還ってこなかった主人が

当直を忘れて帰ってきた。

「ママ!、、給料だよ!!!」

その喜びは、、半端なものではなかった。

大学での身分は「国家公務員〇号報」

、、、つまり、、、初めて助手になったときのことでした。

 

40歳になったころ、一人前の外科医として、

世間様に還元できるようになっていった。

 経済的に苦しかったことが、意外な出会いを導き出してくれた。

サポートに回った私は、、、結婚生活を通して、

あの世まで持ってゆけるような財産には縁がなかったが、、、

子供を連れて、HBCラジオで、朝の番組のアナウンサーをしたり

UHBのテレビで

「かがたけし、、、さん」「ジュディオングさん」など

ゲストにお迎えして、

「フライデーおくさん」のアナウンサー司会をさせていただき

ジュディオングさんの、、、プロとしての優れた探究心と

如才なく、どんな人からも、学び取ろうとする謙虚な姿勢にふれて、

フアンになりました。

間もなく、、、ヒット曲が出ましたね、、、!ベールをまとって、、、

私の中で、、、お眠りなさい、、、と、、、

歌声は、響き渡りましたね。

、、、、連棟長屋に住みながら、

恵まれたアルバイトに没頭しました。

近所の教会の牧師さんの奥様が

子供を連れて、日本語の習得に、我が家を訪れては

一緒に料理をしました。

私は、あの難解な聖書がボロボロになって

ページが外れてくるまで、

彼女のおかげで、愛読しました。

苦しいとは、、感じる暇のない、、、戦いの日々の中で

武将が錦の兜を、、、袴を身に着けるように

私も、自分のスタイルを決めていました。

すっぴん、、、パンタロン、、、子連れ、、、の30歳代でした。

ボランティアで、キャンプに参加したり

世の中の、多くの集団の人々の、一生懸命生きている事も

キャンプを通して解りました。

*******************************

子供が大きくなり、主人も単身赴任していったのを機会に

40歳になって、薬剤師に社会復帰しました。

過労や長年のストレスや、戦時中の栄養不足が重なったのかもしれません。

大きな手術を受けました。

手術は最高の結果を出して成功しましたが

大学の講師の時代に、国立病院の医長として

臨床現場のチーム医療に専念することになりました。

主人が、単身赴任して、のびのびと独身同様の中で働くことに

新しい目標を見つけました・

++++++++++++私、、主婦に飽きていたこともあり

「鬼の居ぬ間に洗濯を、、、という、、、うがった考えは毛頭ありませんが、、、

自分が初めて、主体になれるときが来ました。

薬剤師は、ブランクがあっても、

日々、この日の為に、

知識を反芻して、講習会にも出席していたことが

認定されていましたので、、

割合に、スムースに、職場に復帰できました。

 

医師をする事の難しさや、

一人前の外科医になる事の困難さを

身近に観ていたせいもあり、、

くるしい、、、と思ったことはありませんでした。

 

医師の息子を育てることの緊張感、

医師をサポートする事の、相手に合わす大変さ、、

愛が邪魔ですらある科学への洗礼、、、

、、、、、、

子供を創るという、、、天の恵みを受け入れた以外は

私たちは、、、70歳にして

キスさえしたことのない、、、そんなムードが起きないような

早飯が芸の家のように、、、実質に追い掛け回された夫婦でした。

早い話が、精根尽き果てる忙しさの時間貧乏の中で

子作り以外の接点が有ったら、

休んで、、、爆睡したい二人でした。

合法的に、生き残る健康維持の余力の睡眠が先で

、、、つまるところ、、、結果としてセックスレス夫婦でした。

不満も、フラストレーションも、イライラも、、、

私の方はありませんでした。

主人の方は、、、激務が続いた事もあり、

結婚生活の、ノルマをかけないように、サポートしても

ギリギリの、健康状態で、、、

7時間、8時間とロングランの手術には、

へたばって帰ってくることも

珍しくありませんでした。

足がつる

方が張る

首がコル

、、、緊張の8時間の手術場での後は

術後管理の当直です。

ファロウ四徴症というのでしょうか?

心臓の手術に入っていた若き日は

週末帰宅出来ればよい方でした。

*****************************

もう一度、、生まれてきたら、、、

今度は女性が主役になれる結婚を選ぼうと思った。

とうとう、、、サポートの

便利屋で終わりつつある人生を振り返り、、、

私も、年賀状を書きたくなるような、

主役で、

又、私から年賀状を受け取って喜んでくれるような知人に囲まれ、

人から待たれる役をやろうと思う晩年です。

誰それの奥さん、、、誰ちゃんのママ、、、

固有名詞が消されたウムラウトになった日が

子供を産むという、、、伝家の宝刀を使える日になった。

男社会は、あらゆる権力が女性に集中することを

上手に避けて、分散している賢さの塊であるから、、、

長い者には巻かれて、権力は放棄して「愛情」を選んだ、

******************

********

医師にはサポートが必要だと、、、心から認識するのです。

主人の、年賀状文化を観ながら、

主役をやる事の大変さに、

好きこそものの上手と思える、、、職業選びが

世間様のお役に立っていることを感じた人生でした。

女性には、、、子供を生めるという

天与の恵みが無かったら、、、

私は、ステージで、役をもらえなかった役者のように

自分を訪ねて探し回り、、、私は何処にいるのでしょうか?、、と。

 

年賀状って、書く人は、人生劇場の役割をもらえた人の

読み合わせのような交流なんだと、、、思っていたかもしれません。

女性は、、、子育てこそ主役だと、、、

この年になって、

自分の役割が見えて気がするのです。

 

毎年来る、、、息子からの年賀状に、

自分の生きてきた跡を感じながら、

この一枚だけは、、、宝物のメッセージになっています。

 

今回は、、、自分の為に書き綴った

自分の為の日記になってしまいました。

お父さん、、、54歳で、飛翔したお父さん、、、

医者って、、、その職業が好きでないと、、、

勤まりませんよね、、、

そちらの世界は、、、休めますか?

お父さんにだけは、、年賀状を送りたい。


四季

2017-11-21 03:49:12 | Weblog

18日、最後の一本、庭木の雪囲いを終えて

2か月前予約の格安航空便で

三島の400メートルあるという吊り橋に出かけた。

19日は、

天気予報とは大きく違い、

11月とは思えない良い天気!

三島の吊り橋を渡って、

展望台に登った。

三保の松原から、

晴れ渡った山並みは、

伊豆の海から沼図の街

愛鷹山~~~くっきりと見えるのに

富士山の周りだけ、、雲がかかって、、、見えないのだ!

 

札幌から、

募る思いで、

雪をまとった富士山を見に来たのよ。

雲よ、

その幕を開けて、富士山と話をさせておくれ、、、!!

心で願っていると、

少しずつ、すそ野を見せてくれました。

そして、その日の札幌は大雪!

*******ここはおなじ日本なのか?***************

20日に雪が氷になり始めた、、、

-2度の札幌に還ってきた。

いつもは空港の前からバスに乗ると、

我が家の近くで降車する。

でも、、、この日は、

JRで札幌駅に向かい、地下鉄で最寄駅まで来た。

風邪ひきの予防と、

スッテンころりんの骨折の用心の為に、

駅前からタクシーで帰ってきた。

「雪掻きはじめ」を覚悟して、憂鬱な帰路であったが、、

何と、、、、!!!!!

我が家の門まで、タクシーが来れた。

 

其処には、小さな雪だるまが造ってあり、

一番下の小学校の孫が

一生懸命、

雪かきをしてくれていたのだった。

 

門の階段も、

除雪のあまり入らない、前の道路も、家の横も

きれいに雪をどかして、路肩に積み上げ、

愛が、、、出迎えてくれました。

三島の空に負けない、、あたたかな北海道に感激したのでした。

ありがとう、、、嬉しかった!

小さな雪だるまを、

言葉の代わりに造っていった、、、末っ子の孫!

三島と札幌の四季の違いは、

回転舞台の一日となって、

孫の、、、思い

真っ白な一生懸命の幼い元気な心に

、、、この年になって、、、

   感激させられた、、、、

11月の大雪は、忘れられない、

心があたたかな一日でした。

 


冬のメダカ

2017-11-03 04:51:30 | Weblog

子育てのシンボルのように

男の子の居る家庭では

メダカを飼ってる、、、、飼ったことがあるでしょう!

和歌山の古座川沿いに疎開した13歳まで

子供たちの間では

メダカは友達でした

小学校の教室には金魚鉢の中で

メダカが跳ねるように泳いでいました。

主人が育ったという世田谷の川にも

メダカが居て

子供らはメダカを獲りに休日は川に向かった戦後の風景だった。

この「人気者のメダカも、昔のような種類が絶滅寸前らしいと聞いた、

我が家では、故郷離れて北海道に住んだこともあって

家族のように

メダカを飼っている。

主人が担当なので、泊まりが続く日以外は

私は一切世話をしなかった、

「メダカぐらいは、、、飼う事が出来るはず、、、と、」

自分の仕事に全力を注いでいるのか?

はたまた、、、メダカを飼う事で、

家内を家に閉じ込める作戦なのか?

夏の日のベランダで、行水盥大のプラスチックの池の中に

10匹ほどのメダカを放った。

水草や、ホテイ草を浮かべ、トリの攻撃を避けて飼うと

ひと夏で100匹を超える増え方をした。

温度と良い環境で、メダカはどんどん繁殖した。

秋が来て、小さな水槽に小分けして部屋に移した。

あれから、何年経っただろか、

冬に向かって、メダカの水槽を洗い、部屋に取り込むと、

メダカは10匹になっていた。

小さなメダカが産まれているが2匹しかいない。

主人にまかせっきりにすると、

どうしても、不規則な餌のやり方になる。

泊まりが続く日は

水面が餌で埋まっている。

それでも、一つぐらいは、完全に主人の担当の者があってもよいと

手を出さずに見ているが、

限界が来る、

カワニナがどこからともなく発生して

水も、臭くなる。

部屋に置くのは反対であるが、

文句を言うと、自分の部屋の本棚のある机の真ん中に移動させる。

冬の玄関は寒い、

冬の風呂場も寒い。

結局、あっちこっち持ち歩いて、もとの居間に戻ってくる。

子供が小さかったころは、

還ってくると、上の水をすくって、昨日汲み置きした水を足したり

雨が降ると、雨水をバケツにとって、上三分の一を水交換して

メダカはぴょんぴょん泳いでいた。

主人が担当のメダカは

見るに見かねて、

水槽ごと洗って水を全とっかえすることになる、

全とっかえした水に、もとの汚れた水をごみ取りメッシュで濾して

水槽に500ミリリットル戻して、洗った水草を戻すことになる

卵もあるかもしれない、、、稚魚もいるかもしれない、、、?

しかし狭い水槽にはよほど上手く飼わないと、数は増えない。

いよいよ冬が来る、

水槽を洗って、主人がメダカを、庭から部屋へと移せるように

道具を揃えて、後は構わないようにする。

何で、、、こんなにメダカに執着するのか、

しかも、水槽に入れたメダカは不自然に見えて、

川で追いかけた、、、あのメダカの魅力は感じられない。

水槽で冬の部屋で飼うなら、、、何を選べばいいのだろうか?

単なる、、、女房を家に閉じ込めておく

最低限の、共有部分の、、、愛のかすがいが、、、メダカかもしれない。

ま、、、イイか!!!

お気に入りのフレーズ、、、

ま。。いいか!!!

深く考えると、結婚生活なんて、、、続かない。

二人とも、こどもが居てくれたから、、、頑張れたのかもしれません。

老後は、、巣だって行ってしまった子供に代わるかすがいを

主人の為に、、、考えてあげないと、

空の巣症候群から、、、惚けに移ったら

大変である。

ボケ防止には、、、仕事に出かけるのが一番である。

メダカの世話が、完璧になる日の方が、、、怖い。

 


昭和44年からの49年間の民間の知的見解の発展を感じながら

2017-11-01 07:36:24 | Weblog

 

昭和44年、ふとしたきっかけで

札幌に住み着いたとき、

主人は「奨学金を抱え、親の仕送りもストップして

おまけに青医連の学生運動で

クラス全体が国家試験ボイコットの時であり

日雇い賃金並のアルバイトで日々をようやく過ごしているという

国立医学部の卒業生としては

かって経験した事のない境遇の

青白き放心状態の主人と出逢ってしまった。

先輩の結婚式に新婦側の代表挨拶を頼まれて

全て招待条件の恵まれた北海道入りを思い出すのです。

主人は「医師になるより、医師をする事のエネルギー確保が出来ていない」

そのような状態だった。

セドリックを、親のお金で乗り回し、

私立医科大学に行っていた兄の姿と重なった、

その後、国家試験医受かって一年、父が死んだとき

兄はノイローゼのように萎縮した。

父を失った弟は、骨太のダイナミックな頼もしい男に変貌して

国立大学の一期校に合格した。

我が家も、決して楽な状態ではなかった。

目の前の、(後の主人になった、、、)消えそうな青白きインテリの

医学部大学院に籍を置いたという、、、

奨学金まみれの

「医師の卵からかえったばかりの医師のヒナ」は

国家試験ボイコットのクラスの友人と同調したのか?

免許が無くては、、、仕送りもストップでは、、、自分で歩けないような、環境の中

医師にしがみついても、大学院で勉強を続けていた。

私の育った境遇からは想像できない、登山人生に見えた。

遭難しそうな、、、前に進むしかない、、、大学院生だった。

東京大学の薬理学教室に勤めていた私は

主人が、東大の三人男と言われて

医学の世界では知る人ぞ知る心臓外科の教授の

教室員であることを聞かされた。

それを知った以上、路上にぶっ倒れそうな主人を

そのまま置き去るわけにもいかず、

看病の手を差し伸べたのが、

始まりだった。

「東京に、教授が退官して帰るときに、自分も東京に帰り

あんたのお父さんが残した外科の施設を引き継ぐカラ。」

私の母に、主人は直接談判した。

54歳で過労死した父に代わって、

外科医が、若くなって、帰って来てくれる、、、、と

母は、東京で、医科大学の医局に入りなおせば、良いと、思ったと言った。

私は勤務をやめて、

ホンの2~3年の北海道生活も悪くないと割り切って、

50代で未亡人になった母の為にも、

外科の看板を下ろさないで済むならと、

付き合ったことも無いままに、結婚することになった。

文金高島田を結う気持ちにはなれなかった、

大学卒業の時に着た半振袖を

ウエディングドレスの髪型も結いなおさないで、そのまま着替えて、

「これは、、仕事だ」と思っていた。

愛情が芽生えるかどうかも解らない、、、

外科医の卵と結婚した。

北大は、私の卒業した高校の同級生も進学していた。

北大の医学部には胸部外科がありました。

東京女子医大の榊原先生と、3人の教授がマスコミでも何回も掲載されていた

三人教授と言われる二人目の杉江教授が赴任しておられた。

 

東大の医学部の薬理に勤めていたという事もあり、

東京でも、何度か、ご高名は、マスコミで知っていました。

杉江先生の奥様は、何かと、労わって下さり、

お葉書や、お手紙で、北海道になれていない私にやさしくしてくださいました。

 

学会にいらっしゃるときは、先生の身の回りのお世話をしながら

威厳のある、一心同体の、地味なお姿は威厳がおありでした。

主人も、先生にお会いした時に、

大きな魅力に、人世ごと吸い込まれて言ったそうです。

帝王学と言ったらよいのでしょうか、、オーラーがあったと、、、

初対面の緊張のひと時を、思い出話として

聞かせてくれます。、

先生側から何も申されなくても、

あの、、、大名行列は、学びたいという一心で、

教授の後にくっついて、

一人前の医師になるための、

自己学習と、研究と、患者さんに接するすべてを、学びたくて

大名行列にくっついて学び取ろうとするその結果を

山崎豊子さんは、一般からの資料の視点で

一世風靡した「白い巨塔」を書かれました。

医師の卵の主人からすれば

心外な、現場を知らない外野の物見遊山なところもあると

笑っていました、、が、、、。

現実の、、、免許をとってからの現場は悲壮でした。

教科書で習ったことが、、、役に立たない「

一人一人の患者さんの条件が、、、全部違っている、、、。、

主人の必死の戦いの中には

マスコミで揶揄される「御意」の行列というよりは

尊敬から、惚れ込んでしまった師匠に、唯一学べるチャンスが

大名行列になってしまっていた時代であった。

来る日も来る日も、先輩方の執刀する手術の患部を、こー引きすることで

執刀医は、器具で固定された患部の切除に瞬間の全力をかけるから、

コーを引いて患部を確保している主人には、

手術そのものが見えない位置で、ひたすら筋肉運動を’~続けていたそうです。

肩の筋肉が動かなくなるまで、頑張っているという、若き時代には、

執刀医はじめ教授は雲の上の人であった。

技術や、学門の差は、どうする事も出来ない上下に分かれてしまうのが現実でした。

外科は一人ではできない科であるから、

チームワークが、患者さんの命を左右すると、言いながら、

執刀できない時も、イメージとれーにんぐするから、

風呂もない17000円のアパートの結婚生活は

ドコモココも、糸結びの練習で、糸暖簾がぶら下がっていました。

実家はタイルの風呂が2つありました。結婚生活は、、、銭湯でした。

3時ごろ、、誰も居ない頃に、、、烏の行水よろしく、、、

近所の人に出逢わないように、風呂に行ったものでした。

冬は小さな室内タンクに、石油を、毎日入れないと

断熱材の入っていないきちんAPは、部屋の中の水が凍りました。

大きな科であるため、手術に入れて、助手をさせてもらえるときは

上機嫌で、出かけて、手術の後も

術後を担当して

むさぼるように医術の習得に向かうため

何日も、帰ってきませんでした。

教授が執刀された患者さんへの回診が始まるときは

せめて、術後の回診の教授の患者さんへの質問とか、触診とか、、、

学べるものは、床にひれ伏しても学ぼうと

先輩たちの後ろから、つま先立ちで、

大名行列に加わっていたのが現実だったと、

主人は、

「山崎豊子の、白い巨塔を読みながら、、、苦笑いしていた、」

いいよな~~小説家は、外側から、特殊な医師の特殊な行動として

民間に、医師でもない自分が、医師以上の視点で、

解ったようなことを書くからね。

心臓外科の医師として、何かを学ばねば

手術室で、、、患者さんが亡くなったら、、、と、、考えると

行列の末尾にでも、必死でついてゆくだろう!

学ぶという事は、、、、山崎豊子は体験しないで、外から観察しているよね。

そりゃ~~~滑稽だろうね。

おかしいさね、、、

。。。絶句だよ、、、説明したり、、、弁明もしたくないよ、、、

一生懸命やる姿が、外から見ると、

教授が大名の権力者に見える時代であった。

TV教育もないし、マンツウマン、、、だからね。

杉江先生という教授は、

医局員の話を実に良く聞いてくださる先生だったと、、

懐かしそうに、振り返る。

聞いて聞いて、、、、くださったと、、、

結論を多角的な高度な判断で一言おっしゃる、、、。」

男の中の男のマナーに、

主人は、畏れ多くて、

未熟な自分は質問さえできなかったと、振り返る。

 

東京大学の薬理に勤めていて気が付いたことは、

臨床の病棟の著名な内科医局の先生が

薬理的な基礎の分野である科学データーを実験しに薬理教室に来られ、、

私たちが、実験手技のお手伝いをしていたことです。

東大の考え方は、

免疫抑制剤が効果があると証明されてからでなくては

臨床的な手術は、手術は成功しても、患者が死んでは

医療にならないと、言う、。

この時代から、「基礎と臨床がコラボレーションしている」

そのような、職場で、

こんにちは当たり前になっているヨウ素の同位元素をくっつけた薬品で

体内動態を追跡するという

シンチグラムなどの、助手をさせていただきながら、

お化けの巣に迷い込んだ凡人の私でした。

 

その東大からおいでになった教授に

魂を奪われる惚れようで、

青ひょうたんになりながら、医学にへばりついてゆく

凡人以上、秀才未満の。

二男がゆえに、貧乏のぞん底の家なし。車も免許もない、苦学生に

藁をもすがる状態の時代の主人の、藁になってしまった結婚でした。

 

医学の為に、初恋の、芸大卒の伝統工芸士の恋をあきらめ、

同じ外科医の父親に育てられた、医療界の薬剤師を直感で選んだ主人。

医師を続けるための、医療の環境で育った薬剤師が

足場となる家庭には適当な人材と判断しただけの

一方的な都合のアプローチが、母のニーズと一致したという

恋だの愛だのと、甘い事の抜きの世界が

医師を続ける、、、病院を持続させてゆく、、、登山の相棒として出発しました。

藁であった自分に気が付くとき、

医師というのは、愛も無ければ、恋もない、、、医師を続けられる条件の

心丈夫な、ガスタンク並みの女性を、

相棒に選ぶのだと気が付いたときには

無給医時代に、次男ゆえに、財産もない医師が

医学という巨峰に向かって学問するという大学院を続けながら

一人前の外科医に育つためには、

医学には「愛」は邪魔かもしれないと、、、、納得があった。

HBCーRで、「ママと赤ちゃん」という番組を担当させていただき、

まだ小さい息子を連れて、番組のシナリオの編集に出かけては、

アルバイトに明け暮れた無給医時代でした。

東京の実家の生活を、「いずみ」に書いたりして

時には、現実の生活とは程遠い、、、

3代のピアノがあった母の未亡人時代を

母が自力で買ったグランドピアノを見て、、、

戦後は終わったと、、、感じたものでした。

北海道は、、、まだまだ、、、私たちを含めて、、、貧しかった。

主事とは、仕事として接していたから、、、、臨機応変に日々を過ごした。

私の愛情は、「子供の未来の育児の方に向かっていた。」

結婚三年目の昭和47年に

第25回日本胸部外科学会を主催された

杉江先生の威厳のある実力を目の当たりにして、

一般開業の私の実家で、外科医をするのは、

年をとってからでも遅くないと、ごく自然に心が変わり、

東京へ帰るより、

日進月歩の医局で、腕を磨きたいと考えが変わりました。

心は母校の北大で

インタナショナルなレベルの中に居られる若さを、いとおしく、

自己愛というのか、身の程知らずというのか、、、

天才のいっぱいいる医局に還っていったのでした。

 

家も、子供も、家内も、、、、藁に止まったトンボの様に

目玉をクルクル回しながら、

「名誉や栄光の為ではない、ボーイズ ビ アンビシャス」に洗脳されたかのような

天性の夢の中で浮遊したい、、、それで人生が過ぎるなら本望,、、という

愛だの恋だのの通用しない、、、

自分の夢のカラの中に吸い込まれてゆきました。

 

平たく言えば、、、家庭は捨てられた状態だけれど、、、

無くてはならない、主人の足場と化したわけです。

母は待ても待っても来ない娘の婿さんに

、、、嘘をついたと、、思ったでしょうか?

それとも、、、学閥という、見えないしきたりを、、、理解したでしょうか?

医者の家庭に育ち、医師の兄と医師の弟を持ち、

従妹も、甥っ子も、

医者だらけ、、、という、

「己が夢に没頭する」こうした医師が

他人だったら「魅力の塊の面白い人」であろうと想像するが。

同居すると、相棒はどんな目に合うか、、、

わかっているだけに、、、自分は自分で、マイペースで生きようと、考えた。

出逢うべくして、、、出逢ってしまった、、、

「自分だけの世界しかない主人」を

遠く、、遠く、、、送り出しながら、

空蝉のごとく疲れ切って帰宅する

「普通の家庭の御主人とは別物?」のような、

居候のような主人との人生の相棒を、

全うすることになりました。

お金では動かない人たちの集まり、。。。(==!

家庭の幸せや、私欲より、

患者さんたちの病気の回復や、

日進月歩の医療学門に、

人世の時間を捧げてしまった、

「科学の信者」たちのように、、砂のような、、手ごたえの家庭。

かって、、、

免疫抑制剤の効力の証明できない団塊で

心臓移植をした、アメリカ帰りの某教授が、

北海道の心臓移植手術そのものに

ストップの、、、待ったをかけて、過ぎて行った年月、、、。

家庭を足場に、

医療の未来に捧げる命と、

医療の神様に連れて行かれた

医学の兵士。

 

長い間、北海道では「心臓移植手術」をする医師はいなかった。

今年は、とうとう、、、

世界の凄腕の移植の経験豊富なドクターが

北海道にやって来た。

長かった、、、この空洞を埋める天才外科医が北大で育っていた、

教授になる事など考えても居ないのに

亜米利加帰りの心臓の臨床現場にいたドクターも、

助教授に選ばれたのも断って、

後輩に、名誉の席を空けたまま

未来の心臓移植手術の再来を信じて、

若手の心ある後輩に、アメリカで取得した臨床技術を

惜しげなく体験の場の指導に入り、その実力で、牽引していった。

その先生が支える意義の大きさに気が付き、

未来の、いつか必ず現れる

北海道で、出来る移植手術の未来の天才の為に

若者たちが立てるように

主人も、実力あるDr,が前に進めるように

チームワークに徹して

未来の、臨床と、基礎研修のコラボレーションのある移植手術を

夢見ながら、

チームを「一つの生き物」のように認識しながら

グラウンドローラー曳でも、

道具揃えでも、

選手の応援医でも、

学会の後輩の発表を聴きに、応援になるならと、席を温める。

この日を夢見て、自分たちが、、今出来ることを、、前に前に、、。

ひたすら、頑張って、心は一丸となっていた。

見えない糸でつながっているのが、凄かった。

家庭も、子供たちの事も、

いつ大きくなったのか、、気が付いているのだろうか?

、自分たちの夢の実現のためには忘れていることが多かった。

それほどに、、、

医学に帰依してしまっている一信者?

足場の役割で、

医局に還っていったとき、

医局長をしながら、自分の研究を忘れて、

若き優秀な後輩に、医学の時間を回せるのは

自分だけだと、、、雑用に明け暮れながら、

家庭から見ると、、仕方のない存在だった。

今日のように、

本当に、世界に認められた

心臓の移植の出来るスパードクターが

現実にそだっつとは、信じていても、現実にならねば

解らなかった感動でした。

私は外野で、

主人に文句ばかり言っていた、

バカな家内でしたが

杉江先生以来の45年ぶりの会が開催された。

北海道に、北大に、世界の高い評価を伴って

第70回の日本胸部外科学会定期学術集会が開催された。

クラーク先生の映った表紙の抄録を

主人が見せてくれた時

、夢を実現させた同門の結束が

北大を再び胸部外科の牽引する医局として

甦らせたのだと、、、若き天才ドクターの生まれていたことを

北大の底力だと思いました。

 

どんな大使も、外交官も、

世界を医学で繫げた、北大が主催した今年の会には

世界から注目の外人医師の参加が、

北海道の心臓移植を高く評価していた、、、と、思った。

、教授の国際親善にも、

結果としてなっている現実を

拍手を持って、称賛するでしょうね。

 

医師はお金では動かない。

権力や、名誉が目的では動かない人たちであるから、

結果として、名誉がついてくる。

その、名誉や、若手から押し上げられた、、、権力に見える姿は

小説や、TVで、面白おかしく揶揄されているが、

医師の皆は、怒らないで、

腹を抱えて、笑って番組を観ているから不思議である。」

私的には、、、よくもこれほど、医師達をバカにして、、、

「御意」とか、、「私間違えませんので、、」とか

医療集団の「命の戦いの陰には、、はたから見ると理解できない事もあると、、、」

悔しくなるのを、笑いで消しています。

あのTV、、、最新の医学の手術がテーマになりますよね。

だから、、、許せるのかな?笑えるのかな?、、、だいもんさん!

 

お金をとっているように見える職業であろうが、

学門は大食いである、

宝石や、貴金属やブランドのバックなど、、、

ぜいたく品にロンダリングされたお金は痕跡が残る。

しかし、、、勤務医の少しばかり、、、ちょっと高めの報酬は

医師達の業界を充実させるイベント代となって

学門の世界にロンダリングしてゆくから、

イベントが終わると、、、膨大な片づける資料として倉庫に積み上げられる。

つまり、、後輩の為の引用文献となって姿を消す。

学門に費やされたお金は

何年か後に、日本の医学の実力として

世界の評価を受ける。

 

華が咲いている会期が一週間で過ぎたとしても、

その時、世界の博士が集まるから、、、

撒かれた種は

若き医師達に道しるべとなり、

金でも、名誉でもない、、、選ばれた頭脳が育ってゆき

日本のステータスを表現してゆく。

同門のチームの結束で、足場をさせていただいた年寄り組も

自分たちの生きて来たことが、後輩の応援になればと、、

意義を感じて、

感動の会期を参加者として過ごしていた。

あんなに稼いだはずの、、、月給も、

宵越しのお金を持っているようでは

チームについてゆけない。

「医者の奥さんて、、良いんでしょう?」。。と

物見遊山的に、取材に来る暇人も

ことごとく実態を知ると、、、

奥さんは愛されていないね、

旦那からは、、、持てていないね、

背の大きな女は、

男に持てないから、

家を守る番犬にさせられてるんだね。。。

ロクな事を言わないのは、、、ジャンルの違う、、商売っ気の強いPさん。

次から次えと、お金を使う話を持ってくるのはQさん。

断っても断っても、、、そんなお金はありません!!というのに

豪華客船の世界一周旅行。

不動産屋さんの奥さんは、今年もオセアニアに出発するという。

奥さんや、こどもや家庭にかまっていたら、

主人は生き残っていなかったと思います。

 

3つの学会から「心臓血管外科名誉専門医」の称号をいただき

むかしは「心臓手術を執刀」していた主人も、

今は、額縁の中で称号ばかりが若き日を思い出させます。

 

医学の世界は。小さな胃カメラでも、

日進月歩で、新しいバージョンをたえず備えていた我が実家も

とうとう閉院しました。

兄は国立がんセンターの崎田先生のもとで

胃カメラの指導医を認可されて、

母が亡くなると、開業を閉院して、勤務医として飛び立ってゆきました。

もし、、、主人が、実家の外科を担当して、サザエさんの

マスオさんを引き受けていてくれたら、

内科医の兄は、主人を待っていたかもしれません。

弟も、国立がんセンターで、検診検査の分野の長を務めていたため

実家は、年老いた兄一人では、閉院するしかありませんでした。

兄の長男は医師になったものの、

女医さんと結婚して、二人の世界に飛んでゆきました。

代々続いた不動産は、5パーセントの値段で買った物として

残りの90パーセント以上に税金がかかり、

実家は亡くなりました。

勤務医になった82歳を過ぎた兄は、

オリンピックにそなえてでしょうか?

英検一級に合格しまして、勤務医で頑張っています。

従業員に退職金を払って、施設を売り、実家は亡くなりました。

「私、、、間違いませんので」スキルだけで生きるあのドクターの

メロンの代金は、どこに行ったのでしょうか?

大名行列にくっついて、技術を学ぶのも

独学に於いてスキルを磨くのも、

金銭の流れの川の中で、

医師という主役の本人には、

目の前で流れてゆくお札を

家庭に持ち帰ることは出来ないシステムで

日本は動いている。

額面だけにかかてくる税金をそのまま払っていると

一切は残らない仕組みに、日本はなっていると思います。

 

女房の方からの、援助や、時間の提供や

人的な応援で金銭が動かない分は、家族が雑用でサポートします。

時間貧乏の医師は、専門の人間に仕事以外の雑用を頼むから

どうしても、手間賃や、諸々の代理の借りが出来るから

借りた利息付の返済に、

感謝で散財するから

手元にはなこらない。

儲けようとか、

権力を得ようとか、

欲に駆られて医師になる人は

いらっしゃるかもしれませんが、、、

日本は、税制面などで、残らないシステムになっているようですね。

お金儲けを考えていたら

。医学の集団からは外れてしまうでしょうね。

どんな金持ちも、

日本は3代で滅びる税の仕組みになっているから、

経済学者でないと、、、お金は残せません。

だから、、、自分の夢を追って医師になり

自分より優れた後輩が来れば、

チームのエースとして、

次代の医学会を支える役割を果たすであろうと考えて

主人は、若き後輩に、出来るだけの事はして、応援したいと言う。

野球にかけた選手のように

充実した感動を得られる生き方をするも者のみが

後世を牽引できる人に選ばれてゆくようだ。

医療に惚れて、未来の医療チームの発展の

足場の役になっても、

医療チームが好きですという、、、外科医の主人。

息子が43歳独身、家なし、彼女なし、

ドクターヘリの来る

地方の基幹病院で

主人の二代目医者バカを実践中です。

忙しいため、タクシーの中で睡眠をとるという

お金に縁のない人生ですが

医師として、医療現場としては

立派なスタッフ、立派な施設、

立派な指導者、

時代に即した医療機械

「医師をするという贅沢な環境に満足しているのか、、、」

電話をかけると

今回の救急患者さんは、

手当てが俊敏に進んだので、、、

内臓切除になるところを、、、助けられた、、、などなど、、、

興奮しているときがある。

仕事が生きがいで、、、

「家庭を持つことを忘れています。」

猫ちゃんのように、マイペースで、

主人の愛を求めない、

「家があれば、勝手に主婦を楽しんで、人世の一人遊びが上手な人!」

「家庭的には至らない息子を愛してくれる女性が、きっと現れると、、、信じています。」

主婦になるのが夢だという女性、、、子育てが生きがいという女性

いつかあらわれてほしいものです。

ボーイズ  ビ  アンビシャス 

 「欲得や名誉の為ではなく、医師をする」

人世が終わるころ、、、自分の心だけが、、、満足すればいいと思う。

医療世界とか

野球世界とか

医師をする事の応援や、

野球などサッカーや、

テニスの選手の応援が、、生きがいで、、

その人の人生だって思う考えの人もいる。

今日みたいに、わが子よ、君に、

北海道の、心臓移植の医師が

素晴らしい会を開催したことを伝えたくて、

夜明けまで、、、キーをたたいている、、、73歳の婆ちゃんも

居て、、不思議じゃないんですよね。

これは、、親族だけの

、心の内をありのままに書いた日記ですから

迷って、、ブログに来られて読まれた読者は、

73歳の、時代から

少し遅れた

老婆心の書かせた日記と

フ、ふんん    と、、、笑って、、

なるほどね、、、

こんな見方もあるんだね、、、と。

笑って通りすぎてね!、、、、(^^!

                主人からも、息子からも、、、取り残されても

                孤高を目指す、婆ちゃんです

 

 

 

 

 

 


紅葉の真っただ中に嵐に散らされた赤枝垂れもみじ

2017-11-01 06:16:45 | Weblog

 

雪が降る季節の前に

仰ぎ見る夜空の星は隠れて

厳しくもあたたかな雪が

大地を抱きしめて離さない

 

あるのか?ないのか?

朦朧とした朧の向こうに

愛しき色彩のときめきの日常が

隠れて逃げる。

追いかけても追いかけても

色のない世界が続く

地に伏した、、、

あなたを拾い集めながら

一筋の光を待つ

 

待ち続ける。

 

きっと来る

一筋の光が来る

 

千の光になって

もう一度、ほほ笑んでくれる時

私も、、、光の方へ歩いて行こう

 

黙々と、

朦朧の中

手ごたえのない登山を

 

春の色彩に向かって

もう一度、やり直しの秋を彩ろう

絶叫しながら紅葉は

昨日の嵐で地に伏していた。