花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

サヨナラ、、、穏やかな、ひたすら頑張るだけだった日々よ

2015-08-26 17:17:39 | Weblog

お金持ちは奨学金は
宛てにはしない。

昭和戦前に産まれた夫の時代は
戦争突入のころでもあり

英語も使用禁止
牛、豚の肉類など食卓には上がらない
ハムもバターもチーズもない。

不衛生な、小豆の、アイスキャンデーが
おやつ、、、水とわずかな。。。あずき。

東京は武蔵野が緑豊かに
井戸水がおいしい

しかし、、、水洗は普及していなかった。

戦後は、
生活もままならないほど厳しくて
兄弟や家族は

ジフテリアなどにもかかり
血清を脇の下に接種したとか?

ほんとうなの?
無毒化毒素で
ワクチンがあったのとちがいますか?

戦後の生活は
すさまじいほど
生活用品や食料も、ごらくも少なくて
活動写真、(トーキ)が、無い場合
無声映画があった。

徳川夢声???、

栄養失調で
戦役から漏れてしまった父の
入院やらで、
夫の母上は

一家で。全員が一思いに
死んでしまおうと思ったこともあったらしい
向日が丘遊園地が
子供の為に選ばれた、極楽への
逃避行の入り口だったとか、、、。

いつもは口にすることのない御馳走が
子供たちにふるまわれていた。

幼かった夫は、
母の顔を覗き込んで
「母ちゃん、、、死なないで、、、
俺、、頑張って医者になるから、、、」

夫の子供時代は
日本総家族。皆貧困であったらしい。

夫は貧困の中
幼稚園には通える文化地帯に
住んでいたようだ、

地域の文化が、
子供を育ててゆく、、、結果が見えるようだ。

幼稚園では卒業の時
園長賞をもらったと、
後期高齢者の年代になっても

園長さんが書いてくれた
夫の小さな胸像の油絵を
大切にしている。

母ちゃんを
喜ばせようと
頑張ったのだろうね。

私と結婚してからも、
れぢーすゴルフクラブに
入っていた時の、ゴルフ道具は

勝手に練習に持ち出して
雨ざらしになったまま、
寂びてしまった。

結婚してからは
一度も
私は、ゴルフのコンペには出ていない。

夫が同僚と親睦ゴルフに参加して
「迎えに来てくれー」と電話がはいる。

島松の入り口で、2時間
芝に座って
ワンセグを観ながら、
やっと出てきた夫を迎えて、
ハンドルを握る。

明治の、、オレおれ 文化の時代の
哀しき教育を受けた犠牲者だから、
結婚しても、女は鉄漿でも塗って
井戸端会議をしてればよいぐらいに

奥方という認識がない文化を持っている。
初めは戸惑ったけれど

おかみさんか、
家政婦か
お母ちゃんの代わりに
旦那のことだけ考えているのが
嫁さんなのだと

戦争間ただなかの、
もんぺ姿の、
座布団式防空頭巾の時代の

文化遺産であると
割り切って、生活すれば
何とかここまで来れました。

母ちゃんの為に
喜ばせて
生きる力を引き出そうと
勉強したそうであるらしい。

夫のいじらしさで、
母上は、生きることを選んだ。

そして、、、40歳で男の子を産みました。
それからの母上は
末っ子が生きがいになり、
一家の共通の宝物の存在で、
結束できたという。
末っ子は、国立大学の
宇宙物理を専攻し

定年後、教授様になり
生涯、母上の希望となったから、
戦争の終りが。もたらす幸せは

新しい命だったのですね。

お話を聞いていると
我が家だけの話ではありません。

学校では
一家心中が、ホームルームで話されるとき
私も、6年生の時、
友達をなくして、泣きました。

そして、奨学金を借りて
国立一期校を卒業して、

国家試験ボイコットの波が来て

なかなか
医師になる修行が出来ないでいるとき

内科外科で開業していた私の父が
54歳で、亡くなりました。

若い、内科医の兄は、
外科医である、夫が、
一緒に仕事に加わってくれるというので

縁談になり、
付き合う暇もなく
母親と、兄貴が気に入ったから、

とにかく
医師を助けられるのは
医師しかできないから

私は、、、運命だと
之は、出逢うとか
愛するとか、
恋をするとかではなく

両方で
必要な状態であっただけの
不思議な結婚への
状況だった。

家庭内から
結婚という戦場への
赤紙が渡されたのでした。

しいて言うならば
良家の、
戦争後の
来るべきして来てしまった心の貧しさが
無意識で
結婚が、解決してくれるのではないかと

信用できるか、
出来ないか、、、
それだけの判断で
前に進んでしまったのでは
無かったろうか?

薬剤師として、総合病院で働いていたのを退職し

父の後に入ってくれるという
外科医との結婚に
実家の立て直しの希望をかけた。

しかし、、、

税金で、奨学金で医師になった身は
故人の都合で
私的な生き残りのためには、
振り回されるほど

無邪気な自由は、ありえなかった。、

大学からも、世間からも
学閥やら、
地域の慣例やら、
卒業大学の医局を離れることは
冒険であった。

博士号を取得するまで
母校で頑張り、
母校から、
横浜日赤に派遣されるコースを
待っていた。

その間の収入はない、
実家の応援と
ラジオ局のアナウンサーの
アルバイトで
結婚の貧困を打開しながら
手探りで
北海道の文化になじんでいったのでした、

来年は、
東京に行って
我が家の立て直しに
加わってくれるのかな?

毎年、区切りを待ち続けた。

しかし、、留学の話があり
アメリカの教室のトップから
親書が届きました。

小包だらけで
、出発を待ちながら、
一年2年と、
、交代の先輩の帰国が延長された

先任の先輩が、帰ってこなくて
延期が続いているうち
博士号が取得できました。

之で、羽ばたける!
外科医になるための修行が続き
単独で、トップの許可を得ると
初めて、、、夫として
月給をもらえる病院に勤めてくれました。

ピークの若さを
事務長は、
まるで
技術ホステスのご機嫌をとるように
実に上手に、若き医師の
向学心と、自尊心を心得ておられ、

月給と名のつく報酬を知らない無給医を
23万円の初任給で雇った。

実家が開業医だった私にすると、
ショックを受けた。

24時間、嬉々として、
水を得た魚のように
張り切る夫、
少しずつ、、、月給を昇給させてあげてゆく。

事務長の医者を使う上手さに
私は「舌」をまいた。

誕生日などは
ケーキを囲んで
医局は結束して
24時間体制のストレスを
ドレナージするのが上手だから

家庭は
夫の誕生日は
母子家庭
2~5日後には
誕生慰労の仲間の写真が
机に無造作に置いてある。

命を相手に戦う外科の現場には
普通の家庭の「愛」は邪魔なのだろう。
結婚した。
手術は成功。
後は回復は体力とクランケの
自分を治す、、自らの力による。

家庭も、結婚という
手術は成功した。

彼の出番は
仕事にある。

???????
完全に、仕事と自分という
まりも、、、の島?

置き去りにされた家庭には
てんこ盛りの
雑事が時間を占領する。
取り残されるほど

仕事に向かせる
事務長は、40年前は
遊び上手でもそのセンスは高かった。

人の心を操れる
凄い家庭の強敵でした。


月給は、ほどほどに、
やる気を起こさせる学会参加の応援や
美人の気立てのよい、
出来る看護婦を
仕事の相棒に配置換えする。

慰労会には
ゴルフなどに
各課交流のコンペを開き
ハンデのつけ方も
上手とは言えない夫が入賞できる。
景品は奥さんがほしがるような
調理器具やワイン。

一般の会社員よりは10万は多かった。
しかし、丸善からの月の請求も10万は下らない。

学会は30個近く入っているし
給料を、家計に入れるには
医者として、時代についてゆくための
自己研鑽の費用が多すぎるのが
医療の世界かもしれない。

となりの病院の同科の医師に
技術が劣ると
患者さんは
そちらに行ってしまう。

医師のライバルは医師。
夫と違って
補給路のある医師が多い。

この世界、、
補給路のある資源の多いアメリカが
初めから勝っていたのと似ています。

医師になりたくても
医者になってから医師をするのは
財政的にも
生活の営み的にも
サポーターの居ない貧乏家族は不利である。
一人娘で
医師と結婚することを
希望している親子と
愛称が悪くなければ
条件結婚をした方が
「医師をすることを続けるには都合が良い。」

医療行為の相手は「命」だから
「命」のマイナス要因を受けて立つ医師の生活は

片道のガソリンしかない特攻隊のように
病気に突っ込んでゆく。

後方は、夫からエネルギーをもらうどころか、
無料奉仕団の後方部隊として
整備士を兼ねるような
家庭を任される。


少しでも、「愛」があれば、
解ってくれるはず。

私個人として道が開ける兆しが見えると、
結婚の時に持参した私の愛用の
ゴルフクラブを持ち出したように
先手先手で、奥さんの時間を
自分のサポートに使えるような確保に
瞬発力を発揮する
鋭い賢さがあるから、、、勝てない。

薬剤師として勤めれば
私自身の人生は、評価も、社会性も
充実感も、自分発になる。
「店」をもって、家庭と両立できないかと、
手頃な居ぬきを探して歩いたりもした。

店、、、意外と開業は難しい。
家庭と両立はなおさら難しい。
田舎に行けば、実現するかもしれない。

あのころの、
ピークの年齢の働き手の医師を
24時間、
家庭を考えない仕事バカに育てたのは

医師の世界も、
開業や、医局人事以外で動くのは
孤立するのかもしれませんね。

孤立したら、
知識や技術の補給路が断たれるので、
命の源を失う結果になるから、
医師は「お金」のことを考えないで
「医師をすることに」
全力を注ぐのかもしれませんね?

「医師をする事の出来る実力」
医師の財産は、子供も、孫も引き継げない
一代限りのアスリートに似てますね。
医師が人生を走り切った後には
廃墟になった「妻が居る。」

スカーレットのように
「朝考えましょう。」

妻の思惑など、考えるはずもない
病院事務の、キャプテン。

あの、事務長さんだと
私は、今でも、人捌きの上手さによって
夫を医療にとられたと
家庭婦人としては
敗北を感じている。

病院の実績も上がり
患者さんもどんどん増えて、
評判は大学まで届いた。
患者さんからも、
院内に、贈答物は禁止を表示してあるのに、

手製のいくらの塩醤油漬物など
お手紙付で送ってくださる。

デパートのカタログで
イクラの値段を調べ
70パーセントのタオルセットをお送りする。
「お心は嬉しいのですが、病院からは禁止されています。」
失礼のないように
感謝の心をこめて、はがきを書き
タオルは、回復時に重宝なのでお使いくださいと、
病人の、藁をもすがりたい依存心を
砕いてしまわないように
受け取ってあげることが
治療につながることもある。

てんこ盛りの藁を用意せねばならないのも
部隊裏でした。

夫はどんどん立派になりました。
付き合ってくださる方も、
社会のリーダーが多くなりました。

影を務める私は
顔を知らなくても
なんとなく、
夫を通して知っているような
錯覚に陥ります。

冠婚葬祭の時など、
うっかり、、、
『知っている方と』間違えて
ご挨拶してしまい、

は!と、気づく事がしばしばあった。
関係ない夫の世界なのに
影を務めたせいか
自分の時間を注いで雑事を通して
名前を覚えたのか、、、
夫のコートの裏地になってしまっている。

夏はコートが要らなくなり、
寒い時だけコートは必要なのだ!
脱ぎ捨てられたぼろぼろの裏地を
とりかえればよいのにね。

いつしか、大学に呼び戻され、
学問の「基礎」と「臨床」の
両輪のまわる大学生活の
スタッフとしての充実感を感じたのだろう、、、

能力のある
未来の医療を背負うだろうと
後輩の素晴らしさを話す毎日が続いた。

医学会に一石を投じるだろう後輩に
心からほれ込み、
彼らの時代が来るまで
自分にもできることがあると、、、

チームの一員として
出来ることがあるから
大学が呼んでくれたと、

月給が大幅に減ることなどは
頓着なく
夢を追って
家庭を捨てて、
医学仲間の集団に巻き込まれていった。

医師になった彼は
家庭より、
「医師をする事」を選んだ。

ローンで、進学で、大学で、、、
どうやって切り抜けてきたのか、

家庭と、大学を両立させるには
あまりにも、時間が貧乏過ぎて、

子供たちと、すれ違った生活を余儀なくされた。

当時は、「無給医」の時代であった。

技術の向上を目指し
家庭を振り返る暇のない
「医師をすることを選んだ男ありき」

あるときは、過労で病気発生!
4か月も微動できない
手術を実行できる強靭な体力を取り戻す為の
2回の手術入院が、
何か月か続いた。

そして、、、回復期は遠く
単身赴任、

手術後の体力が回復して
健康を取り戻してからも

ひたすら、、、医師をすることしか考えない。

現在の医師の皆さんと違って
無給医や、医局の都合が優先する時代であるから

我が実家の為に、
医師を引き抜くなんて
出来ない相談であることがわかったのは

50歳も近くなっていた。

国立系をローテションしていたので
私立に進学した息子たちの
授業料と、

舅、姑の寝たきり時期や
葬儀やら、
法事やら、

医師をすることにしか興味のない夫は
生き仏の為の、医療行為が
何よりも優先する、、、不器用な、、、仕事バカ?

結局、私一人で、親類や、親の葬儀やら、
姪達の結婚式に参列する。

いつも、飛行機嫌いの伴侶の居ない肩身の狭さ。

しかし、、、戦中の
貧しい日本の家族時代を送った夫の家の結束は固い。

末っ子の弟さんが実行する感謝もあって
経費の送金だけは、義理を欠かない。

振り返れば、、、何にかかったのか??
さっぱり解らないめまぐるしい忙しさで
人生の90パーセントの
持ち時間はすっ飛んで過ぎた。

「医師をする事、、、一本に絞り」

正月も、ゴールデンウイークも
むす子が小学校一年生になってからは
実家に帰ったことがない。

そして、。学会や研修で、
医師の皆と、ボストンや、ロチエスターや
ニュウヨークやカリフォルニアに
行くことはあっても

夫婦そろって、パリ、ロンドンは知りません。

森鴎外ゆかりのドイツ、
医師として、
行ってみたいドイツ

ドイツには
二人でゆきました。





いつも、どこにいるのかわからないほど、
一人で、すたすた、勝手に興味を追いかける。

皆で、銅製のビールパイプの走っている
著名な、ビール園に立ち寄った、

「君は、ジュースね」

自分は、ドイツのビールにご満悦である。

何を考えているのか?
家政婦と、長い間間違っているのは解るが、

ドイツに来て、、、
ツンボール!!!て

腕を交差させて、
ジョッキ―の泡で
夫婦らしいドイツをしたかった。

ご満悦で
ローレライを
ドイツ語で歌い

ビール樽のような
体格の良いご婦人を
笑わせていたけれど。

私の顔は、見ないようにしているのかと
うたがいたくなるほど、
勝手な、自由を闊歩している。

人生の、50歳からは、
医師をすることに、
それなりの、役がついてきて、

家庭は、どこの部屋にも
夫のものが、あちこちを占領し、

家政婦代わりの奥様の
掃除の仕方も込み入ってきた。

結局、全てのものは動かして
全てのものは拭き掃除するが、

夫のものは、名刺一枚捨てられない状態なので、

散らかりまくって、
本だらけで、
背広や、ネクタイや、ワイシャツだらけで

手入れはするが、置き場所はそのまま。。。という。

「空気だけ、澄みきった部屋になるように」

埃撤去の掃除方法となった。

応接室もない、
夫婦の寝室もない、
よくもこんなに。。。

愛着物で、家が埋まっているものよ。

真空管のTVだけでも2台ある。

バージョンの上がるごとに買い換えたPC.

VM21,MAC,WINNDOW。
ペンティアム 1234 ヴァルースター  ラヴィエ
ヴィスタ、 7 、、、

周辺機器、ビデオデッキだけでも3台

箱型TVが、2台

初代のイス型肩もみ器
二代目リクライニング肩もみ器
医療用革製の肩もみき

足ごろごろもみき
エキスパンダー、、、、

(@@)**   ++   ==

体重計だけでも3台

メダカの鉢にメダカが30匹!

何がなんやらわからない家庭を、運営してきましたが
指でなすっても
埃はありません。

ちなみに、、、結婚指輪の立て爪は
ドクターと言われる風評被害では
奥様は、旦那様から贈られて
持っていると思うでしょう?

一生、待てど暮らせどくれなくて、
母が、いつか旦那様からの指輪がはまるようにと
V型の指輪を、里帰りしない娘の為に
東京から、札幌まで届けてくれました。

マーキスカットのVの指輪を
父が亡くなったときから。10以上もたったけど、
嫁には一文字、娘にはVを
なにも、持たせられなかったから、受け取って、、、

母の形見になりましたが、
お値段は10万ぐらいの、
日常いつもさせる指輪でした。

、、、いつの間にか、、、亡くしてしまったけれど、

宝石類は、一切買わない夫は、
地下街に行くと、
一万ぐらいまでの、原石のサンプルを買うようです。

庭に巻いても、ほしくないような、
理科の教室にあるような石に
名前を付けて、お菓子の空箱に集めています。

、、、孫が、、、喜ぶ、、、(^^!

妻としても、恋人としても、愛する人としても、
我が家の奥さんは該当しませんが、

薬剤師になるまでに培った「処理能力」は
認めてくれているようで、
実に、整理、分類、処理の必要な人生でした。

今回も、粗大贅肉に変わりつつある
人生のごみカタズ家をしました。

世間様の風評被害の
医師は小金もち、、、という
なんとなく、ねたまれる割には

老後の蓄えもすっからかん。
宵越しのお金を持たず、

ひたすら「医師をする事」という
たった一言ではありますが、

もしかしたら、、、
医師になるより根気が必要なのではないでしょうか?

簡単に、医師は高給取りだとか、
税務署の目が向きますが、

像さんは、藁を食べて、
ひたすら、人命という重き荷物を背負って
一歩一歩、医師をすることを続けました。

98パーセント、
医師をすることの時間を歩き続けました。

家庭は、藁の、寝床でした。

老後のお金も、宵越しのお金を持たなかっただけに

働けるときが全てです。

マグロじゃないけど
とまったら、、、

医師をすることを、、、泳ぎを、、
ストップした時は

彼らはおしまいです。

40歳から、やっと
月給をとり始め、

50歳から
世間さまのおっしゃる
げっきゅになったときは

息子たちを「医療人」として
社会にお返しするための

育児に消えて、

人生は、着のみ着のまま
棺桶に送られて、

孫子を照らす「一筋の光になるのです。」

もうくたびれたから、、、
ぴんぴんころりと、、、休むかな?


平和への祈り 戦後の日本の8月に思う事

2015-08-17 01:29:04 | Weblog
昭和20年代、
和歌山県の小学校に
疎開入学した時のことでした。

お盆の日は
「たかび」と呼んでいた松明が
どこの家にも、高く高く燃えていた。

太い青竹のてっぺんに
松の松明をともし

故人が
我が家をすぐに見つけられるように
高く高く松明を挙げて
迎え火とするんだよ。

言葉が標準語のしなやかな
間、と余韻のあるテンポで話す
お父さんの口調を
疎開地の少女達が、
口真似をした。

夕月の下で、
父は弟を片手に抱っこして、
疎開地の近所の小学生や中学生と
影ふみのひと時を楽しんだ。

文化のない疎開地には
アメリカの、
ワシントン大学を卒業した親戚が
タバコや雑貨を売っていた。
疎開地という
他人の土地で幸せな日々を送るには
それぞれの特技や文化が物を言った。

戦争後の
気のみ着のままのぼろぼろの中で
各自の才能が輝いていた。

自転車屋さんは
廃自転車の山から
子供たちの自転車を組み立てていた。

加治屋さんは
疎開地の刃物や農耕具をトンカチ創った。

父と母も、得意のダンスを
戦後のトラウマから立ち直る心のケアに
毎週診療所の二階を開放した。

ド田舎の。ピアノを見たことがない子供たちに
ピアノを教えた。

叔父さんは
日大理工学部を中退し
シベリアに従軍した後、
父の診療所に合流した。

学徒で従軍し
運よく帰国できた父の末の弟は

28歳から早稲田の理工学部に入学した。
父は、従業員も。従兄弟も、姪っ子も
学問の為に進学する者たちを
全て、サポートして同居もした。

進学を考える時期になって、
父は、終の棲家のような自然の恵みを捨てた。

初めに、母と子供が東京へ、
2年遅れて
父が従兄弟たちと東京へ、

親族で一丸となり新規開業へ。

もしも戦争が無かったら、
、、
あれから、一言も口にしない父。

東京の本籍の邸は戦火で消えたから
思い出すのも苦しいだろう。

神楽坂の毘沙門天の縁日に
祖父母と行った思い出が
父の本籍、
市谷の自宅のあったころの

お盆の思い出話であった。

東郷さんが、
日本海の戦いに行く前

我が家に来てくれたんだよ、
君たちのおじいちゃんが
宮内庁に勤務していた時のことだよ。
おじいちゃんは、
剣道が5段だったから、

きっと、武芸友達だったのかもしれないね。
お母さんが、御かわりのお盆を差し出すと、
お茶碗を置いた手が、
あまりに力強くって
お盆が下がってしまい
器をあわてて、手で押さえたと言っていた。

当時は
お茶碗の半分くらいの少しだけ、
ご飯を盛り付けるのが礼儀だった時代なのに

器にいっぱい御かわりの飯を入れたと
父は、苦笑いをしていました。

市谷という、町内は
かような方々が
役目を離れて行きかう地区だったそうですよ。

戦前は新宿から代田橋にあたるあたりまで
土地を持っていた旧家の育ちだった父は、

母も亡くし、すぐ下の弟も亡くし
家も、土地も、亡くし、

戦時中は二人の息子と、娘たちを亡くし
喪失の日々が続いた。

家族が幸せな市谷の屋敷に住んでいたころは
お祭りが大好きだったそうです。

お祭りは、
浅草や神田まで、観に行ったそうである。
花火は屋形船で楽しんだそうです。

父の時代に
東京大学進学か
さもなくば、外科医になる道が
進められる環境とは?

どれほど
窮屈で。
価値観が狭い範囲の押し付けで
自由がなかった家庭だと想像すると
シルクハットで
手の曲げにくい
ピチピチのモーニングで
顔を洗うのに
苦労している
イギリスかぶれの
ハイカラさんを想像してしまいます。

確かに!
あの時代!
父はイギリス医学を習い、医師になった。

しかし、
イギリスはビルマを植民地にして
日本は、ビルマ独立を名目に
東南アジアで戦争したと

社会科の先生は
「ビルマの竪琴」を
皆に読んで聞かせながら、
自分で泣いていた。

未熟な日本には、
過去を振り返り、
ひたすら、大人になるための
勉強しか
戦争被害者にお詫びする道はないと、
父は考えたのでしょうね。

第二次世界大戦で生き残った
長男4男次女の3人の子供と、
戦後、
疎開先で誕生した
戦争を知らない団塊の世代の末っ子と

自然の恵みの中で
疎開開業をしていた父であった。

戦争をはさんで
語りつくせない喪失と
この世とはかけ離れた戦地を体験した年代。

疎開地で、末っ子が生まれたことは
日本の夜明けにつながった
団塊の世代の復興の誕生でもあった。

父母の希望が
疎開地の人々にも伝わり、

待ちから
いろいろな先生をお呼びして
おけいこ事も盛んになった。

お寺の和尚さん先生は
お経の代わりに
小学生に「弁論」を推奨し
県下で優勝する者も出てきた。

イノグチ先生という
憧れの「弁護士さん」がテーマになって
子供たちの「弁論大会」で
若き希望の主張が優勝などした時、
和尚さん先生は
奮発して、優勝カップなどを
学校にもたらしていた。

新しい時代の
新しい教育を受けさせたいと

日本には、世界を知り
世界のそれぞれの価値観を
認めることのできる大人になれる教育は
自分の生まれた故郷の東京だと考えたのでしょうね。

子供の時代の
来たるべき社会変化を
考えなければ、

父は、故郷を遠くで想いうかべ
疎開地の医療の人として生きて
長寿を全うし、
アユかけを憩いとして
幸せだったに違いない。

市谷で生まれ、
早稲田中学を卒業し
外科医として
戦地に赴き
戦う生涯を生きてしまった父。

熊野の疎開地は
永遠の恵みの続く自然と溶け合った
天然の永住地になれたかもしれなかった。
戦争の傷跡は
この地の自然の豊かさが
皆の心に太陽のエネルギーを注ぎ
甦らせたと
私は、個人的に思っている。
自然のエネルギーは
太陽のエネルギーの
照り返した力であると。!

自然や資源や、地球規模のエネルギーの
補給路のない、肉弾三銃士が
マスコミに踊らされ、

かくも、哀しき英雄として
小学校の子供たちの演じる学芸会にまで
登場した、、、あまりの哀しさ、、、

父の仁川での写真の中に
日赤の看護師さんと一緒に映っている
一枚の写真があった、

晩年、父の東京の診療所の院長室に
内科医の兄が引き継いで
額に入れてあったのを思い出すのです。

父が最後の力を振り絞って得た東京の診療所は
兄の時代で、他人に売られて行きました。

戦後の日進月歩の医学の進歩には
もはや、若き兄は
永住の地を見いだせなかったのかもしれません。

四葉会という
ピアノの教室を経営していた未亡人の母の
額縁のように
開業の継続は、母を守り、
父に逝かれた未亡人の孤独を救っていた、

兄の患者さんや、兄の先輩の子弟も
お弟子になって、一緒に演奏会などを
楽しそうにしていた。

母が亡くなる直前に
兄は、開業を、閉店した。

まるで、新規開業と
見間違うほどの
花束が贈られ、

父の時代からの診療所は
兄嫁の住む、
大きすぎる個人の自宅と変貌した。

母は、3日前まで
ピアノの指導をしながら

寝ているように、、、逝った。

開業の時代は終わった。
医学は医者になった本人だけのものであり、
引き継げる性質の遺産ではない。

母の葬式は
立派に社会人として
父の夢だった「医学はこうありたい!」と
国立がんセンターが出来た時、

日本の希望のセンターが出来たと
兄に、話した。

兄は父が残した開業を継ぎながらも、
国立がんセンターの
崎田先生や
市川先生
黒崎先生のもとに通い

内視鏡の指導医を許された。

そして、母の死の直前
兄は、千葉の亀田病院の職員として、
長男の義務を果たしてから
技術を翼にして
大空に飛び立った。

母の葬式は、すでに
国立がんセンターのスタッフになっていた弟と
母のピアノのあ弟子さんが
お寺の庭がうずめつくされるほど
母を忍んでくれていた。

母の死に間に合わなかった、、、北海道の私。
長男の姿は見えない。
昨日の夜
通夜の時は寄り添っていたのに
早朝、人が来始めると
居なくなった。

喪主の弟の長女が
小学生のちっちゃな体で
御婆ちゃまを守っていた。

「みなさん、静かにーーー!!!
御婆ちゃまが、起きてしまうでしょう!」

一番かわいがられただけに
母の死、
つまりおばあちゃまの死が
受け入れられない様子であった。

日本のCTの発展の黎明期を
世界のレベルで発信していた
東芝、東北大、もちろん千葉大の市川先生ら。
弟は、団塊の世代の役割を、
医療面でしっかりと果たしているだけに、

マスコミでしかお目にかかったことのない
病院長さんや、スタッフが
「寿命の直前まで、ピアノの先生をされ
社旗参加をされていた母上から
私たちも、多くのことを教えていただきました。」

御目にかかったのはなじめてなのに、
庫裡の割烹着の私を探してくださり、
「お姉さんですか?、、、このたびは、、」と

何もできなかった姉に変わって
弟は、たのもしい限りでした。

後日、母が兄に宛てた手紙と、葬儀の早朝
父と母と、僕(長男)だけが居た家庭が
静岡に有ったのだよ。
幸せだった、静岡の
父と母と僕だけが行った事のある海に
お兄ちゃんは行っていたのです。

内容は、母から兄に
社会に飛び出す腕がありながら、
学会からは蚊帳の外の開業を
父に代わって守っていたのは
解っていました。

ありがとう、、、長い間、、、
父を25年間も
私のそばに引き留めていてくれたことは
私の生きる力の源でした、、、

その手紙は
私に見せる必要のない
母と長男の世界でした。

戦争で、多くのものを失った
父母と長男。
父の早逝で、
父親代わりの自意識の呪縛で
社会参加の遅れた兄は、

母の死んだ日
父と母と自分だけの知る時間を
回想したかったのかもしれないと、、、。

全てに「外野」の
明治の父母を送る私は、
いまだに「千の光」になって
私を照らす母と一緒にいる。

昨日、従軍看護婦さんのTV放送を
深夜に見ていた。

戦争で、死のみが
苦しみから救う。
しかし、
何処までも、自分は生きていたい!
自分が一番になってしまう、、、
そう話す看護婦だったおばあさんの
瞳が語ることの深さに
胸がつぶれそうになった。

戦争は二度と起こしてはなりません。
看護婦さんの叫びでしたね。

話は疎開の思い出に再び戻りますが、、、
祖父は、言っておりました。


ソビエトと闘ったとき
日本の資源の乏しさを
一部は認識していただろうと思うのに。

リメンバー パールハーバー !!!!!!!!

大国のアメリカ、
機械力のアメリカ
他民族合衆国の文殊の知恵のアメリカを

日本は対等に戦える相手と思ったとは?
今でも信じられないのです。

考え方が、12歳の子供であると
マッカーサーは言った。

旧家の二男の祖父は
日本人のゾーンを
サンフランシスコ
ロスアンジェルスに
開拓に入った長男の兄の所に
幾度となく渡米していた。

戦後、長男はアメリカで亡くなり
祖父だけが、兄嫁と帰国した。

明治維新まで
ちょんまげを結って
刀を差していた、お城のあった国。

祖父の軍刀も
名刀を、つくりかえたものでした。

アメリカで、
多くを学んだ祖父と叔母さんは
疎開地の中のアメリカ人のようでした、

洋館に住み
地下室には井戸もあり、
200羽~300羽の庭tp利を飼い
石垣はイチゴで真っ赤になり

アプローチはアジサイの花が
マッスを重ね
紫や真っ黒なアゲハチョウが華やかに舞う。

花壇には、グラジョウラスや、トリトマや
洋花が、魅惑する、
菜の花も、蓮華もあたりを色とりどりに染めてしまう。

此処だけは、戦争の傷が癒される
オアシスだった。

*****なんで???
***戦争をしたのか***


理屈も感情も、全ては貧困のなせる
心の貧乏が、赤子の手をねじるように
世界の先立ちに、翻弄されてしまう
心の貧しさと、受験戦争に似た
勝つことが正しい結果を生むと信じた
点取り虫の原点の貧しさが
有ったように思えてr成りません。

一言、、、言うなれば
日本は、貧乏国だったとしか、
ほかに理由が見つからない。

ペリーが
黒船で
下田にやって来たときから

無理に無理を重ねた近代化の渦の中で

名君も「そうせい」としか
言葉の出なくなるほどのスピードで
時間は矢より速く、
鉄砲玉より速く、、、飛んだ。

一部の天才は
一秒に地球七回り半のスピードで
近代化をとらえてたが

今の国会答弁のTVの討論のごとく
国は、
未来への希望の政策へのベクトルが
一方方向を向くほど
円熟した大人は
世間には受け入れられる時代では
なかったのだろうか?

明治、大正は、まだまだ
ハイカラさんのアピーラーの時代で
教育程度も、文化も、世界観も
実りの秋には
時間を要したに違いない。

刀を差した武士が居たことは
問答無用で切られてしまうことだって
無きにしも非ずのお国柄だったのですから、、、。

凝り固まった頭脳の一部は
戦争という死に場所を
自らつくってしまったのだろうか?

成熟したアメリカが
リラインを引いたことが
小学校の社会の時間に教わった。

後後まで
同じ民族とは思えない
考え方の違いや
経済力の違い
教育の違い、

利害の食い違い、、、

縄張り問題のような
物質的な原因が
多く生まれてしまい
まるで、2つの国になった。

一致団結
国民は一枚岩にならないと、
内乱を起こすべく作戦が見抜けず
仲間同士殺し合い
国が廃墟になったころ
外側から支配される結果には
ならないだろうか?

まるで
孫子の兵法のようですね


親子、兄弟も逢えない。
先生は、涙ながらに授業をしていた。

再び、、、疎開地の父母が
戦争のトラウマを
どのように、乗り越えていったかを
考えることにします。

世界のことより
夕食に白米が食べれるかどうか?
そちらを気にしながら
話が七曲りする。

お寺の和尚さんと先生の兼任していた。

七か村 無医村で、
全科をこなせる医師

父は、疎開地の
医療を
日夜、寝る暇もないほど
たった一人で担当し
戦後の時代の
復興を民衆とともに生きていた。

たたく事より
必要とされることが
激務の中で
回復していったのでは
なかっただろうか?

お盆になると、

たか火が燃えて

各家庭の
戦争の英霊が帰宅すると
信じられていた。

自然と生きる疎開地は
時間が緩やかに流れた。

ミカン畑のお爺さんは
一週間の天気予報屋さんでもあった。

8月はTVは
「戦争の傷跡画像」が連日放映する。
時代とともに、
状況は解釈が修正され
私が学生時代に教わった歴史観とも

微妙に変わってくる

祖父の時代、
和歌山には「アメリカ村」があった。
祖父の洋館建ての
バルコニーの下の玄関には

ゴールデンゲイトブリッジの
油絵がかかっていた。

青山師範を卒業した祖父は
27歳でアメリカに渡った

3か月近く、汽船に揺られ、
嵐を越え、アメリカの農業を学び

日本人町をカリフォルニアに創るのは
砂漠を、緑にすることから始めたと
話してくれた晩年は
南紀の町長やら、村長やら、校長さんやら

頼まれれば引き受ける行動活発な
祖父であった。

晩年は
皇居の奉仕団に入って
お掃除などにも出かけては

お気に入りの懐中時計を見ては
忙しそうに、人と会っていた。

何やら、叙勲も受けたようでしたが
子供だった私には
ピンとこないながら、

親戚がおじいちゃんの経営する旅館で
盛り上がっていたのを思い出します。

このおじいちゃんが
終戦まじかに
戦地まで、娘夫婦を迎えに来たというのです。

身の回りのものだけ持って
最後の関宇連絡船で、引き上げたというのです。

護衛の船もなく
東京に着いたときは
実家は爆撃で無くなっていたというのです。

祖父は母の故郷では、
アメリカ帰りの近代化の魅力も
加味された頑固さは

指導者的立場だった事と
大いに関係があるのではと
私は子供心に思っていた、

急きょ出来上がった
疎開地の診療所の

あたり七か村、
唯一の医療施設の

医師として、疎開生活が始まったのでした。


*******************


コメも、着物も、何もない到着の日

昔なじみの知人が精米所に居て
コメを「一俵」くれた時、
涙が止まらなかった、、、と。

「医者を連れてきてくれたんだ!
米俵ごと、持って行ってくれ!」

昔なじみとはいえ、
コメが貴重品の終戦直前の時代であった。

父は、子供たちと話す暇もないほど
働いていた。

傷痍軍人の患者さんに
義足をつけて、
働くことを促したり、

トラックに片足とられた少年の
救急手術や、リハビリーや
義足を、作り、歩くまで付き合っていた。

彼らは、理髪業の店を開店し、
客として、髪を切りにいた時
耳たぶを間違って切られ、
床屋代金が無料になったばかりではなく
スイカなども暮れたことがあった。

13歳まで、自然の中で、
共存出来た知恵は
天与の授かりものとして、

生涯困ったときは
あのころに立ち返り、

人間としての財産は
健康と、
足ることを知る自然態と
天与の季節の恵みと

万能の人間は居ないのだから
思いやりと
広い価値観と

ケースバイケースで
今、
必要なことに絞り込めることが
生きることには、
イロハであると

疎開地は
教えてくれているような気がした。

戦争のTVは見ていてもつらい、
、、
誰が悪いのでもなく
世界の相関関係が
上下がありすぎた時代に生まれていた。

PS.の時代に、
国民もナンバーで呼ばれる時代に

最高頂点で時代を創るスタッフは
聖人君主であろうと思えるが
キーひとつで

今度は
地球ごと吹っ飛ばせるのである。
心して日本は
文殊の知恵で動かないと
権力に走っては
欲に走っては
損得に走っては
それだけでは
未来が見えない
神の域に
科学は足を踏み入れたのではなかろうか?

子が親を殺しては
地球は吹っ飛ぶ。

がん細胞のように
強すぎる細胞だけが蔓延するのは
大自然という
水道も排水もない
墓場に似た
石に似た
高層ビルの
不毛のゾーンで地球に
呼吸を停止させる結果にならないか?

宇宙の空間に咲くアジサイの
葉っぱを食い
穴だらけにしてしまう
自分だけがかわいいという
戦争被害者を
創るのだけは
皆で防ごう!

機械は果たして人間の思惑どうり
ロボットになって、
人工知能の益ばかりを
人類の未来に与えてくれるのだろうか?

今回のTVでも

原子爆弾は
色が問題になっていた。

実験だったのか?
悪魔もそんなことはしないはず!?

人間が元素になって
最後のピースが復元されたとき、

愛、信頼、こころ、涙、感謝、、、五感、
総合バランスの感情はもどるのだろうか?

子供を産まなくなった背景には、
未来が保障されない不安が
あるのではなかろうか?

医師の家庭に育ち
世間の風評とは
あまりにも違う

自分のことしか考えられないという
病気という状態の人間と
日夜、逢い続け
診療し、
それ以外の時間を
配偶者や家族、
身近なものが代行して、
ひたすら、
診療に持てる時間を使えるように
配慮の専門家になっても
まだ足りないサポートを、

形では見えない水面下の支えが
いつまでも続く。

人間が、人間の重さに気が付いて
医師の身体が
ベストな時の診断が
必要だった時代は

触診とか、医師の五感に頼る診断だった。
今は、機械力が主流となりつつある。

それでも、
医師を助けられるのは医師しかいない。

医師の仕事は
専門家でないと助けられない。

父は長男を医師にしようとしていた、
孤独だったのだろう、

こんなに、村人から慕われ、
取り巻かれていても、

医師でない者は医師の孤独は救えない。

孤独は裂けられなかったのだろう。



東京へ、再び帰ろうと思わなければ
父は、孤独ながらも
多くの住民に必要とされ
それなりに、
長寿全うしたのではなかったろうか?



子供の教育は、
アメリカの考え、
東洋の考え
世界の情報の入る東京に戻ろう!

実家のあった市谷では
開業は成り立たない。
4人の息子や娘の為にも
生まれた実家のある東京へ帰ろう!

昭和30年に母と長男が東京入り
開業の同級生が近くに居る下町に
44歳の父は開業したのです。

大学勤務の時、
戦地の銃創や、切り傷など西洋医学の指導者として
総合病院の院長を仰せつかり
戦地の大学には
「外科」の医局が無い時代
戦争は激しくなり、
西洋医学の指導の下、
銃創を、切り傷や、粉砕された骨、などの
処置を指導し、

滅菌感覚のない
当地の医療従事者に
任せられない激務の中に
とうとう、
戦場の
野戦病院の従軍が決まったのでした。

父の人生を思い浮かべると
七転び、敗戦を超えて、
家族を守ってくれた感謝がこみあげてきます。

開業のストレスや激務の為
たった、、、十年で内科医の兄にバトタッチ!
54歳で永眠しました。
戦争で、疲れた時代の医師の人生は

TVなどで、
面白おかしくアレンジされた
セレブな夫人の目線の高い人生とは
まったく異質の展開を余儀なくされた

医療のシステムの近代化の
荒波の時代であったと
振り返ります。

皆、それぞれが頑張った、

オリオン座を見ながら
寂しい時は
空の光の中で、
オリオン座で逢いましょう。

戦争は、、、もう、、、起こさない。
戦争には、もう、巻き込まれない、

外側から、
日本を分断する作戦が駆使されたとしても

日本人の絆は揺るがない!
外国に評価され、
平和の指導者として
信頼されて

日本が日本であるためにも!
日本人は一枚岩の結束と助け合いと
商売、損得抜きの
至誠天に向かって、通じることを
日本人同士が
見えない心が結束するとき、

拡がって広がって。
世界の多様性のある価値を知り
日本人が、世界中で必要とされれば

日本はどこですか?

日本は世界中です。

日本の本国は
世界遺産となって
時間が止まっているように見えるけれど

世界の平和への覇者であることが
解ってもらえる日がきっと来るのです。

周辺国が心からリッチになるとき
冷静に見て、

平和を乱そうとする悪魔は、
まず
仲間割れの戦場を創り始めるのです。

戦場にしてはいけないと思うなら、

東洋の国同士争いに巻き込まれないように
仲間を大切に、知恵の出し合い。
助け合い、過去のこだわりを捨てて
未来の平和を目指すべきです。

地球がちっちゃな星のひとつなのですから、
自然を壊さない足ることを知り
戦いで、地球の恵みを壊してしまう事のないように

戦争の空しさ、
破壊しかない原子爆弾の禁止
平和への地球家族になれたらと
祈る思いで

8月の「戦争番組を、涙で見ておりました。」




       つづく

野球

2015-08-13 12:57:52 | Weblog
雨上がりの草取りも、
携帯ラジオで、、野球放送を聞きながら

一人で、興奮して立ち上がり
拍手する。

高校野球!
いいね!

青春!

そして今日は、とっておきの「マリナーズ」の
「IWAKUMA]選手の

ノーヒット ノーラン、、、
さすがに、仕事を止めて
TVの前で立ち続けた。

野茂選手のトルネード投法の圧巻冷めやらぬ
日本の投手!

ダルビッシュも
もうチョットのとこで
とれなかった「ノーヒット ノーラン」

スゴカッタネ!!!!!
IWAKUMA選手の快挙!

おぼえているかい?
君が、学生時代、

日米野球を観に行った事を!

大リーグは、
また!日本の野球と別の興奮があるね!

お盆なのに、、、



仏様と野球の観戦で盛り上がりました。

戦争が壊したものと、芽生えたもの

2015-08-12 09:27:05 | Weblog



若いとき、生薬や漢方の集いがあると
家事を後回しにして、参加した者でした。

小岩に住んでおられた、荒木先生の方術漢方
多くの方が同じみの  ツムラの漢方講和
薬剤師会が講演していた実践漢方薬局の臨床講話

そして、私ごときが、知っているのさえ
失礼かもしれませんが

柴田良治先生という、雲の上の漢方の大家。

一方的に私の方が勝手にのめりこんだ一冊の漢方の処方集です。

「黙堂柴田良治処方集」という専門書を購入した時から、

漢方を専攻する、、、とか、学ぶ、、、とか、、処方を知りたいとか
軽率な気持ちでページをめくってはならないと思いました。

この方は、漢方に出逢われた方であると、すぐに感じるものがあるのです。

原子爆弾に逢われ、放射線を学問なさりました。
核爆弾が、人間を元素の塊の、化学物質と同列にした

放射線が破壊したのは、
人間の科学的な肉体のタンパク質ではありません。
人間そのものの、人間性、こころ、愛、全てです。

私はかって、東京大学の江橋研究所に技官として働いていた時

筋肉や構成するナトリウムや、カリウム、
そして、カルシュウムチャンネルに関する
ミクロの定量をしながら、

人体の構成する元素がすべてそろい、
タンパク質も、脂肪も、すべてそろって
人造人間が出来たとしたら、、、

心は宿るのか?
魂は宿るのか?

考え続けて眠れなかったことがあります。
薬科大学で、中途半端に、
生化学や、薬理に凝りまくったために

人間としての弱点である堂々巡りに明け暮れました。

その時、臨床に転向して、
精神疾患の病棟のある大学病院薬局の薬剤員として
病棟と接するようになったとき、

ドクターの大変さを垣間見てしまいました。
実際の病気に侵された患者さんと接する
ドクターの立場は、
総合的な経験と実力に満ちていても、
眉がピリピリと動くのを
何度か目にしました。

柴田良治先生は、
ドクターでいらっしゃいます。

薬学サイドでは、
木村雄四郎先生が
生薬を学ぶ者にとっては
知らないとは言えない先生です。

原爆に人間のメンタルなすべてを
破壊された日本人は
組織の破壊のほかに、
精神の破壊を余儀なくされる
惨状に置かれました。

この時、先生は、
放射線の学問に向かわれたのは
後をついてゆきたくなる、心が
伝わってくるのは

放射能が作る「がん」と呼ばれる
不治の病のせいではなかったのでしょうか?
検査で発見された時点では
遅すぎるステージではなかったのでしょうか?

私の弟は、千葉大学の外科に入局していましたが

手術場に来た患者さんは
すべからく、ステージが進んでいたと
嘆いていました。

彼は、放射線科に移り
早期発見
痛みのない医療に
夢をかけて、
放射線診断学に人生を貫きました。

彼とも、しばしば
漢方の話はしましたが、
「多くのジャンルの。プロに支えられて
「がん」と闘っているよ、、、
カウンセラーの側面からの支えも
ターミナルでは欠かせないとも
いつも、謙虚な医療の話題で、

姉というにはおこがましいほど
素人の視点の自分に気が付くことも
しばしばでした。

医師のことは、
医師しかわからないと思うのですが、
漢方と出逢ってゆく西洋学のドクターの
心の軌跡を知りたくなることがあるのは、
外科医だった父が、大塚先生の
漢方学の本を持っていたせいかもしれません。

柴田先生も、原爆が大きなきっかけで
やがて、漢方と出逢われたのでしょうか?

ページをめくりながら、
逢ったこともない著者の
漢方学との出会いを想像してしまうのです。

布で出来た、すこぶる思い本は
戦場で、なすすべもなかった外科医の父が
戦後、七か村、無医村の診療所で、
村人の協力のもと、生薬畑を耕作し。

疎開で
にわかに町になったような村人の
元気のもとの回復に試行錯誤の処方を
工夫していたのを思い出すのです。


外科も、内科も、耳鼻科も、産婦人科さえ
一時にやってくる野戦病院で
薬がない、包帯がない、破く白衣すらない、、、診療現場。

それ以上に、
ピカソのゲルニカのように

人間の姿形を吹き飛ばした原子爆弾。

哲学も、化学の前には木端微塵。

そのなかから、

ドクターによって、
漢方学の処方集が出されたのですから。

飛びつくのは、、、不思議ではありません。

どんな処方に、どんな生薬が使われているのか?

備急千金、万病回春 浅田漢方、、きりがないほど
多くの要素が駆使された処方集です。

今病院では、ツムラのエキス剤が
多くの病人さんに
優しさを配っています。

化学薬品の埋めきれない隙間を埋めています。

漢方、、、と言っても、

漢方でなければ、効果を示さない疾患も多いことを
認識するに至ったのは、この本でした。

息子よ!
戦争を知らない息子よ!
初めから、放射線を専攻した息子よ、

もしも、この文を読んでくれたのなら、

いつか、漢方学の狙いを考えてください。
漢方学をしなさいなどと、いう立場にはありませんが、

医師と言えども、
万策尽きた原子爆弾に出逢ったとき、

科学に果ての宗教ではありませんが、

地球と一心同体の生身の体に
コーヒーのブレンドの香りが

命を洗濯してくれる元気をくれる瞬間が
生きてる!ってことではないですか?

PC,や国民ナンバーで、世界は機会に統一されて
一億総人口、科学に支配される家畜となるとき、

地球の生命のおっぱいに張り付いて不器用でもいいから
地球の息吹の中で、精神を維持し、

人間であり続けるための

科学と、漢方の考え方は、共存してゆくでしょう。

誰がこうした会を主催してきたかとか?
歴史をまるで
知らないで、長い間、
東洋医学会に入会していましたが、

ホノミ、小太郎、ツムラ、カネボウ、、、

中国の中医学院、北京、西安、成都、など
研修ゼミに参加した時は
生薬の点滴などあり、、びっくりしました。
当時は、滅菌感覚が感じられない時代でしたが、

東洋と、西洋医学の合体した漢方は
治療の隙間を埋めてゆくというより
漢方の考え方の総合で、
大役を果たせる時代が、
ターミナルにはあると思いました。

ドクターのCT画像や、
MRIのデーターと漢方の折衷の
論文が、東洋医学雑誌を覆うようになってから

見ても、読んでも、
意味の分からなくなった臨床の
一例報告は
古典資料で出発した
生薬科学の合成感覚では

臨床の文献を理解できなくなった頃から、

東洋医学会を退会しました、

今は、晩年の楽しみで、
昔、手に入れた本を、見返して、

人生の一番大切なのは、
時間、、、だったのに、、、と

これからの人生が、半分残っている息子に、

君一人の為に、今日は、ママの思い出話を
書きました。

ある種の学問は底なし沼を泳ぐような結果になると
反省するのです。

放射線医学一筋の君は君で

頑張って、
地域の人の役に立ってくださいね。

お母さんは、

見えないほど巨体だった
人生の母の胸で

赤子がおっぱいを吸うように
全身全霊で、
一生懸命地球のおっぱいを
吸い続けました。

やがて、
赤子が満ち足りて、
乳首を離し
こっくりと眠ってしまうように

生き続けた乳首を口から離し

眠りに直行して、

何やら笑っているような笑顔で
人生が追われたら、、、

いいだろうね!、、、

その時は、、、
起こしに来てはだめだからね。

ママは口元が笑ったままで
光の宇宙に粒子になって
塵の一粒に、、、なるんだね。

君らを、、、産んでよかった!

子供を産んで、育ててよかった。
君らの存在が、、、
ママの生きた唯一だよね。

ママは、「何も出来なかった」とは
思わない。

君らが未来に
向かってゆく限り。