昨日、、、NHKプレミアムの、京都の歴史を観ていました。
子供のころ、右手の大やけどのおかげさまで、
京都大学病院の、近藤鋭矢先生のもとに
通院していました。
病院からの帰り道、
京都の街を、母と歩きました。
知恩院や、鴬張りの廊下や、
二条城に行って、来ました。
哲学の道も、
桜の花の並木で
夢のような道だった。
清水寺では、驚きが感動に変わりました。、
京都まで、通院することが、
毎回楽しみで、
やけどのおかげで、
母と娘の散歩道でした。
2歳半から17歳まで
右手の矯正手術は、
7回に及びました。
そのおかげで、
父と母の、
***大いなる遺産は***
お金ではなくて、
右手のやけどを
直してくれた「親の愛」と
京都の名医の先生との
コミュニケーションでした。
お宝池、、嵐山、、、平安神宮、、、
羅生門の舞台になった文学の道。
それから、
修学旅行でも
京都に行きました。
小松川高校の友人たちは
もう、人生を卒業している頃ですね。
私のメールは
kikokikokiko.noriko@yafoo.co.jp
美容師の竹さん、
山の好きな久保さん
星の王子様に恋をしていた「トン子」
小学校の先生になった写真部の部長!
山と渓谷。。。という立派な雑誌に
高校生なのに掲載されたSUさん!
蓼科山は、てっぺんが岩だらけで
しんどかったです。
関が近いのに、話しかけることはなかったけど、
東京工大に進学した「皆のつけた愛称が、ろくちゃん」
きっと、世の為に働いた事でしょう。
ピアノが上手くて、北大に行った サクヤさん。
もう一人、
北大に行ったKさん
忘れられないほど
素敵な美人だった、静かな名前の Nさん
京都の修学旅行の思い出は
尽きることはありません。
卒業以来、たった一度だけ、
体育のM先生が、
聖母大学の学長になられたとき
同級会に行きました。
高校、大学と一緒だったO嬢が
クラス会の世話役をしていたので
何とか、仲間に入れました。
京都に修学旅行に行った事が、
今でも、
みんなの笑顔が浮かんでくるのです。
京都は、不思議な「絆」ができる所ですね。
2年間も入院や、通院で、
そのたびに、
八坂神社の近くで
くずきりを食べたりしたのに、
修学旅行では、
立ち寄ることは
しなかった。
これから、受験だというのに
皆も、私も
たった一度も、
家康や、秀吉の事を
話しませんでした。
最後に母と京都を訪れた時も
京都の雅な美しさしか
考えたことがありませんでした。
清水の坂の途中で、
クロトラメ石の「数珠」を見つけて
神様、仏様のお恵みに思えて
母に、買ってもらいました。
あの数珠は、、、
どこにいってしまったのか?
南紀で13年、小学校6年から、
大学卒業まで、東京。
お父さんの生まれた市谷
外科医の居ない内科は困る時代だから、
父もあちこち、、、大学病院からの
命令で、日本と言わず、外国へも
新しい術式を学びながら
旅から旅の人生だった。
父が、京都大学の近藤先生の
サポートをいただくようになったのは
私の、大やけどの移植手術の時からかもしれません。
父は、京都に出向く時間のない
過疎地七か無医村で、
戦争からの疎開地として
急に人口の増えていた、
古座川、新宮川、の間のあたりの
村の診療所で働いていた時でした。
寝る暇もない激務のお父さんの様子に
近藤先生の方から、一か月も、出張してくださり
娘の、私の手の手術を、
父と二人で、
村の診療所の手術室で
施術してくださったのでした。
父が、外科医でなかったら、
スーパードクターが、
山奥まで泊りがけで、
娘の為に
手術をしてくれる機会など、
夢のまた夢の出来事だったと思います。
疎開地の、七つの無医村の
唯一の医師だった
父の激務に、
武士の情けのような
スーパードクターの理解があって
サポートを
いただけたのではなかったのだろうか?
父の、おかげで
近藤先生と知り合いになれました。
患者さんの一人として、
京大に入院できました。
京都は、こうして、私にとって、
癒しの街となりました。
17歳の時、
警察病院の、
大森先生が、
最後の仕上げのZカットで
指と手のひらの引き連れを治療してくれました。
父
近藤先生
大森先生、
3人の先生のおかげで、
私は、チェルニーぐらいなら
弾けるようになりました。
ピアニストの母も
結婚のお祝いにと、
アップライトのヤマハの88鍵盤の
ピアノを買ってくれました。
息子たちには、
バイエルや、
ブリュックミラーの小曲を
私が、手ほどきしながら、
連弾もしました。
私は、17歳で
復活したのです。
京都は、復活の街なんです。
東京は、父の生まれ故郷。
なぜか、京都での
お父さんの姿は記憶にありません。
右手が治癒して3年たたないうちに
父は、54歳で急逝しました。
まるで、今にも起きてきそうな父を
早朝、薄明かりの中で、
まだ。。暖かかった手、、
「その手」を握り締めまま、
見送りました。
お父さん、さようなら。
皆の京都よ
さようなら。
*************
******
******
兄が後を継ぎました。
4年ほど、過ぎた頃から
開けても、
暮れても
お見合いの話ばかりで
窒息しそうな
兄のお見合い強制攻撃にはまいりました。
薬剤師の24歳は
これからが修行です。
結婚どころではないのです。
しかし、、、
母の勧めには逆らえませんでした。
その後、札幌で
外科医の夫と出会いました。
母が、、、お父さんが、
若くなって、
我が家に帰って来てくれる、、と
私たちの縁を進めました。
君の家を手伝うよ、
夫になるという、この男性は
母に向かって、
「3年たったら、東京に戻り。
必ず、お父さんの後を手伝います。」
殺し文句を母に言ったのでした。
、、
手伝うつもりだった、、
嘘を言うつもりは
さらさらなかった。
彼の父母も、帰ってくると信じていた。
私も、3年ぐらいなら、
北海道に居るのは恵みであると、割り切った。
医学の世界を知らなかった、、、私も彼も
ここで。もう一度繰り返します
医師になるのも、、そうとう難しい!
しかし、、、医師をするのは、、、さらに難しい。
人生をささげなければ、医師はできない。
親も、伴侶も、サポートに徹する15年以上が続く。
実家を手伝うどころではない。
寝る暇もぶつ切り時間を、うまく睡眠をとる。
国立で、税金で
医師になった彼が、
私的な病院で、
自分の意志のままに
働けるほど、
医学の社会は、甘くはなかった。
大学院は博士号を取得出来なければ
前にも後ろにも進めない時代。
平成の今とは違って「無給医」である。
外科の医術を学ぶまでは、
アルバイトどころではない。
収入はない。
時間はない。
家庭を振り返る暇はない。
奨学金で生活をする、
奨学金は一日も早く返さねば
次の生徒が、借りねばならない。
返済は、
これからの学生の事を考えると
還さねば
罰が当たる、
結婚してしまった責任上、
私は、とりあえず、
無利子の
奨学金を一気に返し、
銀行のローンを組んだ。
風の吹くままに
札幌で、結婚生活へ、
3か月後に留萌へ、
札幌、留萌、余市、夕張、旭川、函館、、、
外科医の夫は、
一か所にとどまることの少ない
修行が、続く。
京都の雅とは、反対の世界。
冬山の吹雪と
日本海の荒波の、虎落笛が
ガラスにヒョウ紋を創る、、凍える美。
腰までの雪の中を玄関にたどり着く。
宿舎の廊下は雪だらけで
長靴のまま歩いた。
流産はするし
夫は仕事以外は耳にも目にも入らない。
妻なんて、無給医のストレス解消の
対象でしかない余裕のなさである。
重大なことなのに
取り合ってくれない。
吹雪の中を病院に向かって
這って行った記憶が、
我ながら、
依存心があったと。反省する。
切迫流産だったら、、、どうしよう!!
もう。夫のことを頼るのは止そう!
ヤッケを着て、雪の中を這った。
恐怖の吹雪が、顔に突き刺さり
自然の怖さが
今も、残っていて
PTSDというのは
こういう記憶をいうのかもしれない。
その間、外科医として、
身につけねばならない
手術の手ほどきを
授けられていた夫は
術後。産婦人科の医局に電話がかかってきた。
私は、出れなかったので、
先生が出てくれた。
「一人で、帰れるかい?」
と、言っていますが、
産婦人科的には、外科の研修医に
教えたいこともあるので、
御主人が帰るまで、
私が目の届く当直室で
しばらく、、、眠ってください。
その日は、夫は、外科の病棟に泊まり、
迎えには来なかった。
婦人科の先生の機転で
当直室に、おいてもらい、
回復を待った。
外科にも命の境目の患者さんの手術があり
とうとう、、、夫は来なかった。
翌日、雪の中を
たった一人で退院しながら、
成り行きとはいえ
とんでもない
結婚をしてしまったと
思いました。
私は、自分の認識の未熟さと、
医師は免許を取ってから、
15年以上も、
上司のペースに
「はい!」以外は答えられないのだ。
妻側の家庭生活一切を依存しないという
サポートがないと
学生同様の生活で
教えを乞う
情けない身分であることを
思い知ったのでした。
実家を手伝うどころか、
里帰りもなく、
母の葬式にも来れなかった、
外科医の宿命。
結婚前の、母に負んぶに抱っこの
依存生活が、思い出された。
一人で京都に旅に出ました。
右手を三角筋でつりさげたまま
学校生活と
手術の繰り返しの中でも
私は、苦しいと
思ったことはなかった。
家族が居たから。
母という。頼れる相手と、
京都の街を散歩しながら幸せだった。
私の麦手の手術と闘っていたのは
母だったから、
私は、お客様だった。
しかし、、、
結婚は違った。
夫は
「医師をするために、
研修の機会を生かすことしか
考えないという
余裕のない性格」だった。
医師免許をいただいてから
、
「医師をするまでの腕」は、
100パーセント
チームの都合に合わせて、
仲間にしてもらえるかどうか
夫にかかっていた。
外科は一人ではできない。
チームの都合で動く。
家庭を大切にしているようでは
術式など、
先輩から指導してもらう
チャンスを失う。
特異な専門分野で
医師をしている先輩のもとで、
3か月を単位に助手をしながら
手術を取得する。
そして大学に戻り
指導を受ける。
大学では、大きな医局である外科は
執刀医が回ってこない。
見るだけ、
「こう曳」、、、という
患部がよく見えるように
執刀者の上司の医師の為に
切開部を広げて見えるように
引っ張る器具で
ひたすら引っ張る役が
新米の医師の役割だったようです。
何時間も。同じ姿勢で引っ張るだけで
肝心の手術は見えない。
「このままでは。。。外科医になれない。。」
夫の頭の中は、
外科の執刀技術を指導してもらえる
評価のある指導者の居る病院に
行く事ばかり考えていたのであった。
何処の住人やら、
自分がわからなくなるほど、
出張が続き
地方によっての
特有の疾患に出逢うと、
興奮して、
仕事のことばかりしゃべっていた。
大阪の循環器病院に行ったきり
何か月も、妻子を親類の居ない札幌に残して
帰ってこない時もあった。
このころは、もう、
夫は家に帰ろうが、帰らないだろうが、
あんまり、、、意識にはしなくなっていた。
もともと恋愛ではない私たちの夫婦は
話すこともなかった。
毎日仕事のことを聞きながら、
家政には必要な事だけを
頷きながら、チョイスして聞いていた。
雪かきをしながら、
窒息しそうになると、
京都へ行った。
京都に行って、
深く考えもしないで、
あちこち歩き回り、
お母さんに、、、ごめんね、、
ごめんね、、と言って
京都を歩き回った。
枝垂桜の美しさに、見とれて、
また、、、
北へ戻った、
4月だというのに雪の轍が
足首の捻挫を起こすほど
歩きにくい春先だった。
夫の学会で京都について行った。
駅で、学会の指導者の
先輩に出逢った。
「君、僕の荷物持って、
先にホテルに
チエックインに行ってくれない?」
夫は、学会誌だけ持って、先輩と
お宝池の方に消えた。
京都まで来て、
2個も、ごろごろ引っ張りながら、
一人で、ホテルに向かうなんて、
私の夫は、仕事バカである。
このまま、
2個の荷物をごろごろ引っ張って
女一人、、、
ホテルにチエックインしたら
「あほ!」
私は「あほ」です。
タクシーを止めて
荷物を載せてもらい、
2時間、観光コースにない穴場を
走ってもらった。
腹を立てる分、
逆手に考えて、
京都の庭や、茶室を
一人で堪能した。
時代祭を、見に行ったこともあった。
NHKのプレミアム放送で紹介されたように、
***********
、、、家康のことも、
秀吉のことも、
頭に浮かんだことはなかった。
***********
嵯峨天皇と空海のことは
しばしば、
お坊さんの説明を受けた。
市松模様も、
托鉢と深い関係があることも知った。
私にとって、
京都が、
癒しの街だったことは確かですが、
歴史を深く考えて歩いたことはなかった。
戦争で、よくぞ、、、残った!
ライシャワー大使の顔が浮かんだ。
******* **** ****
(^^ (^^
二男が、医学部の4年に進学できたとき、
ともかく、
京都、那智、勝浦へ行こうと、
気の向くままに、
京都を、二人で歩き回った。
東寺に出逢った。
お守りを買いました。
この子が一人前の医師となり、
医師をすることのできる
40歳ぐらいまで、
どうか。。。
サポートができる健康を
下さい。
本気で祈った。
40歳、、、、命がけのサポートに成功した。
私も、手術上がりで
リハビリ中だったので、
ペースは、ゆっくりであったが
ともかく、息子の大移動を成功させた。
東京のマンションを引き払って、
救急病院に固定した。
地域の人々に貢献できると信じている。
親は、息子に望むことは
医師として一本の道をまっすぐ進めば
必ず、地域に貢献できる医師になれるという事です。
「医師になって、、、頑張ったね」
、、、さあ。。。これから
最終目的の
「医師をする事」に、
まっしぐらの臨床力をつけながら
医師をすることを、貫いてください。
親の望みは、これだけです。
よほど、恵まれた環境で、
息子をサポートする医師の父親でもいれば
医師の息子は、苦労を知らずに、
修行だけに打ち込めるのかもしれない。
それとも、
学問に王道はないのだろうか?
医師の妻も
医師になろうとする息子の母も
自分を捨てて、
多面的に、
ありったけのサポートをしても。
医師は医師しか助蹴ることが出来ない。
やぶ蚊が止まったぐらいのことしかできない。
せめて、心だけでも
一緒に生きて、
寄り添って、
応援し続けながら
見えない何かを支えないと、
学問、や、臨床の怪物に
人生丸ごと食いちぎられる。
上司に「はい」としか言えない
長い修行の中で、
人間力をつけてください。
上から目線の、
専門バカにならないでくださいね。
実るほど頭の下がる稲穂かな!!!!!
忘れないでね!!!!!
世間に、
医師という金持ちが居るがごとく
「風評被害」の真っただ中で、
ふと考えるのです。
どんな金持ちも、豊かな人も
病気の時は貧乏で、
豊かではありません。
だから、、、指導的立場の医師が
金持ちで、豊かに見えてしまい、
世間の風評が「金持ち」になってしまうのは
仕方ありません。
確かに、月給は多少多いかもしれません。
時間貧乏の医師は、
睡眠も、タクシーの時間を買うのです。
人生の時間を、月給で買い取っているのです。
患者様に頼ってもらえるすべてを
身に着けて行くのが
「医師をする」という事につながるのですから。
となりの病院の医師に負けてしまったら
患者さんは、隣に行ってしまいます。
医師の競争相手は、
日進月歩の医学の進歩に
取り残されないという、
地道な勉強ではないですか?
同業者という事になりませんか?
開業資金を自腹で借りて、
医術を商品として駆使するのも
事務系の大学卒は考えて
大きな会社は、
サービス業と考えるでしょうね?、
医師も、医術も、
事務系の采配によると、
マリオネットのように
思うように、
お金儲けの方へと動かせると
一見、、、考えるでしょう!?
医師は、患者さんの信頼で生きているから、
商品にはならないと思います。
周りで環境を整える分野では
サービス業のプロ意識で
事務系の手腕にかかってくると思いますが、
医師は医師としての大切な何かを守っている
理解しがたい、芸術家のような、気質があって、
その特性を大切にして、
尊重してあげることが、
まず、
戦略の第一にすべきと
気が付かねば、
あたら、素晴らしい才能を、
発揮させることが出来ないのではないかと
ナデシコジャパンの
監督さんを見ていて、
ふと、、、気が付きました。
デモシカ先生は、、、
命の前には成り立たないのが、
舞台裏に居る家内からは見えるのです。
何たる、、、人たちなんだろう、、、
患者さんのことしか、
病気のことしか
考えない、
医師の敵は医師とばかりに、
医術で負けたら、
患者さんは頼って来てくれないと
考えているのでしょうか?
ピークの時は30個もの学会に所属して、
病院に泊まって、
自宅には、土日しか帰らなかった。
昔のことが頭をめぐり、
息子とこうして歩けるのも、
学生時代だけと、、ふと思って
息子を見た。
息子は言った。
「母さん!、でたらめに歩きながら、
東寺を引き当てるなんて、凄いね!」
それから、、苔寺、石庭、枯山水、
たった2畳しかない、お茶室とか、、、
息子との京都は、観光コースからそれて、
山あり谷あり、川あり、琵琶湖疏水から
琵琶湖に出た。
私の京都は、
父母からの、大いなる遺産であり、
息子との、
人生の峠を越した
母子の絆の散歩道だった。
医師免許をもらってから
息子は実家に帰ってきたのは
一回だけである。
救急病院で
病院300メートル以内に
待機していることが多いのだそうです。
息子と京都を歩いた、、、あの時も
一度も、家康のことも、
秀吉のことも、
やんごとなき方のことも
頭に浮かばない、
心の別荘地のように、
ひたすら癒されて、
生きるパワーをいただいていた。
今日、プレミアムで。
京都の歴史を教えられました。
家康、秀吉、公家衆、やんごとなきお方。
日光東照宮、静岡東照宮、
武家たちの、天下平定、、、
京都のイメージが、
今日一日で、変わりました。
かなり、、、
親しんでいたつもりの京都を
私は、、、何も考えずに、
水澄ましのように、
水面を飛んで歩いていたことに気が付いた。
自分の京都の旅が、
いかに私的なものだったのかと。。。
味わうことをしなかったことかと。。。
びっくりしています。
雅は、歴史を隠してしまう
京都に、、、長い間、、、
71歳になる今日まで、
考える力を、目隠しされていました。
何も考えないで、ひたすら癒されて、
歩き回った京都に、
私は、、、2年以上も、居たのですが、、、
京都のことは、何も知りませんでした。
NHKのプレミアムの番組は、
人の世の、黒幕に逢わしてくれた
政治の世界の京都でした。
取り残されていた、70年は
取り戻すことは無理ですが、
これからは、人の世には、
歴史の黒幕が存在することだけは
認識して、
もう一度、NHKの視点で、
もう一つの京都を見てきたいと思います。
人生最後の幕は
医師をすることを認められた息子に
ありったけのものを譲り
良い環境を整えてあげたいと思うのですが
維持費のかかった車が2代続くと、、
無い袖は振れません。
一段落したら、
わずかな貯金は残さないで
旅に使い切ろう!
秀吉の神社も
時代の都合で取り壊されてゆく
平和の維持の前には
個人の財産なんて、、、
穴の開いた葉っぱのようなものかもしれない。
番組に、、、ありがとう、、、と、
申したいのです。
親もほどほどの
名誉が守れる老後を過ごすことが
息子への、大いなる遺産になると
気が付きました。