花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

アランドロンの若かりし頃の映画

2018-09-30 04:15:54 | Weblog
サッポロは余震が、、、まだ時々あります。

熊本の例が無かったら、、、余震でびくつくことも無いのですが、

とりあえず、必要なところ以外は外出していません、

早朝4時に起きて、洗濯、庭木の水やり、、、

地震で、ドスンと落ちたモルタル壁のも回り、、、

雨風嵐に備えて、ビニールで壁をおおって、

修復工事の人が来るのを待っている。

あ。。。今日も、、、揺れたよね???

気のせいかしら?、、、

二階の倉庫と化した和室にかけてあった、、、、

若き日に、
勅使河原 創風師匠に、まるで「現代詩」の 魅力を、、感じてしまって

選択科目を受講するような気楽な気持ちで、

生け花を習いに行きました。

東京の御茶ノ水の教室で、

大学の授業の合間に

花を相手に「時を忘れる」のは、

最高に切り替え効果にもなり、良い時間でした。

昼休みに、

勅使河原創風師匠の

草月の現代詩のような、

男の花を習いに行っていたのでした。

ほとんどが、福井先生とおっしゃる女性の先生で

淡島千景さんのような、

和装のお似合いの、上品な先生でした。

男子学生の多い日大の理工学部の教室からは
5分ぐらいで、YMCAの、会場に、、、とーちゃこ!

元来が登山で見渡す四季の花の、強くたくましい

そして可憐な花が好きな私にとって

自然の命を絵の具のように使う

技巧に走る生け花は、

ショウウインドウの洋服や靴やバッグと

同類の部署に、自分の中では分類していた。

しかし、創風師匠の生け花は

切株であろうと、根のない花であろうと

その作品の中の単なる部品ではなくて

何か、、、言葉にできない

詩にも書けない

絵にもできない

「命」や「生きること」への、

根源になるような

太古から引き継がれてきた思いが

現代詩となって聞こえてくるような作品だった。

私が、、、芸術というジャンルに「幼い」のかもしれないが

命の杜を切り取って、別の命を創る意味が知りたかった。


何年か経って、
師範の看板と横長の師範の免除と送られてきました。
創風さん自身の書によるもので、

棟方画伯のダイナミックな字と通じるような

何かが有った。
花の師範免許として見ないで
美術品として、飾って観ると、いいものです。

後日何年かたって、
創風先生直々の御習字の手紙の挟まった本が送られてきた。

分厚い、大判の、師匠の作品集で、
一冊37000円前後の記念誌である。

弟子として、この方から、師範免許を許された以上
考える余地はありません。

薬剤師会の学会費を支払うような気持ちで、買いました。

創風師匠の現代詩のような。

いわれなき魂の叫びが風化して

森羅万象の一部として、形を通して、

輪廻のような「命」を感じるベースの草木に

この世の煩悩にも似た、強烈な色彩が加わり

永遠に風化にゆだねることを良しとしない、、、

生きている叫びのような

一瞬の時間の作品にしてしまい、

一瞬のカメラの映像が、、、

残るのか?風化するのか?

私にはわからない。

ともかく、、、、

生け花の命は半日で精気を喪い始める。

その点、此処まで写真に繊細な光を読み込んで

イケたばかりの「世紀を閉じ込めた写真集」は

生け花の作品とは、又、別物の迫力と、、、何かを伝えてきた。

師範をいただいた弟子としては

一冊買い求めました。

スゴーーーく、、、重たい本です。

生け花のジャンルに入れて閉まってよいのでしょうか?

造形芸術のような、ダイナミックなエネルギーを発していました。

コンパクトにすれば、
迫力がミクロになり
形だけが浮き出てくるので、

盆景のような穏やかさも感じられて、
生け花の好きな女性の座右の銘になりそうな

巨本でした。

コンパクトにすれば

ベストセラーになるかもしれません。

本棚で、ドスンと音を立てて斜めになった。

周りに置いてあった、B5~A4大の

日本の生け花とお茶のの本などが

大きな本にはじかれて、床に落ちてきた。

ついでに、師範免許の額が

(習字として、芸術作品のような師範免許なので)

ゆらゆら揺れた結果、斜めになっているのだった。

階段にかけてある、額縁なども斜めになって不安定である。

周りをビニールの幅広テープで張り付けて

ガラス部分も十字に、幅広テープで貼り付け

ガラスの割れた時の想定で、防御した、

やれやれ、、、当分ストレスが地面からやってくる。

本も額絵も凶器と化する地震である。

額縁のかかっている下には

子供を寝かさないようにと、祈っている。

さてさて、、、ストレスは、、、束の間、、、忘れたい。


昼過ぎ、、、

アランドロンの若き日の映画が、NHKで続いている。

笑点の落語家さんとは、、、

タイプが。。。全然違うんでしょう!!!!


甘いマスクで、ドンファンで

これまた、映画ならではの、、、「ワル」である。

地下室の、、、

つまり、、、

人生の生き方が地下室なのだろうか?

舞台の天井から地下室まで

大金を盗んで、、、逃亡直前で、、、下手をやって

札束がプールに沈めたバックから、、、浮いてくる。

どんどん浮いてくる、、、

プ―ルの水面が札束に覆われてゆく。。。

そこで、、、映画は終わっている。

地下室のメロディー

映画ならではの面白さが

ペーソスのある終わり方で

画面で魅せてゆく構成はさすが、、、フランス映画???

後味が良かった。

勧善懲悪を

かくも見事なウイットと、エスプリ?

また、、、音楽が良い、、、

落語家さんが、、、

アランドロンのなりたがるわけがよーくわかった。

素敵です。


一瞬、、、地震のことも、余震の事も、、、忘れられました。

ストレス解消しましたよ、、

アランドロンは、、、あの顔で「ワル」が似合う。

いや~~~映画っていいですね!!!

地震も余震も、一瞬忘れさせてくれますね。

それでは皆様、、おやすみなさい  おやすみなさい、、、お休み、、、、」m(^^m







生け花芸術も、映画も、音楽も、、、絵画も、、、

どこかに「ワルが潜んでいて、、、」

聴衆を魅惑するスパイスになっているようですね。

真夜中の4時   とうちゃこ

2018-09-26 03:01:11 | Weblog

何とも言えない不思議な時間の速さを感じながら

日本は、心のふるさとの場所ごとに

時の流れる、、、時間の速さが違っている不思議を感じながら

自転車をこいでいる

足のふくらはぎの

筋肉の動きを感じています。

自転車の旅、心の旅、

さりげなく自然に溶け込んだ不思議な色彩のおしゃれ、、、

草根木皮の香り付きの「癒される番組ですね、、、」

有難う、、、一緒に旅にこころを連れて行ってくれて、、、

もう一つの日本を知りました。

ゆっくりと、、、頑張ろう、、、

2018-09-25 23:47:12 | Weblog
今年も衣替えの後は、紅葉の季節が始まっている

昭和生まれの私たちの年代は

戦後の混乱の中を、

ゆっくり頑張るという、、、鳥もちにも負けない、、、

父母の背中を観ながら生きてきた。

雨だれが石に穴を開けてしまうがごとく

13年間も

疎開地で心身を建てなおし

戦地で失った子供たちの遺灰を抱きしめて

新たに、、、

戦争を知らない団塊の世代の子供たちを

高齢出産で取り戻す、、、

?????つもりだったのか?

ポジティブに被災を克服してきた。

小学校高学年になった私は

父の生まれ故郷の東京にやってきた、

市ヶ谷の文人通りに有ったという父の実家は

大手会社のビルが建ち

帰るすべもなく、、、

湿地帯だった江戸川の近くの高台に

お寺があって、その跡地に診療所を始めた、

戦争前は総合病院の院長だった父は

晩年に向かって、息子たちの戦後の教育の為に

命を懸けて、生まれ故郷の東京に還ってくれた。



不思議なことに、

山河を相手に自然を先生として

マスコミも、新聞もない生活だったのに

東京の小学校に転向するなり

私は「クラス委員をさせていただく羽目になった。」

、、、、、


東京と言っても、、、疎開地に負けないほど

貧しい村落が点在していた、


陣地???と呼んでいた「バラック」村落も

点在していた。

ドブだらけで

「蚊」が、

蚊取り線香の煙の中で

ランデブーをしては、

水たまりはボウフラがはね泳ぎをしていた。


慈恵会医科大学を卒業していた父は、

東京タワーに連れて行ってくれました。


母校の病院には「エスカレーター」があり、

父の親友が教授になっていらっしゃいました。

戦地で過ごした父には

同級生が暖かく帰還をよろこんでくれて、

新規開業にも、大きな力となりました。

新橋から、歩いて銀座に出ました。

不二家のペコちゃんの顔の看板があるビルで

食事をしました。


疎開地では見たことのなかった

デコレーションなアイスクリームや

オムライスを注文したことをおもいだしています。


銀座4丁目まで来ると「服部時計店」がありました。


そのショウウインドウに、、、

びっくりする展示物がありました。

砂の上に、、、動物のシャレコウベ、、、割れた「お釜」、、

勅使河原創風、、、、

生け花作家の作品だった。

原子爆弾で分解された人類は

動物のシャレコウベ扱いなのか???

原子爆弾で元素になった生き物は

人と言わず、、、動物と言わず、、、

砂漠の中の置き去りにされた生命の残渣なのか?


ワレタ釜は、、、

飯など焚くことも

もはやなくなった、、、物質となった Fe

シャレコウベ

というCaの元素なのか?



人間がナチスの扱い以上に、分解される、、、,、

元素になる。

原子爆弾で炭になったボディは、、、炭素C

生命科学者は叫んでいる、、、

イオンの移動も、スピンも、、、岩石も、、、命だと???

「生け花作家の作品は、戦慄の瞬間の「ゲルニカ」と重なった。


元素になった人間は、、、
もはや、人格もない化学物質になった。

動物も、釜も 砂も、、、さっきまで人間だった「人」は

地球上の構成元素と同類の扱い?


奨学生だった多感な時代の私に、
父が見せたかったのは

母校でもなく、、、ペコちゃんでもなく、、、

説明不可能な、、、

命亡き命の残渣の敗戦の跡。

日本の現状から

未来の子供たちへ、戦争の恐怖を

生け花作家の展示物を通して伝えてきたのだった。


「戦争は夢も希望も、命も地球も壊してしまう、、、」

田舎の疎開地には豊かな自然と

躍動する生命の美しさが有った!

東京は、、、もう、、、いやだ!と

一瞬思った。


子供の頃の記憶とは人生に大きな影響を与えるものだと思った。

勉強はともかく、

登山の機会あるごとに山に行った。

山裾から頂上まで「日本の四季」が移ろいながら楽しめた。

花屋さんの花と「別物」だった。


群生する山の花は命の合唱だった。
今でも忘れない、、、
信州の鉢伏、入笠山、茶臼 蓼科、、、

山頂近くの岩登りは、、、しんどかったけれどネ。


核戦争さえ今後起こさなければ


日本にはみずみずしい生命の躍動が山頂から見えた。


弟も、私も、戦争からの戦後の廃墟を感じながら

地道な努力で、復興に参加してきた年代である。

弟の名前の出ている単行本を地震の中から避難させた。

私の中では、

がんという、、、早期発見によって延命につながる病を
見つけ出すところから頑張った医学の黎明期の本は
出来上がった世界での主導権争いとは
根本的な出発点において違う別物に思えてしまう。

登山で、山裾から山頂までの、植物の生態を

一日で観ながら、翌朝ご来光に祈り、
下山したとき、

だんだんと現実に還り、、、東京に還ってきて

花屋のガラスケースで

大輪の花を見たとき、、、

同じ花として認識するのには、一週間の時間が必要だった。

心の中での、私的な価値観が反転させる時間が必要だった。

横綱の貴乃花も 

お父さんのハンサムな貴乃花も

戦後の日本の、元気をくれた、、、

日本のお相撲さんである。

栃錦、若乃花、貴乃花の時代に生きた私の中のお相撲さんは

戦後の日本のヒーロだった。

茶髪の新人類がいつしか中年の折り返し点になったとき

日本の相撲は、モンゴールからの力士が増えていた。

お相撲さんも、日本の侍のような髷が似合った。
戦後の日本を復活の元気にみちびいてくれた
子供も大人も共通に楽しめるスポーツだった。

団塊の世代を立派に果たしたスポーツマンだった、

男たちの背中に見える達成感は
本人の宝物だったと思います

女性だって、、、無我夢中で働いてきた。

ふと、、、振り返ると、

せっかく、、、医師になったものの、、、
息子は、仕事が大好きで、
ビョインの300メートル以内の居ることが多いようだ。


43歳、、、いまだに独身である。



主人と同じように

車の免許があっても「車は運転しない。

寝ぼけていることを考えると

真夜中でも「オンコ ̄ル」に飛び起きる不規則な人生で

車は予期せぬ事故になるからと、、、

運転しない事に

はっきりと決めたという。


もっぱらタクシーで睡眠時間を買っている。

人は、、、お偉いさんとか、、、贅沢とか、、、

間違っておもうかもしれません、

私も、

主人の車で

助手席に乗って買い物などしたかったが

さかさまである。



「医師をする」という行動には
欠かせないことが分かるだけに

実験室で実験をしているような

裏方を続けてきた。

多くの勤務医の奥さんは、、、
ご主人と一緒に
生きているという実感はあるのだろうか?

奥さん方とは付き合ったことが無いので
聴いてみたいと思ったりしている。

主人がすぐに仕事に行けるように
全ての事を、、、
元のように戻しておく仕事。
スタンバイできる状態にする役どころかしらね。

70過ぎて、休みも取れるようになったときは
家に居るのが最高にリラックスするらしく、、、
どこにも行かない。

休み明けには、きりりと立ち直り勤務に向かう。

仕事だけが生きがいの主人です。



息子の時代には
医師はほんの少しだけ給料の良いサラリマンであるから

勤務医は

「医師をすることの必要経費」は

税金では認めてもらえない。


民間のお見合い相手は、、、
43歳の医師ならお金持だろう?

たぶん期待すると思うのですよね。

現実は、
私立医科大学を卒業するまでに経費が掛かった分を

社会に返済しながら、

一人前になるのは

40歳過ぎである

家もない、、
車もない、
救急患者さんに間に合うようにと

病院の至近距離の寮で

不規則な生活をしているのが現状だと推測できる。


もったいないような
お嬢さんを紹介してくださる人もいた、

しかし、、、結婚するには、、、
期待に応える経済力がない。

あまりにも歳ばかり取りすぎてしまった。
環境を整えるには
やはり女性は、36歳ぐらいまでの方が
現実的だと思ったりしながら、、、

次男の孫とは会えないで、、、
私の人生は終わりたくないと思いました。

戦後の貧困の時代の
心の貧乏を体験している主人は
自分がしっかり生きて行けることで、
後は,、、縁だから、、、、という。


本人は時間貧乏であり、
医師の仕事以外は余裕もないようだ、

大学勤務だけに、
女性が期待している「お金持ち」の部類には程遠い。

大恋愛で、万難を排して、

この男性についてきてくれるような



女性と出会う機会はすでに時は過ぎてしまったようだ。



仕事は責任ある位置になっている。

仕事も好きであるから、

独身でも充実しているようだ

日曜日は自宅待機で、昼頃まで爆睡している、、、、、、



しかし、、、
後期高齢者に入った親にとっては

人間としての
ごく自然な
当たり前に思っていた結婚生活が
無い人生が

我が子に回ってくることは

想定外の大地震のように
心が揺れる。

心配は尽きない、




地震以来
電気はついているか?
飲み水はあるか?
重いものは床に置けよ!

次男から、、、
メールが入り続けるから
親のことを
心配してくれているのだろう、、、、

優しいところがあり
臆病なところもあるようだ、、、

余震に負けるなよ、、、!
鈍感なぐらいが
ストレスを回避できるからな、
地震の中で、
長いスパンで後かたづけをするつもり。

人生の後片付けになるかもしれない年齢ですが
気持ちは、
まだまだ、、、
復活のチャレンジ精神で明日に向かっています。

次男が結婚してくれれば、
母が天国に行っても寂しくはないはずです。
しかし、、、結婚していないうちに
両親が居なくなると、
寂しがり屋の次男は、落ち込むだろうと思うと
今一つ、、、頑張って、、、生きていなくてはと!!!、、
モルタルの大きく落下した家は、補強して、
これからの地震に備えなくてはと思った。

北海道の地震の余震のあることを考えると

両陛下のお気持ちはTVでありがたく拝聴しながらも、

安全の上にも、安全を優先して、

被災地ご訪問は、安全な期間が確実に来るまで

両陛下のご健康こそ、復活の力が湧いてくる

大きな、、、大きな、、、光へのお導きだと思います。

今日も、皇室の宝、、、というTV番組を見ながら

日本の魂を感じながら

日本人の心は 

研ぎ澄まされた魂と努力と永遠の根気が世代を超えて

引き継がれてゆくべきだと、

その心こそ、、、宝と思って観ていました。

皇室の世代を超えた圧倒される心の光が

高きよりふりそそがれる光の瀧しぶきに目覚めるように

感謝の心が湧いてきます。




お月見

2018-09-25 09:44:21 | Weblog
昨日の名月は  東の空で、秋をささやいていました。

札幌の羊ケ丘の林の上に

地平線から湧いたような、、、地震雲が

とう綿の黙々の繊細な花実のように

白い綿の舞台をつくり

舞姫の静かな立ち姿が

余震の続く札幌の空で

静まることを祈って舞始めたような

哀しい美しさでした。

地震被害の地区の人たちも

万感の思いで見上げている月と思いました。

名月を、地震雲の真綿の舞台で

       哀しく見上げる札幌の街



札幌の余震、、、人生の余震

2018-09-23 07:12:33 | Weblog
サッポロは100年以上も、

こんな大きな地震はなかった!!!


[我が家でも爺さんがまいっておるよ、、、!!!]


[ビクビクしながら寝床に入る毎日だが、、、

揺れてるようで

寝付かれない。、、、]


札幌の被害の大きかった地域の知人の話である。

、、、、、、札幌市の北と南の、、、沢を火山灰で埋め立て造成した地区や
      もともと泥炭地だった北側が、、、揺れて、独特の地盤の変化が起きた。

主人が大学院生の頃、北の泥炭地に連棟長屋が売りに出された。

あちこち出張や留学の話に巻き込まれて、

2年間留守にできる家、、、を探した。

本拠地を連棟長屋のど真ん中の家にした。

此処なら、両となりに人が住んでいて、

家具を置きっぱなしで、海外に勉強に行ける!!、、、(^^!

若さは馬鹿さである、、、

一年もしないまま、左に置いた鉛筆が、右の端にあった。
大変だ!この家は傾いている。

建てた業者は、土台の基礎を持ち上げればよいと考えたようだった。

土台上げをします、、、責任ある言葉であったが、

私は、2年住んで、とりあえず、土台上げをした家を、

近所の人に譲って、南の羊ケ丘の麓に、、、

此処に、、、住みかえた。

財テクでもなんでもありません。

税務署は、国立大学勤務の医師も、

親の後を引き継いだ医師も

医師は「お金持ち」と勘違いしている時代でした。

短期で手放して、すぐに住みかえる、、、

留学から帰ってきたときには平たんに保てる家が必要だったから

生きるためにも、安全策を考えて、

厳寒の昭和基地に建物を建てた、

ロマンと闘争とチャレンジの

ミサワに惹かれて買った家でした。



この年になるまで、、

札幌では、、、大きな地震に会わなかった。

揺れたという記憶すらなかった。

それが、、、平成という時代が

陛下の御意思もおありになって

時代が代わるという事が新聞やTVで報道されて、

私たちのような昭和生まれの者は

少なからず、、、心は揺れていた。



そして、現実に物品も揺れる地震が起きた。

耐震構造のパネル工法の我が家でも、

今回の北海道の地震では揺れに揺れた。

物も落ちたり、、、壊れたり、、、

家の壁から、

ドスンと3人掛け大のモルタル壁が落下した。

ミサワホームのアフターさんが

専属の業者さんを伴ってすぐに来てくださった。


今度は、ミサワの構造に精通したベテランの業者さんだと

紹介してくれました。

「モルタルをはがして、

腐ってしまったコンパネと、支持の柱を取り換えて、、、

足場が,、、,、占めて、400万円ぐらいで治りますよ。」
「何しろ、モルタルをはがして捨てに行くのは
高いのですよ、、、」と、、言った。

今までにも、もう一軒建てられるほど
リホームばかりしてきただけに、、、
愕然となった。

はがしたモルタルなど、

アスベストが入っているかもしれませんので

処理費が高いのですよ、、、と言った。


「長いスパンで、考えて、今すぐしなければならない事だけでも

多すぎるのだから、、、最小限の生活防衛で、ともかく、、、」


返す言葉がない。

ストレスを回避するためにも、時間をおいてから、

どうするか?

後で、、、考えることにした。

保険には入っていないし、、、、。


我が家は、比較的地盤が良いらしく、

地面事かなり平行に揺れたが

凸凹に揺れることはなかった。


それでも、大切にしていたゴブレットや、

結婚式の引き出物に配った博多人形のカメさんを持った右手が割れた。

床に落下したが、さすがに博多人形は立派、、、右腕しか破損はない。

早速、余震の中で、アロンアルファで修理、

台に戻して、紙のトレイの上に置き、トレイをビニールテープで固定、
人形と、硝子戸の間にウレタンのクッションを置いた。

サイドボードは、観音開きを使っていたため

助かった!と思って開けたとたんに、

すべての段から、食器が落下!

しまった!!!!!、、、と思ったが、、、

遅かった。

今は、ビニールテープで固定している。

思い出をたどれば、、、、


若いころ、羊ケ丘のふもとに、

建売のミサワランドがあらわれた。

バブルで、土地も家も、、、どこまで上がるのだと、、、

自宅は持てそうにもない値上がりだった。


提携ローン9パーセントで購入、


しかし、本州の業者の当時の建物は

雨風しか防げない瀟洒な少女のような未熟な可憐さがあった。


軒が長く、、、豪雪が乗ると、雪が落下する前に

軒のほうが破損する。


寒気と暖気が繰り返すと、

本州並みに傾斜の緩い屋根には


クッションのような、、、
果てには応接セット並みの氷塊が出現。


次の暖気で、氷塊爆弾が落下、!


本州並みに広い幅の

ベランダサイズより幅広のガラス窓が

たたきのコンクリートから、
敷居までの高さが低すぎて、

バウンドして、

たたきのコンクリートをがっぽり破壊して

瀟洒なアルミ窓を割って、

内窓の臼ぺらな飾り模様の波が入った普通のガラスを
いとも、、、簡単に、、、木っ端みじんに打ち砕き

、ラワン材の枠をぶち割って

巨大な氷塊が、

窓際に置いてあったゴムの鉢植えと、
勉強机を

反対側の壁まで押してきて、

体一つの幅で、椅子につっかえてくれて止まった。

死ぬかと思ったと、、、息子たちは真っ青になった。


この日以来、隣の敷地に、

さらなるローンの上乗せで、、、、
35年間のローンが強要される結果となった。

軽量コンクリートのパルコンを建てて、
隣で寝るようにしました。

ミサワホームの材木の節々が

碧い、、、鬣を振り乱した馬が、
壁から、怒涛のように走ってくるような

幻覚の恐怖で、何度か飛び起きたりした日が続いた。


早朝から、寝るまでには、
木造のミサワホームに置いたままの家具を
移動させねばと、、、、気持ちばかりがはやるが、、、、
堂々巡りの、、、お手上げの時が流れた。

今思えば、、、雪が氷塊になって落下した災害が、、、
心をでんぐり変えさせたのでした。

隣の敷地に、軽量コンクリのパネル住宅を建てて、
工期の短い長所に依存して、生活の場を安全確保に切り替えました。

ローンの上にローンが重なり、
大学の給料では、生活が立ち行かない、

もう一つローンを増やしてAP経営を、
家内だけの責任において
借り人は私、経営も私。育児と両立させれるように
短時間のアルバイトも始めた。
真夜中の急病センターに12時から、翌朝の7時まで。

學校薬剤師も初めて、創立100年近い古い校舎を担当した。
社会勉強を始めたのでした。
難問に突き当たっても、勉強だと思ってぶつかってゆきました。
手探りで人とつながってゆきました。
APの入居者が出てゆくたびに、
大和の職員である2級建築士さんにリホームを依頼して

子育てで、なかなかAPを貸してもらえないという
お母さんの応援になるように

小さな子供のいる家族に入っていただくようにした。
毎月、いろいろな相談や、小さなリホームや
隣や上下のトラブルに呼び出されながらも
気長に聞き役をして、かなりのわがままな使用条件も
子育てに免じて目をつぶってきた。

この家族が、子供が小学校に入学とともに
引っ越していった。

天井から畳、、壁、、クレヨンのイタズラ書き!

リホームは2LDKで108万円のフルリホームでした。
もちろん、、、退出した家族には請求出来ませんでした。


子育て中ですから、壁紙を、ダブルにしておけば。。。
こんなにリホームはかからなかっただろうね。

ドアも交換、、、

入居者は、出てゆく前に、

ボイラ~とガス湯沸かし器が壊れたと言ってきた。

長い間入居していたので
設備として、新品と交換した、

アパートで儲けることは、、、まず無理だと思いました。

売る前の退出にも
退出費や、引っ越し代金、片付け代金、、、

結構な金額と、日時もかかりました。

しかし、、、ローンのピンチを時代を切り抜けると
主人は、博士になり、固定して、初任給が23万円という
当時としては、、、高級をいただくようになった。

ロ―ンはどんどん返済できるようになった。

しかし、、、、ミサワホームの、、、
倉庫になってしまった建物のリホームで

しばしばリホームせねばならないことが起き始めた。

主人の臨床力は年ごとに磨きがかかり
患者さんがどんどん来てくれるようになりました。

病院側では、若きエースの外科医として
昇給も毎年、働きに応じて、くださいました。

支払いと収入の差額が12万ほど利潤に傾いてくれて
生活費を確保した。

博士号を取得すれば、固定した仕事に就けるから
一挙に返済できるはず、、、と

火の車に乗ったつもりの若き時代の思い切りが

その場しのぎの借金経済を、
銀行の進めてくれる提携ローンで組んだ。

人生の、、、家計のピンチの時代が来た。

持ち家を借家にすれば、良かったのかもしれません。

若さ、、、は馬鹿さでもあった。
しかし、40歳を過ぎて、
主人が、一人前の外科医になったころから
ローンは順調に返済できるようになりました。

APの収入と、リホームは、予期しないまとまった支出を創るので
手放して、しまいました。

人生の終活として、子育てが終わった今、
APは要らなくなりました。

買った時の半額以下の値段で処分しましたが、
振り返ると、、、

経営することで、
ローンの差額が子供の教育費になっていたのだと思いました。
売ってしまった後は、100円も手元に残らないという
不動産の世界の不思議なシステムに驚きました。

日本という国は、不動産は国の者であり、
自分の者と思いながら暮らしているだけで、
人生が終わるころ、、、国に還ってゆく行く生き物だと気が付きました。

AP経営も、自転車操業のように、銀行と、不動産の会社と
仲介さんと、リホーム業者さんに、ぐるぐると家賃が巡回するだけでした。
旧くなって、入居者が一家族だけにして、全面リホームして
収入のすべてを使っても、
入居していただきたいような家族は見向きもしなくなる時代が来ます。
結局、設備も、全てリホームして、支払いが残っていても
入居者が居なくなります、

買った時の半額に壊し代金を差し引いて、支払い残高で処分して
身軽になって、、、女性の起業は、、、くたびれもうけで「0円」になって

老後は、、、子供の学費にと薬剤師をしていた5年間の年金で

孫と遊べるという、、、庶民のシステムを駆け抜けました。


隣の倉庫にはなっていても、
気のぬくもりと、柔らかな木材の香りに惹かれて
昼間だけは、隣のお二階で生活をするという
読書三昧の良い時間を老後の宝物に思っています。

地震の後も、モルタルはヒビだらけですが、

さすがにミサワホームのパネルは強くて
窓も開け閉めがスムースです。

ストレスを避けて、
未整理のままで、
母屋と隣を行き来しながら
最低限の満たされる生活に通い、
余震の治まるのを、動かずに待っています。

3年ぐらいかけて、

徐々に、隣に」生活を移した氷塊災害の時のように
長いスパンで考えないと
ストレスによって、、、死んでしまう年齢となりました。


デザインもシンプルで、
窓枠以外は
階段だけがラワン材でありますが
とりわけ目障りな自己主張の素材も無くて

日本の落ち着いた日常に、干渉してくる癖のある素材はなく

本質的には、

ストレスが解放される天井の高さもあります。

しかし、ひとたび、お風呂などを使うと、

タイルが一畳以上の大きさのまま、

ドサーと、落ちてきて、

リホームが馬鹿にならない金額が続きました。

藤色がかった、ピンク系の風呂のタイルにしました。

失意の時って、

ピンクや赤にすると

ドーパミンが出てきて、頑張れるような気がしています。

主人が単身夫人の時は

車のシートを「真っ赤」にして
毎朝「さ!、、、夜でも鉄砲でもこい!」

正社員になって会社に行くキャリアウーマンに変身しました。

赤い色のシートは、毎日働くことだけを推進してくれました。

この家は、60過ぎた母が、東京から
娘の私に会いに来てくれた、、、

母と寝泊まりした最後の姿が残っています。

突然、病院の務めをやめて
北海道に、嫁いだ私を訪ねてきてくれた
日大時代の友人が3人

物見遊山の旅の途中に
立ち寄ってくれた家でもあるのです。

何よりも、
息子が大学時代に友人を3人連れてきて
夜の麻雀の思い出のある居間に
一畳大の虎のぬいぐるみにまたがった姿が忘れられないのです。

時が止まってくれているのです。

居間の唯一のの装飾壁などは、

オオク色の落ち着いたピアノのキーのような

縦カット入りで

気に入っているので、

夏の間は、

昼間はそちらで過ごしていました。

その後、、、

同じ町内の家族に、

自宅を完成させるまでと、

半年ほど、敷金なしでお貸ししました。

しかし、、、この間、

同じ町内の方にお貸しするということは、ということは

周りの人とも仲良くするというメリットも考えて、

大サービスのつもりで、

要求には、、、ご無理ごもっとも、、、と
短期間だからと、全てに応じてきました。
採算抜きで、、、、
コップ一杯のすがもれ水を持ってこられても

屋根の吹き替えに発展してゆきました。


除雪費も差し引いて
お貸ししました。

次から次へと、、、注文があり、、、

あちこちのリホームが余儀なく続き、、、

半年で出て行かれましたが、

りほーむ倒れの会計でした。

近所の入居者はこりごりなので

自分の未来の住処の為に


りほーむは完成したと思い

子供のいない大人だけの家族にと、
会社員に会社契約で入っていただきました。

家財なども、扱う
社会的にも優良な会社だったのですが

水道の故障や、ボイラーの故障、屋根のスガモリ、、、

いっこうに治らないすが漏れは、ミサワホームの七不思議です。

スガモリのカビが、化粧室と、ふろ上がりの3畳間を

餅カビで塗装したように、緑のカビでおおわれて

借家人の夫人も、ストレスがひどくて、

出て行かれました。

一本下の道路に面したセキスイハイムに移ってゆきました。

ミサワホームは本州では人気の建物です。


本州の屋根は、板金加工が、
雨風の防御のレベルだったのでしょう。

屋根は長尺のトタンの一枚張りだったのですが、

今は、すが漏れ解決のためのリホームが、
何回も続き、4枚張り合わせの

つぎはぎだらけで、

貸すことも、売ることも、できない状態の家になってしまいました。
南サイドに落下させる雪を四分の一を
北側に落下させて、
氷塊の落下を防ぐためのリホームをしたので
ミサワのアフターの一存で屋根の形をちぐはぐにするのは
想定外のリホームでした。

北側の屋根に、
南側に落ちていた雪まで落とす構造替えのリホームは
ミサワ本社に、力学の解る指導者が居たのだろうか?
北側の雪は融けなくて、
重たい氷塊となり、屋根に張り付き、
従来の安全な位置に重力がかかるはずが
過剰な重力バランスとなり、
屋根の境目の玄関の上が、ひび割れてきて、
軒下の板も、モルタルも、ひび割れが大きく出てきました。

冬は、ストーブを焚くと
すが漏れがひどくて、3か月間は閉鎖しています。


その間、大学の医局の指示で、あちこち移動しては、

日進月歩の医学書や、薬学書や、
出張先で購入した家具を収納する倉庫や、

単身赴任中の
主人の学生時代の書庫になっています。

単身赴任からの帰還の後は

大学から一般の総合病院の立ち上げ幹部として

札幌に勤務するようになり、

大学の講師までの、
もろもろの学会誌や本、

学生時代の資料や医療道具、、、
学会用のスライド作成の設備一式。
全紙に引き伸ばし焼き付けできる写真設備など、、、
バージョンの旧くなったパソコンが
データーが入ったまま
周辺機器が使えなくなり
個人情報も入っているので保存。
VM21,片手大のフロッピーホルダーが地震で落下。
富士通、バリュースター、、NEC,,,ペンティアム!~5
ラビエ、、に
デル、、の使いやすかった、、、あの、、、ヴァージョンも

マイクロソフトのサポートがなくなり
突然!!!パソコンがブチ切れストップ。

仕事に使うパソコンと周辺機器だけでも、、、すごい。

旧いバージョンはバックアップをとっていても

ソフトそのものを受け入れるメカが動かない。

時間に追われて、時代にお尻をたたかれながら
パソコンには収入の多くをささげたが、

開業医さんとは違って
従業員の職業を維持しているわけではないので
勤務医には必要経費は認められない。

機械のヴァージョンを追いかけるのは、、、出費が多すぎる。
ウィンドウ8を導入して以来

スマホもすべて、もう、、、追いかけないことにした我が家。

戦後の、オール貧乏人の時代に

ファイトと、頑張りで医師になって、
我が家は「医師をすること一本」に絞ってきた人生でした。

ささやかな自宅が、リホームが必要のない建物であったら
人生の時間がもっと有効に、会社も、購入者も使えて
幸せが、手のひらに会って、ほのぼのと老後のゆとりが持てたでしょうね。

すべて、
住むことはできないのですが、高級な倉庫として

水道もボイラーも、風呂も、トイレも使えませんが

隣の敷地のミサワホームが飲み込んで保存してあります。


使える家にするために
リホームを繰り返したのですが、、、

最近やっと、
水道局の内勤の職員さんが、庭を掘って

原因を突き止めてくださり感謝しています。、

漏水などしていなかったのですが、

メーターより外側の、

水道局や施工業者の管轄の外側とのつなぎが

接着がうまくいってなくて、

雨水が庭からひかないで、水たまりが20年以上続き

漏水だ、、、漏水だと言って、

水道の契約は止めてあっても、、、

こっそり使用していると、、、40枚以上の請求書で、

十数万円の支払いで、目が白黒なりました。


地下の部分で

公が責任を持つ区域での漏水が
水道局の内勤の正職員さんが現地調査してくれるまで
何年かかったでしょうか?

漏水が治るまでに、

メーターを何回も取り替えては、
冤罪をかけられました。

不愉快な年月でした。
ストレス回避の為にも、
水道の契約は何十年もしていません。、

お宅は、、、水道契約を止めてあるのに

メーターが回っていると、、、請求を受けました。

我が家は、、、
社会的な信用で生きている仕事だから

そんな、、、
ミクロなごまか史をする人間に見えますか?

かなり、、、きつく反論しても、!

いくら言っても、、、
地下のメーターコックがが開いていたとか、、、?

「どうやったら元栓に手が届くのかも知りません。

地下まで操作できる主婦がいるのでしょうか?」

押し問答の末、、、
払ってもらえないと、、、

自分が職を失うとか、、、

証拠のない押し問答の末、

「これっきりですよ、、、」と支払った。

その後も、メーターを何度か取り換えにきて、
交換部品を、近くに置いてあったりした。

私が、、、完全に、、、冤罪の悪者の時代が続きました。

その間、庭の水浸しが何年も続き、

すぐわきの、山モミジの木
(ミサワ建売の時に植えてあった樹木)が

お二階の屋根より高くなり、

梯子に上って、何回か、
別れ幹を切り落とし、

私は枯葉の被害を訴えてくる

過剰反応の被害を訴えてくるお年寄りの
ご近所の奥さんの苦情に、応じてきました。
その方は、今は亡くなり個人となりました。

枯葉ごときにも敏感だった神経質な頭の良い奥さんでしたが
家を2軒ももって、一軒は趣味に使って
お宅は贅沢すぎると、
しばしば言われて、、、、言い返しても、理解してもらうのは無理と思い

道路や吹き溜まりで枯葉地獄になるあたり一帯を掃除して
ゴミ袋12さんこ、秋の終わりにかたずけていました。

ボランテイアト思えば、
苦労に感じることも無く、達成感に浸っていました。

地殻の公園の「アカシア、ニセアカシア、ヤマモミジ、など

天を衝く高さの木々が伐採され、

あの奥さんが逝ってしまってから、

枯葉がほとんど気にならない量になり、

今年はゴミ袋に3袋で、あたりは掃除が行き届きました。

東京で24歳まで育った私は

北側の角には吹き溜まりが出来ることを知りませんでした。

宅地造成の時に、吹き溜まりを無くす良いアイデェアはありませんかね?



冬は、つぎはぎだらけにりほーむしていった屋根が、

ミサワホーム本来の、

切れ味の良い

すっきりしたデザインが変貌をして


バラックのように修理され、


南の屋根に沿って落とすべき雪を、

南屋根の北側に沿った60センチぐらいを
北側に落とすように
屋根の途中から勾配の向きをを急にして

屋根の幅を勝手に変更してしまった。

北側に落とす勾配に、

勝手にデザイン変更したものですから、


重心の位置が変わって、


モルタルに大きなヒビがが

入るようになりました。

その時は78万円かけて、

修理リホームを

ミサワホームのアフター窓口に頼みました。

何という素人かんがえなのだろううか?


モルタルの上にさらにモルタルを塗装、


その上から、ベージュのペンキを塗装、

見違えるように、亀裂が消えて、

見かけ上は

78万もかけただけあって、
リホームをして、よかったと思っていました。

しかし、冬を越すと、またまた、
四隅の外柱の内側がすがもれし

モルタルの亀裂は以前より増してきました。

何回か、ペンキ塗装で
亀裂は消えたり現れたりしながら

もう、、、イタチごっこなので。
知り合いの建築士さんに診てもらったら、

モルタルの上にモルタルをかけて重くしてしまうと
ラスというネットと、壁部分のコンパネとの間が密着しているから

本来なら、モルタルの亀裂をリホームするときは

亀裂のあるモルタルをはがして、

それから、
ラスネットと、
コンパネの間に
空気層を入れて、
壁板から離して
結露で壁が腐るのを防ぐ辺クだよね。
モルタルは、日々の部分をV字カットして
弾力素材の防水をして、モルタルを壁から離して塗りなおすべきだよね!

78万円はものすごく高い足場代金だけとしか認めたくない間違った施工だよ!
塗りなおすべきだよね。


78万も費用をかけて、ヒビ部分をカットして弾力素材で詰めないでさ!!!
、、、、ではなくて、
モルタルの上塗りでヒビをごまかしても、

密着した分厚いモルタルが、

下地を結露で腐らせ

塊で落下するのは

プロならだれでもしってることだがね~~~?

施工ミスだよ!!!と、、、怒ったような口調でした。
手の施しようのない原因が日々を増やしてゆきましたが、、、

もう、、静観して、ストレスで病気になる方を回避するという

診ない考えない、

捨て置いてから10年以上たちました。


今回の地震で、
この界隈の町内で、

「キケン」と
テープを張って掲示してくださいと、
近所から言われて、

ミサワホームに連絡して、、、
修理を指導してもらっています。

今回は実際の危険なモルタル落下が起きましたから
ミサワホームも、
二級建築士を持った技術のある社員を
担当によこしてくれました。

25坪弱の、若き日に、喜んで買ったはずの我が家。

リホームは、モルタルを全面落下させ
今回のように、タタミ2畳分の塊のモルタル落下、、、

しかも

2度重ね塗りのモルタルか重くて、
コンクリーのように危ない!重さのある巨大塊。落下。

外ごみ箱に水を入れて、倒れてこないようにしてありますが、

ラスが結露でさびて膨張してしまっているのは、
すき間を作らず密着塗装のモルタルが原因で、
二重に層になっていますが、上塗りされたモルタルで日々隠しの施工は
明らかに間違った施工であり、
78万円という代金は、
足場代金と言ってもかごんでない素人考えの施工で、、、
信じられないと言っていました。、

柱が、スガモリの湿気で腐ってしまっており

コンパネと密着させてラスを設置、

すき間を作らず


その上からモルタルを重ねて塗ったためなのだろう、、、

落ちるべくして落ちてきている。


北国は、結露に備えて、空間を作り

ラスを設置して

コンパネの壁と空間を開けて、

モルタルを塗るのが常識だと言っていた。、

この方法だと、雪のない地方ならまだしも、

北海道のような豪雪地帯では、

モルタルと壁の間の空間が必要と

知り合いの建築士さんがため息をついた。

危険と書いた紙が、雨に濡れながら、

近所の男の子の蹴るボールが庭に入り込むたびに

「おばさーーーん、、、ごめんなさい、、、ボールとって、、、」

「はいよ、、、何回入っても、おばさんがとってあげるから、、、

ここに近づくのは、、、危ないからね、、、」

子供たちとは

なかよくやっていますが、、、

こっそり、、、

私に、、、何回も、、ボールをとらせるのが悪いからと

自分で取りに入ると危ないので、

町内の住人に言われた
「危険と書いた張り紙のあるロープ」は、外せないし、

ヒビや切れ目の入ったモルタルを壊して、
運ぶのは、、、石綿(アスベストを混ぜているかもしれない)感触なので

高額と、、知り合いの建築課も

ミサワホームの
専属の工務店の社長と、
ミサワホームのアフターさんも言うが。。。


施工の時の材料明細や、見積もりは大雑把な項目だけだから
ミサワの会社の建物だから、前面に信頼依存で発注しました。

主人が生涯をかけて、大切にしてきた
医療用の雑貨、

二階には子供、孫の作品、、、

そして、何よりも、

仕事に使う蔵書が多い。

そして、、、やがて、

仕事から卒業する時が来たら、
病院には迷惑をかけないように
速やかに、この、、、離れのミサワホームの倉庫に
受け入れて、個人情報などあったら選り分けてから
セキュリティを守って、シュレダーにかけてから、
処分するために、

ミサワの家は3年は壊すわけにはいきません。

札幌市では、市民の救急を守り、
地域には貢献して、
知事さんからも、感謝状がいただけた仕事ぶりに

見えない裏の主婦の私も、
医師をすることの応援団として、
出来る限りの、裏方に勤めて、
医療に仕えてきたつもりでした、

立ち上げから、、、30年近く従事してきた職場には
30年間の診療記録の分類や、回復プロセスや、
退院後の再診の記録や考察など

学者肌の医師ならではの、時間をかけた記録の集積があると思います。

患者さんの病気の再発の時などの為の
貴重な入院時の医師の見解記録など

5年保存の後捨てようと思います、



捨てきれない物が、
一時適に収納されるスペースの確保がいる。

患者さんの、病状変化や、病気への治癒までのデーターが

整理されたデーターは、

5年間保存されて、

「患者さんの病気そのものが先生」であるという臨床医の視点にとって
現場からの引き上げの時にも、
30年間の勉学資料は帰ってくる。、、、と家内の想像である。

息子も同業なので、
高額な医学書は、
無差別には捨てられない、

博士論文に役立った資料などは、
本人にとっては大切だろうと推察する。

確かに、、、

ミサワホームから見れば、、、

壊したほうがあぶなくないし、
土地にすればすぐ売れるといいます、

しかし、、、

天下のミサワホームは、

生活基盤の

水道もガスも契約していなくて、

スガ漏れの水漏れもしますが、

ストーブさえ焚かなければ

本など、

本人に貴重な雑貨を守ってくれているのですよ、

ミカン箱のような木材のブロック状箱がパネルになっているだけあって

今回の地震ぐらいでは、30年以上過ぎた建物でも、

躯体はしっかりとしています。

医療に生きて、

札幌市の地域医療に生涯をささげるつもりで

働いてきた結果、

これだけの雑貨の収納が必要だったのです。
また、、、退職するときには
全部運んで、選り分けてから、シュレダーをかけてから捨てる予定です。

医療人の主人二しか雑貨の意味がわからない民間の人の私ですが

医師の家内の裏方の仕事だと思って、

大学人事で移動するたびに、

かなり多い資料や、雑貨を選別し、シュレダーをかけて
処理してきました。

2軒も家があるように見えますが、、、倉庫に近い必要スペースです。

贅沢なスペースと思うかもしれません。

事実、、、固定資産税も相当な額がかかっています。

おいてあるのは「古くなった物質」ではなくて

日進月歩の医学の世界で、

若き日は心臓外科を、、、

そして「循環器外科」を

個人の生活をさておきにして、

家庭をも振り返らずに病院に泊まり続けた足跡の一部が

生活としては機能しないミサワホームに

収納しているのです。

明日の一歩を踏み出す、

昨日までの足跡が

保存されているという、

精神の、

エネルギー保存の法則で

命と向き合う医療の戦場に

向かうファイトがわいてくると思うのですよね。


この、

古いミサワホームを壊して、

新築したとしても、

主人の、気持ちは、喪失!!にしかならないと思うのですよ。




勤務しているうちに、

バリアフリーの一階建ての、

寝そべって入れる風呂場を作ることは、


バンカブルな合理性に満ちた
正しい考えかもしれません。



しかし、、、目の前のことに全力をモットーに

命と対面し続けた胸部外科、

循環器外科の医師にとって、

先取りされた終の棲家は、、、いま、現在、必要でないという

勇み足になると考えました、


今は、

ご近所のストレスにならないように、

これ以上の、重たい危険なモルタルの落下を防ぐことが

ミサワホームにとっても、

我が家にとっても、大切なことだと思うのです。

一見無駄なぜいたくに見える、

倉庫の役割しか果たせないミサワホームですが

せっかく、、、

かくしゃくとして、、

人生の晩年を医療にささげることで

ボケもせず、生き生きと出かけていく現役医師のためにも、

医療以外の、ストレスは、

人生を卒業して、

一老人になってからでもよいと考えています。


だから、

今回の壁は、危険がないようにするリホームをとりあえず急いで

ミサワホームの本来の実力で力学の腕を見せて、ください。


二件目の家に見られがちで、

ぜいたくに思われがちだったこの家は、

家族の、明日への力を生み出す

糟糠の妻や、古い畳のごとく替え時に見えますでしょう、、、が

主人の「足跡」で動かせないのです。

これ以上、余分なお金をかけて、新築同様にするのは

今までリホームでかかった精神的ストレスで、

かえって、マイナス面が出ると思います、


長いスパンで、急がず、、、
この家の役割を終わらせるまで維持したいのです。

やがては私一人になったときに
(主人より、、、長生きしないと、、、主人は片付けが苦手な人ですから)

全部処分できる日も来るはずです。

今、新築してしまっても、物の行き場が見つかりません、、、、

他人は、、、ガラクタ、、、と思うことは確かですが、、、

ミサワホームランドで、、、
数ある建売ランドで、、、
モルタル壁が2畳大の塊で落下したのは

我が家一軒だけです!

施工ミスを知ってほしいと思いました。

すぐ対面の目の前の、

雪の重みで軒の折れたミサワホームの住人は

「軒が、無残に簡単に折れて落下したので、

今回の地震では、家が倒壊するかと、ひやりとしたけど、、、、(笑い)

意外と、この家強かったよね!、、、揺れたけど、

家の中は、壊れなかったよ、、、」

ニコニコしていました。

我が家は階段のある吹き抜けの壁が

波のようにうねって浮きましたが、
この家の表層の仕上げの施工は、
全てがこのような調子でリホームしましたが、

なみうった階段の壁は、数日たつと、
やや、、、元のように平らに落ち着いてきましたが
ほんの一部は、目につくような地震のダメージを受けています、、、

本質は、
弐階のかもいが1センチほど隙間が発生しただけで、

棚や本棚が倒れないまま、中身が落ちていました。

この分なら、外側の危険を直せば、

波打った階段の壁は、当時から、装飾ベニヤが浮いていたから

上からたたけばもとに戻ると思うし、

ぼちぼち耐震工事を加えながら、

長い間使えなかった水道の漏水も、解決して、

使えないままさびているだろう鉄管を、
銅管に引き直せば、、、、

懐かしい、我が家が、
40年目には、帰ってくるかもしれないし。

少し長いスパンで考えて、

損得考えないことが、、、

ストレスを回避して、

本職で社会に地域に貢献できる
づ脳明晰な仕事の鬼が続くことかもしれません。

技術の未熟で、、、しょげたいときはいっぱいありましたが、

ミサワホームを、ただただ壊してしまうのは、

遠く離れていても、
時には帰ってくるだろう息子たちとの

共通の記憶を失うようで、、、
躊躇しているのです。



あっという間に、、、土砂で亡くなったり



「水に流された被災地の方々のストレス」を考えると、
、、

心の絆になっていた出会いから今までの

共通の記憶が奪い取られることの

喪失感は、

両陛下の温かさのほかには

立ち上がる光を投げかけることは

できないのではないかと思うような、気がしています。



結婚式の引き出物に配った博多人形の

壊れた腕を、私は、、、床にはいつくばって探しました。

カメさんをしっかり握った右腕を見つけたとき、

部屋中に散らばったガラスコップのかけらをそのままにして、

アロンアロファで修理したとき、

「くっついた!!!」

家族も心も健在につながった安堵感と、

被害にあうことの、ストレスの原因が、、、
なんとなくわかってきました。

人は、何が大切なのか、、、
その場になってみないと、、、
わからないということでしょうね

ミサワホームさんへ、、、
せっかく強い家なのですから、

人が見える外壁の塗り方は、
本社の技師さんが

責任指導することが、大切かもしれません、

外壁が、、、壊れていると、

ミサワホームは弱い家と、勘違いされてしまいます、

これは、、、
私の、震災被害度を記録する日記帳です、

ブログは公開していません、個人の家族友人との交流日記です。

ミサワというキーワードで
ミサワさんの会社のサーファーに
このブログがキャッチされたら

幸いです。


被災地のご訪問

2018-09-21 20:34:04 | Weblog

日本は地震や台風の被害が続いております。

両陛下が、今回も、

広島 愛媛にご訪問されたご様子をTvで拝見していました。

被災者のおばあさんは

お優しいお言葉に 涙を流していました。

TVを見ている私も、胸が熱くなり

涙が出そうになりました。


被災地は、必ず復興してゆくことを信じて

これからは、住宅事情や、街を作る段階で

基準を見直してほしいと思いました。

災害に会わないように、

各界の知恵者が円卓を囲んで

日本の災害を減らせるように

両陛下の被災地訪問のお気持ちを

深く受け止めて

国民の代表の国会レベルで

災害のおきそうな地形や、土壌を調査して

未然に防ぐ方向に総合設計することで

国民を守ってくださることを願っています。

いつの日か、災害に強い日本になる日を祈っています、

BS朝日の5番を9時から楽しみました、そして余韻の中で朝を。

2018-09-16 08:06:57 | Weblog

昼間はラジオを聴きながら家事をしているのですが

3時近くなると、「相棒」を観ながら、夕食の下ごしらえをしていました。

、、、、コマーシャルが結構なタイムで入りますので

夕食キッチンには、立ったり座ったり、手を動かしたり、、、

良い運動をしながら、杉下さんの、、、そして、若い息子のようなタレントに

元気をもらっています。

それ以外は、テレビに振り回されるのが、わかっているだけに、

番組は、たまたま家事が途切れたら、あちこち検索して、

面白そうに思えるところで、落ち着いて、観始めます。

後は、深夜のBSのNHKを楽しみにしています、

ところが、、、、今日だけは違います。

あの、、、、戦後の貧しかった時代に

軽井沢を舞台に、

テニスの青春ロマンが、パ――と目の目を明るくしました。

戦後の皇室のご苦労は、庶民の私たちには計り知れない深さであったことと思います。

教科書には、人間宣言されて、玉音放送で、終戦に導いてくれた昭和陛下。

御爺ちゃんも、お父さんも、母も、玉音放送が忘れられないと言っていました。

日本国民は、人間が、人間であることの貴さを

原子爆弾の投下された広島と、長崎から、目の当たりに考えさせられました。

木っ端みじんという、、、爆弾の破壊と違って

人間を、元素のレベルに分解してしまう原子爆弾は、鬼です。

玉音放送の、陛下の一言が、日本が地球の、平和の使者として

原子爆弾や、水素爆弾、化学兵器を使う戦争は

地球を分解してしまうことを伝え、

世界の森羅万象、人類と地球の命の永遠の為にも

平和の使者となる役目が、広島長崎をもって、

日本に課された天命と思います。

昭和天皇陛下の、人間宣言の貴さは、万民に終戦を納得させたと思います。

それからの昭和天皇様のご苦労は、

祖父や、父や、叔父さんや叔母さんからも聞きながら育ちました。

戦争中、大陸で3人の子供を亡くした母は、

私が小学校3年生ぐらいになったときでした、、、、こんなことを言いました。

戦争で、子供を亡くしたとき、、、次々と、、、3人、、死んでいったとき、

自分も死のうと思ったことが有ったのよ、。。。。

でもね、、、生き残ったお兄ちゃんの為に、、、

孤独にすることが出来なくて、

とうとう死ねなかった、、、。


あれから、お父さんが私の故郷に疎開してきてくれて、、、

子供時代に楽しかった思い出の場所もそのままで、

だんだん周りから元気を注がれて、、、

戦争で亡くした子供たちを、取り戻そうと、、、

戦争を知らない子供を授かったのよ。

でもね、、、天真爛漫に田舎でのびのびと育って行く子供らを見ているとね、、、

死んでしまった子供たちが、、、

むしろ、、、幸せになっていると思えてきたのよ。


高校も、大学も、専門学校もないここで、

天真爛漫に育って行く子供らが、

このまま大人になったら、、、

どうやって、、、生きてゆくのだろうって、、、???


毎日自問自答するようになったのよ。


昭和天皇陛下の敗戦後のご苦労や、

皇太子殿下の、神々しいまでの孤高な、、、孤独を思うとき、

新しい戦後の時代に生きる貴方たちが、

新しい日本を支えてゆかなければと思うとね、、、

日本にはアメリカに追いつき追い越す次代の若者の教育が

どんなに大切なことかと思うと、、、

お母さんはね、、、あんたたちが、、、

知らぬが仏の孤独の中で

社会を知らないで大きくなってゆくことが、、、コワイのよ。


このままでは、日本の敗北は教育の敗北になって、、、

生きてゆくのに、かわいそうな未来に向かってしまう、、、。


幸せで、天真爛漫な生活を終わらせて、

40を過ぎてから、

生存競争の激戦地区の東京に家族全員で戻ってきました。

父の実家だった文人通りあたりは

もはや、誰のものか?わからなくなって

個人が戻れるところではなくなっていました。

疎開していた田舎から、、、下町の、、

まだ復活しきれないバラックの残る東京に

私たち家族が戻ってきました。


理由は要らない、、、

日々勉強に頑張り、戦後の復活に頑張る毎日でした。


ようやく、、、世の中も戦後の新時代が始まったとき、

本当の日本の復活の鏑矢が真っ青な空を飛んできました。

昭和天皇陛下のご長男がゆえに、

そのご苦労と、孤独は庶民にははかり知れない忍耐の日々であられたと

推察しかできませんが、

孤高な静かな皇太子殿下の恋が報道されました。

日本中が明るくなりました。

皇太子殿下自らが「長い電話をおかけするという、、、」

週刊誌も、新聞も、皇太子の恋、、、世紀の恋、、、と

活字が躍っていました。


あの頃を境に、、、日本は団塊の世代の頑張りが目立ち始めました。

「もう一度、、、日本!!!」

皆が元気になりました。


軽井沢の恋は、

ミッチーブームとなって私たちの青春の希望となりました。

母は、、、

この戦後のドサクサの中で

民間に、あのような素晴らしい女性がお育ちになっていたなんて

すごいことね~~~、、、と

親しい知人と笑顔でうなづきながら、、、

すごい事よね、、、

皇太子殿下が恋をするお相手に選ばれた女性、、、!

どこに行っても、

美智子様の話で

全ての時間が明るくなりました。


皇太子殿下の、

お立場が故に孤高で、お独りというお姿に

青空から舞い降りた真っ白な鶴のようなお姫様が御そばにいつもいらっしゃる!


母の顔は、日ごとに明るくなりました。

そして、、、

はじめてのお子様が男子でいらっしゃることを

TVで知ったとき、顔中が笑顔になって、、、大喜びでした。


私は、美智子妃殿下という、

戦後の新しい日本の母である女性に

心身共に日本人であることの品性と、御強さと、

神々しいまでの天地の力を感じながら

ただただ、、、感謝、、、という表現しか思いつきません。


日本は女性がしっかりと、

次代を創る男性を支えてゆくことの大切さを

存在そのもので、伝えてくださる国の母です。


平成という平和な時代を生きてこれたのも、

陛下の御心そのまま魅了された女性が

国民とともに生きてくださる母として

人生をささげてくださったからだと、、、

感謝で、今日はTVを待っています。


これからは、ご自愛くださり、

長く長くご壮健でいらっしゃることを

祈るのは、、、、

平成に生きた私たちが、平成が移り変わっても


ご壮健なお姿に心身共に支えられてゆくことが、願いだからです。

これは、公開していない日記です。

畏れ多いことながら、、、

一市民が、皇室の皇后さまのことを記すことは

家族だけが見ているブログだから、出来ることかもしれません。

離れ離れの弟や兄弟、息子たちが見てくれる

限られた個人的な日記です。




     テレビ番組の余韻に酔っています。

9月17日4時25分です。

東の空がうっすらと

山際から、、、空の色が、、、すこしあかりて、、、と、いう、、、ひと時です。


深夜まで、、、余韻のつづいた、、、平成も

過ぎてゆくのかと思うと

万感の思いで、両陛下のお姿に照らして

時の速さに驚きながら、

私自身も生きていた平成時代を

平和に向かう時代と受け止めました。



ドイツ語に訳された「御歌」

ドイツ語の作品集!

私も手に取ってみたいと思いました。

ハイクラスな外交の心が

日本の文化の御歌で

心から心へ、胸から胸へと

世界の海をヒトッ飛びに伝えられてゆく「日本の心」

皇后さまというお立場の、

誰よりも日本の国民とともに歩かれた御命の

輝きの瞬間が文字となって

お心の歌集となって、

ドイツで出版されていることは

万感の思いです。

真夜中の北海道は

余震が3~4に続いていますが

両陛下の被災地をご訪問されるお姿を見ながら、

感謝とともに、危険なので、どうぞ、、、これからは

両陛下がご壮健でいらっしゃることが、

私たちの昭和生まれの生きる力となりますので

皇居にて、安全にお過ごしあそばされることを

祈らずにはおられません。

若かりし日の、はじめての沖縄で

美智子様が

とっさのアクシデントに

陛下をお守りしようとされたとっさの反応に

国民の心は

日本は、、、もう、、、大丈夫!と思いました。

命を懸けて、日本の戦後を

未来に向かって陛下とともに国民とともに

歩んでくださる

国の母のお姿に接し、、、

その映像は、戦後の庶民の母たちへの

言葉にも、歌にも表すことのできない

衝撃の啓蒙となりました。

ドイツ語の歌集は

美智子皇后の光だと思いました。

素晴らしいですね、、、日本の感性の筆の文字は。




両陛下の被災地へのご訪問

2018-09-14 23:48:37 | Weblog
災害の少ない温暖な県と思っていた私たちにも

岡山県の水害は

想像外でした。

歴史にも、多くの国民は関心のある所です。

両陛下のご訪問で

被災に会われた方が、頑張れる様子がTVで放映されていました。

平成の時代を国民とともに

生きてくださるお姿に

岡山の歴史の中の人々も

タイムマシンに乗って

お出迎えされた幻が重なってまいります。

両陛下の照らされた被災地に光となって

国民の復活の祈りが見えました。

ありがたい,、、こと、、、という

表現しか、、できませんが

ご健康に、

いつまでも、いつまでも、

ご健康であそばされますことを

願っています、

美智子皇后さまは

日本の国の、母と思います。

皆が、不思議な力をいただいています。

陛下にご一緒しているお姿をテレビで拝見できるだけでも

日本の元気が戻ってきます。

ありがたいことです、