外科用の鋏だけが
引き上げの時、
母が握って逃げた財産でした。
南紀の無医村からの復活は
父にとっても、
命がけの
「男の仕事」だったのかもしれません。
アメリカに負けたままでは済まされない!
新しい教育を
皆に身に着けてもらう事で
敗戦を機に、新しい日本にならねば!
55歳で、患者さんの手術を終わり
麻酔が覚めるまで
監視いてから寝るからね、、、
そのまま起きてこなかった父。
しかし、其の時はすでに
私たちは、父のおかげで
東京に復帰できていた。
敗戦で全財産を失った親戚が17人も
居候に来ていた我が家だった。
親戚の子供を学校に出し
一人前にしたとき
彼らは出て行った。
特に「おばちゃん、、」と
母にまつわりついていた女の子は
母を通じて
私のよそ行きや、バックを持っていった。
洋裁学校を卒業した彼女は
兄の同級生の医師と結婚してからは
「砂の器のように」
過去を振り返ることなく
二度と私の前には現れなかった。
飛び立った。
父は見習い看護婦さんを
夜学に通わせ
看護婦の免許を取得させては
大学出の知人の息子と結婚させては
十代の見習い看護婦を
せっせと、夜学に通わせていた。
戦後戦争か復員してきた実弟が
28歳で早稲田の理工学部に入学した。
彼は卒業して先生になっても
我が家に同居していた。
やがて、
学芸大を卒業した女の先生と結婚して
我が家の大広間で式を挙げた。
その後も何年も我が家から
職場に通い、
私が大学に入る頃
中野のマンションに移っていった。
多くの居候さんのおかげ?様で?
私は小松川高校の制服を
たった一着で卒業迄持たした。
卒業時、
手首の所から擦り切れた糸が
なんともおかしかった。
級友は、
「お父さんが医者なのに
なんて、、、ぼろいのや?」
ふざけて、手首のほつれた糸を引っ張った。
親父さんはね
早稲田中学を出ているのよ、
そこの校風はね!
新しい帽子や制服を
泥んこにして
ふんずけて
貫禄つけて着るんだそうよ!
女学生だって
痛んだ制服が、
味があるんよ~~!
皆ゲラゲラ笑った、
「キリンちゃんは貫禄あるの、似合わないよ!」
馬鹿話しながら
セーラー服のリボンを
お互いに結びっっこしたものでした。
*********************
私は28歳のとき
草月流のいけばなの出版社が募集した原稿を
北海道の教室から勧められて
「いけばなは語る」という本に
載せていただいたことがある。
花の世界とはおよそ
無関係に思えるかもしれませんが
敗戦から引き上げて
命からがら
熊野までたどり着いた父母の人生と
上流階級と言われた明治の時代
医師となって
なに不自由なく幸せになるはずの父と
大学のピアノ科を卒業し
ショルツ先生に師事し
ドイツ製のピアノを
アメリカに居た実父に買ってもらい
音楽と「テニスコート」と
リゾートの人生が
戦争で「木っ端微塵になった衝撃」と
「斜陽」と「ゲルニカ」と
3人の子供を亡くした「喪失」と
すさまじいまでの落差の滝に打たれた
母の人生の復活人生を
故郷の森羅万象の大いなる力で
修復して行くさまを
つぶさに見ていた幼少時代でした。
敗戦するまで
気がつかなかった。
優雅で柔に見える振る舞いとは裏腹に
苦境になればなるほど
したたかに立ち上がる。
心に育っていた
見えない大木は、音楽学校でつ
ちかわれたものなのだろうか?
瀕死の心でがんばる蔓が
大木を軸にして蒔きついて
まるで元の大木のように
葉で被いつくしている。
空を燃やして紅葉は絶叫している。
激しい銅ね色である。
「くぐつ」の人生を
花の心に置き換えて文にして
吐き出した作品が思い出されます。
「母の花、私の花」
津波の被害が無ければ
二度と思い出すことも無い本でした。
「いけばなは語る」という
安野さんの絵が表紙でした。
大岡信さんが「選者」でした。
安野さんからいただいたお葉書を
思い出します。
私は、安野さんに
「小磯良平先生の植物画」のお話をしたら
あの本は「私にとっても、、、幻の本」と
おっしゃられました。
薬学のおかげで出会えた「幻の本」
私は、限定版のこの本を
ひそかに持って、幾度となくめくっては
画家の見る目の手厳しい「命の輝き」を
私の心の花と思って、大切にしている一冊である。
今でこそ「華美」な世界のいけばなですが、
敗戦の被害は
津波や放射能の被害と重なるところが大です。
打ちひしがれて
なにをしたら良いか判らない主婦の間に
勅使河原蒼風さんという書家が
銀座の和光のショウウインドウに
砂漠で行き倒れたような、
動物の骨と
壊れたお釜と
流木と、、、廃墟になった心のような
「いけばな」を展示しました。
其の現実を、被害地と重ね合わせ
其の中で立ち上がった姿は
戦死した多くの魂が
結集して表現した
「復興の始まりの空間」のように
私には思えました。
ゲルニカのイメージとも重なりました。
人災の悪魔の戦争を憎みました。
通っていた大学が御茶ノ水だったせいもあり
隣のYWCAで草月のいけばな教室の先生に
花を習いに行くようになりました。
やがて
「いけばなの師範の看板」をいただきました。
看板は一生使うことはありませんでした。
戦後の服部時計店のショウウインドウの
「蒼風さんのいけばな」と共に
胸の中で時折思い出すだけです。
その後、札幌に住むようになり
かなり、、、
自己の主張にテーマを置いた
花を習い始めましたが、
「いけばなは語る」という
さりげない投稿原稿の本を見ているうち
自然の植生の中に「平和」と
したたかな「光の奪い合う様」を見つけた。
いつしか
小さな「野の花」や
登山の時
登るにつれて
フィルムを蒔き戻してゆくかのように
咲き誇る裾野の花が
蕾に帰ってゆく様や
さんかよう、、、の
あまりに清楚な花に
思わず顔を寄せてしまい、
花を散らしてしまったショックに
花の美しさを切なく涙した思い出や、
信州の上田先生の主催した薬草探索登山に参加して
せせらぎの傍に
赤いツバメが輪になっているような
「燕尾センノウ」の花に出会ったときの
感動は、忘れられない「花への恋」でした。
いつしか、剣山も花バサミも
物置の中でさび付いてしまった。
「命」野美しさに気がついて
命の「一瞬に」感動して、
母の音楽の世界が
瞬間の出来事だけに
母の花は音楽だったと思えるのです。
一瞬の花に出会うためにも
復活を鶴きっかけは
何だって良いのです。
復活を促すものは
足下にあると、、、おもいませんか?!
引き上げの時、
母が握って逃げた財産でした。
南紀の無医村からの復活は
父にとっても、
命がけの
「男の仕事」だったのかもしれません。
アメリカに負けたままでは済まされない!
新しい教育を
皆に身に着けてもらう事で
敗戦を機に、新しい日本にならねば!
55歳で、患者さんの手術を終わり
麻酔が覚めるまで
監視いてから寝るからね、、、
そのまま起きてこなかった父。
しかし、其の時はすでに
私たちは、父のおかげで
東京に復帰できていた。
敗戦で全財産を失った親戚が17人も
居候に来ていた我が家だった。
親戚の子供を学校に出し
一人前にしたとき
彼らは出て行った。
特に「おばちゃん、、」と
母にまつわりついていた女の子は
母を通じて
私のよそ行きや、バックを持っていった。
洋裁学校を卒業した彼女は
兄の同級生の医師と結婚してからは
「砂の器のように」
過去を振り返ることなく
二度と私の前には現れなかった。
飛び立った。
父は見習い看護婦さんを
夜学に通わせ
看護婦の免許を取得させては
大学出の知人の息子と結婚させては
十代の見習い看護婦を
せっせと、夜学に通わせていた。
戦後戦争か復員してきた実弟が
28歳で早稲田の理工学部に入学した。
彼は卒業して先生になっても
我が家に同居していた。
やがて、
学芸大を卒業した女の先生と結婚して
我が家の大広間で式を挙げた。
その後も何年も我が家から
職場に通い、
私が大学に入る頃
中野のマンションに移っていった。
多くの居候さんのおかげ?様で?
私は小松川高校の制服を
たった一着で卒業迄持たした。
卒業時、
手首の所から擦り切れた糸が
なんともおかしかった。
級友は、
「お父さんが医者なのに
なんて、、、ぼろいのや?」
ふざけて、手首のほつれた糸を引っ張った。
親父さんはね
早稲田中学を出ているのよ、
そこの校風はね!
新しい帽子や制服を
泥んこにして
ふんずけて
貫禄つけて着るんだそうよ!
女学生だって
痛んだ制服が、
味があるんよ~~!
皆ゲラゲラ笑った、
「キリンちゃんは貫禄あるの、似合わないよ!」
馬鹿話しながら
セーラー服のリボンを
お互いに結びっっこしたものでした。
*********************
私は28歳のとき
草月流のいけばなの出版社が募集した原稿を
北海道の教室から勧められて
「いけばなは語る」という本に
載せていただいたことがある。
花の世界とはおよそ
無関係に思えるかもしれませんが
敗戦から引き上げて
命からがら
熊野までたどり着いた父母の人生と
上流階級と言われた明治の時代
医師となって
なに不自由なく幸せになるはずの父と
大学のピアノ科を卒業し
ショルツ先生に師事し
ドイツ製のピアノを
アメリカに居た実父に買ってもらい
音楽と「テニスコート」と
リゾートの人生が
戦争で「木っ端微塵になった衝撃」と
「斜陽」と「ゲルニカ」と
3人の子供を亡くした「喪失」と
すさまじいまでの落差の滝に打たれた
母の人生の復活人生を
故郷の森羅万象の大いなる力で
修復して行くさまを
つぶさに見ていた幼少時代でした。
敗戦するまで
気がつかなかった。
優雅で柔に見える振る舞いとは裏腹に
苦境になればなるほど
したたかに立ち上がる。
心に育っていた
見えない大木は、音楽学校でつ
ちかわれたものなのだろうか?
瀕死の心でがんばる蔓が
大木を軸にして蒔きついて
まるで元の大木のように
葉で被いつくしている。
空を燃やして紅葉は絶叫している。
激しい銅ね色である。
「くぐつ」の人生を
花の心に置き換えて文にして
吐き出した作品が思い出されます。
「母の花、私の花」
津波の被害が無ければ
二度と思い出すことも無い本でした。
「いけばなは語る」という
安野さんの絵が表紙でした。
大岡信さんが「選者」でした。
安野さんからいただいたお葉書を
思い出します。
私は、安野さんに
「小磯良平先生の植物画」のお話をしたら
あの本は「私にとっても、、、幻の本」と
おっしゃられました。
薬学のおかげで出会えた「幻の本」
私は、限定版のこの本を
ひそかに持って、幾度となくめくっては
画家の見る目の手厳しい「命の輝き」を
私の心の花と思って、大切にしている一冊である。
今でこそ「華美」な世界のいけばなですが、
敗戦の被害は
津波や放射能の被害と重なるところが大です。
打ちひしがれて
なにをしたら良いか判らない主婦の間に
勅使河原蒼風さんという書家が
銀座の和光のショウウインドウに
砂漠で行き倒れたような、
動物の骨と
壊れたお釜と
流木と、、、廃墟になった心のような
「いけばな」を展示しました。
其の現実を、被害地と重ね合わせ
其の中で立ち上がった姿は
戦死した多くの魂が
結集して表現した
「復興の始まりの空間」のように
私には思えました。
ゲルニカのイメージとも重なりました。
人災の悪魔の戦争を憎みました。
通っていた大学が御茶ノ水だったせいもあり
隣のYWCAで草月のいけばな教室の先生に
花を習いに行くようになりました。
やがて
「いけばなの師範の看板」をいただきました。
看板は一生使うことはありませんでした。
戦後の服部時計店のショウウインドウの
「蒼風さんのいけばな」と共に
胸の中で時折思い出すだけです。
その後、札幌に住むようになり
かなり、、、
自己の主張にテーマを置いた
花を習い始めましたが、
「いけばなは語る」という
さりげない投稿原稿の本を見ているうち
自然の植生の中に「平和」と
したたかな「光の奪い合う様」を見つけた。
いつしか
小さな「野の花」や
登山の時
登るにつれて
フィルムを蒔き戻してゆくかのように
咲き誇る裾野の花が
蕾に帰ってゆく様や
さんかよう、、、の
あまりに清楚な花に
思わず顔を寄せてしまい、
花を散らしてしまったショックに
花の美しさを切なく涙した思い出や、
信州の上田先生の主催した薬草探索登山に参加して
せせらぎの傍に
赤いツバメが輪になっているような
「燕尾センノウ」の花に出会ったときの
感動は、忘れられない「花への恋」でした。
いつしか、剣山も花バサミも
物置の中でさび付いてしまった。
「命」野美しさに気がついて
命の「一瞬に」感動して、
母の音楽の世界が
瞬間の出来事だけに
母の花は音楽だったと思えるのです。
一瞬の花に出会うためにも
復活を鶴きっかけは
何だって良いのです。
復活を促すものは
足下にあると、、、おもいませんか?!