長男には、小さいころから
勉強をしなさいと言わないで育ててきた。
主人が駆け出しの新米医師の大学院の学生だったこともあり
アパートに日常雑貨を置いて、拠点とはしたものの
大学の医局の都合で、留萌、余市、夕張、函館、旭川、、、等々、
新米医師にとって、勉強になる症例をマスターする時期でもあり
今日は何処に行ったやら、、、の、
ローてぇーション生活の最中の子育てでもあり
息子にまで「勉強を強いる気にはさらされなかった。」
留萌出張の子育ては、3か月ごとの移動でもあり
幼稚園に入園することは辞めて、
主人の出張先の地方の文化を知ることを優先した。
幼い子は、すぐに新しい環境になじみ
すぐに友達らしい相棒を造り、すぐに忘れる移動生活だった。
4年目にようやく札幌に定着することになり
連棟長屋のど真ん中を、ローンで500万で購入した。
医局から、タフト大学への留学の話が命じられて
亜米利加生活になったときには、
連棟長屋の真ん中なら
生活一式、おきっぱなしで渡米できると考えたからでした。
ところが、予定の出発の日になっても、
帰国するはずの先輩が、実験の結果が出るまで
あと一年、米国に留まるという急な知らせであった。
次の年も、その次の年も、部屋に、段ボールを積み上げて、
帰国の時にすぐに生活できるように
整理して、出発に備えていた。
母からは、私と息子の分の生活費が送られてきた。
帰国して、病院に固定出来た時には返済しますから、、、と。
あるとき払いの借財をドルに替えて、待機していた。
しかし、日本に来た時も、若々しく、お元気だったはずの
米国の教授が他界してしまった。
人の命も、自分たちの運命も
明日にはわからない、、、夜半に嵐が吹くものである。
主人は、博士論文を仕上げて、
当時の東京女子医大の榊原先生から
良い実験だと評価をしていただき
榊原先生の、真っ赤な分厚い「心臓」の御本に
主人の事をほめて、論文は、引用された。
「もういいじゃない?」
母には、故郷に帰り、
私の実家を手伝うという約束で結婚したのだから
潮時よ!
私は、帰省できる運命の転換に、にわかに希望が湧いてきた。
3年生からであるが
息子も「幼稚園に入園させた。」
しかし、突電、、、外科医が欠員になった札幌のど真ん中の病院に
全く、、、突然、勤務医として勤めることが
医局経緯で決まり
主人は、たった一人で承諾した。
主人が固定するならと、
若手が合流してくださいました。
そうなると、、、医局で、教授選には出る予定にない大先輩が
院長として、何か月も後から赴任してこられた。
外科医が居なかった事もあり、
主人は、患者さんを集めるために、
大学の医師としては珍しい、、、草の根の努力を始めた。
往診も、真夜中の呼び出しにも、走り回った。
初任給が23万円だったのが
患者さんが増えてきて、
収入が増えるにしたがって昇給した。
外科という、部門がはっきりと機能するころには
43万円とか、、、もらえた事を記憶しています。
地方の病院は、ビックリするような給料だったと伺っていますが、
研修時代に、留萌では16万前後の給料だったので、
世の中の風評には騙されないで、
しっかりと病院を、自らの手で発展させて、給料を上げてゆくからと、
主人は、めちゃくちゃに働きました。
固定出来たおかげで、
長男に続いて、4歳違いの弟が恵まれました。
次男の誕生です。
月給もいただける、固定も出来てる、、、、
しかし、母と約束した帰省は無理である。
主人は病院の外科のエースだったからです。
万の困難な出来事も、主人が中心で解決するという戦陣だった。
上下の先生が生き生きとメンバーで居てくれたという為にも
主人は必死だったようである。
雪印の伝統あるその病院では
若い主人を実に上手に使いこなしていたと、、、
事務サイドの、全体の把握をする広い視点には驚かされた。
月給は、札幌である以上、天井は安いのは仕方ありません。
しかし、綿密な事務の統計で、患者さんが多すぎた時などは
事務長さんが、健康管理を兼ねて
ゴルフ場などに、日曜日は連れて行ってくれました。
若い主人は
「評価をしてくれる心にすっかりやる気が起きていました。」
戦後の、オール貧乏人の日本の状態は
勉強して這い上がる以外に道はないという、、、二男だった。
家庭環境も、男3人女性一人
サラリーマンの父親は、授業料でパンク寸前の進学家庭だった。
ゴルフなんか、、、打ちぱなしにだって、、、行ったことが無かった。
事務長さんは高級車で、ゴルフに連れて行ってくれては、
激務に耐えてる外科医のストレスを発散させてくれた。
「若い、、、ピークの、、外科医を、、、上手に使う事の総合力に脱帽でした。」
暮れには、ススキノに連れて行ってくれて、
慰労会兼忘年会に、最高のフグ料理などを食べさせてくださり、
留守番で、主人とは正月も出来なかった私の立場から思うと、
医者は自分しかできない状態で、
正月も、連休も出勤する事には
むしろ、医者冥利に尽きるというような、、、医者バカなところがある事を
その、、、事務長さんは、実に心得ていらしたと思いました。
月給の高いとか、安いとか、、、サラリーマンよりは高いわけですから
自給が100円であろうとなかろうと、
自分が居なくちゃ、、、この患者さんは死んだ!、、
どうだ!元旦だって、外科には怪我人が運ばれてくるんだ!
自分が出勤したから、命が救えたんだ!
元旦も電話のそばで呼び出しを待って仮眠していた若き日が思い出される。
家庭は、父親が居るのか?居ないのか?わからない状態で
不規則な帰宅だった。
しかし、、、若き医師だった主事は、
多分、、、時間給になおせば1000円あったとは思えないほど
病院が住所だった。
外科医としての腕も上がり、
患者さんは主人の名前を憶えて下さり
家族全員、、、知人友人、、、と紹介患者さんが増えて
月給も安定したころ、
連棟長屋のど真ん中は、不用品となり
格安だっただけに、売ってしまった。
家賃の分だけ、ローンが減っていた。
今度は、札幌に進出していたミサワホームランドの売り家を買った。
提携ローンという、便利なローンがあり
年利9パーセントという、バブルの最中利率で
とりあえず、一軒家に移動した。
23坪の手頃な大きさであるが、春と秋に23万円のボーナス払いが来た。
月々に10万近くの支払いと、ボーナス払いで
安定した収入が必要になった。
主人は、病院に固定することになった、
ミサワと言えば、昭和基地に頑固なプレハブで有名になって
人気が上がり、斬新なプレハブ工法は、評価が高かった。
高利率の提携ローンではあったが、
間違いないと信じて購入したものの、
当時は、栗林ミサワという、北海道のメンバーで組み立てられた。
もう、、、言うまい、、、本州の高度な技術のミサワの家とは
似ても似つかない、、、欠陥住宅だったことは、、、思い出すまい。
毎月起こる建築未熟からくるトラブルのメンテナンスに疲れて
おなじプレハブでも、
コンクリートなら、イイのではないかと、、、
大成の「パルコンを新規に建てた。」
之で、落ち着いて、すが漏れや、雪害で、窓も壊れることも無いと思っていた。
しかし、、、プレハブというのは
天井も、パネルの接合体である
防水技術が未熟だと、大成であろうと、ミサワであろうと、、
水は漏るのであった。
パルコンも本社の学者肌の、
何やら分厚い防水の本を出している社員が
夏に、あちこちの壁に石灰?に似た白い粉をべたべたと塗り、
屋上から、水をまき続けた。
壁は色が変わり、、防水のミスとにんていされ,
防水ゴムの上から、ゴムを重ねて、何やら、シリコン塗料を塗った上から、
モルタルをかけ始めた。ベランダだけ、モルタルを終えたところで、
パルコンは、来なくなった。
航空写真を撮ったとすれば、
ベランダは、モルタルの灰色で、3分の2以上の屋根の部分は
シリコン塗装というツートンカラーのまま
大成は、パルコン部分は引き揚げてしまった。
仕方がないので、
ベランダの上も、色合わせに、
銀粉塗料を買ってきて、
私自身が、丁寧に、モルタルの上から銀色に塗装した。
之で、、、空から見ても、銀色の屋根が、全体に完成したことになるが、
実は、大部分がモルタル塗装を未完成のまま、、、
ほーり出されてしまったのでした。
社印は入れ替わって、昔の人は何人かしか残っていませんが
本社から、水漏れの認定を受けるに至るプロセスにおいて、
北海道の社員に、強く抗議して、結局本社からプロの方がいらしたという
いきさつもあり、道内の社員は、我が家には来なくなった。
水漏れの後の、畳みも、交換に来ると言いながら来ないので
外していった二枚が足りないまま、、段差のままで家具に埋まっている。
もう、理想の家の事は考えないようにした、
しかし、、、ローンの上にローンが重なり、、、
主人は結局札幌に居残って、勤務する事が、ごく自然の流れとなって
私たちは、70歳を過ぎた今は、
年月の速さに驚くばかりです。
今振り返ると、、、
素敵な家を借りて住めばよかったかもしれないと思うのです。
家の購入は、良く考えた方がいいと思いました。
その作品が
会社の技術どうりに建てられていれば問題はないのですが
あたり外れがあるだけに
下手な業者が担当した者を購入すると
メンテナンスで、費用が掛かり、
結局は、別の家を建てるという事になり
生涯のローンになってしまい、
返済が終わった時には70歳という、
人世はあまりにも短く感じてしまいます。
主人は、、、あんなに働き続けても
遊ぶ時間にも恵まれづ、
パリにも、ロンドンにも、、、行った事がありません。
医学の為に、ドイツ、アメリカ、中国は、仕事で行きましたから、
ラッキーだったと思います。
やっと、纏まった休みも申請すればいただけるようになりましたので
家のメンテナンスは当分やめにして
元気なうちに、ロンドン経由でパリに行って
医者バカの人生から
円熟の視点に向けて、最後のチャンスの年代が来たと思っています。
家内とは、、、主人という着物の「裏地」であるだけに
気長に時の来るのを待って、
生きてきた地球の、皆が知っている国の
皆が知っている観光地ぐらいは観ておかないと
「医者バカ」は治らないと、、、私的には、、考えるのです。
今年の抱負は、、、
健康で、70過ぎても、、、行きたいところがある事です。
次男の話って、、、二男だった主人の、
真面目で。勤勉で、実直に、医師であること、医師をすることに
全力をかけてきた、生涯で、やり残した
ロンドン、パリでの、素敵な時間を取り戻したいという
世間の風評とはかなり違う、
医師の中の「医者バカ」のお話でした。