昨日の出来事は素敵でした。
ケネディ大使が 馬車でパレードなさいました。
一方後楽園にはポールが現れました。
そして、、、ミッドタウンの広東料理屋さんで
弟と昼食を共にできて、
実家の長男の老齢化とともに、施設に移った兄嫁の
施設入居費の支払いが優先で
父母から相続した長男の、人生の坂下りの最後の願いが
自分が死んだ後も、
女房が路頭に迷わないようにとの最後の切り札が
役目を終わった実家を売ってしまい、
残されたの者が
固定資産税に苦しまないようにと、
すべてをゼロ点に戻し
77歳の男の坂下りに選んだ「最後の一手は、、、」
痴呆の始まった妻を、
自分が死んだあとも、施設が見てくれるようにと
実家の査定を無視しても、生きているうちに
今、売れる値段で売ってしまった。
痴呆の身内には
なかなか保証人が印をくれないむつかしさがある。
人は、、、人を保証するほど強くない。
何台ものトラックが有料で家具などを運び去り
古い建物は更地に還り、
戦後、、、血の出るような苦労と
激務で買い取った東京の実家が
売られてゆきました。
残された痴呆の嫁さんが、
長生きしても、誰も困らないようにと
施設が、買い取り、
多くの残された老人たちの施設を建てる敷地にするそうです。
兄嫁の保証を断った私には、
一切形見分けも、ない。
生前海外で買ったという
おしゃれなドレスも、毛皮も、宝石も
家具も、施設や、働いてくれた人にあげてしまった。
嫁に行っている立場の私には
「人が人の保証をする力がない。」
かといって、
痴呆になり始めた義姉を引き取ることもできない。
彼女は先代の財産を長男の嫁として
私とは、生活レベルのレベルが違うことも
引き取りを辞退する大きな理由でもあった。
査定額の10分のⅠで売られていった実家には
今後の固定資産税を払わなくてよいという、
見えないノルマからの解放が
唯一安らぎだった。
身内から、痴呆が出てしまったときは、配偶者もすでに
後期高齢者になってしまっている。
不動産が重荷になる。
そして、日本では、
3代目ごろには、大きな屋敷も、、、長屋のように
他人の占める空間となり、世襲制は成り立たない。
戦争前は、市谷に歌舞伎門のある屋敷に住み
爺ちゃんは宮内庁に勤務していた。
戦争前の宮内庁の人々がかかっていらしたという
慈恵会病院の医師として働いていた父。
戦乱の中、
滅菌感覚のない大陸の外人医師には、
銃創や切断の技術がなかった。
大陸の西洋医学の指導者として、総合病院を任され、
現地の新聞では。マルマル博士の外科手術、、、云々と、
数十回にわたって、
西洋医学の外科の快挙が報道されたという。
イギリス医学を習得した父の海外赴任は、
人生波乱万丈の幕が
切って落とされた。「院長」「教授」「軍医」「引き揚げ」「疎開」
アメリカの占領下でどこに吸収されたのかもわからないまま、
東京の不動産は全部没収され
新宿から、代田橋あたりまでの土地が
どこかに消えた。
戦争は、私の兄弟姉妹3人の命をも奪った。
引き上げの時、もしもの時の為にと
父が母にプレゼントした指輪やブローチが、
日本への帰国を助けてくれたそうです。
最後の韓宇連絡線への乗船のとき、等を皮切りに、
結婚指輪も、
引き上げる汽車の席を譲ってもらうために使ったそうです。
熊野の無医村が7つ集まった中心の古座川の上流で
奈良が近いあたりで
13年、昼夜を問わず働き
、
そこで生まれた「戦争を知らない息子」!!!
「戦争で亡くした息子を取り戻す」のだと
高齢出産に臨み
「後のがんセンターでCT開発に快挙をなした男の子を授かった」
今は定年したが、市川先生と昼夜をともに創世記のがんセンターで泊り込み
CT,や胃カメラの黎明期の「医学ドラマ」は
柳田邦夫さんのフィクション小説となり
TVの放送を、驚きで拝聴したものでした。
今の、、、ガイヤノ夜明けのような感動でした。
やがて、検査センターで私も検査を受けて
15センチ、16センチの卵巣腫瘍の画像で、
手術をしたものでした。
あのセンターは、がんセンターの創世記から
命を懸けて、その道が生きがいだった先生方によって
命が吹き込まれているようでした。
政治の介入など、考えられない
本当に力のある画像に命がけな先生によって信頼を
世界から集めていました。
その後、定年された創世記の先生がいなくなってからは
東京で検査を受けることはなくなりました。
あの、、、先生方だから、、、出来ていた!という事が
いっぱい感じられました。
長い間、、、ありがとうございました。
この、医学のドラマに、、、疎開中に生まれた
戦争を知らない団塊の世代の一人のエースが
父母の「戦争で失った子を取り戻すと、悲願がかなった赤ちゃん」の
成長した姿でした。生まれたときすでにオーラーを発していました。
父は、戦争で失ったすべてが返って様に明るくなり、
張り切って、自ら田舎の山奥に。古座町や白浜から「本」を取り寄せ
弟に寝物語を読み聞かせていた。
家族サービスで川にスイカを持ってゆく途中、
患者さんにつかまってしまい、家族サービスの時間がなかった。
運動会にも、入学式にも、父の姿はなかった。
「戦争を知らないこの子の為に、
アメリカの教育を受けさせ、時代についてゆかせねば!」
父の口癖でした。
弟が3年生の時、父は生まれ故郷の東京に返ってきたのでした。
多くの借金で、下町に240坪ほどの土地を買い、
医療施設を経営し始めました。
戦前は自社ビルの総合病院の院長さんをしながら
宮様たちのビリヤードに顔をほころばせていたモダンな父が
下町の、戦争で傷だらけになった振興の°貧しい町にも往診をしながら
長男が医師となり、二男と三女(わたくし)を薬学大学に入れ、
借金もあと少しというところで、
前日に患者さんの胃の手術をして
麻酔の覚めるのを待ちながら早朝5時ごろ永眠に着きました。
5時ごろ、、、長男の呼ぶ声に、兄弟は
父の周りに集まりました。
呼吸は止まっていましたが、体も手も温かく、
涙は出ませんでした。
父は55歳の働き盛りで、死ぬとは考えられなかったからでした。
父が死んでから、残した診療所を継ぐのは長男でした。
私たちは相続放棄の印鑑を押すことと引き換えに
大学の残り3年を長男と同居で
面倒を見てもらいながらアルバイトをして
卒業すると、
所属していた卒論から、
教授の先生にあたる東京大学で
技術公務員を探しているからと言われました。
日大は臨床が強い大学なので
病院薬剤師になりたいのでと、
一度は進路違いと辞退しましたが、
30歳過ぎたスタッフが結婚退職するので、
急に技官が足りなくなるので
行ってはくれないか?と申し付かり、
おそるおそる躊躇しながら就職しました。
同じ薬理クラブのM嬢は、のちに、
大病院の薬局長(教授待遇)になりました。
その方は
私は、独身で、母校の臨床で研究するつもりよ。
と、、、さりげなく、不連続な東大は居場所が作れるかどうか?
忠告してくれていると思える言葉で、深く考えない私を
今思えば、、、諭してくれていたのでしょうね!、、、。
私の兄は東大を受けて落ちています。
R国高校のトップクラスだっただけに
自分では合格すると思っていただけに、
ショックは隠せませんでした。
某大學の医学部に入ってからも、
東大を受けていました。
天下の東大の中からから見るのもチャンスかも知れないと、
よく考えないでOKしましたが、
東大の、勤務には自分の居場所を見つけるのには、
実力不足と感じました。
すぐに大学病院の薬剤科の研究員に変わり、
臨床薬剤師の道に進めたのは
無休のしごきに何か月か耐えて、
一人で宿直ができるようになったとき
雇用の辞令がおりました。
やめる予定だった東大の30歳のスタッフも縁談が壊れ、
辞めないと耳打ちしてきたことも転機の決心を速めてくれました。
やがて、24歳の6月になり、結婚する同級生が出始めました。
二人の友人が結婚の式で
「友人代表であいさつをしてほしい」
と電話してきましたが、
北海道の友人は、母と仲良しで
私の留守中も、母はその友人を家族のように接遇していたので、
友人の新郎からも、電話が入り、
「お宿をとってお待ちしますから」と
母に直談判があり、母の顔を立てる立場上、
仕事が終わってから
婚約者に羽田まで送ってもらい、札幌に出発しました。
母の旧友の息子さんだった婚約者とは、
友人の域の付き合いをしながら、
親同士
結婚の約束を、していました。
出会いと神のいたずらでしょう、
北海道には創生した父と同じ外科医で
しかも循環器科の先生でした。
父の元気な時、循環器の医師に出会っていたら
手術を受けて、父は生きていたかもしれなかった。
母は旧友の友人の息子さんとは生涯家族として、付き合い、
うやむやになり
父亡き後の外科の診療所を継いでくれるというこの先生と
結婚して、内科医の兄と、いっよに外科内科病院をやってゆくことに
結婚は急きょ「あなたの実家を継ぎますから、、、」という
いきなり出てきた、若き日の不思議な運命でした。
母にとっては「殺し文句」だったと思うのですよね、、、。
しかし、北大に居場所を見つけ大学の講師から、
大病院の立ち上げグループの創世記に
日夜を問わず、
お盆も暮れも、ゴールデンウィークも
4人の外科スタッフで泊まり込みが
続いていた主人には「光陰矢の如し」だったと思うのです。
子供たちの作文には
「僕にはパパは居ないみたいだ、
でもパパは家を守っている神様なのだとママが言った、、、」などと書かれている。国内留学で。大阪に行ったきり、
音沙汰ない時もあった。
気が付くと、実家を助けるどころではなく、
大きな病院のスタッフとして」定着していた。
何十年も里帰り出来なかった。
母の葬式にも職場を優先した夫にはいう言葉もありません。
思えば、病院に泊まり込みの無休医時代、
出産の為7か月間実家にいました、
その間一度も来てくれない。
長男を3か月になるまで育てて、母には感謝の気持ちで
いっぱいです。
子供を連れておむつを持って、ミルク便を抱え5月の千歳に着くと、、、
主人は大学で仕事中です。
教授には逆らえないのは解るけれど、
前から連絡しているだけに
医療と結婚している我が旦那が医者バカに思えた始まりでした。
あの時書いていた博士論文が、
陛下の玉体を手術された報道写真のバイパスと深くかかわりのある
初期の頃の基礎実験であったことがわかったのは、
あの手術の新聞記事の発表後
主人の博士論文の抄録を送って欲しいという
医師の問い合わせが自宅に来て、
古い論文なのでデジカメで撮って、CD-Rにして、
送りました。事後承諾のつもりで主人に報告したら、
何十年の前のものだから、送る必要は無いよ、
探せば、ダウンロードも出来るものだし。。。
、、、、、そうだったの!?
お疲れといってくれると思ったのに、
主人は、まるっきり取り合ってくれなかったのが、不満でした。
世間は、商売的に思考して医者を「お金」で考えるかもしれないが、
医療しか見ない別の生き物だと、、、
父の時代からあきれることがいっぱいです。
「母は、、、あなたの彼は嘘を言った、、、」と言って最後の言葉が
「お兄さんと一緒に働き、育児は一薬局をしているお前と一緒に育てて、
孫と暮らす日を待ってたのに、、、」
嘘を、、、、言った。息をひきとる前の言葉だった。
行けなかったのですよね!
嘘をついたわけではないのですよね!
国立に税金を使ってサポートしてもらい医師になった以上
個人の利益の為に生きるわけにはいかない「システム」に
組み込まれていたことが
私たち本人でさえ気が付かなかったのです。
国立では給料が安い、
息子たちを、私立の医者と薬剤師にしたら、
ローンしか残らなかったけど、
約束を破ったと思い込んでいる母には、
形見の品も残してはくれなかった。
母を看取り、子育ても終わり、
女房が痴呆になっていた兄にしてみれば、固定資産税のかかる
不動産を売って、自分の死後に、
女房が痴呆の為困らないように
施設に入ったのは正解かもしれません。
弟は、生き方で輝き、実際には形として見えない実家を
日本中と言わず世界中に看ていただけた。
CTの黎明期に良い仕事を残してくれて
寂しさを空に放ってくれたから、
実家がなくなって、寂しいけれど
、
このまま「見納め」しなければ、
父母がいつまでも思い出されるので、
二度と実家のあったところには
還らないつもりです。
その方が、寂しくないから。
弟は「見納めに行って来た、、、あそこが居間、
向こうが母の部屋、、、
グランドピアノの在ったところだ!、、、と」
寂しそうでした。
私は見に行かない、、、寂しくて、、、行けない。
こうして、戦前には栄えた我が家は
「物質的にはなくなりました。」
被災地が、多くのことを教えてくれていたので、
我が家がなくなっても、
8人のうち4人の兄弟が、運良く戦争から生き残り、
77歳の長男は、痴呆の奥さんを守っていくためには
、売るしかなかった実家だから
二束三文の一軒家以下に引き取られていったことは
「万人が滅ぶ命の終焉の坂下りの、、、滅びの美学?」かもしれません。
無感動な自分ですが、
今の気持ちを日記の代わりのブログに書き綴り
冷静になってから、、、削除したいと思っています。
皆、、、惚けないように、痴呆にならないように!
死ぬ直前まで「人間で居ようね!」
前の日まで働いて、
ぴんぴんころりとサヨナラしようね。
大きな立派なお寺さんだけ残ったけれど、、、
父母は許してくれると思います。
誰に恨みも憎しみもありません。
こうして、、、時代をロンダリングする土地は
動くことはなく、
ロンダリングしながら、、、生き続けていくのですね。
お母さんお父さん、、、、弟よ!
あなたの中に「実家が永遠に、、、あるのです。」
寂しがりません、、、、えぐられたように
疲れてねむりたいだけですよ、
明日からは、、、落ちてくる子宮を何とかしなければ、、、
ケネディ大使が 馬車でパレードなさいました。
一方後楽園にはポールが現れました。
そして、、、ミッドタウンの広東料理屋さんで
弟と昼食を共にできて、
実家の長男の老齢化とともに、施設に移った兄嫁の
施設入居費の支払いが優先で
父母から相続した長男の、人生の坂下りの最後の願いが
自分が死んだ後も、
女房が路頭に迷わないようにとの最後の切り札が
役目を終わった実家を売ってしまい、
残されたの者が
固定資産税に苦しまないようにと、
すべてをゼロ点に戻し
77歳の男の坂下りに選んだ「最後の一手は、、、」
痴呆の始まった妻を、
自分が死んだあとも、施設が見てくれるようにと
実家の査定を無視しても、生きているうちに
今、売れる値段で売ってしまった。
痴呆の身内には
なかなか保証人が印をくれないむつかしさがある。
人は、、、人を保証するほど強くない。
何台ものトラックが有料で家具などを運び去り
古い建物は更地に還り、
戦後、、、血の出るような苦労と
激務で買い取った東京の実家が
売られてゆきました。
残された痴呆の嫁さんが、
長生きしても、誰も困らないようにと
施設が、買い取り、
多くの残された老人たちの施設を建てる敷地にするそうです。
兄嫁の保証を断った私には、
一切形見分けも、ない。
生前海外で買ったという
おしゃれなドレスも、毛皮も、宝石も
家具も、施設や、働いてくれた人にあげてしまった。
嫁に行っている立場の私には
「人が人の保証をする力がない。」
かといって、
痴呆になり始めた義姉を引き取ることもできない。
彼女は先代の財産を長男の嫁として
私とは、生活レベルのレベルが違うことも
引き取りを辞退する大きな理由でもあった。
査定額の10分のⅠで売られていった実家には
今後の固定資産税を払わなくてよいという、
見えないノルマからの解放が
唯一安らぎだった。
身内から、痴呆が出てしまったときは、配偶者もすでに
後期高齢者になってしまっている。
不動産が重荷になる。
そして、日本では、
3代目ごろには、大きな屋敷も、、、長屋のように
他人の占める空間となり、世襲制は成り立たない。
戦争前は、市谷に歌舞伎門のある屋敷に住み
爺ちゃんは宮内庁に勤務していた。
戦争前の宮内庁の人々がかかっていらしたという
慈恵会病院の医師として働いていた父。
戦乱の中、
滅菌感覚のない大陸の外人医師には、
銃創や切断の技術がなかった。
大陸の西洋医学の指導者として、総合病院を任され、
現地の新聞では。マルマル博士の外科手術、、、云々と、
数十回にわたって、
西洋医学の外科の快挙が報道されたという。
イギリス医学を習得した父の海外赴任は、
人生波乱万丈の幕が
切って落とされた。「院長」「教授」「軍医」「引き揚げ」「疎開」
アメリカの占領下でどこに吸収されたのかもわからないまま、
東京の不動産は全部没収され
新宿から、代田橋あたりまでの土地が
どこかに消えた。
戦争は、私の兄弟姉妹3人の命をも奪った。
引き上げの時、もしもの時の為にと
父が母にプレゼントした指輪やブローチが、
日本への帰国を助けてくれたそうです。
最後の韓宇連絡線への乗船のとき、等を皮切りに、
結婚指輪も、
引き上げる汽車の席を譲ってもらうために使ったそうです。
熊野の無医村が7つ集まった中心の古座川の上流で
奈良が近いあたりで
13年、昼夜を問わず働き
、
そこで生まれた「戦争を知らない息子」!!!
「戦争で亡くした息子を取り戻す」のだと
高齢出産に臨み
「後のがんセンターでCT開発に快挙をなした男の子を授かった」
今は定年したが、市川先生と昼夜をともに創世記のがんセンターで泊り込み
CT,や胃カメラの黎明期の「医学ドラマ」は
柳田邦夫さんのフィクション小説となり
TVの放送を、驚きで拝聴したものでした。
今の、、、ガイヤノ夜明けのような感動でした。
やがて、検査センターで私も検査を受けて
15センチ、16センチの卵巣腫瘍の画像で、
手術をしたものでした。
あのセンターは、がんセンターの創世記から
命を懸けて、その道が生きがいだった先生方によって
命が吹き込まれているようでした。
政治の介入など、考えられない
本当に力のある画像に命がけな先生によって信頼を
世界から集めていました。
その後、定年された創世記の先生がいなくなってからは
東京で検査を受けることはなくなりました。
あの、、、先生方だから、、、出来ていた!という事が
いっぱい感じられました。
長い間、、、ありがとうございました。
この、医学のドラマに、、、疎開中に生まれた
戦争を知らない団塊の世代の一人のエースが
父母の「戦争で失った子を取り戻すと、悲願がかなった赤ちゃん」の
成長した姿でした。生まれたときすでにオーラーを発していました。
父は、戦争で失ったすべてが返って様に明るくなり、
張り切って、自ら田舎の山奥に。古座町や白浜から「本」を取り寄せ
弟に寝物語を読み聞かせていた。
家族サービスで川にスイカを持ってゆく途中、
患者さんにつかまってしまい、家族サービスの時間がなかった。
運動会にも、入学式にも、父の姿はなかった。
「戦争を知らないこの子の為に、
アメリカの教育を受けさせ、時代についてゆかせねば!」
父の口癖でした。
弟が3年生の時、父は生まれ故郷の東京に返ってきたのでした。
多くの借金で、下町に240坪ほどの土地を買い、
医療施設を経営し始めました。
戦前は自社ビルの総合病院の院長さんをしながら
宮様たちのビリヤードに顔をほころばせていたモダンな父が
下町の、戦争で傷だらけになった振興の°貧しい町にも往診をしながら
長男が医師となり、二男と三女(わたくし)を薬学大学に入れ、
借金もあと少しというところで、
前日に患者さんの胃の手術をして
麻酔の覚めるのを待ちながら早朝5時ごろ永眠に着きました。
5時ごろ、、、長男の呼ぶ声に、兄弟は
父の周りに集まりました。
呼吸は止まっていましたが、体も手も温かく、
涙は出ませんでした。
父は55歳の働き盛りで、死ぬとは考えられなかったからでした。
父が死んでから、残した診療所を継ぐのは長男でした。
私たちは相続放棄の印鑑を押すことと引き換えに
大学の残り3年を長男と同居で
面倒を見てもらいながらアルバイトをして
卒業すると、
所属していた卒論から、
教授の先生にあたる東京大学で
技術公務員を探しているからと言われました。
日大は臨床が強い大学なので
病院薬剤師になりたいのでと、
一度は進路違いと辞退しましたが、
30歳過ぎたスタッフが結婚退職するので、
急に技官が足りなくなるので
行ってはくれないか?と申し付かり、
おそるおそる躊躇しながら就職しました。
同じ薬理クラブのM嬢は、のちに、
大病院の薬局長(教授待遇)になりました。
その方は
私は、独身で、母校の臨床で研究するつもりよ。
と、、、さりげなく、不連続な東大は居場所が作れるかどうか?
忠告してくれていると思える言葉で、深く考えない私を
今思えば、、、諭してくれていたのでしょうね!、、、。
私の兄は東大を受けて落ちています。
R国高校のトップクラスだっただけに
自分では合格すると思っていただけに、
ショックは隠せませんでした。
某大學の医学部に入ってからも、
東大を受けていました。
天下の東大の中からから見るのもチャンスかも知れないと、
よく考えないでOKしましたが、
東大の、勤務には自分の居場所を見つけるのには、
実力不足と感じました。
すぐに大学病院の薬剤科の研究員に変わり、
臨床薬剤師の道に進めたのは
無休のしごきに何か月か耐えて、
一人で宿直ができるようになったとき
雇用の辞令がおりました。
やめる予定だった東大の30歳のスタッフも縁談が壊れ、
辞めないと耳打ちしてきたことも転機の決心を速めてくれました。
やがて、24歳の6月になり、結婚する同級生が出始めました。
二人の友人が結婚の式で
「友人代表であいさつをしてほしい」
と電話してきましたが、
北海道の友人は、母と仲良しで
私の留守中も、母はその友人を家族のように接遇していたので、
友人の新郎からも、電話が入り、
「お宿をとってお待ちしますから」と
母に直談判があり、母の顔を立てる立場上、
仕事が終わってから
婚約者に羽田まで送ってもらい、札幌に出発しました。
母の旧友の息子さんだった婚約者とは、
友人の域の付き合いをしながら、
親同士
結婚の約束を、していました。
出会いと神のいたずらでしょう、
北海道には創生した父と同じ外科医で
しかも循環器科の先生でした。
父の元気な時、循環器の医師に出会っていたら
手術を受けて、父は生きていたかもしれなかった。
母は旧友の友人の息子さんとは生涯家族として、付き合い、
うやむやになり
父亡き後の外科の診療所を継いでくれるというこの先生と
結婚して、内科医の兄と、いっよに外科内科病院をやってゆくことに
結婚は急きょ「あなたの実家を継ぎますから、、、」という
いきなり出てきた、若き日の不思議な運命でした。
母にとっては「殺し文句」だったと思うのですよね、、、。
しかし、北大に居場所を見つけ大学の講師から、
大病院の立ち上げグループの創世記に
日夜を問わず、
お盆も暮れも、ゴールデンウィークも
4人の外科スタッフで泊まり込みが
続いていた主人には「光陰矢の如し」だったと思うのです。
子供たちの作文には
「僕にはパパは居ないみたいだ、
でもパパは家を守っている神様なのだとママが言った、、、」などと書かれている。国内留学で。大阪に行ったきり、
音沙汰ない時もあった。
気が付くと、実家を助けるどころではなく、
大きな病院のスタッフとして」定着していた。
何十年も里帰り出来なかった。
母の葬式にも職場を優先した夫にはいう言葉もありません。
思えば、病院に泊まり込みの無休医時代、
出産の為7か月間実家にいました、
その間一度も来てくれない。
長男を3か月になるまで育てて、母には感謝の気持ちで
いっぱいです。
子供を連れておむつを持って、ミルク便を抱え5月の千歳に着くと、、、
主人は大学で仕事中です。
教授には逆らえないのは解るけれど、
前から連絡しているだけに
医療と結婚している我が旦那が医者バカに思えた始まりでした。
あの時書いていた博士論文が、
陛下の玉体を手術された報道写真のバイパスと深くかかわりのある
初期の頃の基礎実験であったことがわかったのは、
あの手術の新聞記事の発表後
主人の博士論文の抄録を送って欲しいという
医師の問い合わせが自宅に来て、
古い論文なのでデジカメで撮って、CD-Rにして、
送りました。事後承諾のつもりで主人に報告したら、
何十年の前のものだから、送る必要は無いよ、
探せば、ダウンロードも出来るものだし。。。
、、、、、そうだったの!?
お疲れといってくれると思ったのに、
主人は、まるっきり取り合ってくれなかったのが、不満でした。
世間は、商売的に思考して医者を「お金」で考えるかもしれないが、
医療しか見ない別の生き物だと、、、
父の時代からあきれることがいっぱいです。
「母は、、、あなたの彼は嘘を言った、、、」と言って最後の言葉が
「お兄さんと一緒に働き、育児は一薬局をしているお前と一緒に育てて、
孫と暮らす日を待ってたのに、、、」
嘘を、、、、言った。息をひきとる前の言葉だった。
行けなかったのですよね!
嘘をついたわけではないのですよね!
国立に税金を使ってサポートしてもらい医師になった以上
個人の利益の為に生きるわけにはいかない「システム」に
組み込まれていたことが
私たち本人でさえ気が付かなかったのです。
国立では給料が安い、
息子たちを、私立の医者と薬剤師にしたら、
ローンしか残らなかったけど、
約束を破ったと思い込んでいる母には、
形見の品も残してはくれなかった。
母を看取り、子育ても終わり、
女房が痴呆になっていた兄にしてみれば、固定資産税のかかる
不動産を売って、自分の死後に、
女房が痴呆の為困らないように
施設に入ったのは正解かもしれません。
弟は、生き方で輝き、実際には形として見えない実家を
日本中と言わず世界中に看ていただけた。
CTの黎明期に良い仕事を残してくれて
寂しさを空に放ってくれたから、
実家がなくなって、寂しいけれど
、
このまま「見納め」しなければ、
父母がいつまでも思い出されるので、
二度と実家のあったところには
還らないつもりです。
その方が、寂しくないから。
弟は「見納めに行って来た、、、あそこが居間、
向こうが母の部屋、、、
グランドピアノの在ったところだ!、、、と」
寂しそうでした。
私は見に行かない、、、寂しくて、、、行けない。
こうして、戦前には栄えた我が家は
「物質的にはなくなりました。」
被災地が、多くのことを教えてくれていたので、
我が家がなくなっても、
8人のうち4人の兄弟が、運良く戦争から生き残り、
77歳の長男は、痴呆の奥さんを守っていくためには
、売るしかなかった実家だから
二束三文の一軒家以下に引き取られていったことは
「万人が滅ぶ命の終焉の坂下りの、、、滅びの美学?」かもしれません。
無感動な自分ですが、
今の気持ちを日記の代わりのブログに書き綴り
冷静になってから、、、削除したいと思っています。
皆、、、惚けないように、痴呆にならないように!
死ぬ直前まで「人間で居ようね!」
前の日まで働いて、
ぴんぴんころりとサヨナラしようね。
大きな立派なお寺さんだけ残ったけれど、、、
父母は許してくれると思います。
誰に恨みも憎しみもありません。
こうして、、、時代をロンダリングする土地は
動くことはなく、
ロンダリングしながら、、、生き続けていくのですね。
お母さんお父さん、、、、弟よ!
あなたの中に「実家が永遠に、、、あるのです。」
寂しがりません、、、、えぐられたように
疲れてねむりたいだけですよ、
明日からは、、、落ちてくる子宮を何とかしなければ、、、