花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

三十日のNHKで、雪かきの疲れも治った。

2017-12-30 22:09:08 | Weblog

 

中学生の時、裕ちゃんのプロマイドをカバンに入れて、一人でニコニコ

上機嫌だった時代があった。

私の兄貴は、がり勉で、神経質で、プライドが高くて、

人一倍自己愛が強いので、私は、遠くから兄を愛した。

その点、裕ちゃんは「兄貴であり。彼であり、たふがいであり、、、、」

うんざりする教室では、一番後ろの席でプロマイドを観ていた。

先生の声が聴こえないくらい、自由な青春が感じられた。

国語に時間、気が付くと、後ろに先生が居て、

プロマイドを没収されてしまった。

放課後、さんざん叱られた、

先生はプロマイドを返してくれなかった。

勉強が出来ることが最高に良い事であるかのような

戦後の受験地獄の中で

裕ちゃんの、天然のささやきの歌声は

胸から胸に響いてきて、、、シビレチャッタ!!!

足の長いのも素敵だった。

キタオウジ欣也さんも大好きだったが、

当時、日舞を習ってた私は、おけいこの日は欣也ちゃんが好きだった。

青春って、いいよね~~~~

大人になってからも、時計台の歌や、夜霧よ今夜もありがとう、、、など

大好きだった。

北原三枝さんも、ダイナミックな国際女優のスケールが漂う

好きな女優さんだった。

なんやかんやで、、、結婚後も、、、我が家の息子たちは

西部警察、8時だよ、全員集合で、育ったようなものである。

NHKで、西部警察というのは、、、嬉しいじゃないですか!

松竹梅のお酒の宣伝も、裕ちゃんや、渡さんがいい、、、味出していて

コマーシャルなのに、何回見ても楽しかった。

 

今日は、西部警察の最終版、、、前にも観ましたが

2回目を観ると、、、色々な事に気が付いて

ゆとりを持って、、たのしんだ。

西武激チャンバラのドンパチと

めちゃくちゃなカーアクションと、

プロ中のプロのスタントマンの技!

息子たちも、

勉強そっちのけでTVを観ていた日の事が甦った。

背高のっぽのあの若手のお兄さんか?弟さんは

確か、北海道でDr、をされていたと思いますが、

今日の映画では、、、わかいですね~~~~!

肝心の甥っ子の石原さんは、裕ちゃんの野生の太陽のような

天然の眩しさというより

育ちのいい、坊ちゃまと言う、、、メロドラマの主人公になれそうな

瞳のきれいな青年だったという事に、ビックリしました。

今、クイズ番組なんかで観たり、ワイドショウなどで観ると

落ち着いた中年の方ですものね。

何にしても、石原軍団の、ハチャメチャなプロ根性のアクションものに

TV人生のゴールド時代を振り返ります。

ドリフターズも、、、今は懐かしいですよね。

渡りさんと、裕ちゃん、、、裕ちゃんと渡さん

二人でセットの立体感が感じられましたよ。

優しさの種類が、、、女性度の熟した人には、、、渡さん

憧れ度の強い、、、女性的には未熟な私は、、、裕ちゃんが太陽で兄貴で、彼!

むかしは、、、映画が、、、唯一の青春時代の、非日常ゾーンへの旅でした。

NHKさんも、西部警察が

時代の先取りの、インターナショナルスケールの

青棒タッチのアクション版だって、、、思いませんか?

余計な事を一言いうならば、

どんなダンディも、裕ちゃんと、ならんで映るシーンには

男性版ハイヒール紳士靴を履かないと

足の長さのバランスをとれないのでは?。。。という

残念なシーンが一か所ありました。

島に乗り込んで、階段を登る渡さんの靴のかかとが、、、高すぎたシーン。

あの、、、自然体で、女性を魅了していると思っていた渡さんも

裕ちゃんとの映画では、、、ヒールの高めの靴をはいていたんだな~~~

最後のシーンに、涙を流しながらも、、、

恐ろしく、、、冷静に映画を観ている自分にあきれました。

渡りさんが死んじゃった最終版は、、、西部警察の、、、最終版です。

裕ちゃんが、自分と、渡さんとの二冊の警察手帳を捨てるシーンは

一緒に生きた男同士の絆の深さに感動しました。

いや~~~~~!!!映画って。。。いいですね~~~~

裕ちゃん、、、渡さん、、、石原軍団の俳優さん!!!、、、たのしかったよ!!!

NHKで、この冬は乗り切ります!

 

 

 

 


インパール作戦のTV番組の語る戦慄

2017-12-28 02:34:17 | Weblog

 

ショックでした。

しばらく、、、ぼーとしていました。

補給路のないジャングルの中を

隷従せざるを得ない軍国主義の時代の日本の兵隊さんが

死ぬより苦しい撤退の地獄の道をたどる雨の中で

病死と報告されたが、実態は違っていた。

一人の、頑固なまでの記録が、当時の真実に迫ってゆく。

父も、叔父さんも、母の弟言あたる叔父さんも、

戦場では、靴も食べてしまったと言っていたことを思い出した。

一部の上層部の人たちの

現場を察する事の出来ない頭だけで進軍する計画は

イギリスという歴史の深い国民性の前には

レッド、白骨という地名まで出来るほどに

日本軍の兵隊さんは、弾丸のように敵陣で玉砕していった。

戦争の悲惨さが、これほど茶の間に放送された事が

ショックでもありました。

ボロボロの舟が日本に流れ着いて、

その国の一般の猟師の貧しさが伝わってきて

彼の国の上層部と、軍部と、一般の国民の

貧富の差を感じるのは、私だけではないと思いますが、

こんな状態で、亜米利加と、間違って、戦争が起こってしまったら、

地球のすべての国が、、、、白骨も残らない、

レッド地帯もあり得ない、核

戦争で、一瞬で、地球は終わると思っています。

自分しか愛せない人間が、司令塔に座ったときと、

自分すら愛する機能のない人工知能が、自己学習して

核戦争を起こしたならば

機会のCPUに相当する頭脳は、

地球が終り、機械がすべて壊れても、

ロボットの人工知能は、無とすら闘い続けるだろう。

アナログ時代も、デジタル時代も

戦争には、一つも良いことがないと、気付くべきだす。

NHKの年末のこの、悲惨な記録映画は、

平和への誓となってほしいと思って観ました。

 

 

冷静な

 

 

 


年賀状の文化

2017-12-22 13:03:17 | Weblog

 新年を迎えに行く心、、、、

年賀状の文化は、しっかりと根付いている。

メールや、SNS,,,etc. 手っ取り早い通信手段があるのに

年賀状は、新年に花が咲く。心の花びらの重なりにも似て

厳寒の新年に、日が射すような、目覚めがある。

 

解っているのに、、、結婚以来、、、年賀状は、主人に一任してきた。

父が大好きだった私は、父にもらった旧姓が唯一無二の私の名前。

普段は、結婚後に、主人の姓名で、呼ばれても、抵抗はない。

しかし、薬剤師免許の名前を旧姓から、結婚後の姓名に変えた時、

一つの時代が幕が降りて、メイジョウしがたい感情に陥った。

私を知っている人が、銀河鉄道のかなたに居る気がした。

子供が生まれて、「○○ちゃんのママ」という

新しい「芸名のような響」の中で、、、

過去に戻ってゆくよりは、時の流れのままに

役割の名前を、便利な称号ととして、大切にした。

しかし、正月に、改めて、

自分の結婚後の名前を書くという気にはなれなかった。

私を知ってくれている人が、遠くに行ってしまうような気がしたりもした。

我が家は表札も、主人の名前だけ。

全室、主人が往行闊歩できる主人の物が点在している。

しいて言えば、台所にパソコンを置いて、

此処が自分の部屋と思っている私。、、、

台所を通らねば、

玄関にも、トイレにも、居間にも、洗面所にも、風呂場にも行けない。

つまり、我が家では、一番通行人が行き来するところで

ブログを書いているのが、結婚後の主婦の実態である。

家じゅうの片付け専門従業員という勤務だろうか?

師走になると、年賀状を書いているマトマッタ集中力がない。

結局、ブログの更新で、新年おめでとうございます。、、、を

親しき人に伝えて、年賀状に代えて、ご挨拶としてきた。

しかし、、、73歳、、、来年は74歳、、、

75までは、生きてると思うから、来年は、自筆で

兄弟、甥っ子、姪っ子、に至るまで

年賀状を書く予定であります。

今年も、主人が出している年賀状に

刺身のつまとして、同席させていただき、

ほとんど、、、生涯、、、オメモジすることも無いだろう主人の知人に

夫婦として、連名で、年賀状文化が続いてゆく。

主人は、毎年毎年、

「自筆で」一枚一枚、、、心をこめて、書いているのを

、、、とてもまねはできない、、、と

感心して観ています。

めっきり、、、喪中に付、、、年賀状を遠慮、、云々、の

寂しい葉書が多くなった中で、

親しい親友と、人生の卒業式で、涙の別れをするように、

、、、つい、、、先日、、コンパで、一緒に会食したのに、、、と

主人の、年賀状を書くて手が止まるのを、

無言で観ている私は、、、

とうとう、年賀状を書かなかった私には

言葉が探せない。

母が亡くなった年の、母の年賀状の字は

呼吸をしているように、光る魂を持っていた。

年賀状だけは、、、自筆で書く、、、

主人は、しっかりと、気持ちを載せて、書いている。

 


厳寒の師走に突入の札幌

2017-12-19 22:15:47 | Weblog

 

寒いですねェ~~~~~

車で買い物に行こうと車庫からまっすぐに道路に出た。

左折して、本通りに入ろうとして、左いっぱいハンドルを切った、

アクセルを踏むと、本来なら車はゆっくりと回転して

道路と並行になるはずであった。

ハンドルを切っても、タイヤが滑って進まない。

無理やり、アクセルを踏むと、

タイヤが空回りして、道路が氷のすり鉢型に削れて、てかてかのツルツル。

エンジンをかけっぱなしのまま、砂袋を取りに

ツルツル道路をゆっくりと進み、砂袋を持ってきた。

タイヤの前後に砂を播き

とりあえず、交通妨害の位置からは脱出した。

そのまま、車庫に戻して、

本日は、弁当を外注して、夕食は何とかなったが、

前輪駆動の本だのセダンは20年以上2年ごとに車検に耐えながら、

10000キロしか走っていない。

ゴールデン免許をいただいているが、

19歳の時、目立ちたがり屋の長男が乗っていたセドリックを

おさがりにくれたのは、ハンドルが重くて運転しにくいからという

我儘なおかげで、私はマイカーを手に入れたのが始まりであった。

結婚というより、外科内科の開業の実家で、

大学を卒業してないのに、いきなり父が54歳で永眠した。

外科医の欠けた、、、外科内科の戦後の開業を、

兄はパニックになりながらも、父の残した患者さんに

「私が、後を告いで行きますので、、、、」と。

葬式の時、煙になるまで見送りたいという地域の患者さんの為に

バスを走らせた。

私も、患者さんの御婆ちゃん方も、涙が止まらなかった。

母と、兄は、てきぱきとふるまいながら、平常を保っていた。

その日の夜、

父の仏壇の前で、、、クロッカスの球根が、みるみる伸びて

高速度カメラの画面でも見ているかのように

紫の花が唐突に咲き始めた。

長い時間が過ぎているのに、、、一時間ぐらいにしか思えないのか?

あるいは、、こんな、、、ありえないスピードで

クロッカスは、、、いいや?これは。。。「イヌサフランかな?」、、

私は、その開花の速さを凝視していた。

仏壇の前で、涙一つこぼさないで

母は怒ったように、、、父の写真に語りかけた。

「お父さん、、、ずる過ぎよ、、、ひどいじゃないの、、、!」

「後の事は、私に全部、、、やれ、、、!っていうの?」

父の写真の顔の唇が、少し動いたかのような錯覚に、

私は我に返った。

「お母さん、、ひどいのはどっちかしら、、、忙しい忙しいと、ピアノにばかり。」

「昨日の夜、お父さんは夕食を食べそこなったのよ、、、手術が長引いて。」

母は外出して深夜に帰ってきたが、

父は術後の麻酔が覚めるのを待ちながら仮眠していた。

夫婦はすれちがっていたのだった。

私は今も後悔している。、、、

その時、母にひどいことを言ってしまった。

「何処の開業医の奥さんも、先生を着物に例えるのなら、

その着物の裏になって、マネージャーのように、

夫婦は、夫の状況を把握しているというのが、開業医の奥さんの仕事だと思うのよ。」

お母さんは、女中さんに夕食を任せて、

自分の仕事優先だったでしょう!、、、

亡くなる前日の夕食ぐらい

お母さんんの、、

手づくりの「すき焼」ぐらいを食べた後で、、、

お父さんは永眠してほしかった。」

、、、、、、、、クロッカスだったか、、、イヌサフランだったか、、、?

「そうだよ、、、そうだよ、、、どこにいたんだよ、、、母さんは、、、」

まるで、、ほやほやの父の魂が、仏壇から、話しかけているような

花の命を借りて、母に、、、「頼むね、、、後の事、、、」

勢いよく咲いた紫の花になって、

語りかけてくるような錯覚の中に私は居た。

厳寒の2月19日、、、父は死んだ。

早朝5時前、、、異変に気付いたのは長男だった。

「皆、、、起きなさい、、、お父さんを見送るぞ、、、」

家族は、兄によって次々と、、、起こされた。

石井さんという正看護婦さんが、父の足元で泣いていた。

後の従業員は、遠くから入れ替わり立ち代わり、、、

父に「先生、、、」と、、、絶句していた。

葬式が住んでも、患者さん方は、毎日お参りに来てくれた。

家族が泣いていないのに、こどものように号泣して、

「先生、早すぎるんだよ~~~!」と、泣きじゃくっていた。

地域に根差した開業医と、患者さん、、、、

家族よりも、深い絆があったんだと、、、私は、初めて気が付いた。

大学で教鞭を執っていた10歳ぐらい年下の

男盛りの伯父さんが、集まってくれた患者さんたちの前で、

「先生の後は、長男の内科医が、しっかり、、、後を継ぎますので、、、」

挨拶のようでもあり、動揺する心を鎮めるようでもあり、、、

内科医ほやほやの兄を、しっかりと押し出すようでもあり、、、

微妙な親しみのあふれる時間だった。

100日を過ぎるころ、、、、

兄貴は絶叫するように、、、つぶやいた言葉は、、、

「親父のやつ、、、こんなにも多くの事を残しやがって、、、」

私も、二男の兄も大学生だった。

弟は高校生だった。

ピアノ教室を盛大に運営して、

男勝りの活動をしている母にとっても、

病院の先生の奥さんが開いている教室だから、

生徒がいっぱいいるという事も考えなくてはならないから、

母のステータスのような、、、見えない部分を支えるのが

長男にとっては、世間のお化けに対面したかのように

武者震いが出たそうである。

「母と、弟を一人前にするまでは、、、開業をたためない。

しかし、外科医師が居なくなって、

内科だけで、どうせよというのだ、、、」

兄貴は、、、とりあえず、皆、遺産相続の権利を放棄の印鑑を押せ!」

言われるままに、兄弟は全員放棄した。

兄なりに、アルバイトの医師に手伝ってもらったり、

父の時代に交流していた近所の医師会の線や、父の同窓生が

パニックになる兄の、良き先生として、

指導の傍ら、手伝ってくれたり、

先生方の奥さんや、御嬢さんが、ピアノ教室のお弟子さんだったり、

兄は、人選の厳寒期を、「雪囲い」のように、

父の生前残した人脈という「竹」に支えられて

雪折れしないで、医師を続けていきました。

しかし、、、私には、、、許すことのできないワンマンな長男でもありました。

手塚治虫さんの有名な漫画に「火の鳥」という連載漫画がありますが、

あの中の、、、「我王」のように、

全ては自分の方針の素材として扱うのでした。

兄弟はそれなりに、我が道を行くという強さがありましたが、

兄は、心の弱い繊細な臆病さと、「我王」のような獰猛さが同居していました。

一橋大学を卒業した、兄貴の親友が

何と、、、嬉しい事ではないですか、

私に、愛を打ち明けてくれる前に、、、兄に言ったそうです。

「君の妹さんと結婚したい、、、」

私は、小松川高校、出身で、兄の友人は両国高校出身でした。

この二つの高校は、男女関係というよりは、

話が合うというのか?

話していて飽きないというのか、、、

しかし、、

恋人とか、

男女関係特有のときめきがあるというのとは違っていた。

良く遊びに来ていたので、、将棋の相手をして、

何度か私が勝ったことがあった。

そういえば、、、「もう一度勝負しよう!」と、、言うので、

もう一度、セッチン詰めにしたことがあった。

あの時、顔が真っ赤になって、ぼーとしていたから、、

男としての勝気さで、

兄貴に「、妹さんと結婚したい。。」等と、

手っ取り早く自分の勝気が前面に出てきて、恋や、愛と同じような

絶妙な、錯覚に、、、落ちたのではないでしょうかね?

「類、兄弟」として、接していただけに

「へ~~~、、、以外!それで、お兄さんは、なんて答えたの?」

兄貴は、怒ったような顔をして、

「ぶん殴ってやった、、、!、、」

「お前は、過去も、未来も、僕の親友だ!、、、兄弟は足りてる!」、、と

耳のそばで、大声で言ってやった、

「二度と、、、言うな!!!、、て、怒ってやった、。」

「それから、、、お前も早く、この家から出て行け!」

そして、兄貴は、、、狂ったのか、のぼせたのか、

「医師の妹、医師に嫁がせたし」、、、と、

手当たり次第に広告するようになり、、、

私が、東京大学の実験室に勤務しているというのに、

チャーミングスクールに、勝手に申し込んできて、

日曜は、歩き方や、詰めの磨き方の講習に、強制的に連れてゆかれたのでした。

その結果、、、、

私は結婚後も、よっぱど必要な時でないと美容室に行かなくなりました。

兄さんの嫁さんが口紅や化粧道具一式を

テンコモリにして、くれましたが、、、

ほぼ生涯、、、すっぴんで、

趣味は、3000メーター前後の山岳登山でした。

 

「アイツが、お前と結婚したい、、などというから、、

お前は、僕の親友だったはずだろう、、、妹が目的だったのか?」

親友にも、独占欲の強い兄は、

なにか?????大きなところが、

ボタンを掛け違うような、局所的な近視眼的な俺俺万歳であった。

言っても治る性格ではないので、

私は、兄と、主人は、、、川の向こう側から愛し、敬愛することにした。

つまり、、、医師は頭が良いところと、

患者さんに責任を持ち過ぎる職業だから?

妹の人生も、入院患者のように、責任を感じてしまうという事だろうと、

私なりに、、、おかしいまま、おかしいのが兄と思ってきた。

ありがたい事ではあるが、、何か???大きく間違っているように思えるのだった。

 

 

 

 


17年度の私にとっての大切な日

2017-12-18 17:15:20 | Weblog

 

冬が来る前に、

雪囲いを終わった11月

私はいつも、、

ネットで格安40日前航空切符を予約している。

庭木の根元に霜がが立ち上がるころ、

北海道の

「手厳しい冬に、、、さ!来い!冬よ!、、、」と

冬に向かう直前、、、元気をもらいに

いつも息子に会いに行く。

 

43歳、、学者系、、、臨床医。

おっとりの呑気だった息子も

医師になって17年になるのだろうか?。。。

命が相手の仕事だけに、

ドクターヘリの運んでくる急病人や怪我人の

一分一秒が、命につながるだけに

仕事に没頭してきた17年だった。

 

親から見ると、マイホームパパにはなれないとは思うが

息子の仕事に理解を持って、おおらかに包んでくれる、、、女性を待っている。、

少々、、、家庭的には、家事一般を、

手伝ってくれないかもしれないこの男を

心から、家族と思ってくれる、、、あたたかな味噌汁を作れる女性が

そのうち現れてくれると、、、今も神様を信じています。

そう、、縁結びの神様が、、、きっといらっしゃる。

 

情感の豊かな、、幼いころは、

親もびっくりするような

作品をつくりあげて、

親も先生も、

彼は、、、作家になるのかな?などと、、話し合っていた。

 

結局、蛙の子は、、、カエルになった。

血は争えないモノですね。

親が医師

母親の父も医師。

オジサンも医師

従兄弟も医師。

迷い迷い、、、青春時代は納得いくまで迷って浮遊した彼も

林芙美男にはなれなかった。

 

浪人した後は、

運よく、、、実に運よく、、、

日本一歴史のある順天堂に合格した。

それからは、、

、親も息子も卒業目指して、、、それしか考えない道が開けた。

両親は、背中合わせに働いた。

もし、、、卒業前に、親の命が尽きたらどうしよう、、、!

私は大学に入るとすぐに父に旅立たれた学生の頃の恐怖が甦った。

生き抜かねば!、、親も緊張した。

過ぎし日の薬学生だったころ、、、

卒業までは、家庭教師や、アルバイトで、

同級生にサポートしてもらいながら

過ごした日々が、、、楽しくも、、苦しくも、、、忘れてはいない。

卒業旅行にはゆけなかった。

父の後をとって開業していた兄に

卒業旅行のお金を融通してほしいと、頼みに行ったら

「すべての遺産相続の権利を放棄した私との約束は、卒業までだ。」と言われた。

結局、私は卒業旅行には参加できなかった。

外から見ると、、、一人娘の御嬢さんであり、

内側から見ると、ワンマン長男の独裁家政のもとで

結構、、、苦境に居た。

親に早く死なれた学生の不安が甦った。

 

にわかに、不安になり、

卒業するまでの7年間だけ、授業料の合計と生活費の保証をしてくれる

保険に入った。

卒業してから17年たっているのに、

未だにピンピンしている主人と私!

保険の心配などいらなかったのである。

しかし、、、あの時は、、、

不安で、、不安で保険に入ったものだった。

ともかく。天下の名門医学部が、息子を入学させてくれたのですから

家族一丸となって働きました。

医師になった息子にとっても

医師の主人にとっても、

日進月歩の医学の進歩に遅れまいと、

受験生の連続のような人生を、好きな道として選択した二人だった。

家の中は、パソコンと、本と、、、学会と、、、

学門と実践の、毎日でした。

息子は、生涯を、

医師にしてくれた順天のお役にたてられることを心がけて

大学に残った。

ブレはない。

自分の道だと考えているようですね。

 

私も、息子が天職だと思って、心から、大学に勤めていることを

感謝しています。

北海道に、、引き戻そうとは、、もう考えていません。

 

そちらで、良い方と、きっと出逢います。!(^^

世間様にお役にたつ仕事を続けてくれることを祈りながら

もう43歳なのですから、

幸せな家庭を持ってほしいと祈っている。

日本の税制では、大学勤務医はお金持ちにはなれないかもしれませんが

設備もよく、日進月歩の医学についてゆける先生方も居て

同僚とも切磋琢磨して、充実感はあると思いますので、

環境に感謝して、後は、忙しすぎて消耗品にならないように、

チーム作りに、がんばってください。

 

家庭からサポートしてくれる女性であれば

本人達の、引き合う引力にお任せして

幸せな家庭を作ってくれることを祈っています。

いつか、、、きっと、、現れるであろう、、、運命の女性。

息子の妻となって、家庭を切り盛りすることに

幸せを感じてくれる女性であれば、

家事の手伝いは、、まずしないであろうと思う医師に

「仕方がない、、」と、

大きな気持ちで、健康管理をしてくれる女性であれば

私は、、、どんなに感謝することでしょう、、、。

性格は、寂しがり屋で、

芸術も感性豊かな鑑賞眼で、小中学校では「金賞」もいただいた。

芸術や、芸事の話はとっても盛り上がるし、

三国志の漫画が大好きで、

母の私も、三国志が大好きで、こと、、私に関する限り、

成都まで、三国志の歴史の旅をしてきました。

暇なしの息子に代わって、、

成都の三国志の「諸葛孔明」の象などを、

写真に撮ってきました。

彼が小学生だった頃の記憶を思い出すと。

ピアノを弾いたり、、、漫画を書いていました。

中学校では、ブラスバンドのリーダーをして、

卒業式には「指揮棒を振っていました。」

卒業後は、、、せっかく、、道内一の高校に進学できたのに

アルトサクソフォンで、マルタの曲を弾いていたり

ライブをしたり、、、音楽に夢中でした。

私の母が

国立音楽大学のピアノ科卒で、息子が子供の時

グランドピアノで、童謡を教えてくれたりしたことが

きっかけになったと、、、、仕方がなかった面もありますが、、、

勉強は、一拍休みの高校時代でした。

御婆ちゃんの影響の大きさにも、感ずるところがあります。

素直で、プロ意識が強く、

プライド高く育ったところがあり、

物事を差別する心はなくても、御婆ちゃんのクラシックへの価値観に

影響は受けていました。

、人それぞれのプロ性に敬意をはらえるようになったのは

我に返った、、、浪人時代からでしょうか?

謙虚な心を根っこに持っていますが、

負けず嫌いで、自分は自分の道を行くこだわりも強く持っており

お父さんに負けない医師になるのだと、頑張っています。

親の私は、彼の人生は彼の私物であるからと、常づね感じていたので、

自分の納得する道を力いっぱい進み

世の中の片隅を、、しっかり照らせる「医師」として

健康で、少なくとも70歳代いっぱいは、患者さんに向き合ってほしいと

願っています。

応援をしてくれた人には、

仕事を通して感謝を示していってください。

静岡は、、、不思議な縁がある土地です。

戦争前に外科医だった私の父が勤めていた病院があります。

静岡に勤められたという事は

お爺ちゃんの導きかもしれません。

戦前に、父と母が最も幸せな結婚生活を送った場所が

静岡だったというから、

キット御加護もあるはずです。

私の父の生まれたところは、

徳川の第一の局の菩提寺のある市谷の武家屋敷の有ったところです。

静岡にご縁があるというのも不思議ではありません。

地元の方と仲良く、地域に貢献してください。

幸い、市長さんは、

ママと同年代の日大同窓生の才女だった方ですから

御縁の深さを感じています。

ママは73歳ですから、

これからは、君の幸せと、

健康を祈りながら、

ありのままの君を愛してくれる女性が現れることを祈っています。

 

これは公開していないブログですから、

親戚と親友と、家族だけの掲示板ですから、

ママの願いを書きました。


風邪にかかったおかげさまで、TV三昧の幸せ

2017-12-17 20:03:23 | Weblog

クリスマスのテーマで、アイスショウを楽しみました。

青春時代に還り、クリスマス気分になりました。

とうちゃこ、、、、宮崎も、、、

赤ひげ、、、も

相棒も、、、

欣也ちゃんの時代劇も、、、

南極大陸の、大王イカに負けない巨大イカも、

さすがに、、、目薬を入れました。

江戸時代なら、どんなお姫様も、こんな贅沢な

ただいま風邪ひき中、、、の、贅沢な気分は 

味わえなかったでしょう!

この、平和ボケした時間が、、、

いつまでも続きますように。

**********************************

仕事に起きる前日の、、昨日は、、

カズオ イシグロ、、、インタビュー番組。

遠い山波の光が、、、長崎の原爆投下の思い出から

日本を忘れられない 浮世の画家

映画で、原節子さんの、ozuyasujirou作品で

日本人離れした美貌を懐かしく観ました。

ボブディランの、

「花はどこへいった、、、」を歌いながら

軽井沢の合宿で過ごした青春時代の戦後の復活の日々を

思い出させる、

ジョンウエズりーハ-ディグ、、、に夢中だったという

ロングヘヤーの作家の若き日の姿。

歌手の中に文学が歌われていることに

心から感動されている様子が観えました。

映画になった、、、日の名残り、、、

充たされざる者

私が孤独だったころ

私を離さないで

。。。。。

そして、万人が恐れる、、、クローン人間と臓器移植。

これらの作品を生む間の二本作家との交流や、

村上春樹さんの作品の

異なった方向の作品が全部まとめると

指さしている方向など、

参考にされたようであるが

一貫して「平和」への願いが感じられる番組だった。

 

1990年、、、

ユーゴスラビアで、仲良く暮らしていた人間同士の間に

戦争が起きた、、、忘れられた巨人

、、、、、****************、、、、、、

人は何をおぼえているのか?

負の記憶を巨人に例えた、、、忘れられた巨人

そして、、、印象に残ったのが

私たちは「過去と向き合う」ほど、、、強いか!?、、、という一言。

日本は、全て忘れて、、、忘れたふりをしてしまったのかわからないが

彼が指摘するように

民主主義と平和に見える今日に、、、

人は、、、平和ボケと言うが。。。。

文学はなぜ必要かという、、、彼なりの考えに、、、傾聴した。

基準や真実を維持する、、、文学とは、、、

いつ忘れるか?

いつ思い出すべきか

、、、、、、

今、アメリカには「人種」という、、、巨人が居るとも言っていた。

葬り去られたはずの負の記憶が思い出される。

南北戦争で、解決したはずではなかったのか?と、、、社会音痴の私は思う。

もう、いかなる国も「ファシズム」の恐怖を知っているはず。

多くの暗い記憶を乗り越えて

日本は平和になるまで、

陛下のご苦労は、凡人の私には発言するのも畏れ多い事ですが、

敗戦した日本の民とともに、在りつづけて下さったお心が

日本の破壊された国土とは異次元の

「日本人」であることを、失う事にはならなかった。

日本人は、陛下が、耐えがたきを耐えて、

ともに在りつづけてくれた歴史が

日本人であることを、、、失わなかった。

そして、孤独でいらっしゃった皇太子さまの恋は

敗戦で、、、夢を失っていた青春の素晴らしさを

日本中に思い出させてくれました。

軽井沢のテニスコートは、

日本の若き世代に感動と、希望と、素敵な未来を約束してくれるようでした。

皆、、、元気に、、、上を向いて、復興の道を

まっしぐらに進み始めました。

団塊の世代が、めちゃ元気な復興を背負ってくれた元気は

日本は何千年前から、、、天皇様が歴史の中にいつもいらっしゃって

記憶も、忘却も海の波のように渦巻いても

日本の国民を孤独にしない「今」に

いつもともにいらっしゃった事が、、、「日本人」

昭和生まれの、、72歳の、、、アナログ時代に生きた私は

日本が民衆主義を手に入れた大きな要因は

「心の中に、いつも、陛下の存在があったことだと思うのです。」

学識のある方々の、思想だとか、イデオロギーとは違いますが

理由なんてありません。

陛下が膝をついて被災地のご訪問をされる姿を見て、

日本人は皆、頑張る力をいただいたと思うのです。

、、、、

高度なノーベル文学賞を語る脳みそは

私は持っておりませんが、

この作家さんの言葉には

ノーベル賞は平和を願う賞だから

いただいて嬉しいという言葉がありました。

一貫して、人類、、、全種族に於いて

心の問題で、平和な地球を願っていることだけは

脈々と伝わってきました。

グローバル化に、大きな問題意識を投げかけていました。

イギリスの「EU離雑」に哀しい出来事と言う表現をして

考え直すべきとも言っていました。

もし、、、私が,、、風邪をひいてくたばっていなかったら、

寝そべって、、、こんな高度なTVの番組を観たかどうかはわかりません。

時には、風邪にかかって、テイシュの紙束を造りながら

くたばって寝る絶望の時間に

病気が吹っ飛んでしまう贅沢なインタビュー番組に出逢う事もあるのですね。

今日は、、、病気も上向きで、、、ぼやけた頭で

日記帳に残しておこうと

キーボードをたたいている、、、

73歳の

昭和10年代生まれの

戦争中に生まれた、、、

平和を願う一人の日記です。

 

 


アナログとデジタル 

2017-12-12 11:08:54 | Weblog

バカになれる、、、いわゆる「玄人」には、心も技も、、、勝てません。

我が家は父が外科医であった事も原因で、

小さいころより、、、「医者バカ」の父の姿を見てきました。

戦時中に防空壕で産まれた私は、ひ弱な赤ん坊だったらしく

鳴き声を立てて、空腹を知らせる元気もなかったそうです。

ひたすら眠り続けていたおかげさまで、

防空壕の中で、味方に口をふさがれることも無く、

戦火の中を、、、運よく生き延びて73歳になりました。

耐えがたきを耐え、、、忍びがたきを忍び、、、

玉音放送の昭和天皇のお声の「ラジオ」の前に

日本人はひれ伏して、敗戦を知りました。

教科書には、背高の「マッカ―サー」の「カジュワルモード」の服装と

いぎを正された服装の昭和天皇陛下の「お写真」が

何と、、、教科書で、「社会科」として掲載されていました。

敗戦は国民も苦しい時代でした。

しかし、陛下のご苦労は、心身ともに想像をはるかに超えた

耐えがたきを耐えられた、次代であったと推察しています。

祖父は筑波大学の前身であった師範学校を卒業し

27歳の時、嵐の中を汽船に乗って、

3か月という月日をかけて

渡米しております。

戦後、疎開先の南紀で頼まれて町長を引き受けていた時代に

私は5歳ぐらいの時に、祖父に出逢っていました。

疎開先で、にわかに人口が増えて「町」となったためか、

ワシントン大学を卒業した親戚のオジサンは

郵便局の窓口で、切手を買いに行くと、いつも、折り紙をくれました。

葉書を包んであった包装紙で造った「だまし船」でした。

眼をつぶって船のへさきをしっかり持たせ

眼を開けると、それが帆にすり替わっていた、、、あの「だまし船!」

校長先生だったこともあるお爺ちゃんは

毎朝の朝礼で、三つ揃えを着て

白い手袋をはめて、「朕、、、おも、、、に、、、」

恒例の早朝の風景であった「富国強兵の時代」の人であった。

敗戦後は、町長になって、疎開をしていた町が、

少しでも、近代化に遅れないようにと、

ランプと蝋燭の文化だった山中に「ダムを創る事を提案した。」

反対も、賛成も、入り混じる中、

ダムが出来上がったら、

ダムのある地区の村長さんへの引き渡しをして

完成した。

ダム工事の長い年月。

娘婿であった私の父は、あたり一帯の無医村の医療を請負い

村民は父を医療面でも、文化面でも受け入れてくれていたと思った。

にわかに町になった村の診療所は

二階は解放されて、

アナログの戦争の傷跡を背負った疎開人の

傷ついた心を吐き出す事の出来る

趣味のイベント会場」となっていた。

バスで通ってきてくださる「日舞の先生」

「三輪バタバタ車輪」で迎えに行く「ダンスの先生」

三味線、、、も、、母のピアノのそばに有りました。

アコーデオン、ハーモニカ、笛、

手回し蓄音機と、電蓄はお爺ちゃんからの借り物。

まず我が子から、

母は、パン屋さんの娘さんや、宿屋の娘さん、

お店の娘さん、、、等々、

おけいこに通う先発隊の娘らに、

いくつかの日舞を取得させて、祭りなどに踊らせてもらいました。

奴さん、春雨、梅にも春、松の緑、山姥、潮汲み、、

浦島、雨の五郎、、、、南紀らしく、、、御所車、、、など、

高学年になるにつけて、レコードが5枚ほどもある長唄に

習う方も、だんだん真剣になってゆきました。

「この、、、山中に、、、れきじつなし、、、はても見事な、、寒紅梅!」

刀をさして、、、旅の笠かぶり、、、背の高かった私も

男役になって、美しい山娘の役に張り切っている下級生と

宝塚の男装の麗人になった気分で、

体当たりの「戦後復興」のピエロをさせてもらいました。

写真も、、、色があせて、、残っているよ。

敗戦の後の

「いも入りおかゆ」

「脱脂乳」「ピーナツバターのコッペパン」を

御馳走と思いながら食べつつ

祭りにかけた、はけ口は、

今、振り返ると、、、

「心の医療」を受けていたのだと、、、気が付く。

出番があるという事は「元気になるという事であった。」

ポツダム宣言を受け入れて

GHQという、、、聴いたことのない横文字が頻繁に聞かれて

英語の達者なお爺ちゃんや、

一緒に住んでいた祖父の兄嫁である所の御婆ちゃんに

横文字の意味を、教えてもらいに走ったものだった。

祖父の家は玄関の上がベランダになっていて

あのころはみた事のない洋館で、

玄関のドアを開けると、

みた事のない橋の絵がかかっていた。

祖父は、

「ゴールデンゲイトブリッジ」という橋を見て書いた油絵だと言った。

なんやて?、、、怪訝そうにする私に、改めて

「金門橋」、、、きんもんんきょう、、、て言う橋じゃよ」、、、と。

もう一つの入り口の下が地下室になっていた。

地下室は浴槽大の大きな木箱がぐるりとおかれ、

食堂に通じる螺旋階段があり、

階段の下は井戸があった。

木箱には、

田畑のない、「疎開で無一文の手伝いの家族」の為や

配給では足りない、食料に困った傷痍軍人に

用意したイモや玉ねぎや、トリの卵がストックされていた。

皆で力を合わせて、戦後を支え合っていきた.

正月が近くなると、地下室は大勢の村人であふれ、

大きな臼でもちをつき始めるのだった。

夏の前には、梅干しの樽が、ぎっしりとなった。

疎開から13年、我が家は息子たちの戦後の教育の為に

父の生まれ故郷の東京に帰ることになったのでした。

父は、市谷界隈の武家屋敷の長男であったと思いますが、

母は結婚当初、「歌舞伎門のある大きな家だと思った」そうです。

戦争で、すっかり焼け落ちて、

実家も、混乱の中で失ってしまい、

宝仙寺のお墓だけが、残っていました。

下町の使えなくなったお寺の後に診療所を新設し

疎開地から、戦後の教育から遅れまいとする有志の一族とともに

一から出直しの里帰りの東京への帰還でした。

、、、、、、

あのまま疎開先の、親しんだ山や川で

村の診療所が引き留めてくれるままに、

尊敬されて、敬愛されて、必要とされていた40代を続けていたら、、、

父はもっと、、、もっと、、、長生きをしたと思いました。

子供の教育の為にと、母は2年も先に、東京入りをしていました。

村人に引き留められるままに、2年遅れて、父は

母が下準備した下町に、開業しました。

大きな総合病院の院長だった父は

戦争で、全てを失い

男の子2人、女の子一人、外国で失っていました。

最後の力を振り絞って

鮭が産まれ故郷に帰って来たかのごとく

本能に任せた命がけの帰還だったと、、、

今は振り返って思うのです。

丁度、武見会長が銀座に診療所を持たれて

医師会長をされていた時代でした。

健康保険制度が始まり、

外科医だった父の診療、手術、薬品は、

患者さんの状態の為には、自腹の抗生剤投与も多く、

銀座の武見診療所は「払える人からだけしか医療費をいただかない」

。。。。。+++++。。。。

一般の開業医でも、

払えない人は、入院の費用が踏み倒しが常識でした。

我が家は、それでも従業員には月給を支払うわけですから、

父は、まっすぐな性格上、

軍医の時の延長上のように、

門の前で倒れた患者さんは、

無料で完治させて、退院近くには、姿は消えていても

あえて、追う事はしませんでした。

戦後の急成長のおかげで、

お金持ちの患者さんも来てくれていたことで、

何とかなっておりました。

しかし、、、坊ちゃまという戦前の生い立ちから

慈恵会医科大学でイギリス医学を取得して

「病気だけを診ないで」、「病人丸ごと診なさい」と、、、教えられた父は

面倒見が良すぎて、

お金のない人が、倒れていることが頻繁で

医療費が回収できなくて

母と、口論していることが多く、

それでも、

「イギリスの病院は、、、ゆきだおれの人を診療しているうちに

病院という、社会になくてはならない組織が出来た原点だから、、、!」

がんとして、面倒をみて、家族や、働く仲間との間のコントロールで

時代の犠牲者になってしまったと、、、私は思いました。

54歳で、、、前日、、、手術の執刀をして、、、

麻酔が切れるまで、仮眠している、、と思っていたら、、、

永眠してしまいました。

しかし、団塊の世代と言われた

敗戦からの復興の旗頭集団の息子たちが

父の後をついで、

日本の医療に貢献できた事は、

父は、天国で、きっと、満足していると思います。

生前、、、国立がんセンターが出来た時、

これからの時代の医師として、尤も願っていたセンターが出来た、、、と

当時、日大の医学部の学生だった兄に

語っていたのを思い出す。

末っ子は、高校生の時、父は54歳で旅立った。

国立だけしか受けられないとなると、

テニスにくるっていた高校生も、命がけの受験にアタックする者だな~~と

君子豹変する、弟に、私も夢を託した。

彼は、千葉大の医学部の合格して、

父と同じの外科の医局に居たが、

劇的な出会いが、、、彼をがんセンターの無給スタッフとして夢を追い始めた。

キット、54歳という父は、自分が死んだことに気が付いていなくて

弟とともに、医師の夢を追い始めたのかもしれません。

アナログな私は、このように考えたりするから、、、ふしぎな 脳でしょう?!

        ****************

武見会長の時代に、開業医と病院の役割分担を提案されていましたが

大学や、がんセンターや、国立循環器センターや、、、医学の深淵さは

工学も光学も、講学も、親たちの向学応援も、全て高額の時代に突入して

あらゆるジャンルの専門家が

円卓に向き合って、

医学の進展にかかわる時代に突入してから

久しくなります。

医学部を出てから、医師になる事の難しさもさながら

医師を続けることの難しさは

医師本人のみならず、家族伴侶すべてが

医療バカになっても、

やっとの思いで、医学の進歩にのって、診療が出来るという

デジタルな速さで進歩する医療界となりました。

70歳を過ぎても、5歳年下の私より、

キーボードを扱う、電子カルテの時代に、

主人は、数々の認定医の講習や、指導医の講習や

医師以外の認定等や、指導医資格の試験を受けに

学会に参加したり、試験を受けに飛行したり、

診療や、勉強会や、報告会や、、、

家庭は、医師をするための舞台裏でした。

あらゆる家事は、メンテナンスから、、、雪かき、、、ゴミ捨てまで

家内だけに任されている以上、

薬剤師としては、真夜中の急病センターのボランティア調剤で

腕を落とさないという工夫。

結婚以来、病気がちの夫が、育児が終わらないうちに

父のように54歳で死んでしまったら大変と、

トラウマのように、、、用心深くなってい居た。

病後、単身赴任していった主人を、、、一度も訪ねてゆく余裕は無かった。

薬剤師という腕を信用していただき、私名義で

拓銀から、4家族用のアパート運用の資金をローン借りた。

子供の居るうるさい、いたずら書きする、

他のアパートが敬遠する家族に入居してもらい、

出てゆくたびに、子育て支援と思って、

壊れたところは、大工さんを呼んだり、

自分で壁紙を張り替えに奔走した。

おかげで、5000万円のローンに

さらに上乗せした事業資金であったが

20年の間には、何とか回って行っていた。

息子たちの学資として、、、何とか役に立った。

主人が、国立の大学スタッフという、

医者の本人が、先進的な仲間に遅れまいと、

日進月歩の医学仲間のレベルについてゆくための

自分の学問人生を支えるだけの、

精進の時期と

息子たちの大学進学が重なったための、

苦肉の作戦の自転車漕ぎで、、慣れないアパート経営であった。

苦労も、、、振り返ると多かった。

リホームは、ダイナミックな壊され方をする時代になった。

素人の壁はりでは無理な時が来た。

水道や、キッチン、トイレ、、収入はほとんどマイナスになるほど

リホームにかかり始めた。

ガスボイラーも、子育て中の入居者には、支払えず

頻繁に壊すたびに、万一のことを考えて

新品に付け替えた。家賃は3か月分が消えた。

おりから、責任ある役職に就く時代が、

主人にも、やって来た。

私は、

「性格が正直で、一生懸命子育てをしている家族」を

一家族だけ、入っていただき、入居者のトラブルを最小限に設定しました。

主人が役職に居るときは、

断腸の想いで、完全にリホームした部屋を

空室にしたまま、水を落として、貸さないでキープしました。

入居者の安全管理が100パーセント完全でないと

主人の役職中に、

家内の事業が迷惑になる可能性を重視したからである。

 

しかし、リホームして空室にしたという事は、

経営者側からすると、

安全の保障を得るための苦しい防衛であった。

 

リホームのお金は回収できないわけであるから、、、

主人の出世を感謝するなら、、、、

火の車の経営になる前に

手放してしまった。

世間様に払うべきものを支払うと

アパートを経営していたという、、、痕跡すら消えた。

サザエさんのような、、こどもが成人した暁には

家族全員で住める住宅を創る事で、

老後の、長生きしすぎた人生を、楽しく過ごす夢があった。

夢は消えた、、、というより、、、夢があったから、出来たのかもしれない。

私は、、、何を、、、、、、したのだろう、、、

子供たちの授業料に間に合ったではないか!

子供たちが、、、社会の一員として、親元を飛び立ったではないか!

サザエさんの家なんて、

73歳の婆ちゃんの夢であって、

皆は、一緒に住みたいと思ったかどうかは、、、?解らないよね。

古城が残って、管理に困るイギリスは

日本のホテル業者に古城を任せるという番組を観たことがある!

きれいさっぱり、無くなった今、

本職の、病院薬剤師をしていた5年間の思い出が甦る。

あの時代は、稼いだ分だけ、海外研修に参加していた。

父の尊敬していた、、、高木先生が留学していたイギリスの病院も見てきた。

ペニシリンを発見したフレミングのタブレットのかかっている病院も

見学してきた。

大学時代に生薬学の女性教授が研究していたという

パスツール研究所にも見学に行ってきた。

狂犬病の予防で有名な研究所であったが、

エーズの研究でも知られている。

理科で習った「ツル首のフラスコなどが、、、保存されていた。

結局、、、薬剤師として戻ると、

家庭を振り返らなくなる自分に気が付いた。

主人が、、、俺、、俺、、と自分中心になるのも理解が出来る。

家庭に舞い戻ったのは、二男が格闘技の最中に

怪我をして、急きょ勤めを辞めて、完全に復帰するまで

東京で暮らした。

帰郷すると、、人事部長さんが、部下と一緒に

今は無くなったけれど、、、我が家の近くの

ロイズコーヒー喫茶店まで来てくださり

もう一度戻って来ないかと、、、お誘いくださった。

怪我は、、もう、、こりこりだが、、、

二度も三度も、、、仲間に負担をかけるわけにはいかないし、、、

合わせる顔もない、、、2か月の欠勤だった。

アナログな、サザエさんの夢を追う時代は終わったのだった。

私は、、、主婦専業として、家庭に還った。

次世代の子供や孫は

ロボット時代に入るのだから、

スマホを使いこなし、

情報の社会を泳ぎ、

センチメンタルな爺婆は、、、かえって、、足手まといと思うだろうね。

80歳過ぎてから、英検1級に合格した兄さんから

学ぶことは多いものです。

兄さんは、兄弟4人の思い出の実家を

あの、、、父が命がけで還ってきた東京の医療施設を

勤務医として飛び出した今は、、、足手まといとばかり

二束三文で売ってしまった。

ダイナミックな終活作業であった。

そして、施設に入って、後方に憂いはないだろう、、、

たった一万円の分け前もなかった。

維持費のかかる古城は、ただ同様でも

手放せた事を喜ぶべきか?

父母から継いだ医療施設は、医師となって継ぎたい人はいなかった。

親から継いだ医療施設だけに

5パーセントの購入費だけが相続を認められたらしい。

後は、、、現金納入、、、

痴呆が認定された兄嫁には、、、維持は難しかったのであった。

父と、母に可愛がられた弟は

人手に渡った実家を一人で観に行くのはさびしいからと、

私も、ゆくつもりはなかったが、、、

弟の運転する車の後部座席から、車内から見るのなら付き合うと、、、

同乗して、懐かしい公園前の、、、かっての我が父の診療所を観た。

がっちりとした、鉄の門んがしまっていて、、、無心だった。

私は、、弟に言った。

お姉ちゃんの故郷は、、、

君自身が成し遂げた医師として社会に還元した実績が

お姉ちゃんの「実家だから、、、」と言った。

心から、言えた。

この実家が、、、燃え尽きてくれたから

二人の医師と、二人の薬剤師、、、

そして、後を継いだ兄は、、、母が死ぬまで開業を維持していた。

母は、父の造った医療施設で守られて

ピアノの教師を80歳まで続けられた。

母が死んだあとは、兄は勤務医として

内視鏡の指導医の資格で実家から飛び立った。

兄は、家から出て行った内科医の息子を信じたのだろう。

もう、この施設は燃え尽きたと、、、判断したのだろう。

主である兄嫁が痴呆になっては、、、守りきれない。

我が家だって、、、他人事ではない、、、

医者バカの、、、医者しかしない主人は

仕事を続けるから、社会の役に立っている。

本人がやる気になっている間は、全力でサポートしようと思っている。

役職に就くと

「有名税のような立場維持のための配慮が必要だ。」

77歳になって、、、

しっかりと残ったものは

医師として、医師をし続けた医師の心が残った。

医師を続けるという、、、、難しい持続をやってのけた。

名誉ほど高くつくものはないかもしれないが、、、

医師を続けることが出来ている間は

無条件に、世間様のお役にたっているのだから

相棒として、、、縁があった以上

神のおぼしめしと信じて、

、、、、割に合わない雪搔きも、

。。。。一人ぼっちの北国の暮らしも

、、、、人生登山の主人の仕事の重さを認識し

、、、、シェルパの仕事を、黙々とやりながら、、、

、、、、欠陥住宅の離れに、セントラル暖房のある

、、、、リホームが出来る日が来るといいね。

そしたら、、、私の専属の部屋が出来るかもしれない。

今は、、、現役の家族の移動の度に

必要なくなったガラクタが、、、、いいえ、、いいえ、、

移動によっては必要かもしれないガラクタ?が

昭和50年頃、本州のブランドのメーカーが建てた家が

当時は、北海道には、技術者が足りなかったようですね。

去年やっと、、、水道が漏れ続けて、、、

庭が水浸しのままだった原因が判明しました。

入居者の責任範囲以外の、、、

市の担当範囲の部分が漏れ続けていたという事でした。

長い間、何度も何度も水道やさんがどやどやと来られて、

メンテナンスを繰り返しても漏れるので、

何十年も使ってない水道はきっと、、、水を通すと、、、

どこかが、、、漏れてくるでしょうね、、、

最後に、、、ついに見つけてくれた原因不明の漏水部分は

庭を恥繰り返して、、やっとわかりました。

この損害は、、、金銭的な事よりも、、、

水道が止まっていた何十年間は、、、

倉庫にしか使えなかったという事です。

 

住むには危険な欠陥住宅であるがゆえに5年後には

ローンを抱えたまま、隣の敷地にコンクリーパネルの家を建てタ。

今は使ってない家具や本、電化製品などが、陣取っています。

近所の人は言います、、、、

家が、、、2件あっていいね、、、

「水道も、トイレも使えない、、、スガ漏れのする、、、愛すべきオールドかーよ!」

今は、現役の、家族の男どもの、古本、机、壊れたソファー、電気製品、、、

未使用同様のVM21、、、洗濯機、、、テレビに電燈、、一見して

不必要に見えるが、データーが大切とか、、、

アナログ時代を生き抜いた私には

デジタルなガラクタに見える物の

データーの価値が、、、今一つ処理に困るのです。

情報が大切な時代になりましたね、、、

アナログな私は、、、、情報の前で経ちつくし、、、

ガラケーで息子たちに電話をかける、、、、

捨てていいもの、、、より分けに来て、、、!!

子育てには、、一緒に育児に参加してくれる職業の

ご主人を探して結婚すると、、、サザエさんのような家族に、なれますよ!

 

 

 

 


大河ドラマの信長に、心奪われて見ています。

2017-12-01 13:28:54 | Weblog

 

色々な、、、信長を観てきましたが、、、

さすがに、、、凄味のある、見事な芸術に、見とれています。

歌舞伎の舞台で

光秀に飼い葉桶で、

酒を強要する信長の眼、、眼、、、眼、、

忘れられない、凄味のある舞台でした。

 

あらゆる日常の雑費を節約しても、

あの舞台を観に行って良かったと思っていました。

心底、、、信長を恐ろしいキャラクターだと、、、戦慄でした。

 

今回は、NHKの日曜日の番組で

一味違った、、、信長の怖さを感じながら、、、

さすが、、、、お家芸、、、

凄味と、

茶の間にも楽しめるモダンと

静かなる獰猛さに、

テレビを睨んで、固唾をのんで

、凝視している自分に気が付きます。

番組が終わると、ホットして、自分に還ります。

芸の力というのは、大したものだと、、、思いました。

主人公をさておいて、

誰であるかとは書きませんが、、、

又、、、諸々の節約をして、

歌舞伎を観に上京する楽しい企画をしています。

 

空いてますか?1万円そこそこのヒコーキと、

券ありますかの?窓口いきなり直行。

運が良いと一万円の花道近くの席がある。

 

法事や、冠婚葬祭の出席の翌日は、歌舞伎を見て

遠路はるばるの上京を、一味違った感性で

上書き保存して、北海道に還ってくる。

 

伝統のある世襲制のある芸域は

先代の団十郎、そのまた先代の団十郎

その御兄弟の「はくおう(p.cに、字がありません)」

その、見応えのある芸術性を伝えながら、

新しい眼力を

胸から胸へと

突き刺してくる信長である。

 

やはり、、全体のバランスを、

茶の間ではあっても

ぎゅ~~~~と、引き締める、

本物の眼力、芸術性に

明日も、チャンネルはNHK!

勿論、、、なおとら  、主役もなかなかの大衆性で

バランスは、ばっちり、

老いも、若きも楽しめて、

孫との会話も弾みますよ。