昭和20年代の事です、
戦争が終わって、日本中が、、、そろり、、、と
まるで、、、冬のから葉の中から
小さな目を出すように
人々は静かにしずかに、、、頭を持ち上げて
周囲を見渡し、、、復興への一歩を踏み出し始めた頃の思い出です。
爆撃に有った市ヶ谷界隈は、、、
父の実家が有ったところですが
戻れるところでは無かったのです。
母の故郷の紀州の山奥の、診療所に
疎開した我が家は
村落の施設の一つでした。
高野槙の生垣で敷地が囲われていて
庭には「銀モクセイ」と「ヤマモモ」の大きな樹が有りました。
裏は田んぼが広がって、、、カエルの声がにぎやかでした。
田んぼの隣が小学校で、寝坊しても3分で学校に到着しました。
疎開の人々で、どんどん人口が増えて、
いろいろな地方の方言を聴くことが出来ました。
先生も都会で教えていたようなレベルの授業をする場合が増えてきました。
にわかに増えた人口で、
村の中は、新たな復活の兆しが陽炎のように
まるで冬枯れの木の葉を押しのけて新芽が見えるように
空気の勢いが日ごとに増していた頃でした。
焼夷弾の落ちる串本の防空壕で誕生した私は
祖父によって、出生届が串本の役所に記録されて、
私の戸籍が生まれました。
お爺ちゃんありがとう!
お爺ちゃんは明治のなかごろのうまれで、
現代の筑波大学の前身の
「青山師範学校」を卒業して
28歳でカリフオル二アの大学校に留学しました。
当時の日本の家には、、、お爺ちゃんの家のような
白い横木で、おおわれていて、
「べランダ」が玄関ドアの上にせり出していて
窓が真上に持ち上げるような、、、家は
少なかったと記憶しています。
地下室は、風呂桶の大きさの木箱が何十も並び、
空襲に備えた食糧庫になっており
井戸と、大きな2畳ぐらいはあると思われる
洗い場が有りました。
戦後は、鶏を200羽以上,、、ひら飼育をしながら、
周りを金網フエンスを回し、夜の安心睡眠の木製の小屋が、、、長屋のように建っていました。
毎朝、、、お茶碗とお箸を袋に入れて、
産みたての「ぬくい卵」が食べたくて、、、
畦道を走り、田んぼの上の道に駆け上がり
お爺ちゃんの家を目指してだっしゅしました。
早朝の塵小屋の前には、
コーン、貝殻の粉、糠、大根の葉っぱ、小魚の粉、、などが
金属製ンpバケツに入れて在り、、、
私は、いつものように、教えられた通りに
餌を調合して、V字に造られている、、、
鳥小屋の端から端まで長い長い、、、餌箱に
餌をいれながら、お婆ちゃんが、、、
朝ごはんだよー
呼んでくれるまで、、押しかけお手伝いをして、
温い、、、卵を集める時間までお爺ちゃんにくっついていました。
あの、、、幸せな世界から、、、雪深い北海道で
雪と闘いながら、、、76歳!、、、光陰矢の如し、、、
本州に帰ろうと、、、思わない日は無かった、、、けれど、、、
子供たちを思うと、、、彼らは、初期設定が「雪の中の当たりが当たり前」
北海道の良さは、スキー学習の為に、子供らと山スキーに行くうちに
北海道の大変さの裏側の、、、ありえないダイナミックな遊びを知った。
しかし、、、春になっても、、、てんこ盛りの我が家の雪山、、、を視るにつけ
南紀の春を思い出してしまうのですよね。
お爺ちゃんは串本に家が有り、
その家は屋根の上に、、、物干しのスペースが有りました、
終戦で、日本の田舎にも
進駐軍のジープが走り
子供たちに、、、チューインガムをくれたりしました。
疎開先の南紀の山奥には
都会から疎開してきた「インテリ」と言われる一握りの人たちが
村には無かった文化を持ち込み、、
戦後の復活へと導く、、、凛とした指導力が有りました。
一方、、、田舎とか集落とか、、、
地元の絶対権力者と言う世襲制もあるようでした。
山にも、旧家の叔父さんに、、、
仕掛け(イノシシ狩りや、獣狩りの自動罠)の場所を確認しにいてから
藪のタケノコ狩りや、、、山菜集めに行かないと
父の所には、、、仕掛けの弾が足にあたったという患者さんが
戦後のハプニングでした。
イノシシが住んでいて、
イノシシやシカを猟銃で撃って
(仕掛け銃)や、鎖罠)
その肉を皆に分けている「猟師」さんらしき人もいました。
白土三平の漫画のような世界もありました。
小学校に入学したころからの記憶ですが
ジョウドウ校長先生と、、、
生徒たちは呼んでいました。
受け持ちの、眼がどんぐり眼の、、、
女の先生は
「山口先生」と言ったかしら?
授業は上級性も一緒に、、、大根の収穫や
泥んこの芋を掘っては
水を入れた木の樽に入れて
交叉した丸太を縛った
二本の丸太ん棒で
樽のへりに乗っかって
右に左に、マルタを回すと
芋にへばりついた泥が落ちて、
紫がかった、、、サツマイモが洗い上がり
給食に使う食材料となるのでした
お爺ちゃんの親戚は
串本に点在していました。
新宮には「パルプ会社」を経営している親類がいました。
県庁に勤めている、、、偉そうな叔父さんもいました。
そこの娘さんは5歳ぐらい年上でしたが
私にとったら,、、又従妹、、にあたるんだと
年上の、、、その女の子は言いました。
和歌山と言う県は、、、本当に、、、親類が多いと思いました。
親類だからと言って、、3蜜になる事はありませんでした。
とても、、知り合いが多いので、にぎやかでした、
祖父や、母に連れて行ってもらった串本には
当時としては珍しい、女性の歯医者さんもいました。
祖父とはきっと親類なのでしょう」
そのとき、
すでに、お爺ちゃんは「金歯」が有りましたから
この先生に「いればを入れてもらたのだ」という事が
解りました。
串本駅から10分ぐらいのところに
親類にあたる「、、薬局」が有りました。
確か、、、「S、、、薬局」と看板が出ていました。
お相撲さんの小結のような叔父さんが店番をしていました。
母の親戚という店の主は、、、初老の御爺さんでした。
和服を来ておられて、、、喘息なのか?、
咳をしていました。
薬局には、粉薬の「エビオス」と言う
「薬」が置いてあり、、、常用しているようでした。
「エビオスはの、、うッ、、、良い薬やでの、、、酵素ってしっとるか?」
「酵素?、、、」「何なん㋧~~?」
「酵素ちゅうんはの、、、良い薬や!」
叔父さんは、繰り返し言いていた。
串本の、あのおじさんは「薬剤師」やで、、、
「薬剤師って?何なん㋧~~~?」
薬局におる(いる)大人は「薬剤師」やで、、、
子供のころ、、、初めて、出逢った叔父さんや、
おばさんや、
お姐さんのはるみさんは
薬剤師…でした。
店番をしていた小結叔父さんと
奥さんと言うのは
たぶん、、、
咳をしているおじいさんの薬局に
お嫁さんとして来られた女性だと思いました。
1歳過ぎの男の子を背負って、甲斐甲斐しく家事をしていました。
姑さんあたるのだろう、、か??、
趣味の良い、、、
エビオスの薬の、、、
ベージュ色のような
きものを着て、
店の皆に采配を振っていました。
母は、串本や、しんぐう、御坊、、、和歌山市、、、と
親類を訪ねて、泊りがけであちこちに祖父と出かけるとき
小学生の私も連れて行ってくれました。
串本の街は、何回も連れて行ってもらううちに
薬局には、、、はるみさんと呼ばれていたお姐さんが居ました。
小結叔父さんの妹さんだと解ったときには
、、、まだまだ、、、いろんな人に会うかもしれないと
傍観していました。
やがて、、、次に串本に行ったときには、
3歳くらいの男の子に逢いました。
いったい、、、この薬局には、、、
何人の人が住んでいるんだろう?、、、
だんだん興味が湧いてきたころから、、、
祖父も、母も、山奥の診療所が忙しくなったために
串本に行くことは無くなりました。
十何年も経って、疎開先から、父の故郷の東京に帰れた頃、
1人の大学生が訪ねてきました。
串本の薬局で、、、
走り回っていた3~4歳に見えた男の子でした。
東京の薬科大学に合格したと言っていました。
昭和30年代の事です。
薬剤師になるために、、、串本から、、、東京まで
出てくるのだと、、、驚きました。
和歌山と東京の間には、、、
薬学部の在る大学は沢山あるはずなのに
親元を離れて、、、はるばる、、、大阪に出て、、、
東海道線に乗って、、、
トコトコと、、、はるばる東京まで来た男子学生が
幼いころ、
串本の薬局の店の中を走り回っていた幼児だとわかると
戦後の疎開先の南紀の風景が
懐かしく思い出されました。
はるみ姐さんは
歳の違う一番上の姐さんだと、、、
その少年だった大学生になった学生が言っていた。
思い出は串本の海の桟橋に飛んで行った。
海の傍の桟橋で、、、
長靴を履いていたおっちゃんたちが
隣接していた市場で、
大きな魚を解体していた風景も
想い出した。
、、、あれは、、、クジラの解体風景だった。
戦後の串本の浜には
クジラが何十頭も、、、
シャチに追われて、浜に来たことがあった。
薬局のお姉さんたちと、母と,、、
橋杭岩に行ったっけ、、、
「岩にまつわる伝説のお話をしてくれたっけ、、、」
桟橋まで戻ってきたとき、、、
向かいに「大島」という、、、島が見えたっけ、、、
島と桟橋の間を小さな舟が行き来して、
串本の漁師の叔父さんから船の歌を教えてもらったっけ、、
、、、ここは、、、串本。、、、向いは大島、、、
中をとりもつ,、、巡行~~舟~~は
あらヨイショ、、、ヨイショ、ヨイショ、、、、
こんな唱だったような気がします。
潮岬にも連れて行ってもらいました。
この当時は潮岬には東大が有ったような記憶が有ります。
あrから、、70年以上たちました。
振り返れば、、、
50歳のころは、人生で一番大変な子育ての時期でした。
北海道の、、、井の中の蛙並みに、、、放任して育てた次男が
国立を受験して浪人しました。
医科大学の難しさを、、、イヤ~~~と言うほど味わった彼は
もう、、父の卒業大学の北大の医学部にも、九州大学医学部にも敗戦!!
私の母校の日大の獣医が受かった時、、、
「よかったね~~~日大の獣医学科は名門だよ!」
上野動物園の延長目指して,、、Go~~!」
私は同窓生に成れる息子が急に愛おしくなりました。
「よし~~~!今からゴリラを観に行くよ!!」
二人は、上野のゴリラを観に行きました。
京都大学のゴリラの研究は有名ですが、、、
チンパンジーや、ゴリラや、、、サルは、、、
物言わないだけに、、、人間よりも、、、基礎医学が楽しいかも!」
私は一人ではしゃいでいました。
3年目も浪人なんて、、、人間がすることでは、、、避けれるものは避けるべき!
私の決心は、医学部にこだわっていたら、、、音楽が好きで、、、のんきで、、、
一生懸命だけれど、、、田舎育ちの道産子だけに、、、
生き馬の目を抜く「受験のメッカのような東京の学生」と
紙の上で戦っても、、勝ち目はない!!
受験向きの環境としては、北海道の羊が丘の麓は,、、暢気すぎる、、、かも?
この環境でも、遊びながら、、、道内一番と言われる
札幌南高校に上位入学できたのに、、、
そこから先は、、、「親力だった」
受験に賢い親と、、、私のように,、、勤務してしまった母親は
受験生にとっては最悪だったかもしれない、、、。
受験生の親が、、、父も、母も、、、勤務で当直してるなんて、、、
息子は、、、獣医学部で、医学を研究すればいいと、、、決心できた頃、、、
奇跡が起きた!!
私立医科大学の、トップから、、、合格通知が来た。
この通知一枚で、、、息子には干渉しなかった父が乗り出してきた。
その時点で、、、私は次男を、、、主人に任せざるをえなくなった。
「医師の父親は、、、息子を医師にしたがるのは、、、孤独な科学者が
理解してくれる息子が欲しいのだろうう、、、ネ。」
今度は、主人の医師のもとに、、、医学生となった息子の世話を担当するべく
2年生の時に、、、柔道部で、、骨折して以来、、、
退職して、息子係の専業主婦となった。
骨折さえしなかったら、、、青春は柔道部の仲間とともにいたかもしれません。
良い人たちばかりで、、、退部コンパを、してくれたそうです。
解剖学に実習の最中の部活だっただけに、、、初めての実習で
疲れ切っていた精神で、、、柔道をしたのが、、、状況を考えるという
技に敗れた、、、骨折でした。
学内部活の怪我だったことが、不幸中の幸いでした。
医師になる為には、、、患者になって入院して、、、すったもんだの経験は
きっと、、、素晴らしい授業を受けられたのだと思いますよ。
患者さんの気持に、、、そのままなれたのですからね!。
ヒヤリハットの続く、、、医科大学の3年生までは
母親は精神的に息子に振り回されて、、、
薬剤師としての復職どころではありませんでした。
4年生に慣れた時には、、、これから臨床講義も受けられるし
医師になる為の入門を許されたような、、、
安心感が私自身の中にゆとりを持てました。
串本には、、、次男が医科大学の4年に進学する春休み
今までのへんてこな、、、緊張を陵駕するために
二人だけで、、、登頂成功を目指して、、
スタンスを整えようという事になりました。
大坂まで飛行機、、、白浜まで電車、、、
そこで、、、格安の
シティホテルに宿泊すると、、、
息子が、、「ここまで来て、、、温泉ホテルに泊まらないなんて、、、」
不満そうな一夜を明かし、、、
レンターカーを手配してもらって
白浜の三段壁や、海岸寄りの観光道路を走り、
免許取り立ての次男に、、、ここなら運転しても
車が少ないし、、、道路は良いうえに
見晴らしも一望でき☜
おまけに、、、スピードを出している車も無かった。
一気に串本に向けて、、、海岸を走り
海中水族館に立より、、、
クジラの弁当を楽しみました。
北海道育ちの次男は
クジラの弁当は初めてだと
シティホテルのボヤキも治りはじめました。
学生のうちに、温泉ホテルに泊まるよりも
紀伊半島の自然は素晴しいので、地球ホテルのつもりで
レンターカーで、、、走り続けました。
1時間もすると、、免許取り立てのせいなのだろう、、、
町中に入ってくると、運転を交代して
古 座から、、、
「街道を行く」と言う司馬遼太郎の本で、有名になった
一枚岩に、、、息子を案内した。
ここは子供のころ、疎開先の小学校で
遠足に来た思い出の所です。
息子は一枚岩を観て、、、感激して、、、河原まで降りてゆきました。
一枚岩から、、古座川ダムに向かう途中でした、
古座川ダムは祖父が町長をしていた時に造られたダムです。
ダムの施工業者の若集が、、、
どうしても出る怪我人の手当てに
疎開中の父は外科医の腕を
フル回転で使う日が続いていた。
息子は、、、道路の左側に崖が続き
道幅も広くないので、、、
母さんの運転だと怖いから
海岸沿いを走る方が良い、、、と言い出して、
三尾川村に入る手前の
明神あたりで引き返し
もうちょっとの辛抱なのに
古座川ダムには、、、縁をとりもつ旅は
又次の期会にすることにして
勝浦に向かいました。
途中、、、那智の滝に立ち寄りました。
医科大学4年生まで、、、やっとたどり着いた息子は
那智の滝の前で、立ち尽くしていた、、、
「日本に、、、こんなところが有ったのか!!、、、」
しばらく、、、動かないで滝を見つけていました。
北海道には、いろいろの滝が有ります。
しかし、、、
那智の滝では、、、神妙な気配を感じたのでしょう、、、
本宮、、、新宮、、、鬼が城の奇岩を案内した後
瀞八丁の船で十津川荷向かいました。
奇岩、、、山々の清流を
息子と二人で、、、ポンポン舟のしぶきを浴びながら
奈良県に突入しました。
あの日に、、、キタキツネは、、、巣穴に戻ることのない
自立の道に向かいながら、、、医学の道の厳しさを体感して
「結婚する、、、時間と暇が、、、つくれなかった、、、(**!
母さん,、僕の孫は、、あきらめてくれ、、、
、患者さんだけで、、、体力も、頭脳も
緊張の連続だし、、、
守らなければならない者が居たら、、、ダウンしている、、、
忙しすぎて、、、
どうやら、、、医師をすることだけで限界のようですね。
「医師をすること」、、、充実しているようですので、、、
孫はあきらめましたが、、、いつかは、、、出逢って
豊かな人としての、、老後を願いながら、、、愛情にも出逢いますように!!
卒業した、、、感動の日!!
あの日から20年以上たちました。
息子は48歳になりますが
独身で救急のドクターヘリの飛ぶ
総合病院で、働いています。
本人は充実して、病院のnお仲間に恵まれています。
良い医療設備、、、優秀なお仲間、、、必要とされる医師となった事で
私は充分、、、
「神様がいらっしゃってくれた」と信じられますよ」
北海道に帰ってくることも無いままに
月日は経ち、、、独身のまま、、、
48歳になりました。
父、兄弟、、、主人、、息子、、、と
医師をすると言う、、、
本人だけの充実の世界に生きてゆく
医療人の中の医師、、、芸術家にも似て
本人が総てと言う、、、生き方の
相続人は居ない、
一代限りの医療能力ですよね。
医師が、自分一代で、、消えてゆくとき
世代が続くというのであれば
臨床の経験の口伝が
教科書では治せない命を救うように
医師の家庭からは
胎児のころから、
医療環境に居る子息たちのなかから
医師の臨床力が継承されてゆけば
名医が出現するのではないだろうか?
人間は「ITだけでは治療できない。」
真摯に命と向き合うとき、、、家庭を振り返っている時間は無いようです。
自分で、計画どうりに出来る、、自分の医療施設を持つのは
もっと大変で、、もっとマルチの才能が無いと、、、出来ないと痛感します。
主人も、息子も、大学関連のドクターヘリの飛ぶ基幹病院で
意に血と対面して「医師をすること」を真摯に実行しています。
事務や、経済観念にたけた経営サイドの
協力が有ってこその医療体制のなかで
医師も、薬剤師も看護師も、技師もコメディカルの
医療チームのスタッフは
全員が専門知識を発揮する時
国民の健康は守られると思うのですが、、、
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医師の土台の来し方の一例を書きましたところで
本題の
ゾロ品、、、と呼ばれる、、、ずさんな製薬で仕上げた
患者さんの多くを救ってきた先発品のコピー製品の「薬」
一生懸命に生きている医師と、おryぷ機関の医療チームのサポーターの願いは
処方箋は、先発の薬品の後発品として
患者さんを、先発品に劣らない薬効で、ケアできると信じて
医師は処方箋を書くのですよね、、、!!!
経済的に楽になるという、、、後発品と信じていますのに
半可通な専門知識で、、、政治が介入したり
経済の数字が先行する時、、、
あの、、、後発品の大量回収の会社のように
医療組織そのものが ゾロ品によって不信感になって
処方した医師は
ゾロ品のレベルまで
せっかくの医療の腕が
ひきさげられるけっかとなり
ゾロ品の会社は、、、札束を空しく、、、医療と思ってしまう。
水虫の薬のコーチング剤に、、、後発品が、、、
精神役を使って
死に至らしめていたㇼ
今回の大手のゾロの会社の
Ca拮抗剤で、、、全身に「薬疹」が出てきて
皮膚科の医師が
「薬疹と診断」するまで、
血圧調節の為、服薬していたため
体中に軟膏やステロイド剤を塗布して、
湿疹の対処をしていた。
洗濯物は熱湯で2度洗い直ししないと
木綿のシャツはネラネラの軟膏にゴミがくっついた
ごま塩のような、、汚れがへばりつき
洗濯機がフル回転して、、、本当に、、、大変です。
、、、原因が日医工のゾロ品とわかり、、、服薬を中止すると
「薬疹は、、潮が引くようになおった。」
主人は医師なので、、、薬疹だと言っても
後発品は患者さんに安く届けるために許可されているから
先発品と同じものだと言って、、、
私は薬剤師だから、、、情報は確かだからと、、
信じられない、、、同じ薬なのに、、、とぼやく主人から
先発品に、変えてもらうように勧めました。
薬科大学の時に「製薬」の授業で
錠剤なども実習で造ったが、、、
吟味に吟味を重ね、、慎重にコーチングしたモノだった。
複数の薬が入っている錠剤は
その薬が体内の酵素によって作用が引きだされるように、
各臓器の出す酵素の溶解する計算までして
幾重にも、コーチングの薬品は重ねて行き
狙った臓器で溶解(薬品がとけだすこと)するか?!
条件の時間内に、
疾患の治療目的の薬品量が溶解(とけだして)くれるかを
実験に実験を重ね、、、
精度の高い溶解度テストを繰り返すという
薬学にとっても、コーチングは勝負であると言えます。
昭和40年代は、、、機器分析が出始めて機械そのものが少なく
ガラスケースの中の毒薬天秤秤で、0,0001グラムまで
四捨五入と、繰り返し秤量と計算で
とけだすイオンから、、、溶解度を逆算したモノでした。
現代は、、、ボタン一つで秤量できる溶解度を、、、省くなんて、、、
信じられない、、、怠慢だと、、、思いませんか???
ゾロ品(後発品)は
溶解テストを不合格になった薬品を
あたかも、
コーチングのやり直しをしたかの如く
再度の溶解試験で合格を出した
合格品として出荷していたという!!
会社からの、回収サイトには
わび状が出ていたが、、、
湿疹や、、、薬疹で済んだカラいいものの、、、
主人にもしもの事が有ったら、、、
そう思うと、、、ゾ~とします。
薬品の購入は、、、
患者さんの健康を第一にセレクトして
次に患者さんが支払いやすいゾロ品を
厳重な管理のもとに購入しないと、、、
自分自身は薬剤師として、、、そんな
ずさんな錠剤はじめ
数多の薬を、製剤するなんて、、考えられない、、だから、、、
ありえないと、、、打消し打消し、、、使っていたが
薬疹は独特の出方をするので、、、判定できるのですよね!!!
その後、、、医師の手によって、アレルギー検査をしてもらい
信じられないが、、、やっぱり!!ゾロ品のせいだ!!
主人は薬を中止しました。
先発品に変えてもらいました。
今回の会社の報告サイトには、、、
保管温度が高かったために
コーチング剤に使ったでんぷんが変化していたものもあったと出ていた。
大手の会社だけに、
管理者の薬剤師の先生の判断なのだろう、、か?
不備なものは全部回収していた。
各薬局には50品目近い回収を連絡したと
後発品の大手の会社だけに
監督不行き届きの理由とともに
各製品を回収していた。
私的には思う事が有ります。
40歳代の時に
ヨーロッパの薬剤師会のゼミに出席したとき
歓迎パーティを開いてくださり
その時イギリス人の薬剤師が言いました。
「ヨーロッパには
色素だけ扱っている薬局もあるんですよ、、、
薬品の色素の臨床データーもそろっている品目棚もありますし
生活に使う色素の環境からくる人体へのデーターのある店もあります」
その時は、、、意味がよくわからないまま、、頷いて質問も出ませんでした。
今回、、、調剤の色素について、、、もっとデーターが欲しいと思いました。
製薬会社と言う、、、専門分野の
信じられない手抜きが、、、
現場でなされている、、、
現場は、高額な医薬管理の下で発売された先発品の
オリジナルな、優れたところまで、
技術的にマスターしてから、、、
製薬してほしいものです。
薬を辞めたら、、、湿疹も、薬疹も良くなりました。
今回は生命にかかわることが
全面には出ていませんでしたが
「ゾロ品の怖さ」ですよね、、、
コーチングによる溶解度の変化!!!
使っている色素の選定
コーチング剤の保管の仕方
同時に、、先発品に準じて精度の高い粒子の大きさにもこだわり選ぶ!
社内検査で、、、半可通の正社員でない者には検査を担当させない。
再検査はきちんと行う、、、
当たり前のことを、、、守って、、、
先発品の薬効を持った後発品を、、、
患者さんの医療費負担を少なくするという
「会社のビジョン」は、、、どこに行ってしまったのでしょうか?
どこの病院も、赤字経営ですが、、、事務系の経済を考えてくれることで
患者さんの、常用する薬の負担を少なくすることに、、、
医師の皆も協力して
処方に後発品を書いていたのだと思います。
患者さんの負担を少なくするためにも、、、
それだけに、、、
後発品は必要なシステムだとは思いますが、、、
後発品の製薬を任されている
「製薬会社の手抜き製剤は、、、信用問題です!!」
患者さんの為に、、、医療費が安くなるようにと、、、協力した専門家を
裏切る様な、、、
手抜きの製薬をしないでください!!
私は薬剤師です。兄も、姪っ子も、息子も、、、孫も、、、
薬品に馴染んだ医療に従事して、
人々の快適な健康人生に貢献したいと思っています。
製薬会社が、、、真摯な実験を根拠として
溶解度テストに合格した薬を出してくれないと
赤字で頑張っている病院が
信用に傷がつきます。
私は薬剤師です。
認定薬剤師は6回の更新をしています。
免許を持って居る以上、、、質問もされますので
嘘は言わないという,、、最低責任を果たすためにも
大学病院、研究施設、
結婚後は、北海道の某大学の薬剤科、
晩年は、大手調剤薬局の立ち上げ勤務。
そして
親族には6人の薬剤師がいます。
根っこの部分で、、経済優先のずさんな
後発品の製薬をやられると、、
、
患者さんや、薬局に来てくれた病人さんに
経済的な負担を軽くするという本来の目的からそれて
変化して発行したでんぷんでくるんだ、、、そのまま吸収されない
効力の変化した薬が出回ることになり
挙句の果てには
水虫の薬のゾロ品のように、、、後発品と呼んでもらえないような
水虫が治らないで、、、害があるという
信じられない、、、情けない結果になります。
信用を揺るがすような会社の在り方に
危機感を感じました。
こんな、目先の利益に飛びつくような製薬のやり方は
薬剤師にとっても、業界を揺るがすような
情けない、、、「半可通の、、、薬品製剤の怖さです!」
今回は、我が家も、、被害を受けました。
色素も、定量を精密にして、許可された色素の臨床データーを得てから
先発品の色素と違う色への変更をすべきだと思いました。
主人の飲んだ薬の、、、ピンク系統の色素が
アレルギーの原因ではないと言い切れるかどうか、、、
未だに、もやもやしています。
許可された品質を厳守してほしいと思いました。
温度管理はでんぷんやジアスターゼであったとしても
管理が悪いと、変質したり
発酵したり
効力がうすれるのは
教養時代の常識ではありませんか!
今回の事を
もう一回繰り返すなら、、、信用できません。
今回、一新して出直さなければ、、、
「患者さんに、、、同じ薬効で、、安く買える薬」
それが後発品です!と、服薬説明が出来なくなりますよね、、、!!
ずさんなゾロ品の横行は、
突然、、会社の崩壊の危機に直面することにもなるだろう、
薬に半可通な技師の手で造られた後発品のずさんな管理の薬には
各臓器の各酵素によって
治療となる薬が溶解しながら
プロドラッグのように
人間の身体に寄り添うように薬効が発揮されてゆく という
薬学ならではの
きめ細かい製薬技術が
ミクロな段階で
薬品の溶解度を一定にしながら
長時間効力を発揮する
この技術で、、、お金儲けは報酬と言えると信じています。
。
しかし、、今回の後発品の会社の
薬品回収の理由には
薬の緻密な科学の技術を無視した
半可通な形だけ 似せた、、、ずさんな
経済効果を優先させたコーチングには
薬剤師として、、、もう、、、 失望で、、、心が傷を負いました。
この会社のやることはショックで信用できない!
お金をかけないで
薬品のコーチング材料も
、、、でんぷん 麦芽糖、、、 ブドウ糖、、、、、、エチルアルコール
保管条件が…物質そのものが変身するのが
常識的に解っていますよね。
粗悪品を使うという、、、保管条件の悪さは
薬に生きてないという、、、
儲ける手段が後発品、、、と言うのは
医療人の心も
使命感からも
落第点だから、、、
大学なら、、、再試験ですよね!
もうけ主義は、、、医療には向いていませんよね、、
「医療の心」を捨てて、、、「経営優先」にする
会社の為の後発品の粗悪な製薬工程は、、、
「医療の従事者の心」に対しての冒涜だと思うのです。
、
後発品のような
経済優先の医療をすれば、、、
日本は感染症だけでも
医療崩壊が起きるでしょうね、、、
医療に従事する者は、、、
嘘をするな、、、
と言いたいですね、
嘘を言うな、、、
この会社のCa拮抗薬を服用していた主人が
薬疹が続きました。
某会社の水虫の後発品が
コーチング剤に
とんでもない薬を使っていて
生命を脅かしましたが
儲けに走る後発品の
半可通な製剤技術が、、、問題だと思います。
一つの先発品の医薬品を世に出すまでの費用は、、、
億と言う
膨大な費用が掛かり、、、やっと、、医薬品が生まれるのに
真摯な研究者、薬剤師、、、、臨床実験データー提供の皆さん
血と汗の努力の結果の先発品ですよね。
姪っ子の薬剤師も、ネイチュアーなどに論文を乗せていますが
会社は特許をとるくらいの精密な先発品ですよね!
後発品は、、、真摯な態度で、、、全力で研修を受けて、
指導されたマニュアルのような、、、先発品にのっとった技法を研修して
先発品製剤の方法を、、、学びなおして
指定された製薬方法で製品を製剤して、、、同様に管理して
世に出すべきですよね!!!
特許権が外れているのですから、、、忠実に製剤しても
利益はあるはずですよね、、、
不合格になった品を、、、
再試験して合格して通過させる、、、
しかも、、再試験検査した痕跡は見当たらない等、、、
信じられない管理ですよね!!!
きちんとした正直な後発品を出しても
莫大な儲けが有るはずです。
医師の見えない日々の、日進月歩の中の研鑽に
多くの費用が掛かり、、、海外を見聞し、学会に所属し
スタンダードな力を下回る様な医療は
在ってはならないと、、、
どんなに努力と費用をかけて
患者さんの信用に答えているか、、、
ゾロ品を世に出す製薬会社は
信用を、、、
台無しにしていることが、、、解っているのだろうか??
働きかた改革などの声も届かない激務の中で
信用第一に真摯な学問を根拠に、、、
処方箋を書いてくれているはずなのに
薬そのものが、、、いい加減では、、、
全部のスタッフの努力を 無駄にしていることですよね!!
こうした一部分の不心得者が、、、信用を傷つけます。
患者さんの医療費が安くいくようにと
先発品の特許が終わった段階で
後発品を作る事になったはずですよね、、、
素晴らしい、、、使命感に私は後発品を支持していました。
ひたすら、、、反省して、、、
技術で報酬を得ることに徹してください。
あきれてしまい、、、こんな会社ばかりではないはずですから
しっかりした技術で、
安心できる後発品の管理を徹底して、
患者さんの経済的な負担を軽くすることに
後発品の会社は意儀を見出してほしかったと思いました。
薬は、、、信用が有ってこそ。。体内に入れてもらえるのだと!!!
プラセボ効果は、、、精神の信用から
神様が下さった回復力を
後発品にも加味できるように
信用を、、、もう一度!信用を取り戻して
薬代に苦しむ患者さんを支えるという
正直な使命感を要望します。
外科医の主人は薬関係者の私に、
大なる信用を持ってくれていたといういきさつ上!!
薬剤師の私は、、、
もう一度、信用を取り戻して
社会に、貢献できるビジョンで
医療を支える会社に納てほしいです
今日の日記は、、、心の叫びでした。
後発品の患者さんの医療費サポートに
敬意を持っていただけに、、
大切にしていたものに、、、失望しました。