花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

冬の仕度

2016-09-26 01:04:55 | Weblog

猛暑の夏から、土砂降りの台風被害の中、

いきなりの冬日

そして、今日は27度という天気予報に

冬に備えて、毛布を干した。

遠く、、、中東での戦火がおさまってほしい。

地球の周りに、見えない温度の気流が立ち込めて

天気そのものも、温暖化に向かうのだろうか?

それとも、あるサイトに書かれているように、

人工衛星や、様々な要因で

天気そのものを操作する人工知能の開発実験でも

どこかの国によって

されているのだろうか?

定かな確証も証拠もないが、

地球が、冬の季節に向かう事のないような

自然との共栄共存のバランスが崩れ去るような

人為的な操作そのものが、

人工知能によって可能になったとき、

大自然のバランスが崩壊し

タコが自分の足を食べて

とうとう、己を食べてしまった、、、一コマが

手塚治虫さんの、、、漫画で観たことが有った。

オーストラリアでは、巨大なショベルのようなトラックが

石炭の露天掘りで、

地形そのものが谷になってゆく。

その石炭は、
火力発電で電気になると、、、NHKは紹介していた。

エネルギーはロンダリングされて保存され、
人類の糧となるだろう。

しかし、掘削された人工の谷に変化したオーストラリアの大地は

どのように、風化が変わってゆくのだろうかと、、、思った。

大地が炎になり、戦火が科学の塵になり、

人間の理想を追う科学力は

使い方が、根っこの部分で「欲張り」な心。

大地も、地球も、変えないで、

今後、廃墟を創るための、科学力は立ち止まり、

円卓を囲んで、いろいろのジャンルの意見を交わし、

地球を、墓場にしないように、

若者の未来が、
素敵な大自然の空気に囲まれた地球であるように、

ここら辺で、もう一度、、、愛を!

地球の冬が来る前に

もう一度、原点の大切な愛は、、、未来ではなかろうか?

ささやかな。
小さな家庭に閉じこもった
72歳の老婆には

冬の仕度に、、地球の冬を、思うのですよ。

未来に生きる、、、孫の時代に

美しい地球を、、、そのまま

大いなる遺産にしたいと思いませんか?



男性社会の中で、咲く女性の条件は?

2016-09-16 18:04:29 | Weblog

まず、、、実力!

それも人間力のように例えられる、幅の広さ

言葉を駆使できる

外国に、パイプを持っている。

容姿端麗

意外性、

でも、、、どこかで、ナルシストな、演歌のような
人生いろいろを経験していて、、
決して、、、高嶺の花ではない経験豊かである。

鼻先に、インテリの匂いがしないのに、、、賢い。

一番になりたいとか、権力がほしいとか

そういうのではなく、

世の中の、個人的な貧困を、全ての元凶と考える傾向がある。

大人になれない、、、愛しさがある。

でも、世の中は、二番は却下されてしまう。

ちなみに、我が家の表札は、夫の名前しか掲げていない。

子育てででも、主婦は2番という男社会の「主人」の裏方。

使われるだけ使われて、
大半の雑務で支える人生には
見返りは期待できない二番手!

人間社会だけの主役を考えるとき、
男性社会の中に切り込んでも、
女性は木端微塵になる、、、路傍の石。

しかし、美人である、言葉を駆使できる、
子育ても、出産もしているという実力。

台湾と日本を知っている国際的な架け橋にも成りうる。

与党だとか、野党だとか戦わないで、

それぞれの立場で、日本の国を守っていただきたい。

理想の国内が整っても、国防が甘いと

歴史に出てくるユダヤのように

自国は無くなるかもしれない、、と危惧する



国防に関しては、救急中の救急だから、

アジアの仲間同士の遺伝子の先祖を持つはずでしょう、、、
仲良くなれないのは

教育の違いかもしれません。

イデオロギーと、、、言えるレベルに達していれば
話し合い、討論し、並立しながら
切磋琢磨することにより

成長してゆくだろう未来に、
分かり合える希望が持てるとおもいませんか?

貧困の生活が、心の貧乏を造りだし、
心の貧乏が、戦いになってゆくのではありませんか?
目指すビジョンに向かうより

権力や侵略によって、
支配しようとする幼い心の勝利を
国が生きる道と間違ってしまう。

地球は命の源ですから、
戦いで、化学物質のばらまきが
空を汚し

温暖化を招いたとしたら、
氷河は解けて、
その水分は蒸気になって雲になり

世界中が洪水になるでしょう。

ノア一族と、
各   一種づつ動物が方舟で生かされて、

地球はほろびるのでしょうか?

神は、洪水で、地球上の生き物を滅ぼし、

虹の橋を架けて誓ってくださった。

もう、、殺戮はしないだろう、、、と

こうなる前に
神の怒りをかうまで
戦いで空を汚し、

温暖化で、氷河をとかし、

その水は蒸気になって、
大洪水をおこし

再び全世界を洪水にする前に
地球の神、平和の神、
共存共栄の知恵によって、

小さな国が、大きな希望を世界に伝える
「相棒」の野党になるといいなと思います。




万難を排しても、一丸となれる与党との結束も柱となる。

第二次世界大戦の敗戦の前年、生まれている私は72歳。

天皇陛下の玉音放送に、日本は国として存続した。

物資としても、人間の男性という男性は

一銭五厘の赤紙で、国防に命をささげた。

韓国では、少女の像が問題になっているが、

日本女性は、万歳岬から飛び降りてしまった。

母は、晩年、サイパンのみさきに、花束を持って行った。

昭和陛下が、日本という国が亡びる前に救ってくれたから。

物資や、信用や、人材は、復興することにより、

日本の世界への貢献は、むしろ、

地球そのものを破壊する核爆弾の恐ろしさと、

人間を元素に変えてしまう、

戦争が、再び起きないように

世界に啓蒙し続ける事が出来る

唯一の被爆国家である事により

世界から、この、
非人間的な武器の戦いを辞めさせ、

人間が、人間であることを訴え続けることが出来るか!で

その貢献度は地球の重さに匹敵すると思います。

科学の果ての
「地球の存在という神」を「命の親」と認識してほしい。」

野党も与党も、相手を振り回す事が政治とは言えないと思うのです。

お互いの凸凹を認識し、

日本が、陛下とともに、森羅万象の現象の中で

守られて、日本の国のあることのありがたさを

再認識して、あらゆるジャンルに置いて

「系統樹」の神の樹が、大切にされてこそ、、、心の樹。、

全ての元素の最後のピースが入ったとしても
心は同時には生まれないと思うのです。

「こころ無い核戦争」を避けるには、
核の被爆国家である日本で

人類の被害の痛みを、、、抱き合って共感した
オバマさんの、来訪を、世界と共有して

戦いのルールを
厳守してほしいと願っています。

足が無くても、手が無くても、視力が無くても

平常の私たちより、意志の強い

選手の皆のメダル獲得の一瞬には

慶びの涙のほかに

涙が出てきて仕方ありません。

このたび、、、がんばられた女性党首の麗人に

多くの男性実力者がサポートして、

日本と台湾の親交の架け橋になれるように

祈っています。



一つ一つ、、、ゆっくりでいいから、

大人になって、何が大切か、、、

目先の事もさりながら、、、

世界で大切なのは、国と国が仲良くなることだと
思いませんか?

中国も、韓国も、北も南も、日本も、東南アジアも

仲良く助け合って、

戦争のない、未来を約束してください。

今度は一番になったのですから、

政党の一番にこだわるとか、

政権の一番にこだわるとか、、

日本国内を引っ掻き回せことだけは、やめてくださいね。

与党と野党があってこそ、大切な政治の舵取りとなると思うのですよ。

それぞれの出番が違っても、不屈の精神で

日本国の、国があるという事は、
どのような、又、どういう事が大切なのか

外国人であっても、
言葉にも、文字にもできない

日本の心を失わないで、
国際色豊かな

インタナショナルスケールの子供を育ててください。

日本の武士屋敷には、
切腹の間という部屋がありました。

実際に切腹に使われたかどうかはわかりませんが、

屈辱を受ける前に、自らの責任で、切腹して果てたりしたのでしょうね。

あるいは、上司に切腹を命じられ、
切腹することにより、

屈辱をさけたのでしょうか?

日本の、姫ゆり部隊や、

サイパンの、万歳岬から飛び降りた、、、日本女性。

敗戦がわかったときに、

優秀すぎる学生たちは、

空に散るという、、、死に場所を選んだ、

日本の、咲くも桜、 散るも桜、、

指導者の心意気で、一丸となった本土決戦。

もう、、、繰り返さないでほしい、、、

戦争は、地球上の悪魔です。

国と国の、文化の違いが、

韓国の、少女像にも表れています。

国の文化の違いは埋められないかもしれませんが

教育が、歴史が、世界認識が、、
パソコンが、、橋となって

いつか渡れる心と心になれることが、信じられます。

ハーンは外国人ですが、

私は、日本の心、、、そば、、、下駄の音、、琵琶の音
西の空、夕焼け、、、兵どもの夢のあと、、芭蕉

寂しい墓、、、夏の海、、、

外人の、ハーンの作品で

小学校の頃、カラコロの音の響きが

聴こえてくるようでした。

台湾の、美人政治家の一番は

きっと、日本と、アジアの架け橋になってくれると、
期待しています。

だから、、、小さくまとまらないで、

日本国と世界をつなげていってくれることを期待しています。

私は、、、政治の音痴なので、
思ったことを書いてみました。
72歳は、、、置いてけぼりの、、、孤独な日記を書いています。






夜更かししています。

2016-09-11 03:53:46 | Weblog

今日も、TVに振り回されながら

見たい番組の時間が多すぎて、

睡眠を、、、うまくとるのが大変です。

ここのところ、夜中にTVを観ながら

洗濯機が回っています。

母から、「夜の洗濯は、いけないよ!」、、と

大学時代に注意されたことを思い出しながら、

毎日着替えて、清潔を、仕事の初めに心がけている習慣が、

明け方の朝日の出る前に、、、干すことになる。

柔道では、、、目頭が熱くなる。

バスケットでは、一緒に目が回っている。

TVをかけたまま、、、眠ってしまっていることもある。

世界の、命が輝いている。

戦うのなら、、、オリンピックで、、闘うべきです。

一個しかない地球の、、、いずれの国も

地球を汚し、傷つけ、奪い合う事は、

人工知能に、初めに記憶させてほしいと思った。

長い人生に思えても、

100年の水泳のリレーや、陸上のリレーのようだ、

興奮冷めやらぬうちに、、、終わるのが人生だから、

世界中、、、闘っている暇はない。

未来に、子供たちの命の矢を放ち、、、

産まれてきた、よかった!と。

美しい地球に、、、眠るように包まれて、

ありがとう、、、おいしい空気よ。。。

穏やかな、、、日々よ。

母のような、地球を、

壊すのは、、、やめてほしい。

オリンピックの、精神は、きっと

世界に平和を、導いてくれると信じてる。

選手の皆は、、、最高に美しい、、、。

母の27回忌

2016-09-09 04:30:19 | Weblog

激動の「富国強兵」を謳い、

海軍の軍人が、日本のリーダーにならざるをえなかった

幼かった発展途上の日本は、

ザンギリ頭から

鹿鳴館、、

そして、、少しづつ、、、

日本は、インタナショナルな

大人に

成りはじめ、、青年になっていった時代。

大陸への共栄を願い進出していった時代だった。

明治時代のハイカラな父のもとで、

大正時代の学生時代を過ごし、

袴で自転車に乗り、皮のブーツを履いて

国立音楽大学のピアノ科の一期生だった母!

当時のアルバムには

「大きいことはいいことだー!」、、、で、

おなじみの、髭のコンダクターの大先生のおかあさまと

ならんで映っている、

味の深い着物の音楽大学性だった。

止せばいいのに、、、

絶対に主役の席を貫く外科医と結婚。

人生の全般は、母のピアノの腕は、、、

泣き続けた。

戦乱の時代に、弟も、義弟も、、、夫も赤紙一枚で戦場へ、、、!

外科医だった夫は、

大陸で、銃創や、切り傷、爆撃の、、、傷、、

日夜、銃後のご奉仕に、

体重はヘリ、内臓はやつれ、

敗戦が色濃くなったとき、

帰国命令が来て、

日本の地に、、やっと、、還ってきた生活。

東京の市谷に有った実家は、

爆撃で焼け野原、、、

お寺さんが、親類の再会の場所だった。

母は、戦乱の中、子供を3人亡くした。

半狂乱になりそうな日本の激動期を生きた、、、母。

外科医だった夫が、

戦後持ち帰った財産は、、、

手術用の道具だけ、、。

明治生まれの、

「ハイカラな、師範学校卒業の父」は

27歳の時、2人の子供を日本に残し

アメリカに渡った。

3か月もかかって、

時には嵐の大波に、命ごと海に投げ出されそうになって

アメリカに着いた武勇談を

孫の私は、聴くのが楽しかったものだった。

母が音楽大学に入学したころは、

アメリカに渡っていた父から

ドイツ製のピアノが送られてきたという

アメリカ製ではなかったっと、、、言っていた。

幸せな学生時代に、

慈恵会医科大学生だった父と

新橋の、フロリダで、、、出逢ったと言っていた。

幸せな青春時代が、、目に見えるようだった、

そして、、人生の最大の津波は、、、戦争だった。

戦争がきっかけで、帰国して、

古座川の上流の山奥に

疎開地になった村がある。

其処に、大きな洋館を建てて、

娘夫婦を、疎開させたのでした。

アメリカで多くの知識を得てきた母の父親である作次郎は、

頼まれて、

町長や、校長や、文化事業のリーダーとして

疎開地のあたり7か村とも

無医村だったところに

診療所を創り、

戦争からの引揚者や、傷痍軍人の治療に

娘婿の外科医に、

あたり一帯の医療を任せたのでした。

戦場から引き上げた母と、

夫である外科医は

新しい居場所で、

心の傷を治しながら、、、

失った3人の子供を取り戻すと!!!

美しい。。。原始のままの自然の中で

気力も回復したのでした。

大自然は、母を復活させていった。

高齢の出産に挑み、、、、ついに、

*************

「戦争を知らない男の子を生んだのでした。」

************

新しい時代が来るんだ!

新しい、、、戦争を知らないベイビーの誕生は、

疎開地の村々から

「歓喜の声」で

希望の光となりました。

あっちでも、、、こっちでも、、、

戦争で疲れ切ったはずの女性たちなのに、、

戦争を知らない子供が、

「オギャー!」と

大合唱で生まれました。

世に言う「団塊の世代の誕生」でした。

母の手はしなやかに復活して

疎開地の小学校の

音楽の先生に

ピアノ曲を指導して差し上げるまでに

復活足ました。

外科医とはいえ、、戦陣外科を体得した夫は

7か村、唯一の「全ての科」の診療をする医師として

無くてはならない存在となりました。

心の傷を背負った村人の頼ってくる診療所は

新しい勢いが宿り始めた。

戦後の診療所の二階は

ダンス教室として開放しました。

母は、

多くの人々の心の傷の癒しになるからと、

日本舞踊や、三味線、鼓、太鼓、笛、、、の先生も

遠く離れた市から来ていただき

疎開地は山奥なのに   
3000所帯が住むゾーンとなりました。

戦争を知らない

「団塊の世代の弟達」は

「新しい復活のパワー」のシャワーの中で

育ったのです!

戦後の日本が、こうして立ち上がっていくのを

私も、肌で感じながら、育ちました。

、、、僕の前に道はない、、、

   僕の後ろに道は出来る。

道程という詩を口にしながら、、、

姉の私と、弟は、、

東京の新しい時代の教育へと

父母の

不屈の努力と忍耐と、

全力を尽くした教育への志向が

再び、、、家族が、

東京に還ってこれたのでした。

山手線のど真ん中にあった実家は

再び、手に入れることはかなわず、

下町の、江戸川に近い高台に

10室ほどの入院室のある

小さな開業をしたのでした。

思い起こすと、父の想い出話は、、、

ドラマよりも劇的でした。

大学病院で博士論文が出来上がるころ、

大陸の医師は、
漢方や東洋医学なので

戦争の負傷者を治療できないから、

現地の大学での、指導者が必要という

時代の流れに、流されてゆくかのように

父が身に着けた
「イギリス医学の外科技術を指導するように、、」

戦場近くの大学病院に派遣されたそうです。
しかし、、、!!!
、、
「外科」の医局が無かったというのです。

日本の国がバックで、
総合病院を建てて、全科を揃え、
日赤の看護婦さんが配置され、

父は日の丸の旗のもとに
院長に任命されて、

現地の医師や、衛生兵に、、

滅菌から指導しなければならないような出発だったそうです。

陸軍の軍人の、手足の切断手術や、胃の手術や、

日赤の看護婦さんとともに、担当したそうです。

母は、、、行かねばよかったのかもしれません。。。

父を訪ねて、

戦場の近くの病院宿舎に移住したのでした。

そして、、

戦争に巻き込まれていったのでした。

戦後の世の中で、

団塊の世代を、生きた私は、

人生は、何が幸せかわからないと、、痛感しました。

戦争が無いことが、、、

一番の幸せだとおもいませんか?

*****************************

弟が、日本の放射線医学の先端を走り、

戦後の医療に貢献して、

「団塊の世代の復活の旗」を持って

精進した人生を

隣から感じながら、

感謝の心でいっぱいになるのです。

思い出すのは、、、

幼いころから、
レントゲンを扱う
父の手を見て育った我らでした。

疎開地の、粗末なレントゲンは

父の手を

放射線が、、潰瘍だらけに、ただれさせていました。

弟は、

医科大学を卒業するあたりになると、

痛くない医療。

外科手術が間に合う早期診断。



千葉大学の市川先生に出逢い、
生涯の師と仰ぎ

国立がんセンターで
戦後の放射線医学の
「コロンブスの卵」の役割を果たし

団塊の世代の「復興!」の

医学分野の一翼を担ってくれた、、凄い医師として

義姉の私の記憶の中では、

不死鳥のように生き続けるだろう!

国のお役に立ったのでしょうね、、、きっと!

宮様からの賞をいただけたのでした。

敗戦の日本から、

日本、、を、陛下はお守りくださったのだから、

諸々の復活は、国民の手で、!!

団塊の世代は、、

本当に戦後の復活を果たしてくれました。

外国の患者さんも、

日本の診療を受けるために
弟の勤めていたがんセンターに

はるばる海を渡って来ていました。

私も、検診を受けに行って、
弟の診断を受けて

その場から手術室へと直行の
命拾いをしたこともあります。

弟の退官のころ、

神も仏様も、どこにいらっしゃるのか!!

大震災が起り、

がんセンターにも
山形大学あたりの巨人の先生がいらっしゃって
大改革をされたとか。。。

千葉大学の市川先生や、
弟の時代は

名古屋大学に引き継がれていったようですね、

がんセンターで
生涯をかけた弟の実績の足跡は
退官とともに

消すことはできません。
なぜなら、
叔父さんを尊敬していた息子が
叔父さんが書き残した放射線の教科書を読みながら、

いつの間にか、
放射線の医師として、
認定医に育っていたからでした。

がんセンターという
タテモノの中は

時代とともに世代交代してゆきました。

しかし、日本で、CTという言葉さえ知らない人の多い時代
がんセンターに泊まり込みで、
廊下で夜明かししながらの
放射線のジャンルの大航海時代を生きた弟は

手遅れ手術を防ぐことに人生をかけたようでした。

同じ母の
お腹から生まれたのですが、、、
義姉の私は、、、、便利な家政婦のような現実を生きた。

貧乏にも、時間貧乏にも、負けず、

夢に生きた、夢追い人の、ひたむきな人生を

弟よ、、、

見せてくれて、、ありがとう!
君のおかげで、、、人生は、楽しいよ。

才能だね!、、、凄いよ!
よそ見をしなかった事だけでも、、、

真似は出来ないよ。

*************************

母は80歳過ぎるまで

ピアノの教室で指導し、
コンサートを開き続けました。

母校で教授になられた親友と

後輩の生徒たちの協力で、毎年、

公会堂で発表会を開催しました。

結婚前は、私も、連弾のお手伝いをしたり

花束を50個も用意して、
発表会を盛り上げたり

裏方の片隅を担当させてもらいました。

お弟子さんの中から、

音楽大学に進学した生徒さんもいました。

3日だけ。病院に行き、

母は、この世の肉の衣類を脱ぎ
光になって
一足飛びに、天使の故へ飛翔してゆきました。

輝きながら飛んでゆく母が、
瞳を閉じれば、、、見えました。

弟の出産とともに、

戦争を知らない世代の翼に乗って

復活の気力を取り戻し、

戦争時代に失った3人の子供たちが残した
ブラックホールも

白鳥が、宇宙のかなたに運び去ってくれたようですね!?

生涯を命輝かせた
「昔の医師の夫人だった、、音楽魂!」

現代の医師夫人は、、時代とともに、、、
サラリーマン夫人になりました。

私には、どう頑張っても、、、
かなわない母でした。

母の友人だった、
著名な功労のある人々は
私には雲の上の人たちです。

葬儀の日の朝、、、、
「命輝きながらの昇天ね、、」と

私の肩に、、、
そっと手を増えてくれました。
母の教え子の一人です。

その人に、、、
母は自分の愛するグランドピアノを
差し上げて、昇天しました。

弟の勤務していた「国立がんセンター」からは

署長さんはじめ、60人ものスタッフが、

母を見送ってくださいました。

義姉でありながら、、、
私の出る幕など、、、ありませんでした。

救急病院で外科医をしている私の夫は
母の葬式には来られませんでした。
息子達は、進級試験の最中でした。

私には、、、
札幌薬剤師会から
会員に届けてくださる花が
心を癒してくれました。

兄嫁と、弟の嫁さんが、
かいがいしく、働いてくれている中、

私は、放心したように、、、喪服にも着替えないで、

お寺の台所で、空になったすし桶を、お返しするときの為に???

呆然と、布巾で、なでていました。

「お姉さんですね?!、、、
こんな所にいらしたのですか?」

ずいぶん探したと言ってくださったのは、、、

国立がんセンターの所長さんの先生でした。

「弟さんにお世話になっているんですよ!!、、、」と、、

ドクターらしく
ポーカーフェイスの中の
いたわりの笑顔であったことが、、、
何十年たっても忘れられない。

一丸となって、
戦後の復活の時代の中で

日本のがん医療を、
発展させてきたスタッフはじめ一同は

家族同様、結束の心の中で、各人が

ギリギリの頑張りの戦いの中で

貴重な時間を割いてくださり、

弟自身が、母をなくすことで

意気盛んなアタック精神が沈滞したり
実践実働に、支障がきたす事がないままに過ごせたのも、

家族にも増して、
一緒に生きてるお仲間の存在であると信じられた。

日本の放射線医療の黎明期の
精鋭のスタッフの先生方にとっても

弟は戦力であった事でしょう。

男の家族は仕事仲間かもしれない。。。

この時、弟が眩しく見えた。
勿論、、、
お仲間の先生方は眩しく輝いて見えました。

打ち込める仕事がある!
人生の夢を追って生きている人たちの
不思議な、凛とした澄明な空気感は
母の死が、逢わしてくださった体験でした。

弟の生命力が
母の死のマイナスのエネルギーを
プラスに変えてしまったのかもしれません。

一緒に生きてる仲間がいる!

「お母さんは、生涯現役だったことを、、、
僕は、、、誇りに思います。

皆さま、、ありがとう、、、」

弟の挨拶が聴こえた時、
私は、まだ、
夢うつつの心境だったことを、、、思い出します。」

母の永眠する白木の箱のベットの周りを

小さな孫たちが走り回る。

弟の娘が、大きな声で、孫一同を怒って静めた。

「皆!!!、、、静かにしなさい!!!
うるさくすると、、おばあちゃまが、、、眠れないでしょう!!」

******

天使の御通りの静寂の後、、

葬式なんですが、、、
大往生の母の眠りプリは

極めて明るく、
次の舞台へ向かう船出のように

七色のテープのような、
歓喜に近い拍手のような、賛美の光の中で
心が飛び交っているようだった。

*****

笑い声が起きた、、、

おばあちゃまが、、、起きてしまうよ、、、

今度は、、ちいさん声で、孫が言った。

****

皆、、、又笑った、

************************

あれから27回忌まで、

弟は、父母の法事を努めてくれた。

今回は、法事は9月。

70歳を過ぎた私は、、、一瞬、行けるかどうか迷った。

27回忌の今回でも、兄弟皆、よく生きたと思っている。

33回忌が、出来るかどうか?考えた。

台風の中、
天気の移り変わりの間を飛んでいる飛行機の

シルバー券で、
北海道から東京に向かった。

行けるかどうか、、、わからないと、、、
言っておいた。

しかし、運よく、ヒコーキは飛び、

会場に着いたとき、

母の葬式の日に、、、
静かにしなさい!御婆ちゃまが、起きるでしょう!と
会場で騒ぐ子供らを、怒っていた弟の娘!

あの時の、母の孫達が、

母の、ひ孫にあたる子供を連れて

にぎやかな、会場で、
初めて出会えたのであった。

アメリカで産まれたひ孫もいる。(^^!

お母さんは、、、生きている。

未来に放たれた矢のごとく、、、

ひ孫たちの勢いは、、
未来に向かって、、放たれていた。

弟よ、、、継続は、、、力だね―――

お姉ちゃんに、寂しい思いをさせなかった君が
おじいちゃんになっていたなんて。。。。!

27回忌までも続けてくれて、贈ってくれた感動は、、、

「母もしかり、一生懸命に生きた人間は、、、

未来に放たれた光の矢になって

永遠の命が続くという、、感動だったよ。」

ありがとう、、、

法事で、いつも、母に、、父に、、、逢わしてくれて。

感謝しています。

君だけが、、、読んでくれればいいと思って

日記を書きました。

朝になっていました。

おやすみなさい



今度、立ち上がったときは、災害に強い、綜合開発の設計を願う

2016-09-03 00:52:59 | Weblog

度重なる災害に、、、胸が痛くなる想いで

TVのニュースを観ています、

北海道は、台風が来ることは少なかった。

台風はそれると信じていた、

札幌でも、かって、

北大のポプラ並木も折れた、

我が家のベランダもねじまがった、

雪で軒先が変形したこともあった。

若き日に、初めて購入した6軒続きの連棟二階家は

一年も経たないうちに、傾いできた。

筏工法か、支持層まで杭を打つか、

設計や、地面の耐力測量の時に

見落としがあったと思う。

今度復活して、強い、災害に負けない

傾いでしまわない集落を復活させるのには、

地形や、地学や、気象学の観点から、

ただ、経済的に建築業界と銀行が

企業を主役に計算上の設計をしても

お客を商品として、

蚊帳の外に置いた街づくりは

今回の、老人の施設の災害の場合、

大きな警鐘を鳴らしたと思います。

すでに、、人間であることを卒業して

痴呆という老境に入った人たちを、

頑固なまでに堅牢で、柔らかで

草木など使い

安らかな壁や迷路をめぐらした

自由な庭園風の大広間で

くるぶしほどの人工の川を流して

幼子の遊ぶ遊園地のような小山も作り

芝を張り、這い這いできる理想郷の

、、、施設であったなら


避難させる職員も、、、楽に実行できたのでは、、、?

そのようなことを考えながら、

自然の猛威の猛々しさに、、、

人間の知恵は、どこまで購えるのか、、、?

北海道は、これからの途上の発展に、

千年単位で生き残っている世界の街を研究して、

復興の暁には

橋も、建物も、世界遺産になれるような

地域全体の、末永い文化を築くつもりで、

各ジャンルの人々が

円卓を囲んで、

道外でも、外交人でも、

優れた発想を持つ住民を受け入れて、

末永い、財産になる地域を

強く、美しく、綜合芸術のつもりで

ど真ん中の、富良野や、帯広、あたりの

一大、綜合の知恵の見本のような復興を祈っています、

被害に逢われた方には、心より

手を合わせ、無駄にはしない復興を祈り、

森羅万象、大自然との共栄を祈り、

各界の専門家が、北海道を、

質の高い建築物、

安全な建築物、

美しい設計、

強い設計、

。。。。甦らせてほしいと思いました。

北海道の建築技術に

本格的な、未来の総合設計を、、、祈るのです。

本州の有名企業の家でも、

北海道の雪や、季節の雨風で、

このような状態になるのは残念です。