花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

北海道在住45年 ミサワホームとパルコンと大雪と

2013-09-29 07:25:17 | Weblog

日大卒業のとき、卒業旅行に行くべきだったのですが、
父をすでに亡くし長男の政権下になっていて、お嫁さんもいた開業医の我が家は
兄の一声でした。卒業旅行と、兄の計画した阿蘇山と重なり、断腸の思いで家族
の意思に従った。10歳も違う新進内科医の院長は家族に絶大な統治権を発揮した。

医者の家族のリスクとも言えるのですが、絶対時間の足りない医師の為にも、
周りはスケジュールをやりくりして、医師の個人的な貴重な時間に合わせてゆく。

独身で、小姑で、薬学を卒業させてもらった兄には逆らえなかった。
阿蘇山を選んで、防空壕のような避難壕に出たり入ったりしていた。

阿蘇山は、雄大で、当時、蒼い噴火口の水が神の創始した山の産湯のようだった。

あれから、運命のいたずらなのか、気がつくと、45年も北海道に住んでいた。
知床も、利尻も、宗谷岬も、常呂も、帯広も、名寄も、友人のように親しめる。

初めて、生活した留萌の寿町の断崖の寮では。寒さを知らない無知な東京人は
流産もした。もらい火の家事にもあった。留萌小学校が、
メラメラト炎の中で燃えているのを、見つめていた。
大学院で収入の無かった主人は、博士論文に日夜
かかりっきりで、真夜中に帰ってきて、食事をすると、実験着のまま出て行った。

当時東京女子医大で心臓の手術をメインにされていたと主人から聞いていた先生が
「心臓」という、分厚い本をだされ、その中で、主人の名前を挙げて、論文を
誉めてくださっていた。
月給の無い無給医の次代、こうしたことが、生きがいのように、かがやいて、
私はひたすら帰らない夫をよそに、
育児と、HBCラジオの
「ママと赤ちゃん」という番組の専属のフリーのインタビュアーとして、
ささやかな糧をいただいていた。
無給医で、奨学金を高校から、大学院まで受けていた為の
返済で、17000円の家賃にもストレスがありました。

やがて、そのAPも階下の住人の夫婦喧嘩でガス爆発があり、偶然の留守のため
命拾いをしました。自分の家を、、、とりあえず買おう!、、、
下から燃えてこないのを!無給医だった時期でもあり、
10坪のテラスハウスの2階建てを500万で手に入れました。
しかし、、、住宅産業というのは、クレーム産業と言っても
はばかりませんね。
3年で手放し、札幌のクラーク先生縁の羊か丘の近くに
「ミサワランド」を見つけ買いました。
当時は栗林ミサワとか言って、東京のダンディな、青年が、
パネルを組み立てたと言う、モデルハウスでした。
1400万円ですが、無給医はローンも最低の条件で、「ミサワ提携ローン」
利息9パーセントと言う、バブルの始まりの金利でした。
23万のボーナス払い、
月に10万前後の支払い。
私は子育てと、アルバイトに走り回っていました。

北海道にも「家のメーカー」で雪に強い家もあったのでしょうが、
哀しいかな東京育ちの私は、ミサワの斬新なパネル工法のバランス感覚を、
尊敬していた。シンプルな美しさが気にいていた。

日大の理工学部に所属していたため、建築家や電気化の生徒と、
ESSを一緒に楽しんでいた。英会話のとき、
「ミサワの社長が同窓であると知りました。」
建築科や土木、電気科の学友と、バルブ次代に先駆け、工場でパネルを創る
ミサワの家を見に言ったこともあった。
おりからの授業のとき、教授が、
これからの日本は「オリジナルな発想で次代をリードして行くと話され
ミサワのパネル工法と、バランスの合力の耐震性などを話された。

日本は木の家を創り、樹が育ち、代が変わり、又新築し、
一生かかって、住宅を建てて、それが繰り返されて、成り立っているような
政治家と庶民の頭脳が2層の構造のような差がありました。
政治だから、「人間と言う、エネルギー不滅の繰り返しに
気がついていたのでしょう、」

建築を目指す諸君は、ヨーロッパなど、
世界の歴史に残っている建物を見る、
広く「建物」を見る事から、「建物って何だ?」と言うことを考えて欲しい。
と、言っていた、

日大の志賀高原のスキー合宿に参加したとき、
日大縁の者だけで建てたと聞いた山小屋に泊まった。
真ん中に暖炉があり、周りが広場で、囲炉裏のある考えを
ダイナミックに洋風にアレンジして、
真ん中に暖炉を持ってきた素敵が感じられた。

母校の日大への愛校心も手伝って、
北海道に来ても日大!と思って、ミサワを購入したのでした。

ところが、モデルルームだった為なのか?見せる要素にこだわったのか、
一冬越せずに、タイルが丸ごとつながって落ちてきたり、すが漏れで
天井がめくれてきたり、、、しみだらけになったり、
洗面所は壁を伝うすが漏れなのだろうか?
布製の壁紙が濃い緑のカビで黒くなり隙間の無い汚れに増殖し、
マスクをして、へらでカビを剥ぎ取る毎日だった。

原因は、屋根の雪が一気にどサーと落ちないように
一メートルぐらいの三角錐の立体を
屋根に五寸釘を使って取り付け、
周りをコーキングもしない、施工にあった。

10数個にわたって、五寸釘の穴が開いており、
そこがすが漏れの原因で、室内が
カビだらけになっていたのでした。

140万円の支払いが加算され、屋根は新しいトタンに変えてくれましたが
2回のテッペンからの美しい一枚者の長尺トタンだったものが、
五寸釘穴のある1階の屋根で切り取られ、
つぎはぎルックのみっともない屋根になった。
30代という若さ、主人が時間貧乏の為、
折衝は女性の私が前面に出たからでしょう
女性受けのする、美術大學の出身の、美的観念は優れていても、
修理のお金が動かせないと言う、アフターの巡回で、
対処療法に誠意を持って、当たることで、
とりあえず、その年は何とか大丈夫と言う、
リホームまで行かないチョいなおし誠意の巡回で、45年経ちました。
二階の屋根の勾配がゆるすぎて、雪が落ちなくて
暖気のとき、巨大な雪の氷の塊が、真下のコンクリーを粉砕して、バウンドして、
2重窓を割って中のラワンの窓枠をへし折り、窓際の机を、
反対側のサイドにまで氷が押してきました。
よく、、、怪我をしなかったと、息子達は今でもここには近寄りません。
よっぽど、、、怖かったのでしょう。
誠意だけはあるが上層部のお金を動かせる部署からは蚊帳の外のような
アフターさんが一間半の三角のバリケードを作ってきてくれました。

壊れたベランダサイズより一回り大きな窓のガラスもサンも
近所の建具やサンに緊急修理をしてもらいました。我が家持ちです総て。
ガラスは同じのが無くてとりあえずあるものをはめてもらって
ちぐはぐなままになっています。
屋根の勾配を急にして、雪を落とそうと言う話には
ミサワホームも積極的に動いてくれて、当方からは60万円、
残りはミサワホームが「雪害保険」で修理したと聞いていますが、
実際はわかりません。
最低限の工事なので、屋根の形がへんてこな
4面のつぎはぎのちぐはぐになりました。
水道は、8回も調査したのですが、漏水しており、
どこが漏水なのかわからないので
止水栓をためてあり、何十年も水道は使っていません。
止めるまでは空き家になっていたのですが漏水していたため、ある日、
水道局から40枚の分厚い基本料の請求書が来て、十数万円一括で支払いました。
とにかく、危険で住めないのですが、
要らない家具や、小さくなった衣類、客布団、古くなったソファー、
主人の本など、
当時逃げ出したままの、子供の部屋の玩具や
VM21のPCや500メガのアップルのPCなど、
雪の爆弾が起きて、戦慄の思いで逃げ出したまま、
何十年も、人が住まず、きれいに、掃除は欠かさず、
税金もローンも支払いながら、去年ローンも終わりました。
今では夏場の孫の遊び場として、スペースだけは長方しています。

ミサワの雪害事件があって、すぐに隣にパルコンを建てました
。払いきれないローンを抱えても、
頓着ない夫は大学の教官の月給で、自給自足のような何年間かを過ごしました。
初めに建てたミサワホームが

「雪国を知っている建物」であってくれたなら、

危険は無いから安心ですよね!、ところが、死ぬ思いの落氷で
隣に阿蘇山の壕のようなパルコンを建てて、
恐怖のPTSDから逃げ回ることになりました。

デザインも、モンドリアンのような高いセンス!
すっきりと無駄が無いミサワホーム。
住めないけど、この家が隣で建っていてくれるので、
コンクリートの重たい感じのパルコンに押しつぶされない逃げ場でもあります。
つぎはぎだらけで、売るにも売れない変なデザインになったけれど、
東京時代を感じさせる軽快さは、孤独を救ってくれる。
根本的にに直してくれる技術の伴った上層部が出てきてくれないので、先日も、アフターに電話したら、「建てて替えなさいよ!」と「当時のミサワなんて、こんなもんですや!」と言って、
はき捨てるように言って帰っていった。
新品の5万円でレンジを買ったのですがそれも、
使い古した古いものに変えられていました

当時の家は鍵もダメってことですね。
あの誠意のある芸大出身のアフターさんは、
根本の修理の機動力のような力は無かったけど
、自分でバリケードを作ってくれた。
「之が無いと、又、雪が窓を壊しますからね、、、。」人間性に負けて

ストレスが癒される訪問には、こまめな配慮があったが。。。
気休めにしかなりませんでした
対処工法のその場限りの危険防止に甘んじた。
去年の大雪で、このバリケードの
三角の土台の足が折れて、バリケードは雪で破壊された、
屋根からの雪はしたのコンクリーも砕く。

ミサワの上層部の設計のわかる人がもしも、危険を感じてくれるなら、そして

来てくれたなら、こんなめちゃくちゃな修理を重ねたシステムに
疑問を感じて、技術面から解決してくれたと思います。

『ミサワの弱点を展示したような歴史の家を』
、せめて、安全にちょっとした手間で、安心をセールスしませんか?
解決してくれると思いつつ、、、
北国の家では災害を第一にデザインすべきと思いました。
この家は愛情がもてるのですが、危険なのです。
クレームミニリホームは3年間でつぎはぎだらけに作品を変えました。
アフターの人は、建て替えるべきと言う視点で、誠意がありません。
今まで住まずに維持してきた長い年月を思うと70才半ばに、
新築を進めるよりも、
ミサワのプライドにかけて、失敗作の危険な展示物を、
自慢のリホーム展示物にしてはいかがかと思うのですが。
危険さえなくなって、水道さえ解決すれば、この家は住めたのですよね、、、
形はめちゃくちゃなつぎはぎになりましたけど。
こういう家を作ると、ローンだけ払って、住めなくて、
維持費だけが消費者の肩にかかります。
主人が後半外科医として、月給が取れるようになりましたので、
50歳からは、返済がスムーズに行きましたが、
サブプライムローンの、
形の違う落とし穴にならないように、
被災地復興の住宅も、
気候や自然現象に対応した素材とデザインに気お付け無いと、
買ったために、一生、余計な出費と不安にさいなまれることになります。

我が家の、、、裏の、、、ミサワホーム、、、どうしたらよいか、、、今年も考えています。
税金がかかるだけに、70代で、禍根を未来に残したくないですね。

富士登山のバラ、そして樹海

2013-09-18 01:38:45 | Weblog

1994年、昭和大學のイベントに参加するという
「北大薬学部」の植物探索の授業の一環として、
聴講生だった自分も、「富士山の植物と樹海の植物の探索」に
参加する機会がありました。、探索会のレポート書き提出すべく
雑誌の受付印までもらっておいたのですが、とりわけて珍しい発見も無く、
原稿を引き出しに入れっぱなしのまま、
なんと!「19年」の年月が流れていた。
七年後には「東京オリンピック!」
「世界遺産に文化登録されている富士山」

私は、今日は元気でも、明日はもう何が起こるかわからない年齢に達している。

19年前の「世界遺産になる前の富士山の植物」を、
レポートのしたままうずもらせるよりは、
回顧録のつもりで、ここに記しておきます。

昭和大學植物園の先生、北大の薬学部の助手さん、
思い出をありがとうございます。
  
     富士山のバラ、そして樹海

牧野煮日本植物図鑑には「いばら科ー高嶺バラ」
Rosa aciculasis Lindl var.nipponensis Hook.fil と掲載されている。
高さ1-2メートルの落葉潅木であるが、
夏季から秋季に枝端に大きな花を単生する。
その花は4センチほどで淡紅色を呈し、優美である。
それとは対照的に、富士山固有に近い植物の中で、
富士ハタザオ、Arabis serrata
富士オトギリ Hypericum erecutum var.caespitosum 等と並んで
「オオサワトリカブトAconitum ishidzukai らしき
「ホソバトリカブト」によく似た近縁種であろうかと思える植物を
観察した。たとえば、ホソバトリカブトの下面の葉脈の上の毛は曲がるのだが
脈上の毛は開出するので、判別できる。
このトリカブト北大付属植物園や薬草園のトリカブトよりは背丈が高い。
まるで「トリカブト畑のように群生している。
探索会の届けが昭和大學から提出されているからであろうか、
群生する紫の花園より、研究用の一本の採取が許可された。
北大の同行した助手さんに、トリカブトの根やその根にくっついたように
新しいウズという根っこがついている説明を受けた。来年は根っこが枯れて
ウズが次世代のトリカブトとして、発芽するから、10年も経つと、
トリカブトの群生は動物のごとく、這っているかのように移動すると教えられた。

助手さんの実地で鍛え上げられた臨場知識はさすがに深く、
持ち帰った検体の植物は、その後発芽して多くの事を伝えてくれた。
さらに、
昭和大學の植物園の園長先生と農学部と薬学部、学生らのメンバーが
こぞって、青木が原の樹海に「植生の探索に行く」というので、
チャンスを逃がしては、青木が原には個人では無理と思ったので、
参加させていただいた。
樹木の苔むした露出した根っこの上を歩きながら、火山の噴火がもたらした
地底の洞穴に興味を覚えて、コケ植物や、小さなキノコに気をとられて、
ややもすると、はぐれそうになりながら、
マムシ草に結んだ道しるべのリボンを目印にしながら、植物の宝庫の沿道を
ジグザグと歩き続けました。

1994年9月27日から29日までの探索会でしたが、
台風が目の前に迫っており溶岩と泥流に、引っ掻き回されたとおぼしき巨木が
根っこをあらわにしているので、歩くのには厳しいゾーンでもありました。
今、思えば、富士山は世界遺産のうちでも、「文化遺産であると聞いている。」
探索を、もっと大掛かりに緻密に分担して植物のキノコやコケ類地衣類に
更なる発見があって、世界に珍しい蝶や虫が見つかれば「自然遺産」に
登録される可能性もあるのではなかろうか?楓の葉っぱも、札幌の農場試験場の
楓の標本林には見られない「小型のつるりとした、緑一色の、葉内輪楓のような
形の切れ込みの木も眼にしました。はぐれてしまいそうになるので、
ルーペの探索は時間的に出来ませんでした。

スバルラインが通り、行楽の登山客には便利になりましたが、道路が故の
環境破壊、消え行く富士山の界隈の固有の植物群、そして、荒らされた
富士信仰の歴史をしのぶ建物の破壊に、価値観の視点の違う登山客のマナーを
残念に思うのでした。
もの言わぬ植物は、一千年の時間の単位で動きながら、科学の進入道路や
人災の環境破壊を悲しんでいるかのように、植生が途切れているところが
哀しい文化遺産でした。北海道の知床五湖のあたりも、ウッドデッキの行楽客
最優先歩道で、侵略された固有の植物や熊達は
共存できなくなってゆくのだろうか?
そんなことをふと思いながら、台風の接近した土砂降りの雨の富士界隈を
シャツまでグシャグシャに濡れながら富士信仰の名残の神殿の狛犬の下に
もぐりこんで、雨風をしのいだのでした。
台風のニュースの報じられる中、ヒマラヤ登山の体験のある北大の助手さんや
アマゾンからの来日中という客員や植物の実学に強い大学の教官、武田薬品の
薬草園の縁の方、26名のプロ中のプロの中に、運良く大學の聴講生として
参加できたことは、富士山の視点、価値観が世界的に貴重なゾーンであることを
認識させられたのでした。行楽の俗化した破壊をストップさせるべきだと、
学者の先生方は嘆いておられたようでした。
「植生」が語ることは大切だとも言っていました。

右に左に「シラビソ」「コメツガ」が観れたのも5合目まででした。
ミヤマハンノキの下にあるはずの「オニク」も剥ぎ取られた後ばかり。
今振り返ると、青木が原の足元の敷き詰められた苔の海の
30センチはあろうかと思われる敷き詰められた濃い緑の中を松の根っこが
大蛇のようにうねり溶岩が大きな口をあける地底への洞穴はめり込んだ足を
どこまでも沈み込ませる恐怖も感じたのでした。光をさえぎり、苔をはぐくみ
乾いた溶岩台地を湿度で飽和させ雨水を逃がさない。本来なら、砂漠のような
溶岩台地に、樹木と苔が助け合って、一大樹海を作り上げ、大自然の知恵は
樹海の海溝の中に人々を招きいれて、神々しくも森の精のベールのような
風の感触で水中の如く透明な感動で包んでくる。油断していると苔の割れ目の
地底に続く大小の奈落の迫に落ちてしまう。石を投げ入れると、しばらくして
はるか遠くから地底の返事が帰ってきた。好奇心も手伝って、安全そうな広い口の
地底への洞穴に降りてみた。ひんやりと冷たく止まったままの風の中で
魚になったような、浮遊感の伴った非現実感の心地よさがあった。一歩間違って
自分に酔っていると、同じところをぐるぐる廻っていそうな不思議の中で
「カニコウモリ」「ツバメオモト」「シラビソ」「アカマツ」「シラカンバ」を
目印に、真っ赤なテンナンショウの実を目印に、皆と合流できました。
富士も樹海も。あまりにもスケールの大きな
「大自然と人間の文化の共存共栄」の未来への問題を抱えているだけに
レポートの掲載は控えてしまいました。之を提出する前に確かめたいことが
いくつか出てきてしまい、入笠山、霧が峰、白山 三つ峠山 鉢伏山 志賀高原
雲仙岳、吉野山 高野山 等を友人と登り、富士山の固有な蝶や植物虫達の
特定を出来ないものか、歩き回りました。

白山などは、実に植物が楽しめて、高山の蝶や虫やキノコや、苔も多く
自然の素晴らしさを体感するにつけ、富士山のレポートは、とうとう、、、
19年間も眠ったまま、世界遺産になった富士山に、
祈る思いで捧げる文になりました。

美しい富士山の界隈に「文化遺産」「自然遺産」の共存を願うものであると。
安易な自然破壊は「山が許すはずはありません。」

肩寄せて 富士の樹海を潜り抜け 仰ぎ見る山 台風の中

世界遺産という「台風」よ、、、

         富士の高嶺に

               心して吹け


                      Kiko 2013

Tokyou!

2013-09-11 01:50:13 | Weblog
7年後のオリンピックはTokyouに決定!

とうとう寝ないで、決定の一瞬をTVで観ることが出来ました。

日本の洗練された、スピーキングは、

神々しくもあり、感動もあり、

それぞれのお立場で、全世界に響いたスピーキングでした。

日本の被災からの復興と希望が、
スポーツによって支えられた体験を
感謝として述べられた時

美しいということは、

この一瞬の映像でもありました。

日本の女性の強靭な精神力に圧倒される感動が伝わってきました。

スポーツの祭典を日本でと願う心のオーケストラーのようでした。

「Toukyou 」と、カードが提示され、

クライマックスの感動でした。

77歳まで生きて、オリンピックを観る事にしました。

日本は、充実期に向かっていきますね!

うれしいです!、、、

オリンピックが「Tokyou」にやってきます!

「ようこそ、、、世界の皆様!」

復興の「力の源の元気」を
日本に運んでくれたのは

「大人になれた日本」の
積み重ねられた総合力が
とうとう華開く約束の日を
世界から認められたのですね!

明日から、一日、又 一日と
tokyouオリンピックが、近づいて
「もう一度、日本を取り戻すチャンス」が

やってくるのです。

私はそのときは77歳ですが、
生きて観戦することを願っています。
神様!、、、オリンピックをもう一度観るまでは、

どうか、、、生きていられますように!













老人と海

2013-09-04 07:53:18 | Weblog

 私は、僕は、俺は、、、若いという気持ち
 
 老人は若き日の連続で、、、当たり前のように

 漁に出かけました。

 若き日の連続で、大きな魚を捕り、

 老人の体の一部のボートに、獲得の感動と獲物を

 しっかり、、、くくりつけて、港に戻ってきました。

 若き日と違うのは、、、港に着いたときは

 老人の努力の賜物の、「感動と獲物」は

 老人ごと「獲物」と狙う大海原の悪魔の使いの刺客によって

 港に着いたときは、、、骨だけでした。

 「ヘミングウェイ」さんには、嘆かわしい読者の私ですが、

 子供の頃に見た「映画のシーン」が、映像文化となって

 私の人生観に付きまとったシーンです。

 でも、、、きっと老人は、「獲物をしとめた瞬間」が総てであったから

 人のものを横取りするシステムの敵には、、、無感動に

 夕日の美しさだけが、、、目に沁みていたでしょう、、、きっと。

      
   海には、、、魔物ばかりが住んではいません。

 「日本丸」という、

 誰もが大好きになるでしょう「レディ」の魅力の微笑みにに負けて

 利尻、羅臼、知床を4日間で、遅すぎる夏休みを楽しんできました。

 費用???、、、そんな、、、ヤボナ、、、10万とちょっと。


 本州の台風の海と比べれば、

 北の海は、少々波が荒いかな?、、、という

 スリルと、好奇心の出向でした。

 多くの専門家の知恵と、歴史と、世界の港を巡るスケールは

 10万前後の費用でのツアーは、「渡りに船」そのもののようです。

 人生の仕事をやり終えたと思われるご老人達に混じって、

 何十年もの間、

 一度は乗ってみたいと思っていた「日本丸」!

 40年以上過ごした、『第2の故郷「北海道」を』

 大海原の波の向こうから、

 今日こそ、心往くまで見つめたのでした。

 日本海の水位が高いからでしょうか?
 
 それとも、
 
 海流の交差する温度差などのもたらす風のせいでしょうか?

 幾度となく、波しぶきを3階のデッキあたりまで掻き分け

 風速16メーター前後の風が

 「北海道だーゾー、、、、オホーツク海だゾー」と

 潮がもがリ笛を吹き続ける9月でした。

  
 真夜中の「宗谷の岬の灯台が神の光のように大きく見えました。」

 誰もいないデッキに出て船に打ち付ける白い波しぶきを眺めていた。

 空が荒れ、海が荒れているわりには、何とかデッキにしがみついて

 千鳥足で甲板を歩けるのは、、、すごい安定感だ。

 明治の時代に27歳で「サンフランシスコ」に往くために

 3ヶ月かかって、太平洋を横断した祖父が、

 嵐の日に、体をマストに縛り付けて、祈ったと

 恐怖の渡航を、孫の私に話してくれたときの

 波しぶきのような迫力が、目に浮かび

 良い時代が来たものだと思った。

 日本丸には、ショウーや
       カジノや
       ビンゴや

       マージャンや
       図書館や
       大浴場もあり

 船が面白くって、船そのものを探検しているうちに

 時間は飛んだ。

 船のイベントで、おとなしくショウだけは拝見したが、

 それ以外は、海の変わる景色ばかりを観ていた。

 北海道を、外の視点から眺めると、自然そのものですね、、、!

 世界遺産になった理由がわかるような、

 ダイナミックな自然ですよね!。

 ブルジアレベルのキャビンは上のほうにあり

 私のキャビンは3階なので、

 豪華なドレスのご婦人とすれ違うことも無く

 のびのびと、カジュアルスタイルで、
 リラックスな、マイペースの時間を過ごせた

 このまま、
 
 アラスカとか、北極に行けたら

 どんなに素晴らしい人生の優秀の思いを抱いて、

 地球から旅立てるだろうか?!

 欲望の悪魔にせっかくゲットした、心の幸せを骨にされては大変です!

 利尻島めぐり、羅臼、、知床の、、、北海道の心の魚をしっかりと護り、

 孫子の待つ札幌へ「心の獲物を分けて、食卓を囲まなくっちゃ!」

 夢は夢!、、、足ることを知らねば、、、ばちが当たるほど

 満足感のある、優雅な船、「日本丸体験、60代最後の旅」でした。

 
 ************

 豪華客船ごと、介護施設のユートピアの船が出来たら、

 世の中のビップなご老人は、、、

「芭蕉になれますね!」

 
 船に乗って、、、夢は星の海を、、、駆け巡る

                    
                 商品になった人生か?
                 芭蕉になれた人生か、、、
                 君しだいである、、、、、

            そんな声が、、、波間から聴こえてきた旅であった。                               
                 

60代最後の秋に利尻に行ってきました。

2013-09-03 00:41:00 | Weblog
北国の小さな島には、ハマナシの実がオレンジ色に輝いていました。

こんな遠くに「小泉元首相もいらっしゃった写真が、
お土産に飾ってありました。

港に着くと。たるの太鼓の音が、威勢良く迎えてくれて、旅の一行は
微笑み返しのうれしさでした。

なんとなく島の景色を撮ろうとシャッターを押すと、
阿部首相の「日本を取り戻す」というパネルが写っていました。

地の果てに来たつもりでしたが、

ここは日本のど真ん中でもあると思いました。

初めての利尻島!、、、風と雨に会いました。

いつか、晴れの日に、もう一度来たいと、、、

見えなかった利尻富士に、、、さようならをしてきました。

北海道は、不思議な日本のど真ん中でした。