花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

北海道新聞の8月28日、本と旅する、、、関寛斎先生に思う

2016-08-29 03:48:34 | Weblog

北海道新聞は、大きな意味で、北海道に住む者の「回覧板」のように
日常の、手に届く記事が、、、嬉しい、

平成15年頃の夏、私は陸別の駅の上の宿泊所に泊まっていた。階下には

関寛斎先生のミュージアムがあり、先生の、たぐいまれな精神力で、

人生を貫かれた足跡に興味を持ったからでした。

その時、ミュージアムで「関寛斎」「北海道陸別町関寛斎資料館」と印刷された

陸別教育委員会の編集した資料の集積の一冊を見つけた。

藍染の格子模様の表紙の本を3冊買ってきた。陸別の駅の宿泊所で朝まで読みふけり

翌朝から、一人で、町と言うか、、村と言うか、、歩き回り、足跡を体感していた。

名前は、、、忘れてしまったが「喫茶店」に入って、仮眠をとっていると、其処の主が

色々と話しかけてきた。話しているうちに、関寛斎先生の話題になり、まるで、当時を

忍ばせるほどに、リアルに空気を再現させ、前のめりに、木彫りの彫刻など持ってきて

先代がもらったものであることを話しながら、およそ200年前の事を、昨日のように

再現して、さながら講談の酔いに、私はのめりこんで頷いて聞いていた。

店主は、私の応答が気に入ったのかどうか、店を放り出して、陸別をあんないしてくれた。

小山の下まで来たとき、「この上に、関先生の碑があるから、お参りしよう」と言って

階段を一緒に登った。関先生の素朴で、自然体の足跡のように、「開拓の戦争」のような

時代を控え、身を引きしまられた翁の魂が、北海道の空を見つめているかのように

一本の記念の碑が立っていた、徳富蘆花が、かってこの地を訪れて、徳富蘇峰題額による

貴重な国の指定遺跡であると、喫茶店の主は言っていた。帰札してから。

資料を読んでいると37ページに、ユクエピラチャン跡と記載されていた。

喫茶店の主は、資料館に案内してくれた、陸別町史の分厚い本がずらりと並び、

私は、天保年間の一冊を借りて、読んだ。帰りがけに、資料館の館長さんが、

寛斎先生の、奥様が、黄八丈の着物をほどいて、

寛斎先生の日記帳のような本の表紙のカバーにつくり変えられていた実物を

手に取らしてくれました。

奥様の、先生を影から支えられた、並々ならない、、愛情と、戦友にも思える

北国での精神の緊張が伝わってまいったのを、、、鮮明に覚えています。

陸別駅に連泊しながら、心行くまで、開拓の始まりのころを感じていました。

陸別町史を読みふけり、北海道が、他の県と違う空とのつながり、

宇宙とのつながり、大自然の端末機かのような、見えない空気の道が、

四方八方から、情報を伝えてきました。

ヤフーで徳富健次郎 「ミミズのたはごと」と入力すると、

カーソルを、半分まで下ろしてきた時点で、関寛斎が、医師として、御殿医師として

蜂須賀で教授をしていたころまでの

知人の子供と、偶然か、必然化、寛斎先生は知っていて近づかれたのか、、、

奇遇な出会いから、陸別での、日常生活が描かれています。

中でもショックなのは、アイヌさんを診療していて、知り合いのように

心通わせている会話が記述されていますが、心無い日本人が、

狩猟に必須なアイヌさんの鉄砲を盗んでしまうくだりです。涙が出ました。

***************

かって、私は、医薬史学会の会員だったことがあります。育児の最後の仕上げの

40代頃から、授業料に追いかけられて、現役の病院薬剤師に復帰したころです。

家庭を振り返る暇はなくなり、金魚鉢は苔で中の魚が見えなくなっていました。

休みあるごとに、一人旅をしました。

日本の、忍者村の薬研や、秘薬、高野山の陀羅尼錠剤はたまた、引き起こしの

植物の、由来とか,カワミドリと言う植物は、中国内と、日本では

別の物だったことや、西安から、ゴビ砂漠に向かって、バスで5時間ぐらいの所で、

虎を診療して、トゲを抜いてやり、感謝した虎が、

この医師の薬草園を守ったという逸話のある村に行ったとき、

貝原謁見の養生集のもととなった本に出逢ったり、ジオウと言う生薬が、

西暦500年頃からのまま、保存されていたのを見せていただいた。

ほうれんそうのような根っこであり、現在のいものような塊根はついていない。

歴史の中の生薬を追っているうちに、迫害されたネストリウス派の信者の中に

医師が居て、蒙古にたどり着き、ジンギスカンの夫人に保護されて、

やがて、南下して、日本に羊とともにわたって来たとか、、、

いろいろの歴史を

紹介された、

岐阜県や滋賀県、、長野県にも、面白い歴史が山のように残っていた。

長野県では、朝鮮ニンジンが栽培されて、朝鮮に逆輸入された足跡もあった。

四国や、紀伊半島を皮切りに、神社や。教会の生薬、そして

正倉院の生薬や、医療器具に相当する歴史に、、興味を持ち、鑑真和尚の足跡を

求めているうち、偶然にも、西安の塀の上の唐招提寺とうり二つの寺に出逢ったり

中国4大中医学院の交換交流のゼミに、集積出来たり、導かれて、医薬史の世界に

はまり込んでいた時期がありました。

おりから、北海道にも、医薬史学会が発足して、薬剤師会と医師会の先生方の

合同の、学会が発足しました。

その頃、私は、学会をやめて、自分勝手に旅をして、時分だけの世界で

歴史の雄弁な、嘘やアピールのない、無言の空気が伝えてくることを

全身で、イメージで感じれば、満足と言う、老境の心になっていました。

****************

歴史を訪ねて歩くとき、寛斎の奥さんの残した、

黄八丈の本のカバーが

無言の涙の忍耐をされたであろう当時の夫人の心を伝えてくる

学会以上の大切な、歴史との対面に思えたのでした。

文にも、本にも残らに様な足跡が、この年になると、

万感の想いで、かみしめる心の存在を自覚するのです。

陸別での思い出の写真の一部は、

東京大学の教授をされていらした、S先生にCDに編集して

一部をお送りしました。

先生は、丁寧なお礼のお葉書を下さいました。

私のような、家事に閉じ込められてしまうような、

愚かなものに、医薬の歴史を楽しむことを教えて下さった先生に

感謝を表すことは、難しいのですが、。。。

たった、一枚の「北海道新聞」の記事が、

忘れていた十数年の歴史の旅を思い出させてくれました。

、、、朝になっちゃったよ、、、

私の日記は、ここら辺で、、、、又、、、明日。






花火

2016-08-28 01:55:05 | Weblog

今日の夜は、

部屋の電気を消して、

秋田の花火を、堪能しました。

一瞬の宝石の光が夜空を眩しくする、、、光の銀河の誕生です。

一度は現場に行って楽しみたいと、

毎年思いながらも、

粋な生き方のできなかった70年間

NHKのTVが、、、連れて行ってくれたのでした。

解説が無いのもいい、、、

浴衣の女性と、

浴衣の男性が、、、

時折、、花火のあがる合間に

自然体のお喋りのテンポで

ポツンと解説が入り、

視覚と、音楽と視聴者のイマジネイションを大切に

空気をそのまま堪能させてくれた放映は
素晴らしい夜を

茶の間に届けてくれました。

幸せなんて、、、

こんなところに、、、あるんですねェ~



東京に帰る日は来るでしょうか?

2016-08-25 02:59:21 | Weblog


結婚前の本籍は市谷にありました。

菩提寺は中野にある宝仙寺です。

父は、お爺ちゃんの事をとても尊敬していました。

おじいちゃんは

剣道が5段で、厳しい人でした。

長男である父の名前も

国歌の歌詞の中から、

さざれ石の、、、と言う流れの中から

巌とつけたそうです。

今は文人通りの高級マンション街になっておりますが

男3人、女2人の5人兄弟姉妹でした。

早稲田中学を出て、慈恵会医科大学の2年生に

飛び級で入れた時代が有ったそうです。

弟にあたる、二男は

自分でも、、、とてもかなわないと思える

秀才だったそうです。。。が。。。高校生の時、、

已む無い運命で早逝して、父は、
生涯忘れることのできない

愛との別れだったそうです。

三男の弟は10歳も違っていたせいか、

この子を守らねば、、、兄としては使命であると

何かにつけて、親のような気持ちで

弟を見守ったそうです。

関東大震災で、東京は焼け野原になったそうです。

小さかった弟をおぶって、避難したそうです。

その時、弟は、
兄である私の父の肩に、咬みついていたため

父の肩には「歯型」の痣が出来ていました。

その後父も三男の弟も戦争で、大陸に渡りました。

漢方医学に似ている仁川近くの大学病院に

銃創や、切り傷、切断手術、、国家の仕事で

戦場の野戦病院で働ける外科医の養成に従事したそうです。

滅菌感覚のない東洋の医師達。

慈恵会か大学で「イギリス医学」の
外科を習得していた父は、

戦争が始まると、従軍している日本兵の
銃後の守りの「医療」に従事しました。

現地での新聞記事の切り抜きを
母は亡くなるまで大切に保存していました。

白黒のニュウス写真の父が

長い顎鬚と、鼻髭の中で、手術に成功した事が
大々的に報道されていました。

I.M、博士の指導手術、、、

当時、仁川あたりの病院では

外科の医局もなかったようですね。
滅菌と言う概念のない現地の医師に

西洋医学の外科手術を指導知るのは
並大抵の忍耐ではできなかったそうでありました。

お爺ちゃんと言う方は

戦争前の厳格な国家公務員のような存在であると
想像しているのですが、

実際のところ?

宮内庁に勤めていたことしか
私は、知らないという、、幼い時代の記憶です。

父は、東大に入学して、国家の為に役割を担うか!

外科医になって、富国強兵の時代の

太ればよいと、、考えていた時代の
銃後の守りに徹するか

お爺ちゃんからは
二択しか無い命令で、外科医になったそうです。

後日、、、私は、慈恵会医科大学の

高木先生が留学していたという

イギリスの病院を見学してきました。

ついでに、フランスの病院、等も、、

十数件の医療事情を事細かに
病院主宰のゼミに出席しながら

西洋医学の医療とは何か?

感動する歴史が現在になお、、引き継がれているのを

見学できたことは、

一重に、東京大学教授でいらした

医薬史学会を主催されていた先生の引率によるおかげでした。

その後先生方は、数回にわたり
ヨーロッパの医薬事情を研究され

学会誌が、貴重な記事で、輝いていました。

私のような、父の時代を知りたいという者には
読み応えのある報告が思い出されます、。

父の卒業した慈恵医科大学の創始者の
高木先生は、

軍艦一隻の乗組員が、
長きにわたって、ビタミンの不足に陥り

脚気を発病することを突き止めた
軍艦実験室?とみなした、斬新な視点で有名です。

世に言う「脚気の原因をめぐっての、医学戦争?」ですよね。

森鴎外の作品は皆も教科書でも学んだと記憶にあると思いますが。

現在の、週刊誌の、
書き散らかしの医療に関する記事には
言う言葉もありませんが、

父の時代から、今なお、、、医師になった息子の時代にいたるまで

私は、医師の父、医師の兄と、医師の弟、

不本意ではありましたが

50歳近くまで、大学勤務の医師の夫と結婚したため、

付録とみなされる、裏方の家事をしながらの
転勤生活や、単身赴任や、
医局優先の家庭のすべてを任された、
終わりなき家事と
サポートを余儀なくさせられる
勤務医の裏方の実態に、
駆けずり回りながらも、
医療しか見ない医師の夫を
家庭に入院している患者さんのケアと
割り切りました。


薬剤師としての社会参加は、
断腸の想いで
退職、就職、北大聴講生、医薬史学会、
東洋医学学会、生薬学会と、

薬剤師としての仕事のための実力維持のための
ギリギリの活動に、あとは生涯学習に費やしました。
単身赴任んの時とか、
医療機械と実験室の薬品の問屋に
常勤管理者として勤めたこともありました。

子供の進学の授業料必要な時期とか、

主人の実家の実家の両親が終活に入って
亡くなる前の、痴呆状態の施設生活が始まった時とか、
マイナス家計の時は病院の調剤室で薬剤師業務に従事しました。

主人が、OKをする以外は
自宅で主婦業に従事しました。

現役の薬剤師だったころに
医薬史学会に入会しました。

パスツール研究所は、
日大時代の生薬学の女性の教授が研究をされていたところなので、

フランスの学会の時は、見学に行きました。
小学校で習った、菌の入りにくいツル首の容器など、

旧き良き時代の、実験器具が、

機器分析時代の今日のボタンの代わりに

科学の原理を視覚からアピールしてきておりました。

*******************************

何故、、、このような記事を日記に記す気持ちになったか!

一生県警、医薬の発達に心血を注いできた

身近な真摯な医師である家族の生涯と同居してきている私にとって。

医療人の不屈の苦行にも似た、ひたむきな努力を

舞台裏から観てきました。

医薬史学会で、ヨーロッパ、中国の四代中医学院ゼミなど

各国では、日進月歩の医学の進歩を

アナログの時代からの足跡を歴史観として、

又、ミュージアムとして、

今日に至るプロセスが保存されていることに驚かされました。

実に、敬虔な謙虚な視点で、医療人の医療魂を

第三の視点が保存して、命の宇宙の量子力学のように

消滅と誕生を同時に表現するmcの複雑な硬式を

観ればわかる形で、
未来に放たれてゆく志のある若き者達の
「魂を失わせない」

道しるべになっている。
視覚の次元の伝達になっている。

北海道は大自然が、、実に本物中の本物日本です。
歴史は、微妙です。

否応なしに残ってゆく足跡と、

北海道の歴史を、西部開拓史のように

時代や政治や、時の勢力で
色が付けられて生まれ変わってゆくものなど。。。


北海道では、
50年続いた本州の医薬史学会も、
温故知新の叫びも

津軽海峡で、
北海道丸に乗せてもらえないという事です。

本州の教育で物事を考えてしまう私にとって、

歴史は雄弁だから
その、、ジャンルの人々の残したものから

医療にかかわるものの、
第4象現の伝達してくる「魂」に触れたいと思うのです。

新兵器の実験器具や、
データーの累積する科学の貴重さはわかりますが、

合理的な人工知能のデーターが示す優劣で

医師は決まられない、、、聖域に「魂」を感じるのです。

科学の果ての心のような宗教のような、、

大切にしなければならない、、、何かです。

専門家集団の、オキュペイションした立場から出ないと

参加した資料も、個人研究として、年表にして
御誘い下された東大教授のS先生に
感謝のデーターの一部として使っていただきたく
お送りしておきました。

後日、、、一緒に研究して、発表してみませんか?
と、、、

畏れ多い、お手紙をいただきましたが、

私のように、家事と、薬剤師の臨床を

行ったり来たりしている者が

お邪魔できるところではないので、

ありがたいことですが、、、お答えできませんでした。

夫が、北大の医局長の時代に

医局のイベントで

アメリカ全土の病院見学のイベントに

参加した時の写真を整理していると、

歴史色の濃いヨーロッパの、500年続く病院や、

教会と合同の敷地内の精神病院などの現状とは

一味違った

ピューリタンと、法律と、記念の石に
全てが集約されているかのような

ある病院の「院長の胸像写真の額縁」が

病院創設時代からの十数枚が掲げられた院長室とか

街の全体が病院と
その病院群を支える会社や人々で出来ている

病院を城に例えるのなら
さながら城下町と言えそうな写真もある。

弟は「メイョ―クリニック」の

医師として赴任していた時、
兄の内科医は

アメリカ学会の学会場で
弟と出逢う事に
まるで、、兄弟のロマンでも感じているかのように

奥さんを置いて、、、単身アメリカに飛んで行った事があった。

医師は、、、確かに少しばかり高給取りかもしれない。

アメリカの、国際人の医師達は
桁違いの財力で
日新月歩の世界の医学を引っ張ってゆくのが見える。

日本の医師は、それと比べると、
わずかばかりの給料で

胃腸や肝臓や、画像診断も
負けないジャンルがいっぱいあるという。

オリンピックの体操だって、
ミクロの差を、闘って金メダルをゲットしている。

帰国した航平さんは

応援ありがとうございます。と。

日本の医師は
オリンピックのように
強い相手と戦っていると、、

私は、、実の所、涙が出るほど感じている。

しかし、、アンひとたちゃよかしゅ、、、

白鳥の、足の動きを感じる人はまれである。

日本の医師の家族は、

付録のように、扱われることも多いかもしれない。

医師のビジョンを大切に育ててゆくなら、

人間の命の尊さも、
別の角度から、社会は認識して、

老人施設の大量の悲劇なども
事前にくいとめることのできる
命の意味、生きてることの意味

それを支える心は「奉仕」

創造主への畏敬の前に
床をなめて、担当することを認めてもらえる心の修行を約束しないと、

介護のテクニックの取得だけで
経済的な事や、老人政治が先行すると、

魂が置き去りにされた、合理人間の集団が

未来の我らの老後を脅かす

老後処理の合理化工場になってしまいそうで、、、怖い。

医薬史の研究は、個人的に、生涯続け、

医師の、ビジョンを大切にすることが

結局は、患者様を守ることになると思うのですよ。

パパラッチ精神で

週刊誌が、医療をデーターで、、しかも一部の偏ったデーターで

機械的考察で人工知能的記事を書いていると、

哀しからずや、、、道を説く記事

古池にカエルが、度本と飛び込んだ!
之は、カルが大きかったからだ、、、なんて、。。

医師の家内の位置から
医師を観ていると、

一番、、命を懸けて精進してきた
本人が、無意識に感じてきた事が

医師であり続ける総合的な人間を見続けてきた魂が

医療と言う現場では、カースト的にピラミッドにすると、

心、愛、医師でありるづける魂のようなものは

一番底辺に評価されるか、

週刊誌の記者には
完治能力に欠けるか、、、

記事の為の医療感であると思えました。

薬剤師の立場から言えば、

小青竜湯も、アレルゲンも
べりチームも。使い方次第で

薬は、、、凄いなーと、、、思っています。

お父さん、、、

9月は、母の法事ですが、、

足場の自宅マンションを手放しましたので、

熱中症になりそうな東京の9月に行く元気は出てきません。

秋になって、涼しくなってから、

一人で、、お墓詣りに行くことにします。

お父さん、、、お母さん、、、おやすみなさい。










オリンピックの閉会式の花

2016-08-23 06:10:01 | Weblog

碧多い情熱の国 ブラジルの人々の
自然との共存のリズムが伝わってきた

素晴らしい
地球上の生き物の中でも
洗練されて進化してゆく
オリンピックは

人体の美しさを
堪能させてくれました、

ドーピングを排除して
本来の国力が
メダルに反映されたことも

リオのオリンピックの素晴らしい自然体でした。

日本に引き継がれる見事な会場の日の丸の

心が、情熱の国から

富士山の美しさに切り替わり

わくわくしながら

サイバー空間の立体画面の東京に
宝石の鋭い硬質な輝きを感じました。

去年までは、東京のど真ん中の文教区に

20年以上住んだ自宅マンションがありました。

あの東京の夜景の宝石の一つが

私も、、、持っていたのだと思うと、、

もう一度、東京に戻って

オリンピックを観たいと、、、願います。

オリンピックの旗を受け取る、着物姿の小池さんも

会場のアートの作品の一部のように

日本を姿形で表現できたことは

素晴らしいことだと思いました。

阿部さん、水泳の北島さん 小池さん、、、

オリンピックの会場には

美男 美女の日本が

世界の接待に

効果抜群の、、体操日本でしたね!

こうなったら、、日本は、、東京は

小池さんを四方八方、水面下 空からと

上手にサポートして、

表現なら プロ中のプロのキャスターさんなのだから、

東京オリンピックの成功に

的を絞っていただく「都知事になってください。」

世界の中で、美しい地球を表現して

戦争の、何も生み出さない戦いを

馬鹿らしい次元の行動であることを

オリンピックの大成功を通して

世界が平和のイベントに

人間の進化と美の力と、感動と友情は

戦争のマイナスとは、
比較にならない平和な
未来を築く、、、ことを

文化の未発達な国に参加していただく事で

イデオロギーや宗教の違いを

人間が持つ本来の努力の結果の競い合いで

美しく、感動的に決着をつけるという

素手の競い合いで

平和は取り戻せるのではなかろうか?

寝てるのか、、、起きているのか、、、
自分でも「夜行動物」になっている自覚がある日々を

目をこすりながら振り返り、

オリンピックの素晴らしさを讃えます。

生きている!!!、、て、、感じましたよ



女性の可能性の限界は?

2016-08-20 23:54:10 | Weblog
棒高跳び、マラソン、レスリング、水泳、等々、、、きりがありません。

高島田、着物、帯、草履、、、30センチの溝も
男性の手をかりて、よいしょと。。。飛び越えていた時代もあった。

レスリングで、3回もメダルを取り、4回目が、銀メダルの、、エース!

後輩を育て、女子レスリングの戦闘を、タックルで技を見せてくれて

女性の素早さに驚かされたものでした。

33歳と言うと、レスリングでオリンピックに出ること自体

日本の女性の、「動きの進化」に驚かされます。

棒高跳びは、日本女性は、これから進化する分野でしょうけど、

5メートル近い、、、バー、、、に

向かってゆく「気合」「勇気」「度胸」には、

あっけにとられています。

シンクロの女性の皆は、、、なんで???
20秒間も、運動しながら、潜っていられるのでしょうね?

人魚姫たちの、見事な水サバキに

見とれていました。

TVの解説が、音楽の効果を、今でなくてもよい説明で

多少、画面効果がある分、間合いを考えて

自己の、感情の、良いですねーとか、

審査員の前を行く説明が、ビデオの段階に入ると良いのにと思いました。

ここまで、日本のシンクロが美しく見事になった今は

音楽に合わせて水しぶきの中の動きを次元高く
TVで、拝見してから、

ビデオになった段階で

説明や感情の言葉が多くても、
ありがたく拝聴できると思いますが、

点数が入る、前の、演技の真っ最中は

高級レストランの、バック音楽のようなつもりで

演技に吸い込まれる視聴者を、そーと見守ってほしいと思いました。

老婆心ながら、演技中は音を7にしてTVを観ていました。

日本のシンクロも、、、凄い進化ですね!

小谷さんの時から見ていますよ。

水と、女性、、、特別な相性の良さが、素敵です。

ここで、、、男性も「銀色!」輝かせたリレー!!!

凄い見応えでしたよ!

日本の選手の皆さん、、、最高の夏をありがとう!

今夜も体操、卓球、シンクロ、、夜更かしの夏

2016-08-17 05:30:15 | Weblog

加藤選手、、、平行棒、よかった!

       東京オリンピックが、、、楽しみです。

銅メダルの新技、、、凄いと思いましたが、
若い未来が大きい選手だけに、、

東京オリンピックの時は
研究されて、、、
強敵を磋だててしまいそうね、、、・

女子体操の、、、アメリカの選手のような、
圧倒する強さの選手の前には
日本の女子体操選手は、

参加したことに、大きな未来への貢献が有ったと

種がまかれた

卓球の愛ちゃん、、、
小さい時からいつも観ていましたが、、、

大人になっても、、、愛ちゃんの
トレードマークの「泣き虫(^^mは

今回も。抱きしめたくなりました。

皆、めだるの事で頭いっぱいのようですが、

名場面には、メダルはあまりこだわりませんよ。

どんなドラマよりも、凄いドラマの

オリンピックですね!

お盆の家族、親せきが集まると、、、こんな、、、話になる事も、、、

2016-08-15 01:55:23 | Weblog



近くの公園からは

盆踊りの歌がが聴こえています。

家族で故郷の実家に孫を連れて、
毎年、恒例の花火見物を楽しんでくるお嫁さん。

今年は、道路が混む前にと

一足先に70キロで高速を走って返ってきました。

お盆の休みの日曜日を
私たちにも

孫たちと、盛り上げてくれました。

昨日、孫たちが、帰ってきたら食べようと思って

北海道産の、美味なるトウキビを買っておいたのが

どんぴしゃで、お盆の日曜日の

親子孫たちのテーブルを盛り上げてくれました。

オリンピックで延期になっていた誕生日のケーキと

ジュースと、夏バテと、オリンピックの

女子マラソンの、TVの画面。

寝てるんだか、起きているんだかわからない日々が

今年の「お盆でした。」

10年以上も、帰ってこない、救急病院勤務の二男から、

ママのメールの答えの代わりに

近況報告の電話がかかってきた。

仕事に、生きがいを感じているのか、、、

40過ぎても、結婚の相手は居ない。

お盆休みに、来年は、彼女を見せてくださいと言うと、

仕事上の認定の幅が、広がったと、

もう一つの認定の仕事を、話してくれた。

聖書に出てくる医師も、

40歳過ぎてから、結婚しているから

心配しないことにした。

弘法大師も昔でいえば医師でもあった。

人生の荒波を祈りで退けて

今なお、多くの人々の

心の旅に同行していなさる。

病気の人に寄り添う仕事の医療に捧げた人生で

デートのできる学生時代にでも

ゴールインしないと、

彼女と付き合う時間を確保する権利が時の運になるから

約束が出来ない。、

患者さんが

救急に運ばれてくる以上

仕事が最優先なのは、当然である。

あと、一か月で42歳になる。

気持ちは30才の覇気がある。

しかし、、肉体年齢は40歳である以上、

何とかしなければ、、、と

母親の私の方が焦る。

家も、車も、家具もすべて

彼女が、見つかってから、二人で相談して買うという。

どんな相手と出逢うかわからないのに、

趣味もわからないうちに、買う気もしないと、

病院の寮に入っている。

今まで勉強していたから、

これから、お金も貯めるつもりという。

日進月歩の医学の世界で、

十年以上は今の実力でも仕事はばっちりだという。

仕事しながら、勉強を続けるから、

僕を通して、病気の人に貢献していると感じてくれる女性が良いな、、、。

、、、という事は、、、

家庭サービスを、二の次にするという事になる。

女性は、自分にとって都合の良い人であることを
要求する人が多いでしょう?

、、、もう、、、72歳の母親の私には

出雲の神様に「ご縁」をお願いするしかありません。

これから医師になろうとする学生さんに伝えたい。

結婚相手は、暇を手中に握っている学生時代に見つけなさいと、、、

いったん医師の免許を取得してしまうと、

全ての自由時間は消えてしまうようですよ。

仕事には、充実した生きがいで、頑張らねばならない事が

日々新たに表れて、

気が付いたときには40歳前後になっていて、

気持ちの若さだけは昔のままのようだすよ。(**!

今年のお盆も、二男とは、、、電話とメールで過ぎてゆきます。

ご先祖様、お父さん、お母さん、

貴方の孫を、見守ってあげてくださいね。
ひととおり、勉強は一段落したから、

結婚資金は貯めることが出来るよ、、、

何年、、同じことをいっているのでしょうか?
結婚して、奥さんの腕によって
貯金も、家も建つのですから、

三年のうちに、
結婚相手を見つけないと、
ローンは20年も続くのですから、
体力任せの65歳までに、

ローンを終わらせて、
後は、老後の事を考えなくちゃね、、、。

「お金のないのは、首が無いのと同じだと、、、」

そのような、、、ひどいことを言う女性は

天国には居ないでしょうから。

美保の松原の天女のような

つくしてくれる女性が現れることは、、、

今の時代に、望む方が無理と言うものでしょうね。

行列式を解くより、、、公式の多い思考過程では

結婚の答えは出ません。

何も考えてない、、、息子が、

案外、、、天の御加護のおかげで
良き女性と、出会い、

そのうち、、、孫を見せてくれる日が来るのかもしれません。

もう、、、外野の72歳のばあ婆ちゃんの私は

待つことの上手なお母さんで居ることにしましょう。

お手伝いすることが出来たら、
北海道新幹線に乗って、夜行で向かい、早朝そちらに着きますよ。

お盆になると、親戚が集まるから、、

こんな話になりました。





今、体操を観ています。

2016-08-11 06:29:09 | Weblog


体操を観ていると、

全ての音が邪魔になるから不思議です。

消音にして、

「今」でなればならない音を

息の音だけにして

見つめていると

順位にこだわる説明は騒音に思えてくるから不思議です。


{ごめんねアナウンサーさん!

他の人は、こんなこと感じてないからネ!}


魂の集中が描く曲線に

吸い込まれている、

日本の内村選手、

加藤選手、

今という、陰陽の世界を創り

万感の想いで

このひと時を、

自分の最高の時間として、

芸術してしまった。

この、時間という作品のような芸術の瞬間の為には

加藤選手という

クールなまでに静止した

不思議な落下が

凄い陰で

内村さんの、、鉄棒を

全身全霊で凝視させる、、、不思議な

相乗効果が、

私という、70過ぎた、お婆ちゃんの

不思議な心で見つめた体操でした。

航平さんは

宇宙の海を泳ぎ切ったね、、

美しい日本の体操! 世界一!!!!!

2016-08-09 06:47:40 | Weblog

美しい!、、、本当に』美しい!

日本のしなやかさ

鋼のような切れ味のある着地

若さこぼれる床運動!、、、

金の輝きの日本の体操!

    素晴らしい、、美しい体操を、、、

              感動で見つめた、、、。

オリンピックは
人間のマキシムの「美」を引き出す

       すごい、、、大会であることを再認識しました。

ありがとう、、、世界一、、素敵な時間でした



今表彰台に上がりました!

日本の体操!

ばんざ~~~~~~い


いよいよオリンピックが始まりますね!

2016-08-05 14:12:08 | Weblog

わくわくしています。

速く家事を終わらせて、TVに座りっぱなしが出来るように、

夕食から、夜食、早朝のサンドイッチも用意して、

日本の選手の素晴らしい活躍を期待しながら、

元気をもらっています。

70年たつと、若者によって、

8月は、元気をもらえる月になりました。

もう過去はふりかえらない!

戦いは、人間の素晴らしい限界の技で、決まります。

平和な、時代の、平和を、満喫できる今日からは、

私は20歳ですよ!


30度、炎天の札幌の通院

2016-08-04 00:31:12 | Weblog

3月に肩が痛くて眠れなくなってから
5か月目に突入しました。

早朝、4時、風呂に入り、
自分で右肩を持ち上げながら
リハビリーの時間を過ごす。

NHKの深夜ラジオの延長で、
早朝のラジオは、味がある。

肩の痛さを意識しないためにも、
全神経を、ラジオに関心をよせて。

横にも上にも、後ろにもイカナクナッタ腕を
根気よくもみほぐして、無理やりに近い状態で

少しづつ動かし続ける日々であった。

リハビリーで
専門家に任せると、早く治ると、

主治医も、夫も言う。

精神力が要りますよ、、
自分で、リハビリーをやるのは、、、

夫は、身近にリハビリーの患者さんが
いつも、頑張っているのを見ているだけに
。。。すごいね、、自分で頑張るなんて、、、と。

あきれている。

炎天下、整形の待合室で

同じ疾患の近所のおばあさんたちが
待合室サロンのように、

うちわでパタパタ、
話が盛り上がっている。

私の名前が呼ばれ、

先生は、ニコニコして、
もう、、肩は、触ってもいたくなくなりましたね!、、と
上機嫌で、自宅リハビリーの成功を、

診とめてくださったようである。

いつものように、湿布薬をいただいて、

之を使い切ったころは感知すると、

予感がしている。

父が外科医で、夫が外科医で
環境が、リハビリーの様子を見なが育った事もあり、

主治医に、やり方のパンフレットで指導を受ければ、

あとは、、、精神力である、

出来るだけ、家事も、庭仕事も、買い物も

病気の前のペースで、2倍の時間をかけても、

ゆっくりと、ノルマをこなす事を
リハビリーに組み込んだ。

右手が効かない。
肩が、背中が、首が、堅い板のようになり

毛細血管の循環障害のように
冷えて、手が重たく、水に浸かっているような

違和感があり、

横になると、激痛が走った。

痛いのは、口をぽかんと開けて逃がしながらも、

熟睡は無理である。

一時間ごとに目が覚めた。

そこで、考えてのが、、、

くたばってしまうまで、

多岐にわたる仕事や、学習をこなし、

気が付くと、
ソファーで2時かぐらい寝てしまっている、、、という

人間は、究極まで疲れると、寝てしまう。。。

この現象をフルに利用した。

かくして、5か月目に入り、

もう、、、大丈夫、、、

あとは、腕が固まらないように、

夏休みの、子供たちのラジオ体操に紛れ込んで

早朝の、自己のリハビリーのあとの整体運動をすればよい。

精神まで、、病人になってしまうと、、、
戦えないだろう。

出来るだけ依存しないで、
人間は、不都合なことと、、、

いかに

同居しながら、、老いを追い出しながら、、

残された人生を、
生きてゆくかは
依存心を
究極まで無くする事かもしれないと
考えている。

憂きことの 尚この上に積もれかし
限りある身の 力試さん、、、

こうした、気迫がわが身に宿っている間は

惚けることはない  

惚けないためにも、、、

Do it yourself fan.









夏バテでダウン

2016-08-03 02:41:41 | Weblog

結婚以来、夫は夏休みをとらない。

土日は、どこにも行かないで

夏バテしないように、自宅のTVで 
体を休めている。

朝は6時30分に起きて、
バス、地下鉄、JRと乗り継いで

1時か少々の通勤が、
適度な運動になり、

勤務が続けられている。

職場のお仲間は家族以上の大切な存在であるようです。

病院の方が落ち着くと言います。

決して、愚痴で申すのではありませんが

仕事以外に趣味はありません。

若いころ、4か月も入院する大病をしました。

病院の天井を観ながら

働けない4か月の毎日が、苦痛だったのでしょうね。

今の大学と違って、研修医制度がなく、
無給医の時代でした。

医局の制度は封建社会とあまり変わらない

山崎豊子の巨塔さながらのイメージでした。

あちこち移動命令のままに

冬の留萌、夏の余市、炭鉱の栄えた夕張、

漁業の釧路、

AP,2間と物置のような3畳を
札幌の拠点として

車のトランクに
鍋釜、トースター、寝袋、幼い息子の玩具

化粧道具は櫛だけという
車の移動が3か月ごとにありました。

博士論文を書き上げたのが
結婚5年後の事でした。

結婚の条件が、
私の実家が経営する外科の施設を

引き継いでくれるという条件でした、

ところが博士号をいただくまでは、

結婚式から、何から何まで、私の負担でした。
長男も、一度流産しているので、
早々と、安定して出産できる実家に戻り、
一年後に、3か月まで育て上げて

札幌に戻ってきました。

この間、
まるで、出戻り娘のように、
トランクひとつで、実家にお世話になりました。

母は30歳代で戻らないと、戻れなくなるよ、と
焦りながらも、


無給医の私たちを支えてくれました。

今振り返ると、
嘘をつかれたわけではないのですが、

各人が、時分に都合の良い「生き残り」計画で
たまたま条件の合う同士が始めた結婚だったという

戦後の、心貧しい、、、生活のかかった出会いであったのですね。

彼には、結婚をしたい相手が居ました。

芸大を出て、伝統工芸を生業にしている女性でした。

彼女を世に出すためには、

開業して、作品を買える人でないと、
仕事を選んでいる彼女の
生きる条件から外されてしまいます。

自分は医師を続けながらも、

生涯、彼女と友人で居るためには

東京に帰り開業をして、

お金に困らない生活ベースが必要でした。

でも、、、、医学にも、贅沢な環境を望むのでした。

もやもやとした、矛盾だらけの欲張りな時代に、

医師の娘で本人が薬剤師で、
実家は兄が内科医で、とりあえず、、、
無給医で、あと5年、収入のすべてが
研究になる環境で、
博士号を取得して、
仲間にしてもらえるには、

顔がついていれば良い、
自給自足でついてきてくれる相手であり、
結婚をあきらめた、初恋の芸大生の作品を
趣味で買ってくれる相手であれば、

友情は維持できると思ったのでしょうね、、、

私の母は、和歌山の旧家の産まれであり
実父は、明治20年生まれで、師範学校を卒業後
25歳で渡米しているという
モダンな育ちでした。

新宮女学校では佐藤春夫さんの妹さんと同級で
佐藤春夫さんの家にも何度もお邪魔するうち

東京の、音楽大学に進学するという
芸術の影響を受けたようです。

ピアノ科を専攻した時、
知る日ぞ知っている

髭の、、、大きいことはいいことだ~の
山本直純さんの母上と同室の学生時代を寮で暮らしたそうです。

門限にうるさい舎監の女性が居て

人生の恋の季節を邪魔されたと、、
学生時代の事を懐かしそうに話していた母。

その母が54歳で未亡人になりました。

愛なんぞ、、、暮らしているうちに育つものだから

外科医のお父さんが、若くなって、ここに戻ってくるのだから、
相手の都合を、全てのみなさい、、、という。

これまた自分の都合しか考えていない、、、
配偶者を無くした、貧乏な心が、、、、母にもあったのかもしれない、

夫の母上は「二男は、あなたに差し上げます。。。」と言った。

私自身は、

病院の薬剤師をしていたキャリアウーマンであるからして、
愛より、何より

父の急逝で、置き去りにされた患者さんに
責任を感じると同時に、

母のさみしさ、内科医の頑張りが、苦痛でもあった。

150人、毎日来る患者さんを置き去りに

54歳で早逝した後を、

患者さんと、23人の従業員を抱え、

兄は、医局にも参加できず、

国立がんセンターの研修医をしながら、

早朝、夜間と自宅の開業を継ぎながら、

がんセンターの内視鏡の指導医を許され、

内科の開業に変更していった。

その頃、夫はアメリカのタフト大学から留学許可が来て

APを引き払い、

5軒続きの長屋の真ん中を500万円で買い、根拠地を移した。

2年間、ほっといても良い条件の自宅は、
長屋の真ん中が良いと思った。

ローンを組み、家具を移動させて、留学準備の整理整頓で
段ボールだらけの部屋で育児が始まった。

出発が決まっていたのに、
交代で帰国するはずのスタッフが、延長願を出して、承認された。

直前で、2年間の待機となりました。

夫は2年分の生活費を考えたのでしょうね。

医局では、行手のなかった激務の病院に出て、勤務に踏み切った。

2年のつもりが、7年も経ち、

いよいよ、実家では、
兄と弟と、夫と、従妹の旦那の耳鼻咽喉科の医師とで

4人で、綜合の病院を立て直すという
「淡交会」という、
お茶の世界のような名前の
病院発足の、理事会を出発させた、

名刺も各人が受け取り、

愛の置き去りになった「生き残り戦後のDr.チームの
接着剤として、
結婚の日々は、
「便利な女性として開き直って、支える姿勢になっていた。」

突然、、、、医局に優秀な未来を背負う若手が現れた。

北海道の、心臓外科を背負える優秀な若者二人。

教室は、
この二人に未来をかける盛り上がりのある勢いを感じた。

アメリカで、長い間、心臓外科の臨床医をしていた医師も
次代の心臓外科医を育てようと、医局に呼び戻された。

夫は、医局の内部も、医局関連外病院も知る医師として、
次世代の心臓外科がきらきらと才能を光らせているから、

その後輩たちに、夢を託して、
医局の、雑用一切を引き受ける医局長として

医局に、戻ってしまったのでした。

実家との縁は、これでおしまいです。

50年近くたって、、、

あの時の若い医師の一人が、
北海道のみならず、
全日本、そしてフランス、、
インターナショナルなドクターとして

活躍する日を迎え、

夫の医局長としての雑務の采配も、
意味のある結果として
自己満足している、笑顔の結果であった。

捨てられた実家も、
塞翁が馬であり、

開業をやめて、兄は房総のK病院に勤務して
内視鏡指導医の腕を行かせた。

どうなるのかと、、心配した弟は、

貧困生活にも負けず

国立がんセンターの
研究検査のセンター長として、

団塊の世代の果たす役目を、ダイナミックに果たした。

宮様からの賞もいただき、

日本のCTや、ヘリカルるCTに
大きな貢献をすることが出来た。

世は、、、民主党の時代になり、

多大な功績の「がんセンターの50年」は

弟の、定年を境に、どうなったのか、知りません。

医師として、今なお、知る人ぞ知る

良い仕事をした、放射線科の医師である。

叔父さんの、ピークの時代に育った
我が家の二男は、

放射線科の医師として、頑張っている。

愛以外の都合でであった結婚であったが、

縁の下で、誰にも気づかれない谷間で

守備に終わった人生ではあるが、

医師が、社会で働いて、それなりの役割を果たせた
その陰には、
存在していたのかもわからない妻というなの

都合の良い存在に徹した、人生の時間を
裏方の孤独な労働で、小さな穴をつくろい続けた
存在が有ったことを、私だけが知っているのです。

主張しない人生というのは
これからの日本の女性には、ありえないでしょう。

戦争の残したマイナス面を飲み込んで
戦いで死んでいった男性達の分まで

日本男児ここにあり!と
団塊の世代が、
日本の復興にかけた昭和生まれの陰に

明治生まれの親たちに育てられた、
誇りある武士道の精神に
一歩下がって、
不屈の精神で、地面の下で
点灯鬼になれる教育が
昭和とともに消えて行くころとなりました。

しかし、、、北の富士の根性には
足元にも及びませんが、、、

日本の昭和生まれの男たちには
人生の時間をささげても、

孤独ですが、、、

これでよかったのだと、、、

日本は、復活して、さらに、豊かな心になって、
本当の心の豊かさを目標に

世界が、豊かな心になるために、
一千年単位で、、、グローバルな、バランスを
世界で共有して、女性は、花咲いてほしいと、、、

願う、、、72歳の、8月です。

戦争の残したブラックホールを埋められるのは

人間を産み、育て、見守れる母心と、深海魚の心かもしれません。

何を描きたかったのか。。。眠くなりました。

君だけが、なんとなく理解して、くれれば、、、

昭和の人間の残したものは、、、なんだったのか?

ポケモンGoではありませんが、、、

これからも、昭和の心が出没してほしいと、、、願うのですよ。


見事だった都知事選

2016-08-02 17:31:49 | Weblog

100万票の勝利に

拍手しかありません。

色々あった都知事さんの交代問題でしたが

こんなに、見事な選挙をやってのける小池さんは

きっと普通の叔母さんではないと信じます。

小泉さんが選挙に出た時も、

以前の話であっても、
昨日の事のように、

「選挙の上手さ」と

「ケンカの上手さ」に驚かされました。」

今回は、女性版、、、小泉さんの時のように、

心が、巻き込まれて、野球チームを

応援しているつもりになって

日本のクリントン!!!!!頑張れ!、、

テレビに向かって緑のハンカチを振りました。

本来なら、スーパー知事さんだった石原慎太郎さんに

女性の力不足を
上から目線で、

任せられない。。。と

岩手の知事さんを応援されたら

普通は、負けてしまいますでしょうね。

「あの方は口の悪さは、、あんなものではありません、、

日頃から、もっと言われているけど、、、構いません、、」

と、、、

目じりを下げて、飲み込んでしまった。

百恵ちゃんのような、強くて、知的なしなやかさに驚かされました。

日頃から、魅力のある議員さんだとは思っていましたが、

さすがの慎太郎さんも、男らしさも、歯が立ちませんでした。

慎太郎さんの奥様が、子育てのあと、

大学に、社会人入学されたとき、

ご主人の慎太郎さんは、女性の希望だと思いました。

このような、
女性を見出してくださる知事さんが
東京にピッタリでした。


今回は、知事という仕事の難しさを
長きにわたって知っている慎太郎さんだから

化粧の女性に、知事は任せられないと、、、いうような意味の

シナリオを、そのまま発言されました。

失言ではないと思います。

知事になられた、美しき叔母さまを

サポートして、

モグラたたきの東京都知事のイメージから

慎太郎さんの、サポートが

オリンピックも成功できる東京が

世界に、発信できるのですから!

小泉さんは、きっと、小池さんの中に自分を見つけて

きっと、全力で応援するでしょう、

真面目過ぎて、トンデル小池さんに歯が立たなかった候補さん。

本来なら、増田さんのような方が、地道に、確実に

東京都知事をされるのが、自然なのかもしれませんが、、、ね。

東京は、トンデル小池さんを、
世の男の中の男たちが、

負けを認め、

小池さんを、世界のクリントンに育てるチャンスだと考えて

東京を側面から、背面から、地面の下から、空から、サポートしながら

小池さんに、結集した皆の心の表現態になってもらうような

世界の東京都知事を、

オリンピックに臨席できるように、

回りの器が一層大きくなって、

慎太郎さんの、東京オリンピックを成功させた技を

小池さんにつなげば、オリンピックはすごいものになるでしょうね。

、、、石原さんの息子さんの議員さんは、

ネットでポケモンを探して、すぐに知りあい、

アフリカの奥地で、スマホで検索する今日、

イデオロギーの時代は、見直さないと、

スマホ族の若者が、選挙権を持った今、

第三の必然性が、イデオロギーに加味されないと、

党の規約や、権力だけで、マルタのように

一本が堅く守られ過ぎると、

急流の瀬のような選挙では

流れに乗れない座礁した丸太の筋が 引っかかり

流れに乗れない障害物になって

手の内が、堅くザラザラで、浮動票のおばさんたち、、、

私どもからは、「蟷螂のオノ」のように

空しく流れをくいとめようとする無理が見えて

若すぎる戦いぶりに、今一つ、老獪にならないと、、

小池さんという

キャスターのプロの表現は、

小さな流れを集め、瀬を集め、、、

那智の滝になったって感じです。

あの、退路を断った戦いは、

髪が味方するのは、火を見るより明らかです。

民衆の、この勢いのある滝の力で

原子力を超える電気を起こし、

オリンピックに、赤々と

日の丸をあげるのは、

慎太郎さんの、長きにわたる都知事経験を

小池さんの

観たこともない都政の
土台にできるかという事に
かかっているでしょうね

がんばれ!東京!