北海道新聞は、大きな意味で、北海道に住む者の「回覧板」のように
日常の、手に届く記事が、、、嬉しい、
平成15年頃の夏、私は陸別の駅の上の宿泊所に泊まっていた。階下には
関寛斎先生のミュージアムがあり、先生の、たぐいまれな精神力で、
人生を貫かれた足跡に興味を持ったからでした。
その時、ミュージアムで「関寛斎」「北海道陸別町関寛斎資料館」と印刷された
陸別教育委員会の編集した資料の集積の一冊を見つけた。
藍染の格子模様の表紙の本を3冊買ってきた。陸別の駅の宿泊所で朝まで読みふけり
翌朝から、一人で、町と言うか、、村と言うか、、歩き回り、足跡を体感していた。
名前は、、、忘れてしまったが「喫茶店」に入って、仮眠をとっていると、其処の主が
色々と話しかけてきた。話しているうちに、関寛斎先生の話題になり、まるで、当時を
忍ばせるほどに、リアルに空気を再現させ、前のめりに、木彫りの彫刻など持ってきて
先代がもらったものであることを話しながら、およそ200年前の事を、昨日のように
再現して、さながら講談の酔いに、私はのめりこんで頷いて聞いていた。
店主は、私の応答が気に入ったのかどうか、店を放り出して、陸別をあんないしてくれた。
小山の下まで来たとき、「この上に、関先生の碑があるから、お参りしよう」と言って
階段を一緒に登った。関先生の素朴で、自然体の足跡のように、「開拓の戦争」のような
時代を控え、身を引きしまられた翁の魂が、北海道の空を見つめているかのように
一本の記念の碑が立っていた、徳富蘆花が、かってこの地を訪れて、徳富蘇峰題額による
貴重な国の指定遺跡であると、喫茶店の主は言っていた。帰札してから。
資料を読んでいると37ページに、ユクエピラチャン跡と記載されていた。
喫茶店の主は、資料館に案内してくれた、陸別町史の分厚い本がずらりと並び、
私は、天保年間の一冊を借りて、読んだ。帰りがけに、資料館の館長さんが、
寛斎先生の、奥様が、黄八丈の着物をほどいて、
寛斎先生の日記帳のような本の表紙のカバーにつくり変えられていた実物を
手に取らしてくれました。
奥様の、先生を影から支えられた、並々ならない、、愛情と、戦友にも思える
北国での精神の緊張が伝わってまいったのを、、、鮮明に覚えています。
陸別駅に連泊しながら、心行くまで、開拓の始まりのころを感じていました。
陸別町史を読みふけり、北海道が、他の県と違う空とのつながり、
宇宙とのつながり、大自然の端末機かのような、見えない空気の道が、
四方八方から、情報を伝えてきました。
ヤフーで徳富健次郎 「ミミズのたはごと」と入力すると、
カーソルを、半分まで下ろしてきた時点で、関寛斎が、医師として、御殿医師として
蜂須賀で教授をしていたころまでの
知人の子供と、偶然か、必然化、寛斎先生は知っていて近づかれたのか、、、
奇遇な出会いから、陸別での、日常生活が描かれています。
中でもショックなのは、アイヌさんを診療していて、知り合いのように
心通わせている会話が記述されていますが、心無い日本人が、
狩猟に必須なアイヌさんの鉄砲を盗んでしまうくだりです。涙が出ました。
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かって、私は、医薬史学会の会員だったことがあります。育児の最後の仕上げの
40代頃から、授業料に追いかけられて、現役の病院薬剤師に復帰したころです。
家庭を振り返る暇はなくなり、金魚鉢は苔で中の魚が見えなくなっていました。
休みあるごとに、一人旅をしました。
日本の、忍者村の薬研や、秘薬、高野山の陀羅尼錠剤はたまた、引き起こしの
植物の、由来とか,カワミドリと言う植物は、中国内と、日本では
別の物だったことや、西安から、ゴビ砂漠に向かって、バスで5時間ぐらいの所で、
虎を診療して、トゲを抜いてやり、感謝した虎が、
この医師の薬草園を守ったという逸話のある村に行ったとき、
貝原謁見の養生集のもととなった本に出逢ったり、ジオウと言う生薬が、
西暦500年頃からのまま、保存されていたのを見せていただいた。
ほうれんそうのような根っこであり、現在のいものような塊根はついていない。
歴史の中の生薬を追っているうちに、迫害されたネストリウス派の信者の中に
医師が居て、蒙古にたどり着き、ジンギスカンの夫人に保護されて、
やがて、南下して、日本に羊とともにわたって来たとか、、、
いろいろの歴史を
紹介された、
岐阜県や滋賀県、、長野県にも、面白い歴史が山のように残っていた。
長野県では、朝鮮ニンジンが栽培されて、朝鮮に逆輸入された足跡もあった。
四国や、紀伊半島を皮切りに、神社や。教会の生薬、そして
正倉院の生薬や、医療器具に相当する歴史に、、興味を持ち、鑑真和尚の足跡を
求めているうち、偶然にも、西安の塀の上の唐招提寺とうり二つの寺に出逢ったり
中国4大中医学院の交換交流のゼミに、集積出来たり、導かれて、医薬史の世界に
はまり込んでいた時期がありました。
おりから、北海道にも、医薬史学会が発足して、薬剤師会と医師会の先生方の
合同の、学会が発足しました。
その頃、私は、学会をやめて、自分勝手に旅をして、時分だけの世界で
歴史の雄弁な、嘘やアピールのない、無言の空気が伝えてくることを
全身で、イメージで感じれば、満足と言う、老境の心になっていました。
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歴史を訪ねて歩くとき、寛斎の奥さんの残した、
黄八丈の本のカバーが
無言の涙の忍耐をされたであろう当時の夫人の心を伝えてくる
学会以上の大切な、歴史との対面に思えたのでした。
文にも、本にも残らに様な足跡が、この年になると、
万感の想いで、かみしめる心の存在を自覚するのです。
陸別での思い出の写真の一部は、
東京大学の教授をされていらした、S先生にCDに編集して
一部をお送りしました。
先生は、丁寧なお礼のお葉書を下さいました。
私のような、家事に閉じ込められてしまうような、
愚かなものに、医薬の歴史を楽しむことを教えて下さった先生に
感謝を表すことは、難しいのですが、。。。
たった、一枚の「北海道新聞」の記事が、
忘れていた十数年の歴史の旅を思い出させてくれました。
、、、朝になっちゃったよ、、、
私の日記は、ここら辺で、、、、又、、、明日。