夫の仕事の関係上
東京に
帰れそうもない人生となった。
戦争で空爆にあった東京の父の家。
軍から帰ってきて、着のみ着のまま、、、
七か村無医村の疎開で、
30人のいしの働く自分の病院の
病院長だった戦前の暮らしは消えた、、、
爆弾とともにすべては消えた、、、
子供3人も亡くした父の再帰は、
無医村の赤ひげ先生としてスタートした、
唯一の外科医療施設を任されて14年
子供の戦後の教育を考えた父は
悪夢から覚めて目覚めたように、過去を乗り越え
東京に買い求めなおした下町の開業。
実家が消えた市ヶ谷の生活と180度異なる
下町の開業は
人情に流されて、
医療費が払ってもらえないという
慈善事業にも似た戦後の待合室だった。
一から出直しました。
患者さんの手術が終わり
麻酔がさめるまで、、、
うつらうつらしながら永眠した父、
54歳の過労死は、、、、家族は涙も出なかった。
多くの患者さんと従業員への責任上
閉鎖するわけにもいかず、
開業もさりながら事業の閉鎖はもっと困難を伴います。
インターン中の兄が、
父の友人の医師の助けのおかげで
なんとか、
外科内科の診療を持続していたのでした。
父が生き返ったと錯覚した「外科医と出会った」
これで、閉院はしなくてよい!
うれしかった!
しかし、困難は山ほど続いた、
北大を卒業した医師の素養が生かされるのは、
北海道という地域に貢献するのが
普通と理解できた時は
北海道の天与の子供を2人産んだ後だった、
医局は当然医師たちの時間を独占した。
北海道を何か所もローティションする
無給医師の生活が続いた。
家庭の事は一切がっさい家内の役割であった。
博士号にかかりきりの研究生活は
夜中に白衣で帰り、
夜食を食べるとまた、
病院へ向かって帰って行った。
いつしか人生は飛んで過ぎた。
帰りたい、、、故郷に。
しっかりと北海道に根をおろして、
孫たちも、小学校に通っている、
よくぞ、ここまで、これたものだと
人生の崖を振り返る。
心は、どこかで、自分を生きなければ、、、と。
突然置き去りにしてし北海道に来て住んでしまった事もあり、、
故郷の生活の続きを思う。
父も、母もすでになく、、、
クラス会も、若き日に一度出席したきりである。
風景も、建物もすっかり変わっているのに、
近くのお寺の
300年の松が、昔のままであるが為
ふと、若かりし日にタイムトリップする。
北海道では、良い仕事が出来た。
しかし、
生きるために生きた人生は
振り返ると、
置き去りにしたものが蘇り
懐かしい。
帰りたい、、、帰れない、、、
帰りたい、、、帰れない。
北大卒業した夫の人生は
力いっぱい燃焼したと
拍手も送りたい。
しかし、
いつも夫が話していた職場の人々は
写真で見て、
私が知っているつもりでも
相手方は知らない。
先日過労死なさり、会場は涙でいっぱいだった
ある先生の法事のとき、
主人が写真を見せてくれて、
「この先生が、僕の尊敬している先輩だ」と
日頃行っていた先生と廊下で出会い、
知ってるつもりで錯覚して、頭を下げました。
「どなたでしたっけ?僕はあなたを知りません。」
怪訝なお顔で首を傾げられました。
「マルマルの家内です。」
「あ~~~これはどうも、、、はじめまして、、」
顔が真っ赤になってしまった。
自分自身の人生を生きる事をしないで
夫の人生のヘルパーと便利屋に徹した観客席で
一緒に心は、
踊ったりへこんだり、拍手したりしたが、
夫の人生の実数のような
したたかな手ごたえと違って
影のように虚数を任されて添い遂げてきたものの
晩年は、私自身の実数を手探りしながら、
雪を掻きつづけた40年の時間は取り戻せない。
桜、、、咲 桜散る
帰りたい、、、帰れない、、、故郷は遠い。
北海道のよき人々と
天気の話
買い物の話
時には孫の話をしながら、、、
大きな桜の樹を思い出す。
雪の竜宮城から、亀さんに乗って
故郷に戻って
ただいま!帰りましたよ!
父母に会いたいと思う今日この頃である。
父母はすでに高野山の土になっって樹木を育てているだろう。
外科医を連れて帰れなかった、、、当り前の話。
私が北大から「外科医」をお連れして
故郷に帰ると信じていた母は、
娘の帰還を待って、、、待って、、、待ち切れなかった。
実家は閉院し、
兄も弟も勤務医となりました。
ある意味では、
本来の医師を出来て良かったかもしれませんが、、、
部外者の視点で見る医師の世界は、将棋盤のように
飛車や角を動かせると、知恵で考えてしまう事もある。
医学は奥深く、医学を学んで免許を持った医師が、まるで
アミノ酸がタンパク質を作っているように結合が複雑で
どのアミノ酸が欠けても医療に穴があくほど
一つ一つのアミノ酸の働きは
独自の働きで
医療を組織しているように
一人一人の医師の役割は
全体に影響を及ぼすから
北大で育った医師を
東京に移すことはありえないことだった。
開業も逆風の時代となった。
全員が時間貧乏なためか、、、会えなくなりました。
土日の休みも返上の医師の過重労働は
医師にも労働基準が出来ないうちは
家庭には帰れないだろう。
兄弟親戚は法事も欠席という、さびしい結果です。
ちなみに、、、母の葬儀にも夫は病院でした。
「生き仏が優先の世界です。」
勤務医には、
ほとんど税も控除がない。
学会や医学書や医療道具や学問の為の雑費、
教えていただくための外国への交通費など、、、etc.
多くの費用が追いかけてくる。
認定や専門医制度の中で
時間ぎりぎりまで働かせるシステムがうごきだした。
経営サイドが医師ではなく、手術場も、診断現場も
医療の現場を経験しないエリートの
知的なシュミレーションで
経済学部やバンカブルな学部の卒業者が担当する。
医療に経済も大切であるとは思いますが、
現場スペシャリストの医師の生態バイオリズムのような
集中力が「商品の価値」の様に思える診断の現場に
「儲かる、、、儲からない、、」の
損得の斧で、一刀両断しようとしているこの頃の風潮は
医師に「過重な労働を強いる」ことや、
「集中する為の序走に当たる切り替えの休養の時間」を奪う。
人間が相手、
命が相手の医師と患者さん
向き合うだけで、助かるか、、、
助からないかの境目で
医師の精神力を
えぐり取られるような自己のない部の
戦いにもなるそうです。
重病人を前に、
手術の前日から
「イメージトレーニング」をして
レースに臨む選手のように、緊張が続く。
診断するときも
血圧は上昇し、
掌は真っ赤になる先生も珍しくないと聞く。
医師以外は土日があって
「交代可能」だが、
医師には、「交代する余裕な人員」がいない。
「経済的理由から「土日出勤とするノルマを企業は与える。
「医療的な必要」から責任上、
土日出勤を余儀なくされている多くの医師たち。
患者さんに、対して、土日のケアが必要でない日があれば
自宅に帰り、家族とのコミュニケーションをとってきた。
医師は月給が他と比べて高いから、、、
土日も出勤義務となると
張り詰めて緩める事のないゴム紐みたいに
「健康を害してしまいます。」
育児の母親の疲れは、交代できない疲れでもあるでしょう。
「患者を診て金を稼ぐマシーンの駒」と
みなしているのでは??
患者さんが疲れきった医師に診てもらうこととなります、
医療とは患者さんが不利益になる環境を作らないことです。
ツタのように経済事情が必要以上に絡まり
養分を吸うシステムを組んでは
患者さんに、医師の力が半減します。
また、、、精神の戦いの多い
本体の医師が過労死するか、、、
辞めてしま「科」によっては
交代のいない苦しみで持読力を充電する区切りが無くなります。
患者さんは「医師」を選んできます。
「医師」をよい状態にして差し上げる事が
良い診断。よい医療、となり、
患者さんに還元できるから、病院は充実します。
「医師を駒として、経済の鞭で「土日」働かせよう」とする事は
医療が理解できていない
現場を知らない部外者の盲点でしょう、
医師から、心身の健康を奪ってしまっては
すべては廃墟の建物だけが残ります。
病院は権力で動かさないで
良い医療と
信頼と、
医師の自発の生涯学習と、
名サポーターの理解と
医師に適性のある「医師らしい医師」で
患者さんの期待に答えてほしいと願っています。
人間として、土日がないことは
家族との時間がない。
当り前の真ん中の現実です。
(今までもありませんが、、、自主的に自発でした。)
サポーターとのコミュニケーションや
「環境づくりの工夫」や
「打ち合わせ」や「親睦」の少しの暇もなくなる。
見えない後ろの応援無くして、良い医療は出来ない。
後方の憂いをなくす時間の土日を休んでもらう工夫
もしくは、日にちを提示した代休みを決めることこそ
大きな仕事だと思うのです、
疲れきった医師の医療は
「トヨタのリコール事件」のように
考えられない損害が、
別のところから破けるように起こるものです。
最近、「過労死」された外科医の事を思うにつけ、
血を吐くような思いで、書いています。
お別れ会の時は、
3日前から寝ていない激務のスケジュールが
発表されました。
優秀な、信頼される、何度も新聞に出ていた先生の過労死は
会場の涙を誘いました。
過労死された先生の代わりを育てるには何年もかかります。
企業はお金に走るから、
医師を働かせようと思うのは当然かもしれない。
しかし、医師である前に人間なのだから
家族とのコミュニケーションを奪う様な
土日、祝日の出番は、家族のサポートが得られなくなる。
医師になるのは大変だ!、
私立なら
なおいっそう大変だ!
一生分の月給を授業料に前払い状態となる。
回収するには月給から税金を引くと
よほどの手腕がないと利益に結び付けるのは
おぼつかないだろう。
医師をするのは、
オリンピック選手のサポートとは行かないまでも
家族や周りの絶大なる理解と
サポートが必要です。
そのためには、休養と
学問的充電が必要です。
一生涯勉強の受験生のような職業ですから。
日新月歩の医学を駆使するのに
家族も回りも、
「医師は医師だけやれば良いという環境」をつくるためにも
月給だけでは足りません。
タクシーで一瞬の睡眠を買い取り
家族や、回りの
プラス応援の労働で、サポートします。
それだけに、土日のコミュニケーションが
環境を維持する共有時間であるはずですが
現実は、さまざまな用事でふさがります。
束の間の休養が医師をするための大切な時間となります。
父が54歳で過労死したのは、
救急外科患者は、土曜日も日曜日も来ていたということです。
看護師も事務もコメディカルも大変なのはわかりますが、
交代できるのが救いです。
医師は交代できません。
持続した緊張は命と戦うだけに、
疲れは医師の内部で起きています。
最近も、外国で臨床医として貴重な経験を重ね
他の医師では代わりが出来ないという名医が過労死しました。
50歳代です。
父と重なり、、、ぽろぽろ涙が出ました。
医師の内側からの視点で他人はは見てはくれません。
給料の安い高いというのは額面ではなく、
「維持費のかかる生涯受験生」を抱えているような
日新月歩の、医学界の全体から、
医師という部分を判断してほしいものです、
医師という部分から、月給の額を数字で比較をする事は
燃費のかかる車も、自転車も同列比較という事になります。
亡くしてみて、、、初めて、、、
地域のみならず、、、
日本の、、、
世界の財産だったことがわかります。
働いて、、、働いて、、、
過労死だけは避けねばなりません。
理不尽な労働時間を強制しないように、
一見居そうで、、、代わりがいないのが、、、
医師です。
健康だけが最後の日本の砦です、
彼の突然死の後、
ドクターヘリで運ばれる救急患者さんは
新たな引受先を探しながら、、、
手遅れの悲劇が待っているのです。
帰りたい、、、思いやりと、、、感謝のある日本に。
帰りたい、、、「先生、、ありがとう、、、お願いします、、、」
帰りたい、、、
東京に
帰れそうもない人生となった。
戦争で空爆にあった東京の父の家。
軍から帰ってきて、着のみ着のまま、、、
七か村無医村の疎開で、
30人のいしの働く自分の病院の
病院長だった戦前の暮らしは消えた、、、
爆弾とともにすべては消えた、、、
子供3人も亡くした父の再帰は、
無医村の赤ひげ先生としてスタートした、
唯一の外科医療施設を任されて14年
子供の戦後の教育を考えた父は
悪夢から覚めて目覚めたように、過去を乗り越え
東京に買い求めなおした下町の開業。
実家が消えた市ヶ谷の生活と180度異なる
下町の開業は
人情に流されて、
医療費が払ってもらえないという
慈善事業にも似た戦後の待合室だった。
一から出直しました。
患者さんの手術が終わり
麻酔がさめるまで、、、
うつらうつらしながら永眠した父、
54歳の過労死は、、、、家族は涙も出なかった。
多くの患者さんと従業員への責任上
閉鎖するわけにもいかず、
開業もさりながら事業の閉鎖はもっと困難を伴います。
インターン中の兄が、
父の友人の医師の助けのおかげで
なんとか、
外科内科の診療を持続していたのでした。
父が生き返ったと錯覚した「外科医と出会った」
これで、閉院はしなくてよい!
うれしかった!
しかし、困難は山ほど続いた、
北大を卒業した医師の素養が生かされるのは、
北海道という地域に貢献するのが
普通と理解できた時は
北海道の天与の子供を2人産んだ後だった、
医局は当然医師たちの時間を独占した。
北海道を何か所もローティションする
無給医師の生活が続いた。
家庭の事は一切がっさい家内の役割であった。
博士号にかかりきりの研究生活は
夜中に白衣で帰り、
夜食を食べるとまた、
病院へ向かって帰って行った。
いつしか人生は飛んで過ぎた。
帰りたい、、、故郷に。
しっかりと北海道に根をおろして、
孫たちも、小学校に通っている、
よくぞ、ここまで、これたものだと
人生の崖を振り返る。
心は、どこかで、自分を生きなければ、、、と。
突然置き去りにしてし北海道に来て住んでしまった事もあり、、
故郷の生活の続きを思う。
父も、母もすでになく、、、
クラス会も、若き日に一度出席したきりである。
風景も、建物もすっかり変わっているのに、
近くのお寺の
300年の松が、昔のままであるが為
ふと、若かりし日にタイムトリップする。
北海道では、良い仕事が出来た。
しかし、
生きるために生きた人生は
振り返ると、
置き去りにしたものが蘇り
懐かしい。
帰りたい、、、帰れない、、、
帰りたい、、、帰れない。
北大卒業した夫の人生は
力いっぱい燃焼したと
拍手も送りたい。
しかし、
いつも夫が話していた職場の人々は
写真で見て、
私が知っているつもりでも
相手方は知らない。
先日過労死なさり、会場は涙でいっぱいだった
ある先生の法事のとき、
主人が写真を見せてくれて、
「この先生が、僕の尊敬している先輩だ」と
日頃行っていた先生と廊下で出会い、
知ってるつもりで錯覚して、頭を下げました。
「どなたでしたっけ?僕はあなたを知りません。」
怪訝なお顔で首を傾げられました。
「マルマルの家内です。」
「あ~~~これはどうも、、、はじめまして、、」
顔が真っ赤になってしまった。
自分自身の人生を生きる事をしないで
夫の人生のヘルパーと便利屋に徹した観客席で
一緒に心は、
踊ったりへこんだり、拍手したりしたが、
夫の人生の実数のような
したたかな手ごたえと違って
影のように虚数を任されて添い遂げてきたものの
晩年は、私自身の実数を手探りしながら、
雪を掻きつづけた40年の時間は取り戻せない。
桜、、、咲 桜散る
帰りたい、、、帰れない、、、故郷は遠い。
北海道のよき人々と
天気の話
買い物の話
時には孫の話をしながら、、、
大きな桜の樹を思い出す。
雪の竜宮城から、亀さんに乗って
故郷に戻って
ただいま!帰りましたよ!
父母に会いたいと思う今日この頃である。
父母はすでに高野山の土になっって樹木を育てているだろう。
外科医を連れて帰れなかった、、、当り前の話。
私が北大から「外科医」をお連れして
故郷に帰ると信じていた母は、
娘の帰還を待って、、、待って、、、待ち切れなかった。
実家は閉院し、
兄も弟も勤務医となりました。
ある意味では、
本来の医師を出来て良かったかもしれませんが、、、
部外者の視点で見る医師の世界は、将棋盤のように
飛車や角を動かせると、知恵で考えてしまう事もある。
医学は奥深く、医学を学んで免許を持った医師が、まるで
アミノ酸がタンパク質を作っているように結合が複雑で
どのアミノ酸が欠けても医療に穴があくほど
一つ一つのアミノ酸の働きは
独自の働きで
医療を組織しているように
一人一人の医師の役割は
全体に影響を及ぼすから
北大で育った医師を
東京に移すことはありえないことだった。
開業も逆風の時代となった。
全員が時間貧乏なためか、、、会えなくなりました。
土日の休みも返上の医師の過重労働は
医師にも労働基準が出来ないうちは
家庭には帰れないだろう。
兄弟親戚は法事も欠席という、さびしい結果です。
ちなみに、、、母の葬儀にも夫は病院でした。
「生き仏が優先の世界です。」
勤務医には、
ほとんど税も控除がない。
学会や医学書や医療道具や学問の為の雑費、
教えていただくための外国への交通費など、、、etc.
多くの費用が追いかけてくる。
認定や専門医制度の中で
時間ぎりぎりまで働かせるシステムがうごきだした。
経営サイドが医師ではなく、手術場も、診断現場も
医療の現場を経験しないエリートの
知的なシュミレーションで
経済学部やバンカブルな学部の卒業者が担当する。
医療に経済も大切であるとは思いますが、
現場スペシャリストの医師の生態バイオリズムのような
集中力が「商品の価値」の様に思える診断の現場に
「儲かる、、、儲からない、、」の
損得の斧で、一刀両断しようとしているこの頃の風潮は
医師に「過重な労働を強いる」ことや、
「集中する為の序走に当たる切り替えの休養の時間」を奪う。
人間が相手、
命が相手の医師と患者さん
向き合うだけで、助かるか、、、
助からないかの境目で
医師の精神力を
えぐり取られるような自己のない部の
戦いにもなるそうです。
重病人を前に、
手術の前日から
「イメージトレーニング」をして
レースに臨む選手のように、緊張が続く。
診断するときも
血圧は上昇し、
掌は真っ赤になる先生も珍しくないと聞く。
医師以外は土日があって
「交代可能」だが、
医師には、「交代する余裕な人員」がいない。
「経済的理由から「土日出勤とするノルマを企業は与える。
「医療的な必要」から責任上、
土日出勤を余儀なくされている多くの医師たち。
患者さんに、対して、土日のケアが必要でない日があれば
自宅に帰り、家族とのコミュニケーションをとってきた。
医師は月給が他と比べて高いから、、、
土日も出勤義務となると
張り詰めて緩める事のないゴム紐みたいに
「健康を害してしまいます。」
育児の母親の疲れは、交代できない疲れでもあるでしょう。
「患者を診て金を稼ぐマシーンの駒」と
みなしているのでは??
患者さんが疲れきった医師に診てもらうこととなります、
医療とは患者さんが不利益になる環境を作らないことです。
ツタのように経済事情が必要以上に絡まり
養分を吸うシステムを組んでは
患者さんに、医師の力が半減します。
また、、、精神の戦いの多い
本体の医師が過労死するか、、、
辞めてしま「科」によっては
交代のいない苦しみで持読力を充電する区切りが無くなります。
患者さんは「医師」を選んできます。
「医師」をよい状態にして差し上げる事が
良い診断。よい医療、となり、
患者さんに還元できるから、病院は充実します。
「医師を駒として、経済の鞭で「土日」働かせよう」とする事は
医療が理解できていない
現場を知らない部外者の盲点でしょう、
医師から、心身の健康を奪ってしまっては
すべては廃墟の建物だけが残ります。
病院は権力で動かさないで
良い医療と
信頼と、
医師の自発の生涯学習と、
名サポーターの理解と
医師に適性のある「医師らしい医師」で
患者さんの期待に答えてほしいと願っています。
人間として、土日がないことは
家族との時間がない。
当り前の真ん中の現実です。
(今までもありませんが、、、自主的に自発でした。)
サポーターとのコミュニケーションや
「環境づくりの工夫」や
「打ち合わせ」や「親睦」の少しの暇もなくなる。
見えない後ろの応援無くして、良い医療は出来ない。
後方の憂いをなくす時間の土日を休んでもらう工夫
もしくは、日にちを提示した代休みを決めることこそ
大きな仕事だと思うのです、
疲れきった医師の医療は
「トヨタのリコール事件」のように
考えられない損害が、
別のところから破けるように起こるものです。
最近、「過労死」された外科医の事を思うにつけ、
血を吐くような思いで、書いています。
お別れ会の時は、
3日前から寝ていない激務のスケジュールが
発表されました。
優秀な、信頼される、何度も新聞に出ていた先生の過労死は
会場の涙を誘いました。
過労死された先生の代わりを育てるには何年もかかります。
企業はお金に走るから、
医師を働かせようと思うのは当然かもしれない。
しかし、医師である前に人間なのだから
家族とのコミュニケーションを奪う様な
土日、祝日の出番は、家族のサポートが得られなくなる。
医師になるのは大変だ!、
私立なら
なおいっそう大変だ!
一生分の月給を授業料に前払い状態となる。
回収するには月給から税金を引くと
よほどの手腕がないと利益に結び付けるのは
おぼつかないだろう。
医師をするのは、
オリンピック選手のサポートとは行かないまでも
家族や周りの絶大なる理解と
サポートが必要です。
そのためには、休養と
学問的充電が必要です。
一生涯勉強の受験生のような職業ですから。
日新月歩の医学を駆使するのに
家族も回りも、
「医師は医師だけやれば良いという環境」をつくるためにも
月給だけでは足りません。
タクシーで一瞬の睡眠を買い取り
家族や、回りの
プラス応援の労働で、サポートします。
それだけに、土日のコミュニケーションが
環境を維持する共有時間であるはずですが
現実は、さまざまな用事でふさがります。
束の間の休養が医師をするための大切な時間となります。
父が54歳で過労死したのは、
救急外科患者は、土曜日も日曜日も来ていたということです。
看護師も事務もコメディカルも大変なのはわかりますが、
交代できるのが救いです。
医師は交代できません。
持続した緊張は命と戦うだけに、
疲れは医師の内部で起きています。
最近も、外国で臨床医として貴重な経験を重ね
他の医師では代わりが出来ないという名医が過労死しました。
50歳代です。
父と重なり、、、ぽろぽろ涙が出ました。
医師の内側からの視点で他人はは見てはくれません。
給料の安い高いというのは額面ではなく、
「維持費のかかる生涯受験生」を抱えているような
日新月歩の、医学界の全体から、
医師という部分を判断してほしいものです、
医師という部分から、月給の額を数字で比較をする事は
燃費のかかる車も、自転車も同列比較という事になります。
亡くしてみて、、、初めて、、、
地域のみならず、、、
日本の、、、
世界の財産だったことがわかります。
働いて、、、働いて、、、
過労死だけは避けねばなりません。
理不尽な労働時間を強制しないように、
一見居そうで、、、代わりがいないのが、、、
医師です。
健康だけが最後の日本の砦です、
彼の突然死の後、
ドクターヘリで運ばれる救急患者さんは
新たな引受先を探しながら、、、
手遅れの悲劇が待っているのです。
帰りたい、、、思いやりと、、、感謝のある日本に。
帰りたい、、、「先生、、ありがとう、、、お願いします、、、」
帰りたい、、、
戦争で、東京の本家は無くなった。
父ほ戦場に、兄2人と姉一人、戦場となった外国で死んだ。
敗戦が水面下で囁かれる終戦直前、
軍医だった父と、戦地に同行していた母を
母の父、、、私にとったら祖父が、
韓宇連絡船に乗って、
戦地まで娘夫婦を迎えに行ったのだった。
戦乱の中で、不衛生な社会状況下、
兄も姉も死んでしまった。
長男と二男を連れて、
着のみ着のまま
祖父に促され、帰国出来たものの
東京は空襲で焼け、南へと逃げたのでした。
串本まで来て、ほっとしたのもつかの間!
空襲に追われ、山奥へと疎開したのでした。
世界遺産となっている山奥には
戦後もB29の。。。ゴンゴンゴン、、、という
不気味な音が大空を灰色に染めた。
やがて、
ジープでチュウインガムを配るアメリカ兵が
終戦の日本にアメリカ文化を撒き始めた。
その頃、串本ではシャチに追われたクジラが
数十頭も濱に打ち上げられ
皆も、好奇心で串本まで見に行った。
串本では、クジラ吠える海があり
捕鯨船が「文化」のようにクジラを運んできた。
桟橋の市場にゆくと
クジラの解体をしていた事もあった。
土地の漁師にとっても
クジラ捕獲は「文化」が
引き継がれた結果のようにも思え、
自然の事であったに違いない。
クジラのベーコンや、クジラ弁当や、
クジラステーキは、戦後の食糧難時代に
どこの茶の間にも見られた、
昨日、孫と一緒に
「オーシャンズ」を観に行った。
小学生を頭に、幼稚園生の弟たちも、
「シロナガスくじらだ!」
「マッコウクジラだ!」
、、、、
声をたてて興奮して観賞したのにはびっくりした。
確かに、、、視点を変えれば
捕鯨、イルカ捕り、ふかひれ採集は、、、
もんだいである。
日本は「寿司食いねー!」
「トロ、マグロ食いねー」の国である。
孫達は「すし」も大好きであるが、、、
果たして、
これからも同じだろうか?
ちなみに、
串本の捕鯨を批判した趣旨の映画が
アカデミー賞と、テレビは告げているが、、、。
串本から、
クジラ文化と魚たちを取り上げたら、
漁師の人々は
「文化がなくなる」と、悲しむかも知れない。
私的には、クジラはやはり、、、
海を回遊してほしい。
孫が大人になった日は、
はたして捕鯨はどうなっている事だろうか?
良い人生ですよね、、、
スーパーーマンだって、、、
年をとるのですから、、、
清水選手は、、
決して大きい体格では無かった
柔道のように
世界の巨体を投げ飛ばして「金」をとった。
帯広の皆だけではなく
同窓生にも
応援している後輩にも
「夢」と「希望」を与えた。
カナダのバンクーバーオリンピックの「「銀」「銅」は
清水選手の「存在そのもの」が
後輩が育つ土壌となっていたと思いました。
種が「清水選手の育った肥沃なイメージの畑」に芽を出した。!
偉大な後継者を育てた。!
引退という現役、現場から去っても
スケート界からは永久に引退は無いのですから。
普通の人の生活リズムの中で
主役よりも難しい
名わき役をやって行けるのは
清水選手をおいては考えられません。
昔、笠智衆という脇役俳優がいました。
その俳優の出ていた映画では
主役を見事に盛り上げているのですが、、、
映画を見終わって、、、覚えているのは、、、
笠智衆の「存在感」だけでした。
本物は「輝くのです」
本物の輝きは「真実」だからです。
これから、普通人の生活に戻っても、
「金をとれた生きざま」は、
永遠に後輩を育てる太陽の光です、
野にも山にも、海にも、川にも、人々の心がある限り
スケートの人生にかけた「生きざま」は
太陽の光のように、隅々まで心を育てるのです。
一隅を照らす光となった清水選手に、、、引退は無い。
冬の寒さを忘れさせてくれた「オリンピック」
素晴らしい時間をありがとう!
女子スケートの「0秒02」の競争は圧巻でした!
ドイツも、ヒヤリとしたことでしょう!
オリンピックの「金メダル」「銀メダル」「銅メダル」は
雲の上の話ではなくなった一瞬でしたね。
、、、、、、ス、ス、、すごかった!