いつも、楽しみに家族そろって拝聴する優良番組と
我が家では、孫子含めて3代の共通会話のもとになるTV番組です。
難解なものだけに、、、「なるほど、、、!」という
生徒になり切って観ております。
本日は「日本にはスパイがいっぱいいる!?」という
発言に驚いています。
アメリカ兵が、
ドイツやイタリヤに多いのはそれなりに理解できますが
原子爆弾で本土が木っ端みじんにされた日本が
生まれ変わって、
文化国家として、
経済を中心に
世界から必要とされる国になっているだけに
スパイが居ても、産業スパイぐらいかな?と、、、
平和ボケをしておりました。
私は家から近い高校に通学しました、
小松川高校は「政治に明るい女性生徒」が大勢いましたが
先輩に、山口シズエさんだったかしら?
女性議員が居ました。
美人で最先端の指導力と、女性の認識を変えるだけの実績のある先輩で
大いに啓蒙されました。
マンモス大学の
日本大学に通うようになってからは
ノンポリ、、、という感じで
政治より、まず、自分を仕上げないとならないという
「底抜けの大きな社会の縮図」のような日大に
なじむところから始めました。
男子生徒が、圧倒的に多い理工学部の女子学生として、
ESSの会話クラブに所属して、
外国を意識するという昼休みを過ごしました。
すべては自己責任で、
手探りで、
自分がやるべきことを考えながら
一粒づつ米粒をつぶすがごとく、
教科書をめくりながら
巨大社会にくっつける為の、
専門知識に対応できる知識の糊を作りながら
とれる免許をひとつづつゲットしながら、
なんで免許が居るのか?を
自分なりに多岐にわたって検索するという繰り返しでした。
総合大学の良いところは
教職免許も習得できたという事でした、
中学の教職免許の実習からは、
「義務教育の必要な意味」の
根っこが漠然とわかるような講義があったという事でした。
被差別問題に突き当たったり、
日本の歴史を読みふけったり、
島崎藤村の「破壊」を何度も読んで、考えさせられたり
「橋のない川」など、、、
疎開地の村落で出会ったシーンを思い出したり
夏には合宿で、信州の山を歩き回って、
薬草になる植物を探しながら、学問は足下にあると痛感しました。
巨大都市となった「東京」、、、どこにも戦後は見当たらなない。
東京都はあまりにも違う価値観に愕然としたり
田舎暮らしの自然にあこがれながらも、
旧いしきたり手順に、困惑することもあり、
新しい視点に気が付いたり
人生はタイムアップになる前に、
世界遺産になるような、
厳かな歴史は観光旅行で認識だけしておいて
傍観することで、とりあえず常識をもって傾聴。
自分の人生で間に合いそうなことで、
社会に貢献しながら、
あるジャンルには
糊のように、
ペタンとくっついて、生きてゆく場所を作らねばなりませんでした。
生きる居場所ができるまで、こだわりぬくことの必要性を
漠然と、、、日大から学びました。
一方、、、個人的な家庭教育を軸に考えると
子供のころから、
イギリス医学を学んだ父の垢ぬけてまぶしいような
雰囲気にあこがれて、一度は医師になろうかと夢見た時期もありました。
戦場での野草の薬効の認識から、薬の欠損を切り抜けた経験談や
戦争は反対でるが、戦場では軍医の居る隊は強かったという
敗戦まじかの攻防戦の激しさ。
医師として、幸せだったとは、、、思えない、、父。
ドクトルジバゴの映画も、
戦争中の、、、医師でありながら、医師の仕事のできなかった
幸福とは言えないドラマであるが、
戦争中も戦後も、日本人は
激しく、厳しく、カリスマ的に生きる人が
珍しくなかった。
同じ医師になっても「戦後と「戦前」では
社会的な立ち位置が違っていたような時代の流れの中で考えると
戦前の大博士級のイメージから
戦後の労働省の基に置かれた医療界との違いはどうだろうか?
父の背中を見て、医師になること以外に考えられなかったという兄、
日大の医学部に進学した兄は
果たしてこうふくだったのだろうか?
頭脳のジャンルのスポーツクラブのように
絶対の位置に居る教授の基で
床から天井に着くような量の「教本」を読み続ける7年間は
完全に医師の世界の一部になってゆく兄を見ながら
無造作に読みかけの医師法らしい法律の本が伏せてあるのをめくると
小さな字で、、、読む気持ちにはなれない、、、がっくり来るよな
薄い紙でした。
「日大は、先生の方からは指図はしてこない、、、
しかし、、、試験に合格しないと進学はさせない、、、
そして、落第すると
授業料は、決して安くはない落第分の追加を払わねばならない。
私立大学の医学部に進学しても、
生体の宇宙という基礎的な学問に出逢える学生は
ほんの一握りであり、
学問の夢を追うには
親が相当なお金持ちであり、
息子の夢を信じて応援してくれる条件下でないと
私立大学の医学部は誰も彼も、、、
学力があるから、、、というだけでは
卒業してから「医師をする」という事の方が
難しいのではないかと、、、、???
妹で、女性蔑視の日本で、
私大の女医になっても、結婚しているようでは、仲間外れになるのではないかと、、、?
前途多難な条件が待ち受けていると思うと、、、委縮してしまう何かがあった。
戦争で疲れ切った外科医の父が、長生きするはずはないとは、、、
常日頃から、緊張して、その日その時、最大限に頑張って生きてはいた自覚はあるが。。。
大学時代に父が50歳半ばになるころ疲労、過労死で急逝した。
やっぱり、、、7年かかる医学部に進学しなくて正解だった。
途中で挫折するところであったと思うと、、、ひやりとした。
新卒だっただけに、、、
兄は日大の医局では無くて、
がんセンターに研究生のような無給の立場で
教えてもらいながら、帰宅してからは開業業務をこなしながら
「内視鏡の指導医」の認定をいただき、
開業は閉鎖して、千葉県にある「亀田病院の胃カメラ指導医」として
勤務に出て行った。
父の残した戦後の立ち上がりの為の開業は
父の時代の医師たちを過労に追い込み、
40代半ばで倒れて、閉院していった外科医も見た。
開業の時代は、税制が優遇されて推進されていた時代から
逆条件の時代が始まっていた。
健康保険制度は、術後の高価薬の抗生剤なども
使用制限があり、医師の自腹で継続投与を余儀なくされた外科開業の事情であった。
請求事務も、添え書きの思いつかない明治生まれの愚直なまでの医師らしい医師は
融通性も利かない不器用さも手伝って
経済観念のある医師のみが生き残れるという
医学とは矛盾も多い「保険制度の出発」や「諸々の政府の制度の追加」で
税制改革で、「医師をする」医師は、開業をたたんで
勤務医になっていった時代が始まっていた。
一方、、、銀座の真ん中では
お金持ちの「患者さん」数名診察で、開業してゆくという
時代をとらえた、医師以外の頭脳の明晰なタイプの開業医が
雄弁だった時代になっていた。
普通の開業医は
家族はサラリーマン「中の中程度」の
生活レベルがあったように思えるが
戦後だけに、オール貧乏なドサクサ時代だけに
医師の家庭は
社会的には「金持ち」という誤解の多い立場であり
嫉妬も多く、由衛なき被害もあったりした。
医師夫人は孤立する人もかなりいた時代であった。
東京は、勤務医は、
中流サラリーマンとして信用の高い好感度スペシャルで
様々なレジャーの会員として勧誘を受けては
仕事の傍らストレス解消に
一瞬の束の間の素敵に、仕事からのストレスを解消していたりした。
「高級ホテルのスパ」などの会員も
結構いたような時代が
過渡期としてあった。
安全と時間の節約と、患者さんへの義務でがんじがらめの神経を
休め乍ら、煩わしい騒音を避けて、
出逢う人間も、個人情報の守れる環境に
月給の大半を払いながら
精神と、肉体の健康をリセットしに、週末は仕事の為に
必死に泳いだり、ゴルフをしたりする姿が、開業医には珍しい光景ではなかった。
戦後の復活の屋台が並ぶ都心でも
気楽に屋台に陣取るタイプの医師仲間も居たりした。
「贅沢な一族」というイメージで社会からは
子供たちは嫉妬の目で見られたり、
特別扱い的な疎外の「いじめ的な行動」に出逢ったり
「命を相手に戦う医師の内面のストレス解消は大変な費用がかかっていた、」
日大卒の兄貴にとって、スポンサーの父親を失った瞬間から
お金持ちの子弟の集まる条件下で
医局生活を続けることは不可能な時が来ていた。
日大の話から、、、いつの間にか医師の舞台裏の姿の話になってしまいましたね、、、
マスコミから、表面に見える姿と、
その一瞬一瞬に使うエネルギーが、
お相撲さんの優勝争いにも似たすごいエネルギーの放出があることは;
一緒に暮らしている妹には、
お^らというのか?雰囲気といえばよいのか?
私なら、負けてしまうだろうと思える、、、重たい空気に包まれていた、
学力的には国家試験までなら
私にも頑張れると思われたが
医師の国家試験を通過してからの人生は
体力、気力学力。
時代とともに進む医療環境の
ネットワークの仲間にしてもらう事や
親兄弟の価値観の同一化と協力や
金銭的応援、、、ETC.
兄貴を見ていると、医師一年目で
院長の父親を亡くして、
残された50歳の半ばの母親のstatus維持と
弟妹の大学進学が同時に双肩にっかて来たのですから
ボンボンが社会に放り出された状態だったと推察できます。
短大卒の兄嫁には
男の意地もあったと思うのですが
家族一丸となって、「医師の奥様」というstatusを守り
「平和ボケの奥様になっていただきました。」
母は50人以上のピアノの弟子を教える日常を持続し続け、
3人いっぺんに辞めてしまった台所のおばさんたちの
家事万端は、私に回ってきた。
週末は家族全員の洗濯を母から頼まれて、洗濯場に、ひねもす入り、
クリーニングに出すものや
洗うものに取り囲まれて
洗濯機の回るそばで、
「大学祭の英語劇のシナリオを覚えたり、、、」
手洗いするものは
足で踏みながら、英作文を覚えたり、
お鍋の蓋を持ったまま、法学の文を丸暗記したり、、
夏休みは早朝から、教育実習に出かけ乍ら、帰りには
リュックに夕食の材料を背負って来たり、
、、、、、
力がないと、出番がないことを痛感しながら
使用人の半減した我が家の雑用係は
私に白羽の矢が当たったのでした。
次男の兄貴は極めて要領が良かったのです。
外国系の医薬品の会社に勤めながら、
英語やドイツ語がネエイティブになるまで
会社の仕事に並立して覚えてしまい、
通訳試験に合格して
外国に行ってしまいました。
てんやわんやの、、、父のなくなった後の激戦時代が過ぎるころ
相当のことには驚かなくなってなっていました。
兄も弟も医師として、
「医療への夢に忠実に借金経済をとってゆきました。」
何よりも、医療を第一に、時代に沿って、日進月歩の医学の世界に
全収入を
「医師をする」ことにかけて、精進する二人の姿を見ながら
「真似のできる技ではなかった、、、と。」過去を振り返るのです。
太い胃カメラは、どんどん細くなり
先端が回転するものや
先端で胃の組織を採取できるものや、
日進月歩の発展に、兄の胃カメラ室は
剣道の道場の木刀設置場所のような、
毎年、、、バージョンアップされた型の胃カメラが増えていった。
オリンパスの製品が多かったのを覚えています。
パソコンの端末はオルガンほどもある巨大な?もので。。。
開業は、、、儲かるどころではない、
バンカブルな医療機械の会社の客という時代でした。
一本、、、安いもので150万円前後の値段です、
大学卒業の男性の月給が12000円の時代です。
銀行が開業医の大蔵省でした。
普通の世間の風評では、医師が二人、薬剤師が二人の家庭には
「お金が儲かると、、、考えがちでしょう?」
弟は、がんセンターの黎明期に「夢を現実にと、、、」
全力で、がん撲滅に向かって、
CTってなんですか?、、、の時代を、
CTを知らない人が居ないと言える今日まで
がんの早期発見の検診、研究に世界レベルの実績を残しました。
開業医の兄が居ることは、あたかもお金が回ってくるのではと、、、思うのが世間ですよね。
しかし、はじめは無給で研修に入ったときは
2年目で、貯金がなくなり、一般の病院の医師募集の求人を考えなければ、、、
兄の開業の医療施設で留守番になって働かなば、家族を養えないというピンチに遭遇したらしい、
もう、、、限界だという、、、そのとき、
市川先生が、弟の仕事ぶりを認めてくださり、スタッフとして有給になりました、
兄は、兄弟には他人いじょうに金銭には厳しく、
弟の無給時代には一切の応援金は出さなかったのですが、
実家の長男だけが相続をする時代の流れに反して
弟にも何らかの遺産があったのと勘違いするのが、、、
世間という評論家の思惑でした。
兄も悪ふざけがsyギルと思うほど、弟には厳しかったのを不思議に思うのです、
「私は弟の借家住まいの自宅にお邪魔して、質素な生活に絶句でした。」
兄に、「姉のゴルフ三昧、お稽古三昧、グル目三昧、、、旅行三昧、、、
プレタポルテのドレッサーの金銭使用を半分にして、、、弟にまわせないのでしょうか?」
、、、と、、恐る恐る尋ねたところ、
開業は、お金を世間に回すような使い方をしないと、、、ね。
稼いだお金は「医療機械、設備投資、学会、研修、すべての品質向上や
仲間の生活水準に合わせないと、地域への役割は多岐にわたって、
開業しないと理解できない出費が「患者さんの心を安心に導くのだよ。
「それを見て、、、ショウウインドウのように、役割が果たせる時期だから、
本人は、、、無意識でセレブのように気取っているが、
150人の日々の外来患者さんは、
奥さんの派手な金銭感覚で、セレブの華やかさがあるから、
心理的に、
流行っている病院に自分も通っているという、、、心の循環があるんだよ。」
つまり、、、無駄な贅沢費用ではなくて、
アグレッシブな元気な通院と回復に、ムードメーカの、、、
立派な仕事になっているのだと、、、、兄は言った、
キツネに騙された心持を品がrも、、、
たしかに、、、世間やマスコミは、、、
象は薄い内輪のような生き物だと、、、得意になって話す、
一部を取り上げて、
上から目線で
話題性にある方向にと
聴衆を振り回してしまう。
兄としては、、、苦肉の策なのだろう、、、・
市川先生は、困窮のぎりぎりにいる弟に、
ぎりぎりのタイミングで、
「正職員として、
がんセンターの夢を追うことのできる医師、、、として
推薦してくださったのでしょうね、、、きっと!」
未来のがんの早期発見に向かて!」
月給をもらえる立場になれるまでの、評価をくださったのでした。
兄も、戦争を挟んで激動の時代を生きた父の早逝後
母を守り切って、がんセンターで認可された
内視鏡の指導医の腕一本で、千葉の亀田病院に勤務医として出発しました。
母からは、「開業の時代が難しい社旗情勢となり、実家は閉院をしました。
あなたも、寂しいでしょう、、、実家がなくなってしまっても、
兄を、ウランではいけません。母親のピアノ主室の継続が出来たのも
孤独に耐えて、開業を維持しながら、学問を続けた兄の努力に、私は感謝しているのです。」
実家は売られてゆきました。父の死後、未完成の弟妹を仕上げ、母を守り
自分の妻を
「平和ボケの世界に維持することで、開業の集客力を維持し続けた華やかさ演出は
デパートのショウウインドウのように、維持費は莫大だったのですね。」
実家は売られてゆきました。100円の相続の分け前もありませんでした。
弟は、売られたのも、後から知ったという「寂しさの中でした。」
売られてしまった実家を一緒に見に行こう。。。と
あんまり熱心に言うものですから、弟の車の
後部座席に乗って、降りないまま、実家を観ました。
門から玄関まで植えられていた母の大好きだった木々はなくなり
自動販売機が並んでいました。
真っ白だったビルの壁は
模様タイルで返信していました。。。
何十年も前に、駅と我が家の間ぐらいにあった
「AK病院」という立派な医療施設が
先生が亡くなると、すぐに更地になり、、、
何が出来るのかと思っていたら、、、
モ^テルになりました。
哀しい思い出と、家族はあきらめたのでしょうか?
その後、転々として、今はマンションになったようです。
自分の実家も人手に渡り、、帰る所もなくなりました。
弟が、自分の自宅に呼んでくれましたが、
弟らしい学者の家で、こじんまりとした、子供との2世帯住宅で
質実剛健の無駄のない、庶民の性格の暖かな普通の一軒家でした。
学者として、国立がんセンターで、医師としての夢を追って
早期発見のがんの撲滅に向かって生きた弟は
質素な家の前で輝いて見えました。
実家が相談もなく、知らないまま人手に渡っていたと
嘆く弟の、時間貧乏は、寂しさがいきなり降ってきたようなありさまでした。
「いいじゃないの、、、子供と孫の、こじんまりした二世帯住宅はローン付きだって、、、最高だよ。」
「実家の患者さんに占領された大きな待合室は、
自分のものと勘違いはしても、維持する役目だけじゃないの?」
その点、、、ローンが残っても、二代目が払える小さな木の家は
まさに、隅から隅まで、、、家族の物でしょう、、、
維持だけしなくちゃならない建物が、
ただ同様で売られたからって、壊し代金が要らなかっただけでも
良しとせねばね、、、。
「弟よ、、、君自身が、、、がんセンターの黎明期に、
夢に生きて実現とした実績が
世界中に実家があったような気がします。」
父の時代は手遅れになりがちだった悪性腫瘍の外科手術も
団塊の世代の頑張りで、がんと共存しながら勤務する時代になりました、
姉の私は、皆の夢を実現化してくれた「弟の生きざまそのものが実家」だから
「お姉ちゃんは、、、寂しくないからね!」
兄弟、、、戦争の生き残りの4人が
父母を囲んで会いたくなったら、、、オリオン座で会おうね、、、」
日大を卒業した兄、そして、日大の薬学科を卒業した私、
千葉大の医学部を卒業した弟、
そうそう、、、もう一人要領のいい某薬学大学を卒業して
外国で4年も暮らしていた兄の子供は
東大の大学院を卒業して、東大生と結婚して;
長男の入学したかった東大を子供の代で実現させました。
実家は、、、子供の時代に東大生を出せたという事が「実家」になっているでしょう。
よーーく考えてみようよ、、、
巨大なビルであろうと、、、中間の病院であろうと、、、
小さな庭の家であろうと、、、
銀行からローンを借り建てて、、、自分のものと思っているだけで、、、
固定資産税や、相続税、、、維持費にリホーム、修繕代金、、、壊し台と、、、
結局は、死んでゆくとき持ってゆけない粗大ゴミだよね。
主が住んでいる間だけが、満開の香しい香り付きの実家であっても
主が居なくなった、、、コンクリートの240坪の東京の土地は維持はできません。
まわりまわって、、、国の物なんですよね。
生きているうちは家も生きている。
主が死んでしまった家は、、、不動産屋さんの商品でしかなくなりますよね。
大事にしたいのは、人はどう生きたか、、、という事かもしれませんね。
同じ、母のお腹から生まれたとは思えないほど、それぞれが違う我ら4兄弟!
74歳になろうとする私には、、、兄弟に感謝です。
遠く離れていたけれど、、、皆が実家だと思えるから。
生きてきたことを振り返ると、「実家」というのは、家ではなくて
「消えることのない感謝」かもしれません。
私が死んだとき、私の実家はなくなるという、、、形而上の空間でしょうね。。。
日大の一学生だった私が、日大も心の中の実家だから、
マスコミが、あまり、、、ぼろくそに言ってほしくないというのが本音です。
日大の、オリンピックのメダルの数も、実績は絵空事では成り立たない時代の日本を
世界にアピールして、戦後のへ垂れた日本国民に「渇から喝へ導いて、やる気をくれた水泳陣」
今日の日本が世界に認められる根幹のスポーツ界を
私はやっぱり、、、「感謝」しかありません。
もちろん日体大の体操人や、パシュートのスケート兄弟も、日本を背負ってきています。
世代交代の時期のこうした、かっての実績を花束で見送れない日本人のせちがらさが
武士の情けの大岡裁きが「できないものかと、、、」
深い事情は分かりませんが、、、日大生は数が多いので、、、
愛校心の数も星空のように瞬いていますので、
無数の小さな光を塗りつぶすと、闇夜は寂しすぎます。
過去の実績は、時代時代に更新して着くことでしょうけれど、、、
花束をもって、未来に引き継ぐ日本になってほしいですね。
勝つこと以外に生きる道がなかった、
戦後の復活のやる気を支えた、
日大スポーツ人への、、、その時代を切り抜けたやり方が
変わらねばならない時代に入ったという事でしょうか?
とにかく、、、日本という「日本」を、
商業ペースでTVのワイドショウで
くそみそにいうのだけは、、、聞きたくないから。。。
TVは目下消しています。
早く、一件落着!、、、大岡裁きを期待しています。
人工知能で、裁かないでと、、、。
大学時代の忘れられない思い出は
数種の仕事の「ながら族」のベテランになってゆきました。
どこの大学も、明日は我が身と考えて、学生の生き残りを大切にして、
汝の隣人を愛せよ、、、と願うだけの茶の間です。