花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

政治と医療の現場 

2008-02-14 12:14:37 | Weblog
        患者さま、、、という意味


私の父は外科医でした。
昭和のはじめ、総合病院の院長でした。

戦争がはじまりました。
軍医として敗戦直前の昭和19年8月まで、大陸の最前線でした。

敵も味方もなく運び込まれてくる野戦病院
包帯も薬も無くなったとき、
自分の衣服を破いて止血したと、、、しんみり話していました。

足が吹っ飛んで無くなっている患者さんが、
「先生!足が痒い、、、掻いてください、、」という。

虚ろな意識の中で、「先生、、僕には家族がいるんです、、しにたくない!」

「大丈夫だよ、、、明日には痛みもなくなるよ、、、」

しっかり手を握り、希望の中で兵士を人間として見送った、、、と。

その時、戦場にイエスキリストが立っていたように思えた。

医療の現場は、どんなに知識があっても、
また、どんなに権力があっても、
頭だけで考えて介入すると、
ステロイド薬の使い方を間違った時のように
中が腐ったまま表面が治って見えるという
手に負えない状態になると思いませんか?

人間に例えるなら、
健全な人間の各臓器は
各々が独立した役割を担いながらも
他の臓器や器官や細胞や、、、足の痒い兵士のように
科学では割り切れない現場の要素が入ってきます。

人間は「頭」だけではどうにもならないバランスで生きているとおもいませんか?

とっさの場合「脊髄反射」で事故を防ぐ能力もあります。

「医療とは、、、こうした現場の体得と医学や科学や多くの要素の総合した
『経験の集積』の芸術にも似たジャンルの閃きの中で
日進月歩の学問を日々身につけながら、全力で患者さんに向き合うとき、

外からは、医師の内部で消耗している何物も察知できないのではないかと、
私は、父の体験談に涙しか出ませんでした。

見えない、解ってもらえない、捨て身の医師たちの「患者さん」と向き合う
全力を、享受できる「患者さん」の立場こそ

    『患者さま』だったのではないでしょうか?

患者さまが納得するように説明をするのには
あまりにも、無理があるよう思われませんか?

横山大観の名画を見て
こんなに高いなら、あと10羽の鳥をサービスして描け!

反論ができません。

21条は、、、
もし、こんな状態を説明したとしたら、

こんなに「スペースばかりの絵」は納得できないから
説明しろ!。。。(**)、、、ということになりかねないのでは?

敗戦で帰国を許された「父」は、3人の子供を大陸で亡くし、
外科のハサミだけを胸に抱いて帰国した母が

嫁に行くわたくしに「父の形見」として下さいました。

私の夫も外科医です。

外科は一人ではできません。
周りが各臓器のように役割を果たしてくれたとき、
健康な人間が動くように「手術」は遂行されます。

だからと言って、協力すべき医師以外の医療スタッフが
各臓器主体の優先権を主張すると、
患者さんの手術は請け負えなくなります。

「患者さま」のためにも、医師が医療の腕をふるえるように
政治も、厚生省も、「現場」の経験の重厚な価値を
説明させることに一生懸命法律を考えるより、
医術を全力で心おきなく「患者さまに提供できる環境をサポート」する

医師の能力と、経験に費やした時間の貴重なベクトルを
「医療には半可通な患者さんに納得ゆく説明を求める」方向にむけるのは

「一年生を六年生の問題が解けるように説明」を求める無理があります。

やはり、「信頼」「命を任せます、」という、医師が全力で医療に向かう
環境を整えてくださるのが、厚生省であってほしいと思いました。

ちなみに。専門医の息子が、母と子の食卓を囲んだ話の中で
こんな事を言ったことがあります。

「国家試験も教科書も『医師になる素養を問われる勉強』であって、
医師に成ったときから、
「経験の学問が医師として患者さんに役立ち始めるんだよ。
、ちなみに、
「心臓は左にある図の解剖学」を単位合格して
医師国家試験にも
左の図が描いてあっても、
僕の担当した患者さんは
「右に心臓があった」、、、これが現実の現場だよ。
現場から医療は始まるんだよ。

開腹してから発見される説明の難しいことがあるのが医療だよ。

開業すると、患者さんの立場からの理不尽な訴訟や、
法律家という、自然科学とは遠い考えの弁護士が
医師が、時間を割かれるのを承知で、患者さんの敗訴も承知で
患者さんの感情的な訴訟を引き受けて、
診療中に貴重な時間の集中力を乱しに来るのは、

コンサートの最中にドラを叩きに入場してくるように迷惑だと、
心底判るのは、産婦人科医が居なくなってからでは遅いと思いませんか。

鏡現象のように、
「医師を自分の心を映して思うのは、命をかけて命を預かった医師につばを
はきかけるのとおんなじではありませんか?」

政治も、厚生省も、医師会も、最終段階で死と背中合わせの患者さんを引き取る
勤務医に「21条」が独り歩きし始めると、

もう、、、重症の患者さんを引き取れる外科医は委縮して、引き取れる病院は
なくなるでしょう。

マスコミだけが、「タライ回し」「医師不在」を
砂漠のような言葉で話し続けるという
日本の医療は、、、、何所に向かうのか?

愛を  信頼を  感謝を、そして、厚生省のご協力が

「患者さま」とよばれるほどの
「医師の全力の医療を享受できるのではないでしょうか?」


ゴジラになった 雪まつりの後

2008-02-12 00:36:16 | Weblog
           壊してしまう!

      ゴジラになって 踏みつぶしてしまう
      
      雪の塊になって

      雪まつりは終わってゆく。

      冬が壊れてゆく

      ゴジラの叫びが 寒い空に春を呼ぶ

      また!来年! ありがとう  、、、みんな!

        雪まつり

2008-02-08 01:06:03 | Weblog
         雪の祭典

昭和44年札幌の住民となったころは、
手作りの雪像がほほ笑を誘いました。

掌のなかの、
我らの街の我らの冬の活性のイベントでした。

一人の北大の学生が
雪だるまの類の雪像を
大通りに並べたのが発端だっと聞いています。

オリンピックの頃は、
世界の訪問者も喜ぶ巨大な祭になっていました。

雪像が世界に向けて発信する規模になりました。

いつの間にか、
私の掌から、逃げてしまいました。

でも、
時代とともに栄えてゆく雪まつりに
外野席から

惜しみない拍手と応援のエールをおくっています。

   炬燵囲み  猫の目細く潜りくる

             テレビで拝見雪まつり

冬 来たりなば 春 遠からじ

2008-02-03 23:08:33 | Weblog
         
    
      東京では 雪が降ったのですね!
      高校の受験の日も 大雪でしたね!

      雪が降るなんて、、、合格間違いナシ!
      つるつる滑りそうになりながらも
      雪で滑るなんて、あってはならない。

      懐かしくも真っ白な心の青年時代の一大イベントに
      果敢に向かっていった受験時代。

      
      若き日は、それがすべての未来を決めるかのように、
      喜んだり、悲しんだり、
      友人も我も色分けされていた。

      受かった!、落ちた!と一喜一憂する前に、
      若さこそ!実はこの世の宝物なのだから、
      何でもできるのだから!
     
      受験生諸君!頑張ってください。
     
      若き日に、自分に出会えるように!