明治生まれの父母にとって
富国強兵の国策の中、
ややもすると、
戦争の一触即発しそうな情勢の日本は
全員が世界が見えていない未熟な知識で
近代化の津波が押し寄せました。
1909~1910年
アメリカが南満州鉄道の中立化を列国に提案したが
日露両国が共同で拒否したという
過去の歴史の中で、父母はこのころ誕生しています。
政治も、教育も、社会そのものも
封建時代の過ぎ去った跡には
西洋をはじめ、アメリカ、ソ連 中国、朝鮮、北欧、など、、、
つきあってゆく世界の国の視点と
どのように共存してゆくのか?
皆が、手探りしていた時代だった。
*****少し歴史を振り返ってみましょう****
民主化へのプロセスだったのかもしれませんが、
東洋開拓会社や
朝鮮総督府のすでに設立のあと、
誕生した父母たちは
どのような教育を受けながらで育っていったのか
想像は着くと思います。
時代が育ててゆく子供たちによって
未来は創られてゆく責任を、
歴史家たちは痛感しているはずだと思っています。
ちなみに、元勲内閣であり、超然内閣であり、
枢密院議長であり、初代首相であり
陸奥宗光と板垣退助という
時代の寵児が、外務大臣と内務大臣をしていた時代に
何が起こったか!
受験を経験した学生時代の経験者なら
満州、朝鮮問題を巡りロシアと日露協商をめぐり
ロシアとの会談の為に行った「ハルピン」で
伊藤博文 日本国初代首相が
暗殺されている事は、
受験問題を回答する鉛筆を持つ手が
震えながら、記述した者であった。
あれから、、、紆余曲折を得た日本は
第二次世界大戦の終局に於いて
二発もの「原子爆弾」を
広島と、長崎に落とされ、
焼夷弾で焼け野原になった日本本土に
だめ押しの二発を受けて終戦となったことは
昭和を生きた皆が、戦後の復活の頑張りとともに
体に刻み込まれて、生きてきました。
敗戦となる一年前に、
私自身が防空壕の中で生まれています。
防空壕の中では
泣き叫ぶ赤子も幼児も
味方の手で、、口をふさがれ、
火炎を避ける地獄のひと時だったとか。。。!
戦争が続き、
とうとう第二次世界大戦に巻き込まれた国民は
人災の津波にのみこまれてゆくき、
壊される時代だったと言えそうです。
量子力学の世界のように
見えない世界で、
「破壊と誕生」は同時におきていたのでしょうか?
父母の誕生の明治40年代に、話を戻し
日本の国が「日本」と言う国民であり続けられたことは
権力や、名誉、
さらに敗戦後の焼け野原の中で失う物は
失いつくした時の、
だめ押しの「原子爆弾投下の2発!!」
でも日本人は日本の誇りも文化も、
復活のパワーも失っていなかった。
手探りの明治時代の気骨の入った祖父や、
父母の教育の確かさが
戦争を機に、
又、、、敗北を機に、
壊滅したのだろうか?
観光地としてしか、
伝承されないのだろうか?
アメリカナイズ、ロック、ロカビリー、、、
悪くないよ。どれもこれも、それなりに。
肉食獣と、
草食動物の違いのように
アメリカは、合理的だし
パンチも効いている。
勝ち負けにこだわって、
その一瞬の事で、
私は、日本人であることを捨てない。
日本人は、島国だっただけに
遺伝子が、血族結婚の濃さがある。
優性遺伝する「良い面」は濃縮された原液のように
敗戦で混結が産まれても、少々薄まっても日本の味がする。
日本は、戦争に敗れても、日本人は滅びない。
遺伝子の中に組み込まれた見えないHDの中に
時代の創り上げたすべてが、
遺伝子の舟に乗って
未来に届けられて行くと思いませんか?
歴史の中の我が家は
雑草の、一株の葦の草かもしれない。
、
顕微鏡でも見えない小さな点で有ると思います。
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記憶をたどれば、母の父にあたる私の祖父は
明治の20年前後の生まれであると思うのです。
青山師範学校を卒業して、先生をしていた。
その後、28歳の時、汽船に乗って
兄が移住していたサンフランシスコに留学した。
私が5歳ぐらいの時
祖父の膝の上で聴いた記憶は
「3か月かかって、汽船でアメリカに渡る」とき
嵐に逢い、
船の中の柱にロープでわが身を縛り付けて、
振り回されるのをくいとめたという
武勇談であった。
アメリカから買ってきた「銀の懐中時計」は
祖父のシンボルマークのように
三つ揃えのスーツに、いつも、光っていた。
祖父はいつも、、、三つ揃えのスーツに銀の懐中時計を持っていた。
それが、、、祖父であり、
明治生まれの、時代のリーダーのユニホームだと
5歳の私は認識していた。
「お爺ちゃんが死んだら、その時計私にくれる?」
「おー!やるとも」
祖父は、おかしくてたまらないような
優しいくちゃくちゃの顔で笑いながら約束してくれた。
晩年、敗戦直後は、我が家の居候が17人もいた。
居候だった母の弟の叔父さんの家で
息を引き取った祖父は、
全てを、息子家族に譲り、大きな教育を
私の中に残して、今も宇宙の星の中で毅然としているようである。
祖父の想いで話になりますが、
「ゴールデンゲート」を自分で描いた油絵を
疎開地の洋館の玄関にかけてあったが、
あの絵は、、、
何処に有るのだろうと、、、、、今でも思う。
私は息子たちと、ロスから、サンフランシスコまで
行ってみた。
ロスの空港で、防弾チョッキの黒人のポリスに
タクシー乗り場を聞いた。
祖父の言っていた町とはずいぶん違っていた。
そこで、防弾ガラスのレンタカーを借りて
運転手さんに交渉して
ヨセミテ公園まで走ってもらった。
8時間も、九時間も、タクシーに乗った日でした。
日本人町が、見えた時、
兄や移住した南紀からの一族が
涙ぐましい努力で、
砂漠を開拓したと聞かされた事が思い出された。
ルート66の
英語の歌を思い出して、口ずさんだ。
ロスアンデルスの話も、何度か出てきた。
青年だった祖父は、はるか昔に、
この、アメリカに来て、日本人の開拓者らと
何年かを過ごしたのでした。
疎開地で、町長、村長、校長先生、など歴任していた祖父は
小さな私などにも、
全ての村人に、厚く接してくれた。
小学校の校長先生は
私の顔を見ると、
「ポストに手紙を入れてきてくれ。」と、
必ず頼むので、嫌だった。
でも、
お爺ちゃんにはペコペコしていた。
疎開地の村に、
ひときわ目立つ坂の上の邸宅。
おじいちゃんの家は、
白いペンキ塗りの洋館だった。
他の家は、瓦屋根の日本家屋なのに、
地下室には井戸が有った。
大きな風呂のような木箱がぎっしりと
地下室に並べてあり、
サツマイモや、ジャガイモ、
季節の野菜がぎっしり入っていた。
おじいちゃんは7つの村が無医村だった所に
娘と、娘婿の医師を連れてきたことになっていた。
旧い歴史の中に先祖の物語が出てくるので
寂しくなったら、
祖父の言葉を思い出していました。
私の父母は、季のみ着のまま
戦場に迎えに来た祖父の指令するままに、
身の回りの物だけ持って
最後の便である日本への渡し船に間に合ったという
映画のようなスリルの中で生還を果たした親子3代であった。
本当は、戦地から、
命からがら、引き上げたのが、
昭和19年だったこともあり
母が最期に持ち帰った
外科の手術の時に使う鋏や、コッフェル、、、など
父の外科医としての、シンボルのような
イギリス製の道具だけが
疎開地からの再出発の全財産であった。
日本本土は、
どこもかしこも焼夷弾、爆弾の降る中、
子供を、外国で亡くした母を迎えに、
母の父にあたる「祖父」が
危険を顧みず、
海を渡って、
娘夫婦を迎えに来たのでした。
「着のみ着のまま、全てを振り返らず、
最後の韓宇連絡船に生き残った家族を急がせて、
何とか、生きて日本に帰還できました。
祖父の、息子や、娘家族に与えた「とっさの行動」は
教育と言う、大上段に構えた目線の高い教壇から
一段高く見下ろしながら与えられたものではなく、
捨て身の「愛の権化のような」そしてまた、
一緒に生きてくれた温かさそのものの中に
刃より鋭い切れ味のある行動を持って、
孫の私の中で生き続けています。
晩年祖父は叙勲されて
定年後は
皇居の庭の清掃ボランティアのような事をしていました。
日本の政治家の本家本元の頭脳軍団は何処に居られるのか
今も昔も、表面で動き回る内閣総理大臣の姿が
国民には「最高頭脳として」認識出来るだけであるのは
いつの世も変わらないのです。
歴史を紐解くとき、
歴史の教科書は、多くの機関の支配のもとに
世の中の混乱を避けるために
本筋が隠されている場合も予測される
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母の心の傷は、
母の故郷、心の原点で
昔懐かしい疎開生活をしているうちに
少しづつ治癒してゆきました。
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と言うのは、疎開地で母が40歳のころ、
戦地で失った男の子を取り戻すのだと言って
当時としては、経産婦の40代の出産は大丈夫と言って
母ははじけたように戦後の新生活に向かって言っていた。
南紀の6月は梅雨で、来る日も来る日も雨であった。
そして、いきなり晴天!弟が生まれた。
戦争を知らない時代の子が 産まれたのです。
疎開地は、家と家が10分も20分も離れていたり、
山坂、あぜ道、細い道をくねくねと曲り
落っこちそうな吊り橋を渡って、家が建っていた。
弟の出産は、瞬く間に村と村を駆け抜け
新宮や、串本や、田辺の街の知人や親類に届いた。
「戦争で多くの人たちは、家族や伴侶を無くして
疎開してきていた。」
それだけに、「医者の家に子供が生まれた!」
「先生さんの所に、男の子が生まれた!」
おじいちゃんの宿屋で女将をしていた叔母さんも、
たった一軒しかない美容院のママさんも
小学校の高い石段を降りたところの
文具屋さんのおばさんも、
仕立て屋さんも
子供たちの遊び相手でフリーターなのか?
あんまさんなのか?青年も
私の耳を間違えて鋏で切って、平謝りでアメを呉れた散髪屋さんも
「医者の家に男の子が生まれた!」
キンモクセイとギンモクセイと
ヤマモモの樹のある庭に面した母屋の広縁側に
父の患者さんたちが、ニコニコ顔で押し寄せた。
新しい時代が来たんだ!
戦争は、、、本当に終わったんだ!
お祭り騒ぎのように
お祝いの村の人たちで、診療所と背中合わせの母屋は
何日も、入れ替わり立ち代わり
人がひしめいていた。
外科医の父は、戦陣外科の取得中に
産婦人科も、耳鼻科も、、、なんでもござれの
優れた臨床の実力が認められていた。
母も、自宅分娩に、何らの不安もなく
弟を抱いて、すこぶるご機嫌だった。
「戦争で失った子供を取り戻すつもりが、
全く新しい、初めて見る素晴らしい子供を授かった!、」
「疎開中の紀州で生まれたから、
紀州にちなんだ名前をいただこうネ」
祖父が父と一緒に考えてつけてくれた名前で、
弟は、村や、町の、話題の赤ちゃん時代をすごすのであった。
父は、戦争で傷ついた母の心を癒し、
再び元気になる妻の健康に、
全てをかけていた時代でもあった。
後方に憂いを残さないような、
地道なリカバリーで
失ったファイルを、一つづつ
じっくりと、腰を据えて修復するのが、
男の子を取りもどす事だったのかもしれません。
父の終活は、
戦争の喪失感を
ゼロに持ってゆく事だったのかもしれません。
もしかしたら、医師だからこそ
自覚していただろう寿命の短さに
やり残したことは、
母の心のマイナスをゼロからプラスへ
第一象限の時間に戻すことが、
父の最後の仕事だったのかもしれません。
終活で、
税金対策をしている自己中心の現代人の物欲は
いったい何処から発生した国民病なのだろうか?
捨て身で、未来に生きる者への最後の教育資金として
自分は木端微塵になっても、
東京への里帰りを果たしてくれた
父の「終活」に気が付くのが遅かった私です。
出会いから「俺俺俺、、、」が強かった伴侶が、
父が急逝した昭和40年代
「外科医の居なくなった外科の診療所に入ってくれると母に言ったのです。」
私は、その言葉を信じて、
奨学金で進学した夫の奨学金も
未来の医科大進学の奨学生の為に一括で返還した。
母は、近所に笑顔で話していた。
「主人が若くなって戻ってきます。
皆さんを、置き去りにして、
主人は54歳で死んだのではなくて、
若くなって、新しい外科の技術を体得して戻ってきます。
それまで、内科胃の長男と、主人の同級生だった友人の医師が
皆さんの、健康を、お守りすることを引き継ぎます。」
母は元来が音楽大学のピアノ科卒の
お嬢ちゃんであった。
医局の制度や、
学閥を理解できる方向の頭脳の持ち主ではなかった。
男が本能的に獲物を獲得するずるさが、
とっさに母を説得する事だけの
「欲しいものをゲットする道具の言葉」を選んだだけであった。
医科大学は地域性が強い、
基礎医学の東京大学の薬理に勤めていた私には
臨床医が、教授の許しを得ないで
自分の働き場所を決めるのは、
「ドクターx」のようになるしかありません。
母の心とは裏腹に、
北海道から還れるのはいつの事か?
母が存命中にできるだろうか?
揺れ動く心とは裏腹に、
彼の父親は代々続く開業医の長男でありながら
医師にはなっていない。
しかも、東京に住んでいる、
東京にご両親が住んでいらっしゃる以上、
彼は、きっと、東京に還ろうとするだろう。
その時実家から、迎えを出せば、
母の夢は「ゼロ」ではない。
子を無くし、父を亡くし、母の寂しさをすくうのは
この縁談かもしれない、、、
私のうぬぼれでした。
医学の世界は、個人の動向で、何ら動かせるものはありませんでした。
北海道の留萌を手始めに、厳寒のローテションの計画にしたがって
医局に一メンバーとして、3か月ごとに出張、
その後は、一年ごとに出張、
本拠地の16000円の家賃のアパートに生活用品を残し、
結婚後、あわてて取得してもらった運転免許で、
トランクいっぱいの道具だけで、
ローテの病院の寮を廻るのでした。
登山が好きで、
山小屋で寝泊まりした日のような日々が
4年間続きました。
そして、、72歳の私は、今なお、北海道で
雪を搔きながら、東京に還る日を夢似ているのです。
夢、、、ですが、、、夢は次の世界にまで持ってゆきます。
北海道に、友達は居ません。
友達を創る努力を怠ったからです。
お付き合いはしていますが、
談笑しても、本当に笑えないのです。
セクトのような、開拓時代から何代も知り合っている人たちのなかに
東京から、腰掛け気分のまま来て、
将来東京に還った時の事ばかり考えて過ごしてきたから、
心の準備のないままに、
一人で出来ることは一人でやってきました。
主人は、表札も、私の名前が入っていないほど、
北海道人になり切って、仲間も多く、
奥さん方からは、、
「先生は道産子ね!長男の坊ちゃんも道産子ね!」
二やーと笑って、
「奥さん、あなたは、東京でもなく、道産子でもなく、、、宙に浮いたままね。」
「私は道産子の主人の妻だから道産子でしょう?」
とりあえず、50年近く、羊が丘の麓に住んでいるのですから、
歴史が100年の北海道人の中では、古い方でしょう?!」
言い返すのですが、、、
「言葉が違うでしょう、、、奥さんは北海道の言葉がいまだに離せないでしょう!」
東京の青山大学に娘を入学させ、その後、
東京のお金持ちに嫁がせた道産子の奥さんが、
大口を開けて、いいたい放題のタメ口で、
あっけらかんと、時間を過ごして行ってくれる。
ありがたいことですが、
還ってしまうと同時に、私は、我に返る。
東京に、生きてるうちに還る支度をしなくては、、、と。
つづく