花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

吸い込まれてしまいそうな   羽生さんの氷上の舞

2016-11-28 01:18:53 | Weblog

素晴らしかった!

すぐ近くの 真駒内で、

こんなに素敵な時間を過ごしている人たちがいるのね!

深夜11時からもう一度、
NHK のTVの前で、見とれていました。

ラストに氷上に舞い降りた夢の鳥、、、
玉三郎の若き日の舞台とも、、、重なった魂の舞

吸い込まれてしまった。
氷上の真っ白な夢の鳥の翼に吸い込まれてしまっていた、

凛としたしなやかな翼の羽毛が描く
魂の螺旋の中に
氷の紫吹が煌めきながら飛翔する。

美しい、、、氷の妖精が舞っている。



我に戻ったときは

アンコールの拍手が鳴りやまない会場で

命の限り答えてくれる羽生さん。

天から舞い降りて、人間に戻ってゆく現実。


感動は限りない高まりであったが、、、うれしかったが、、、

一期一会の心を思い出して、、、

夢のような時間だけでいい、
夢の鳥が、曲とともに
永遠の空に飛んで行くのも
余韻があっていい。

アンコールは可愛そうだと思いました。
羽生さんを大切に、、、大切に、、、と思いました。

命の限り答えてくれるだろう、、、
だから、、、アンコールは、、、彼が壊れそうで怖い。

彼の美し翼の舞を
いつまでも心に。

忘れない、きっと忘れられないだろう、、、美しかった。

吸い込まれてしまった。



連載は、一拍休みで、羽生さんに拍手

2016-11-27 07:58:12 | Weblog

しなやかで、軽やかで、氷から生えてきた羽生さんの動きの描く螺旋に

魂を奪われて見とれています。

願わくば、男の解説のアナウンサーが、

音楽に乗って空気の上を滑る羽生さんの世界を
邪魔しないでね。

お喋りも、解説も、ビデオの時にたっぷりとして頂戴!

コンサート中に、おしゃべりすると
音楽が壊されます。

72歳の老婆の個人的意見ですから、、、

若者は、アナウンスで盛り上がり、

羽生さんの世界をつまみながら

自分の世界を盛り上げているのかもしれませんね。

しかし、、、羽生さんの作品は

音楽と、氷の世界と、摩擦のない世界が

空気で一体化している滑らかな世界であるだけに、

喋ってほしくない、陶酔して、引き込まれたい視聴者も居ることを

お伝えしておきます。

我儘な、茶の間の視聴者の意見は、
アンケートの答えぐらいに受け止めて、

その一瞬を深く、深く、大切にして、観ているから。

NHK杯のリンクのスポンサーの文字も、レースをかけてしまうと

作品が、いっそう浮き上がり、

氷の妖精のような羽生さんの

光と、空気と、音楽と、スピードの体温で描く世界が、

煌めきながら透明なシュプールを心に刻み

最高に大切にされると思うのですよ。

愉しかった!良い時間をありがとう!

出演者皆の透明な花園で幸せな時間でした。

ありがとう!皆さん!ありがとうNHK!


父の終活?に気が付かなかった。、、、

2016-11-24 03:47:24 | Weblog

明治生まれの父母にとって

富国強兵の国策の中、

ややもすると、
戦争の一触即発しそうな情勢の日本は

全員が世界が見えていない未熟な知識で

近代化の津波が押し寄せました。

1909~1910年

アメリカが南満州鉄道の中立化を列国に提案したが
日露両国が共同で拒否したという
過去の歴史の中で、父母はこのころ誕生しています。

政治も、教育も、社会そのものも

封建時代の過ぎ去った跡には

西洋をはじめ、アメリカ、ソ連 中国、朝鮮、北欧、など、、、

つきあってゆく世界の国の視点と

どのように共存してゆくのか?

皆が、手探りしていた時代だった。

*****少し歴史を振り返ってみましょう****


民主化へのプロセスだったのかもしれませんが、
東洋開拓会社や
朝鮮総督府のすでに設立のあと、
誕生した父母たちは
どのような教育を受けながらで育っていったのか
想像は着くと思います。

時代が育ててゆく子供たちによって
未来は創られてゆく責任を、
歴史家たちは痛感しているはずだと思っています。


ちなみに、元勲内閣であり、超然内閣であり、
枢密院議長であり、初代首相であり

陸奥宗光と板垣退助という
時代の寵児が、外務大臣と内務大臣をしていた時代に
何が起こったか!


受験を経験した学生時代の経験者なら
満州、朝鮮問題を巡りロシアと日露協商をめぐり
ロシアとの会談の為に行った「ハルピン」で
伊藤博文 日本国初代首相が
暗殺されている事は、

受験問題を回答する鉛筆を持つ手が
震えながら、記述した者であった。

あれから、、、紆余曲折を得た日本は
第二次世界大戦の終局に於いて

二発もの「原子爆弾」を

広島と、長崎に落とされ、

焼夷弾で焼け野原になった日本本土に
だめ押しの二発を受けて終戦となったことは
昭和を生きた皆が、戦後の復活の頑張りとともに
体に刻み込まれて、生きてきました。

敗戦となる一年前に、

私自身が防空壕の中で生まれています。
防空壕の中では
泣き叫ぶ赤子も幼児も
味方の手で、、口をふさがれ、
火炎を避ける地獄のひと時だったとか。。。!



戦争が続き、

とうとう第二次世界大戦に巻き込まれた国民は

人災の津波にのみこまれてゆくき、
壊される時代だったと言えそうです。

量子力学の世界のように

見えない世界で、

「破壊と誕生」は同時におきていたのでしょうか?

父母の誕生の明治40年代に、話を戻し
日本の国が「日本」と言う国民であり続けられたことは

権力や、名誉、
さらに敗戦後の焼け野原の中で失う物は
失いつくした時の、
だめ押しの「原子爆弾投下の2発!!」

でも日本人は日本の誇りも文化も、
復活のパワーも失っていなかった。

手探りの明治時代の気骨の入った祖父や、
父母の教育の確かさが
戦争を機に、
又、、、敗北を機に、
壊滅したのだろうか?


観光地としてしか、
伝承されないのだろうか?

アメリカナイズ、ロック、ロカビリー、、、
悪くないよ。どれもこれも、それなりに。
肉食獣と、
草食動物の違いのように

アメリカは、合理的だし
パンチも効いている。

勝ち負けにこだわって、
その一瞬の事で、
私は、日本人であることを捨てない。
日本人は、島国だっただけに
遺伝子が、血族結婚の濃さがある。

優性遺伝する「良い面」は濃縮された原液のように

敗戦で混結が産まれても、少々薄まっても日本の味がする。

日本は、戦争に敗れても、日本人は滅びない。

遺伝子の中に組み込まれた見えないHDの中に
時代の創り上げたすべてが、
遺伝子の舟に乗って
未来に届けられて行くと思いませんか?


歴史の中の我が家は
雑草の、一株の葦の草かもしれない。

顕微鏡でも見えない小さな点で有ると思います。
  

**********************

記憶をたどれば、母の父にあたる私の祖父は

明治の20年前後の生まれであると思うのです。

青山師範学校を卒業して、先生をしていた。
その後、28歳の時、汽船に乗って
兄が移住していたサンフランシスコに留学した。

私が5歳ぐらいの時
祖父の膝の上で聴いた記憶は

「3か月かかって、汽船でアメリカに渡る」とき

嵐に逢い、
船の中の柱にロープでわが身を縛り付けて、
振り回されるのをくいとめたという
武勇談であった。

アメリカから買ってきた「銀の懐中時計」は

祖父のシンボルマークのように
三つ揃えのスーツに、いつも、光っていた。

祖父はいつも、、、三つ揃えのスーツに銀の懐中時計を持っていた。
それが、、、祖父であり、
明治生まれの、時代のリーダーのユニホームだと
5歳の私は認識していた。

「お爺ちゃんが死んだら、その時計私にくれる?」

「おー!やるとも」

祖父は、おかしくてたまらないような
優しいくちゃくちゃの顔で笑いながら約束してくれた。

晩年、敗戦直後は、我が家の居候が17人もいた。

居候だった母の弟の叔父さんの家で
息を引き取った祖父は、
全てを、息子家族に譲り、大きな教育を
私の中に残して、今も宇宙の星の中で毅然としているようである。

祖父の想いで話になりますが、

「ゴールデンゲート」を自分で描いた油絵を

疎開地の洋館の玄関にかけてあったが、
あの絵は、、、
何処に有るのだろうと、、、、、今でも思う。

私は息子たちと、ロスから、サンフランシスコまで
行ってみた。
ロスの空港で、防弾チョッキの黒人のポリスに
タクシー乗り場を聞いた。

祖父の言っていた町とはずいぶん違っていた。


そこで、防弾ガラスのレンタカーを借りて
運転手さんに交渉して

ヨセミテ公園まで走ってもらった。
8時間も、九時間も、タクシーに乗った日でした。

日本人町が、見えた時、
兄や移住した南紀からの一族が
涙ぐましい努力で、
砂漠を開拓したと聞かされた事が思い出された。
ルート66の
英語の歌を思い出して、口ずさんだ。

ロスアンデルスの話も、何度か出てきた。

青年だった祖父は、はるか昔に、
この、アメリカに来て、日本人の開拓者らと
何年かを過ごしたのでした。

疎開地で、町長、村長、校長先生、など歴任していた祖父は
小さな私などにも、
全ての村人に、厚く接してくれた。

小学校の校長先生は
私の顔を見ると、
「ポストに手紙を入れてきてくれ。」と、
必ず頼むので、嫌だった。

でも、
お爺ちゃんにはペコペコしていた。

疎開地の村に、
ひときわ目立つ坂の上の邸宅。

おじいちゃんの家は、

白いペンキ塗りの洋館だった。

他の家は、瓦屋根の日本家屋なのに、
地下室には井戸が有った。

大きな風呂のような木箱がぎっしりと
地下室に並べてあり、
サツマイモや、ジャガイモ、
季節の野菜がぎっしり入っていた。

おじいちゃんは7つの村が無医村だった所に
娘と、娘婿の医師を連れてきたことになっていた。

旧い歴史の中に先祖の物語が出てくるので
寂しくなったら、

祖父の言葉を思い出していました。


私の父母は、季のみ着のまま
戦場に迎えに来た祖父の指令するままに、
身の回りの物だけ持って
最後の便である日本への渡し船に間に合ったという

映画のようなスリルの中で生還を果たした親子3代であった。

本当は、戦地から、
命からがら、引き上げたのが、
昭和19年だったこともあり

母が最期に持ち帰った
外科の手術の時に使う鋏や、コッフェル、、、など
父の外科医としての、シンボルのような
イギリス製の道具だけが
疎開地からの再出発の全財産であった。

日本本土は、
どこもかしこも焼夷弾、爆弾の降る中、
子供を、外国で亡くした母を迎えに、
母の父にあたる「祖父」が

危険を顧みず、
海を渡って、
娘夫婦を迎えに来たのでした。

「着のみ着のまま、全てを振り返らず、

最後の韓宇連絡船に生き残った家族を急がせて、
何とか、生きて日本に帰還できました。

祖父の、息子や、娘家族に与えた「とっさの行動」は
教育と言う、大上段に構えた目線の高い教壇から
一段高く見下ろしながら与えられたものではなく、

捨て身の「愛の権化のような」そしてまた、
一緒に生きてくれた温かさそのものの中に
刃より鋭い切れ味のある行動を持って、
孫の私の中で生き続けています。

晩年祖父は叙勲されて
定年後は
皇居の庭の清掃ボランティアのような事をしていました。

日本の政治家の本家本元の頭脳軍団は何処に居られるのか
今も昔も、表面で動き回る内閣総理大臣の姿が
国民には「最高頭脳として」認識出来るだけであるのは
いつの世も変わらないのです。

歴史を紐解くとき、
歴史の教科書は、多くの機関の支配のもとに
世の中の混乱を避けるために
本筋が隠されている場合も予測される

***************************

母の心の傷は、
母の故郷、心の原点で
昔懐かしい疎開生活をしているうちに
少しづつ治癒してゆきました。

*********************




と言うのは、疎開地で母が40歳のころ、

戦地で失った男の子を取り戻すのだと言って
当時としては、経産婦の40代の出産は大丈夫と言って
母ははじけたように戦後の新生活に向かって言っていた。

南紀の6月は梅雨で、来る日も来る日も雨であった。
そして、いきなり晴天!弟が生まれた。

戦争を知らない時代の子が 産まれたのです。
疎開地は、家と家が10分も20分も離れていたり、

山坂、あぜ道、細い道をくねくねと曲り

落っこちそうな吊り橋を渡って、家が建っていた。

弟の出産は、瞬く間に村と村を駆け抜け
新宮や、串本や、田辺の街の知人や親類に届いた。

「戦争で多くの人たちは、家族や伴侶を無くして
疎開してきていた。」

それだけに、「医者の家に子供が生まれた!」
「先生さんの所に、男の子が生まれた!」

おじいちゃんの宿屋で女将をしていた叔母さんも、
たった一軒しかない美容院のママさんも

小学校の高い石段を降りたところの
文具屋さんのおばさんも、

仕立て屋さんも
子供たちの遊び相手でフリーターなのか?
あんまさんなのか?青年も

私の耳を間違えて鋏で切って、平謝りでアメを呉れた散髪屋さんも

「医者の家に男の子が生まれた!」

キンモクセイとギンモクセイと
ヤマモモの樹のある庭に面した母屋の広縁側に

父の患者さんたちが、ニコニコ顔で押し寄せた。

新しい時代が来たんだ!
戦争は、、、本当に終わったんだ!

お祭り騒ぎのように
お祝いの村の人たちで、診療所と背中合わせの母屋は
何日も、入れ替わり立ち代わり

人がひしめいていた。

外科医の父は、戦陣外科の取得中に
産婦人科も、耳鼻科も、、、なんでもござれの
優れた臨床の実力が認められていた。

母も、自宅分娩に、何らの不安もなく

弟を抱いて、すこぶるご機嫌だった。

「戦争で失った子供を取り戻すつもりが、

全く新しい、初めて見る素晴らしい子供を授かった!、」

「疎開中の紀州で生まれたから、

紀州にちなんだ名前をいただこうネ」

祖父が父と一緒に考えてつけてくれた名前で、

弟は、村や、町の、話題の赤ちゃん時代をすごすのであった。

父は、戦争で傷ついた母の心を癒し、
再び元気になる妻の健康に、
全てをかけていた時代でもあった。


後方に憂いを残さないような、
地道なリカバリーで
失ったファイルを、一つづつ
じっくりと、腰を据えて修復するのが、
男の子を取りもどす事だったのかもしれません。

父の終活は、

戦争の喪失感を
ゼロに持ってゆく事だったのかもしれません。

もしかしたら、医師だからこそ
自覚していただろう寿命の短さに

やり残したことは、

母の心のマイナスをゼロからプラスへ
第一象限の時間に戻すことが、
父の最後の仕事だったのかもしれません。

終活で、
税金対策をしている自己中心の現代人の物欲は
いったい何処から発生した国民病なのだろうか?

捨て身で、未来に生きる者への最後の教育資金として
自分は木端微塵になっても、
東京への里帰りを果たしてくれた
父の「終活」に気が付くのが遅かった私です。

出会いから「俺俺俺、、、」が強かった伴侶が、
父が急逝した昭和40年代
「外科医の居なくなった外科の診療所に入ってくれると母に言ったのです。」

私は、その言葉を信じて、
奨学金で進学した夫の奨学金も
未来の医科大進学の奨学生の為に一括で返還した。

母は、近所に笑顔で話していた。

「主人が若くなって戻ってきます。

皆さんを、置き去りにして、
主人は54歳で死んだのではなくて、

若くなって、新しい外科の技術を体得して戻ってきます。
それまで、内科胃の長男と、主人の同級生だった友人の医師が
皆さんの、健康を、お守りすることを引き継ぎます。」

母は元来が音楽大学のピアノ科卒の
お嬢ちゃんであった。

医局の制度や、
学閥を理解できる方向の頭脳の持ち主ではなかった。

男が本能的に獲物を獲得するずるさが、
とっさに母を説得する事だけの
「欲しいものをゲットする道具の言葉」を選んだだけであった。

医科大学は地域性が強い、
基礎医学の東京大学の薬理に勤めていた私には
臨床医が、教授の許しを得ないで
自分の働き場所を決めるのは、

「ドクターx」のようになるしかありません。

母の心とは裏腹に、
北海道から還れるのはいつの事か?
母が存命中にできるだろうか?

揺れ動く心とは裏腹に、

彼の父親は代々続く開業医の長男でありながら
医師にはなっていない。

しかも、東京に住んでいる、

東京にご両親が住んでいらっしゃる以上、
彼は、きっと、東京に還ろうとするだろう。

その時実家から、迎えを出せば、
母の夢は「ゼロ」ではない。

子を無くし、父を亡くし、母の寂しさをすくうのは
この縁談かもしれない、、、

私のうぬぼれでした。
医学の世界は、個人の動向で、何ら動かせるものはありませんでした。

北海道の留萌を手始めに、厳寒のローテションの計画にしたがって
医局に一メンバーとして、3か月ごとに出張、

その後は、一年ごとに出張、

本拠地の16000円の家賃のアパートに生活用品を残し、

結婚後、あわてて取得してもらった運転免許で、
トランクいっぱいの道具だけで、
ローテの病院の寮を廻るのでした。

登山が好きで、
山小屋で寝泊まりした日のような日々が

4年間続きました。

そして、、72歳の私は、今なお、北海道で
雪を搔きながら、東京に還る日を夢似ているのです。

夢、、、ですが、、、夢は次の世界にまで持ってゆきます。

北海道に、友達は居ません。
友達を創る努力を怠ったからです。

お付き合いはしていますが、
談笑しても、本当に笑えないのです。

セクトのような、開拓時代から何代も知り合っている人たちのなかに
東京から、腰掛け気分のまま来て、
将来東京に還った時の事ばかり考えて過ごしてきたから、

心の準備のないままに、
一人で出来ることは一人でやってきました。

主人は、表札も、私の名前が入っていないほど、
北海道人になり切って、仲間も多く、

奥さん方からは、、
「先生は道産子ね!長男の坊ちゃんも道産子ね!」

二やーと笑って、

「奥さん、あなたは、東京でもなく、道産子でもなく、、、宙に浮いたままね。」

「私は道産子の主人の妻だから道産子でしょう?」

とりあえず、50年近く、羊が丘の麓に住んでいるのですから、
歴史が100年の北海道人の中では、古い方でしょう?!」

言い返すのですが、、、
「言葉が違うでしょう、、、奥さんは北海道の言葉がいまだに離せないでしょう!」

東京の青山大学に娘を入学させ、その後、
東京のお金持ちに嫁がせた道産子の奥さんが、

大口を開けて、いいたい放題のタメ口で、
あっけらかんと、時間を過ごして行ってくれる。

ありがたいことですが、
還ってしまうと同時に、私は、我に返る。

東京に、生きてるうちに還る支度をしなくては、、、と。





                     つづく


居候と受け入れ側の一人娘の成り行き的立場

2016-11-22 11:49:50 | Weblog

戦争から復活の昭和20年から30年代は

あちらもこちらも、、、居候だらけの家族構成でした。

下町だったからでしょうか?

駅の周りには「パレス」と呼んでいた

女性たちの宿場が連立していました。

オトワノブコさん主演の「ドブ」と言う映画が
小学生の私にも

理解できる戦後の「ドブの街」に

初めての「自費の開業」を、父は東京復帰の手段として果たしました。

お寺の跡地の240坪は、庭園に池のある土地でした。

雷魚が住んでいて、こんなところに、、、医療施設を建てて

一から出直す40代後半の、戦争で疲れ、疎開で疲れた父は

体も、精神も、、、果たして持つのだろうか?

おまけの、居候は、
戦争で会社を焼失した、、
もと社長のわがまま?が予想される一家族と

戦争で受験期を学徒出陣して

運よく帰還した独身の父の弟。

28歳から、早稲田を受験、

理工学部を卒業して、東京都の中学校の数学物理の教師をしていた。

部屋代がほしいわけではないが、

一卵性兄弟のように、親子以上かもしれない愛。

特等室に同居して、私の兄弟の受験の家庭教師として

君臨した。

おかげさまなのでしょうか?

中学まで、魚を追いかけていた兄は

当時は、日比谷、両国と、難関だった両国高校に合格。

叔父さんの待遇は、ますますよくなっていった。

一方、母方の弟一家族は、

母の司令塔のままに

新しき開業のための、参謀格の働き手として、

誰の家なのか、わからないほど、

大家族同格の権利を主張しながら、

喧々諤々、、、それでも「愛ある姉の家ですから」。

兄や弟は結構、主張しながら、うまくわがままを通していたが、

私は、女性三人と男の子の連合4人組には

ことごとく、、、押し切られ、

母も、優雅な性格の、弟の家族の長女が、いたく気に入っていた。

おばちゃん、おばちゃんと、、、彼女も大人同士の会話を

母に投げかけるから、

母も本気で、彼女の人生の「あしながおばさん」を

喜んで買って出ていた。

理系の地味なわが娘が、男の子のようにに思えたのかもしれません。

数年間は、私など、目にも入らないほど

女性家族を楽しみながら、

時間は竜宮城の浦島太郎に似て飛んでゆきました。

時代も落ち着いた頃、母の弟さん一家は

自宅を建てて、出てゆきました。

彼女らが、彼氏を連れてきて

巧みに、自動車がほしいと言ったとき、

数年たっていた自動車でもあり、

医療機関には
、新しいのを備品とするころでもあったため、

「二つ返事」で、姪っ子の彼氏に、愛車をあげてしまった。

父が、疎開地で、どんなに働いていたか、

開業資金をやりくりするのに、
お爺ちゃんの奥さんから借りたのも知っている。

「お母さん、、、!!! 古い車は、下取りに出すと、

かなりな値段で引き取ってくれるのに、、、」

初めて、文句が出た。

母は、、、「いいのよ!、現金で応援は出来ないでしょう!?」

「相手にだって、プライドがあるからね。」

「わずかをケチって、未来の味方を得られないのは、、近欲って言うのよ。」

なるほど、、、

それからは、
国立大学卒業の法学部の知恵が、
何かと言うと夕飯時に聞かれたのでした。

夕ご飯時にやって来ては、

開業の、法律面の意見やら、
保険制度の申請のノウハウの知恵やらを
夕食の代金代わりに残していった。

やがて、
患者さんも1日150人は来るようになった。

正看護婦の石野さんも
スタッフとして勤務するようになったのでした。

しかし、、、商魂の全く欠けている父は、

払えない患者さんには請求しないし、

手術をして入院が2週間に及んでも、

退院の前日消えてしまった患者さんがいたりしました。
警察に届けるわけでもないし、行方を調べるわけでもないし
代金を求めて、親類縁者も追いかけないし、

父はどうかしていた。
職員も「先生は、、、お人よしとは違うのでしょうけど、、、。」
不服そうであったことを記憶している。

おりから始まった保険制度を、
こまやかに活用する方面んが欠落していた。

処方内容も、抗生剤が出たばかりでしたが
患者さんの負担額が増えるからと言って
ギリギリまで様子を見ながら
栄養指導や、
胃の薬での
精神的な気力の効果を期待する指導をしていた。
時間ばかりかかった割には

ビカ
健胃散
ノルモ散
フスタギン
安中。。。

締めて150園

時間はかかるが、薬に頼らない体力回復指導に
貴重な時間を割いていた。

近所の婆ちゃんたちは、
定期便のように
父の指導がたのしみで、

2時までの休息時間は
爺婆ランドになっていた。

2時からは、
空気がガラと変わり
正看護婦さんのてきぱきとした動きが
空気をピーンと緊張させた。

レゾヒン

プレゾニン

コウセイザイ

点滴、、、

、、、

退院した患者さんや、
治癒の難しい患者さんで

薬治療の人。

速攻で使うホルモン剤

開業仲間の同級生の
他の科で開業している先生に
来ていただいての
手術など

採算度外視の診療に明け暮れた時代でした。

大病院に紹介しなければならないクランケで
紹介状をしたためても、

患者さんが来ても、経営は、困難を極めました。

                     つづく

時代は回るのか?パンドラの箱を開けたのは、、、欲と煩悩?

2016-11-18 04:54:18 | Weblog





時代、、二艘の舟、、NHK朝ドラのテーマ曲にも、、、

若い歌が流れるとき、

自分に向けられた手探りの時代

地上の星の永遠を信じていたのに、、、

受験生や、青春のつまずき、驚きの時代に

世の中には、システムに運ばれてゆくエレベーターで

降りるフロアーが

決っているのに、、、

もがいた日々よ。

*************************

東京は、湿地帯の

荒漠たる、、、自然そのものの、、、ローム層原野だった。

50代の時

富士山の裾野の青木ヶ原の探索に

幸運にも参加できたことがあった。

この地形の示すことは

ごく最近、タモリさんの番組で、なーるほど、、と

火山国日本を感じたものでした。

******************************

今、東京の高層ビルやスカイツリーや

六本木ビルや、都庁の界隈から

自然のままの、関東ローム層の原野を想像するのは難しい。

パソコンのバージョンの代わるような

自然を壊して、人工に置き換えてゆくデジタルな無機質が

暖かな血脈の網羅されている
生身の人間の丸ごとを

商品にしてゆくようで


怖い!

時代は回らなくなるのではないかと、、、怖い。

ちょんまげも、刀も捨て、

エンパイヤステートビルに驚き

近代化と言うスピードの列車から

人工知能の支配する世界へ向かう列車に乗った。

行く先は、、、わからない、、、

ついてみないとわからない。。。。



自然と共存して生きる、
エネルギー不滅の世界は

時代も繰り返していた。

         
                   つづく
18日昨日の続き。。。


戦争中に生まれた私は、

運が悪かったとも 考えられる

しかし、小学校時代は、お寺の和尚さんや

疎開してきた知識人や、

特技のある大人が先生だったことは

運の良い子供時代が有ったともいえます。

北海道で、博士号を取得したら東京の親元へ

必ず還るから、、!

2年ぐらいで、東京に還るから、、、と
結婚希望の夫は、母に談判した。。。と。母は言った。

大学時代の「一級下級生だった友人」の
御主人の後輩にあたる、後の夫になった、男の言葉を

真に受けた私は、母が受け入れる人であるならば、、、と、

親類、居候、近所や縁者は、母の信望者ばかりであったから、

異存は無かった。

母がサポートしてくれない場合は、
我が家は、何も動かなかったからだ。

先祖への報告と、行く末の安泰を祈願する気持ちもあって、

母と二人で「伊勢神宮」に行きました。

母の時代は明治陛下の時代から大正陛下、摂政時代でしたから、

伊勢神宮にお参りすると

大きな天地、森羅万象の日本人んの心の中の神様に

見守っていただけるような

転身の不安や、孤独は空に拡散してゆくような

不思議な落ち着きをいただけました。


しかし、神は、耐えられない試練は与えないと言われているが
人生の孤独、試練、戦い、の始まりだった。

24年間かかって持てた人脈も、親類も、友人も、

実はその一瞬に、、失っていたことに

気が付いたのは、もはや、手遅れの時期になっていた。

息子たちの受験が来ても

いっこうに
北海道から還ろうとしない夫の態度で

「北海道が、第二の故郷になるのだ」と

覚悟を決めた時、

息子たちが、、、
夢中に聴いていた曲が


「時代」、、、と言う曲だった。


戦争で、爆弾に追われて、、、
あちこち疎開した時代に

自分を振り返ることはなかった。

敗戦になった時から、

父は、母の心の傷をいやすためにも
母の故郷を疎開地に選んだ。

旧家で生まれた母の故郷は、
母の父、、、私の祖父が町長や、校長先生など
マルチタレントのモテモテ爺さんだったこともあり

幸運と言える疎開生活でした。
七か村、無医村に、
娘婿が医師として、
十数年も、この村に居ることが、
祖父にとっても、村の功労をなしたという、、、時代であった。

戦争と従軍、、、
戦地での、流産、息子と娘、、、3人を失った母。
故郷以外に、母の心の傷をいやす場所はなかっただろう。

日々、元気を取り戻し、
唯一の医療機関の診療所は
赤い電燈が消えることが無かった。
私は、仲間には、入れてもらえてないようでしたが、
何やら、別格に扱われている気配も

時々、気づかされる出来事がありました。

仲良しのつもりで、ありのままをさらけ出して
友達に接近しても、
「母ちゃんが、医者の子供には、先生に話すように
気を付けて、なれなれしくするな、、、ていわれとんのや。」

さりげなく言われて、「なんね?え?。。。それ?」
言い返しても、

「別格やから、気いちけて、ケンカにならんようにするんやで!
ケンカしたら、お医者さんのおらんようになって、
皆から、おこられるんやで!?」、、と母ちゃんが言とった。

そう、、、

無理に友達にならんでもいい。
自分は自分や。

私は、先生たちと仲良くしてもらい、
勉強や、山登りや、上級生と川遊びをするようになった。

同級生とは、なんとなく、私も、気を付けて、
丁寧に、気持ちをおさえて、

何事も、謙譲の気持ちで接した。

しかし、学芸会などで、
主役が当たったと言っては、

同級生からも、父兄からも、
愛想笑いの「ええなー!医者の子は」、、と

しっくりいかない、変な盛り上がりだった。

つまり、、、こうした、田舎の医者の娘は

父の人生の時間のおまけ品であり、

私自身の自分の時間も、ちょっとばかり成績が良くても
父のおまけの、リボンのような、、存在が無かった。

谷間の百合?という事にしておきましょう、、、か?

日本は敗戦して、有理数成れども、ゼロからの出発の我が家です。

父母は「英語の教育」を受けられる東京への里帰り。

次の代の息子たちの活路をアメリカが先導する教育のクリヤーと

うつりゆく時代の情報の入る東京へ

鮭が川を登ってくるように

最後の命を燃やして、疎開地で頑張っていた。

父は、母校、、、
慈恵会医科大学のある東京へ

たどり着いた。

教授になっていた友人が

身分を超えて、
父をねぎらってくれました。

疎開地からも、
論文の資料となる「イノシシの頭部」など

大学からの手紙に答えるためにも、

疎開地の猟師の皆にお願いして

折角手に入れた頭部の耳が無いと

再び、、、耳のある頭部を、氷とともに送っていた。

実は、人間のサンハンキカンという

体の平衡や、もっと大切な病気の研究に使うので、

耳が必要だったのだよ、、、と。

教授の先生は、まるでクラスメートの時代のように

浴衣を着て、父と話していたのを、、、

子供のころの
「学術の大変さの片鱗を身近に聞けた」運の良さでした。

市谷は、もはや戻るには、
あまりにも難しく

四十半ばの開業医を必要としている
下町に還ってきました。

シベリアから帰還した母の弟、

戦争から還って来て28歳で早稲田に入学した父の弟、

その子供たち。

世に言う「居候が当たり前で、支払えるものが払う時代でした。」

私たち生き残り組の兄弟4人は

居候の親類の従弟たりの生命力の前には

完敗でした。

三人姉妹と男の子。

母は、私よりも、従妹たちと出かけることが多く、

楽しそうでした。

私たちは進学の為に同居していた大学生に

勉強を教えてもらいました、

15~6人が、立ち代り入れ替わり夕食をするのですが、
居候のおばさんが、買い物や、食事や、
世話を焼いてくれていました。

開業の為に看護婦さんたちが、
別棟から、

優先的に
お昼時の食堂を使う決まりになっていました。

しかし、私の兄弟、
男3人は、自分の都合で、食堂に現れては

職員とも、居候の8人とも、大学生の間借り人とも、

和気あいあいに盛り上がり、

回りは、一歩引いてくれていたようでした。

之が、娘の私となると、

母に用事があって、母の部屋に行こうとすると、

3人姉妹が、私の前に立ちはだかり、

「おばちゃんは、今忙しいから、私たちで間に合う事があれば

言ってちょうだい!!」と、、、

決心は固い。

私が、小松川高校に通っていたからと、

母が面接について言って、

いとこの二番目が同じ高校に編入してきた。

しかし、、、我が家の開業の仕事を手伝いたいからと、

1年もしないまま高校をやめて、
夜学に切り替え

医師会の看護学校で看護婦さんの資格をとった。

父も母も、私より、彼女を褒め称え、

生きる力を発揮できるように、
昼間は我が家で職員、

夜は夜学で高校卒業!、、、

そして、
国立の法学部を卒業した恋人を見つけて、

父と母が仲人をして、

彼女は、独立していった。

********************

居候の、上の姉さんは、

私の母が
娘以上にお気に入りの性格で、

彼女を、
「杉野ドレメ」への通学をススメ

自分がピアノを教えたり、
演奏会の時のドレスを

彼女に任せていた。

彼女と母は、
「友達以上。娘以上」の気の合い方でした。

母は戦争で亡くした
3人の息子や娘と同年代の、従妹を

まるで、
実の子供のようにかわいがった。

宝塚に入りたかった彼女の第一志望の野望の為に

母は音楽を手ほどきした。

しかし、
音楽は子供のころからたしなまないと

受験の為に、
にわかに曲の理解をするのは困難だ。

母は、説得して、
ドレメに進学してもらったようだった。

銀座のマギーの二階の生地売り場で、

彼女と母は、舶来の記事を買ってきては、

演奏会のドレスの型紙を作成する彼女と

あれこれ、、、
夜明かしで盛り上がっていた。

やがて、彼女も独立する日がやって来た。

彼女は、
医師と結婚し、
イタリア料理店の経営者をしながら

ゴルフはシングル、、、有名人のお客様を

しっかりと顧客にしていた。

旦那様は、
大学医学部の講師をされていましたが、

私は、お誘いを受けることは一度もありませんでした。

独立してからも、

「おばちゃん、、、おばちゃん、、、」と
母を訪問がてら、
私には、
当たらず障らず、、、しなやかに母を独占していました。

母のお気に入りのドレスや、
当時としては珍しかったバッグなど

母は、嬉しそうに
彼女に差し上げた。

子供のころの疎開先で、母の心の傷が
戦争中の、子供を失ったトラウマと
子供ながらにわかっていたので、

私は、8人兄弟の6番目のつもりで

母が、嬉しいと思う事には
介入しないようにした。

私が結婚して、北海道に行くと決まったときは
母は、一つ違いの兄の事が気ががりで
結構忙しい時間を過ごしていた。

結婚式には、華やかに着物姿の三姉妹が
盛り上がっていた。

従妹たちも出席してくれただけで満足だった。

「おばちゃんは、、、私たちに任せて!」

皆、頼りになる、母の取り巻きだった。

北海道に2年ぐらいのつもりが、
72歳の今日まで住むなんて

人の運命は、わからないものですね。

北海道に行くなら、
「また従妹」だってかまわないじゃないか、、、

僕の嫁さんになって、
東京で、おばちゃんのそばにいてやってよ、、、

私が薬剤師をしていた病院に勤めていた
親戚の内科医が

北海道は私が住めるような、
生易しい気候ではないと、、、

何度も止めた。「バカとしか思えない、、、」

彼は、一回り年上でした。

結婚の対象として考えたことはなく、

私の、憧れの貴公子でした。

乗馬クラブのキャプテンで

乗馬服が、どこかの国の王子様のようでした。

彼の父上はドイツ留学から帰った
大きな市の中で病院を経営する院長さんでした。

それなりに、
触れてはいけない私の心の宝物の親類のお兄さんでした。

私は、寄生木のような今までだったので、
北海道で、まず、自分って、、?なんなのか
大自然の中で、自分を感じて、自分の時間を始めなければと
手探りの24歳でした。

***************


札幌に嫁いで、
貧しい16000円の家賃の
、風呂のない木賃アパートの2階。

戦争中のオール貧乏の時代、
奨学金がもらえたために、
大学まで卒業できた無給医の夫が

新婚に借りた部屋は、何か月もしないうちに


階下の夫婦げんかのあおりで
プロパンガスの学発に逢い、

もし、、、そこに居たら
完全に死んでいたという、、、家事に逢いました。

母が札幌まで来て用意してくれたすべてが

新建材のタールでべとべとになり

一夜にして、
着のみ着のままになりました。

あの時、
主人の御婆ちゃんが亡くなって

私は、
ヒコーキに乗って、急ぎ東京に行っていました。

主人は、
無給医だったので、

当直当番が週末まであり、

帰宅出来ないことが、、、命拾いとなりました。

    ************

大家さんは、
一か月だけ家賃を無料にして呉れました。

二階はしばらく
修理のため住めないという事で、
東京の実家に居ました。

その後、主人は
究極の手間いらずの引越しをしようと言いました。

爆発のあった隣の部屋に移りました。

私は、
鉄筋のマンションに移りましょうと言ったり、

結婚前に働いた貯金で、
一軒家に移ろうと言いましたが、

戦争中の爆弾の壊した住宅があちこちに残る中を

平気で過ごした子供時代の
主人の免疫はすごいものがあり、、

きな臭いアパートが

大学と近いという便利が先行して

移る気のない夫の言うままに、
4年の歳月が流れました。

**********************************

つづきは、、、、
雪を知らなかった女性の、
北海道の暮らしぶりを通して

順応性と言う
「宝物が内蔵されている女性の性質に幸運を!」





日本、日本人、

2016-11-16 11:21:04 | Weblog


日本の日本人である根底に

老若男女を問わず、

天皇陛下のいらっしゃる国、
、、という心があると思います。

第二次世界大戦で

日本は、敗戦しました。
歴史が何を語ろうと、

陛下のご苦労は、
私たち庶民の計り知れないご苦労が
おありだったと思います。

歴史の流れは複雑で、
世界の大きな流れや時代の変遷に

大河の流れの木の葉のように、翻弄されながら

流れ着くところに流れてゆくのは

日本だって避けられない事だったのかもしれません。

ヒットラーが、
特別の人種を区別して
人間が、あたかも万物の頂点に居ると
誤解した時代に
ヨーロッパをはじめ、
地球上の国が、大きな流れに巻き込まれたと思うのです。

地球という、、宇宙の中の、、、

とりあえず、無限のベクトルの均衡を維持しながら

公転自転を維持しながら、
絶妙にバランスをとりながら

軌道を回っている。

その、

宇宙から見ると、
見えないような点のような地球で

人類は、
他の動物の都合を考えないで

自らを、霊長と称して、

自然の形態を変化させ、地球を穿り返して

縄張りのように、戦争を繰り返しては

人が人を支配して、国が国を支配するという
戦争の繰り返しが

歴史をつくてきたと思いました。

枯草や 兵どもの 夢のあと、、、

自然と時間が跡かたずけを繰り返してきた。

気候の厳しい条件の地区は

かろうじて、、、地球は生まれたままの姿であるが、、。

アナログの人間が

天与の霊性を失っても

生きてゆける環境が、、、必要になり

デジタルな人工知能の世界に活路を見出したのは

知恵、、、聖書の箴言を超えて

人工知能の時代は

ロボットダンプが石炭を掘り、

近代化と連動して、地球穂破壊。
自然の破壊、

欲張りな、抑えきれない煩悩の
魑魅魍魎が、

人生ゲームに没頭するという、、、発展、、、という単語。

発展の裏は破壊とは、、、
哀しい現実。

発展と破壊は背中合せの双子。

私の母は明治生まれですが、

今の私より時代の先端を走る人でした。
斬髪で、編み上げブーツを履き、袴を着て自転車通学。

国立音楽大学のピアノ科の一期生でした。


日本が、女性を蔑視して、

頭に大きな髷を乗せ、

重たい窮屈な帯を締め、

ずるずると裾を引っ張って、廊下を歩くような

ありえない、、ハンデキャップの装いを進め

男の人から見て

都合の良い装いが、、、文化を先導した。

世論も、個人も、

疑うことなく不合理の中、

之が、最先端の自分と信じて生きていた時代。

日本の歴史は
蛇行しながら、近代日本へと流れ着きました。

旧き都の有った時代から

遠く飛鳥時代の痕跡を残す時代に、

天皇陛下はいらっしゃいました。

おなじみの百人一首も、

はるすぎて、、、の句は、女性の天皇の句。

日本の文化とともに、

いつの時代も、

陛下はいらっしゃいました

歴史の中に

いつもいらっしゃった陛下。

敗戦の時、、、耐えがたきを耐えて

日本人の心の中に

日本と言う国を、存在させ続けて下さったのは、

国土と言う、荒れ果てた物を飛び越えて

日本の心の存続を、しっかりと守って下さったのは

長い歴史とともにあり続けた陛下のいらっしゃる日本が、

科学には、一時的には敗れたが、

物品、国土、人間、形あるものすべて
ことごとく、、、壊滅状態になる中で

復活できたのは、

輪廻転生の孫子の中に、我が父母の面影を観るがごとく

日本は滅びないという、、、

陛下と言う、不思議な存在が、

どんな歴史の曲面にもいらっしゃったという

「日本」そのものが、存続して、

耐えがたきを耐えて、歴史を見守りながら

地球の呼吸として、一緒に敗戦の時代を生きて下さったことが

日本そのものは、、、残った!と、、、思えたから。

団塊の世代を産み、団塊の世代に復活の夢をかけて育て

復活と言う、事が

日本の日本たる、、、見えない部分の日本なのだと思うとき、

医療の分野で

復活の最先端の、

コロンブスの卵の心眼を持った弟が、

築地のがんセンターでの50年記念まで

医療そのものを、痛みのない、早期発見の

戦いの戦場で、

日本の医療、、、ここにあると

多くの実績を残して、

戦後の夢を呉れたことは、

生きる力の推進力になりました。

国立がんセンターは、

弟が定年するころ、

独立法人となり、

山形の方から、何やら偉い先生が来て

50年の医学の歴史は

あっという間に、民間と、官庁?の激戦なのかと????
週刊誌が忙しく取り上げていたが、

時代の移り変わりと言うのは

努力してきたものの足跡を

一蹴して、新しい勢力が入れ替わって行く。

看板は変わらないから、民間はなにもなかったように

時代を生きてゆく。

姉だから、おもうのではない。

そのような、感情レベルで思うのではない。

疎開中、町営の診療所で、24時間、いつ寝てるのかと、、

七つの村の、たった一人の外科医の手は

レントゲンの潰瘍でただれていた。

開腹手術は手遅れの患者さんが、家族を泣かせた。

小学校の時、弟は、村から育った弁護士さんの事を作文に書いた。

井ノ口さんと言う弁護士さんが、

県庁の仕事の合間に

弟に、会いに来てくれた。

私は、ヤシカのカメラで、二人を撮影した。

それからも、しばしば、逢っていました。

しかし、、、彼は中学に進学をするころは、

「僕は、、、お父さんの手のような、

医者が、自分を守れないだめな機械を使わないで、
もっと、凄い、良い機械で、、、、
潰瘍のできないレントゲンで、

もっと、病気を速く発見して、

患者さんの家族から、大切な人を死なせないぞ」

彼は、小学生のころ、「医師になると、決めていた。」

子供ながら、

大切にするのは、自分の目指す夢だった。

目に煮えない希望を大切にする

戦争を知らない、、、新しい日本の子供だった。

この、、、見えないパワーの

日本人の誇りが、、

敗戦の中、、、生き続けていたことは、

大河の一滴の我らを、

時代は運び続け、

日本の魂は、、、あり続けていたという事ですよね。

昭和陛下が、耐えがたきを耐えて守って下さった、、、何か?

見えない、、、けど、、、

日本人であり続けるルーツの誇りのような、湧いてくる力でした。

政治家は、大きな世界の人間社会の支配力や権力の

大河のような、それでいて、デジタルな、知的な

東大君ロボットのようなスパコンのシステムで、

時代を区切り、何を残し、何を創るかを

計算と、権力と、支配し続けた組織で

人間の英知を超えないメニュウで

新しい時代の為に

かっての権力をフォーマットしてゆく。

がんセンターも、市川先生や、弟が、50周年の節目に

何を残し、何を目標にしてゆくのか楽しみでした。

叔父さんをいたく尊敬していた息子は

叔父さんの夢に惹かれて、医師になった。

「母さん、、、医師になるのは、難しかった。

でもね、、、医師をするには、もっと難しい。」

叔父さんを訪ねた学生時代

小さなパソコンで、病理の画面を整理している叔父さんに

放射線科ってどんなことをしているのかを

教えてもらうつもりだったらしい。

叔父さんは、スイカや、カブトムシや、いろんなものを

放射線で透過させて、ファイルにしていた、

虫の中には何もないんだ!、、、

しばらくたって、霧のような

レントゲン写真を見せてくれた。

「僕たちが改良する前の写真だよ。」

そして、改良した後の写真の病名を言いながら、

ぼやけた、写真を次々と解読しては

息子は、、、「叔父さんは、神の域だよ。」

還って来てから、、、医師をすることを続けることは、

テレビドラマのような、派手な世界や

「御意」の世界ではないという事だと、、、私は受け止めた。

政治が、介入しないと、夢の巨人たちは

銀河鉄道に乗って、宇宙まで行ってしまいそうで、

政治家は、テーブルに食器を並べるように

知識と知恵と、権力と、東大君のデジタルスパコンで

合理的な大義名分で、

とりあえず、時代の区切りを、

フォーマットして、時代につなげてゆくのかもしれない。

しかし、父の早逝が無かったら、

私も女医になって、

父の残して行った地域の婆ちゃんの患者さんの

かかりつけ医になって、一週間に三日は

大学で、研究員をできたらと、夢見た時代もあった。

それだけに、医師になって、世の中に還元してゆくものには

全力で、応援できる、応援バカが、私には残った。

私立医科大学に行って、

千葉大を出た市川先生や、叔父さんの

夢を追い続けた姿を見て、

臨床医の分野で、社会に役立ちたいと

親元を飛び立って、医療界の大河の流れの時間の激流に浮かんだ。

その流れは、あまりに速く、42歳にして、独身である、

親の、手伝いの届かない遠方で、

目の前の、医者をすることに人生の夢をかけている。

この頃は、、、思うのです、、、

自分で、居たいと思うところに、居場所があるのなら、

最高位じゃないのって!ね。

日本人のもっとも日本の残る地方で

彼は、医師をしている。

女性のヘルプが無いので、

自分を手入れする時間が無いらしい。

息子の身の回りを世話してくれる女性が現れたら、

きっと、、、中学時代のように、

音楽や、芸術に、時を忘れる日も来るかもしれない。

敗戦が、日本人の物欲より、夢を大切にすることを

親に、教えてくれたような気がする。

天皇陛下、この方に触れる発言は、やはり、、、畏れ多い。

自然と一体のような不思議な、霊性をはるかに超えた

神聖。

伊勢神宮の遷宮に観る天与の知恵のお導き。

昭和生まれの私にとっては、

美智子様のようなお方が、

天から遣わされ
孤独にお過ごしだった陛下を支えられ

日本人は、こうありたい、、、と

胸の奥深くで思うような

やはり、、、別世界の一途を示してくださりました。

、被災地や、スラックスで

被災者を見舞われるお姿に、

どうか、、、一句、したためるだけの

お体の負担にされますように。

回りの人々が、、、陛下のお体の代わりに

句を持って、陛下の御心を伝えられないものなのかと

ご年齢を、考えてしまいます。

之は、親族だけの日記帳なので、

心に浮かぶことを
書き綴れば、、、

あやしゅうこそ、、、ものぐるほしけれ、、

陛下の御退位を意図されることは、

国民の一人一人が、、、日本そのものが

世界遺産の歴史的に

保存文化の価値ある国民の自覚を持って、

戦争や、政治や、団体や、全てとは

かかわりのない、もっと深い部分で

神と言わざるを得ない、
奇跡のルーツを歴史とともに

あり続けられて、

極限の優れた文化を、

時代の中で継承し、進化させ、

日本人の意識が、世界で類のない

研ぎ澄まされた感受性のありようにつなげているのは

自然が、人間の社会に伝えくる神秘に通じる

遺伝子の純なる歴史の積み重ねが

日本人

日本国、

デジタルの究極の駆使の中で

アナログな

障子越しの月影に映る、、、松に心惹かれるのが

日本人!

ポケモン追いかけて、電車でも、ホームでも

スマホを見ているのは

電脳社会に洗脳されて、

霊性を失う手術を受けている最中の

新人類かもしれません。

日のもとで、

日本のルーツの皇居から、

いつの時代にも、自然の国民で居られますように。

之は、個人の公開していない日記です。

念のため、陛下とともに生きた

昭和生まれの72歳の婆ちゃんの独り言ですよ








いきなり、、、冬の到来

2016-11-13 05:52:13 | Weblog

羽田から、わずか2時間足らずの飛行。

札幌は雪。

ハイヒールで降りた雪の上。

かかとを新雪の中にしっかりとめり込ませながら

凍りついたアスフアルトの上を

滑らないように

歩幅を狭くして歩く。

たった、何百メートルかの、

自宅への道が

遠く感じた。

東京は、24歳まで、小学校から、大学まで卒業するまで、

わが町と思っていた。

ハイヒールを履いて

タイムスリップして

一瞬、故郷に帰っていた。

三日目には、

北に還るヒコーキに乗った。

千歳に着くと、冬が来ていた。

寒い戦いが始まった。

転ばずに厳寒の我が家に到着。

なによりも先に、

ストーブに火を点けた。

温かさを求めて。

サヨナラ、、、又、、、来年まで、、、ハイヒール。


久々の、、東京散歩

2016-11-08 08:39:42 | Weblog

4日は卒業した大学が、金メダルを獲得したオリンピック選手を祝福するイベントのある
同窓会を開くというので、真夜中にネットでヒコーキとホテルと予約した。

いざ東京に着くと、温かい最適温度のペーブメントを

久々に ハイヒールで歩いた。

背筋がピンと伸びて、若返って、

旧友に逢えるのを楽しみにホテルに向かった。

カウンターで、

「昨日、、、と言うより、、、深夜ネットで予約したのですが、、、」

受け入れの、返信メールもいただいているので、

その旨を説明していた。

ところが。

カウンターには連絡が来ていない。

怪訝そうに、首をかしげるカウンターボーイは

むしろ常識人であると思った。

72歳の老婆が、

真夜中にネットでホテルを直前予約し

エアドウの翼で、飛んできた?

信じられないのは、当たり前だと、

ピーンときた。

万一の為にと、

返信メールのパソコン画面を

携帯に撮影保存しておいた。

頃合いを見てから、

「実は、いただいた返信メールの画面です。」と

携帯のSDカードから、取り出して、

「ほらね!?」と見てもらった。

カウンターボーイは、

「本当だ?失礼いたしました。」笑顔になり

鍵を呉れました。

無事に部屋にくつろぎ

いつの間にか寝てしまった。

**********************************************


そして、、、目が覚めたのはもう、、、夜。

東京に、何をしに来たのか?、、、て?

*****************************************
イベントが終わったら、

暇が有ったら、お茶しようよ、、、

ずいぶん前に、東京に、、、行くかも、、、と。

お喋りしていた。

覚えていてくれた。やはり!!!血は水よりも濃い!

駅のロータリーまで

夫婦で迎えに来てくれた。

懐かしい兄弟の家を訪問して、

家の近くに、築地の板さんをしていたという

お爺さんが店を開いているというので、

連れて行っていただいた。

紅葉の季節に合わせた和紙の敷紙は

さすが、築地の板さんだったという季節感あるおもてなし。

カウンターで、定番の店おすすめのメニュウから

選んでいただいて、ごちそうになった。

てひねりの器が、マグロを泳がせているかのようだ。

実は、思い立っての訪問で、

兄弟の家なので、

訪問する途中、ドンクのパン屋が有ったので、

一種類づつ、紙袋に満載に買って、

大きなバケットと小さいのを、袋からはみ出させて

訪問した。

パンはパンとして、

奥さんは、笑いながら、奥にしまった。

遠路来てくれたんだから、、、と、いうわけで、、

いつも行く、うまい店に連れて行ってくれた。

昨日は寝てしまい、目的が夢の中で終わったが、

同窓会という、巨大な推進力が無かったら、

東京には来てないはず。

(^^!

しかし、、、雪囲いを終わらせ、真夜中にネットで契約して、

疲れたままの東京入りと、

久々のハイヒールが、ホテルに着くやいなや

爆睡のポカをするほど、

睡眠不足を自覚できない、無茶な計画でした。

若いつもりでも、昔のように、、、徹夜はヤバい。

そのおかげで、スタミナ回復し、

目的も義務も家事もない、、、シングルの部屋の窓からは

のんびりとした、、、空。

兄弟にも会えた。

翌日は、

偶然東京に仕事で来ていた息子にも会えた。

息子が学生時代に

暇があると行ったという

秋葉原の電気街に行ってみた。

ヨドバシカメラの、懐かしいビルには

巨大な本屋が有ったのだが

今は無くなっていて、

ネットの読み放題の電子本がふきゅうしているのだな~~~と

活字の好きな、昭和生まれの私は寂しかった。

パソコンや、新しいバージョンを追いかけていた息子も、

家電ショップの階で、

巨大化した洗濯機を見つめていた。

中学時代は、抜身の名刀のような、ひらめきの少年だったが、

大好きな、吹奏楽も、ピアノも忘れて、

人生の岐路で、無心な、仕事だけの

大人をしていた。

良いじゃないの、、、居場所を見つけたのだから、、、。

最高でしょう!

「かあさん、、、自分の居場所確保の戦いは

一生続くし、選ばれてゆくには、

競争相手は、生まれも、育ちも怪獣クラスのライバルだし、、

男一匹、一生戦いで、

家庭も、持ちたいが、、、

嫁さんを探すデートの暇がない、、、と、ぼやく。

家庭があると、仕事以外の発想の会話があるから、

仕事面にも、

気付かないうちに役立つ視点ができるのにね~~~と

婆になったママは、

他人事のように笑って答えた。

この子が、名門のJ医科大に合格した時、

学生時代は友達にも恵まれて、

北海道の実家にも、泊まりに来てくれた。

卒業してから、医師免許を、取得するやいなや、

学ぶことがてんこ盛りで、

東京育ちの、人捌きの上手な常識が付くまで

とにかく、、マイペースで

何事も体験していた。

やがて、社会のシステムもわかってくるころには

役割を果たすことだけに明け暮れているうちに

いつしか40歳を超えていた。

30代のころは、私も紹介されるたびに、婚活に誠実に応対していた。

家庭主婦になって、閉じこもるには惜しいという

才媛の30歳を過ぎた美形の仕事のプロの女性が

何人か紹介された。

従兄弟だから、遺伝子の近いだけに

女性としては認識しなかったが、

彼女は、東大生と結婚し

二国籍を持つ子の母になっていた。

中学校のころは、

家族ぐるみで、旅行もした。

デパートで、ケーキを30個も買って

妹さんと、ケーキ大好き家族と

ワイワイ騒いだよね!

しかし、人生の剣ヶ峰ともいえる男30代後半は

デートの応じる時間は自由にならない状況に居た。

40歳過ぎて、

多少の時間なら、

一か月前とかに予定を入れれば

何とかなる地位に来た。

これからは、

家庭に入って幸せを感じられるタイプの女性が

きっと現れてくれると、信じている。

医師の多くの人たちは

時間貧乏だと思うのです。

時間を確保できる年代が40歳過ぎと言う場合、

出会いはきっとこれからだと思うのですよ。

勤務医は、

自営の方のように、

お金持ちではありませんが、

中級のサラリーは、保証されていますから、

自立した精神の

思いやりのできる女性なら、

一見わがままに

仕事にのめりこむ

医師と言う責任を持っているチームの役割を

理解してくれると
 
信じたい。

確かに、、

医師の相棒を担当する奥さんと言う立場は

「愛」と表現される

甘いものはないかもしれない。

男の子を育てる母のように、

社会に生きてゆけることそのものを

幸せと理解する謙虚さが要ることに気が付くだろう。

それほどに、、命を相手の仕事は

仕事が優先される。

社会に還すことのできる状態が

夫婦二人で生きることだから。

日進月歩の医学の進むなかで、

学門だけではない、

先代や、、、そのまた先代、、、の

受け継がれた「医師のセンスや、ひらめきのような、、」

その日、その時の経験のもたらす実践から、

論文には表現できない、

患者さんの人生を、環境を、精神を含めた

総合的な時間を機敏な判断で

科学してゆくジャンルの仕事だと

つくづく思うのです。

お金のある人たちと誤解されることも多い。

私自身、2歳の時

医師の父、ピアニストの母

戦後の困窮時代に

疎開地で、町営の開業を任された医師の父は、

ドクトルジバゴほどではないが、

総合病院の、院長だった立場から

戦火の中、全てを失い、

疎開地の町営の医療施設を任されていた。

物心ついたときは、

町民から、、、神様のように信頼されて

頼られて、私からは、輝いて見えた。

「お父さんは、、、医師をやめているんだよ。。。

だから、皆、頼ってくるんだよ、、、」

戦争にも行った。

戦陣外科を体で覚えて帰還できた。

歌舞伎門のような育った実家の門は

東京の市谷の屋敷町だった。

戦火で跡形もなくなった跡地には

高層MSが建つ。

新宿から代田橋まであった土地は

国の物となった。

医師になっていた、、、これは宝でした。

疎開地では、娘の私は妬まれるほど

父は、町民のスターのようにもてていた。



社会全体から、仕事をするための理解も協力も必要な地域性もある。

力も評価され、地域に貢献する立場も理解され、

大学から任された、仕事を果たすのには、

占領地の大学の西洋医学の教授もした。

その国には、、、外科の医局もなかった。

イギリス医学の外科を取得していた父は

西洋医学の外科の指導者として

戦地の至近の大学に赴任して

命を捧げ国に奉公することに、、、

当時の医師は、無心に従った。

戦争がはげしくなり、

父自らも、千人針、寄せ書きの字で埋まった旗、

奉公袋、バッチなど、、、

男の子には譲りたくないと、

母は、私に持たせて、嫁に出した。

医師でなかったら、、、

多分、、、生き残ってはいなかっただろう、、、

ポツリ、、、と

無口な父が言った事を忘れられなかった。

母は、3人の子供を戦時中に失っていた。

しかし、、、母にはピアノという

分身が有った。

戦争で、無茶をした父は、、54歳で

この世を去った。

未亡人の母は80歳過ぎるまで

ピアノと生きた。

弟子の中からは

音楽大学に進んだ人もいた。

形見のグランドピアノは

弟子の一人が受け取った。

医師の奥さんは、弱い人では、自分が困るだろう。

風評被害で、訳の分からないところに

出費の必要も多い。

二歳の時

私は、大やけどをしている。

7回の手術で植皮をして完治しているが

やけどのおかげで、

京都大学に入院で来て、

京都をくまなく楽しめた。

当時の名医の誉れの高い先生で

近藤先生とも、家族ぐるみの知り合いになれた。

最後の完治のzカットは

形成外科では日本に技術が紹介されたばかりのオペでした。

警察病院の大森先生が執刀してくださり

長い長い火傷との戦いは

私の勝ちでした。

私が、割に合わない孤独の立場が解っていても

家なし、車なし、奨学金満タン返済中の外科医と出会い

戦場に行く相棒の兵士になったつもりで、

無給医の妻になったのは、

意志と言うより、

早逝した父が、帰ってくるようだと、

母が、希望に輝いた瞳をしたからでした。

独身を通すか、

仕事を第一に理解を示して、

協力して呉れる女性でせいでないと、

「私を見て!」という、

寂しがり屋の女性は

「命を左右する瞬間に居る」医師の仕事の前には

いない方がいい、、と。

俺俺俺の彼だから、、、お母さんが決め手ください。

未亡人の母を幸せにしてくれる娘の結婚なら

私は、母の選ぶ人なら異存はなかった。

しかし、、、外科医の妻と言うのは

愛は要らない世界かもしれない。、

女性の自己顕示力は、逢えなく破れ、、、孤独になるだろう、、、。

息子は外科医のように、

チームにささげた時間に生きる科ではないから、

医者の中では、時間に恵まれた科である。

奥さんは、土日は家庭ができるはず。

料理の好きな、掃除の行き届いた、洗濯の好きな

聞き上手な女性が、最高だけれども、

そのような、絵にかいたような奥さんタイプの女性が

現代のスマホ時代に居るわけがないから。

子供の好きな人であればいい。

かといって、女医さんのような、ピアニストのような、

誰が見てもプロの仕事人の女性は、

お金持ちのスポンサーになれる男でなければ

旦那は勤まらないでしょうね。

究極のサザエさん漫画の

マスオさんのような、

天然の泳ぎ方のできる空気が無いと

対等の女性は、、、多分、、、手におえないでしょうね。

医者になりたての頃は、

息子は、素敵でしたよ。

スリムで、、、。

眩しいような輝きを感じた。

ところが、仕事がPCの前に座る事も多くて

40を過ぎた医師の独身は、

太鼓腹!

後天的太鼓腹!

ひ爺ちゃんの父にあたる人は

剣道五段!

宮内庁に勤務の

輝く凛としたスタイルの武士道?ありきの魂の先祖。

奥さんになる人次第で

スリムなきりっとしたスタイルに戻せるはず。


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本人は時間貧乏なだけに、、、

車を運転できる、行動力のある人が良いと願っているが、

条件と結婚したいとは思っているわけではありません。

船頭になって、家庭の事は任せて!と言うような

社会の現場の行動力が要ってくる。

素養は必要だ。

だって、、、家も、車も、

結婚相手と相談してから買うという気持らしい。

一般社会の常識的なことに疎い

専門バカなところのある旦那に

指図や命令は、、、受け付けないだろうから、

旭山動物園の、かっての名著の

「動物と向き合う」センスが、女性の方にも必要だ。

我と、思われる方が、

「あなたの息子さんはひきうけました!
3年かけて、お腹もひっこめさせて、

引退した外人さんの力士のように、ハンサムなスタイルに戻します!」

夢の中に、、、未来の、お嫁さんが現れて、

息子を二人の世界に連れて行ってくれないかと、

すわり仕事の、おなじみの「医師の体型」になった

40歳を過ぎた、愛すべき愚息の為にも

医者としては、、サラブレッドの血を持った遺伝子を

輪廻転生、、、未来まで

永遠に運んでくれる船の女性が現れてくれると、

きっと、又、世の中に役立つ男の子や女の子が

育つこと、、、請け合いです。

72歳になったから、自分の事を考えなくては

心まで、年をとりたくありません。

お嫁さんに、息子を任せれば、

息子の事は、、、考えなくて良い日が

くるのにね~~~

気持ちは少年のように若く

若いまま、

社会の人ごみにのまれてゆくのを

どうすることもしてあげれない、、、

72歳の、、、私なのです。

久々の、銀座の一日は楽しかったね!

愉しかった、独身気分満々の

息子との一日は、、、私が若返った。

根っこにあるサラブレッドの血は

まだまだ、往ける!

日本中の独身女性の、真実を見抜き、育てることのできるあなた!

一見、、、むさくるしいしゃれっ気のない独身40過ぎの男。

珠磨かざれば、光なし。

医師としての実力も、行動力も、

アブラの乗り切る40歳代!

男として、、、甦らせるのは、あなたです!

この時出逢う女性は、、、、きっと神が決めた本命と信じて

魂の輝きが、

あらゆる苦難を押しのけて、

未来に、サラブレッドの遺伝子を運ぶことを信じたい。

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医者であることが、

未来に遺伝子を運んでくれる女性と

一体になったとき

命の輝きと、

命を見つめる職業とが

同時に完成に向かうだろう。

価値観のベクトルが、合力になって強くなるとき、

人は、、、幸せを手に入れると、信じたい。

意識しないで、世の中に役立ってゆくだろう!!

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私こそ、あなたの息子さんを、

磨き上げて、

幸せにできますと言うあなた!



メール、は、お返事しませんが、

アドバイス下されば、

謹んで読ませていただき、

72歳からの手習いで、今どきの女性心理を

学習したいと思っています。

そして、、、たったお一人にだけ、

感謝のメールのお返事をいたしましょう。

ご縁があるとうれしいのですが、、、

72歳の私には、

お約束はしない年齢になりました。

聖書の話の中には、晩婚の医師の話も出てきますね。(^^