花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

白鳥は海の蒼、空の青にも 染まず漂う、、、、

2017-06-30 02:12:47 | Weblog

 

私は凡人だから、

東京大学出身とか、ハーバード大学出身とか

女性の議員さんとか、ヨーロッパの女性議員や首相になる人は

特別の脳を持った人だと、、、

無意識のうちで、区別してしまっている自分に気づく。

例えば、主人は医師の仕事に関してはプロであると認めているが、

家庭の事や、町内会の事や、ちょっとした買い物にしても、

およそ、、、プロとは思えない。

ある大雪の日の事であった。

表通りに面していない我が家の前は、

ほとんど除雪が来ないことが多い。

緊急の出動の多かった若き日には

プロのタクシーに来てもらっても

タイヤが滑ってしまい、除雪を余儀なくされる地区であった。

明日は、大切な手術日であり、

私は夜中に起きて、朝まで除雪をしていた。

明け方、少し仮眠をとり

気が付くと主人の出勤の時間だった。

あんなに完璧に除雪をしていても

又、、、雪が降って、タクシーが、坂になっている門前に

タイヤを滑らせて、停滞して進めなくなった。

手術日の主人は、焦っているのか、

窓越しに、私を呼ぶ

私はスコップを持って、

タイヤの前後を除雪して、ヘルパーをタイヤの前に埋め込むと、

タクシーは発車したが

一つ目の角で、又停滞した。

運転手さんが降りてきて、私の差し出したスコップで、除雪を始めると

お隣さんの御主人も、前の家の御主人も

手伝って、除雪に参加してくれました。

おかげで、車が本どうりにつながる角を曲がり切れて、

主人は、間に合ったからスタッフを待たせるような失礼にならなかったと、

手術を無事に遂行できたほっとしたと、

そのことだけを言ってたことがありました。

帰宅してから、たった一言の、ご苦労様もありません。

この次からは、

門の前から、角まで、車の幅だけの除雪が要るね!

今朝の大雪で、ヒヤリハットだよ!、、、と

自分の仕事の事で、頭がいっぱいである。

結婚の条件として

母は何回も、「雪かきを、一人でさせないでくださいね!」と

繰り返して念を押してくれていました。

生涯、、、患者様のお体に触れる手だからと

私は、外科医である主人に、

スコップを持たせたことはありません。

しかし、、、家内以外の方の好意で

雪にはまった車を出す時ぐらい

車から降りて、重量だけでも減らして、

分担が違う仕事であっても、

恐縮していると、態度や行動で示すだけの

客観性のある協力を示してほしかった。

 

私は、気まずくなるのを覚悟で主人に言いました。

「昨日から、手術の事ばかり言っているから、

私も、寝ないで除雪したのよ。

明け方仮眠している2時間ぐらいの間に、又降ったのよ!」

50年、私だけが雪を搔いてきたけれど、

雪掻きって、大変なのよ!

ご近所の方が、除雪に加わってくれた時、

何で、車から降りて、あなたも手伝わないのよ!

車を皆で押してくれているんだから、

発信で来て、角を曲がるまで、車を降りて、

発進し始めたら、皆さんに

「ありがとうございました!おかげで間に合います!」と

挨拶してから、車に乗ったらどうなのよ!?」

「患者さんの事で頭がいっぱいで、早く発進しないかと、

イライラしていて、、、車降りることなんか、頭に浮かばなかったョ!」

。。。。。。+++++++。。。。。。

礼儀違反よね!手伝ってくれてる人たちに

悪いとおもわなかったの?

(;;   (++!    (==

医者って、、、お偉いのね、、、御偉いのかな?

鈍感力なのかな?

私は、その分、お礼を言って、頭ペコペコ下げて、、、

「すみません、、、主人が、、、降りるという事に気が付かなくって、、、!」

平謝りしたのよ!!!

その日は、お互いに無口な一日でした。

私の、兄は、内科の医師ですが、

私たちが、まずは入らないような

こだわりのレストランにボトルを置いてあり

無理やり、付き合わされることがあります。

其処には、何やら、、、こだわりの絵がかかっていました。

ウェイターを呼んでは「この絵は何を表してるんだね?」

私たちの前で、若いウエイターは、答えられなくて

真っ赤になって立ち往生してしまいました。

普通なら、、、

「いいんだよ、わからないなら、、、次に来たときにおしえてくれれば、、」

これが、普通の人の会話でしょう!?

内科医の兄は、、、違うんですよね!

「上司には、わかる人が居るはずだから、、、

探して来てくれたまえ。

説明してほしい客が来ているからと言えば

来てくれるから、君も一緒に聞いておいて、覚えておけば

職場のプロになれるよ、、、!」

結局、彼女は真っ赤になって、上司を呼んできました。

上司は、実に丁寧に、絵の由緒と表現されている意味を

歴史的に話してくれました。

フランスのワインを、戦争から守った絵でした。

昭和天皇陛下が、ヨーロッパで入られたレストランのワインが

戦後、土の中から、

泥がついたまま

再び平和な時代に

掘り起こされたという。

そのワインを、主人の昇進の時

飲ませたかったのだと言った。

、、、、、**************

気持ちは解らないでもないが、

折角の会食の時

ひとりの若い未熟な年齢のウエイターが

恥をかかされたことに

私は心が傷ついたのではと、思うと、、、

ワインをおいしく飲めなかった。

兄貴が支払ってくれるのですから、

一生に一度くらいは、

高級レストランに入ったことは後悔しませんでしたが

次に、主人が、ある、、、快挙を飛ばしたとき、

再び「夫婦で、来てください。」と封書が来た。

私は、

上の者も、下の者も、平等に気楽な楽しい席でないと

ストレスを。もらってしまう方なので、

次の時は参加しませんでした。

医者同士集まれば、盛り上がるでしょうから、

主人には、兄の顔を立ててくださいと、

ひとりで参加してもらった.

当日は、

弟二人と、兄夫婦と主人と、兄の友人の開業医のご夫妻が

何やら、公共薀蓄を話しながら、

ワインを楽しんだと聞きました。

医師はストレスがたまる職業らしく、

身分不相応な高級感のある時間に

散財することで、ストレスを解消するらしい。

赤提灯では、開業している友人夫妻が来てくれないのは

安いからではないと言った。

皆、入院患者や、勤務してくれている職員の家族が

双肩にかかっているから、

私様的な振る舞いで、せっぱつまったストレスを放出するようだ。

自分が死んだら、従業員の家族が生活に困窮すると

責任を感じて、苦しいらしい。

自分自身のみならず、お呼びしたDrの事も

セキュリティ万全に考えるらしい。

セキュリティ第一に考えて、

後は、相手の自尊心を考えると、

医師のアルバイトの時間給よりは

高級な接待の出来るところを選ぶことで

相手に、「時間をロスした」と感じさせないことが

定期的に、医学情報の交換にもなるらしいと

主人は、「贅沢をしたり、

イイ振りコクという、幼い視点は辞めてくれ。」という。

「お前さんのような、家庭内の事とだけ、ちまちま考えているのは

二等兵と同じだから、私様に批判的な気持ちで接するな!」

(^^!*******************

兄貴は、50歳代で未亡人になった母が

世間から、元医師の奥さんが、可愛そうね、、、と

同情されるような肩身の狭い思いをしないように

母のピアノのお弟子さんに影響が行かないようにと

母が80歳になるまで、父の開業の後を引き継いで

一日150人の患者さんを継続して診療していた。

母が80歳で亡くなる前後に

「お前には、感謝している、、、ありがとう、、、

開業を、今まで引き継いでくれたけれど、、、

今度は、医師としての、自分の人生を歩きなさい。」

日頃から、合流するはずの主人が

札幌市の病院で生涯勤務した事もあり、

兄は母の死後、勤務医になった。

性格は、穏やかになったが

お金には困るようになり

勤務しながら、開業時代の仲間の医師との会合を

少しづつ減らしていった。

医師会にも出なくなっていった。

最終的には、医師になった息子も

自立して出て行ったようだ。

私は、兄の娘の結婚式には、我が家からは

息子たちが出席した。

兄が継いだはずの父のクリニックは

二束三文で売られた後、

開業をやめていたので、税金の支払いの為に

残金は5000万ほどであったという、

当時の事務長さんの退職金を支払うと

施設に入るのがやっとの顛末であった。

兄弟姉妹は、皆で出し合って、後々の法事を行い

世代交代は終わった。

私は、蚊帳の外に居て、思ったことは、

父の開業を、継続させようと、継続は辞めてしまおうと、

医師の財産は「医師である本人の能力である」

開業状態であれば、銀行も、税金も、開業が継続できる枠で配慮される。

閉院となると、経営のピークの時でなければ出来ないと感じた。

閉院は、お金がかかるという見本を、兄の閉院で勉強した。

従業員への退職金。

薬や、医療機械や、リースの全額の整理

医師会への退会、勤務医師会への加入、、、

23人分の職員への退職金以外の、感謝のお別れ会、

息子や娘への、独立の切り離し、、、

医療施設の不動産処分。

父の時代からの譲り受けの東京の不動産の税金は

閉院、した後売ったのですから

支払いきれない現金の税金が来るそうです。

査定は高くても、結果はマイナスで、

兄弟には、父の遺産の分配どころか、、、

理解できない結果だった。

結局、、、医師は、一代であり、、、その能力も、財産も

閉院してしまっては、

誰も継ぐことが出来ない仕組みになっているとわかった。

つまり、、、、医師であるという能力と、

多くの従業員に「仕事を与えられる経営をしている」

その家族の生計を支えているという

開業の建物が、世間の共有物化のように評価されていたのだった。

閉院は、銀行の融資もストップする、

日進月歩の医療機械のリースや、買い取りの残金は

即日請求される。薬も、事務雑貨も、一括で支払う。

閉院は、一個人の勤務医の誕生であるからして

その、、、お産には、、、全力で当たっても、

マイナス会計が残る。

今思えば、自分の身だけ考えればよいサラリーマンの我が家が

兄の苦労を考えられなかったことに、

おのずからの未熟を感じます。

晩年、しばらくの間は勤務して、穏やかになった性格を

私も、ほっとして観ていましたが、

勤務のデビューが遅かっただけに、

晩年は、普通の常識人の中に入って、

ひとりの老人として、質素にならざるを得ない毎日に

順応できるかどうか?、、、心配です。

兄のおかげで、未亡人だった母は

80歳過ぎるまで、

クリニックの先生のお母様という守られた立場で

生涯現役で「ピアノを教授して、音楽大学にも弟子が進学し、

「四葉会」という、母のコンサートグループは

毎年、母校の国立から、生徒を迎え、コンサートを開いていた。」

もし、、、兄が、父の後を継いでくれていなかったら、、、?

年老いた母は、ピアノのお弟子さんを50人以上も抱えて

閉院という、、、津波にのみこまれたかもしれないと思うと、

守られていたのは、、、誰だったか?

世間様への未亡人になった母の「ステータス」を維持してくれたのは

実は兄だったのだと、、、、何十年も経ってからわかった事である。

私様!俺様!、、、蚊帳の祖手で批判する前に

この頑強なネジが外れたら、、、桶屋が困る、、、と。

私は、人格欠損に見える優秀な人の舌足らずが、、、

「黙って従え!この!低能!、、、と、兄から言われた若き日を

思い出すのです。」

「頭にきた、、、父の死んだ日の、、、全面放棄を迫られたあの日!」

全ての相続放棄の印鑑を、兄嫁が請求してきたとき、反論した私に

国語が苦手な兄は、初めは説明してくれていたが

質問する私に、イライラして、

最終的に「この低能!」

妹にだって言っていい事と悪いことはあるでしょう!

あれっきり、、、ハンコを押して以来

「お前が医師と結婚して、この父の残したクリニックを継ぐなら

ハンコは、戻してやる。」

兄は「鬼」になった!

兄嫁の事を、「様」を付けて呼ぶように!

従業員に、誰がトップなのか、お前の呼び方で解らせよ!」

「鬼の兄貴に変身した。」

振り返れば、、、鬼になったり、非人格的な言葉を吐くとき

人は、、、力以上の責任に押しつぶされそうなのに

回りからは嫉妬や足引っ張りの分け前などの圧力を感じるとき

「手助けの、、、力のある相棒が欲しいよう~~~」と

涙ながらの心が叫んでいたのではなかろうか?

敗戦の後、岸首相が、、吉田首相が、、、万感の思いであったろうが

戦勝国の、アメリカや、ロシアの狭間で

日本の存続を考えたに違いない。

当然、敗戦の日本国民は、全てをご無理、、、ごもっとも、、、とは行かない。

まず!!国民の教育が、目指せ東大!目指せ京大、、阪大、、、九大、、、。

インテリの増えた日本は、、、教育が宝かもしれません。

しかし、、、教育という「大いなる財産は、本人一代です。

大いなる教育の遺産は日進月歩という教育の現場では

時代を背負う若者の本人の「やる気」「気付き」にかかている。

色々なことがあって、

我が家も、老後の主人のステータスを守るのには

私がもっと賢くならねばと反省しています。

日本の政治家の何十人もの人が、韓国や台湾や、他国との混血だと

Uーチューブでは、本当なのか?デマなのか?、、、

P.Cをかけっぱなしで炊事をしていると、ビックリコンの放送が入る。

「日本人以外の視点」が、多いほど、8次元の画面のように

リアルな国会になるのかもしれないが、

日本が世界と協力し協調しながら、

唯一の

原爆の被災国であるという

「戦争の破壊」「人間の元素化」を体験した事を

「人類の破壊」と危惧して

いかなる国にも、核戦争の罪を犯させない堤防になる事を

国会議員の国籍を超えて、平和への経済システムを考えてほしいものです。

小さな開業の閉院が、経済的にはゼロ以下の苦しみになりましたが

世間の中の、何気ない一市民として、

マーケットの半額の時間に買い物をしながら、

全体の中の自分に気が付くとき、

大切なのは、国会の派閥闘争の票の奪い合いではなくて

蓮舫さんも、豊田さんも、もう一人の自衛隊問題発言の女性議員も

ヒステリーを起こしたくなる気持ちはわかりますが、

結束して、日本にミサイルが飛んでこない政治をお願いします。

呉越同舟、、、団結して、日本人の東京、日本の本土に

多くの留学生や、観光客をいざなう。世界のお母さんになって、

孫子の時代は、世界のあっちこっちで日本人が必要とされて

世界中に「居場所のある政治」

世界に溶け込んで、「戦争は経済の流れを変えないと防げないと思いました。」

これは、政治音痴の一主婦の直感ですが、

いかなる国も、戦争で、潤うようでは、

戦争は終わらないという事ではないでしょうか?

又、、、

世界中教育を無料にして、

早く、教育程度を均一にして、

豊田さんが、、、バカ!という言葉を言えなくなるほど

豊田さんクラスの頭脳の運転手さんと、上下なく組み合わせて

淑女のまま、日本にくけん出来るような、

頭脳ハンティングの後の組み合わせに

人使いの「ピーポイント」があるのではなかろうか?

兄は、医師の弟には「紳士の言葉でせっしている。」

自分の助けになるのは有能者しかいないと思っている人間が

要職についている場合が考えられるからです。

こういう「人格の、、、あっち向いてホイ!」の人の能力を

社会に貢献させるのには、組み合わせが肝心だと痛感します。

兄は、弟には、、、口が裂けても、、、私に言ったように、、、

「人に向かってテイノウ」などとは言いませんからね!」

私は、、、それ以来、、、兄のイベントには参加しないように、

自分のストレスを解消することで、

兄を憎まないように気を付けています。

*****************************

自分の家庭だけ考えれば

よい立場だった私かもしれない

私は、肩のこる集会は疲れるので、

主人とは

近所のそばやが性に合っている。

たまには、孫たちを誘って、回転寿司に行くことが、

最高のたのしみになっている。

私の身の回りには、、、結構な地位の人が通りすぎてゆく人生でした。

豊田議員の女性ながらに、議員職を務めることは

並大抵のことではないのだな~~~~と思いました。

東大出て、ハーバード出て、、私様と表現しながら

一分一秒を仕事に没頭できるなんて、、、凄い女性が居るものだと思った。

政治の世界は、、、普通の人は勤まらないでしょうねきっと。

優秀な彼女が、阿修羅のように睨んでいる政治の裏側が

TVで、何回も放送されるのを聴きながら、

政治の派閥闘争には、

マイナス要素をさらけ出してしまったのではないですか?

もし、、、

平和に見える日本が、

これほど、

イタコ一枚下地獄のピンチに居るのなら、

豊田議員が、

人間性はともかくとして、

ハーバードや、東大の頭脳が

もっと、スムースに、日本に貢献できるような

良い面だけ、日本の為に奉仕できるような

したたかな頭脳の秘書さんと組み合わせるとか

相乗作用を考えるわけには、、、行かなかったのでしょうかね。

政治音痴の私には、

頭の良すぎる人は、一歩間違えると

両刃の剣のように、、、、コンニャクの切れない

斬鉄剣かもしれませんよね。

怒鳴りあっていないで、

ミサイルの飛んでる日本海の事を考えて、

国防第一の投票を、国民は考えています。

今は、、、国防でしょうね。

内輪もめは、ひとまず、、、敵の作戦の罠に落ちると考えて

日本は団結してください。

明日がわからない70過ぎた昭和10年代の生まれの者には

戦争だけは、、、避けてくださいと祈るばかりです。

運転手さんも、ビックリでしょうが、

ライオンや、豹や、猛獣並の頭脳の人間は

女性でも、男性でも、吠える、噛みつく、たたく、、、

猛獣に、吠えるなというのは、、、無理であるがごとく

私たちの扱いで

習性を研究しないと、、、、ズタズタになるのは困りますよね。

でも、、、、サーカスのような、世界の国々の狭間で

桶狭間の戦い並の、、、多勢に無勢、、、にならないように

猛獣のような人の、

稀有な能力を必要としている

ピンチが来ているのなら

全てを含めて、使いこなせる組み合わせで、

サーカスのような綱渡りをするしかないのかもしれませんね。

どうか、、、孫子の時代に平和を祈っています。

これは、、、公開していない、親族や親友だけが読んでくれる

私の日記帳です。

政治には、とんと、、、音痴な私ですが、

足の引っ張り合いは、、、やめてほしいと願っています。

他国の血が入っていようと

国会議員は日本の宝の頭脳です

日本の国を8次元の視点で見て、

円卓を囲んで、

ミサイルの飛んでこない、平和な永久平和国に向かって

世界経済の流れを地球温暖化防止に向けて誘えるように

核戦争の悲惨を、平和への地球の元気に置き換えてください。

 

 

 

 

 

 


昭和44年から49年目の北海道の暮らし

2017-06-28 17:16:04 | Weblog

昨日の事のようです。

色々思い出す事が多すぎて

言葉にも、詩にも、文にも出来ない、

大きな文化の違いがありました。

東京からの、突然の移住者と解る、言葉の壁がありました。

「よそ者」、、という感じがしたでしょうね、、、

50年まであと一年、、、

相変わらず、言葉はアクセントが、昔の儘ですが

「特に親しい人も居ないし、

近所の家にも、遊びに行くことも、めったにないし

話しかけられると、親しく立ち話もするが、、、

我が家には、人をお招きしたことはありません。

万一誤解があって、

うまくいかなくなる事があっては、面倒だと

転ばぬ先の杖、、、と、引っ込んでしまったコミュニケーションセンスでした。

隣は何をする人ぞ?、、、と、

他人の事に興味を持たない文化の東京から、

ベランダから「奥さん居る~~~?」と

サンダルで入ってくる文化の所に来たのですから、、、

ほとんど、「相槌専門で、話を合わしていたのが、、、間違いだった。」

いろんな町内の人の事を、瓦版のように知らせてくれる人もいた。

長い間に、

皆引越してしまい。昔の隣人は世代交代してしまった今、

思い出話をしても、傷つく人は居ないはずだから、、、日記にも書けるのです。

一方的に、

朝晩毎日ピンポンして、友達になろうとしてくれていることが

はっきりとわかる、、、ある、、、奥さん。

突然、この頃姿が見えない。

3か月たったころ、

ある奥さんが、瓦版よろしく、教えてくれた。

彼女、、、骨折して入院した、、、という耳打ちニュースを話してくれた。

50年前の私なら、

別の奥さんに「あの人最近見えないね?奥さんなんか知ってる?」

と、、、聞かれると、

「聞いた話だけど?骨折したとか?入院したとか?聴いたわよ。」

バカ正直に言ってしまったかもしれない。

しかし、、、50年の間には、

地方の習慣や

馴れ合いの

多くの仲良し集団になっていることも知った。

私は、「さ~~~ぁ、ここんとこ、私もあってないから?」

事実だけを答えた。

翌日になって、長い間、姿を消していた奥さんが

突然我が家に来た。

長い、、、~~~旅行中だったという

良かった、瓦版的に聞いたことを、

噂をそのまま言ったり、

真に受けて、、、御見舞いに行ったりしなくて、

50年前の私なら、

仲良しグループが、あちこちにあることを知らなかったから、

わざわざ自宅に遊びに来てくれたPTAの奥さんが、

「奥さん知ってる?町内会では、ああで、こうで、こうなのよ!」

瓦版ニュースのように、身振り手振りで話すから、

つい、つい、うなづきながら、「そんなことが有ったの、、、」

翌日、別の奥さんから、

「あの人、、こんなことあったってしってた?」

つい、うっかり、、、「そうだってね?聞いたわよ」、、、と答えてしまった。

そのことが、本人の耳に入って

私が、、、言っていた。、、、、と。!!!!????

結局、東京から入ってきた「よそ者」時代の苦い世間知らずの時代の落とし穴に

ドボン!

正直言って、こうした文化の違いを上手に泳げるほど

私はしたたかな性格を持ち合わせていないから、

めんどくさくなって、

言われるままに、ほーっておいた。

ひとりで時間を使う事になれていた理科系の大学時代に戻り

庭に野草を集めて、

誘われるままに、本州の山を登った。

長野県の山々。

済州島のおなじみのお盆のような山頂で

韓国の生薬学会で知り合った先生方と植物探索をした。

又、本州の薬科大の主宰の北京の万里の長城から

仙人の住んでいた秘境にまで、同行できた。

金沢大学の大学院生の方たちと

白山の登山をしたことが、人生を振り返ると

思い出される絶景でした。

あの時は、

恩師の日大の生薬学会の会長をされていた先生も一緒でした。

日大の植物園長になられた先生もご一緒だった。

何よりも、白山の山頂に登頂成功した事は

金沢大学の先生方が、ヒマラヤなど、世界の巨峰を歩いていられる

山のベテランだったことが、大きな心の支えであったと振り返る。

この、愛すべき羊が丘のふもとの集落も

入植され、開拓されたお爺さんたちも、世代交代して

孫の時代に入っている。

私は、いつしか、、、古株になっていた。

住人も、すっかり入れ替わり、

時代も、バルブを過ぎて、中流の人たちの住む

穏やかな、住みやすい、良い街になった。

家も、リホームや、新築ラッシュが続き

瀟洒な家々が目立ち始めた。

住めば都!、今は、どこを歩いても、

挨拶してくれる。

御誘いもしてくれる。

しかし、、、

不規則な時間に、

不規則な、食事や、風呂や、出勤の主人も

根が、「もっとも、医師らしい医師」つまり、、、

つまり{良医」と言えると思う。

年がら年中「患者さんの事を考えている。」

町内会には知りあいも出来る機会もなく、

ひたすら、病院で、患者さんに向き有っている。

「私は医師として患者さんを診ている限りにおいては

社会に還元しているという実感があるから、生涯医師として

人生を全うしたい。」

雨が降ろうが、、、槍が降ろうが、、、主人は天職として

医療に従事している。

町内には、これからも、私が、頑張って、

廻ってくる班長も、副班長も

ひとりで頑張ってゆくと思いますが、

多くの事を、貢献したかった心とは別に

本州の山登りで人生を過ごしたことには

地球の雄大さ、地球の美しさ、厳しさ、そして

地球を汚してはならないという、地球の恵みが痛感された。

地球の一部の高山と遊べて人生の恵みに感謝している。

そういう意味で考えてゆくと、

自治体や、町内会が、他所から来た者の

発言や、行動を、転ばぬ先の杖のように

蚊帳の外に区切るかのような、小さな集団の

ややこしい、

派閥があった50年前を振り返りながら

こうした連絡網が、

地球の破壊的発展をくいとめていたのかもしれないと

思う反面、東京の文京区の町内会などの

インターナショナルな知恵が、時代の要求でもあるような気がする。

札幌市の羊が丘周辺や、ドームや、空港までの発展が

世界とどうかかわってゆくかを握る

未来の生き残りになると感じている。

新幹線がつながったからと、

本州からの受験生を相手の戦略を考えるよりも

問題そのものを、北海道の発展に必要な

地元育ちでなければ、解けない問題を、いくつか出題すると

本州の知恵を持ち

北海道に貢献で来る、北海道を好きな

未来の牽引する人材が、北海道に大学生と相手登場するのではないか?

私と、町内会との接点は、「ゴミ出し」と「草刈り」ぐらいであったが、

主人が、札幌市の医療面に貢献できている現状を

私は支えることで、主人を通して、

医療にかかわってきたと、考えるようにしています。

薬剤師の私は、薬剤師と、医師の母でもあるから、

息子たちが、社会に貢献できるように

足を引っ張らない老後を維持するように

人を頼らない老後を、自作自演で運動に、趣味に、家事に全力を尽くす

73歳です。

これは、、、日記帳です。

惚けないように、ありのままを、日記に書くことで、指と脳をつなげて

リフレッシュしています。

本日は、、、独りよがりの、文となりました。

お付き合いくださってありがとうm(^^m

 

 

 

 

 


カラスの縄張り

2017-06-25 14:32:17 | Weblog

カラス、、、なぜ?鳴くの?

カラスは山に、、、

可愛い七つの子があるからよ!

********

札幌の羊が丘のふもとには、緑地帯の 農林試験場など

自然がいっぱいで、

札幌の季節の移り変わりの良さも大変さも身近です。

カラスが発情して、雄雌が呼び合う5~6月は

卵も孵り、

若鳥が激しく縄張り意識に目覚め

鳴き続ける。,,,,,kaa~~~kaa~~kaa~~~

カラスの巣が道路の向かいのヒバの樹のてっぺん近くにある!!!

屋根ほどに伸びた松の剪定に、

決心して今日は挑んだ。

高枝ばさみと、いけばなばさみ。のこぎりを、

ベルトで身に着けて

ジーパン生地で創った帽子の中に

保冷剤をタオルにくるんで入れてかぶる。

ネッカチーフに保冷剤を5個並べて、糸でずれないように止めて

首に巻く。万一頸動脈をつつかれてはたまんないからね(^^!

之で、カラスが攻撃してきても、

致命傷の怪我は防げる。

隣の地元のおばさんにもらった

工事現場でポールを振ってる叔父さんが身に着けているような

蛍光の黄色いビニールのウインドウブレーカを着た。

カラスは「黄色」が嫌いと聞いた??ほんとかな?

 

****************************

 

剪定開始スタンバイ!

思った通り青年に育ったちびガラス!2羽と

真向かいの巨木の?ヒバの樹の巣の

家族のカラスたちが、一斉に襲ってきた、

金網ネットで接近を防ぐと、

カラスも、私を強敵と認識したのか?

前の電柱の上から

飛来してこないが、

ギャギャカァカァ!!!!と泣き続ける。

裃を着た若侍のように羽を半開きで威嚇してくる。

相手が鳴いた数に1~2回多く、

「カァ、、カァ、、、!!!」と泣き返すと

ピンポンの打ち返しのように、

鳴き合戦となる。kaa~~kaa~~kaa^^。。。「カあ!かあ!カあ!カあ!、、」

道路を挟んでのヒバの樹の巣は、

10年以上前から

カラスの家族の古巣である。

もう、、、毎年毎年育っては巣立ってゆく。

高枝ばさみや、のこぎりを持っているせいか、

電柱から電柱に移動して、烈しく「巣を守る?つもりであろうか?

縄張り宣言の鳴き声を挙げる。」

こっちも、

威嚇の鳴き声には、威嚇のトーンで泣き返しながら

松の剪定を続けてゆく。

目の前のカラスの巣には5羽ぐらいが、

羽を広げて威嚇して泣き続ける。

「シー!!うるさいぞ!、、焼き鳥にして食ってしまうぞ!」

腹が立ってきて2時間ぐらいたってから

「人間の言葉で脅かした。」

カラスは、びっくりしたのか、、、2軒隣の家の煙突に移動した。

ためらうように、、、トーンも落として、、、「カァ、、、カァ、、、」

隣の隣の家の前の道路に、

チワワを連れたハンチングの叔父さんが通りかかった!

チワワは、烈しく吠えたてた。

カラスは叔父さんのハンチングを前足で道路に落とした。

叔父さんはしゃがんで拾おうとしたら、

もう一羽の若鳥が

両足で肩をドンと押すように攻撃した。

ハンチングを拾った叔父さんは

帽子を振り回してカラスと闘いながら、

あきれたように、カラスを振り返りながら行ってしまった。

カラスの縄張りを遠ざかった。

次に、、、

「黄色のウインドブレ―カー」をくれた近所のオバサンが

どういうわけか?

頭にペットボトルを立てて、剪定を見に来た。

「頑張るねー」、、、

松の木に登って、細かい枝を切り落としをしている私に

下から声をかけてくれた。

電柱の上で威嚇鳴きをしていたカラスが

サーと降下してきて

オバサンの背中側から

両足で肩あたりを狙って攻撃してきた。

危ない!と、、、声をかける暇もなく

カラスはおばさんの頭の上のペットボトルにあたり

足が滑ったのか?

カラスの方が地面に落ちた。

オバサンは

「賢いようでも、、、脳ミソ小さいよね!!!ハハハ、、、」と

大笑いして、

電柱の上で羽を広げて威嚇している残りのカラスを無視して

背筋をぴんとして、、、彼女の日課の自販機までの散歩を続けて遠ざかった。

「声かけて指図してくれれば

言われたように、、、片付け手伝うよ~~~」

カラカラ、、、と、振り返り、

ペットボトルを右手で頭に乗っけて歩いて行った。

大笑いしながら、

カラスが威嚇で広げた裃翼の縄張りの下を堂々と

、、、、、電信柱を怖がりもせず、、、、

ペットボトルの冠を立てて、彼女は歩いて行った。

カラスは、一羽,、、二羽、、、とどこかに飛行していった。

前のヒバで育った子供のカラスだけが、相変わらず

私の前を飛び回りながら威嚇する。

私は、無視して、剪定を終わり

枝を小さく刻んで90センチ四方の半透明のビニールに入れて

剪定の作業は怪我をすることもなく終わった。

温泉の元を入れた風呂に飛び込んで

頭から湯船にもぐり、すっきりとした。

***************************

むかし、、、いけばなの師範をもらったことが有ったが

根っこのある野草に興味が移ってしまい

庭全体が、、、

筋トレを兼ねての、植物と遊ぶおもちゃ箱になっている。

きちんと、素敵に見える庭に、、、

そのうちしようと、、、

思いつつも、

自分で手掛ける、独りよがりの楽しい野草園のように

茶菓茶菓?の

むちゃくちゃな雑草園に見られていると思いますが、

小さな「紅いタンポポ」や

若き日に、薬科大の生薬学実習に参加した時

参加記念にと配布されたハーブが勝手に咲き散らかしていたり

之で、、、イイのだ、、、。

自分だけが、わかっている雑草の可愛さ。

カラスは、頭上を低く、滑降してきては

肩をドーンと突っ張って、上衝飛行するこのあたり。

農林試験場という大自然の森林サンプル園があって、

春には桜の並木が見応えがある。

ご近所のみならず、、、遠くからもお花見に来るこのあたり。

カラスにとっては「得難い縄張りが、羊が丘周辺のゴミ置き場である。」

必死に生きるカラス。

うるさがる住民

ほどほどに飼いならせないのが残念である。

カラスの軍団。

植物園にはしばしば行くが

園長さんが交代してからは、しばらく足が遠のいている。

植物園に弁当を持参して昼休みをのんびり過ごすつもりのOLに

カラスの集団が餌をねだって取り巻いたのを見た。

OLは弁当を投げ捨てて、、、逃げてしまった。

カラスの集団は

分捕った弁当を、一族でつつき散らかして飛び去った。

どうしたものかいのう~~~~

カラスに共存共栄のマナーをしつける方法はないものかいのう???

せめて「おはよー」「こんにちわ!」「ありがとう」ぐらいは、

教えてやりたいと思うのですよね!!


銀座の恋の物語り

2017-06-23 14:37:34 | Weblog

 

相棒と裕ちゃんが重なってしまっている!

やっぱり、裕ちゃんの「銀座の恋の物語り」にチャンネルを合わせた。

懐かしいアナログな銀座、

貧乏な画学生が住める隙間のある銀座、

東京駅の焼け残ったレンガの画廊で観た「長谷川利行」のタッチに

どこか似ている、「裕ちゃんの絵」

汚れた社会の背景の中でも、戦争の傷跡を抱えた時代のタコ焼きの中でも

長谷川利行の絵が、記憶と、現実と、戦争のショックで別の人格になっていたような

錯覚の中で、美しかった過去が爆撃に逢って

記憶の屍を乗り越えて、歩き続けた「一筋の希望」

乗り越えて、乗り越えて、過去の記憶にたどりついたのか?

乗り越えてゆく気負いなど句読点にもならない万感の思いが

この時代の人たちに、不可能も可能ならしめる一途な歩みが感じられた。

 

壊れたおもちゃの「グランドピアノ」

「音の出ない一つのキイ」

人差し指一本でたたく「銀座の恋」の音符

母も、持っていた、、、足踏みミシン

アナログの手巻きの時間の温かさが

、、、時が恋しい

裕ちゃんは、幅の広い現代詩を

天然で存在させる

ややこしい事を考えないスポーツ系のファンは

垢ぬけた都会のかっこよさに惚れるのに

理由は要らないだろう!

しかし、

傀儡の苦しさをかいくぐったものには

利行の絵のような、

「怖くもあり。くじけそうでもあり、発狂しそうでもあり、、、」

絵筆と目の前の戦後の現実の中で、

まともな光がすべてを狂わすような心の闇の中で

裕ちゃんは「俺」があるようで「俺」にこだわらない。

自分という器が、まるで額縁かであるように

自分という器の額縁が。どんな絵を抱え込むかにこだわり

精神に一抹の汚れもなく。弱い人間を表現してゆく。

人間は葦のように、今日の風に逆らわないで

自分を出し切って生きてゆく、、、戦後の復活の時代を

かくも軽やかに、さわやかに、影もなく、

陰のある時代を

日本画のように、影のないストーリーで心の絵を見せてくれる。

幼い者にも、あれから何十年も経った73歳の私にも

青春パンチのパーカションで「銀座の恋」を

再び思い出させてくれました。

不思議な魅力のある映画ですよね。

今回は、「相棒」さんは。。。一拍休みで全休符というのも

婆ちゃんのTV人生のリズムでした。

**************************

日本映画が、創世記の時で

洋画も100円映画館が常連でしたから

戦後のアナログ時代から

いつ????デジタルな時代に突入したかも

先日、息子と銀ブラしてきました。

すっかり、垢ぬけた高層ビルの銀座。

服部時計店を新橋の方に向かって歩いてゆくと

高級ブランド店が、多くの外国人バク買ツワー客に囲まれていました。

息子と、交通ビルの二階の喫茶店に入って、

紅茶、、、ダージリン、、、オレンジピコ、、、アールグレイ、、、

御かわりを重ねながら、

何時間も、取り留めもない世代の交代や、

お母さんのような、家庭に入ってくれる女性が居なくなったと

嘆きつつも、。

スマホに食い入る女性たちの

下向きバージョンのファッションのなかから

果して銀座の恋がめばえるのだろうか?

まずしかったかもしれない、、、

苦しい復興の時代だったかもしれない、、、

敗戦で愛の個文化の始まった時代を

ジェリー藤尾?かな?、、、良く雰囲気だしてましたね。

中途半端な人間像を、時代は流してゆきましたからね。

裕ちゃん!、、、

やっぱり、裕ちゃんは、昭和生まれの私たちにとって

明るく、屈託なく、軽く、難しいことをやってのけて見せてくれた

時代の心のヒーローよね。

かなり、、、婆ちゃんになって、

日本橋の三越劇場で

浅丘ルリ子さんの舞台を観ましたが

彼女は30歳代が、最高の美人でしたね。

石坂さんが、ルリ子さんの

美しい時代を、、、独り占めにしたかもしれませんね。

裕ちゃん!私の中の裕ちゃんは

心の明るさのエネルギー源でしたよね。

         楽しく、思い出の映画を、今風に楽しみました。

NHKの粋な、、、はからい、、、ですよね!


忘れちゃった!どうしよう!歯医者さんの予約!

2017-06-22 01:27:27 | Weblog

 

水曜日は「西部警察」必見!と、メモ用紙に大きく書き過ぎて、

水曜日は、夕食後も、得意の爆睡」をしないようにと

マーケットで無糖コーヒーのプらボトル一本買ってきた。

前日、早朝から、剪定、長ばさみで藤ヅルカット、草取りと、

9時までフル満タン労働をした。

ほっと一息、気が付くと3時直前、明日は町内会で枝や草を集めに来る日!

夕方の、うちに運び、夕食を造り、8時過ぎには帰ってくるはずの主人と

「西部警察」を観ようと、一日頑張った、

裕ちゃんの時間にはさすがに夕食と、重なり、

9時からの番組だけ見た。

私たちの時代は、ドリフターズの「8時だよ!全員集合」で子育てし

西部警察で『別れの曲」を愛する人も

中村晃子さんの「砂の。。何とか?」を愛する人も

宝だ明のソフトスマイルを好きな人も

「大門」さんを大好きな人も、

石原裕次郎の「西部警察」始まるよ!!の一声で

茶の間に集まった。

何年もたった映画だとわかるのは、背景の夕張など

華やかなりし炭鉱の町が出てくることですね。

現在の今も今も今の話と思うような世界背景で

「西部劇やマカロニウエスタンや、荒野の7人、、七人の侍」

まとめて、楽しんだような、娯楽の最高!と、

久しぶりに「面白かった。」

特に大門さんの死んでゆくプロセスは

「ノーサンクス!」と言って、船と一緒に沈んだ船長のような

男が命を懸けた人生の「死に場所」っていうような、、、

観ている私たちの心も

裕ちゃんと一緒に、、、海の中に「手帳」を投げて、、、

西部警察のおしまいを共有できました。

やっぱし!裕ちゃんの出る映画って!!、、、天然の良さがあって

最高の娯楽映画ですよね。

解る人だけには、、、したたかに深い、、インターナショナルな

時代のメッセージが隠されていて、

石原慎太郎さん、裕次郎さんに、なぜか惹かれます。

小樽の裕次郎記念館に50代のころ、

「東京出身の私にも優しい知人」を誘って

私の車で行きました。

海を観ながらコーヒーを飲み

私はご機嫌でした。

彼女が突然言ったのです。

「あなたって意外な俳優が好きなのね!?」

「意外?」

「どういういみ?」

すっぴんで、ストレートな伸ばしっ放しの髪で

ブラウスとタイトスカートで

学校の先生と間違うほど、、、やぼったいあなたが

何で、、、裕ちゃんなのか?解らないわ?、、

裕ちゃんのフアンは、素敵じゃないと、ダメってことはないでしょう?

これからも、裕ちゃんの天然の歌を心地よく聴きながら

現実には程遠い

もう一つの青春の「勇気ある男たちの世界」をテーマの

隠された社会の現実と照らし合わせながら

男らしい生善説を、束の間のドラマに時間に楽しむのは最高でしょう。

水戸黄門、笑点、裕ちゃん、

ずーと観ますよ。

おかげさまで、、、12時に行くはずの、、、歯医者さん、、、

忘れちゃって、、、どうしよう????!

明日は素直に「忘れました」とだけ言って、謝ろう

裕ちゃんのせいにはいたしません。

 


やっと夏が来たらしい?札幌

2017-06-18 07:59:02 | Weblog

昨日までは夜中の2時ごろから4時ごろまで

2時間ストーブを焚いて、部屋の温度が冷えないようにしながら

寝不足の夜を過ごしていた。

今朝は、、、天気晴朗!初夏の空に4時半には空明るい。

去年も。今年も6月が冷えたり雨降ったり雲たり風つよしの

マダラ天気にリラ冷えが重なり

セーターを着たり、半そでワンピースを着たり、、、、

身体の恒常を保つのにこまめな精神で、窓も開けたり閉めたり。

窓の桟はカビ取りに、赤ちゃんのおしりふきを一袋、

もったいないなんて言わないで使って、拭く。

最近の喪中広告を見ると、80歳になると、そろそろであるようだから。

80歳過ぎのサヨナラ原因は、結構「肺」が原因のようですね?

つまり、、、核家族で、昔のように嫁さんが居ない。

だから、、、掃除も、年よりは、真ん中だけして、息切れる。

隅から隅まで、掃除とは、空気をきれいにするものと割り切って、

タンスの上、桟や敷居、網戸に硝子戸、鏡にカーテン

全て、巡回で、毎日どこかの掃除をするのが日課になっている。

私も73歳であるからして、ソファーの背もたれとクッションの間に

カビキラーを吹き込み、見えない空洞をダニの住処にしないようにしている。

台所の排水溝には、一日3回、ハイターの希釈液を洗い桶いっぱいずつ流して、

排水溝のネットをゴミの日に必ず取り替えて、ぬめりが無いようにしている。

要するに、病院で薬剤師をしていた時に気が付いたことは

当時は老人や、病人の免疫が弱っている年齢層に

MRSA(スタフィロコッカス)タイセイブドウキュウキン????等々、、、

生死の原因になっていたのを思い出すからです。

あのころは、病棟に行くワゴンに

消毒液を調整してビンに詰めて、朝のうちに清掃係が掃除をしていた。

今は、滅菌の空気にできる空調の時代であるが、

若くて元気な当時の私には、菌も跳ね返していた。

お年寄りや、免疫低下の病人さんが菌に負けて

当時の新聞では大きく取り上げられたりしていた。

70歳を過ぎてから、その時の記憶が甦り

日々、赤ちゃんのおしりふきで、ついでについでにと、あちこち拭く。

絨毯は、百円ショップのガムテープで、毎日畳2畳分をぺたぺた。

髪が抜けているのが、絨毯に残らないように、屈伸体操を兼ねて、する。

庭の鉢植えは、日陰から移動させることで、腕の筋肉を落とさないようにする。

どうしても、、、運動不足になるのが、歩くことですが、

気分的に、ウオークマシンだけは、買って使う気にはならない。

このマシーンは80歳まで、お世話にならないように、

買い物は、リュックを背負って、マーケットに行くことにしている。

車を使うのは、トイレットペーパーや、園芸の土や、

野菜の買い込みの時だけにして、

普段の10キロぐらいの牛乳や、ペットボトルやとーふやこんにゃくは

筋トレで、リュックで背負って歩いてくる。

この生活が続けられる限り、私には、お迎えが来ないと思っています。

車道の激しい粉じんを避けて、マスクをかけて、帽子をかぶり

リュクを背負い、ジーンズで歩く、おさげの70代の御婆さんに出逢ったら

それは、、、私に違いありません。

パーマも、人生で3回ぐらいしかかけていません。

化粧は、結婚以来3回ぐらい?したかな~~~?

息子の卒業式の時、、、

これからは、長生きして、ハイをやられないようにして、

知人の去った世の中で、

孫子だけに贈られる密葬に、ピンピンコロリが目的になっています。

知らない土地での生活も50年になりましたが、

山川、、、が友達ですよ(^^

 

 


歴史のなせるわざ?

2017-06-15 22:39:58 | Weblog

むかしのままの世界遺産。

自治体が守り切っているビルのない風景

14歳の少年の将棋

燃える高層ビルは、イギリスからの警告?

外壁の、燃える材料は、使わない建物を!願う。

お金が無いと住めない都会。

マンションは個人住宅だとばかり思っていました。

*************

大変な法律が通過しましたね。

無知だと、自覚しないまま、大きな事に巻き込まれる時代です。

無届マンションの部屋の民宿も、

悪用されると大変なことになりそうですね。

外国は近くなっているオリンピック前ですが、

島国の日本の水際作戦が多くの事を防いできただけに、

病原菌や、衣服に着いたカビや、新種のダニも気になります。

微生物の入国を防ぐ手段はあるのだろうか?

我が家では、漬け置き洗いと、自然乾燥と、

すぐやることで、

免疫低下を補うという、「乾燥作戦」

父の時代、母の時代、今回の法案のような結果、

思想家や、

政治活動で、

多くの冤罪がありました。

過去の歴史は、

繰り返さない事が大切ではないでしょうか?

君も、ニュース聞いて、社会の事を知りながら、

仕事に没頭してね。

世界が狭くなってしまった気がします。

生きてきた73年を振り返り、、、、

戦後の日本の頑張りは、

私自身が今日まで頑張れた日々素直のなれた先生でした。

皆のお母さん、国の母様、

美智子様に、日本は救われたと感じるときが、多くあります。

日本の女性は、美智子様の過ごされた

昭和から、平成への日々を振り返るとき

戦前までは、皇室は孤高の人生を過ごされていると

父母や、マスコミや、先達に聞かされていただけに、

「美智子様ご自身で、お子様を育てられた、多くの写真の報道は

私たちも、愛情あふれる皇室に親しみを感じました。」

国のおかあさまと暮らせた心の豊かさをいただきました、

日本の歴史とともに、まるで地球の緑のように

皇室がともに国民とありました、

世界大戦で、アメリカが、日本を理解してくれていたことが、

日本の、文化が、木端微塵に元素に帰ってしまう事が避けられたと

現在の平和に感謝しています。

陛下と、美智子様のテニスの軽井沢が、

「愛情の時代」に思えます。

戦後の復興時の、目指せ東大、京大、阪大、九大、、、の

受験地獄の時代に

受験とは関係なく、自然体で頑張られている

上流の企業の御嬢さんが

輝くような美しさで

国の王子様と軽井沢で恋をされたのでしたね。

学校では、その話でもちきりでした。

ご実家を出られ皇居に向かわれる美智子様の

清楚で、プレーンで、豪華なものが、追従を許されぬほどの美しさで

戦後の日本に舞い降りた天からの御姫様のようでした。

「美しいーね!」「ため息の出る素晴らしい女性だね!、、、」

父母は、テレビに観い入っていました。

戦後の混乱した時代に、

こんなに美しい、清楚で、理知的で、慈愛に満ちた女性が

日本のどこかで、高山植物の花のように

育っていらしたのね~~~~!

母は手放しで、テレビに吸い込まれていました。

良い時代に、私は生まれ、

ファションも、御ふるまいも、自然体の中の洗練された美しさに

プリンセスラインが大好きになった青春時代でした。

このような、天の御使いのような女性が、

「皇太子さまに恋をされ、皇太子さまも、、、恋をされ、国中が

希望に湧き、明るくなりました。」

どこか、孤独にお見受けした皇太子さまも、

美智子様との出会いで、笑顔のグラビアがマスコミで報道され

日本中が高度成長の時代を迎えました。

70歳過ぎても、感謝が、日々感じられます。

畏れ多い事ですが、皇室の事が新聞に報道されましたので

私の日記にも、今日の思いを記しておきます。

陛下は、ご健康の限界まで、

戦後の国民と苦楽を共にされたそばには、

いつも美智子様がいらしたことを、

眩しく、美しく、強くお優しく、しなやかに凛とされている愛情の

、女性の偉大なまでの空気を感じています。

美智子様は、国母でいらっしゃいます。

敗戦の日本に、このような女性が、お育ちになっていたという

日本の不思議が、、、、やっぱり、日本は神の国だと思います。

お二人のお姿が、

日本の日々、国民とともに居てくださいました。

地方紙でも 一面に、何枚も報道されている皇室の記事を、読みました。

陛下が、ご健康を考えられ、退位なさることは、

心から、国民の一人として、感謝で、、、御心のままにと、お祈り申し上げ、

美智子様の、生涯、私たちの国民のお手本になられた事も

お疲れになられた事と、ご健康を相乗りしています。

これは、公開していない、日記ブログなので、

畏れ多い事ですが、

今の自分の心をつづっておきます。

女性皇族の果たされた戦後の日本の外交は、

日本女性の、しなやかで、美しく強く、気品のある事のお手本になりました。

この道新は、保存しておきます。

日本の女性は、これからも、世界一であってほしいと願っています。

おやすみなさい。       ママより

 

 

 


答えようがない、、、蚊帳の外。

2017-06-10 04:41:06 | Weblog

 学徒出陣、、、

特攻隊は、栄えある若者の未来を破壊して

生きることより

死に場所を与えてしまっていたと、、、

祖父母は涙ぐむ。

ナチスドイツの「我が闘争」???

ベストセラーになって、狂気の時代を造ってしまった。

経済が絡んでくると政治も人間としての

人間を見失ってゆく可能性が無いとは言えない。

子育てをしていると

男の心は、育児には、ほど遠い「自分が可愛い」心が見える。

束の間の100年に満たない人生を

争わず、幸せにすごせないものであろうか?

日本は老人大国になり、出産されない跡継ぎの空席。

若者の、エネルギーでおぎないきれるのだろううか?

岩山に播かれた一粒の種のように

次世代まで、風に運ばれて、

時が来るまで発芽しないのだろうと、

外野で、蚊帳の外の主婦の私は、

事の重さも認識できないまま

頼まれた実験の結果を出す事だけ考えていた時代だった。

基礎も、臨床も、日本中の学会も承認する中で

北海道で、再び執刀する医師が出現したと

道新では、写真入りで紹介されていた。

********************

長い、、、長い、、、忍耐であっただろう、、、

北海道内での心臓移植の実現。

先輩も後輩も、行政も、日本中の学会も、

日本の移植手術に待ったをかけたと、

新聞は報じていた。

しかし、このたび、

全日本の学会に認められた、

心臓移植を再開させるに至ったのは、

かなり前の道新に報じられていた。

話は、、、元に戻しますが、

息子よ、これは、医療界の外野の主婦のママが、

君一人の読者を対象に、書いている日記だから、

医師である君が、専門知識を使って、

行間の意味を、自分なりに解釈してほしい。

これは、惚けないうちに、日記に書いておく、

拾うべき何かはあるかもしれないから、書いておく。

臨床と、基礎医学との研究棟が両輪のごとく

医療を進歩させるのでなければ、

命は、救えるのだろうか?

これが、、、ママの疑問です。

ある程度発展すると、行政が働きかけてくる。

そして、個人病院は、法人病院へ、

そして、役割が決められてゆくから、

自治体の旗のもとに、地域に貢献する病院として

地域の医科大学が旗を掲げ、

第二の創世記として

創立期の土台の苦しみや、実態を知らないまま

マネーのシステムの中で、

医療とは深い造詣を持たない権力が

経済を赤字経営から救うという大義の為に

病院は、お土産残業の過剰勤務の医師達で

医療労働の繰り返されるビジョンなき労働者として

酷使されて、年をとってゆく。

全てのシステムから、

静かに、外れて、

医師は本来の、

自分らしさで診療にあたる医師に戻ってゆく。

激動の臨床医としての激務や

、巨大病院になるまでの

草の根の苦労が、

年をとってから、

システムから解き放されて

開花し

、味のある「老医師」の、晩年がある。

 

かって、救急車のサイレンを

4人の医師が、家庭に帰れない状態で担当していた。

 

今や、20人を超える医師が、研修医とともに、

医師らしい学会にも参加しながら、

家にも帰れる時代が来た。

私は、この病院が建つ前の原野の中で

勤めていた会社の社員と、

写真を撮っていた。

主人が、単身赴任で、国立病院に出向していた時である。

会社の社員と、空き地を観に行き写真に収めた。

やがて、主人も札幌に呼び戻された。

 

*************************

個人病院が出来て、

熱ぽくビジョンを語る院長ご夫婦に

外野という側面、または患者という商品として、

 

無力な主婦は

かかわらせてもらいますと言ったら、

 

「主人はオールマイティーで、主人への電話は

私が窓口の携帯電話を預かっていますから、と、、、

極めて、夫唱婦随の院長ご夫妻でいらしゃいました。」

先生が、大きくご婦人を包まれて、素敵でした。

 当時、病院薬剤師として、細かいことに集中していた

私とは、まるでタイプが違って

セレブな御家柄で、優雅というより、さらに厳しさの加わった

競技ダンスなどもカップをゲットされる、貴族?でいらっしゃった。

良く、お電話を下さり、

、聴き手しか勤まりませんでした。

奥様はじめ、先生とは天秤にかかる知りあいを紹介させていただき、

いざというときには

[仲立ちします]と、弟の書いた本をお送りして、

お役に立てるかどうか、お伺いしたりした。

回りの、医師のの意見を借りて

申し上げる以外に、

私の出番はありませんでした。

創立者の院長ご夫妻の

三尺後ろで、影を踏まないようにきをつけていました。

何しろ、、、個人病院だったのですから。

北海道の開拓時代が過ぎて、

このころから、主人と弟は

現代の医療のさまざまな事を

部屋着でソファーに持たれて、

これからの医療の在り方など

話しているのが聴こえてきました。

医療一家の我が家は

華美なものはないが、

話題は

極めて、医師中心の話題に尽きていた。

実弟も、国際的に活動する

がんセンターの研究検査臨床の部門の長だった。

国立がんセンターのスタッフとして

北大の知」人に講演を頼まれた時

前日に突然我が家に友人とともに泊まっていった事もありました。

ホテルは用意されていたのですが、、

ついつい話し込んでしまい

主人が外科医という事で、

気が楽だったのでしょうね!?

もともとは、

外科の医局に在籍して居たが。

先輩の市川先生の御誘いで、

がんセンター立ち上げグループに貢献できた

がん回廊の朝 明日への挑戦 、、、等々に

黎明期の国立がんセンターのスタッフと

東芝技術陣

某国立大学理学部系の大学人の

ご苦労がうかがい知れる分が続く。

医療は、臨床家以外にも

多くの知識人の学識と協力で発展してゆく。

皆で勝ちに行くチームプレーを観ているようである。

政治の協力も命運を分ける人事異動を余儀なくされるようである。

経営陣が「マネーファースト」であれば

患者様と呼んで

商品化のような、イメージになって

医師のやる気も、プライドも、お金ファーストになるほど

簡単な権力社会とは思えない。

命の前には

お土産残業どころではなく

金銭云々言ってはいられない

命が左右される責任を考えると、

お金はかけるべきところにかけることがわかるのは、

医療と心中する医療関係者出逢って、

外野が、予算云々削れるものではないという性質上、

何処の病院も、命の重さの前には

赤字になっていくのかもしれません。

民主党が政権をとったとき、

がんセンターも独立法人になるからと、

50年来の学術的創世記の歴史となる資料も

実績記録も、、、、どうなったのでしょうね?????

丁度定年と重なった弟は、組織が変わる以上

過去の貴重な記録も、50年史の歴史にと

細かいヨーロッパでの活動も、

違う組織になるから、意味が無くなるよね、、、

、、、、*******、、、、、

それから、どうなったか?

弟は、がんセンターを定年退職しましたから、

創立期、がん研究や、CT開発の50年の記録は

どうなったのか?、、、

***************

主人とは

義兄弟になる、弟は

勝手知ったるリラックスできる家で

明日の緊張をほぐしたかったのだと、、、?

「蚊帳の外の主婦である姉の私」は、

勝手に解釈して、

弟の友人とも、夜更かしの談義をしている主人達を

そのままにして、こどもと先に寝てしまいました。

****************************

「まだ?生きてる?。。。あなたはほっかいどうじんになるつもりなの?」

「北海道は。自治体や、町内会が、地元の言葉がつかえないせいか?

お客様や、商品としてなら、歓迎してくれますが、主人の付属物として

主人の背広のポケットぐらいの立場かもしれません。」

医師ばかりに囲まれた人生でしたが、皆、

お金儲けの方のジャンルと違い

家族は、一生、受験生を抱えたように

主人中心の、不規則な家庭生活に、

とんでもない時間に、爆睡しながら、

家事も、義務もこなしている、孤独な人生登山の

ご来光をみれるのでしょうか?

研究者には、スポンサーが要りますね。

「私のスポンサー力」は、強いて言うならば

家事や、整理整頓

洗濯ですから、

薬剤師免許も、高校中学の教員免許も、諸々の師範も

わずか5年しか勤務に使ていない。

 

年金も、国民年金である。

あの世に行ってから、

、自分自身の為には頑張ろうと、

この世では、

周りの医師が、患者さんや、地域の役に立てる間は

舞台裏の点灯鬼のごとく

医師をするという難しい総合力の一部分を荷なって、

鬼よりも強く、

主人が診療に出かけるまでの

玄関先までの足元を照らさねば、

経営陣の方針に答え続けるには

診療以外の事を用意する時間を造れないのが実態である。

                       朝になったから、、、、又ね、、、

あくまで、「蚊帳の外の、素人の主婦の視点の日記だから。。。ね。」

国全体の評価というよりも

自治体あっての地域に根ざした医療が行えるのだから、

第二の創世記に自治体の創立した医科大学のエースが、

大きな役割を果たすのが

地域に根差した病院だろうね。

北大は全日本の評価は10の指に入っている。

国際的にも、リサーチフェローの他に

実際の臨床で指導者的な実績を認められている

ごく自然に、優秀な医師の実績が患者さんに口コミで広がり

今日の巨大な規模の地域に貢献できる病院になった。

理事長や、院長は札幌の自治体の影響力を

円満に運営に方向を示せる医大が旗を掲げて、

皆で勝ちに行くサッカーの試合や、野球を観ているように、

皆が創り上げた、地域丸ごと、連携で、

北海道全土から必要とされる病院である現実に

敬意を表したい気持ちです。

 


先生は、戦後、大きく変わったといわれる。、、思い出してみよう、、先生を。

2017-06-06 13:28:27 | Weblog

むかし、昔、、、先生は偉い人でした。

師の影三尺離れて、踏まないように教えられました。

私の母のお父さんにあたる、、、つまり「おじいちゃん」は先生でした。

私の母の母にあたる、、、つまりおばあちゃんも先生でした。

明治生まれのお爺ちゃんの時代は、今の筑波大学にあたる教育大は

師範学校として、厳しい国策にのっとって、意義をただし、、、、

今のお兄さんやお姉さん、はたまたお友達のような「口のきき方」は、出来ませんでした。

お爺ちゃんは、普段は威厳があっても優しいいい親だったと、母は回想していました。

毎朝、朝礼で、白い手袋をして、厳粛に「勅語」を朗読したと言っていました。

その時のお爺ちゃんは、よその叔父さんのように、他の生徒と同じように接してきたとのことです。

朝礼は長いし、遅刻すると立たされるし、だらだらすると、皆の前でも注意するし

母は先生をしている居のお爺ちゃんは、他人だと思って割り切っていたと、、、笑いました。

御婆ちゃんは、明治時代では珍しい才媛で、先生をしながら、

自宅を開放して、「生きてゆくために必要なお裁縫を、無料で教えていた。」そうです。

厳格な性格のお爺ちゃんの、まっすぐな生き方に、良く盡せたと感心する。

27歳で、お爺ちゃんの兄弟が、アメリカに渡って、

カリフォルニアの砂漠地帯の緑化の目的や、

日本人町の開発がされていた時期でもあり

当時の師範学校や、大学に相当する専門の学校を出た人たちは

急速に明治の文明開化で、海外に、海外にと、視点が開けた時期であった。

私が、お爺ちゃんに出逢ったのは、世界大戦の後の敗戦で、帰国し、

疎開地の町長と学校の校長先生を兼任していた昭和25年頃であった。

串本や、古座川沿いの、多くの集落の村が集まって、町となっていた。

其処に、娘である私の母が、東京の宮内庁の皆さんが、入院してくるという

慈恵会医科大学を卒業して、市谷の文人通りや、神楽坂の毘沙門天が

青春時代の友達とのとーむタウンであったという父が、

戦争で、実家も、母との住まいも、財産も、子供たちまで3人亡くして、、、

母の故郷の南紀の山奥へ、山奥へと、、、

疎開という行動に導かれてゆくのでした。

疎開という運命の出会いが、

この、集落の集まった町との人々の人生を、側面から支え

供に、敗戦の心の痛みを乗り越えて、

、医療のみならず、心の文化を育みながらも、妻である、私の母の心も

少しずつ、、、少しずつ、、、癒し、立て直していったのでした。

 

戦後の日本の立て直しに、一役も二役も、

果してゆくことになったのでした。

そして、、、母が40歳という、当時としては「高齢出産」に挑戦したのでした。

亡くした3人の子を取り戻す!母の口癖だったように、

少女の私には、「、、、取戻す、、、、という意味が解らないままに」

弟が、誕生した時、

「とりもどしたの?」と、母に言ったら、、、

「違うよ!この子は、新しい子供だよ!!!、、、戦争を知らない、新しい時代の子だよ!」

母は乗り越えたのでしょうか?

戦争での喪失感や、我が子を失った喪失感から、立ち直ってゆくのでしょうか?

その時は、意味も解らず、、、「新しい赤ちゃんが生まれたよ!」

私は、皆に伝えて、嬉しくて、うれしくて、、、

赤ちゃんに、、、ほっぺをくっつけては、話しかけておりました。

その後、新しい赤ちゃんのおかげで、村も、町も、集落も、

新しい時代に向かって、立ち上がり始めてゆくのでした。

                                続く、、、又、書きたくなったときにね。

ともかく、、、、戦争だけは、、、もう、、、二度とない世界を目指して

日本は、復活した今、世界平和に貢献してほしいと祈っています。

 


なる様にしかならない、、、と諦めない、、、

2017-06-04 12:59:26 | Weblog

タコが、自分の足を喰い始めたら、、、最後にはどうなるの?

世界には、、、今、、、いくつの国がありますか?

2階建ての瓦屋根が、

粋な黒塀、見越しの松に囲まれた集落の集落が

日本だったような錯覚に陥る。

50年前の札幌は、駅前に「五番館」

やがて、、、三越が進出。

北海道は、アイヌさんの土地だったとか。

和人が、アイヌさんとまじりあって、

白老には先住民の様子がわかる観光のバスが止まる。

札幌の藻岩山も。我が家からは見えなくなった。

あちこちに、タワーマンションが建ち始めて

地下の歩道がにぎ合う。

 

いつしか、北海道は、

日本のどこにもある風景に変わっていった。

 

クラーク先生が

学生たちと別れたという羊が丘あたり。

50年前の私が、知っていたのは「羊が丘」だけだった。

ボーイズ ビ アンビシャス。

北海道の特徴は、かなりのインテリでないと

英語を話さないという事に、不思議を覚えた50年前。

今では、倶知安あたりのスキー場の周りには

外人が年間166万人、、、来訪すると、、、道新に書いてあった。

主人は「英会話」を、しようとはしない。

大学院で、博士号をとっているから、

ややこしい難解な英文はすらりと訳せる。

しかし、、、外人に逢うと、

ナイス  ユウ ミイト ユウ、、、、( × × )、、、だけ。

書いてもらうと、書き返すことはできるが、、、

聞き取れない様子である。

ニュースシャワーなど始まると、

トイレに入ったまま、、、

自室に戻り、、、日本語のTV番組を観始める。

それでいて、運よく、、、

アメリカはいろんなところに行っている。

青い帽子の手術着で、アメリカ人医師の執刀の相方をさせてもらっている。

英語は、、、どうやって話したの?

「医学英語だけは、日本語なみに、不便はしないよと答えた。

無給医時代の我らの時代は「ドイツ語がメインだったんだよ!」

本当かしらね?

多くの医師が訪問するドイツだけには行きたいと思い

ドイツ語を聞き取れて、話せるようにと、努力したと、自分で言う。

そういうからには、ドイツ行きを計画すれば、

私は主人のドイツ語で、楽々な旅をできるはず。

医学研修のつもりで、

森鴎外などの歩いたドイツの旅を計画した。

なんせ、、、ドイツ語を勉強したとのたまう主人を

信じるも、信じないも、、、現地に行けばわかる事!

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待望のドイツについて、自信があるのか、

すたすたと、一人で早足で、どんどん行ってしまう。

帰り道に困ると思い、角が来るたびにデジカメして

ドイツで買ったお気に入りの

チロリアンハットの主人を、はるかかなたに撮影しながら

迷子にならないようにだけ、注意を払った。

どこかの建物に入り

舞い戻ってきた主人は、困ったように言う。

「トラベルチケットを現金化できないし、、まいった!」

「ドイツ語が通じないんだよ、、、」

「ドイツ語は得言って言っていたじゃないの!?」

「・・・・・・しょんぼり顔(--!」

デパートを見つけた。旅行に来て初めて、ならんで歩き

二人でエスカレーターに乗った。

4階まで行くと、トラベルチケットを現金化してくれるコーナーが有った。

私は、英会話が苦手という主人に、

「中学生の英語でいいから、

チェインジ!と言ってごらんなさいよ、、、これも旅の醍醐味でしょう!」

プッシュした。

何と、、、ドイツでも、、、英語が通じたのでした。

へたくそなドイツ語より、

へたくそな英語の方が通じるのでした。

二人で歩くように配慮するようになった主人と

通りにある「レストランに入った。」

丸々と太った50歳ぐらいの女性店主が、ニコニコと、

コーナー椅子に案内してくれた。

英語なのか?ドイツ語なのか?

へたくそなチャンポン語でも、

店主の太っちょおばさんは上機嫌で

指でさしたメニュウのランチや果物を運んできた。

若い時に「日本に行った事がある」と言った。

主人は、、、やおら、、、、フルエントリーに

ドイツ語を、、、抑揚つけて、長々と、上機嫌で言い出した。

しばらくして、夫人は、破顔一笑して「拍手!拍手!」、、、

すごいな~~~~と、思うでしょう?

何のことはない、丸暗記していた「ローレライ」の歌詞を

ペラペラと言っただけだった。

すっかり仲良しのようになって、

店主の女性も、上機嫌で、何かを盛んに言ってきた。

「日本に行った事がある」!この一言がわかれば、

何語でもいいのだ、、、手振りや身振りで、、、話も歌も

通じることが体験できた。

人と人は、心が呼び合えば、言ってることは通じることがうれしい。

すっかり、自信をつけた主人は、

再び、マイペースで、あちらこちらにいってしまうので、

再びデジカメしながら、迷子にだけはならないように

シャッターをきりながら、主人を見失わない程度の間隔で

ドイツの街の通り全体とチロリアンハットの後姿のリュックを

仕事の一巻だと覚悟して、撮影を続けた。

ともかく、、、帰り道は、デジカメを逆回しして、角々を確認しながら

ホテルに到着。

長き50年にわたる夫婦というセットにはなってきたが、、、

「やじきた道中」のように

二人で並んでとった写真は、ほとんどない。

この次に、もう一度「ドイツに行きたい」と言っても、、、

英語は通じないかもしれませんね。

うっかり、、、英語で話しかけても、、、

「ドイツ ファースト」、、、

Deutsch erst!

一言しか、、、聞き取れないかもしれません。

世界中の末永い、、、平等に向かって、永遠の緑の地球という

万民の財産を 守り続けることが、

日本に託された、

「戦争や、争いの汚染物質で地球を汚さない工夫」の

世界平和への政治が、地球も、日本も、守れるのとは違いますか?

世界中を、わが身の限界まで走り回って下さった

陛下と、美智子様、皇室の方々のご努力を

政治家の皆さんも、いまだに存在すらわからない、金屏風を造られた

大きい人たちは、戦争が、地球を壊す時代に入ったことを、

科学的にも、全世界に認識を深めて、

科学を、戦争兵器に用いないという、、、自然への回帰にも似た進展を

心から祈りながら、

70歳時代の山寺への階段を、一歩 一歩登ってゆきます。

古池や、、、蛙 とびこむ 水の音。

幸せや、最高の贅沢は、、、自然との共生共存かもしれませんね。

羊が丘のふもとの、発展しようのない片隅に

雪掻きを最小限にしたコンクリートの住宅が

終の棲家になっている、、、穏やかな地球の片隅で、

地球   ファーストにしてほしいと、、、願っています。