花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

TV画面とセリフの入れ方の上手な番組と、画面を、、、もったいない画像で使う番組

2019-11-26 12:03:34 | Weblog

昭和38年、

まだ、、、白黒TVの多い時代

格闘技の番組が、がぜん、、、人気があり

相撲やプロレスや、白井選手が居た頃はボクシングのアートな動きを

画面が語った。

それから、ドリフターズや

紅白の、幸ちゃんとさそり座の歌手が

歌もそうとうですが、、、画面が笑えた。

若かりしの「あっ子さんと、デストロイヤー」も

夜なのに、兄弟で大笑いしていたのも、、、画面の面白さだった、

男の子のような「あっ子ちゃん」が

弟や、兄貴たちの馬鹿笑いを引き出していた。

スーダラ節も、面白かった。

 

はっきり言って、、、あの頃の番組は

TVという手段が主役の重さが有った。

TVの少ない下町の広場には

白黒TVを囲んで、、、相撲を視ているサラリーマンが

我を忘れて、TVに声援を送っていたから、、、おかしすぎる。

ドラマも小坂さんと、青春していた十朱幸代が出ていたホームドラマが印象に残っている。

 

つまり、、、お客の視聴率によって

人気が決まるTVは、、、大衆芸能や格闘技、ホームドラマでにぎやかだった。

そして、、、カラーTVが主軸となってどこの家にもTVが在る時代になった。

人々は、TV離れが始まったころ、

お茶の間から出てゆく傾向になり

自分自身が主役のアウトドア、

自分が自分の時間を使う傾向が出てきて、

人生の強敵は「時間そのもの!」と気が付いてからは

パソコンに移っていった。

TVが大好きだった時代の若者は、、、御爺さんとお婆さんになりました。

画面が見えなくなるように説明員が、

頭や、指で、資料を隠しながら、、、、よくしゃべる。

画面が主役のTVの画面を、説明している人が主役になってしまっている。

落語家とか、の話は疲れないが、

言いたいことを、口角泡を飛ばして説明するのも、、、、全休符の沈黙で

視聴者に、、、考える暇を与えない、

過剰な、、、丁寧すぎる説明で、面白いと身を乗り出したくなるのは

マラソンの詳しすぎる説明の、、、実力のあふれた、彼女の節女である。

取材が、、、半端ではないし、実感が先に来て、、、

言葉が追い付かないような、迫力の臨場感がいいと思う。

ワイドショウの説明員で、素敵なのは

宝塚で、男装の麗人だった彼女がいい。

舞台をしていただけに、

茶の間は見えなくても

お客さんとの見えないキャッチボールが在る、、、間が絶妙に良い。

美しさに見とれているときもあるが、

彼女は、番組を視聴者に届けるのが絶妙の間合いのとり方や

言葉の選び方も、素敵だと思います。

こんなに素敵な人も、

番組のデレクターに忠実に、自分の芸を出し切るのだな~~~と!

あきれたこともある。

東京都知事の、眼の大きな男性の政治番組の時は

シナリオどうり、、、激しいオスカルのような男になっていて、

忘れない、男の芸のような迫力であった。

TV画面は、やっぱり、

素敵な女性が出てくると、、、観たくなります。

徹子の部屋に彼女が出ていた時は、

かっての「トットちゃんも」

フアンのように見えましたよ。

TV画面は、、、説明員が学校の先生のようになってしまう番組は

言いたいことを伝えようと、、、夢中になりすぎるんだと思うのです。

お茶の間は置き去りで

出演者が盛り上がってしまっているので、

せめて、資料の画面の前に

手や、身体で、「私が主役です、」とばかりに立たれると

画面の数字や、資料を見て、お茶の間で、、、考える時間の

間合いが無くて、、、観てるのがしんどくなります。

時間と、おしゃべりの抑揚と、間合いと

画面の構成の、総合で、

お茶の間に、あ、、、うん。。。の、

言葉以外の画面や空間で、伝えることって

言葉にも、、、歌にもなさじ、、、わが想い、、、

その日、、、その時、、、胸から胸へ、、、

ひばりちゃんは、、、

お茶の間に、、、

絶妙の完璧さで、、伝えてきたことは

一体、画面構成の,、、構成は、誰がかんがえているのだろう?

特別に、堅持してくるものはないのに

まろやかな歌声と、踊りの上手さと、光の使い方と、、、

目に見えない貫禄があって、

戦後の復活の産んだ、、、歴史的な体験をした日本の変化とともに

大衆は、画面から、時代の移り変わりさえ

しみじみと感じるような

昭和時代の激動の日本を、ひばりさんからは感じる画面でしたね。

終戦の中で耐えがたきを耐えて、

世界の国に、再び戦争が起きないようにと

広島、長崎の原子爆弾から、75年。

TVは大衆が、どのように終戦の修羅場をくぐってきたかを

それとなく伝え続けていたと思ったりしています。

昭和38年頃、NHKのラジオは

録音機を、町の中の若者の声や、世論の飛び交う喫茶店の中に置いた番組がありました。

ラジオが番組をつくるという発想から、

街の声が、、、そのまま、、、そのまま番組を創ってゆくのでした。

半可通の知識のある説明員の解釈を押し付けられるのではなくて

街の中の、録音機の取材した声から、

視聴者はそこに居る、、、そして、、、音から

何かに気が付くという、

知識が邪魔をしない番組に

私は、心を直撃されたことが有りました。

TVで、商品を紹介しても、

売らんかなの技巧に走り、特徴をしゃべりすぎて、

説明員が主役になっているから、

品物を押し売りされているような、息が出来なくなるような呼吸困難があります。

昔のコマーシャルは、画面が語っていました。

サントリーの御爺さんは、顔が階段のように一段筒、、、酔っぱらった色になりました。

白黒TVなのに、、、お酒の為に、、、いい心持になっているおじいさんが

茶の間も酔わせてくれました。

今の、コマーシャルは、売らんかな、、、売らんかな、、、の

説明員が早口で、視聴者が視るより先に早口で説明してしまい、

画面の効果を使っていませんよね。

私なら、、、例えばハンドバックを売りたいのなら、、、

入り口、ポケット、素材、製法の良さを、ペラペラしゃべって、押し付けるやり方を変えて

いろいろな動物にハンドバックと対話させるシーンを通して、

カエルが口を開けて、バックと、大口比べをしているとか、

リスが、バックのポケットに、どんぐりを、、、入りきれないほど運び込むとか、、、

宣伝を、押し付けるのではなくて、ポケットが多いという事を、

画面を使って、、、笑える説明にすべきだと思うのですよね。

 

ルイビトンが

オードリーの映画から

、私のような庶民にも欲しいと思わせる効果が発したことを

ふと振り返ります。

52歳で疲労から、突然この世を去った父には

ルイビトンを娘に買うという暇も、時間も、心のゆとりもありませんでした。

街はルイビトンであふれ、

マーケットのレジの財布はビトンが光っていました。

私は、生涯、、、ブランド物は、

バックも、衣類も、買う余裕がありませんでした、、、が!

上野の街で、

7000円の口金やベルトのない箱型の旧いビトンを買いました。

その時から、部屋の中の新聞入れになって30年ぐらいたちますが

リサイクルのビトンの新聞入れのバックは、、、、

さすがビトンだな~~~と

我が家の煩雑な舞台裏のような居間で、

ビトンのバックの新聞を読むとき

お出かけ気分のリラックスな紅茶の美味しいタイムです。

物を売りつけるのではなくて、

主役のお茶の間の視聴者に、

売りたいものが届いたときの、

非日常の時間の風景や、気持ちの解放や

ウキウキ感を、虹の橋を渡る鳥で表して、

鳥が加えたバックを、虹の橋から落としたとき

バックのポケットから、、、

いろいろなものが、

虹の橋を渡って

彼がキャッチすることで

いっぱい入ることを、、、

品物ではなくて、果物や、木の実や、花や、夢の続になるもので。花の香りだけだっていいと思うのです

視聴者に、押し付けるのではなくて、、、

一個のバックから、

幸せなリラックス画面を届けてほしいと思いました。

おしゃべりは、押し付けるのではなく

香水のように、流すといいのだと思います。

コミカルな言葉に変えても、お茶の間には微笑みが戻ります。

 

画面という手段には、、、かなわないと、、、誰もが考えるとき、

音の魅力を、詩心のように、視聴者の感性に届けてくる番組がありました。

受け取り方は、、、

視聴者が自分の感性に沿って受け取るお茶の間が主役です。

私は、ラジオの方が身近でした。

一例ですが、、、

ちょうど、人生で、、、今は勉強しなくてはならないという時期でもありました。

「藤間 紫」さんと言ったかしら、、、

夜な夜な、さわやかな色気の声で、

ぎすぎすした勉強机を、一瞬、、、その声で、

リラックスした、大人の喫茶店にしてくれた話声でした。

テンポも、間合いも、声の抑揚も、トーンも、生体リズムと同種の一部のように

リラックスさしてくれました。

 

TVは、、、説明ばかりだと、、、

うるさく感じ、、、疲れてきます。

内容は大切なことを伝えてくれているのですが、、、

間合いが忙しくて、、、しんどいのが、、、

「ワイド症」の?75歳の婆ちゃんです。

虹色クワガタが、、、ゆっくり、、、音楽とともに歩いていて

黑いクワガタと出会うのです、

黑いクワガタは

虹色クワガタに恋をして、そっと寄り添って歩くのです。

そこから先は、皆さんがストーリーを作ってください

 


歌姫バートン の 「虹のかなたへ」

2019-11-25 02:03:22 | Weblog

深夜の音楽番組、、、最高ですね!

虹の橋を渡る小鳥たち、

私にだって渡れる、、、はず

御金の要らない宝物、、、

歌姫とオーケストラ―

             

               音楽を生きる人は 幸せですね

               こんな真夜中に

               眠りを忘れて。聞き入ってしまう

               人間って、、、本当は、、、小鳥のように

               一日中、歌っていて、、、幸せだったのかもしれません。

 

                          野原には 野菊が咲いて、、、

                          虹のかなたへ

                          心は、煙突より高い空を

                          飛び回って

                          青空の庭は、素敵な友達ばっかりだったのかもしれない

 

人はいつかは、、、この、、、愛しい命とさようならをするけれど

この次、、、生まれ変わってくる時は、、、

虹の橋を渡りながら、、、小鳥たちと、、、歌いたい。

 

                  受験も、税金も、家も、仕事も 雪かきも 要らない世界。

                  もしかしたら、、、天国はそんなところかもしれない。

                  だから、、、歳をとることを オソレナクテモ いいのです。

 戦争も、欲張りも、権力の世界も、煩悩も

ローマ法王様の、降り立った日本から、

私は、、、一足飛びに

虹のかなたの光の中の、、、幸せな世界に飛んでゆけるのが

人生の終わりは、幸せの始まりなのかもしれない

 

                   歌姫の歌に酔ってしまい

                   私は、天国のような、

                   虹の橋を、、、渡っていました。

                           

歌姫の美声が終わると、、

外は、風の音が   ビュービューと叫んでいる

北国の冬が、玄関のドアをたたいています。

来ないで、、、冬、、、

早く来て、、、速く去って行け!

木枯らしの叫ぶ夜は、コワイ

             

                     (爺ちゃんが大好きという孫が、誕生日に手作りの龍を、爺ちゃんにプレゼントしました。)

 

北国の冬は、、、虹の橋は 見当たりません。

木枯らしが運んできた木の葉が、絶叫しながら舞い続け

地面に張り付いて、死んだふり

それでも,、、風は 木の葉を舞い上げて、

           冬は怖い季節です。

                     

 

若者は、、風の吹きすさぶ真夜中の3時過ぎに

バイクに乗ってやってくる、、、

玄関で、カタン、、、と音がして

朝刊とともに

私の朝はやってくる。

                      おやすみなさい、、、世間の人たちへ、、、

                      おはようございます(^^    私!

                      

          

          


櫻を観る会スキャンダラスな感じ週刊誌を満開にしないで、、日本という国にお茶の間から一言。

2019-11-24 09:30:38 | Weblog

正直言いまして

私は、、、政治音痴です。

 

GSOMIAについても

General Security of Miritary innformation Agreement という

全文を視て初めて、

学生時代の安保闘争を大学の屋上から見ていたノンポリの

政治学全くダメ学生の、、、動けなかった自分を思い出すのです。

平成2年に改組された時は新聞で知りました。

外務大臣と防衛大臣が

アメリカの国務大臣と国防長官と

軍事技術や

有事の時の共同作戦で

世界の戦争勃発を最小限の被害の内に鎮圧する方へ努力する協定だと信じて

日本は世界平和に向けて、核戦争になったら、、、

人は元素になるという体験をした.

 

世界で唯一の原子爆弾投下を2発も体験した

人間の元素への分解を目の当たりに体験した以上

人間が生まれて死がおとづれるまで、

人間でいられる平和を願うのは

天の声だと思うのです。

 

ローマ法王も今!!!

日本にいらっしゃっているのですから、、、

神はいらっしゃるのですよね。

 

広島の惨状の展示をご覧になったとき

人間は神の領域に入り込んだ戦争を

するべきではないと

思われるに違いありません。

科学の果ての神様に頼る、、、

私たち昭和10年代の戦争体験者の言う事は

人間の英知では解決できない、、、。

 

生まれながらの煩悩が、お化けとなって、

科学で培養された欲に欲が重なって

神様の領域に片足を入れた怪物です。

今、ローマ法王様のお声が文字になってTVに映りました。

国を守る武器にはならない。。。と

おっしゃっています。

核は、、、テロだって、、、!!

 

私は、、、眼の周りの小じわが、、、伸びて

まん丸になった、、、大きな目で、

法皇様のご尊顔を見つめています。

 

核戦争を、世界が止めることを、神様は導いてくださっているようです。

人間は、、、人間でありたい、、、小さな家で、小さな人生だっていい。

人間て、、、素晴らしい生き物であるはずですよね。

 

お茶の間でTVしかない毎日の中で

 

欲に走る科学の用い方を、

コントロールできる政治力を解るためにも

「桜を観る会」で

政治を考えそうもない人々にまで、

桜咲く平和と、

戦争の無駄遣いを、

日本の隅々の、、、ホームレスの皆にも届くように

税金の「花咲か爺さん」は、、、

日本の桜が、日本人の潔さを育て、、、植民地にならずに済んだと

私は個人的には、、、万歳岬で身投げした日本女性に

深く深く頭を垂れて、、、絶句の中にも

日本を植民地から救ったのは、最後の一人まで、、、

日本人は潔いと、、、国全体が覚悟の夜桜を咲かせたからかもしれないと

戦争の、過ちを振り返るのです、

戦争は、、、罪のないものに、、、あまりにも、、、残酷だった。

 

安倍首相や、奥さんは、、、攻撃対象ではなく

後ろのバックがしっかりすれば、、、

脱線する問題ではないのではないですか?

主人は医師ですが、

外科の忙しさは盆も暮れも連休が無く

母子家庭のように

仕事人間でした。

晩年、、、土日の出勤が無くなったころ、、、

夫婦で初めて、「桜の話」をしました。

世田谷に実家のあった主人は

近所の森繁さんとの近所づきあいと

隣のIさん宅の一本の桜の見事さばかり、、、

Ⅰさん家の桜、、、と

お客さんが帰った後のデスクに残された羊羹が甘かったと。

宝物のように話すのです。

戦後の、、、日本全部が貧乏人の時代の育ちです。

私は、、、ラッキーでした。

山奥に疎開したおかげで、山桜の群生の中で

この世の最高の美しい自然の中で

最高の心の豊かな恵みの中で13歳まで幸せな少女時代を過ごせました。

南紀で生まれ、吉野の山を走り回り

高野山で、氷のような白い穢れなき桜を見つめた感動という

日本の宝の心を幼少の13歳まで戴けた私にとって、

日本の花、、、桜を知らない、、、

可哀想な外科医の主人を

弘前の桜満開の情報を得て

主人を弘前に案内しました。

 

その時の主人は、、、新生、、、!!

 

満開の桜の下で感動!

お堀に映った桜に感動!

お城を囲む桜に感動!

発した言葉が傑作でした!

「弘前城は桜が守ったのだね!、、、この美しさに刃を向けるバカは居ない~~~ものね~~!」

 

それ以来、、、Iさん宅の桜、、、とは言わなくなりました。

この桜見物は、私にとって

生薬学認定薬剤師の最後の試験日と重なりました。

それを欠席しても、

主人には、、、

日本の桜を見せるべきだと判断して

最後の生薬学認定のチャンスを投げてしまいました。

 

私には、、、この時を最後に、

薬草探索会からの学会情報は途絶えました。

国際学会に、成都の一千件の薬草屋台のある生薬市場の実写と

当時の薬草グレードの値段の決定が

北京でなされていた文を発表しましたが、

 

正式な生薬認定薬剤師試験を通過しなかったので、

文章での発表は控えて、しませんでした。

 

日本の桜を主人に見せたいという思いは

19歳からの生薬学にピリオドを打たせる選択を、後悔しない決断で

千載一遇の弘前城の満開情報の魅力を選びました。

櫻の魅力は、主人のなかの桜のイメージを変えました。

主人を、弘前に案内して、

主人は、日本の桜の見事な美しさに出逢えました。

日本の桜の話についてこられる宝をプレゼント出来たのです。

北国の桜は葉が先に出ます。

札幌の農林試験場には

多くの桜の種類の花が満開になります。

本州の桜にも出会えます。

南紀の山がそのまま桜になる!

桜の花びらで川が見えなくなる疎開地は

咲くも桜、、、、散るも桜、、、見事でした。

戦争被害の家族を復活させてくれたのでした。

 

櫻の花を求めて、東北から、、、福島まで

バス旅行をしました。

その直後、、、津波が、東北を襲いました。

胸がきしむほど、、、残念な出来事でした。

復活を祈らない日はないほど、

哀しい出来事でした。

自然は美しく、、、厳しく、、、残酷だと、、、思うのです。

主人はあの時以来、、、

今年もいきたいね~~~桜、、弘前。

東北、、、福島まで。

つぶやきながら。

千載一遇の桜満開の時期の休みは

それ以後ありません。

 

「桜を観る会」は

自費なら、、、誰でも参加できるという、イベントに変えた方が

安倍首相の、森永奥さんにイメージが合いますよね。

戦後、、、あの食品のない時代、、、

私を赤ちゃんから2歳まで育ててくれて

栄養失調を治してくれたのは

森永のミルクと、

キャラメルやビスケットだったから。。。

私は 森永や、東芝の洗濯機や、森永バターには感謝とお観出が在るのです。

山又山の山奥に、、、森永のミルクが届けられてきたのです。

 

高度な政治の事は音痴ですが

野党の正論はわかりますが、、、

桜を人間に例えることは出来ないと思いました。

櫻は、、、桜、、、

 

人間は、、、権力をめぐって、、、

いい気になってしまうという、、、弱点があります。

 

櫻がとばっちりを受けないように、、、

 

いつの日も、、、

国家のある民族

日本の皆の花が、、、桜であるという事を

 

野党も肝に銘じて、、、桜を汚さない討論にしないと

国民の心は、、、離れてしまうでしょう。

 

美しきものは、、、話の進行のためとはいえ、、、ふんどしに使うのは行き過ぎだと

お茶の間は思うのです。

櫻、、桜、、、弥生の空に、、、

 

平和の有り難さを知っているのは

昭和10年代の人間が、、、生き残っている以上、、、

核戦争の、、、人間が人間で無くなった、、、あの戦争を

繰り返してはならないと、、、伝える役割は

皆にもあると、、思うのです。

 

民間外交では日本は韓国とは友達だと言っても

言い過ぎではないと、、、思うのです。

母校の日大にも、

韓国人で、美人で、才媛の女性教授がTVに出演しているのを

何度か拝聴しているほど

韓国人の、素晴らしい人は日本に大勢います。

 

生薬学会でも、韓国の学会に参加して、

済州島の「日の出峰」を著名な韓国の学者さんと、

日大の恩師の先生方と合同生薬探索会に

韓国の学生を交えて参加させていただき、

その誠実さには感動しました。

 

平和への手段になるなら、、、

戦争の拡大防止になるなら

GSOMIAも共同作戦で、、、平和を守る手段にしていただきたいものです。

野党の、正論は解らないでもないですが

 

 

道路で、正論をまっすぐに信じて歩いた老人が

今年、、、町内会での報告では

車の事故で亡くなりました。

 

正しいことも、、、

日本人の独特の魂が育ったのも

桜の花の在りように育てられたのかもしれません。

「日本人の心、世界のどこの国にも観られない桜」

その花の心の生き残りをまず考えて、、、

櫻を汚さないで欲しいと思います。

 

日本は終戦から75年たったでしょう。

櫻は庶民が政治を考えて、、、ゆく日本になれば、、、と。

イケ面ばかりに投票するお茶の間から

櫻を観る会に。。。自費参加を!!!、、、と。

櫻は咲いてよし、、、散ってよし、、、日本の魂のような花です。

櫻を大切に、、、まず!

櫻のイメージを汚さない事を考えるべきでしょう、、、

 

櫻は、、、日本人そのもの、、、魂の母なのですから。

 

これは日記帳で、個人的な桜への愛が書いた思いです。

まずは、、、私の政治音痴をどうにかする努力から始めています。


あいつと私、、、裕ちゃんがまぶしい

2019-11-22 12:48:17 | Weblog

TVで「あいつと私」という映画を観ていた。

裕次郎さんが天然のまま。演技を感じさせない若者として

大学生の日常が映画になっていた。

たぶん、、、当時の慶応大学とか、、、立教大学とか。。。?

あのあたりの大学生の学園生活なのだろうと想像しながら

こんな大学生は青春そのもので

若さがハジケテ、眩しいほどの、裕次郎さんや、

たぶん、、、笹森玲子さんや、芦川いずみさん。。。

端役で気の強い妹を演じている公立学生タイプの女学生は吉永さん

裕ちゃんは、あのまま社会人になったら、

フアンにモミクチャになって、忙しすぎる人気稼業にならなかったかもしれませんね

そのようなイメージがふと湧いて、

裕次郎さんの、天然のままの人生が、有ったとしたら、

この映画の青年がそのまま企業のリーダーで世界に打って出るわけですから

きっと、一つの時代を、牽引していたかもしれませんね。

フレッシュで、眩しいような天然の若者が

石坂文学を素敵に青春していました。

昔見た映画で、、、良かったな~~と思ったのは

「陽のあたる坂道」

もう一度TVで観れたら、あの頃と又、違った感動があるかもしれませんね。

北海道は、、、もう雪です。

早朝、主人の大好きなコンビニの「新そば」を買うついでに

リンクになった道路を、よちよちと歩きながら、

7000円になりそうなパソコンの代金の振り込みをすると

もう一か月、、、贅沢な日記が書けて、独りぼっちの北海道生活を

親戚や、友人とつなげてくれて、、、孤独ではなくなる。

主人は、北海道ではトップの北大の医学部で博士号の授与を受けて

ちゃっかりと、北海道人のお仲間にしていただき、

家庭に居る暇がないほど、お仲間と生きてきた。

私は、家事専門で、家庭の守りを担当してきた。

主人の弟夫婦とその子たちが遊びに来ても、

ガラクタでいっぱいの我が家は狭いので、

主人は北海道観光に案内して、宿泊だけは我が家が役に立つという、

人生の裏方の雑務で時間が飛んだ。

我が家には、夫婦の寝室が無い。

外科という特別に緊急を要した科のトップだった時代が長かったこともあり、

電話の傍の長椅子で、スラックスのまま、転寝するという人生が続いた。

真夜中の緊急手術に備えて、電話が鳴ると、

私が、眼を覚まして、主人に取り次ぐという

職場の延長の舞台裏が家庭だった。

今でこそ20人以上いる救急車の来る総合病院も、

創生期の時代は外科が4人だった。

全国でも手術が上手いと評価されているK先生がものすごい馬力があり

主人も、創生期の若い先生の馬力で引っ張られ、

起きているのか、寝ていられるのか?ワカラナイ激務に耐えて頑張った時代が有った。

正月も、連休も、土曜も日曜もなかった。

その時に、我が家が全室、主人の働くための舞台裏としての配置になった。

よりによって、、、早朝から、深夜まで、留守の母子家庭は

収納庫のないコンクリートの箱のような阿蘇山の「避難壕」の役割を果たしてくれた。

東京の青春の愛に萌えた「陽のあたる坂道」のような映画が

窒息しそうな生活の中で、深呼吸をした後のようなさわやかな気分を取り戻してくれた。

北海道で暮らす私にとって、

外科医という、、、愛が邪魔な人生観の仕事人間の相棒を担当するという

仕事の為の家庭だった人生を振り返るとき、

「対話のある石坂文学」が、さわやかな非日常の救いの時間だった。

微笑とともに、ほのぼのとした時間は終わり、

戦闘体制の創生期の外科のチームの大将の裏方の時間がすっ飛んでいった。

金婚式の50年目の結婚記念日に、

主人はチーズケーキと「高菜の握り飯」を買って帰ってきた。

昭和15年生まれは、戦後の立ち上がる日本のぞん底の物のない時代に育っている。

大学時代は、3食食べれた日は無かったそうです。

「あいつと私」の大学生の裕ちゃんを一緒に観ながら

「裕次郎さんの最高の若さで輝いている映画だね!」

北大でも、こんな大学生活が出来ていたら、、、

最高だっただろうな~~~!と。

昭和15年生まれの主人は裕次郎さんの垢ぬけたフレッシュさに

魅力ある青年だよねーと、見とれていました。

ちなみに、お父さん役の俳優は良く知っていました。

私は、、、お父さん役も、お母さん薬の女優も

良く知らないのですが、、、観たことのある役者さんだなーと、、、

懐かしい昭和を振り返る映画でした。

 


百歳まで生きれる時代になりましたね。

2019-11-20 01:31:06 | Weblog

懐かしい銀幕のアイドルだった女優さんも、俳優さんも

作品の中に生き続けるとはいえ

現実の世界からは、姿が消えてしまうたびに

身近な知人が居なくなるようで、、、、、

百歳まで生きたら、、、独りぼっちになってしまう孤独と向き合う事にもなりますよね。

65歳定年で、蚊帳の外に追い出された時代を築いた長老たちは

呆けることで、自己のバランスを保つ時代と向き合わなくてはなりません。

人は、、、必要とされて、メンバーのレギュラーであるという責任感が

無意識の中で、緊張と、体力づくりと、耐力と、気力をリハビリ―しながら

生きがいになっていて、孤独を感じなくて済むのではないのでしょうかね~~~???

65歳を過ぎると、定年となるのではなくて、

日本の、古来の貧しい村落が、知恵を出し合って生きてきた集団の生き方の中に

100歳の時代の樹たるべき日々が、粗大ごみと言われながら生きるのか?

老人の気力と体力と、スピードが考慮された配置換えを社会が取り入れるなら

中国の奥地や日本の村落に観られる棚田の知恵のように、

若者がたいりょくしごと、中年は作付や刈り取りを、

老人は草取りや、見回りや、収穫の後の作物の円熟した眼力のもとで選別したり

歳を重ねたが故の任される仕事が、必要とされるメンバーになっているようだ。

つまり、、、仲間外れや、厄介者の疎外感が無い人生が、長寿社会を充実させると思った。

                     つづく


裕次郎さんの「嵐を呼ぶ男」をTVで見て思うこと

2019-11-15 11:01:14 | Weblog

75歳のばあちゃんが、裕次郎さんの映画を見て、若かりしの感想と違った角度から、

心を共有できる思いやりに気が付きました。

昭和30年代の後半

日本人、、、独特の、家庭的で、

穏やかな安心感のある、

背広姿の、または開襟シャツのサラリーマンが

満員電車で、駅員さんに背中を押してもらって、

電車にやっと乗れたと、ほっとする時代であった。

父ちゃんタイプのマイホーム型の男性が日常の空気だった。

突然、、、和製アメリカ人?のような、足の長い映画スターが現れた。

自由な、天然の演技を感じさせない銀幕のタフガイは

戦後の若者のアイドル以上の、不思議な世代の誕生を感じさせたものだった。

中学校では、視聴覚教育が学校に取り入れられて

岩波文庫の作品のような、模範的な映画が推奨されていた。

私は、兄が2人、弟一人、いとこの三人姉妹と末っ子の男の子、

親戚の、大学生のお兄ちゃんが二人、父とは10歳以上離れているおじさんと

母の弟にあたる日大中退で、戦場に行って

シベリア体験のあるおじさんと、疎開先で頑張っていたおばさん。

何よりも、疎開先では、政治を担当していたおじいちゃんが

戦後の里帰りの東京生まれの父と、同居を始めたのでした。

東京の下町に、戦後の里帰りをすることで、

終戦後の子供たちに、アメリカの新しい教育をするためにも、

東京に医療施設を開業した父のもとに、

親戚が集まってしまったというわけでした。

そのほかに、小さな個室で我慢してくれた「お手伝い」「准看護婦さん」

通いの正看護婦さん、レントゲンの技師さん、、、

東京の下町の240坪の敷地の小さな開業施設に、

戦後からの復活を目指して、

居候がいっぱい同居していたという環境でした。

父は医師として、母はピアノ教室の先生として、

祖父は、町長さんやら、校長先生やら、アメリカ留学をしていたこともあり

娘婿の父を助けるつもりで、一緒に上京してくれていた。

事務長さんや、職場管理の従業員の取りまとめなど、

父の苦手の事務作業を、公認会計士さんを頼んでてきぱきと処理してくれていた。

我が家は、我が家であって、、、私にとっては、下宿しているような気分で

できるだけ、必要なこと以外は皆と話をしないで、図書館に行っていた。

江戸川が近くの土手に守られた中学校には、

いろいろのタイプの同級生がいた。

ポール・アンカの英語の歌は実にネイテイヴな発音で歌えるのに

英語の教科書の初歩も読めないとか、

私には、笑える楽しい同級生がいた。

「ウシクダラ、、、ジデレケ。。。キャストテンビンテトラキャ、、、???」

腰を振りながら、休み時間に歌っていた。

「勉強ばっかりしてないで、映画行こう!!!」

彼女に誘われて、クラス委員の私と、まったく視点の違う二人は友人になった。

勉強に逃げ込んでいたのかもしれない、、、私は映画の面白さに目覚めたのでした。

彼女のお母さんは、カウンターのある小さなお店をしていた。

遊びに行くと、高菜の漬物の葉のくるんだおにぎりを出してくださった。

中学二年の3学期ごろまで、彼女の誘ってくれる映画に、私は、同行した。

太陽の季節、狂った果実、赤いハンカチだったかな?、、、嵐を呼ぶ男、、、

彼女は、昼休みに、箸で机をたたきながら

「おいらはドラマ、、、」と歌っていた。

一度聞いた歌はすぐに覚えた学友だった。

中学を卒業すると、お母さんのお店を手伝っていたが

、、、私が高校2年生の時には、

結婚して、遠くに引っ越してしまった。

裕次郎さんの映画の面白さを知ったのは

彼女がいたからだと、思い出すのです。

「裕ちゃんてね、、、タフガイって思うでしょう?

足も長くってさ、、、かっこいいよね!、、、」

幸せそうにはしゃいでいた、天然の彼女のことがふと、、、思い出される。

あの時は、母親が、堅気の弟ばかりに愛を注ぎ、

不良のチンピラを演じる兄さん役の裕次郎さんを、愛さないという、

息子としては「愛されない息子はどうやって生きたらいいのか?」

愛情貧乏という、「心の貧乏に苦しんでいた。」

普通の世間の兄弟なら、

弟を認めないことで、自分を認めさせるという、愛情の地獄を通過することが多い。

根っこに、人間としての豊かさや、

素直な目で見て、芸術と技術の違いに気付いている。

育ってゆく音楽の感性を弟の中に見出し、認め

生き方の違いを真摯に受け止めて、身を引いて戦う、

昭和30年代の戦後の復活期の裏町と、大道を征く者の違いと、

母親の愛の存在が、裕次郎の演じる不良にとっては

それだけが、社会のぬくもりに思えたのかもしれません。

映画は、お客さんが入ることが生きることでしょうから、

いろいろのタイプの観客が喜んでストレスを発散させて、

映画感を出るときは、

みんな裕ちゃんになったつもりで出てくるのが、なんともおかしくて、楽しかった。

慶応大学という社会の上層部の裕次郎さんが、

裏町の社会の興業のややこしい社会でのチンピラを演じるのだから

当時中学生だった私には、社会勉強にもなった。

その後「豚と軍艦」とか、「赤木圭一郎の映画」なども観に行った。

吉永小百合さんが登場してきたあたりから、

受験戦争に目覚めて。しばらく映画を見ないうちに

友達がどんどん入れ替わっていきました。

高校に進学してからは、

加賀まりこさんと、北大路欣也さんの

「オンディーヌ」という舞台劇を、、、確か、、、日生劇場で見た。

劇場の面白さに目覚めてからは、

森繁久彌さんや、扇千景さんや、森光子さんの舞台を

新橋などに観に行った。

がり勉は知識に偏ると、点数で優劣を決める社会に突入してしまうので、

ここらへんで、、、止めとこう、、、という

中途半端な我儘が通用する範囲で、次々と、対象物を変えていった。

母とはもっぱら、、、宝塚、歌舞伎、、、

歌右衛門や、菊五郎のフアンの母は

私の教育も考えていたのだろうとおもわれます。

日本舞踊や、お茶や、鐘紡のチャーミングスクールに通わされたこともありました。

チャーミングスクールで、、、私に、、、何を身に着けて来いというのでしょうか?

高橋恵三さんや、時の有名人が講義をするのです。

合間には、柴山さんとかおっしゃっていましたが、

服装や、おしゃれのセンスや、化粧品の選び方など、、、講義をするのです。

サングラスをいつもしていた大内順子さんとおっしゃる方が

女性のおしゃれのセンスについて講義をなさったのが印象的でした。

「医者の娘」というのは、会社の受付嬢のように

マナーを教育される期間を避けるわけにはゆきません。

患者さんや、ご家族と、接触する時がどうしても発生する以上

いろいろの方の、諸族がすぐに判断できて、

その方の所属する社会環境の視点で、応対せねばならないという状況に置かれているからだと

私なりに、一人前に独立するまでは、

私も、居候の一人だから、、、母や兄や、年上の居候や、

同居し始めた、学生結婚をした兄の嫁さんには

絶対服従の立場にいましたから、

彼女が生け花や、大関早苗先生がこの世の中の一番の先生だというなら、

お供を余儀なくする立場だった。

女子ゴルフクラブに入会するといえば、

腰元役の私は、姫君のステッキの役で、入会。

リバーサイドの早朝ゴルフに付き合うという

働かざる者食うべからず、、、の精神で、

ともかく、、、大学卒業までは

私なりに、サバイバルがかかっていましたので、

なんでも付き合いました。

ダンスにも、ブルース、ワルツ、ジルバ、ルンバ、クイック、、、と

お相手をする基本のステップだけはできますが、

女性同士のおけいこの相手は、、、カンベンネ、、、と。

一生ダンスは、、、しなくても過ごせる環境と結婚!。

雪かきに始まり、雪かきに終わる、冬の季節との遭遇に

人生の半分は。「愚公、、、雪山を移す」

75歳になって、裕次郎さんと、

思いっきり素敵な美人の「北原美枝」さんの

「嵐を呼ぶ男」の映画をTVで観ました。

筋書きはともかく、、、

裕次郎さんと、北原美枝さんの

フレッシュな素敵な伸びやかな肢体には

改めて感動しました。

今ではレッドソックスに

外人もびっくりのスタイルの

野球選手が、時代のの経過とともに

日本の青年のスタイルを国際レベルにアピールできています。

ラグビーの五郎丸さんも、そのほかのアスリートも

日本人のスタイルを変えたと、、、感心しています。

TVに出てくる日本のタレントは、見分けがつかないような、

同じに見える、、、美人ばかりになりました。

 

健康な、戦後の、

日本人の若者のスタイルが、

裕次郎さんが出てきたころの、、、

このあたりから始まったのかもしれないと

改めて、新鮮な気分になりました。

札幌には 

ゆかりのある裕次郎さんの「時計台の恋」の歌は

、、、昭和時代の、、

札幌の新しい風だったかもしれないと思うのでした。

これは、、、全くの日記帳です。

私だけの、、、裕次郎さんの映画の思いをつづっただけで、

小樽の記念館がなくなったときは、、、

やはり、、、時代の過ぎてゆく時を、、、感じたものでした。

来るべき孫の時代には

180センチはスタンダードな背丈の時代が来るかもしれませんね。

 

 

 

 

 

 

 

 


TVで 主基殿、大嘗祭の建物を拝見

2019-11-14 22:54:39 | Weblog

北海道に住んでいても、皇居の中での国家的な行事が拝見できるなんて、

どなたに感謝すれば良いのでしょうね。

宮大工の次代の棟梁になる様な方が出演されて、

多くの神社や寺院の修復や修理をしていても、主基殿の建築に携わって

当時の歴史のまま、木の皮の表面を使う技術など、

伝承されてゆく日本の文化の、行事を通して、

眼に見えない技術まで保存されてゆく先人の知恵に感動している画面が出ました。

伊勢神宮の20年ごとの遷宮にも、

一人の手伝いに過ぎなかった大工が、20年後には中心の働き手として

遷宮に携わり、次の遷宮には現場の最高責任者が務まる技術者となっており

遷宮を通して、

日本の見えない部分の技術や、

感性や、

伝承されてゆく知恵は

世界でも、称賛される「日本の美」と「品性」と

何よりも、森羅万象、大自然の、人間があがないきれない天与の知恵の前に

謙虚に、シンプルな無に近い心で頭を下げたくなるのは、ごく自然の事です。

毎年、、、お金がかかるというお祭りごととは違って

皇室の陛下の位が年号と新たになるとき、

建てられる伝承されてきた、

眼には見えない宮細工の感性と腕前と、精神の

三味一体となったような建築物が

30年という間に一回しか見られない貴重な博物館の展示物とみなせるほど、

茶の間の婆ちゃんは、、、感動して、、、

歴史的な日本の建築の素晴らしい   木の光や香りや、木の皮の自然の恵みや

様々な、アナログ時代の「天と地と我と、祈り」の歴史が

人間は長い長い歴史の中で、スマホの時代になっても検索できない

日本人独特の伝承された、間接光、や、塗装をしない木の光や

赤ちゃんの肌の光のような

建物の、、、誕生のような、、、

日本人の五感の優れた産声が聞こえるような気がします。

現在の建物のような、ビュッフェのような枠取りが無い、、、光の技。

セザンヌのような光が形を描く油絵の中に

外国人も、同じ感性が在るのかもしれないと思いますが、

日本の光の柔らかさは、宮大工を通して描かれた光の描いた絵のように美しい。

TV画面からは、、、木材の香りも、木肌の微粒面も

美しく計算されたが如く光を、乱反射する屋根も、

想像しながら、観ているだけですが、、、

皇室が残した、天の域の品位の在る技術は

日本人が日本人であり続ける誇りでもあると思っています。

豪華絢爛な華美な芸術は他国には氾濫していても、、、

このような、、、日本の四季が創りだした木材の光の芸術は、、、

伊勢神宮の美しさと、源流の美意識はおなじ!

神々しい、、、祈りを感じるのは、日本人だから。

稲穂の黄金のような光は、、、

私は金塊の光をはるかに上回る天与の光の柔らかさを感じます。

もっとも、、、金塊には縁がないから、、、金の光は硬くて歯が立ちませんが、、、

木材の美しさには魂は天と同化してゆく優しさがあります。

何を書いていたのか、、、解らなくなりました。

今日は、札幌は強風で、初雪で、、、

朝から、庭木を守るのに、

最後の雪囲いの仕上げが終わったら、、、北大のアカデミーには間に合いませんでした。

大学時代の「生化学の本」を取り出して、

必須アミノ酸、、、必須脂肪酸のページを、

今から、、、眠くなるまで、

予習して、書きだしてあったところを読み直し、

天気予報では、外出危険を感じましたが、、、

頑張って、走りこめば、、、休まずに済んだかもしれなかったと、、、

今年は、あと一回しかない授業は、吹雪の日ではないことを祈って。

       急な、真冬対策で、、、へばってしまった。

おやすみなさい、、、北海道、、、独りぼっち、、、冬へ向かう。

誰も手伝ってくれない、、、冬支度と、、、雪かきが、、、始まる。

東京が恋しくなる季節です。

それにしても、、、桜を見る会、、、

日本独特の、ワシントン時代からの

日米の絆の「桜は、、、日本人全部が参加すれば良いのにね、、、」

婆ちゃんも、、、桜観に行きたいよ。

京都の桜、東京の桜、、、南紀の桜、、、吉野の桜、、、

福島の桜、、、弘前城の桜、、、

皆皆、、、何回見ても、、、咲くも桜、、、散るも桜

南紀の山間の小川を花びらがうずめる春の桜は

散っても美しい絵のような風物は天与の恵みです。

七つボタンの若者が、、、世界中が未熟な時代に散ったことも忘れられない。

櫻は、日本人の心の華です。

イデオりぎーウンヌンの前に

日本には、、、初めに桜が咲いていたように思うのですよね。

子供のころ、、、男兄弟の五月人形に

楠正成と、その子の桜の下に立っている人形がありました。

その後、大学を卒業してから、自分で働いたエネルギーを

𠮷野の桜見物に使った時期がありました。

帰らじと、、、かねて思えど、、、夜宮の文字の木戸の前で

櫻が一層、、、日本人の心の歴史と重なりました。

政治家さんの、桜へのイメージを、もう一度、国民の花であるという

潔い花の前で、人間の、主張で、茶の間のイメージを怖さに方法で

議論してくれたら、、、婆ちゃんはうれしいんだけれどな~~~(--

北海道に来てからは、、、

花より先に,、、葉っぱが出るから、、、興ざめしましたが、、、

5月という、、、遅く咲くのが、、、別な花に見えて、櫻かな?

北海道は「モクレンや、こぶしや、、、レンギョウが、、、」

春を告げます。

櫻は、日本の最も潔い美しい花です。

野党の皆さんも、桜の見事さの前に、、、もう一度、

日本の宝を、、、何とか大切にしてほしいと

婆ちゃんは、、、茶の間で、、、祈っています。

櫻のすばらしさは、、、北海道に来てみると、、、どんなに大切な花かわかります。

安倍さん、、、とか、、、税金とか、、、

難しい話は分かりませんが、、、

櫻、橘は、、、別格の保護が無いと、、、

日本が日本で無くなる様な気がします。

 


素晴らしかったパレード! TVで拝見できました

2019-11-11 11:56:35 | Weblog

 

長生きしていて、、、良かった!

パレードを 拝見できて 感動しました。

日本は、これからも、頑張れる

一筋の光を見ました。

令和の時代に 、かなうのであれば

私は、

水の行方が治水されるのを

見届けるまで

生きていたいと、、、思いました。

復活の勢いは

オリンピックの始まりとともに

元気を戴けそうです。

頑張っている世界の人々を

日本の国を挙げての「おもてなしが、、、」

期待されます。心のおもてなしが感じられます。

環境を変えてゆく

水害からも、天災からも、、、

「立ち上がる力」をプッシュするように!

日本は動いている。

そう感じるのです。

世界中の平和を祈りながら、

体力と気力と、心の強さと、技と、チームワークを競う日々。

今も、

ラグビーのワールドカップで

皆が元気になったように、

ラグビーのパスが絶妙なチームワークで

皆で勝ちに行った日本。

世界の壁が厚いほど、、、未来の夢に向かって

幼児も、少年も、少女も

長いボールを抱えて走り始めた(^^

そして、地震にも、嵐にも、

未来の構想に向かって、立ち向かって、環境を見直してゆく。

       「水」

治水を出来る者は国を治めると、オランダも、日本も、、課題である。

 

日本は令和の時代の象徴のパレードとともに

未来への知恵の結束を期待したい。

ラグビーのパスと、チームワークと、

アフリカの体力の前には、、、!!!!!!!

課題は山角かもしれませんが、、、いつの日にか、、、日本ならやれると信じたい。

より良い環境に立ち向かう気力を戴けたような、、、夜明けです。

人種を超えて、国を超えて、 応援の気持ちが天まで響いた。

令和に時代には、新しい何かが光り始めている。

もっと、、、生きていたい、、、

勝てない敵は、、、時間かもしれない。

 

北海道にも、、、冬将軍がそこまで、、、やってきた!!

除雪費の援助のない生活道路に、

てんこ盛りの雪が積もる。

30年以上も会長さんをしている小さな町内の除雪費は、

各家の体力で補ってきた。

50年間、雪かきの役は私、、、一人。

主人は、患者さんの「おはだ」に触れる職業のDr。だから、、、

患者さんに失礼だと思うから

主人には、スコップを持たせたことはない。

敏感な手のひらのセンサーで

微妙な命の変化を診断してほしいと願うから。

黙々と、雪を積み上げた、、、

「愚公、、、山を移した、、、私。

。。雪の山を!、、(^^!

あほか?、、、と。

雪を知らない本州の親戚も、兄弟も、友も言う!。

何で、、、東京に帰ってこなかったのよ!、、、と。

人生の半分は雪かきと、冬支度。

東京から、北海道にやってくるのは、、、

避けきれない天与の縁だった。

東京に帰ると言った相棒と、初めは旅行気分過ごしていた。

 

北海道の自然は本物だ、、、!

いつしか、、、白山に登った日のように、

北海道に住んで、雪の季節に出逢うたびに、

登山に似た、、、戦いの名kに居た。

雪融けの3月には、今年も生き残ったと、へとへとの自分にエール。

命の洗濯に、伊豆のKKRの源泉に飛び込みに行っていた。

ここは、慈恵会病院が「宮内庁の人々の診療を受けていた時代」に

沼津にもやんごとなき方のお住まいがあり、

卒業したての医師夫婦が、伊豆の国のあたりに住んでいました。

父母の住んでいた静岡に、毎春、、、行くのが楽しみでした。

北海道に永住することになったとき、

父の生まれた東京に帰るのは、、、、もう、、、出来ない。

懐かしい市ヶ谷の生家も無くなり、

戦後の下町での開業も、

兄が勤務医に転校することで閉鎖され、どこのどなたかに、、、売られていった。

受験も、学問も、技術の取得も、お金が無いのは首が無いのと同じ、、、

日進月歩の医学会で、臨床の分野でも、

医療機械の進歩と。。。共に。

開業の役割は、幕を降ろしてしまった、、、後を継いだ兄。

東京には、、、25歳まで育った、、、居候がいっぱいだった実家が

忽然と消えた。

誰に売られたか、、、いつ売られたか、、、

結婚して蚊帳の外の私には

一切の事は知る機会が無かった。

グーグルの航空写真で、

空き地になっている父母や従妹や、叔父さんや、親戚が

戦後を過ごした思い出の実家が、、、空き地に変わっていた。

弟にも、知らされなかったというから、、、時代が終わったのですね。

父母のぬくもりは消えて、

見知らぬ義理の兄弟たちの孫の時代になっていたのですね。

帰れなくなって、、、気が付きました。

東京は、一度離れたら、、、帰れない所なんだと。

思い出があるから、、、大丈夫!

NHKのテレビに

パレードが映し出されて、臨場感穣に拝見できたから、、、

私、、、寂しくありません。

 

天皇陛下、皇后陛下のいらっしゃる千代田の街は

素敵な噴水も、公園も、武道館での音楽も、思い出される。

大學時代は、駿河台をホームタウンだと思っていた。

上野、浅草。秋葉原、庶民の生き方の「奥深さ」に

大学卒の経歴など、必要のない「プロの腕」を深く感じた。

中央線の新宿を超えると、

日本と、韓国は、、、民間交流がすごいと感じた。

横浜の中華街で、高麗ニンジンを買って、

薬剤師になった以上、この生薬は知らねばと、

大枚、、、8000円で、買ったことが有った。

75歳になって、、、帰りたい。。。帰れない。。。

もう一つの心のふるさと、、、東京!!!。

オリンピックは、東京には行けないが、

オリンピックが、、、札幌に、、、走ってきてくれそうです!!!。

札幌は、どこか東京に似ていて、寂しくありませんが、、、

東京に帰るのには、、、サラリーマンの人生では、、、難問でした。

若き日に歩いた日比谷公園や野外音楽堂、、、

母は、「宝塚」や「歌舞伎が大好きでした。」

音楽大学を卒業していた母は、

皇居の周りの文化施設に、田舎っぺの私を伴って、、、

素敵な世界が在ることを教えてくれたものでした。

東京を離れて、50年になりますが、

皇居がTVに映るたびに、心は東京に帰っていますので、

目をつぶると、お堀に沿って歩いている自分に出逢えるのです。

日本の象徴でいらっしゃる、陛下の住まわれる二重橋を

母と眺めた若き日の事が、思い出されて、

時代が令和になって、始まりの日に

日本人に生まれて、歴史とともに光を感じながら、

日本中、どこに住んでいても、、、孤独を感じたことが有りません。

幸せなことです、、、。

あたらしい時代のパレードを、拝見できた75歳の婆ちゃんは幸せです。

ありがとう、、、ありがとう、、、感謝の光です。


国民の喜びのイベントに、、、音楽が流れて一筋の光が差した日の涙

2019-11-10 12:20:57 | Weblog

国民が皆、素直に感激の涙を流し

嵐の歌声を聴いていた。

台風の日の

自然の前にはあがなえなかった

日本の国中の国民は

復活の日の為にも

一筋の光が射すのを待っていた。

心がくじけないように、、、

頑張れる心の芽を

光が導いてくれるように

歌声も、合唱も、人々も、明日への光を待ちながら、、、

音楽の中に

祈りの涙を流した。

頑張れるときも、うれしい時も、哀しい時も、

日本人の心の中には

日本があり続けた歴史とともに天皇陛下が、

国民とともに

時代を生きていらっしゃった文化がある。

被災の日の避難所にこられた陛下は

床にひざを置かれていた、、、もったいなくも。。。

京都も奈良も、沖ノ島にも、南紀にも、、、紀州にも、

陛下の文化が受け継がれて、

日本人の心を育てられたように思えるのです。

日本には受け継がれてきた伝統の文化とともに

杜も神社も、公園も、自然も、科学では証明できないバランスを、、、

森羅万象ともに共存共栄する考えがあり続けてきた。

光さす、時代が積み上げた一筋の光のような、、、知恵の泉。

熊本城の復活も、被災地の復活も地元の青年、壮年パワーが復活してゆく。

日本の象徴でいらっしゃる陛下のお心が

国民とともにいらっしゃってくれるから、

皆、、、打ちひしがれた心に光が射して、、、立ち直ってゆく力が湧く。

東北も、元気に復活してゆく、、、再びの嵐の中で、、

日本中の応援の声が届いて光が射してゆきます。

日本人の強さは、一筋の光が

どんな時も、感じられるから、

誰かが一緒に居てくれるから、、、

一人ではないと、、、

誰もが国のお母様と居るように強くなれる

一筋の光る、ともに生きてくださる方の涙が

くじけそうな被災を受けた人々の心に、

復活の光となって届くことを

祈らずにはいられませんでした。

 

今日は、、、NHKのTVの前で、一日中

日本の新時代をお迎えする東京の人々と共に

象徴でいらっしゃる両陛下にお祝いをいたしたいと、

パレードを今から、、、ワクワクしながらお待ちしています。

TVのおかげで、、、北海道は皇居前広場の近くに居ます。

おめでとうございます

。記念の日記を書きました。

安倍首相とともに、TVに向かってバンザイ!をしました。

 


父母が昭和11年頃から住んでいた静岡の自宅の写真他、、、ブログ登場写真の説明です

2019-11-07 23:52:30 | Weblog

 

これは、主人が糖尿病予防の為に

週に3日、自分で作って朝食にしている、、、男のサラダです!

tyousyokuha

 

私は、、、ごちそうに預かるだけで、体調が最高のサラダです。

 

札幌に嫁ぐまでは、母の音楽教室でお手伝いをしていました。

母子の連弾です。

 

 

冬が過ぎると、連日の除雪作業から解放されて、

春の耐力挽回に、富士山と、静岡の温泉に行く野が楽しみです。

これは署名にあるプロの画家さんが描いた絵のカレンダーです。

それを、がんセンターに勤務していた弟が、大切にしているのを観て、

戦後のたくましい生き残り組の3兄弟と、姉妹、

戦争を知らない団塊の世代の弟たちの、戦後の立ち上がりのパワーの様に

感動で、観ていたカレンダーを、許可を得て撮影した者です。

携帯写真ですが、、、迫力あるでしょう!

 

この花は実生から育てて咲かせました。

日陰で元気に咲く花ですが、圧巻の華やかさがあり、、、、初雪の室内にも12株同居しています。

 


政治音痴で、優等生的に書物や新聞、国会討論傾聴のなれの果ての75歳

2019-11-07 04:10:45 | Weblog

北海道にマラソンがやってくる!

最高にうれしい、、、

 

でも、ほとんど決まっていた東京で

女性知事さんは一言、、、なんで?と言いたそうな口ぶりが

お顔に出ている。

しかし、、、先刻のマラソン大会で

温度の高いというのは、、、女性選手が途中棄権、、、

何とか、棄権しなくても走れる環境と考えるのは、

マラソンを「見た!来た!勝った!」のマラトンの時代から受け継がれた競技だけに

女性マラソンという、ますだあけみさんの、、、詳しすぎる解説を聴きながら

女性は、、、よくやった!

男性だけだったマラソンを、、、、女性のマラソンまで

実に、、、尊敬できる努力だったと思います。

だから、、、女性選手が棄権するようなマラソン状況の環境で

努力をし続けてきた女性アスリートが

世界記録に挑めないのは

お産を途中でやめるようなものですよね、、、確かに。!!!

IOCの考えは、海のように深く、山のように高い努力で

武器よさらばの、、、戦いをしてきたように

茶の間の婆ちゃんは、井戸端会話で、オリンピックを賛辞してきた。

大気汚染も、炭酸ガスも、地球温暖化も、、、、

オリンピック精神は地球規模で原点のフィジィカルな、競い合いで

人間の可能性を競ってきた。

この、、、素敵なオリンピックが、、、札幌に来るなんて!!!!!

世界平和を目指す戦後の日本が発展させてきた札幌だけに

大道理,,大通り公園や、藻岩山を借景に

あちこちの道路からは景色の良い地球へのラブが見える。

北大卒業した主人は、

東京に帰るからという約束で

結婚したものの、、、

札幌のちょうど良い街の魅力は、女房よりはるかに愛してしまったようです。

夫唱婦随の「頑固形亭主関白の我が家」は

50年かかって、ついに、、孤独な女房も、

札幌人になれて来たという、どこか東京に似た、

魅力の町である。

思いでは走馬灯のように、、、75歳になった私の50年間の札幌を映し出す。

30代の時には

板垣市長さんが

札幌の発展の構図を手探りされていたのだと思われました。

私たち、主婦の立場の女性の意見を聞きたいと、

市役所に招いて、座談会を開いてくださったりした。

東京の橋の架け方、、、札幌の豊平川のこれからの橋の色、

川べりを、ドライヴすると、昼はメルヘンの色と高さとデザインの総合美。

夜は、銀河の中の宝石のような光のデザイン。

総合的に美しいサッポロノ町には

あるいても歩いても終わりのない緑の植込みの垣根のように

道路と見晴らしが見通せる空間を維持した開発が素敵ですね、、、!

幼児を抱えて、私は、、、

若さと、、、馬鹿さで、、、

言いたいことを言ったような記憶があります。

ここは、、、北のユートピアの街。

石原裕次郎さんが、、、「時計台の前で、、、」

若者の札幌の恋を歌って、ヒット!。

そして、冬季オリンピックの、ジャンプに燃えた大倉山。

札幌のお母さんが書いた童話などのページを借りて

「子ぎつねコンの樹」をペンネームで書いた。

開発で、藻岩山頂近くのキツネが、

観光客にチョコレートなどもらって喜ぶのを母のキツネが、危険を感じて

山奥へ引っ越してしまうのだが、

子ぎつねは、お菓子をくれる人間に

感謝の一枝を置いて去ってゆく。

人間はその枝の種から出てきた「赤い実」に

「われもこう、、、と知る、」

大自然に侵略した人間はキツネのなわばりを横取りしても

子ぎつねの置いて行った「魅力あふれる一枝の種」は

やがて、実がなり、、、咲くように割れて、、、自然は守られてゆく、、、

自然の子、、、キタキツネ。

「われもこう、、の赤い実は花が咲くように実が割れて熟す。

「我も恋う自然豊かな藻岩山、、、」

掛詞の心で書いた童話が

子育ての孤独な時代の、

札幌への願いだったかもしれません。

経済第一主義の現在のリーダーの方は

星条旗を抱きしめている写真が、、、絵になっていたが

主婦が、我が子を抱きしめるのと同じ心だろうと

その、、、御国愛には敬服しますが

価値観は女性的な守りが、彼を経済に釘づけてしまうのかもしれませんね。

お茶の間の政治音痴の主婦は、、、解ったような顔で

自分のスケールに、偉大なアメリカの大統領の考えを考えるだけ

おこがましくも、、、無駄に近いと思いますが、

孫子の時代に、、、地球の空気は、、、美味しいと、、、

銀河系のどの星の住人にも言わせたいものですね。

アメリカこそ、、、、

地球を抱きしめている写真なら、

心から、偉大なリーダーとひれ伏します。

 

このままでは、、、

戦乱は終わってくれるのか?、、、コワイ。

世界が、経済効果に走って

スモッグだらけになっているとき

札幌は空気の美味しい、、、

北の街の白雪の似合う開発がされてきたと思う。

それだけに、、、

パリ協定が目指す理想の街のまま、、、

無駄にキラキラ光る技巧は要らないから、

地球の美しさを至高の宝物である贈り物として

喜んでもらえるマラソンを世界に感じてもらいたい。

 

政治音痴の茶の間の発信ですから

斜め半分に聞き取ってくれても、、、

原爆の2発も音た時代に生きた婆ちゃんは

一番の宝は、戦争のない地球になることだと思います。

政治的な、深い海の底の社会への貢献のかなう頭脳とは

方向が違っても、

人間が人間らしく過ごせる地球の「空気だけは美味しくなければなりません。」

このブログは、、、勝手なことを思ったままに書いています。

後から反省したりすると

突然削除したり、書き足したりもします。

今は、、、こう思う、、、。

 

私個人の思った事を

その日の内に書き綴れば

怪しいほどに

ものぐるほしけれの日記帳なので、

 

明日!!!

「IOC」の方が来るという、、、興奮が、、、真夜中まで

眠れずに、、、キーをたたき始めました。

おりからの不幸な出来事で、

沖縄の世界遺産の消失がありましたが

大切な、、、大切な、、、資料は火災を免れたとのことです。

沖縄返還の、、、一億総日本人が涙の感激で

おかえりなさい、、、沖縄!を

若き日に味わった私は

戦中に生まれ、兄弟3人、、、一人は流産という

戦乱の中で、可哀想な母に育てられました。

沖縄返還の時は、

ちょうど、、、阿部首相のおじいさまの弟さんにあたる方が

日本の首相をされていて、

沖縄返還が悲願であったと

新聞には報道されていました。

私は、主人と沖縄に行って

多くの命を落とされた石碑の前に

花をささげてきました。

「ひめゆりの塔」にも行ってきました。

小学校では、白黒映画で

「ひめゆりの塔」を授業で観ました。

 

哀しい涙の時代を超えて、

佐藤首相は沖縄返還に政治生命をかけていらっしゃったような

そのような記事が、新聞に連日報道されて、

戦争は終わった!、、、、と、、、思われました。

しかしそれからも、沖縄の進駐軍の基地の問題が幾度となく新聞で読みました。

戦争が、地球上で絶え間なく起きる現実は

何故なのでしょう。

 

原子爆弾が2発も落ちた日本は

戦争の究極は

人間が人間でなくなる、、、元素まで分解してしまう、、、

 

死んだ地球になる前兆を、、、世界で唯一の国として体験しました。

日本は地球の健康と平和を牽引する使命を天から受けたと思っています。

原子爆弾の投下された国として、

人間が人間で無くなる、、、

物質以下の元素に分解される、、、

感情や感性や五感での悲鳴ではなくて、

世界万国の共通の知的判断の基準となる科学や学問や宗教や、、、ETC、、、

全てをネグレクトして元素に変えてしまう戦争が

地球そのものを滅ぼすのは、、、核戦争が始まったら、、、全ては終わりでしょう。

被爆体験をした日本が語り続けなければならないと思います。

 

戦後、物ごころついたとき

クーベルタン男爵の「オリンピック精神」とともに

世界の平和に向けて、日本は、、、水泳部門で

輝かしいメダルを獲得しました。

明治生まれの父母から、

「前畑頑張れ、、、古橋、橋爪、、、」

戦後の日本人の復活魂を牽引したオリンピックの選手が

世界レベルへの参加の始まりでした。

札幌で、、、マラソン!、、、

素敵な平和の街を診てもらいながら

アスリートは、

地球温暖化の原因の、

最も大規模に化学物質を爆発させて

地球を破壊してゆく戦場の哀しさ。

 

戦争をオリンピック精神の

フィジかルな競争に変えてくれれば

世界から、

ミサイルも武器も、爆弾も無くなるでしょう。

 

地道な人生懸けた

無言の努力のアスリートの一足一足が

世界平和と、

地球環境との共存共栄への

世界に向けて発信してくれる👬の輪が、、、

民間交流の海となって、世界をつなげて行ければ

素敵な、、、競い合いが世界平和につながってゆくでしょう。

未来へ向けて

後進国は、、、二度と戦争に巻き込まれないで

マイペースのその国らしいスピードで

個性が経済につながるように

手を差し伸べ合えば

武器で設けたり、戦争で儲かったりする事が無くなるでしょう。

日本だって、江戸時代には「刀」を腰にさして、

国内での領土争いをしていたのですから、、、

めちゃくちゃな時代が過ぎないと、

平和のありがたさが解らないのかもしれませんが、、、

ここらへんで、、、世界のルールが世界を救う円卓の集いから

平和な地球を守ってほしいと願わずにはいられません。

世界共通の競技の場で

オリンピックに参加することの

人間の美を地球の美、、、、不思議な天与の美として

アスリートの努力の結晶が

人間であることを、、、喜ばしてくれる瞬間でもある。

美しい開発!

地球を汚さない開発、、、

幼い子供の中に、未来の長所となる素質を見抜き

一貫教育で、素質を育ててゆく分野があると、

インタナショナルな人材を育てると思います。

身の丈発言を、差別と受け取るのは正しいと思えるが、

スタンダードな心だと思いますね。

 

日本人は小さい身の丈、、、大きい大谷君のような二物を持った人

いろいろな人の才能を環境に応じて賢く伸ばせば、

日本人は世界の必要な国として生き残ると思うのですよね。

 

足ることを知る大人の心での開発。

光に、太陽に、感謝した開発を

札幌が世界に発信してゆくきっかけになれば

札幌オリンピックは世界平和を願う日本の立場の表現が出来るかもしれない。

安倍首相の動きを観ているだけで、、、

こんなにも世界を飛び回って働く人は、、、

働きかた改革を

まず、、、自分からしないと、、、身体を壊しては大変です。

安倍首相のおじいさまの弟さんでしょうか?

ご先祖様がノーベル平和賞を受けられたのは

私は日大生のときでした。

池ノ上の下宿の一本表に近い道路に

佐藤首相のお屋敷があり、

門の前には「ポリスボックス?かな?」

お巡りさんがいつも立っていて、

おはようございます!と大きな声で言うと

無言のまま「頷く目が笑ってくれた。」

屛が高くて、中は見えませんが

ここの方が、、、沖縄返還に大きな役割を果たし

戦争を終わらせたのですね。

沖縄は、二度と、戦争に巻き込まれないように祈るのは

日本人なら、皆、言葉も出ないほど、、、切実な祈りの思いです。

安倍さんには、世界平和の使者として、

働きかた改革のご自愛を思う茶の間です。

首里城は、復活させてほしいです。

復活したら、、、もう一度

沖縄に行って、ヤンバルクイナの杜を観たいと思います。

札幌はオリンピックのマラソンを、、、

受けることが出来ることを祈って

おやすみなさい、、、

朝になっちゃったよ、、、(^^

75歳になっても、、、興奮して眠れないことが有るんですね。

 

 

走ってゆくはずだと私は信じている。

 

 

 


隣に建てられた土屋ホーム

2019-11-05 06:57:07 | Weblog

ミサワになるのか?積水になるのか?

隣の、地震の後、空き地に解体された空き地が気になっていました。

土屋ホームが選ばれましたようです。

 

元来、在来工法の木材をふんだんに使った新築はさすがに、、、魅力がありますが

我が家にとって正面で南側にあたる庭に、エアコンの廃排気が真正面に向けて入ってくる方向に

取り付けられました。

我が蓼建てたブロックの塀が在るのですが、

手前には30年間毎年咲いてくれるつつじだとか

夏には一日中園芸をしているので、

雪囲いの時にも、風が真正面から排気が入ってくる。

出来たばかりの今日、今なら、作動し始めたばかりだから、

我が家のメインの庭に向けてエアコンの排気を向けないでほしいと、

本社に言う前に、支店の支店長さんにお話ししてみた。

建物を建てるとき、挨拶には来てくれたが、特別に

sapporodemo

評価の高い土屋さんだから、タオル一本受け取ったわけではないが、

感じの良い営業マンが、顔だけは出してくれた。

 

「福祉などで思いやりのある土屋ホームさんの建物は

私たちの家も、、、、お金が有れば建て替えたいぐらいですよ、、、と言っておいた。

出来上がって、、、びっくり、

新築のお隣さんからすれば北側の裏ですから、

排気には最高の向きですよね。

しかし我が家にとっては南向きのベランダサイズより大きな窓がある。

屛までは、規格のメートルは開けてあるという。

しかし、この塀は敷地内に一歩引いて我が家の所有であるから

夏も冬もブロックの塀に向かって排気が我が家の庭の木の葉を揺らすのは

困ることです。塀の上からは、かなり強い風力で、風が入ってくる。

歳よりは喉が弱いし、気流に乗って粉塵が絶えず我が家の庭に入るのは困る。

支店長さんには、もっと適切な排気方向に移動するか、

風邪が入らないように、手前にパネルを建てるかしてくれないと

雪の季節には雪も、吹きつけられてくるのは必定である。

せっかく、、、素晴らしい木造建築を建てられる会社でも

我が家ストレスでイライラしている。

お隣さんとは仲良くしたいので、

お隣さんに申し込む前に、建てた会社には

お隣への配慮がほしいと思いました。

主人から言う前に、私が支店長さんにお電話をしました。

それが、聞き入れなかった段階で、主人は話してみると言っていますが、

家そのものは立派な出来ですが、排気の音も、風邪も、

我が家の南の正面の庭に吹き付けられ、音が間断なしにするというのは

今のうちに善処してほしいと思いました。

さて結果はどうなるのでしょうか?

ジャンプで感動の選手をサポートした会社ですから

きっと、

「なるほど、、、貴女の家のメインの南側に、排気を向けるのは

住むにつけ、音も、風邪も、連続的な嫌な刺激が発生しましたね、、、

正面の南の庭ですし、、、冬は雪も噴出して、庭に入ってくるでしょうからね」

現地を観てくださればきっとそのように言ってくださると信じて

イライラも、ストレスも、今年のうちに解決してくれると信じたい。

ともかく、、、本社には、支店が配慮してくれなかったときに

電話すれば、解決すると、思うので、

支店長がどのように判断されるかが、、、土屋ホームさんの

隣と仲良くできる思いやりのメーカーさんかどうかが、、、期待できます。

ともかく、2階から、建てあがるまでを見学できましたが

地震にも強そうな、素敵な家であることは確かです。

排気の方向を変えてくれたら、

又、この日記帳で、親類一同の皆さんに報告しますから、、、

期待していてください。

風の入ってくる庭には珍しい薬草が春には花が咲くはずです。

 

12月3日

土屋ホームから

長谷川さんという南支店長という名刺を下さって

我が家の南向きの表ともいえるベランダサイズより大きな窓のある真向いに

隣の新築の暖冷房用の排気吹き出しと空調なのでしょうか?

排気用の床暖ストーブのような排気口から

ひねもす大きな音と、空気が、隣の室内の排気を

我が家の窓のもっとも多い方向の南の庭に吹き付けてきます。

真ん中の塀は、我が家で、一歩敷地より引いて建てたブロックですが

音も空気も、防ぎきれません。

私は、庭が自分の部屋の様に、庭で。植物の性質や

環境変化で変わる、微妙な変化から、

植物と対話しながら50年近い歳月を庭を自分で、楽しんできましたから

人工的な温度差のある空気が、年がら年中ブロックの塀を超えて、当方に吹き付けられるのは

ストレスです、

雪囲いは、業者に頼まないで、自分で毎年致しますが、

塀際の雪囲いの時は、髪の毛が排気の風邪で、逆立ちして揺れました。

50年近く住んだお隣差南側の、静かな庭が、、、唯一の宝物の心の宝のゾーンに

お隣さんの家の中を一巡した排気空気が、ゴーという音とともに

ブロック塀の上から、入ってくるのは、、、汚染された空気を吸っているような気がして

私の様に、衛生管理者免許とか、薬剤師の免許を仕事としてきた者にとっては

汚染度と、音がストレスが倍増で、イライラして、庭に出ることが少なくなっていました、

隣の排気口が事らに向かって吹き付けられるのは

年がら年中、、、下手なピアノを聴かされているようで

間断なく刺激される音は、精神的にも良くありません。

お隣にとっては北側でも、当方には南側です。

12月までに解決しますと言っていたのに

「お金がかかる問題ですから、、、」と

玄関先で、進めてもおあがりにならないまま

私の足が冷凍されて、つってしまいました。

何回も、お顔を出してくれる誠意は、、、自分の会社への誠意で

衛生的な事や、精神的な事、はたまた、

子供の時代で建て替えたとしても、

南側には、日が当たらなくなっただけでも

がっかりですから、

排気ガスまで、刺激音が止まることなくする庭になっていることを

上層部に言って、お金のかかる問題であっても、

西側には隣の駐車スペースが塀際の何倍もあるのですから

そちらに向けて、治す予算を土屋ホームのトップから出してくださいと

解決しないようなら、、主人ともども

申し込むつもりですが、

小さな問題の内に、家は、お隣さんとの良いコミュニケーション事つくるものです。

土屋ホームになる前は

ミサワホームが角地であって角地でないという

南側が札幌市の持ち分の土地が入っているところに

角地の建蔽率の建物を建てていたため

我が家には、光が入りませんでした。

今回の地震で取り壊された家の更地の後に

土屋ホームさんが、心あたたかな在来工法の木造建築を建てました。

土台の部分は、先代のミサワホームが勝手に境界から下水のマンホールを動かしたままで

我が家は🚻も、水道もトラブル続きで、

昼間だけ、過ごすリラックスゾーンの家として、使ってきました。

同時に建てた、かってのミサワホームの家は真向いの屋根は壊れてしまって

雪の重みに耐えられない、、、軒の作りが本州の京間のサイズです。

購入してから、屋根は3回バンキンのやり直し、

南側の勾配を角度を急にして、

氷の塊になって、巨大氷が落下する前に

雪のうちに落下するように、屋根の大掛かりな修理もしました。

今回の地震では、タタミ大野モルタル壁が落下した、

危険なので、全部モルタルをはがして、サイディングにしたら

200万を大きく突破しました。

子供が幼いとき、

無給医局員で月給が入らないばかりか、苦労の多い時代に

ミサワの提携ローンを9パーセントという高利で借りて

子供たちが、自宅から通う事で、犬を飼ってやれると

情操教育を先取りしたのがきっかけだったと思います。

45歳になって、医師にはなりましたけど、

北海道の50まで、大学つとめの医師の給料では

私立の医科大学の授業料は、この家が背負ってくれました。

50歳になって、一度返済が終わった家が

もう一度、抵当に入り

ローンが始まりました、

70歳になってやっとローンが終わった時には

小さな二階建ては4倍の金額がかかったことになりますが

世間にも、我が家にも、分割ではありますが

銀行を通して、世間にお金を回していった働き者の家です。

 

ありがとう、、、としか言えない、人生の戦友の家です。

隣が、ミサワホーム時代にトイレの排水の先端を切ったまま。市の下水管を動かしたことが

下水も、排水も、トラブルばかりの出費が続き、

水は、雨水を使い、飲み水はペットボトルという

エコな、ゾーンとして、息子達や、孫たちが小さいときはアトリエにしていました。

ミサワが、下水の本館を動かしたなんて、、、、しかも、我が家のトイレの排水は

敷地の中に流れ込んでいたなんて、

境界より、かなり、敷地に引いて、

お隣さんが、臭うと言って、我が家の負担でブロックを建てました。

それ以来土管を新たに設置する工事に、当時のお金で40万円ほどかかりました。

しかし、本館が隣の敷地に移されたままで、、、

今日まで、上水道、下水道ともに使えないまま、トラブルを避けて、

固定資産税だけは払ってきました。

隣が更地になったとき、西岡建設さんに、市のマンホールを

両方の家の境界に戻してほしいと申し出たのですが

資に札幌市に届けて、費用も掛かるので、このまま使えるように

お宅の下水管をつなげますとは言っていましたが

それ以上は、、、言っても無駄と思い、更地になる隣を写真に収めました。

今回、土屋ホームの、支店長とともに来た若い社員が

営業担当だと言っていますので、聞くだけ聞いておきました。

「12月までには、、、隣の排気と音、壁への吹き付け、、、解決します。」

🚻も、お宅の排水は、本管につながっていることを確認しました。

土屋ホームが建った時点で、我が家の下水は、市の本管と繋がったようですね。

測量が入り、ここ一帯のでたらめな境界線埋めちらかされた十字石はどれが本物なのかは

知っているのは業者と、市だけ。

隣の家が建って、土台が高くなり、羊ケ丘も、みどり公園も、自然がすっかり視界から見えなくなり

さらに、光も、、、遮られ、排気口まで、当方に向けられているという

隣のㇾジェンドの家庭の50年近い日常を静けさからでんぐり返しておきながら

会社では、お金がかかる問題だと、、、12月には、解決すると言っていたのに、、、!!!

玄関に、何十分も経たされて、いきなりの訪問を受けて、

ゴールデンタイムを付き合って、話しても、

土屋ホームの排気口の配置ミスの設計だと私は思うのですよね、

お隣さんの、唯一の静かな庭に、止まることのないは居こ行が2個並んで

音がする、、、刺激し続けられると、、、イライラしてきて、健康に悪い!

私の母が、ピアニストで、お隣さんが「防音」を申し込んできたとき

東京の、ど真ん中で、ほかの騒音もある中、

ピアノの子供たちの弾く店舗外れの音がイライラを描きたてると理解できた母は

大枚払って、部屋全体をさらに防音して、外には防音の塀をめぐらし

その、お隣さんとは、仲良くやってゆきました。

音、排気、正面に吹きかけられる、無礼、、、

自尊心も、傷がつきます。

土屋ホームさんは

購入者さんに最大限の合理性を発揮しても、

お隣さんの環境財産が著しく低下させられるリスクは

住民を幸せにはしません。

排気など、隣に影響する配置については

事前に相談を入れて、両家で、仲良く住めることを考慮に入れてほしいと、

12月中に、きちんとした書類で、約束してくれないのなら

時間ばかり邪魔され進展しないのなら、

本社の社長さんに、移動させるだけの金銭を現場に支払って、解決してくださいと

依頼しようかと、、、主人と、イライラが募る人工的な環境汚染に頭を悩ませています。

 


11月になりました。

2019-11-01 06:22:24 | Weblog

今年の冬をどのように超すか?!

早朝7時から20時までは

休みであろうと、祝日であろうと

主人のオリジナルな自分の時間と結婚以来決めてあるから

 

この時間帯には主人は居ても居なくても、

関わらないようにして、

マイペースで家事をこなしてきた50年間だった。

南紀で生まれて、雪を知らないで13歳で東京の小学校6年生に転校した。

翌年あたりに30センチぐらいの雪が降った。

なんとなくうれしくて、

年子の次男の兄と、雪だるまをこしらえて、笑いあった。

24歳の5月まで、

東京の中学校、

都立小松川高校、

日大の理工学部の薬学と、

高校中学の教職課程を履修して、

薬理の教授の勧めで、

東京大学の医学部の薬理学教室に勤務。

30過ぎた薬剤師が寿退職するというので、大学のポストが空席になる後釜としてだった。

しかし、三か月後には退職するはずの30過ぎた薬剤師が

寿が流れてしまい、継続勤務を決めたという、ハプニングに出逢った。

大学の学生中に父の急逝の為、アルバイトしながら卒業したこともあり、

空席を待っている余裕はなかった。

急遽、臨床の調剤を覚えて、臨床力で

どこかの病院に固定する計画のもとに、

東京医大の薬剤科に

「無給研究員」として臨床勉強の為通うようになった。

 

所が、1か月後に正規職員として、働く道が、、、なぜか?開けた。

一通りの臨床力が身に付いたころ、

自宅から徒歩で行ける総合病院に、

東京医科大学の教授の紹介で移動しました。

その病院には当時、

食道がんの手術で

日本中に名前が知られていた

N先生が、

廊下を堂々と歩かれながらおっしゃいました。

「私が、、、食道がんでは第一人者と言われているN医師である!」と

ご自分でおっしゃられたのが、、、

50年以上過ぎた今も、、、

印象深く残っている。

その病院には、一生ここで働きたい、、、と思うような、

楽しい雰囲気がありました。

 

私の実家は内科、外科の個人経営の開業医でしたが

父が早逝してからは、兄が、アルバイトの先生を雇用しながら

内科だけを標榜していました。

このままでは、開業の時代は終わるからと、

国立がんセンターに

胃カメラの指導医になるべく通い続けていました。

大学病院の一人当直も任されるようになり

研究を体験してから、

臨床の薬剤師として勤務して、良かったと思う事が

多々ありました、

 

医学部にを卒業した息子の次男にも、

何処の科に入局しても

「病理学の基礎の教室」に通っておくことが大切だと、

内科医の兄は、(息子の卒業の挨拶に)実家に連れて行ったときに、

息子に教えてくれました。

同じ病院の「大先輩の医局の先生方」も、

「私の弟も、兄の内科医も」

口御揃えて言っていたことが、今更のように思い出されます。

 

11月は、、、私にとって

大きく、、、勤務先の変わった年でもありました。

普通に、、、

地域に貢献できる普通の病院薬剤師をしていることが

社会の多くの人と、無意識に接する機会が多いので

時の流れとともに

多くの知人と

,時代を流れながら、

いつの間にか年をトッテ、

幸せに家族親族の近くで行き来しながら、

豊かな日々を生きていたかもしれません。

しかし、11月15日、

清水の舞台から飛び降りる勇気で

北海道の、知人も、親戚も居ない発展途上の未来の都市に

我が家の実家の外科部門で働いてくれると

未亡人になった母に、約束してくれた若き外科医師を迎えに

11月、15日、札幌会館で、

北大卒業の医師と結婚することになりました。

お付き合いの暇は一日もありませんでした。

一開業医に、常勤の医師を迎えるのには

結婚以外に、母は思い当たらなかったのでしょうね。

せっかく、

総合病院に薬剤師として勤務している私の事を、

辞めさせてまで、外科、内科の看板を守りたかったのでしょうか?

それとも、54歳という若さで、

突然、、、前の日には患者さんの手術を成功させながら

疲労で、過労死した父の夭逝を、、、受け入れることは

母にとって難しいことだったのでしょうか?

ともかく、、弟も国立の医学部に在籍していたし

病院の復活が、かなうのであれば、

私にとっても、未亡人の母を支えることは、やぶさかではないと、

清水の舞台から飛び降りるつもりで、

退職して結婚に踏み切りました。

一方、若き外科医の卵だった主人は

医学部は卒業しても、たった一人だけが国家試験を受験したに過ぎないという

収入面からは、、、パニックの時代でした。

医師免許がないから、当直はすべて無給。

無給医局員の時代が過ぎて、

やっと、国家試験受験のあと、

合格しても、無給医で、医局費用や、研究費に頭を抱えていた時代でした。

実家からの仕送りは卒業と同時にストップしたそうです。

私は、父母とも、幼馴染の「医師と薬剤師」の組み合わせの御夫婦と

親戚のように長い年月お付き合いしてきたご家族がありました。

車も我が家にはセドリックの縦ライトと、小回りの利く三菱のクーペと

コロナがありました。

総合病院での給料も、それなりの文化生活に事欠きませんでした。

母も、国立音楽大学時代の友人たちに励まされて、

「よつ葉会という、音楽教室」を主宰しました。

短期間に、お弟子さんは50人を超えて、

公会堂や、劇場で

「コンサート」や「子供の発表会」を開催できるまでには

長い時間はかかりませんでした。

一方、主人の方は

戦後の、日本がオール貧乏人の時代から

医師が医師をするためには、、、多くの事を妥協して、

頑張らなければ

医師になった人も、博士課程に残れないという、

国家免許ボイコットとか、

青医連とか、、、医学部は混乱の時期でもありました。

北海道は、、、貧しい私たちより、、、

もっと貧しい、昭和40年時代でした、

札幌の北東は玉ねぎ畠でした。

平岸はリンゴ園でした。

豊平川の川の周りには、インスタント住居が並んでいました。

固定資産税の要らない事が原因???だったのでしょうか???

いつの間にか、、、豊平川は素敵な川となりましたが、、、。

こんな私たちでも、銭湯の中では、

「お医者さんの奥さんって、、、羨ましい、、、お金が有って、、、」

しばしば言われたものでした。

銭湯に行かねば風呂のない所に住んでいても、、、

医師は羨ましいと、、、言われた時代でした。

アパートの前は舗装がしてなくて、

馬が通るから、、、馬糞風、、、

 

土埃で、ガラス窓を一日2回は拭き掃除していました。

北海道では、、、医者は、、、金持ちなんだ、、、!

知的、インテリ、、、肉体労働者ではないのでした。

さすが、、、国立と公立しかない、、、

基礎系の医学者の織りなす当時は

医師と結婚することが、ねたまれるという、、、

とんでもない、、、

文化の違うところに根をおろしてしまいました。

そして、

学閥の有った当時の日本の医療事情を知ったのは

息子が4歳になって、

主人が、東京には帰る予定が無くなったときの事でした。、

医師になるという事は

その医師の卒業した大学に貢献するか?

地域の為に貢献するか?

どちらかを選ぶのが北大で、

医学博士の称号を戴いた

主人の生きる場所は

北海道しか考えられないという時代であることを知ったのは

主人は40歳になっていました。

故郷の実家に帰っても、

兄も兄の嫁さんも、

玄関のカギは開けてくれませんでした。

主人の実家も、

武蔵野の原生林の栗の木など、そのまま生えていた庭は伐採されて

横浜市の高台の根岸に引っ越していました。

北海道に帰ってきたとき、

もう、、、私のかえる所も、待っていてくれる人も居ないと

背筋が寒くなる思いがしたのは、40歳の頃でした。

翌年、

法事を弟が開いてくれて、

親族兄弟30人ほどが集まりましたが

玄関のカギを開けてはくれなかった兄は、

法事には来ていませんでした。

気立ての優しかった姪っ子が代表で来ておりました。

「開業医」を、

たった一人の医師が続けるには、

患者さん側のモンスターが増えて、

対応に、時間を奪われるので、

ストレスに耐え切れず

実家の開業は閉鎖していました。

お金に贅沢になっても、医師は使う暇はありません。

ストレス解消の、モンスターからの逃避旅行が重なるだけで

廻りからは、贅沢な旅行三昧と見えたでしょうね、、、きっと。

150人の患者さんが毎日来てくれていたのに、、、閉院したのです。

がんセンターで認可された胃カメラの指導医として、

千葉の亀田病院という

アメリカナイズされた、総合病院に勤務したので、

法事にはでられなかった訳が解りました。

実家のカギを開けれなかった理由が暗示されました。

この時を境に、

もう、、、故郷に帰らなくてはと、、、思わないことにしました。

東京で、開業をするという事は

時代の要求が無くなりつつあるのかもしれません。

東京のど真ん中にある、

著名な私立医科大学を卒業して

臨床一筋に生きている息子も、

救急病院でもある巨大病院のある科の責任者である以上

病院300メートル以内を離れないような、

仕事人間である。

46歳になろうというのに、、、

1Kの、狭い寮に入っている、

車を置く設備もないから、車もない。

こんな息子にも、今年は8人ぐらいの花嫁候補が紹介していただけた。

仲介に入ってくださる方が社会的にご立派な芸術家で、

その方の好意にそむけないからと、一度はお会いしてみるものの、

仕事着と、ジャージのような軽装で走り回って、髭を剃る暇もない仕事人間が

花嫁候補の、御気に入るわけはありません。

それでも、2回目の誘いがあっても、

東京の、一流ホテルのレストランに行くのは

救急の仕事とは両立しない。

「母さん、、、僕の孫はあきらめてくれ、、、僕は仕事を第一に考えるから

仮に、、、家族が出来ても、、、守り切れない、、、、、、、

この世で、自分を愛してくれたのは母さんだけで十分だよ、、、長生きしてくれ。」

「もう、、、

結婚の相手を紹介してくれなくていいから、、、」と

伝えてくれ、、、と言って

電話は切れた。

時間貧乏で、可哀想である。

「母さん、、、僕は、、、医師をするという日常だけで、、、セイイパイなんだ。」

結婚相手は、医師と知っただけで、

お金も暇もある、

高級車に乗った邸宅から出てくる、ダンディな紳士をイメージするだろう。

全部、、、無い。

 

在るのは医師免許と、専門医の称号と、博士号と、柔道の黒帯だけである。

高校時代までは、音楽が好きで、仲間の音楽クラブの学生と

ホールでライブなども開いていた。

中学卒業の時は、合奏の指揮者もやって、

リクエストに、アルトサクソホンのソロを吹奏して拍手を帯びていた。

 

息子が東京の大学に行って以来、

一度だけ正月に来るというので

ありったけの、御馳走を用意したが、

飛行機は4時間も、北海道を旋回した挙句

もとの羽田に着陸、、、

もうこりごり。。。だったのであろう。

 

20年近く里帰りはしていない。

 

部屋は、息子の物がそのまま保存されていて

断捨離する気にもならない。

津軽海峡は深く、北海道は遠い。

もともとが、

先祖は東京出身であるから、

きっと先祖が読んでくれたのかもしれません。

息子が普通の家庭を持てて、

奥さんに見送られて勤務先に向かい

シッカリした奥さんが、子供を育てながら

1日の家に、、、

かつ丼が食べられたら、幸せなのよ、、、と

子供たちに話せるような、

質素堅実な女性だったら、

息子と言えども、

家庭位は望んでも贅沢とは言えないのではないでしょうか?

大學を卒業後は、新幹線で附属病院勤務をこなし、

新幹線で東京の本院に帰り

卒後3年間の交通費用や、住宅費用は、大変な額になりますが

研修期間の5年間は、一般サラリーマンの大学でと同じです。

46歳になっても、、、貯金のない息子からは、

「結婚する気は当分、、、ない。」

「もう、、、相手を探さないでくれ、、、自分はIKの仕事場がきらくだ。」という。

「君の幸せを願って、医師の大学に入ったときはうれしかったのに、、、。」

独身の息子を残して死ぬのは、あまりにも寂しかろうと思うと、、、

社会の谷間で、仕事だけが生きがいの息子には、いったい何が障害物なのか???

世間一般のように、

医師の免許さえ取得させれば

親の役目は終わり、息子は幸せになると信じていた。

「母さん、、、僕は、、幸せだよ。、、、」

「好きな仕事に従事していて、、、素晴らしい技師さんたちとチームワークも良く

楽しく充実して、働いているんだよ。」

ただ、、、時間が無くて、、、苦しくなる時がある。

働きかた改革をすることも大切ですが、

命の救急の前には、法律道理行かないことが多いのですよね。

時間を、お金で買っているという、、、

昭和30年ごろは、医師の税制優遇がありました。

救急の為には、自家用車も、患者家庭の前に駐車できるワッペンが貼られていました。

北海道の自宅の前には、年がら年中一般車両の駐車が有って、

車庫から右には出れません。

必ず、左のう回路から大道理に出る日々が30年以上続いています。

一度、、、除雪車が通過できなくて、町内の誰かが、通報したのでしょうか?

お巡りさんが注意しに来ました。

その時は、真向いの私が通報したのだろうと、大した剣幕で聴かれました。

裏で、除雪車が通れなくなり。

冬期間の除雪の為の駐車をしないようにとの回覧が回ってから、

前の叔父さんのご機嫌が直り、、、ほっとしました。

我が家の自家用車は、急な出動が出来ないほど、

50歳半ばまでは、目前の両家が路上駐車するので

タクシーで通う事になりました。

そのうち、若き医師の診断のテェックが出来る認定医になってからは

勤務先が、タクシー券を月給の昇給の代わりに配布するようになり

駐車は車庫入れの時だけ、どかしてもらっています。

郊外の暮らしは、硬いことを言うと、近所の付き合いがうまくいかないのですよね。

東京で24まで過ごした私にとっては、

路上駐車なんて、、、考えられない世界でしたが、

そのようなことを言っていたら、、、村八分になるのが関の山です。

何を、、書いたのか解らなくなりました。

これは日記帳です。

弟、親戚、義兄さん。いとこ、甥やだけが、、、連絡がわりに読んでくれているサイトです。

おやすみなさい、、、㋐、あ、あ、、、、朝だ!

私、、、呆けたかしら、、、眠れなかった。

沖縄の、思い出のお城が焼けて、、、ショックの為に、、、眠れなかった。

息子に、、、我が家はお金持ちの医師ではなかったけれど、

君にも、家も、車も、買ってあげれなかったけれど

お父さんは、真珠貝のように

誰も知らない海の底で、

研究と、貧乏と、臨床と、強すぎる仲間たちの必要な医師として

人知れず、、、良い実験をして、

世の中に認められ行く若い人たちの、

応援になる仕事をしたという事を、大いなる遺産と思って、

親は君を精いっぱい愛しても

こんなことしか出来なかったほど、、、

日本の,皆は日進月歩、進化している優秀な人ばかりです。

よそ見をしないで、医師であることだけに、、、

医師をすることだけを考えて、

社会の義務はしっかり果たし、大人として、

素晴らしい仲間たちと、地域の救急の為に貢献してください。

75歳になって、、、夜半に嵐が吹かぬかと、、、思いのたけを書いてしまった。