四十年も前のことです、
猫も杓子も
東京大学を目指して
受験地獄が
青年の心を「夢」と「絶望」の二色に別けました。
今の時代なら考えられない
高度成長期の頭脳が、
東大に、京大に、阪大に、、、
第一期国立大学へと受験生を向かわせました。
しかし、
ノーベル賞を獲得したのは京大でした。
湯川秀樹博士です。
この日から、知人に「秀樹」という名前が増えました。
現在のノーベル賞は
名古屋大学と、
文学者や、
民間の会社社員、
時代は大学格差もなくなりました。
その中で、
「名誉や栄光の為だけではない,,,
青年達が
夢に憧れて
オリジナルな生き方を
ユニークな
国際感覚で生きる時代に突入しました。」
時代は「目指せ大学」ではなくて、
自分達の
「やりたいことを果たすのに必要」な
「指導教授」が居ることや
カリキュラムが押し付けでなく
ゼミが充実している事、
卒業してから出口がいろいろあること。
学生達はネットで調べ、
自主的に
各々の進路の為の大学を
検索する時代となりました。
同級生で、
医学部を受けた友人がいました。
公立の医学部を受かったのに、
北大の他の学部に入学しました。
高校の同級生も2人北大に合格して、
エルムの学園から卒業後は東京に帰郷して
東京だけで大人になった者には無いだろう!、、、と思われる
「北海道の空気」を持ち帰り、
東京の真ん中で
会社のリーダーとして
研究成果を残しているのが、
ネットで見ることができます。
ガンマーナイフがまだないころ、
彼は、
「人体のたんぱく質」に興味がある。
DNAの
「螺旋蛋白」を好きなところでカット出来たらな!
「高分子」が人体を造り、性格や、能力をつくる。
自分の夢は
「医師になって地域に閉じ込められてしまっては実現できない!」
化学部で同じ時間を部室で過ごしながら、
高分子を選択できるのは北大と、、、東北大?・・とか・・・、
いくつかの大学を口走っていながら、
近くの医学部も受験しました。
しかし、
北大にAランクで入りながら、
Aでなくても行ける
「高分子学科」に進み、大学院まで、、、そして研究所へ」
一貫して自分のやりたい事に進んでゆきました。
今、
「北海道の地域医療の為の医師」を確保したいと考えるなら、
地域医療に興味があって、
地域に籠ることが、すなわち、
「その医師」の「ビジョンに向かって生きている」という条件が
必要ではないでしょうか?
その地域の風土病や、食生活からくる病気など、
本格的に研究できる施設が併設されていて、
「本人が研究することで、
『博士号』がとれる条件の地域にしてはいかがでしょうか!?」
若き日に、東大に勤めていたころ、
著名な学術書を残されている臨床教授の医局員が
薬理や生化学の実験をしに、よくいらっしゃいました。
臨床と、基礎の実験室はその頃から
「コラボレーション」していました。
又、私のような、
私立の薬学部を卒業した実験助手が、
一手に実験方法や
データーの作成のための実験を任されていました。
大学からは、
図書館や、施設を使える赤いカードを下さいました。
図書館で外国の文献から、実験方法を調べ、
大学に実験器具を申請すると
注文のオリジナルな実験器具を創って配賦してもらえました。
今のような機器分析の機械がなく、
緻密な手技を持った薬剤師が
卒業時に
母校の教授によって
薬理学部に籍のあった生徒の中から、
職業として紹介されて勤務しました。、
公務員の技官として、自主性を持って
お忙しい先生方の
実験データーを作成していました。
高度成長を遂げる以前は、
大学の数も少なく
、
地域の医科大学が
地域の僻地の医療を担っていたようでした。
しかし現在、
北海道の僻地で臨床だけに従事し、
実験の機会も、勉強の機会もなく、
ひたすら「マルチタレント」並みの
僻地の医師をするでしょうか?
軍医だった父は
戦争で
自宅も爆撃され
オーナー院長をしていた病院も失い、
母が最後まで持っていた
「手術用の鋏み」だけが光っていました。
*******
復活のために、
疎開先の僻地医療に、
従事しました。
神様のように慕われ
相談され、
大切にされました、、、が。
子供の教育のために
渾身の力を振り絞って、
鮭のように、
生まれ故郷の東京に帰郷したのです。
「子供の教育」のために、、、。
そして、忙しすぎる夜、
手術を執刀した後、
患者さんの麻酔が覚めるまで仮眠すると、、、
54歳の冬、
あと3か月で55歳の父は
仮眠しながら永眠してしまいました。
地域医療の大変さを見て育った私達兄弟は
父の命がけの死の行軍のおかげで、
再び、
高等教育を受けられ、
大学まで卒業しました。
***
「道民の為の医学校」「道民の為の病院」は、
地域のスタッフだけで創ろうと、、、
考えがちですよね!、
***
医師になる知能クラスの人々の考えは、
「そこに習得るインタナショナルな魅力がないと行かない!ということです。」
日本中から、
医師になりたい学生がやってくる北海道にするためには、
「全日本に通用するパイプがある大学」と
病院がコラボレーションしている事が
「北海道に住みつく魅力の一つ」ではないでしょうか?
道内の学生が
道内の医科大学を卒業して、
本州や、
外国の大学に研修を希望して出ていっても、
再び道内に戻りたくなる「魅力」「力」「パイプ」が必要です。
学生の夢を実現できる
「大きな懐を持つ」ことだと思います。
地域の国立のパイプ、
公立のパイプ
これらが「コラボレーション」しないと、
自立した良い学生は
きっと
「『やりたい事の夢の叶う病院』へ行ってしまうと思います。」
医師を増やしても
地域の公立で、
鎖国のようなシステムにされては
研修の時代に、
他の、
懐の広い大学へ行ってしまいます。
医師を養成する経済的負担だけが
地域にかかり、
出来あがった医学部卒業生は
本州や外国へ行ってしまい、
僻地はやっぱり空っぽという事に
なりかねません。
医療評価の高い病院、
開かれたガラス張りの
人事の病院、
地域に閉じ込められないこと。
病院の艱難辛苦を乗り越えた、
創世記からの医師が、生甲斐を持って
誇りを持って、
医師として、「やる気」のおきる人事が大切です。
北海道は長い間本州の援助を受けてきました。
依存体質が旺盛であった歴史があります。、
せっかく、
日本全国に名前が知られ、
国際的にも通じる病院に育っても、
医師の卒業経歴が
「ローカル色」一色になると、
本州からの頭脳の考えの多様な医師が
閉塞感を持ってしまい、
北海道に必要であり、
「北海道の公立には無い能力」を失う事になりませんか?
本州の大学では、
2年ほどの差別待遇の結果の
修士や博士というのが
40年前は珍しくありませんでした。
昔は大学格差が露骨にありました。
当時、、、
もう時効ですのでお話できますが、
T大学では、わかるだけでも、
Q大、K大、Y医大。医科歯科、、、
N医科大学、、、
G大医学部から
研修生がいらしていました。
廊下では外人の先生が見学に来て、
行ったり来たりしていました。
有名なT講師の先生が
世間で受け入れられていた時代でした。
大学内では、ユニークな先生でした。
50歳を過ぎた助手の先生もいました。
北海道の単科医科大学からも
夢多き先生が実験室に来ていました。
4年在籍しても
修士の称号さえ許されず、
数の少ない
実験用の双眼鏡も
順番待ちでした。
5年目の途中、
北海道に帰られた
さびしい結果でした。
道内医大の先生も、
今なら、
あのような待遇は受けないですんだと
思いました。
T大学の研究で、
忍耐の研究生活の結果
博士号を許された
二期校医学部の大学の先生は
その後、
母校の教授になられて活躍されました。
こうした大学間の格差は
今日でもあるのでしょうか?
「ばあちゃん」になった私には
わかり兼ねます。
しかし、
地域の公立医大と、
道の政治家とが、
「こじんまりした地域の優先人事」で、
地域の医療を担当する医師の人事を
考えたと仮定するなら、
医師という
「自己実現を夢見るまっしぐらな性格の人」を
「将棋の駒」のように配置するという
無茶苦茶な考えに思えます。
時代は、IT革命により、
情勢は3次元のデーターで読み取れます。
自ら「檻に這入る医師」は
いないのではないでしょうか、、、。
自らの夢と希望の実現できる
開かれたシステムの
未来ある人脈と、
パイプを駆使できる環境に、魅惑され
切磋琢磨を目的に
医師は集まるのではないでしょうか?
御金でも、名誉でも、栄光でも、
動かないのが医師という人々のような気がしています。
「ボーイズ ビ アンビシャス!」ではないでしょうか?
孫たちの時代、
大志を持って、
地域医療に人生をかけれる医師が、
地域では総合力で不便な「子供の教育」や、
研究も、勉強も恵まれない地域で
50歳からは体力だけが頼りとなっては
医師は「使い捨ての悲哀を受けます。」
路頭に迷わないシステムを
命とともに「良い医療を続けられるシステムを!」
地域に医者を送り込むのではなく、
そこに「医師の求める何かがある!」
終世、置き去りにならないシステムを
考えていただきたいものです。
英断を持って、
駆使する知事さんが、、、いますよね。
すごい、、、美しくって、
魅力的な、お母さんなのに、、、知事さんです。
しかも本州の大学を出ていらっしゃいますから、
地域一色になることが
時には、
墓穴を掘る医療破壊が起きるという
危険があると思いました。
地域偏重のあまり
人事を捻じ曲げてしまう事も、、、。
功労者を大切にする人事が
「150パーセントのやる気を医師から引き出せる待遇だと思います。」
医師の「やる気」こそ、
少ない医師を補う唯一のエネルギーとおもいませんか?
80歳や90歳のお年寄りは
60歳の医師の方が安心という、
「医師と患者の信頼感」という
「心の絆」があったりします。
現場の医師のチームワークは、
長い間の、相性などからも、
どの先生の患者さんというつながりが
病院の底力だったりします。
政治と権力が先行すると
「現場を度外視した人事」がなされます。
鎖国のように
「世界からの、中央からの置き去りのリスク」があるという事も
感じていらっしゃるのではないでしょうか?
本州と、世界とコラボレーションする人事。
現場からの「地に足のついた人事」
すべては「人」が大切と思います。
歴史の浅い北海道は
長い間、、、植民地のように
補助金やサポートが続きました。
台の上に立っている事を自覚出来ないまま
それが「実力」と思うのも無理はないと歴史は頷くでしょう。
しかし、
プライマリーケアの出来る医師だった私の父の時代
医師は時代と政治に翻弄され過労でした。
「患者さま」という勘違いもここまで来てしまった
患者意識のなせる「訴訟」ラッシュ。
果ては21条のなせる「逮捕!」
医療を現場で理解しない政治は「医療破壊」を招きます。
医師は専門化!、、、
訴訟など、
味方から背後から撃たれてしまうような
「患者様!?の意識の勘違い」は、
小児科も産科も困惑!。
「感謝の代わりに医療費不払い!」
眠る暇のない若い時代、
束の間の時間を
睡眠に充てたくてタクシー移動。
報酬はタクシー代になる激務の研修。
これらをクリヤーしてきた医師を、
政治や地域や自治体で
都合のよい人事を推進しても
専門化した学者の魂を持っている医師たちは、
「自己実現できる環境を求めて去って行きます。」
一度「破壊された「医療現場は二度と戻らない」
「ガストロカメラ」をしますから、
あちらでお待ちください。
老人の患者様はUターンして質問した。
「ガス」も「カメラ」も解るんじゃが、、、
「まん中の『トロ』が解らんのじゃョ?」
医学は「説明が難しい、、、」
うっかり日常の医学用語が出てしまって、、、、(^^!
医師は苦笑いをして「患者さん」に
長々と「胃カメラ」の事を話し始めました。
患者さんが「解りました。」と言うまで、、根気よく。
地域医療の忍耐は体力、気力、忍耐力、寛容。
そして、、、日新月歩の医学の進歩から
ズルズルと置き去られてゆく。
50を過ぎて、医学の進歩から
置き去られた医師を想像してみてください。
地域医療の医師不足は
「数を増やせば解決できるとは思えないのです。」