花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

温故知新

2016-06-28 05:13:35 | Weblog

日大の生薬学の先生が
授業の始まりに

黒板に、、、必ず書いた文字です。

72歳を過ぎても

この言葉が、人生の旅の友達です。

学生時代は。手塚治虫 さんの
漫画に浸かっていました。

作品を読んで、葉書を出したら、
自画像漫画入りの、葉書をくださいました。

息子はブラックジャックを読みふけり

アドルフの漫画を枕に
眠りこけていました。

最近は人工知能に負けた棋士の事が気になっています。

人工知能は、いろいろな分野に進出し、

人工知能が操作して、心や道徳や、時間軸を無視した
機械が造る人工知能の時代が来ると、

地球は、どうなってゆくのでしょうね?

昭和42年の卒業近いある日、
日大の大学院の教職課程の講座に出席していたら
教授が「生命科学」の講演の案内を配っていました。

国家試験やら、卒業試験やら、
寝てるのか、起きてるのか、わからないような

ロングランの「試験勉強の最中でした。

気分転換に

「生命科学」の講演に行ってみました。

生身のタンパク質、アミノ酸のブロックを組み立てて

最後のピースが埋まったとき

果たして、科学の産んだ生命は「心があるのか?」

そして、心が科学にとっては無用なものならば

ロボットが進化して
ロボットの人工知能がロボットを造り始めたとしたら、

生命体という概念は

金属や、鉱物、イオンの変化や

放射崩壊、あらゆる科学の連鎖の動きも

生命の鼓動と考えて

「新しい生命」が

やがて地球を支配して
コンピューターは学年も、年齢も無関係に

人工知能を扱える者が、地球の生命体として

名乗りを上げる、、、???

之は、手塚治虫氏の漫画が伝えてくることと、
ほとんど同じ内容であった。

イギリスはEUから
やがて独立してゆくだろう。

しかし、人工知能は地球をつなげてゆくだろう。

東大も、京大も、七帝大も、学問の分野は

明日は、アフリカの奥地の、
P.Cを使いこなす人工知能に

席を譲ってゆくだろう。

そうなると、、、

地球には、
人間という生身の生命体と
ロボットという、機械の生命体と、

ロボットが設計して創る人工知能という

「第三の生命体」が

地球を支配してゆくことになる。

「温故知新」は生身の生命体にのみ有効な
道徳や、感謝や愛の心が香りとして

闘争の空気を遮断していた。

しかし、、、人工知能が産まれた今日。
「第三の生命」には

愛はない!
道徳もない!

論語も儒学も老子の教えも、、だるまもいない。

人間が、生身の体力と五感と意志と、訓練と忍耐で

輝く時代を造り続けて、今日に至った社会は

人工知能の支配する無機質の新生命の地球となるだろう。

各国が「自分の国だけ良ければ成り立つ」と考え始めたら

人工知能を野放しにするのと同じではないだろうか?

地球が、人工衛星と、パソコンと人工知能で網羅されている今日

ルネサンスのような一部の地域の復興は無いと思える。

否応なしにつながっている世界中のパソコン。

スマホ。
携帯電話。

イギリスに「新しい独立」はありえるのだろうか?

心も感情も、道徳も、愛もない
人工知能の支配する地球は

全てを飛び越して
アミノ酸のチェーンを
好きなところでぶつ切りにする

ガンマーナイフを持って、

機械大国を創り上げるのではなかろうか?

人間が人間である証は

温故知新、、、の言葉が有効な

アミノ酸生命の間だけではなかろうか?

新生命の制御ができるとしたら、

「愛」しかないと、、、気が付くのです。
理屈を超えた「愛」の力だけが

新生命の支配する地球を取り返せるのではなかろうか?


虹が美しい 羊が丘

2016-06-26 22:34:03 | Weblog
25日、、、

良いことがありました。

虹がかかたのですよ!

土砂降りの続いた寒い初夏の日

想定外の出来事で

心が右往左往していた時、

息苦しくなり

霧雨に代わった外に、飛び出しました。

羊が丘の見える東の空に

大きな虹の橋が架かっていたのです。

孫たちがよちよち歩きのころ

小樽の海で見た虹の橋の感動に

タイムスリップしました。

あの橋を渡れば

夢の世界がある

子供のころ

虹を追いかけて

走ったけ!

しばし見とれて、霧雨に濡れていた。


父の日

2016-06-19 02:58:46 | Weblog


一郎さんが日本中のみならず、
世界の父子に大きな贈り物のヒットを
記録しました。

TVにかじりついている父の日は
一郎さんの話題で、熱帯夜の
父子の共通の話題となりました。
名古屋空港の近くの一郎さんの実家は
一郎さんの「新記録」で
又、、、又、人々の
観光名所としてしばらくは大変でしょうね!

おめでとうございました(^^、


NHKの太宰治の人間失格裁判の番組を見て思ったこと

2016-06-10 10:39:03 | Weblog

立場のあるエリートばかりが円陣になった裁判は
裁判官自身の人生観と言う

避けられない自我の色眼鏡の景色を紹介されているような気がした。

アカデミック的には、勉強的には、どなたも教授であるため
私のような、無冠の孤立した主婦は
本来なら、発言を許されないと思いますが、

色眼鏡を持たない、単なる読者の主婦も、円陣の片隅に入れて
感想を述べる席を設けると、、、王様は裸だ!と。

あきれた素顔の太宰治をキャッチしていたかもしれませんね。

横光利一の本に

「蠅」と言う作品があります。
又、覚書には「笑いって、、、何なんだ?」と言うページがあります。

大阪のお笑いとは、、、全く異質の笑いをいいあてているな~~~と
若き日には、、、感心して読みました。

太宰治の「人間失格」には、、、私は笑いがあると思いました。

道化が講じて

人間そのものを道化の神髄に浸って生きた、
人間失格に生きることそのものが、、、太宰の道化であったと、、、

精神病院に入ったからって
所詮、診断も、判断も「人間業の範囲じゃないか、、」

社会システムそのものを、
だるまの帯どめのように
転がして、、、遊んでいる

孤独と言うおもちゃ。

非合法活動と言うおもちゃ。

自殺ごっこ、、、。

純愛ごっこ、

自虐ごっこ、、、

全て、どれもこれも、やり散らかしの申告ごっこ。

之が、人間の丸ごとを自意識高く鳥観して

孤独を勝手に孤高ごっこに道化する。

パラドックスのような意見を申し上げてすみません。

でも、私には、
太宰治の「人たらし術を最高に駆使されても」

私なら、好きになりません。

でも、人として、
神の前にも、仏の前にも
あまりにも不完全なうちに花咲こうともがく

未熟としか表現できない幼さを

母親の心のように、、、涙で見守りながら、

「あんたは、なんで、、、一人ぽっちなの。」
左手と右手が。同格に合わさってこそ

音、心、五感、痛さも、快さも発祥し
自分の存在に気付くのに。。。

あなたは、片手で。。音が出ると信じているのね。

一人ぼっちで、道化の世界は、
あなたの存在ではない、、、

存在でない「人間界を道化する」

人間失格ではないけれど

かたくなに「愛」を知ろうとしなかった

俺俺俺、、俺。

人は、、、俺を捨ててこそ、
初めて、、、

王様は裸であると、気が付くのではないでしょうか。

大切な「気付き」の光が差し込んでくれなかった

無垢を演じた、、、無垢でなかった太宰だと。

中学の時、小岩一中の前の図書館で見つけた
人間失格の、、、幼い読書感です。

之は、自分のブログに書いている
私個人の日記の
「太宰の感想」です。

百万の人間に 百万の太宰治の感想があれど、、、

否定は一切いたしません。

しかし、、、

自殺は人殺しと同じで、
「じぶん」という人間を殺すのですから

罪があると思うのです。

罪にならないためには

「精神病を患う入院患者」になって、

自分の限界の「人間そのものの道化」に挑んだと

考えられなくはないと思いました、
太宰にとっては、かかわったものすべてが
自分の分身として、道化の道具に過ぎなかったのではないだろうか。

狡猾さも、自覚しないながら、
太宰に住み着いたあくまではなかったのか?




札幌は今日もストーブを焚いています

2016-06-05 03:50:24 | Weblog


確かに6月ですよな?
寒すぎませんか?

ストーブを点けました
やっと、、、
くしゃみが止まりました

この寒さの中
山林の中に
何ぼ何でも
しつけと称して
いたいけな少年を
置き去るのは

孤独と恐怖と不安と興奮を
一時に与え

冷えてくる気温の中に
肉体の限界を与えるような

親のしつけは
自分の気に入った従順な
ワンコになれと

支配してるのと
同じのような気がしました。

子供は親を選べない。
親は、自分の分身と心得て

生きてゆくことは、
大海原に浮かんだ
各人の小舟と思いませんか?

同じ波が当たって砕けているように
子供と大人は
同じ大きさの人格があるとおもいませんか?

しつけと称して置き去られた
くりくりの瞳の
メンコイ子供には

ちゃーんと神様がついていらしてくださった。

ホット、胸をなでおろし

子供の持つ運命と森の神様の愛は
万人の親に、
   *******************

親の満足のための鉄槌を
育児の手段と思うのは
大間違いと言う結果を提示した。

小さな命が、
自ら生きてゆく知恵を
神は
愛した。

子供は未来に向けて放たれた矢のように

親はくっついてゆけない。
素晴らしい瞬間であった。

**************************


育児って、、、言葉そのものが
おこがましく
しつけと言う
目線の高い言葉さえ

木の葉のように
愛の大木から舞い落ちた瞬間だった。


森の神様の愛、、、

自衛隊の感謝のマットレス
飲める水道水

それは、愛と言う
心の宇宙で包みながら
子供の成長を見守る事でしょうね。

子供はワンちゃんではないから

******************

親の想いどうりに
しつけるというのは
ちょっと違うような気がします。

**********************

しつけるのではなくて、
子供のの習性や、能力に気が付くように

親の方で、
視点を多く持つように
色々な体験をしながら
謙虚に、
周りの様子や時代の考えや
はたまた、
お年寄りの知恵を借りて

子供の中に
自分の時代にはなかったものを
発見し、、、気が付く、、、気付き、、が
親子で、人生を旅する感動だと思うのです。

子供がいろいろな行動を通して
当面する事をチャンスとばかり

教育して、
人間の社会に溶け込ませる工夫が
大切ではないでしょうか?

しつけではなく
わかるように、、、努力して
教育してゆくことが大切かと思いました。

置き去りにして、、、孤独にするのは
教育ではなくて
しつけのための体罰ですから

ワンコ並みの頭脳の動物には
もしかしたら
人恋しさの為に
遠吠えをして

しつけられてしまい、
すり寄って、ぺろぺろ服従するかもしれません。

之では、、、
親が子供を支配することになりかねません。

支配と教育はかなり
心のエネルギーが
異なると思いませんか?

支配は親自身のためのエネルギー放出だから
自分の満足が
目的になってしまいませんか?

子育てで、
気が付くことは
5歳になったら、
プライドの大きさは
大人と同じ大きさであるという事です。

頭の上に手をやると
払いのけます。

教育は、不屈の愛で
子供を導くためにも、

何十倍もの努力で親自身を磨き上げないと
子供はついてきてはくれません。

説教すれば良いのかと思った時期もありました。
目をぱちんと開けて
ママの私を見つめて
まんじりともしないから
反省して、
聴いてくれているとばかり思い
モンダイニなっている行動は
どうやったら正かったのか
説明していたら、

息子は、、、言ったのです。
「ママ、、、いつ終わるの?」

それ以来、説明しても、、、だめ!、、と
思い知らされました。

子供は、、、放たれた矢のように
未来に向かって生きている!

私が生きた過去の教訓は
PHSの時代の説教でした。

まして、、、しつけのための教育等
大人の時代遅れの正義と称する
自己満足の愚かさが露呈されました。

子供には後ろから附いてゆきながら
子供の中に
新しい空気を発見しながら
大人も大きく育ってゆくことではなかろうか?

管理教育にも似た
大人の身勝手な思い込みの
目線の高いしつけは

今回のように
回りが迷惑な結果を
起こしてしまいます。


自分たちの育児を振り返っても
未熟だったと思います。

置き去りにした親と違う点は、、、

一つ。

絶対に、目を離さないで
取り返しのつく失敗は体験させ
苦い思いを本人に感じてもらうチャンスを
見守りながら
奪わなかったという事です。

いかに、、、
多く体感させて

気付きに導くかという

孤独な格闘だったような思い出が
甦ってきます。

どんな小さな、、幼い子供でも
親の思うとおりにはなりませんし、

思うとおりに支配してはならないと思います。

見守り
、やって見せて、
やらせてみて
失敗を糧として、
聴く耳を養い

一歩一歩、、、導くような気持ちで

一緒に居てやることが

親の役目だったような気がします。

美智子様が
親王を出産されたときの
御歌に

子供と向き合う
母親の姿勢が
深く、感じられて

私も、子供は預かり物のように
私ごときに預けてくれた小さな命を
天に感謝して
育児を天職と思って
根気よく
息子たちと向き合いましたが、

息子たちの方が
一枚も、二枚も、上手でした。

私の方が
幸せは、お金でもないし
贅沢なものではないという

社会に仲間にしていただいて
自分の居場所がある事だと
息子たちから
教えられました。

しつけのお父さんは
目下、自分の居場所を
学習することになりそうですね(^^!

当時の
ミッチーブームの世代の親は
美智子様の育児を
お手本にと思いつつ
教えられることが多くありました。

しかし、、、
育児と言うのは
千差万別の条件下で
思うようにいくことなんて
めったにありませんでした。

にっちもさっちもいかなくて
育児の孤独に泣いたものでした。

子供を育て、社会に戻すという
育児を通して

大人になれたのは
親たちの方でした。

もう、、、置き去りや
体罰の育児はやめましょう。



髪なり

2016-06-02 00:39:21 | Weblog


肩が思うように動かなくなってから
久しくなる

一番困るのは
髪が結えない。

大学時代に
父に早逝されて以来

髪が
記憶を覚えているから
切らなかった。

家なし
車なし
冷蔵庫なし
風呂なし

、、、、

ただいま勉強中という

それほど、、、何もなかった時代も
髪は覚えている

あの時以上には
せっぱつまった
暮らしは来ないと思うから

髪は記憶のメディアの
喜怒哀楽のファイルにも似て

背中で、休んでいた

日ごとに記憶が髪にコピーされ

明日の為に
私の頭脳は空になっていた。

ロン!

肩を痛めてから、
短く切ってしまった。

昔のことが消えてゆく。
過去の事も消えてゆく
記憶の痛みは
バッサリと
わが身を離れた

然れども
肉体の痛みは
筋肉の断裂が
瘢痕化するまで
とんやは下ろさないと
外科医の夫は言う

ダルビッシュ選手だって
2年も頑張って復帰した!

痛みを乗り越えた者は
大人になる!

今でしょう!
72歳になって
社会的に
大人の世界を
垣間見る思いがする。

20束ほどに髪を束ねて

束ねたゴムの
1センチ上の部分をカットする。

根気よく
一束づつ切ってゆく

そして、、、
50年以上も
長くのばしたままだった髪は

おかっぱになった。

気持ちは若返った。

肩の痛みも、
記憶の痛みが消えて

サーキットが途切れた以上
痛みとしての
認識が薄れ

きっと、、、よくなると
信じることにした。



この菊の絵は
赤ちゃんの頭ほどの
ムチンが
お腹の中を浮遊してたため
入院した時。

オペのあと

病室で、
御みまいにいただいた菊が

生きてる自分の
分身に思えて
葉書の裏にスケッチした。

素直な、
毅然とした 菊の花
一つ一つの花弁は種を宿し

独立独歩の花弁が集まって
美しい菊の花となる

私自身はこうありたいと
菊の花には
一歩も二歩も さがっています。

まして、皇室のように
真っ白な菊の御紋を見上げるとき

陛下も、美智子様も
激震の九州に
被災地見舞いをされ

国民と一緒に生きてくださることは


畏れ多く、頭が下がります。

白い菊を描くことは
どなたにも無理かもしれません

菊の花の神々しさに

両手を合わせて

御無事をお祈りしました。

ご高齢のお体に
ご無理なスケジュールでないことを
祈るばかりでした。

デパートも街中が
ミッチースタイルの
マヌカンで華やぐ中を

家族で過ごした
東京の生活を想いうかべ

髪とともに
着得ない記憶のあることが

時代の中に
今、私も生きているという事でしょうね、、

きっと、、