花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

hanyuゴールドメダリストの描く光の余韻

2014-12-23 18:47:17 | Weblog

天才の選手のことを、日記帳のブログにつづるのは

ほとんど、、、野暮なことといえそうですが、

氷のリンクに、透明な妖精が舞うのですから

言葉には表現できません。

たまたま、激務の引越しの一休みにNHKのTVをつけました。

「花は咲く」を 舞っているではありませんか!

花の妖精のように、光のラインを描きながら


再び咲いた花を、未来の女性から受け取って
復興の祈りを舞ました。

この青年が、先日、怪我を押してリンクに立った時、

私はTVのスイッチを切った。

女性とか、男性とか、性を超えた妖精だった音楽と舞の光のラインが

現実の「男」として、火の玉のような闘魂が血を流していたのです。

圧倒されて、思わず、スイッチを切ってしまいました。

金メダルを取るという、偉業をこなす選手は

リンクの上の妖精は、幻のような

精神の強さが描いた「さくひん」であって、

彼自身は。まさに男の闘魂の火の玉であったことに

びっくりしました。

リンクの氷も解けてしまいそうな

炎の舞がゆらめき、倒れ、立ち上がりました。

そして今日、

あの日は夢であったような

花の少年の光の舞が、復興を祈っていましたね。

わたしだけのつぶやきの日記帳に

復興を果たした羽生さんの舞に魅せられた事を

記しておきます。



お気に入りの東京のマンションよ、、、ありがとう。

2014-12-22 22:31:01 | Weblog

小学校から、大学まで、東京で過ごした私にとって、東京は故郷です。
特に、飯田橋を中心に、九段、新宿区富久町は父の育ったところです。

父の代々のお寺さんは弘法大師の像があります。

中野坂上からまっすぐ行ったところです。

3年で帰るはずが、70歳になっても帰れなくなりました。

でも、息子が東京の医科大学に入学したとき、

家賃の高さに驚いて、いっそMSを買い取った方が
同じ広さが5万ほど安い支払いになるので、

買い取りました。

早朝から、深夜まで
薬剤師として常勤して、とりあえず頭金をためて、
ローンを組みました。

去年の春、ローンも返し終わりました。

老後は、冬はここで暮らそうと、夢見ていたのですが、

70歳という寄る年波には勝てません。

息子も40歳なのに、
自宅も買っていませんし、

自宅も、車も、ないし、転勤なのか、
帰ってくるのかもわかりません。

世の中には、この場所から、育つ学生さんも多いと思います。
マンションも、リホームされて、
命をリフレッシュして、
人様のお役に立つのならと思いまして、
このたび、売りました。

買った値段から、買ってくれた人が、リホームする値段を引いて

新しくできる値段で売りました。

このマンションのお金は、

被災地とか、国益の為に使ってくれると思います。

ありがとう!私の、、、空間















選挙の結果は、未来に心が金持ちになるように、祈ります。

2014-12-15 01:35:54 | Weblog

赤穂浪士 討ち入りの日ですよね、、、14日は。
まだ見続けています。15日の午前1時45分、、、

阿部さんの意志の強さの「この道しかない!」、、、、、

人生は産道を出る戦いで、、、初泣きし、
70歳になって、涙は出ませんが、

日本という、、、切磋琢磨して、勉強して、
日本という小さい領土の資源のない国を

世界から来てもらえる「おもてなし」の心が

長い、、長い、、歴史の光の中で

侘びと寂びの間接の光が、近代の文化を借景に

日本の国全体が、天然の劇場になり、花鳥風月、季節は巡り

回り舞台は終わりのない心の旅をいざないますね。

この国が、かって本土決戦の焼け野原だったなんて、

信じられません。

でも、、、復興した町は、北から南まで

背広姿の会社のように

似てますね。

世界遺産になる前の

南紀の山の中で疎開し

戦争の傷跡が癒えてゆく経過を

子供ながらに、見ながら育ちました。

朝露の光は真珠が昇華したごとく

透明の心を吸い込み

昼顔の大きな花と、乾ぴょう干してる陰と陽

倍賞千恵子さんの「下町の太陽」が

戦場で生き残った人たちの、

一度壊れて、、、再生した命の輝きが眩しいほどに美しく

ロマネコンテの香りに酔いしれ
ドイツ製のピアノで、ムーンライトを奏で

戦場で3人の死んだ子供の灰も、持ち帰れず、

木端微塵になった心を抱いて、

父は、母の心の故郷に疎開をした。

南紀の川は、どんなに孤独な心を抱えて帰ってきても
輝き、瀬を登る綾が煌めき、

カワセミが空の光を心に投げ込んで線を描く。
夫として、父の優しさは、
母の故郷で、村医師として、

あたり七か村。無医村の唯一の医師として、
朝から深夜まで、戦争の傷を抱えた人たちと
ともに居ることでした。

晩年、故郷の東京に帰ってきて、、、三度目の開業

慈恵会医科大学卒業の父にとって
子供の大学進学の為、
南紀を去るのは、、、耐えがたいものがあったに違いない。

お父さんにはね
戦場でも、
兵隊さんが皆、親切だったんだよ。

敗戦の直前、

塹壕が、あちこちに掘られ
「軍医殿は、早く塹壕の奥に入ってください!」

そう叫んで、、、皆は戦いに出て行ったんだよ。
塹壕には、死んだ人が降ってきて、

最後にその上から、バリバリバリ、、、て、撃ってきたんだよ。
お父さんはね、折り重なった、、、戦死した英霊に守られて

日本に、最後の舟で帰還できたんだよ。

お母さんは、お前を抱き、防空壕に入りながら

故郷の南紀にたどりついたんだ。

泣いた赤ん坊は、日本の仲間から、口をふさがれたんだよ。

お父さんは、心が貧乏になるという、
戦争の極限を見てしまった。

もう、、、とっくに、お父さんは、、、一度死んだのかもしれない。

たぶん、、、故郷の大自然が、お母さんの心を
呼び戻してくれたんだと、、思うよ。

戦争は、二度としてはいけない。

戦場の日々のことを思うと、

バタバタ三輪トラックで、迎えに来た患者さんの家族に連れられて、
山奥の、そのまた奥に往診に行って、

の人の健康診断に一日かかっても、

平和なもんだよ。

一度死んだお父さんが、
再び、生きてたんだと!思えるとき、
自然の大きさに気が付くよね。

父は、村中から、慕われ、尊敬され、愛されていたのだと、、、思った。

東京に帰ってからは、

戦争が終わっても、我が家の戦争が始まっていた。

多くを語らずとも、14年後に、54歳で
父は、過労死をした。

戦場、、、疎開先の激務、、、東京での開業、、、
健康保険の保険制度の始まり、、、

戦前は、医師は国に医療を提供するオーナーであったが、
戦後は、算術のできない昔風の父のような医師は

医療制度、従業員、年々バージョンのアップする医療機器の購入など、

国の先導する医療制度は、患者さんの主張はともかくとして
見えないメンタルな部分や、無料奉仕の舞台裏の、
部外者には見抜きようのないリスクがあっても、

数字は、時間のない医師の代行できることは、金を惜しまず
時間確保の為に、他人に任せざるを得ない。

これが、、、、

国から見ても、必要に迫られた健康維持のための雇用
とは、判断できず、税金に跳ね返り、

とうとう、、、去りゆく開業医が出始めていた。

働いても働いても、従業員、事務屋、公認会計士、税理士、、、税務署と
手におえない、賢くて訓練された、人々との収入の折半に
生き残りの子供4人の大学進学に挟まれて、とうとう、、、負けてしまった。

牧畜犬が、羊を、主(国)の言うままに

狭い毛刈りゾーン、、、ジンギスカンゾーンに追い込まれて、
女性や、年寄りのセーターになるがごとく、

自分の時間は、、、丸裸同様であった。

戦争は、父を54歳で急逝させる健康へと
人を追い込む。

大学時代、ラグビー部でタックルしていた父は、、、
私が19歳の時に、死んでしまった。

多くの、戦場での、皆も、父と同様、

泣き笑いの戦いの人生を歩いたと思います。

医師から時間を奪われてしまえば

お金で、他人に頼むしかありません。

こうして、一見華やかに見える医師の家庭の交流は
贅沢に勘違いされてしまったのでした。

信頼も、信用もされ、尊敬もされた父ですが、
早く死んでしまっては、
せっかく「名医の腕があっても、、、」

これから、、、もっと人々の心の支えにならねばならなかったのに、

お父さん、、、あなたは54歳で逝くなんて!

自分が、、、もったいないと、おもわなかったのでしょうか?


戦争は、、、絶対に起こらない日本にしてください。

戦争で失うのは、心と健康ですから。

父の50年回忌に誘われて

2014-12-13 22:09:02 | Weblog






弟が、生涯にわたり、法事をしてくれました。
感謝に、表現する言葉もありません。

今年も、厳寒の2月、法事をするので、姉さんもいかがですか?

ありがとう、、、でも、、70になった今、
ヒコーキは、飛べない日が多いので、
参加できるかは、難しいの、、、。

お姉ちゃん!、、、昔のお姉ちゃんなら
そんなこと言わないで、、、来てたよね。

、、、、、、、

その通りです。
年のせいではありません。

お父さん、、、、いつも一緒にいますよ。

弟よ、、、ありがとうね!


2隻の舟

2014-12-12 20:47:50 | Weblog

中島みゆきさんの、、、この歌が心に染み入ります。

まっさんの物語でも歌っていますよね、

ほとんど口には出しませんでしたけど、

この方の歌は、ぞん底に居るとき、カセットテープで、何回も聞いていました。
人生には、山あり谷あり、、、、ぞん底になるときってありますよね。

あたりまえのことが出来なくて、
あたりまえのことをするのには、

家族とも、如水のごとく、各自が自立していながら、、、
同じ遺伝子のテレパシーで

一枚岩のように、、、一つです。
だけど、、、体は各自、、、個々に離れている。

母子といえども、時はすべてをつれさってゆく、、、

中島さんは歌う

なのに どうして、寂しさを 置き忘れてゆくの、、、

いくつになれば、ひと懐かしさを うまく 捨てれるようになるの、、、

40歳ごろの感情は
まさに、胸をえぐられるように、、、言い当てられていただろう。

******、、、

そして、今は この歌詞が、胸に来る。

敢え無く わたしが 波に砕ける日には

どこかで お前の舟が かすかに きしむだろう

それだけのことで、私は海を ゆけるよ、、、、

24歳で北海道に嫁いでしまった私は

65歳を過ぎた母を、知らない。

里帰りもしないまま、母は81歳の生涯を閉じた。

私の帰りを待っていてくれただろうか?、、、

母が亡くなるとき、私の舟は、大きく傾いだ

私の舟は、星空の海に向かって きしみながら 母の舟を追っていた。

親を思わない子供がいるだろうか?

親を慕い 親を訪ねることが出来たなら

大人になった激流は乗り切れない

母さんの舟は大きく傾いでも

振り替ええてはいけない!

越えて行け!

この波を

お前を待っている人がいる限り。

中島みゆきさんの 歌の解釈はまちまちだと思うのですが、

時代は廻る、世代交代、ゆずり葉、立ち枯れの菊

寒菊や、、、纏うは、、己の光のみ、

生きてゆくもの、 時代から消されてゆくもの、、、、

世代交代は、遺伝子の音叉が、遠く離れたところで響きあい

親と子の、見えない絆は、漆黒の闇の中から光に向かってゆく。

中島みゆきさんの歌のことを、、、、胸から胸に伝えた愛が

愛が、、、わたしを滅ぼし、、、母が生まれ生きてゆく。

そのような受け止め方をしながら、、、息子と一緒に

別の場所で、聞いているのです。

28個目の宅急荷物を発送しました。

2014-12-10 21:52:54 | Weblog
こんにちわ、一年ぶり、2回目の投稿です。
ここ、文京区のマンションは、30年の歳月を地域になじんできた、レンガ色の庶民向けの

「我が家の息子の、、、文京、、、の隠れ家でした。」

祖父の代から、この辺りは遊び場でした。
川中島の合戦で有名な、、、上杉謙信のゆかりの神社も、
父のかくれんぼの思い出あふれた場所でした。

何を隠そう、、、父の小学校からの友達が、
医院を開業していたり
幼馴染の下駄屋さんも、健在だったり、
ここにいると
、父が散歩に連れて行ってくれてるようで幸せでした。

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リハビリーの一年間でした。

2014-12-05 00:27:16 | Weblog
わずかに11人の方だけが、一年間も更新しなかったサイトに来てくださって。
知らない広告だらけになっている「花鳥風月」を今日見まして、、、、、

いきていたんだなーって!

感慨無量です。

私が、自分のことだけしか考えてはいけない、リハビリーの毎日は、孤独な修行でしたよ。

医師の娘に生まれた日から、父も家庭には透明人間でした。

医師だけとは結婚しない!父兄会にも、学芸会にも、運動会にも、入学式にも、卒業式にも
父は、来なかった。患者さんに追い掛け回されていた。

さみしかった。兄も、弟も、それでも医師になった。

私も、医学部を受けた。幸いにも、現役で合格した。
「母は言いました。『やがて嫁に、無料であげなければならないのに、女医にする余裕は
我が家にはありません!、浪人中の兄や弟は、あなたみたいに、嫁に行くという
逃げ場はないのですよ!。』

早稲田を出て、お嬢様短大の教授をしていたおじさんが、有名進学高校の内申書だけで
僕の勤めている短大は「特待で、合格だよ」と、茶々を入れた。

弟のことを考えると、親父さんの健康状態を考えると、女医なんて。。。。

死ぬほどなりたいわけではないし。

それよりも、女性であることをキープしながら、医療を側面から応援して、
いつも兄弟と会話になるのは薬学だと思いました。

正解でした!

私が大学に入って、19歳の時、父は、最後の患者さんの手術を終えて、
麻酔が冷めるまで、起きているから、、、と連絡を最後に

早朝、仕事の続きの休息の延長で、、、本人は死んだこともわからないまま。。。
たぶん、明日の手術のイメージトレイニングをしながら、
長き眠りについた。

弟は運よく、ほんとに!!!運よく、やっている問題が出題されて、
難関の千葉大に受かった。

嬉しくて、弟の合格手続きに、姉の外野である私は、大はしゃぎでついて行った。

おめでとう!、
本来なら、医師の息子はゆとりがあるはず。

しかし、弟はすでに父がいない。
七年間の大学をどうやってクリヤーするか?

人間一文無しの中からでも、夢を追い始めると、一緒に巻き込まれて
夢を見てくれる、家族も友もいるもんだ!

弟が医師になって、国立がんセンターの黎明期に、東芝の技術陣と
老化に寝泊まりしながら、家庭を振り返ることもなく、

自分が医師になった理由を見つけたと言わんばかりの打ち込みようで、
市川平三郎先生について行った。

口を開けば、「患者さんのリスクの少ない画像診断が、実現する、いや!!!
僕らの手で実現させるのだ。!

彼は無休の何年かのち、擦り切れた背広で、
金が限界を超えるほどなくなった。
夢はこれまでか。。。。
稼げる病院に勤めて、患者さんを診ても、患者さんの根本の痛みをとらねば
僕が医者になった意味はないんだよ。。。。。

ボヤキが始まったころ、奇跡が起きて、彼はスタッフとして
月給がもらえる男になったのでした。

何もしてあげれなかった姉ですが、
弟が、自立して、食べてゆけるスタッフになれたことは、感激でした。

それから、何年かたって、がんセンターの検査を受けて、
赤ちゃんの頭ほどのムチンの満たされた卵巣腫瘍を、弟に指摘され、

医師の家内として、こんなになるまで、なぜほっといた!
その場の机から、外科医の夫の勤めている病院の手術室に直送された。

長い間、何キロもの腫瘍を抱えていた骨盤内臓器は、当然下垂していた。

下垂しているのに、忙しすぎて、子供を造った以外は、擦れ違いで働いた夫婦は
世にいう「セックスレス夫婦」でもあることが、余儀なくされていた。

特に定員に満たない創世記の巨大病院の外科医の夫は、住処は病院であったから
孤独な育児、孤独な妻と、感じる暇のない、マルチタレントの
都合のいい女と完全に間違われる実態の結婚生活だった。

家に帰っても、くたびれて爆睡している姿が正月にも普通だった。
タイヤ交換も、屋根の雪下ろしも、平らな我が家の防水作業も

5年に一度、シーラーというシリコンを塗り、上から、ウレタンの防水塗料を塗るのも
私のイベントだった。

東京に出て行った息子の家賃の足しにと考えたわけではないが、
巨大病院の外科医は、日曜休日は怪我をしないでくださいと、患者さんに頼めない。
いつもいない主人は、存在していれば、存在が家族を守っていると考えたから、

門番から社長までが守備範囲のような、、、働き蜂の裏方が、実は、一見カッコノいい医師の
楽屋裏であった。

いけばなが好きだった少女時代。。。。甘かった。

そうしてバタバタ働いているうち、

ある日、、、子宮が落ちてきた。

ある日、、、あんまり働く私を、神は男にしてくれて、
男と同じ勲章をくれたのかと思った!(^^!

ふざけている場合ではない。

今回も、なぜそんなにほーっておいた!
即手術室に直行!

当然、、、落ちてきた子宮を切り取って、さっぱりと
男感覚で生きてゆくのかと思ったら、

    違っていた!

実に、子供を3人も生んでなければ、羞恥心で受けられないかもしれないが、

そこは、大の男を出産した母ちゃんの私は、先生に丸投げした。

実に、火箸のようなものをお尻側から差し込み子宮ごとネットで引き揚げて
落ちてこないように固定するのでした。

半年間は、ネットの力で子宮を支えるが、
じわじわと、ネットに、自前の筋肉が這ってネットを筋肉で包み込み
完成するまで、骨盤底筋肉のリハビリ運動が毎日100回。

半年後に、私は5年ぶりに、シーラーとペンキを持って屋根に上がった。

ペンキを塗りながら、四つん這いになって
骨盤底筋肉を鍛える運動の時間であった。

近所の人は、、、屋根に上がって、恒例のペンキを塗っていると思っているのでしょう。
「落ちないでねー」「大丈夫!、煙突に命綱結んでるからー」と。

二階の窓と、屋根のため口会話をしながら。。。

実に、執念の骨盤底筋肉運動をリハビリーしていたのでした。

この夏は、屋根も、ベランダも、土台も、雪囲いも、
執念のリハビリー運動の、相棒として、隠れ蓑になってくれた。

一年が過ぎるころを迎えて、

ほとんど、落ちてくることもなくなった子供たちの故郷の子宮がある限り、
ババではなく、、、母なのだから、

子供とは子宮に住む妖精なのだと思ったりする。

今度、落ちてきたら、
母は死んでも立ち直れるほど、
子供は独立し、
母以上の、若き嫁に包まれて生きてゆくのだと思うと、

身の回りの雑貨、不必要なもの、切り取り、

スリムになって、子宮以外は残ってない母になったとき

55歳の若き父と、81歳まで現役ピアニストだった母が

迎えに来たよ!。。。

それまで、息子たちを取り巻く社会が、
ストレスのない、よい日本になることを祈りながら、

無一文になって、年金のお金も使い果たした14年の
奇妙な出来事を、誰にも言えず、

社会の病魔を治すのは、医師ではなく
警察力かもしれないと

おれおれ詐欺を、哀しい日本の出来事と憂います。

一生懸命育てた子が、人の命を救わんと闘う医師たちの
命がけの舞台裏の家族にまで迫るとき

救いに来るウルトラマンには燃料費がかかるのですよね。

大和魂、仁義 仁術、誠意、福沢諭吉は、、、お金だけの世界になって
真面目に生きる魂は、認められない時代にはいったのでしょうか?

政治は難しくて語れませんが、

あの、、、素敵にハンサムな阿部さんが、
戦争を避けて通れない人ではないと思うのですが、

暮れの選挙は、、、歩き始めた日本を、見守ってほしいものですね

一年分支離滅裂に、出しました。

ごめんなさい!親しい人だけのプログですから、許してね。