38年前後は、戦中に生まれた少数派が
戦後のオール貧困層の時代を、手探りで生きた青年たちの
大学受験の年でした。
昭和15年生まれの主人は、野球をするにも
「ストライク!ボール!、、、」、、、とは叫べずに
「いい球!」「悪い球」、、、と
何とも、、、うなだれたくなるようなグランドの風景だったそうです。」
キット、北朝鮮では、日本に60年遅れて
亜米利加という大国はじめ、世界の連合国に相対して
かっての日本のように、
富国強兵時代を迎えているのかもしてません。
太平洋戦争で敗北した日本は、地面にひれ伏し、
玉音放送に涙と放心に近い敗北感に、
一瞬何もかも空洞になった時代であった。
原子爆弾投下が、長崎、広島、に投下されたとき、
人間が、炭になるのを通り越して、影だけを残して霧散した。
頬杖をつくシルエットだけ残したコンクリーの歩道には
人間が元素になって、化学分解をしてしまった影が残っていた。
敗北して、初めて、大国アメリカとの科学力の差を認識した。
どうして、なんで?日本人もかなりいたはずのハワイに
日本人は奇襲をかけたのか???
新聞の新車発売の折り込みチラシの誘惑のように、、、
戦場には、日本の未来を載せて走る
新車が見えたというのだろうか?
戦場には、人間の心を無視する殺戮しか無かったではないか?
人間を分解する科学力
悪魔の造った原子爆弾が
空中に、巨大なキノコ雲を造り、
広島は元素に分解されたではないか。
戦争は、無条件降伏という、パソコンに例えるなら初期化。
大国アメリカ、ロシア、欧米諸国の先進国。
日本の敗戦直前に参戦して北方領土をロシアの勝利品にしてしまった、
戦争という悪魔さえいなければと思った。
北海道にはロシア語の上手い大学の先生もいる。
ロシア語を話せる若者だっている。
漁業も、医療など等も助け合えるはずと思うのです。
ロシアとは持ちつ持たれつして来れたはずです。
北方領土にいた人々は、今は、、、
本州にも住んでいると思いますが、
もう、、、ロシア領と考えられるほど、
生きた証、生まれた証の島を捨て切れるのでしょうか?
どっちの領土だっていいとは言いませんが
プーチンさんと阿部さんは、、、あんなに仲良く山口で過ごされたし
プーチンさんは、柔道が大好きですし
領土はどちらの所属であっても
其処に住んでいた日本人は、
北方領土を忘れられないと思うのですよね、
ロシア人だって同じだと思いませんか?
だから、、、日本も、ロシアも、
北方領土を架け橋として、
世界の中の兄弟国になって、
イデオロギーに固執しないで
全世界の教育レベルを、無料化して
全世界に、共通の心の価値を芽生えさせて、
近代化や、科学の間違った使い方が
地球上のある種の動物を絶滅させたり
自然のバランスを崩すことにはばからない科学の使い方を
今一度、世界レベルで話し合える教育レベルの向上を目指して
戦いあうのではなくて、
武器の開発や、核戦争への準備金を
地球の永続するバランス保持のお金に回せないでしょうか?
エリートの誉れ高い大学の役割もさりながら、
多くの大学はそれぞれの役割を持っていると思うのですが
実態は、その道のプロしか解らないと思います。
昭和38年頃には、日大のトップの先生に方にお会いする機会がありました。
古田会頭とおっしゃられた、一段違うところの方がいらっしゃいました。
たまたま。私の兄貴が、東大を落っこちて、
日大の医学部に合格しました。
兄貴は未練がましく、て、いつまでもしょんぼりしていました。
母校が日大になるのに日大になじむのには時間がかかりました。
やがて、同級生に「大学が自分を守ってくれる服ではない。」
医学部で、どんだけ、社会に貢献で来るかが、
自分を守るのだ、、というような、入学した学部に誇りを持ちなさい。
日大は、求める者にはどこまでも学問を授けられる道は持っている。
大学の名誉に依存していないで
自分で自分の道を追求しなさいと、講演する先生の考えを聞いてきました。
それからは、
東大の事ばかり未練がましく言うのは減ってきました。
別世界の人生観で生きている日大のクラスの
社会の縮図のような、
戦後を生きてゆく「力と資金、人脈、、、、等々」
マンモス大学と言われながら、
どんな学部もある学校として、どんどん学部が増え続けました。
知的センスと、実力と、お金の力と、
親の力と、先祖からの仕事の既得権や
ビックリするような御殿のような自宅、、、
人脈、、インタナショナルなスケール、、
綜合すると高いポテンシャルエネルギーはに、目を見張る人もいた。
玉石混合の、、、社会の縮図のような大学だったのを思い出す。
入学当時は、学力偏重の受験生から抜けきれなくて
ダイナミックな日大に、なかなかなじめないようでした。
しかし、、、医学部には、驚きの同級生が居たせいか。
全てを兼ね揃えた、ポテンシャルエネルギーの高い同級生に
出逢ったからでしょうか?
東大を受験して、本人も高校の担任も合格を信じていたころは
臨床で生きる父を、消耗品のように言っていたのも、
狭量なうぬぼれが、自己肯定を前提に、
父を評論家的に観ていたのだとおもいませんか?
東大を落ちてからも、
自分よりアチーブの天の低いのが合格した、、、とか、
落ちた理由を東大の配点が、天才が落ちる配点だとか、、、
弟妹の私たちは、病気のヒステリーのガス抜きのつもりで
「そうなんだ、、、」と、繰り返しながら、
中身は聞き流しながら、心のケアだと割り切って、気k流していた。
それから何年か過ぎ
同級生に恋をしました。
その女性は、東京大学の医学部とは違う学部に合格していたが
日大の医学部の方に入学してきていたことを知りました。
兄は、だんだん日大の役割や、
世間での生き方の居場所が
臨床に強い大学であることに
強い誇りを持つようになった、
その女性に逢うまでは、
浮かない顔をして、通学しながら、、
問題集などを未練がましく見ていました。
「こんな、、、開業の施設を残すから、親がくっついている、、、とか、、」
バカボンの言うような事を云いながら、ボヤキの兄貴でした。
それが。同級生の女性の中に
東京大学の合格を袖にして、日大医学部に来ていると
男友達から聞いた日から、我が家に帰って来てからも
3回や4回は、、同じことを言ってはニコニコするようになりました。
間もなく、夏休みに入って、板をいっぱい運び込んできました。
「おい!看板を創るから手伝え!」
弟妹は、ひと夏かかって、兄貴を手伝うことになりました。
地域の角々に
患者さんが、医療施設に迷わず来れるようにと
誘導看板を立てることにした。
白地のペンキを塗る役、
赤い矢印を創る役
字を書くのだけは、近所のプロの看板やさんに頼んだ。
50本ほど、創り上げました。
4人兄弟の、下地塗装と、矢印の赤ペンキ塗装と、
看板屋さんの、さすがはプロの、「上手い字」で
我ながら、満足の笑顔が出た。
父の人柄のおかげで、
「看板を立てさせてください。」と頼むと、
皆、快く、「イイですよ(^^」と言ってくれた。
嵐の日には、看板がいくつか倒れて、
一本離れた通りの内科のDr、が
びしょ濡れになって、担いできてくれてりした。
その先生は、医専を卒業された先生で
父の事を日頃から兄貴のように慕ってくれていました。
父よりは若い先生でした。
父は、戦争に行って帰還出来たものの、
長い間、疎開先で
「田舎の七か村、無医村」の唯一の医師をしながら
そこで人生が終わったかもしれないほど、なじんでいるかに見えたのに、
母校のある実家の在ったはずの東京に、こうして戻れたものの、
振り返れば、周りが温かい人たちに囲まれていたからこそ、
戦後の昭和30年からの東京で、生活が成り立たのだと思いました。
父の、無口で穏やかで、聞き上手の中に、凄い勇気のみなぎる性格が
4人の子供たちを育てることが出来たのではなかったのだろうか?
貧困の下町に、人世最後で、初めての、
個人開業に踏み切ったのは、母の努力も大きかった。
旧いお寺を改装し、庭に在った大きな池を埋め立て、
池を埋め立てた土地を、地元の人が寄付してほしいというので、
無料譲渡をしたら、
開業を何かと便宜を図ってくれて、
トラブルもなく、おまけに、知れば知るほど、大学の同窓生も多く居ました。
近くの開業医の中には、
診療時間の後に、医師会のことなど報告してくれる先生も居ました。
恵まれた第4の人生が、父をよみがえらせてくれた。
母のピアノのお弟子さんには、駅前の大病院の御嬢さんも居ました。
いつの間にか、仲良しになり、医療面でも助け合えました。
「開業はね、一に在宅、二に在宅、三四もろとも五に在宅。」
父は、庭に、兄弟四人で造った三畳ぐらいの細長い池に
縁日で目に留まった、錦鯉の子供を飼いはじめた・
錦鯉の手入れをしながら、ひねもす患者さんの為に在宅を続けて
ポツリ、、、ポツリ、、と
日ごとに増えてくる患者さんを、根気よく家で迎えつづけた。
解放された広間には「白黒テレビが置かれていた。」
空手チョップの力道山のタイツ姿の雄姿の前には
患者さんの家族ごと居間をうずめて、母は麦茶を振舞っていた。
こどもの麦茶には貴重なお砂糖を入れて甘くしていました。
そのうち、TVを見に来ていた近所の家族全員が、
患者さんになって、
空手チョップの真似事をしながら、
鼻水垂らして、風邪をひいて、おなじみの「ダン」???ていったかな~?
こどもの帰った跡には
赤い字で書かれた「ダン」の目立つアンプルが
❤型したアンプルカットとともに、ゴミ箱はあふれかえっておりまして
風邪の季節を告げていた。
「風邪に効く薬なんて無いんだよ、、、暴れまわるのを防ぎ
おとなしく寝かせると、風邪はこじれないんだよ
患者さんはね、、、注射が効いたと思うから、
医者が治してくれたと勘違いしてるんだよ、、、
患者さんは、自分で自分を治すから、
最適条件にしてやれれば、良いんだよ、、、。」
父はいつも謙虚だった。
当時の医療は注射をするという事で、病気だと自覚させていた。」、
今ではあまり考えられない医療だった。
父から学んだ事は、私の生涯の決断に役に立った。
その点、兄貴は、、、
妹にとって、、、本当に厄介な存在だった。
生涯、、、感謝はしているが、恩を着せすぎる。
「お前にはこれをしてやった、、、あれをしてやった、、、
さかのぼってまで、、恩がけてくる。」
お前が赤ん坊の時は、
墓場の真ん中を通り、お前の牛乳を取りに行った!
ありがたいと思え!
僕が中学の時には、ヤギを十頭かって、
戦後生まれた弟の乳を搾った、
早朝には河原に十頭のヤギを追って、草を食わしてから、
学校に行ったんだぞ!ありがたく思え!、、、
お前らが産まれてくる前は
父も、母も、僕だけの父母だったのに、、
、
静岡の天皇様の別荘の近くにある医療施設で、
戦前は、
(宮内庁の方々も入院されていた病院だった慈恵会病院の
医局員だったから、静岡への勤務が当たったんだと思いますが、、)
幸せの毎日だったんだ、、、
お兄ちゃんは、、、
次々と、弟妹が産まれたり、、、戦争で、大陸に行って
言葉の解らん中で、赤ん坊を守らなくっちゃならなかったんだぞ!
聴いているか!、、、」
四男(次男三男が大陸で死んでいるので、実際は二男)の兄さんに、
思わず軽いゲンコツが飛んだ。
よそ見が許されない、、、兄のガスが吐き出されてくる。
戦争は、、、こんなに、
心に鬱積をためた少年を創るんだ、、、ね。
兄は、虫の居所が悪いたびに、弟妹達の所に来て、
難しい数学の問題を解けと、、、脅迫した。
解けないと、、、融けるまでやれ!と言って、出て行った。
深夜まで、質問に来た。睡眠不足にもなった。
本当に、、、嫌な兄貴だった。
戦争がもたらした子供の教育は、
富国強兵の、恐怖政治だったような、、、なごりが残っていた。
東大を落ちたおかげで、一皮むけたのはよかったのだが、
日大に通うようになって、段々と日大の良さを見つけ始めてくるころには
妹も日大に行かせたいと、兄は言い始めた。
私の通っていた高校は、
男子より女子が多かった。
女子は、、早稲田とか、立教大学、東京女子大、日本女子大、
慶応大学が一人、後は大量に
学芸大学、千葉大学、東工大が一人、
芝浦工大が数人、、、記憶が間違っていなければ
現役で北大理類と、教育大、
六ちゃんというあだ名の男子が東工大、、、
女性だが、親友が千葉工大でコンピューターの開発に向かっていった。
もう一人の同級生が、、、
同じ日本大学の理工学部薬学科に進学した。
彼女は、60歳になるころまで、
彼女から見て、北海道という、
よそ者人生を過ごしている「おんなの都落ち」の哀れな同級生に
懲りずに、近況報告を続けてくれていました。
「東京に帰っておいで、、、」言い続けてくれました。
医者しか出来ない主人の事を考えると
東京には、主人の居場所が無いと、、、思えた。
子供を連れて、学門は東京で受けさせて、
インターナショナルな子供に育てて、
主人が本州に渡れる橋になってくれないかとも、考えていた時期があるが、
長男は、天真爛漫な、、、スポーツタイプである。
この子に、無理やり学問の道に行けと言ったら、、、
東大に敗れた兄貴のように、、、劣等感の言い訳マンになりかねない。
幸せになるには、有名大学を狙わせるのは
遠回りすることになると、思えた。
東京の本籍を北海道に移して、
北海道で看護師さんをしていたキュートな女性と
息子は家庭を持っている。
北海道から出ることは、考えの外である。
弟は、天下の名門の「順天堂大学の医学部に入れてもらえた。」
四三歳、、、成ったばかりではあるが、日夜忙しく、、、
未だに独身である。
繊細さと、鈍感さが面白い性格で、
医師の道に惚れ込んでいる。
もう振り返らない、、、振り返る事は闇しか見えないから
何が何でも前に進み、医者としてプロになりたい一心である。
40歳を過ぎてからは、
病院全体からアテニしていただける腕になったようである。
ドクターヘリの飛んでいる地方の基幹病院であるが
大学の附属病院であるだけに、優秀なスタッフからの刺激もあり
いつの間にか、精進の毎日で、婚期は過ぎてしまいそうな年になった。
末っ子で、札幌という手頃な街の手頃な秀才という立場で
人世の、本当の敵は「時間」だと気が付くのには暢気すぎた。
医学にプロになる事だけを考えて、何も振り返らない16年が過ぎて行った。
付き合っている彼女も居ない。
日曜日にTERをすると、、オンコールで自宅待機だという。
大人の魅力は出てきているが、結婚には、乗り遅れそうな呑気さである。
「母さん、、、結婚は、相手がいなけりゃ考えようがないだろう、、、
会ってる暇がないんだよ、、、
そのうち、、候補者が出てくれば、知らせるから、、、、と、
話をそらしてしまった。
センサーが会いさえすれば、、、話は尽きない面白い息子である。
先日も「あなたの膵臓が食べたい」という本の話に、のめりこんだ。
多感な、デリケートな、センサーをしているが、最近は骨太い
頼れる性格が兼ね揃えられてきているから、、、大人になったんだな――と思う。
(^^
プロの域には達するのは本職の医学だけではあるが、、、
中学卒業式には、タクトを振り、楽団を指揮したりもした。
死ぬ気で書くという集中力が実って、
中学生の時は
文章にも天分を発揮していた。
北海道の優秀校と言われる札幌N高校に入学した時から、
オカシクナッタ。+++++++++++;
ジャズ音楽に夢中になり、サクソホンを離さない。
音楽に明け暮れた。
マルタのサクソフォンにしびれてしまった。
日夜、芸術家のような、、、、何かにはまってしまったように
コンサートなど、開いていた。
気が付くと浪人、、、遅すぎた、、、気が付くのが、、、。
予備校から、、、高校生活を一から始めた。
*************************
世間様に役立つ臨床医を目指して
お爺ちゃんの魂が、息子を呼び戻してくれた。
もともとが、親が舌を巻くほど、頭の回転が良い子だったから、、、
何とか軌道修正が効いて、父や祖父、叔父さんや従兄弟とともに
医師の道に舞い戻れたが、、、、入学を機会に
順天堂という、、、迷える魂も入学を機に勉強を積み重ねていった。
良医に導いてくれて幅の広い教育と、
生徒を愛してくれる学校の校風が
息子をすくってくれた。、
息子の迷える子羊だった、、、音楽狂いを
もとの医療一家の「世間様に役立つ、自分も食べてゆける道」に
戻してくれたと、、、感謝しています。
息子も生涯、順天堂につくして
恩返しできるような、プロの医師になりたいと、
もう、、後ろは振り返らない。
御婆ちゃんが、、、国立音楽学校のピアノ科出身で
山本直純さんのお母さんとは親友だったこともあり、
実家にはグランドピアノ、アップライト二台と
あらゆる楽器があった環境だったこともあり、
遺伝子が、高校時代、両方がたちあがったのでしょうかね~~~
音楽で食べてゆくのは、医師になるよりも、、、
特殊な才能が要りますよね、、、
私の人生も、最終の幕が上がり、終わりに近づいてきました。
振り返ると、、、医師だった父の事が浮かびます。
戦争で、木端微塵になった日本の中で、
戦争の赤紙で、翻弄された人生は
父にとっては五四歳まで生きたことでさえ、、、
長生きだったと感謝しています。
戦場では、何を食べていたのかわかりませんが
ひよこのように、骨が出ている写真もある。
復活にてんやわんやの我が家の様子を
お喋りしましたが、、、
日大に入学して、父は卒業まで生きてはくれなかった。
兄貴に、お金を貸してほしいと言ったら、、、
母以外の面倒はみる義務はない。
財産を放棄すれば、授業料だけは払ってやる、、、という
取引になった。
「東大に入っていたら、国がお兄ちゃんを仕上げてくれるレールに乗れるが
日大は私立だから、自分も金が要る。
妹と言えども、お前は「親無し子」になったのだから
父の残してくれた権利を、僕が買ってやるから
さっさと卒業して嫁に行って出て行ってくれ」と
印鑑証明と印鑑と交換に、日大の卒業までを約束してくれた。
我が家では、腕力があり、声のでかい男が
ことごとく、勝利した。
大学さえ出てしまえばこっちのものだと思って
私は、兄の要求どうり印を渡した。
卒業旅行の時、4万円足が出た。
その4万円を兄貴に貸してほしいと言ったら
「卒業旅行までは出せない、
お前の下には、まだ、医者になりたい弟が、金がかかる.」
無駄遣いは、致命傷になる。
金のないのは首が無いのと同じだと、今は思っているからな!」
とりつくしまなく断られてしまった。
戦後のオール貧乏人の中でも
女性が大学に行けるのは、良すぎる環境だった。
そうか、、、なんとなく納得して、旅行は断った。
金持ちの集まりの日大の卒業旅行は
犬山城の川下りを含めて、
盛り上がった話と写真を見せてもらえて
いつか、、、一人で行ってみようと、、、
その時思ったのを忘れているわけではないが
未だに、、、犬山城だけは行っていない。
最後の弟が千葉大学の医学部を卒業した時、
母は、、、「お兄ちゃんのおかげで、皆、一人前になれました。」
ご苦労でしたと、、、感謝していた。
やぶにらみの意見を言わしてもらえなかったが、、、
しかし、、、遺産を売って、取り分を分けても、
卒業旅行にも行けて、、、おつりがくる計算になるから、、、
私は、「父に感謝しています。」
しかし、開業を継続してくれた兄は
五四歳で未亡人になった母の音楽の人生を支え
ステータスを支えることで、母の人生の音楽の道を
命の尽きる三日前まで、
現役で、お弟子を教えていられる母のフアィトを維持したのは
紛れもなく兄だと思う。
母が逝ってしまって、迷うことなく
兄は開業を閉じて、勤務医になった。
がんセンターの崎田先生のもとへ研究生として通いながら
胃カメラの指導医の資格を取得した。
がんセンターの指導医の資格は、難しいらしくて
千葉の亀田病院に認められ、すぐに勤務医としての再出発を果たした。
「父さん、、母さん、、すでに個人開業の時代が過ぎつつあったから、、
閉院は間違っていなかったんだよ、、。」
兄貴は、父母に宛てる手紙の束を、
、母に送ることが出来ないで
妹に送ってきた。
、、、、、、、「母は閉院を、、きっと「道は間違ってないよ。」
そのように言っていると思うと、返事を書いた。
ついでに、、、これから自分だけの為に生きれば、、、間に合うよ!
キット母はそう思っていると信じている。
手紙はいまだに保存しているが、、、他の誰にも、、、伝えなかった。
実家が無くなるという事は、、、寂しいものですね。
戦後の復興を果たしたのですから、、、
特に弟は、日本中に、早期発見早期治療の
がんはどこまで治るのか、、、戦いの人生を繰り広げてくれた。
無給の時代のがんセンターの研究生の時代は
一途な夢が無ければくじけただろうという試された時代でも見ているようであった。
貧困に耐えて夢を追って、
がんセンターの廊下で、東芝のスタッフと
日夜を徹して頑張っていたことが、
「明日への挑戦という」単行本になって
TV番組になって、はるか北海道に居る姉にも届いた。
戦後の貧困の中の夢で立ち上がった復興だった。
弟は「団塊の世代の復興組の大きな役割を果たした、」
戦争が終わって六〇年、
去年やっと弟は、
退職金で建てた
初めての自宅に移った、
私的な生活は、
ローンが始まったばかりらしいが、
定年で、がんセンターを去るときには
独立法人になり、なにかと、いざこざが外部から、もたらされ
従来の退職の安定した第二の人生への出発は難航したらしい。
突然我が家に現れて
朝まで話をしたこともあった。
次元が高い話で、聴くしか能のない情けない姉であったことを
心の中で、詫びていました。
孫も生まれて、
やっと幸せになった姿を見た。
私の中では「戦後は終わった!」
もう、、、戦争は、地球を木端微塵にする事だと知ってほしいのです。!
戦争には巻き込まないでくださいね。
世界の平和のイベントに
小池さんは命をかけて、都庁で、オリンピックを成功させてくださいね。
世界への、平和の指導者として
日本が牽引できるように
世界が集まる東京の都知事の仕事の偉大な事に目を向けられて
成功のために、命をかけてくださいね。
皆、観てますからね!!!
緑の勝負根性を!
「リメンバー パールハーバー」の言葉は
平成の政治家、
阿部首相と
黒人初の大統領オバマさんの
ハワイでのイベントで、、、過去の話として
歴史になってくれました。
真珠湾の奇襲は、
井戸の中の蛙のように、世界の文化との差を
認識できなかった。日本の未熟な時代の出来事でした。
ある意味での「貧乏な心」がもたらした
お粗末な、「勝てば官軍式の島国戦法」にほかなりません。
勝とう勝とうは、
マカ―サー元帥の理知的に日本を評価した名言が、、、哀しい。
「日本人は12歳!」という、、、言葉。
少年のままの
開戦の幼さを、今、わが民族とルーツの一緒の朝鮮が迷っています。
それを、話し合いで、世界の円卓の一員としてなってくれるように
少年を導ける政党を期待しています。