花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

梅雨の季節

2012-06-25 01:47:12 | Weblog

        もうすぐオリンピックです。

        日本の風土は梅雨の季節です。
       
        雨、台風、高波、、、気温の変化が大きくて

        四季の中でも、喜ぶのは稲作農家、

        田んぼのカエルさん、、、

        梅雨が明けて、心までカラリト晴れて、

        楽しい会話が出来るといいな

何事も難しい時代

2012-06-13 01:42:51 | Weblog

少なくとも
一昔前は、何事も、解ったつもりで行動した。

まじめに頑張れば、結果は後からついてきた。

大正時代、、、青白きインテリ、、、時代
大学は出たけれど、、、
そんな時代がありました。

若者がさまよっています。
何をすれば、、、職に就けるのかと。

小さくなった地球の中は
自然災害や、軍事が目立ちます。

サッカーや水泳、体操、レスリング、
オリンピックの出場選手として
選抜された選手の頑張りが

若者に元気をくれます。

夢!、、、若者よ。

あしたのことを考えないで
今日一日
夢を探して、きらきらしよう。

明日になったら、
又、今日一日、夢を持とう。

情報は、データーで、何でもダメ、、ダメ、、と
若者を閉じ込めてしまうけど、

人間って生き物は、
人間を閉じ込めるのが得意。

家畜のように
情報社会に閉じ込められてしまうと、
自分が居なくなるから、

泳いでみよう、
歌ってみよう!

あるいてみよう!
踊ってみよう!

まず、、、自分発の何かを始めよう。

中国には纏足というのがあった。
ヨーロッパでは「マイフヘアレディ」、、、
日本では、、、大奥
 
人間を閉じ込めるきっかけは
マインドコントロールされる弱さかもしれない。

天地は厳しいが
人間を閉じ込めてはこないかも知れない。


海を相手に
逞しく漁をする若者が
津波を乗り越えて
 
もう一度「日本」の
元気な文化への「夢を持ってほしい。」

3,11の後遺症?

2012-06-11 01:04:09 | Weblog

   たとえばデパートのショウウインドウには
   いまどきの女性が目を引くファッションがアレンジされて
   アートのルンルンを感じさせます。

   北海道の北洋銀行は、昭和10年代の私たちには
   想像が出来ないような銀行空間です。

   地価街からエスカレータで一回のフロアーに登ると
   都会の真ん中とは思えない広い空間が
   シンプルな美をかもし出しています。

   緊急事態の時は、シャッターを下ろさないで、
   家に帰れなっかった3,11の東京に、
   もしもこんな空間が提供されていたら

   少なくとも、1000人以上はごろ寝が出来そうです。
   どうして、、、こんな素敵な建物を楽しんでいるとき、
   こんなことを考えてしまうのでしょうね。

   これからの、日本は
   「絆」だけでは解決できない問題を抱え、

   それでも、元気に立ち直ってゆく「若い力」と、
   年寄りの「知恵」と、
   敗戦から、ここまで日本を育て上げた

   「団塊の世代?」のエリートな、粘り強い、しかも、、、
   忍耐が半端な強さではない世代の人々を、

   定年だからと、
   年寄り扱いしては
   あまりにも、もったいないと思うのですよね。

   夫は、現役で働いています。

   夏タイヤに変えている私が、
   ちょっと車から離れてる間に、
   冬タイヤのホイルのついた4本を、
   難なく車から降ろしました。

   私は、コルセットを2枚装着し、
   サポーターをはめて、
   冬の手袋で、タイヤを転がし、
   物置まで運びます。

   この主人たちより、
   一回り若い団塊の世代の定年が
   始まりました。

   私の弟もそろそろ、、、その年代ですが、

   姉のひいき目ではなく、

   人生は、弟のような戦争を知らない世代が居てくれたから
   楽しかったと、思うのですよね、

   大陸で総合病院の院長だった父が
   軍医として戦場に行った事も
   病院も自宅も無くなり
   敗戦の兆しの中で
   ショウイダンの落ちる東京に帰国し

   空爆を避けて熊野の山奥に疎開したとき生まれた弟。
   生粋の東京っ子の父から、紀州の山奥で生まれた弟。
   成長するにつれて、神のように頼られ
   尊敬され、敬愛される父に抱かれて
   校庭で影ふみをした日々を覚えているだろうか?
   戦後13年、
   慕われて必要とされた無医村の診療所の父。
   その背中に弟は導かれて、東京に帰ってきた。

    父と同じ外科医の医局に入ったものの
    末期の患者さんの手術にメスを光らせど
    命を見送るたびに、

   手術になる前に、もしくは、
   手術をすれば助けられる段階の病気を発見できたら、、!!!と。
   思い切って、放射線かに委ね「国立がんセンター」に

   無給で飛び込んだ。
   市川先生のもとで、
   当時は普及していなかったCTの画像診断に
   人生の夢をかけていたようだった。

   そこからは、、、我が弟ながら、
   手の届かない次元に行ってしまった。

   会うときは、姉と弟の家族として会うから
   あっても。楽しい四方山話で過ごす。

   世界を飛び回っていた弟も
   定年が近い年齢のはず、、、。

   性格といい
   気骨といい
   人間性といい
   団塊の世代の
   弟たちの世代は素晴らしい「夢を追って燃えた人生」

   敗戦の廃墟の日本を
   今日に復興させたパワーを
   みなぎらせた世代の人たち!

   若者よ!この世代の人たちに
   どうか、その貢献にふさわしい
   名誉の老後を
   送っていただくためにも、

   大切な師匠、リーダーとして
   輝く魂に気がついてほしい。

   歳をとらないこの年代の人たちの
   頭脳だけは

    年齢で切り捨ててはいけない!

   世代交代して
   若ければよいというジャンルと

   この年代を年寄りの仲間として切り捨ててはいけない。

   日本を救った世代なのだから!


   
                 
   因みに、戦前派の夫の場合

   70歳過ぎても働かないと、、、、、、。

   40歳前後で
   「本採用になる外科の大学院卒の医師」は、
   医局に長く居た医師である。

   臨床が大好きで、
   突然国立循環器センターなどに
   国内留学して、
   自宅には帰ってこない日々。
   不規則に、深夜帰り。

   外科だけに、

   歯医者さんのように予約が出来ない。
   日曜日でも、正月でも怪我人は出る。

、  休みも祝日も連休も、、、
   事故で運ばれてくる。

   家に帰ったと思うと、U-ターンして
   深夜の手術場。

   私は、本来なら薬剤師に復帰して
   子育てと両立しているはずである。

   しかし、、、
   むちゃくちゃな不規則な外科医の家内は
   舞台裏の便利屋にならざるを得ない。

   それでも、二人の息子の大学進学の頃は
   私も授業料に追っかけられて5年間働いた。

   おかげで、

   家の中はめちゃくちゃになり、
   私も
   「ストレスボールと自分では信じている
   『15センチの腫瘍』が出来て手術。」

   1ヵ月後に再就職!

   スッタモンダノ家計のやりくりで
   二人の息子を社会に返せた。

   ぐちゃぐちゃになった家庭を立て直すのは
   被災地復興のパワーには遠く及ばないが、

   人生の試練だった。

   夫婦が2人とも忙しかったせいもあり、

   現実は「夫婦生活をしていなかった。」

   その二人が「歳をとりはじめたから大変です!」
   夫が今こそ検査値が正常に戻りましたが、
   異常な検査値であったことも、気がつかなかった。

   私自身も、検査に行く暇が作れない。

   税理士さんは言う。
   「お宅の場合、、、開業医さんと違って、
    税金でオト去るものがありませんね!、、、

   高いと思われる医学書は日進月歩の医学界のおかげで
   数年でゴミとなるものが多い。

   「学会費、、、30万円も、40万円も払っていますが。
   この領収書は紙くず同然ですね、、、」

   学会出張の一部は勤務先で見ているって言っても、
   桁違いに、、、頭脳の維持費がかかるんですね!」

   後半は急性期の病院に勤め、
   仲間と一緒に外科の研修や、診療をして過ごすのが
   生きがいの「仕事人間」だけに、

   人生後半は、冠婚葬祭、仕事達成のコンパや慰労会に
   「絆」を感じながら、
   「医師」という孤独な人生の登山を続けている。

   近所のご夫婦は、海外旅行や、
   豪華客船に乗ってきたと、お土産を下さるたびに、、、思う。

   主人とは二人っきりで、ドイツに行きました。
   森鴎外のはるか昔に足跡を残しているドイツ!。

   2人で40万円とちょっとかかりました。
   世間からは無駄使い?

      喧嘩しながらの帰国でした。
   帰国後は、再び、、、   
   病院の医師に逆戻りです。

   年金ではとても食べていけない金額です。
   仕事が生きがいだったことも手伝って、
   今も、患者さんから、お手紙がきます。

   「先生に治していただいた心臓のバイパス手術が
   天皇陛下さまと、おんなじ施術だと、
   今では、皆に威張っています、、、」

   共済年金は年額36万円ぐらいですが、
   給料が出ているということで、
   現在は年額6万円です。


   でも、、、こんなお話が耳に入るとき、
   給料の少ない大学勤務時代、
   函館単身赴任時代、
   お仲間のおかげで
   良い仕事をさせてもらっていたのだと思いました。

   先日、、、ある内科の先生がお手紙で、
   「先生が博士論文として出されていた
   バイパス手術の論文を、然るべき組織が
   保存していることがわかりました。

   もし、、、原文の抄録があるようでしたら
   一部、わけていただけませんか?」
   
   私は、論文をデジカメで撮影し、スライドショウにして
   デスクにして、赤いリボンをつけて、
   送りました。」

   夫に「送ったから」と言うと。
   「英文論文にしておけば、良かったな
   40年も前の論文だから、
   引用されて、どんどん進んだ論文が出てるから、、、
   送るほどの事は、、、ためらうね。」

   「せっかく先方が、陛下の手術の成功に感動して
   周辺の論文を検索してるんだから、
   お役に立つと思ったから、、、」
   雑事の引受人の私はあまり深く考えないで、
   いつものように発送した。

   二週間ほどたって、お手紙が来た。

   「貴方が某病院の院長になられた素地がわかりました。
   40年前に、実に、素晴らしい論文です。
   陛下のお役に立つ論文を書いていらっしゃったという
   天与の運命を持った「強さ」だったのですね。」

   夫は手紙を読みながら、、、
   「陛下のお役に立てたのは順天堂の神の手の医師」であって、

   40年前に
  「その動脈が、動脈硬化になりにくい、しっかりした血管」だと
   気がついたから、論文にしただけだよ。

   夫の仕上げた博士論文を、
   女子医大の「榊原先生」が
   「心臓」という赤い本で紹介してくださり
   林久恵教授が評価してくれて、
   当時は若かったから天にも昇るうれしさだったよ。」

   その後、いっぱい良い論文が世に出て、
   学者や、臨床医が玉体において、
   手術を承ることの出来る
   「神の手の技術の外科医」が順天堂に現れて、
   東大病院で
   「日本の国旗の重さの手術が成功したのですね!」

   順天堂医科大学の「外科の歴史」に
   すごい外科医の一ページが又加わったね。
   酒井シズ先生の参加されているTVドラマに

   手塚治虫作の「陽だまりの樹」が始まったけど

   元来医師の魂は
   「医師以外の人間が想像しても、わかりっこない何かがあるよね。」

   孤独な職業の医師。

   陛下のご回復は「医学の歴史の一ページである」と
   私的には、、、感動する出来事でありました。

   ご自身のご病気にもかかわらず
   被災地にお出ましになり、

   国民とともにあられた陛下に

   日本の復興の祈りが世界の絆となりますことを
   信じています。

   
    

最近の世代の結婚

2012-06-04 01:28:58 | Weblog

40年前、友人の結婚式に
  集積と、あわせて挨拶を頼まれて
  はるばる、、、北海道に飛んできた。

  高校時代、
  科学部だった同級生の男子学生が
  席が一つ前だったこともあり
  休み時間に
  何かと将来の夢を話し合ったり
  進路を話し合ったりしていた、

  荒川に面した女子の多い高校に
  草薙さんのような
  優しそうな男子学生が半数弱在籍していた。

  「府立第七高女」
  つまり、小松川高校であった。

  スカイツリーの界隈の
  匠の腕の町工場の子女が多い高校でした。

  その中には、市川や船橋から
  越境入学してくる「社長さんのお嬢さん」も
  ちらほらと目立っていた。

  貧しい家庭の子女も
  受験クラスで
  大学を目指していた。

  大半は学芸大学、や、教育大学、
   
  日本女子大、東京女子大、

  御茶ノ水女子大、
  津田塾、、、や、国際基督教大学など
  男子は、東京工大、北大、千葉大、教育大などに
  分散して進学していた。

  文系の社会派が大半で、
  青山大学と早稲田に合格視して
  青山大学の英文科に進学した同級生も居た。

  2クラスぐらいのほかの7クラスぐらいは
  就職を目指していた。

  3年生で婚約していた超美人も居た、
  ミス東京がこの頃、石黒さんという有名人らと
  ラジオで「知恵、、、何とか?」という
  20の扉のような放送で、
  私たち後輩を喜ばせてくれていた。

  

  やがて、、、
  両国高校、隅田川航行、小松川高校が
  学校群として合体した頃から
  「小松川高校の女生徒」は
  個性的な面白いビジョンの面々から

  常識的な普通の優等生に変わっていったと
  同窓生から聞いている。

  市谷に育った父と音楽家だった母の
  山の手の人たちとの習慣は
  かなり異なっていた。

  自立した、キャリアウーマンの卵のような
  はきはきと、自分の生き方をしっかり持っている人が多かった。

  Yチャンは親友でしたが
  「これからはPC、の時代よ!、プログラマーになるわ!」
  女性でも、工大に進み
  時代に先駆けて、世界を巡る立派な専門家として、

  あちこちから、活躍の絵葉書をいただいた。

  話は戻りますが、
  私は、かなり同級生と比べると
  人生観も、心構えも甘かったと反省している。

  結婚観も成り行きで
  なんとなく、、、北海道に住んで40年になる。

  結婚式に出てくれた同級生は
  曰く博士、プログラマー、大学の助教授、大学病院の薬局長、、、
  医学部の助教授、、、と

  皆すごく頑張った、

  私は、、、子供を2人産んで育てただけで、
  後は、、、次々と生まれる孫3人にかかわっているうちに

  気がついたら、、、目の前に70歳が見える。

  薬剤師、衛星検査技師、高校教員免許、中学教員免許、
  衛星管理者、応急手当普及員、漢方、英会話など

  生きるうえで有利な使えそうな免許は
  武器を揃えるごとく、とりあえず用意した。

  しかし、、、子育ては、条件が厳しすぎた。

  共働きをしながら頑張っても、
  友人も、知人も、親戚も
  はるか、、、東京に居る。

  駆け出しの外科医の夫は
  3ヶ月とか半年で、次から次へと転勤?バイト?

  一間と3畳の断熱材の入っていない木賃アパートは
  冬は2階までオイルをドラム缶で運ぶ作業がある。

  留萌も、余市も洗濯機のない育児。

  恋愛でも、好きでも、なんでもなかった縁が取り持つ天の命令?

  55歳で夭逝した外科医の父が
  あまりにも早い別れのため
  私の中で、父の死を受け入れられなかった時に

  北大を卒業し、実家が東京で、3年後には
  東京に帰る予定だと

  私の母に話した外科医が居た。

  母は「お父さんが、若くなって帰ってきてくれるようだ!」と
  喜んでいた。

  私は北大に進学した同級生のことを思った。
  高校時代から高分子化学に燃えて、
  早稲田も、横浜も合格したのに
  北大に進んだ、一個前の席に座っていた同級生!。

  北大の絵葉書や、牛の草を食んでる牧場の写真を送ってくれたっけ!
  彼は、どうしているかな?

  そんなことを考えながら、
  母のすすめるままに

  3年間の北海道暮らしは宝物の思い出になるわよ!、、、と。

  人生は甘くない!

  北大の医学部を出たとき、すぐに東京のどこかの医局に入らないと
  3年も北大に所属していると

  北海道以外は勤められない気分になってしまった夫に

  結局は「私の人生は振り回されてしまった、」

  北大を卒業した夫は
  立派な「北海道人」として受け入れられている。

  結婚式も100回以上招待されている。
  仲間の会合も
  12月は毎晩続く。

  私は、子育てしながら
  HBCの母校卒業のディレクターと
  {ママと赤ちゃん」の番組を放送したり

  子供が進学する頃は「薬剤師」。
  通算5年間正職員としてはたらいた。

  私立大学に進んだ2人の息子の
  授業料と、舅と姑の老後の応援になればと、
  単なる、、、お金稼ぎの5年間でした。

  今、、、一番下の孫が小学校に進学し
  待機する必要も無くなり

  やっと「夢探しの時間」を見つけました。

  札幌の住居のある近くの
  「爺婆学園」に通い始めました。

  いったい、、、どんな夢に出会えるのか?

  結婚生活では雪掻きと子育てと、夫の舞台裏の便利やで
  人生が過ぎてゆきましたが、

  この年齢になって、小松川高校時代に戻った気持ちで
  素の自分を探して、
  本当は、どんな夢があったのか?
  手探りで思い出せたら、
  再び、若さがもどってくるのでしょうか?

  子育て、、、

  子育ては「与え続ける時間と愛と忍耐と、、、
  

  母性と愛」があってこそでした。

  自分のために期待しても、放たれた矢のように
  子供たちは未来に飛んでゆきます。

  一人ぼっちで取り残されないように、
  いつも、、、しっかり大地を踏みしめて無欲で生きると
  子供たちや、孫からいただいた「良い時間」が
  第一の人生の宝物だと、思えますよ。

  後は、他人の土地で暮らしてしまった私には、
  これから、爺婆学園で、地元を知って、自分の土地にしてゆくつもりです。

  子育て支援!
  それは、、、お金も大切ですが、、、
  度重なる「転勤」
  大学間の刺青の入ってるようなエリア感覚や
  医学部の学閥、

  根の深い島国の排他的習慣
  このシステムが、ネット時代に於いて
  境界が無くなれば、

  子育てには「父親の育児感」が参加反映され
  男らしい日本男児が育ち、

  女性の尊敬を集められる大人となり
  子供を産み育てる女性が

  幸せになれるのではないかしらね?