花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

昨日のつづき、対セネガルの、本田選手、さすがですね!

2018-06-21 04:32:56 | Weblog

連日、サッカーのcollarページが入ってくる道新。

14日からサッカーページだけ閉じてゆく。

選手の特徴もよく解ってくる。

コロンビア対日本の真夜中の試合は圧巻だった。

たしかに、、、シュートも ばっちり決まった。

花形選手のシュートは熱狂させる。

。。。。。。。。。。

ここで、本田選手がシュートのチャンスを作ったうまさはさすがであった。

日本のサッカーは奇跡を起こしたと、、、思う人も多いだろう。

しかし、この緻密な動きながらのチームワークは

ただ事ではない。

日本は全員で勝ちに行くという、、、計算されつくしたパス。

パシュート、、、思い出します。

リンクの上の、チームワーク。

日本のサッカーはチームワークの良さと

計算されつくされた作戦を実行出来るスゴ技の選手に

老獪なチャンスメーカーの本田選手の

何とも言えないたまの動きを読むすごさには、思わず立ち上がって声援を送る。

高校からの、名選手、、、

香川選手のシュートを、ゴール前で

腕でブロックしたコロンビアの選手が退場になった。

コロンビアの選手も点を取られるより反則で、、、と

勝手に反射が働いたのかもしれません。

一点の防衛の為に、、、退場!!!

メンバーを一人失ったコロンビアの「チームプレイ」は誤算だらけになるはず!、、、ダ。

香川選手がPKを決めたとき

コロンビアのチームは、ダブルパンチを受けたと思った。

流れが、、、日本の選手の意気を盛り上げて、このとき!!!勝てる!!と思った。

 

後半になって本田(パチューカ)選手が

老獪な実力で、ゴール前に球を運べば

待ってましっとばかりに

大迫選手が!!!「頭でシュート!」

ハリルホジッチが、、、今年の4月

試合直前に解任の不服をTVでもていた時に

正直言って、、、直前すぎる人事異動に

選手のまとまりは、、、どうなるのだろうか?

4年前と同様になってしまっては

選手の切磋琢磨してきた4年間が、かわいそうすぎる、、、など、、など。。。

お茶の間は、少なからず、危惧していただけに

どんなときにも、

全員で受け止め、

全員が結束して、

勝ちに向かって結束していったのが

日本チームの勝因かもしれませんね。

香川選手のシュートが決まったとき

4年前の惨敗は、、、もうありえない。

サランンスクの軌跡というより、

生まれ変わった日本チームの

筋ガネの入った動きは。軌跡を超えて、実力の結束になったと思いました。

見事なチームワークの呼吸が伝わってきた。

運動家のパワーは、半端でない元気を!!!

お茶の間にくれました。

頑張れ!ニッポンのサッカー

**********************************

****一夜明けまして、対セネガル戦を考えるとき!!!

お昼のTVは、セネガルの強さを分析していた。MF DFの

バイタルエリアが、一瞬あることを表示していた。

ここに香川。大迫。乾。の各選手が

この一瞬をうまくとらえれば、シュートに繋がりそうだとか、、、、

サディオ マネ

エムバイ 二アングらの各選手の「半端でない!」ぶりを紹介していた。

ゲストに招かれていたセネガルの人は、背が高くてびっくりであった。

日本人と、何ら変わらない座高なのに

立つと190センチ前後の「あしながおじさん」である。

知的で、言葉も流暢な日本語を、深い意味まで表現できている

日本が、大好きなセネガルの「日本チーム」との試合の結果を

美味いこと表現していた、

日本が勝てば奇蹟であり

セネガルが勝っても、、、奇蹟とは言わないでしょう、、、

対 セネガルが今までの実績と実力が発揮され

巨体の「ハンパない11人に囲まれたら

、、、、日本は、俊敏さで、、、、ゴール目指して

侍魂でぶつかってくれれば

面白い試合になりそうですね。

     以上は         6月23日までの日記

 *******************************************

さて、さて深夜の対セネガル戦のサッカーに備えて、

日曜なのに、、、昼寝をする。

早朝4時沖の習慣があるのですが、、今朝は6時30分に起きて、

コンビニまでの散歩も控えて、

夜食に備えて、鍋物を調理すると、

一日の雑用が終わるころ、眠くなってきた。

野菜と肉と。もやしや、トーフ、シイタケ、ブナシメジにニンジン、、、

主人に「お鍋バイキングだから、適当にお昼にどうぞ、、、」

庭の、伸びすぎた植木たちの剪定と、雑草を駆除して

日光浴を兼ねて、筋トレの為にも鉢植えを作り

どっこいしょ!、、、疲れてきた。

私は、、、贅沢にも、「お昼寝!」

笑点の時間に起きて、西郷どんのドラマを観ると

いつの間にか、、、また、また爆睡!

10時ごろ目が覚めて、

11時には、懐かしき、、、二人の監督さんの対談!

そして!!!日本チームは対セネガル戦に突入したのは深夜!

「何も語ることのないほど、、、ひたすら!!!面白い試合でした、

コロンビア戦の後、

マスコミが

「大迫選手の記事で、おおさわぎしていたことなのかな?」

セネガルの注目は大迫選手に集中したのかもしれません。

本田選手が、実に気持ちの良い同点のシュートを決めました。

昭和38年ごろ、

学友と釜本選手の出ているサッカーの試合を見に行きました、

グランドで輝いていました、

今回の試合で、、、本田選手と、重なって思い出されてきました

名選手は、いざというときに、、、シュートを決めて、

チームの疲れを吹き飛ばしてしまう

円熟した日本の差か―チームの中でも、、、かがやいていましたn

これからもますます活躍をきたいしています(^^y

 

 28日の日本と、、、ポーランド戦に、、、四分休符

あるTVでは、、、タコの占いが、、、「日本の負け」と出ているとか?

本来なら、対戦前にはカットになる放送化もしれません。

国際試合に、、、タコ、、、

ここら辺から、、、

決勝進出が目的の世論が、

選手も監督さんもまきこんだのかしらね~~~~?

パシュートで

「体力温存した作戦と重なってゆくものが、、、 視聴者にもあったかもしれない。」

勝負は勝たなくては美談にはならない。

しかし、、、若い選手の半端でない体力と、イケイケの気力と

30歳過ぎた、、、味で見せる選手の皆は、、、体力には限界があると思われる。

熱砂の上のような気温の中で、「武士道」は命がけの見せ場になってしまうだろう。

客席のブーイングは、、、たしかに、、、若い!

しかし、サッカーには、私たちのようなお茶の間の老人夫婦のフアンだって見ている。

決勝戦に残ったときの状態が、働き方改革ウンヌンではありませんが、、、

気力、体力、健康状態がベストになっていないと、

世界最強のグループとの対戦だけに、、、

今夜の闘いは「戦略の見せ場」と受け取れば

日本サイドのサポーターは、

決勝戦の為の体力温存!イエロウカードを出さない球回しを

 やむを得ない作戦だったと理解できそうです。

息子や、孫たちは、、、若いから、

体力任せにシュートを狙って戦うべきだったと、、、悔しがる。

70歳になっているからこそ解る闘志が伝わってくる。13

仏教でも、欲張りは、戒められている。

ポーランド戦では、一点差を守り切れば決勝戦に出れるという剣ヶ峰で

一点差で負けていたからこそ

この戦略は正しかったのではないかと思った。、

お茶の間で、主人と話し合った。

主人は絶妙のバランスで、監督さんの決断に、、、稀有なる勝負強さを観たようである。

音楽にも、リズムがあって、休符があるように、

やむおえない、と、、、思った

 

 7月1日

もう、、、寝れなくなっています。

フランスとアルゼンチン!!!

さすが ,,,

両国のシュートは見事ですね!

回転するボールが、、、カーブを切ってゴールに突入。。。!

アルゼンチンの同店シュートで元気が付いたのはお茶の間もです。

フランスのシュートで 完全に目がシャキッとなりました。

面白いサッカーを見ながら、、、、今宵も夜明かししても、、、

ブラインドタッチで、目はTV.

わお、、、、フランスが左足で、シュートを決めましたね。

足の裏のシュートあり、、、、、シュートも、ありえない、、、すごい!!!

フランス!またまた、、、シュート!

逆転!!!!!

すごい,、、アクティヴなシュートで、

フランス2点リード、

果たして、アルゼンチン20分以内に、、、2点とれるか?

やっぱし、サッカーは

本場スランスの瞬発力は、、、半端じゃないね!!!

フランスの底力の、この余裕はどうだ!

面白い試合展開で、、、魅せるね~~~~

こうなると、、、赤い足の魔物のように

アルゼンチンを責めるメッシュの足が見ものだね!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今回の日本の戦いぶりには、「気候」や、体力温存、、、いろいろな配慮と

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


結婚前は早朝ゴルフが健康法でしたよ、

2018-06-18 19:45:45 | Weblog

昭和38年から44年ぐらいまで

江戸川のリバーサイドのショートコースに

早朝ゴルフに通いました、

値段も早朝ゴルフは格安でした。

ゴルフは健康に良いので、女性には大切な趣味となると思います。

グリーンを歩き、球を広い、下腹に力を込めて歩くとき

プロポーションもよくなります。

結婚するとき、

自分のスタンスに合わせて、オリジナルのウッドを注文して

自分だけのセットを作りましたが、

野球画大好きで、大学の野球部員だったという主人が

私のクラブを持って行ってしまいました。

ゴルフはしたことがない主人は

打ちっぱなしの練習もろくろく習わないで

野球打ちで、使ったものですから

はげちょろけて、傷だらけで、

メンタルなゴルフのマナー違反の

初心者ぶりで、

雨ざらしのまま、錆びてしまったクラブを返してくれました。

主人は自分は

ブラックシャフトを買って

数年間はゴルフに夢中な時期がありました。

スコア―カードを整理してアルバムにしてあげました。

しかし、結婚以来、

私はゴルフに行くことはありませんでした。

主人は、自分のゴルフセットを次から次へと買いながらも、

私には、ゴルフセットを弁償してくれることはありませんでした。

日曜日にも、輪厚でコースを回った後

迎えに来てくれ、、、というだけで

私は駐車場で2時間ぐらいは待たされながら、

ゴルフを終わった主人を、愛車に乗せて、帰ってくるだけの役割でした。

彼は、仕事仲間とのコンペなどは

必ず参加していました。

婦長さんや、上役の事務長さんなどに

付き合いゴルフに徹していたのかもしれません。

ほんとにゴルフが好きな人なら

奥さんはシングルという人も知っています。

奥さんと家族ゴルフをなさる先生方も結構知っていました。

結婚を境に、私はゴルフ場に行くことはないままに

70歳を過ぎました。

ゴルフを続けていたら、

子宮下垂の婦人病にもかからないという

従妹の幸ちゃんは

貴方も運が悪いわね、、、

頭は良くても、明治の男のような、

男女差別のある旦那に当たっちゃって、、、と言う

ゴルフ銀座の真ん中に自宅を建てたあなたが

若いときは、、、羨ましかったのよ、、、

てっきり、、、ゴルフを続けているのかと思っていたわ。

彼女は、医師と結婚して

ご主人から、レストランと、ゴルフ場を自由に使わしてもらって、

多くの著名な知人を得ることが出来て華やかです。

ゴルフの腕は、、、なんとシングルです。

ご主人のドクターは、

あんまりゴルフはしないというから

我が家とは、、、さかさまパターンですね。

主婦がゴルフするなんて、許せないという

明治の男そのままの、頭の固さは、、、ゴルフボール並みの主人です。

 

、、、ま、、、いいかな!?

自分だけゴルフしているという、ことが、、、幸せなのか?

妻を支配下に閉じ込めることが

男の甲斐性と勘違いしているんだから、、、ね。(^^!

弟夫婦が遊びに来ても、

車に乗れないからと、、、私は留守番です。

里帰りも、自分だけ帰るので、母は言いました。

この次は二人で来てくださいね、、、と。

奥さんは、でんでんむしのごとく

家に居るものだと思っています。

話も、自分の周りのことばかりで、

外で皆さんと合うことにしているため

ゴルフをしない私は、

交流の機会がなくて、、、残念です。

独身の時に「ㇾディスゴルフクラブ」の皆と

参加した川奈が懐かしくて、

ケーブルに座って、写真を撮ってきました。

主人は、喜寿を過ぎても、野球だけは大好きのようです。

     ハイ、、、お粗末様でした(^^y

 

 


大阪の大地震

2018-06-18 18:28:28 | Weblog

早朝、、、メールが入った。

地震があったが「大丈夫」だから。。。

土曜日に、息子と孫が「大阪の舞洲スポーツセンターの方に出かけている。

スポーツに適した専門のゾーンと聞いているから

安心している。

ニュースにも報道されないから

無事だったのだろうと思いながらも、

震度5、、、などと聞くと、、、落ち着か無い。

ネットで状況を検索している、、、親です。

日本は断層帯が多くあるだけに、

ちなみに、今回は

「有馬高槻断層帯」真上にいるような

高槻駅の画像がTVに放映されている。

天井あたりから水が漏れていて

道路も水道管が敗れて水浸しの道路である。

あちこちのライフラインの破壊された地区では

まだまだ不安は大きすぎる。

心からお見舞い申し上げます。

どこに住んでいても

地震だけは「明日は我が身と思って、地震対策をする。」

全ての家具には天井との隙間に突っ張り棒をセットしている。

大阪からの帰りが混雑しており

ヒコーキの切符の払い戻しや購入の手続きやらで

帰れるのは夜になると思っていますが、

地震だけは、、、

火山国の日本は解決のしようがありません。

しかし、

海の向こうのお隣さんが、

核を撤廃してくれれば

人工的な災害は避けられると思うので

阿部首相には頑張って、

お隣さんと友好国に成れるように

世界の協力を得て、地下深くの爆発が地震を誘発しないように

地球を刺激しない世界の平和が願いです。

巨大地震が予想される日本の列島は、

隆起するのか、沈没するのか、、、

落ち着かないニュースが続いています。

日本が大地震になれば、

韓国も朝鮮も一緒に沈没ですから、

太平洋プレートを、

爆発で刺激しないようにしないとね。

運命共同体の位置にある隣同士は

助け合って、知恵を出し合って、

自然の災害にも立ち向かえるように

仲良くしてほしいものだと、、、思っています。

それには「心が豊かにンるように、、、」

貧乏な国民が居なくなる政治が大切だと思います。」

自然災害は世界が助け合って

長いスパンでお返ししてゆけたら

平和になりますね、

日ごろスポーツで鍛えぬいている息子も孫も

めったなことでは巻き込まれないとは信じていても

天災地震となると、TVをつけっぱなしにして

帰宅するまで、、、物事が手に着かない。

 

親離れして、自立している息子も、

いち早く無事の連絡をくれたことに

感謝しているよ、

親って、いくつになっても、息子たちのことが気になるのは

きっと、、、一生、、生きてる限り続くと思いました。

帰ってくるのを、待っているからね、、、

千歳に着いたら電話待ってるから、、、

奥さんには、こまめに連絡が来ているので

爺ちゃんも婆ちゃんも、、、ほっとしています。

臨場ブログを書いていないと、、何をしていいか、、、わからないのですよ。

たった今、千歳に着いたと電話が入りました。

日本航空はキャンセルして、羽田乗り継ぎで千歳に着きました。

ほ!、、、安どの胸をなでおろしました。

いくつになっても、男の子は昔のままの、呼び合う心があるものですね。

有難う、、、連絡してくれて。

枕を高くして熟睡します、。。。

大阪京都神戸の幸子おばさんのご家族、、、清美ちゃん

大変な地震ですが、無理をしないで、

ゆっくり頑張るように祈っています。

体を壊さないでくださいね。

 

 

 


父の日

2018-06-18 02:42:31 | Weblog

日曜日は

朝食か昼食かわからない

ブランチを、

主人はおもむろに楽しみのが通例ですが、

父の日ぐらいは、

休みを有効に使いたいものだと思いませんか?

朝、8時に起こして、

久しく食べたことのない朝食を済ませ、

ブリジストン美術館の作品を展示中の、

北海道の美術館にて

夫婦だけの父の日を、

どういうわけか

人ごみの観客の中で、

美術鑑賞という個々の心の時間を共有した。

最近は、

時代についてゆけないことがしばしばで

近頃の難解な美術の作品を、

理解できないことが多かっただけに、

梅雨時の池の中に放たれたフナの気持ちになった。

我が時代を泳ぎながら、、、時を過ごした。

東京の下町に、荒川を背に古い校舎の高校があった。

東京府立の女子高校、、、らしかった、

その小松川高校時代、

岡田さんや、竹さんや、久保君と、

東京のブリジストン美術館に。何度か行きました。

あの日が、

そのまま時間を止めて待っていてくれたかのように

懐かしい絵に出合いました。

昭和30年代に小中学校や高校に通った70代の皆には

忘れることのできない教科書に出ていた絵!

「青木繁の、、、海の幸」の絵が

青春時代の思い出の扉を開けてくれました。

 

あの時の級友との

たわいもない会話が思い出され

館山の海の底の、サメの集団の住む海を描いたのでしょうか?

サメの住むゾーンと、

サメを担ぐ真ん中の少年と、

すぐ後ろの初恋の女性らしき彼女の表情が

荒々しい男どもの中で、、、輝いていた印象が

五〇年近くたった今も、

同じフレッシュな輝きで」伝わってきた。

 

あの頃は、

          全てに「芽生え」の時代だった、

ピカソがゲルニカを描く前の時代は

吸い込まれるような、

品のある輝きのある青年の絵画を描いている。

社会の底辺と言われる芸人であろうと、

若さの美しさは輝く。

若さこそ、、、、、圧巻の魅力の時代であったのを

振り返る。

老いの浮遊する魂を持て余しながら、、、。

 

戦争が、、、

苦しすぎる表現にかえてしまったのだろうか?

ピカソは、

本当は

輝く青年たちを

感動のフレッシュなタッチで

解りやすく

魅力をあふれさせた絵を描いている。

アナログの感性は球形の視点のようだ。

 

人も時代も変わりながら、

祈りが遠のいて

科学戦争が

悪魔のbpsで加速してゆき

個性亡き個性が火山爆発の溶岩となって押し寄せるがごとく

スピ―ドの中で時代を

溶岩が覆い尽くすかの如く

上書き保存の価値観で

歴史のとなる前に

ウエブゾーンにお蔵入りさせてゆくが、

ダウンロードして再現させてゆくのは

もはや原型をとどめることのない

クーロンの配置。

新しい次元の時間。

しかし、、、嬉しいことに

絵はそのまま、、、時を止めている。

おじいさんの旧い柱時計のように、

振り子が動き始めて

あの頃の音で、あの頃の時を告げている美術館で、

「独身の時代の、夢多かったころの青年に戻っていた、」

あの頃は、

人間としての未熟さは、若さの輝きであった。

未来があった!

芸人に例えるならば、

ピカソは大道芸人の少年の若さの美の哀愁を描いている。

「腕を組んで座る、、、サルタンバンク」の

赤い腕組みの青年の美しさは若さの品であり

魅力であり

情熱であり

力や権力や欲張りな富裕層の

創られた華美な世界とは無縁の

静かな、、、激しい、、、哀しい、、、情熱の未来の

若き輝きのように思えた。

しかし、、、若さの魅力は天与の魅力があった。

北海道に嫁いで、

全ての知人からは「蚊帳の外になってしまった、」

孤独を感じることもなかった。

無の境地で、今日だけを精いっぱい頑張った。

戦後の一億総貧乏の時代背景の中で育った主人は

妻がゴルフをすることを禁じた、

切手の収集は全部没収であった、

忘れられない自分の初恋の芸術家の作品を集めながら、

東大、京大、阪大、国立大学、芸大と

著名人を別格扱いする、、、?

受験浪人にありがちな「正解のある人」になってしまっていた。

教科書や、正しいことや、目標にすることは

正しいことは正しいと、、、切った貼ったの職人気質のある

不思議なインテリで、

その、、、アンバランスな凸凹に

いまだに妻という座布団を探しあぐねている私は、

主人の「俺一筋に、、」

完敗!!!

「妻もどきの便利屋に甘んじている、」

しかし、、、父の日の美術館は自由に遊べた。

 

七〇歳半ばになって、

一六歳の青春時代の時間に戻れた。

 

小磯良平さんの植物画集を追いかけて、

やっと手に入れた中年時代。

ガレやドームの

ガラスに魅せられた時代もあった。

しかし

目の前の小磯画伯の絵の美味さは、

日本の画家の、影を描かない不思議な立体感が

何もない空白の私の心の中に、

優しい時間となって戻ってくる。

 

解りやすい、

私の青春時代の時間が戻ってくる。

「絵画」、、、て不思議ですね。

 

美術館を出た入り口で、

見知らぬ老人が立っていた、

 

しばらくして、主人であることを思い出した。

 

、、、私は、、、結婚して、、、北海道に五〇年、、、

あれっきり、時間を止めたまま、、、

子供と出会い、見知らぬ顔の赤子の表情に魅せられて

ふと気が付くと、、、七〇歳を過ぎた、、、おばあさんになっていた。

結婚で はぐくんだ、、

隔離された「愛」と称される、、、殻の中の時間は

閉じ込められた世界のように思えた長い人生、

今回の、集められた絵は

たしかに、、、あった。。。

私の時代の、、、

わかりやすい青春の苦悩の時代へと

時を巻き戻してくれました。

 

時を止めたのは、、、絵ではなくて、、、

私自身が、時を止めたまま

とりあえず、結婚生活という、、、

「自分をすること」を許さない激流の池の中で

明日は自分をやろう、、、と繰り返しながら

一六歳のままの時間を置き去りにしてきてしまった、

 

五〇歳のころ、東北の藤田嗣二の美術館で

一年間の長い長い巻物のような絵に出会ったとき、

彼は若き日の自分をここに置いたまま

日本を出て行ったのは、なぜだったんだろうか?

光を書き込んでいる西洋画

陰のない日本画

セザンヌの不思議な視点の集積が創る不思議な自然体からの訴え。

セザンヌの画集を集めていたっけ、、、

あの本は、、どこに、、、消えてしまったのだろうか。

絵をかくのも、

漫画を描くのも、

詩を書くのも、好きだった、

日曜日には教会に通ってって、、

、難解な聖書の物語を聴きながら

ボロボロに、、、ページが外れるまで、、聖書を読んだっけ、、、

結婚を境に、家庭という入院室の中で

制限された生活だけを、主治医のような主人に

上手に閉じ込められてしまった。

一言も命令はしないが、

結果的には、全ての時間を上手に服従させることにより

男たちは、妻の時間を継ぎ足しながら生き残ってゆく。

豊かな階層は、

苦悩の脱出を図る画家たちの

一瞬を切り取った作品を集めて

何かを、、、教えてくれているようだ。

戻りたい、、、

一六歳のあの頃に、、、

今回の美術の展覧会は

コンピューターのなかった、

心が丸ごとアナログだった輝きの時代に

私を引き戻してくれました。

父の日、、、晩年の父の顔が、懐かしく浮かんだ

解りやすい、、、絵画展で、、、幸せでした。

この絵は

私が、はがきの裏に、、、昔、若かりし頃

走り書きした、絵が好きだった時代の足跡です。

解りやすいでしょう、、、!(^^m

 

 

 

 


TVニュースに、平和への門が映った!

2018-06-13 22:37:30 | Weblog

 

この機会を逃さずに

全世界は団結して、

核戦争のない未来に向かうでしょう!

朝鮮戦争が終結したことは

 

国民の緊張も、少しづつほぐれ、

軍事費は縮小されて、

文化の発展や、世界との交流に回されて来れば

オリンピックにも、韓国と朝鮮の選手が活躍するようになり

国民は「心が豊かになってきますでしょうね。」

心が豊かになれば、

世界中と友達になれると思います。

お互いの国の豊富なものを出し合って、

知恵と感性と、努力の結晶の製品が輸出され、

世界中に、

チマチョゴリのおしゃれな店が出来るかもしれません。

妊産婦の体型を、おしゃれに隠すデザインなので

少子化の日本は、妊娠した女性の母子手帳に

もう一つ、おまけの、チマチョゴリ風の妊婦服をいただけたら、

日本の男性は国際結婚をするようになり、

拉致事件など起こさなくても、

文化が交流しながら、

おいしいキムチが、

日本中どころか世界中で、料理に使われているように

そのままの文化というよりは、

中和すればよいものが、いっぱいあると思うのですよね。

国が豊かになるには、

ミサイルや、軍事費を、文化交流に回して、

世界中に学問を、語学を、料理を、マナーを、そして、国の個性を

これから50年の間に、

世界と交流して孤立化を解消すれば

アジア全域が、

シンガポールのように、世界中の文化を受け入れて

リードできる「韓国」となるでしょうね。

ルーツが日本人と同じ民族だと思っています。

「トランプ大統領」は、

戦争を終わらせ、ノーベル賞を受賞されますね、、、きっと!」

 

ずーと、緊張感が続いていましたから、うれしいです。

各局が、この大切なニュースに集中しているとき、

昼前の、ワイドショウのような番組で、号外も得ているというのに

この劇的な歴史の一瞬の「今」を居間、、、茶の間、、に

ニュース解説をしてくれないで、、、

相変わらず、、、

 

 

日大のことを、、、云々していましたが、、、

、、、そろそろ、、、、TVのワイド番組も、

必要以上に問題を大きくする前に、

優れた実績を日本にもたらす大学は、独立採算制の大学で

バンカブルな要素があるのは、、、生き残っているというすべての大学に

必要な要素かもしれません。

日本国内のことは、ここら辺にして

トランプさんのように

戦争を終わらせる方向に

放送を、もっと、、、国民の意識を高める方向に

ひっぱって行くように、指導者的な多角的な視点から、

放送という、、、素晴らしい武器を使ってください。

「心旅」をいつも見ていますが、

平成14年でしたか?

長きにわたった、、、村落の差別問題が亡くなりましたが、

心旅の村落の風景を見ていると、

日本人の心、、、は、、、永久に、心の風景の中にあると、、、

ふと、思うのですが、

こうした、、、いとしいままの心の風景が日本だとすると、

この、、、国土を守るために、多くの大学は、戦後教育を担ってきたはず、

名誉と、栄光と、贅沢を目的に生きた日本人はいないはずです。

問題、被差別問題、、、、いろいろある中でも、

どんな学部も受け入れながら、

社会の縮図のように

皆を受け入れてきた日大は、

ほかの大学と違っているのは当たり前のように思ってきました。

入学の時に、学校から、クラスの代表幹事を命じられて、

「みんなの名前が分かるまでの一学期間だけという事で引き受けました、」

肩ひじ張らずとも、だれかれなしに役割分担して

実質的には、名前だけとりあえず、登録した幹事でしたが、

日大の、現場に強い学生の実態が認識される一学期間でした。

「東大や京大、阪大、、、

国立や、早稲田 慶応のように、

大学名が盾になってくれることはない。

諸君は4年間で、自分が出来ることを考えて、

自主自立の精神で、切磋琢磨するように、」

部活の先生が、いつも、話されていたことです。

卒業式だって、両国の国技館我いっぱいになる生徒数ですよ、

各セクションで、しっかりとまとまっているのでしょうね、、、きっと。

普通の大学の組織図や、統治の仕方では

とても無理、、、無理の、、生徒数ですよね。

正しいことが正しいと通る世の中であれば、

「名誉は高額な経済力のうえに咲くボタンの花」かもしれません

庶民が驚くことは常識かもしれません。

日大の学生時代に、、、

新年会などに参加した学友のお屋敷は

さすがに、、、社長宅!!!、、、

先生の方が、おんぼろ車で、駐車場が滑稽なさかさま風景でしたよ。

スポーツをするには「お金」が必要条件ですもの。

お金がないスポーツ部は「首が無いのと一緒でしょう」

そうなると、、、学生だけの部をつくるという事は

金欠で敗北という、、、残念な結果が見えています。

ロシアなどは国を挙げてオリンピックの金を目指しています。

日大という、、、一大学が20個以上も金をゲットできたのは

バンカブルな頭脳の経営陣が居てくれたおかげじゃないのですか?

私は、、、結構たくさんの大学を、、

兄貴から無理やり受けさせられるという

ワンマンなドンの居る家に育ちましたが、

トップダウンは賛成派できませんが、

トップダウンをしてくれているおかげで

自分でやらずに、済んで通過できたこともいっぱいあります。

上から、下の未熟はわかりますが、

下の未熟な私からは、兄貴の嫌なところしか見えません。

しかし、、、子育ての終わった70歳を過ぎた今、

日大の医学部を卒業しても、医局に残る余裕はなくて、

がんセンターで研修しながら、父の残した開業を引き継いで、

未亡人の母の立場を守り抜き、ピアノの会を存続させて、

後ろ盾となり、弟妹を、必要最低限の大学を出して、

妹は、嫁に行くように、、、たたき出した、、、姿は

当時は、「むちゃくちゃな兄きだと、理解できなかった、」

父が54歳で早逝した、8人も子供(一人は流産)が居て、

戦争中に4人が死んだ時代を超えて、

総合病院の院長という指導者だった父が、

軍医として敗戦の野戦病院で、出会ったのは

キリストだったと言った、

実家も、病院も、子供も亡くして疎開した父は

母の故郷で、母の家族の真ん中に母を戻すことで、

母の心の元気を癒して呼び戻した。

疎開地は3000人ほどの人数が健康であるためにも

たった一人の医師であった父の双肩に「心身一如」の

外科から心の病まで、内科、産科、、、全ての科の患者さんが

父一人を、頼りにしていた疎開地でした。

ブラックフォールを抱えた敗戦の日本で

父は、、、神様のように、頼られたのです。

時代が、今なら、「全科を診療するなんて、、、藪医者だと、、、」

ワイドショウのTVの司会者に、、、くそみそに言われる前に、、、

疲労困憊して、、、早逝した。、、、名医のまま、、、今なお生きているがごとく。

このころの疎開地では

相撲によって、、、父も母も元気をもらていました。

悲劇の美しい横綱、、、吉葉山、、、など。

私も、若乃花、栃錦の時代から、白黒TVが着た頃は

プロレスや、運動家に元気をいただきました、

栃錦の家が我が家の診療所の背中合わせにありました。

小学校のとき、栃錦の出身の、小学校が焼けました。

そのとき、グラウンドに、相撲の土俵が出来ました。

若秩父や、オオダチ、もみあげの朝潮、、、、観の前で相撲を見ました、

圧巻の衝撃でした。

栃錦は、膨大なお金を寄付して、その年のうちに

小学校は新設の素晴らしい学校に生まれ変わりました。

日本のお相撲さんは、だてに髷を結っているのではありません!!!

心は節なのですよ!!!

校長先生が発言していた言葉を今も覚えています。

なんの話を、、、していたのか、、、

眠くなりましたので、、、おやすみなさい。

日大の苦労は、、、日大生しか、、、わからないよね、、、

先生方も、、、マスコミ巻き込まないで、

時代の流れに沿って、変わるものは変わればよいのであって

オリンピック終わってからでも、、、遅くないと、、、おもいませんか?

日本が、世界の平和への貢献の、、、、蚊帳の外にならないためにも、

オリンピックの運動を盛り上げて北朝鮮を啓蒙して行ける力をつけて

アジアの平和を、運動から   、、、外交になると思ったのは、、、

ジャイアント馬場さんが、外交なさっていたのをTVで見たときでした。

話が、寝ぼけて描くと。支離滅裂になるので、、、おやすみなさい。

       婆の日記より

 

日大には、また、金メダルをゲットしてほしいですよね、

日本の種にも、。。。

 

ベンハーの映画で、砂漠の真ん中で、水をくれたキリストが出てきますよね。

 

 

 

 

 

オリンピックを、まじかに控えて、

金メダルを20個以上も獲得している日大のスポーツマンを

めちゃくちゃにするには

国策としても、大損害だと思いますけどね、

とりあえず、スポーツの日大は世界レベルなので、

日大の大学の問題で、マスコミであんまりひっかきまわされると

学生数が多い大学なので、

せっかく社会人として、頑張っている卒業生が、

風評被害で、困っています。

そろそろ、世界平和の話題に切り替えていただけたら

、、、70歳過ぎt私は、安心して、歳をとってゆけます。

日本野TVは、世界の一大事の時に、

阿部首相を同じ質問でくたびれさせたり

小学校の話や、獣医学部の話や、、日大の話で、、、

社会人になる前の組織の話で、どこの局も學校だらけでした。

アメリカや、韓国や、ヨーロッパや、ロシアからも、

大切な情報が入っていたはずですよね、

情報は、ネットに頼るしかありませんでした。

TVは茶の間の文化でもありますから、

そろそろ、、、学校の話は、結果が出てからにして、

日本中に大勢の卒業生が居る仕事の現場では

金メダルを取ることが、敗戦の日本野焦土から

立ち上がる元気をくれたことは確かです。

時代が作った、日本大学だから、

かじ取りは、日本大学そのものの力を信じて、

ここらへんで、、、国際問題を放送して、

茶の間を現代社会に遅れないように

TVの、スタッフの皆さんで引っ張ってください。

死んでゆく3日前までは、若者と意見交換できる年寄りで痛いです。

アンドロイドのアプリに負けない、多くのアプリをTVからも

お茶の間にダウンロードさしてください。

民放のお茶の間井戸端会議は、

日大問題を抜けば、結構見ていますよ。

 


米朝首脳会議に平和な地球家族を期待しています

2018-06-12 04:53:20 | Weblog

 

長い間、終結しなかった戦争が、今回終結することになり、

世界は平和な地球を目指して

一層団結して、

孫子の時代、、ずーと未来に向かって平和を大切な目的にしてほしいと思います。

一歩一歩、、、核武装なんていらないという事を認識して、

地球は全人類の、全動物たちの、全植物たちの、生命科学は土も鉱物も海も、、、すべて

生きている、

核は全廃する方向へ行くでしょう。

トランプ首相はノーベル賞ですね・

 

 


弟の存在に、守られてきた、、、と、、、気が付く

2018-06-11 04:14:17 | Weblog

第二次世界大戦のどさくさで

父母は国策の掛け声で8人の子供を育てるはずであった。

しかし、、、戦場から引き揚げたときは2人と胎児出会った。

焼夷弾の雨降る中を疎開先にたどり着いたときは防空壕の中で

私を出産しました。

戦地では男の子2人、女の子一人、そして流産が続き

産めや増やせの国策のさなかの敗戦でした。

疎開地では、笑顔もなく、心のバランスをとりながら

明日に生きる力を、皆で支え合っていた時でした。

戦争を知らない、、、新しい復興に向けての朝日のように

戦争を知らない、、、弟が生まれました。

七か村無医村だったところに、

戦陣外科の現場の経験のある外科医が、疎開してきたのですから

村は、診療所を用意して、迎えてくれました、

人工はにわかに3000人ぐらいに膨らみ続け

都会から踊りや唄の師匠さんらも呼ばれて

一大復興ムードが盛り上がり始めたとき

「医者の家に、、、!!!男の子がうまれたよ~~~!と

村中に伝令が回りました。

大勢の人が、、、お祝いに駆けつけてきて、

にぎやかな日が続きました。

弟が生まれてから、母がどんどん元気になり。

父も、暇さえできると、

弟を腕に抱いて、、、

「この子を!見てくれ!、、とばかりに、、、その魅力に吸い込まれていました、」

敗戦で、打ちひしがれていた疎開地に、「復活の希望の天使が誕生しました、」

一大ベビーブームが起こりました。

世に言われる、、、「団塊の世代の誕生です!」

父は希望を取り戻しました、

母は、、笑うようになりました。

私も、、、弟を見て、、宝物のように思いました。

日本は復活に向かって、

戦争を知らない団塊の世代の新人類が

日本をけん引して、敗戦から立ち上がってゆきました。

打ちひしがれた大人たちの

しおれた花のようなげんきのなかった、、、心に

朝日が差し込むかのような、、、

新しい命の光が差し込んだのでした。

弟の誕生は、日本が生き残っているという

内なる心の存在に元気を流し込んでくれたのでした。

団塊の世代の弟たちよ、

君らは、、、日本の歴史に残ってゆくだろう。

                  つづく

 やがて、成人した弟たちの世代は「団塊の世代」と呼ばれた。

ガイヤの夜明け野番組にも

何回となく登場して、ファィトをくれた、ファイトマンの集団が

日本をアメリカや世界に向けて、追い付き追い越せの経済大国への発展の

大きな原動力になった、新しい考えの世代でした。

弟は、成人してからは、築地のがんセンターの黎明期に、

千葉大学の外科の教授の同意を得て、同じ千葉大学の市川先生に見いだされ

ガンにかかって絶望だった時代から、早期発見し、がんとともに勤務する時代まで

多くの困難を乗り越えたがん医療の先発隊の黎明期に全力で走り切ったのでした。

CTって何ですか?、、、と、各課の医師もよく知らない時代に、

小さな建物の中で、画像の改良を、日本の東芝と言われていた会社の技師や、

後に、東北大学の教授になられた物理や工学や数学や理類に天才的な方達と、

円卓を囲んで、多くのジャンルのエキスパートの知恵を結集して、

医師が必要とする場所が映し出される画像を目指して早期発見のがんとの闘いに

明け暮れた人生だったと、単行本になった「がん回廊の朝」「明日への闘い」や、、、

多くの外国の雑誌の記事を、子育てをしながら、遠く北海道で読んでいました。

コロンブスの卵を立てた出発点から、初期の苦労を知らない世代の時代が、

そびえるように、立派な建物になったがんセンターが、いつか、黎明期の人たちの

苦労に気が付くとき、出来上がった名誉の上にさらに、、、

新しい実績を重ねえ行くのは

創生期の医師たちの歴史の上に、新しい歴史を上書きするのではなくて、

ガンという基礎も臨床も、機械の世界も、コメディカルも、精神面も、

薬面も、、、円陣を囲んで発展してきた歴史を大切に残しながら、、、

未知なるものと戦って今日に至った、医学の闘いの書として、歴史のように

後人に大きなヒントと勇気を与える発展の書として、、、

残してほしいと思いました。

世間に認められた、名前と、地位をめぐる簡単なものではないという

学門の詰まった、戦後の日本復活の

「がんとの闘いを通して、日本人の意識の高さを後人に伝えてください。」

名医の見つかる診療所を民間に優しく伝えるTV番組に、

がんセンタ―の黎明期の医師が出演するとき、

苦難に満ちたがん医療の発展にささげた老医師に

心から、、、感謝をしている、、、70歳代のお茶の間ですよ。

                つづく

 


息子の婚活

2018-06-07 04:31:36 | Weblog

誰でも、、、思い出はあると思います。

早すぎた出会い!

学生時代には、華やかな出会いがあるのは、、、若さの力!

香しい時代に、

自分を仕上げなければならないのが日本の若者事情でしょうね。

中仙道の江戸時代をそのまま見るような、、、

不思議な自治体の力、***そして世界遺産への道へ***歴史は残ってゆく。

首都とはなったが、

江戸は

ビルのコンクリートジャングルに変貌。

世界の最先端の人工頭脳をスパコンでコントロールしながら、

いつしか人工頭脳の設計に沿って

人工都市として集約してゆくのではなかろうか?

私は小学校から大学まで、

未来の人工都市東京で過ごし、世界に目覚めてゆく日本を感じながら

とりあえず、英語で考える合理差的な考えを目指していました。

本来は、

小説を読んだり、日舞に没頭したり、花を育てたり、絵をかいたり

普通の日常の中に、感性のレセプターを働かせていると

時間が足りないと思うような、空気が愛しくて、

何もしないでいる時間が性分に合っていました。

朝顔が咲いて、ヒルガオが咲いて、夕顔が咲く時間に

家族が集まり、団らんする、、、。

 

全て戦争が日本人を変えました。

男の子3人兄弟の中に

、女の子が一人、、、、

戦争の生き残りの4人兄弟姉妹という、

せちがらい生存魂の潜む、、、復活に向かって切磋琢磨の世代です。

戦後の団塊の世代でした。

「働かざる者喰うべからず」の一徹で、

世の中は頑張る人ばかりでした。

昭和38年、運のよいことに、学業だけはスムースに覚えられる性分でした。

お茶大附属高校か、教育大付属高校を受験して

女医になろうと思った時期がありました。

希望が大きいと、馬鹿力が出るもので、

中学校の先生は、受験を許可してくれました、

蛍雪時代から、

未来の夢を語る座談会に、学校の代表に出席を求めてきました。

中学校の担任は、私に出席をするように言ってくださり、

各学校の代表との座談会に参加させていただき、

インタビューに答えてゆくのですが、、、

さすがに、皆、頭脳明晰で、すごい、、、と感じました。

あの生徒たちを敵に回して受験をするのは、恐ろしいとも感じました。

しばらくして、家に帰ってから、

教育大付属の受験用紙に、必要事項を書き込んでいると、

兄貴がやってきて、、、「何をしている?」と問いかけてくるので

中学で、アチーブテストを800点越えした生徒に

担任が、「附属高校を受けてみる価値あるよ、、、」と

願書をくれたから、、、

受かるかどうかわからないけど

やるだけやってみようかと、、、

願書に記入してるのよ、、、」

兄貴は、書きかけの願書を取り上げると、

「教育大付属は遠いんだぞ!、毎日毎日、東京横断の交通費かけて、

時間かけて、未来は人の奥さんになるお前が、、、

なんで余分な時間と金かけて、、、野心に燃えてるんだよ!

女らしく生きられないのか!、、、こんなもの!、、、

隣に都立小松川高校我あるだろう、、、

そこで、一番とって見ろよ!、、、なわばり違いの、、越境だぞ!」

人がせっかく、、、

試しに受けようと書きかけた願書を

びりびりに破いてしまいました。

戦争中の昭和11年に生まれた富国強兵時代に、

叩き込まれた精神は、、、女性は銃後で貢献せよ!でした。

学徒出陣した叔父さんが、28歳で早稲田大学の理工学部に再入学して

東京都の公立の教諭を経由して、女子大の教授になっていました。

大学受験のころは、ミカン箱いっぱいの女子大学の

しかも、、、

短大部の受験資料を持ってきた兄は、言いました。

「良いか!女性は、白百合大学、とか、ぽん女、とん女、とか、跡見とか、、

嫁の貰い手のあるような大学に行くもんだ!、、、」

たしかに、、、ミカン箱には推薦状で行けそうな、、、

良妻賢母の品の良い奥様になりそうな

女性が第一志望にするような

女性の名門大学のパンフレットがぎっしり詰まっていました。

ズックにソックスをはいて、制服一着で過ごす妹が

むさくるしい、、、ブスに見えたのでしょうね!。

兄の気持ちもわかりますが、、、私には、、右手にやけどの傷がありました。

家族は、、、気にしないのhわかりますが、、、

結婚を目標に生きるよりは、

右手の火傷を、、、、かくも見事に治癒させた医術のすごさに魅せられていました、

Zカットのむった傷跡はよく見ないとわからないほど自然に見えました。

3歳の時の右手の団子を覚えているだけに、

ピアノが弾ける右手に復活させた、父の外科医の腕が

自分も医師になって、ベストな状態で人が生きられるように

役に立つ人間になれたらいいな~~~と思いながら、

ペンも右手で持てるようになったときから、

お嫁さんになりたいとは思わなくなった。

しかし、、、兄は8歳まで大陸で過ごしている。

なぜなら、、、医学部で英国医学の外科を取得していた父が

軍医として、外科総合病院の院長という立場で

戦争の為に倒れた傷病を治癒させられる西洋医学の指導にと

戦地に近い大陸で8年間も滞在していたからであった。

待遇は良かったものの、戦争中の外国の暮らしは大変だったと思うのです。

弟妹や父母にも、過剰なぐらい長男として役割を果たさねばと、、、

責任過剰に育っていたように、

妹の私からは、、、自意識過剰に思えて、うっとうしかった。

しかし、、、当時は

長男がダントツに家の中では権力も、信頼もすべて独り占めの時代だった。

妹にも、弟にも、、、おせっかいが過ぎていた。

 

「真っ白な、リボンのついた白いハイヒールを履いたら、似合うよ!」

本当に、、、買ってきて、それを履いて、

兄嫁に銀座で服を選んでもらってきなさいと、、、言った。

ハイヒールは、歩きにくいし、嫌いだったけれど、

兄と、兄嫁には逆らえないので、、、仕方なく、銀座に出かけました。

学生結婚していた兄夫婦は、

学校祭のダンスパーティなどにも

夫婦で参加しては炎上していたから、、、

兄嫁は、、、

セレブの趣味に偏重していたので、

私は、

気が付かないふりはしていたが、、、常日頃から、、、

趣味が違っていた、

ことさらに、女性であることを強調した洋服も帽子も、眼中になかった。

何かを任されて、私でなければ出来ない、、、と

必要とされる居場所を求めていたような記憶がある。

勝気とは異質のもので、、、人に命令されたくないと思っていた。

大学の薬理の教授が、勧めてくれて、

国際人の集まる東京大学への就職が決まったとき

 東京大学受験に、2年も続けて失敗した兄は、

猛反対をしたが、、、「中側から、、、観てくるだけだから、、」と、

円満に説得をして、大人同士の時代へと主張を通した私でした。

スパコンを操る学生の集積。東大に勤務した、

父が大学に在学中のとき早逝した後、

兄は、、、パニックになりながらも、、、外見は普通に装って

未亡人になった母や弟妹や、地域に貢献していた医療施設を一気に引き受ける羽目になった。

大学卒業直前から、縁談を持ってくる兄に、私は閉口していた。

独立しよう!!、、、ひたすら、障害物の兄を避けるようになった。

大学は卒業した、、、、が嫁には行きたくないと思った。

国家免許も取得した、

しかし東大では、薬剤師の免許証書は不要であった、

大学を卒業の時、

薬剤師免許に付随して取得できる

もう一つの国家免許の「衛生検査技師」のスキルが役立つ職場だった。

 

大学院や他科の臨床部門からの出張研究の先生方の分析データーの実験の助っ人?

教授の研究の単調な手間暇ばかりかかり、だれがやっても同じようなデーターの測定を

ガラスケースの中で鼻息をも、、、邪魔になるミクロの検体を測り表にしたり。

 

炎色反応を利用したコンマ4桁以下の元素の分析と計算。、、、だとか。

犬やハムスターや、

ヌードマウスに薬物を投与した後

各臓器のスライスを水浸して析出した元素を分析するために

10倍から100倍、時には1000倍の希釈液を作り

フレームの炎色反応を使って

「分析することで、動物に与えた薬物の分布を濃度別に作成するというようなじっけん。」

使った実験動物は、地下の動物小屋で、

メイトサセテ、、増やすという合理的なサイクルを請け負っていた。

今から考えると、、、精密分析器のない時代の、

人間機器分析機械の仕事だった。

30歳半ばまでひたすら実験室で

機器分析機械の代行をしていた先輩薬剤師が

見合い結婚することになり、

急きょ空席で、データーをとれる薬剤師で

即戦力になれる新卒の求人が要ると、

大学の薬物学教室の教授に求められてきた。

大学時代に父親を亡くして、

すでに奥さんの居た兄貴のパワハラで、結婚しろと脅迫されるよりは、

一日も早く就職しようと勤務先を検索していた卒業まじかに、

卒業旅行の計画があり、

家庭教師のアルバイト等もしてはいたモノの、、、

卒業期には物入りで、兄にお金を貸してほしいと申し込んだら、

卒業旅行は行く必要がないだろう、、、、と言われて、

借りだしは失敗に終わり、

断腸の思いで、

ひとりだけ???かな、、、参加しなかった思い出が、今も悔しい。

実験室に飛び込んで、一人実験をつづけた、

所属していた薬理学部活の教室で、

成長ホルモンが血糖値に何らかの影響を与えるのではないかと思い

牛の脳みそをホモジナイズして

成長ホルモンを抽出して、

大きめのラットに投与していたら、

担当の教授がやってきて、

「面白そうな実験をしてるね、たぶん、成長ホルモンは血糖値を動かすよ、、、、。」

教授は指導してくれたあと、東大に、結婚退職する技官が居て、欠員ができるから

就職が決まってないのだったら、東大の実験室を体験しておくのは勉強になるよ、、、」と

肩ひじ張らずに、気楽に「どう?、、、」と。再度、、、進めてくださった。

実家の兄は、私の顔を見るたびに、

「嫁に行け!」とパワハラだ、!!

二つ返事で、

「勤務してみます。私ごときが通用するかどうかわかりませんが、、、

実験のデーターをつくり、自分なりに考察を書くのが好きですから、行ってみます。」

そして、

研究の怪物の住む東京大学の薬理学教室に、、、勤め始めた。

身分は技官。

公務員であった。

月給は臨床薬剤師の三分の一ぐらいで、

学会前などは、

データーが出来上がるまで勤務するので、

暇なときは暇、、、暇、、があり、

自己研鑽の学門まがいのコダワリノ自習時間がオイシク思えた。

 

なるほど、、、気が付くと

30歳半ばになりそうな職場に思えるほど、

相対時間を感じさせる何物もなく、技官に対しては

先生方は空気のように刺激をしない物腰の柔らかさで

、実験を任せてくださった。

実験室の片隅では、コケだらけのガラスケースの中に

オレンジ色の金魚が現れては、

重そうに、、、腰を振ってコケの中に消えてゆくのだった。

 

3か月目!!!寿退職のはずの、、、

辞めるはずの先輩が、、、、破談!

「22歳の私に、

「再就職は極めて困難な自分に代わって、私の方に辞めてほしい、、!」

30歳過ぎた薬剤師が再就職したくない気持ちはよくわかる。

毎日、、、

「お願い、、、」と言われているうちに、

いきなりだと、先生方に悪いから、

あと、半年!、

今やっている「酵素」の腎臓内分布のデーターが出来上がったら、

基礎実験は一段落なので、

薬局という本を出している大学の模範薬局に

研修生として、半年、

臨床薬剤師のノウハウを身に着けてから、

臨床に移るから、

半年間、ここに居て、まずは先生に言わなくっちゃ、、、。

11月になるころ、

私は大学病院の薬剤科の無給研修生として

地下の製剤業務の、

蒸留水を再度蒸留して

院内の輸液をつくる無菌操作から始まった。

実験室に居たことが役に立って、

研修はどんどん進み

運の良いことに、

一か月過ぎると正職員に成れて、月給がもらえた。

この時は、久々に、、、

うれしい!日であった。

同僚と労音に加入しては、演奏会に行くのが楽しい週末で会った。

30歳前後になって、

一人前の薬剤師になれた頃、

主任さんあたりの身分を嫁入り道具にしてで、

結婚してゆく人が、、、いましたよネ。

結婚は、、、薬剤師を辞めて、

子育ての人生が始まりますから、、、

技術を取得してから、再就職できる腕前になってから、結婚するという計画です、

腕に自信のつく30歳前後までは、

ほとんどの薬剤師は、独身だったように記憶している。

一歩間違えると、婚期は40歳前後となり、タイミングが難しかったようである、

再就職した大学病院の臨床薬剤師の仲間の一人は 

小松川高校の同じ学年の薬剤師も勤務しており、

薬局内の男性薬剤師のエースとゴールインして、

ちょっぴり、、、羨ましいお似合いだった。

研究室よりは、はるかに、刺激の多い環境でした。

私の場合、、、

兄貴のお嫁さんが、すでに、我が家に同居しており、

名門短大を花嫁道具に、自分にしか興味のない女性に思えたから、

義姉とは、接点がなくて、喧嘩することもなかった。

会うたびに、、、出て行け、、結婚しろ、、、と、兄貴は焦っていた。

毎日のパワハラで、30までは結婚しないと誓った心も、

兄貴の持ってくるお見合いには閉口してしまいました。

義姉とは恋愛結婚なのだろう、、、たぶん、、、

学生結婚反対する父母を押し切って、二十歳の短大生は、、、私の部屋を取り上げた、

ともかく、、、

24歳の薬学イケイケ時代なのに、激流に居た無給医の病気にかかわったために

天は、一過性の彼の難儀を知らぬ顔して通り過ぎることを

私には許さないという、、、成り行きの激流につきどらしてでも

結婚という運命に逆らえない状況を与えてきた。

戦うことに、恐れを知らなかった南国生まれの私の戦場は

冬の留萌から始まった、

結婚とは、、、生きるための戦いであると思った。

無給医で、国家試験ボイコット時代の、、、ホームレスと紙一重の

悩める、、、手の打ちようのない、、、サバイバルの中の病人と出会ってしまった。

恋を選んだ同級生が外科医と結婚するから

友人代表で挨拶をしてほしいと、、、

再三、電話が着て、

東京で勤務中の私には札幌に行くのは無理だからと、、、断った。

最後には、旦那様になるという外科医から電話が入り

それでも、ゆけないものは行けないと断ったが、

お母さんを電話に出してほしいというから、

母と代わったら、、、札幌には後輩の護衛をつけるから

ヒコーキ代も、宿泊所もすでに支払い済みで予約してあるからと、、、

母が説得されてしまった。

勤務先には、有給休暇を申請して

幼馴染の、、、やがては30歳過ぎたら、、、結婚しようと話し合って

恋人未満ではあったが

家族ぐるみの知人で、母も家族も認めていた、、兄より、、、兄と思っていた人が

仕事の調剤を作り置きするからって、真夜中のオーロラ便で

札幌に行くなんて、、、むちゃくちゃだと、

真夜中の2時まで、空港に見送りに来てから、、、言った。

お土産はいらないから、、、挨拶が終わったら、とんぼ返りしておいで、、、と。

しかし、会場で、隣の席にいた、新郎の後輩の外科医の卵が

式の後、病気で、

かかわらないわけにはゆかない状況になり、

大学病院前の共同住宅に送ってゆき、病気の看病をする羽目になった。

その年の夏休みに上京してきたその男性は、

私の頭ごなしに、母と会いたいと言って、

父の亡き後の、内科医だけの診療所には

外科医が必要でしょうと、母を説得した。

母は、、、早逝した父が若返って、家に戻ってきてくれると

喜んだ。

博士号を取得したら、私も父母の為に

東京に帰らねばと思っています。。。。

殺し文句で会った。

診療所に外科医を雇用することはむつかしすぎる。

向こうから、、、我が家に入ってくれるというのだから、

母も、兄も、彼を向かい入れたのでした。

 

東京から、北海道の、家なし、車なし、車の免許もなし、

奨学金返済のてんこ盛りの負債付きの次男の外科医と結婚することになった。

兄貴ばかりが「大はしゃぎでス!!!」

兄嫁も、歯をむき出して、、、おめでとう!!!」

私が津軽海峡を越えて、

遠くに行くことが嬉しすぎるようでした。

小姑って、、、

喧嘩の一つもしたことないのに、

存在だけで、厄介者に見えるのですね?

多くの人は「高島田」のお嫁さんの意匠でとつぎたいでしょう?

私は、、、「家を、出てゆけばいいのでしょう、、、!」と。。。

薬剤師の免許があれば、どこに居ても、何とかなるだろうと、、、

大学卒業の時の振袖を着まして、頭は自分でアップにまとめて、

簡単に、自前のウエデイングドレスで済ませました。

友人も高校からの友人2人と職場の薬剤師仲間と

処方箋をいつも問い合わせていた友人ント婚約者の内科医、

何度もプロポーズしてくれたけど、血縁なので

恋人には発展しなかった従妹。、、、10人ぐらいの知人だけに知らせて来ていただき、

津軽海峡冬景色、、、の、

石川さゆりの歌の聴こえる連絡船で

実家に別れを告げました。

結婚は、冷たい空気に吸い込まれてゆくような、、、

知人をすべて無くすような、、、寂しさがありました。

主人の方も、、、病気で、、国家試験ボイコットの無給時代のあおりで

きわめて、体調を崩しており、

一人暮らしの心細さが、

医師の過程で育ち、医師の兄とピアニストの母の娘である私が

薬剤師の免許で働いている医療人であると認識したとき、

生涯の、片思いの恋人に振られた直後の心が、、、寂しすぎて

看病をしてくれた私を、藁と思ってつかんで、

初恋の人との別れ、、、卒業したのに、クラス全員の国家試験のボイコット、、、

そして、、、無給。

目の前には30歳という年齢。

彼は、、、身近に流れてきた藁をつかんだのだと思った。

そうしなければ、、、孤独に耐えらえない身分なき無給医時代が

恐ろしかったのかもしれませんね。

結婚、、、結婚の動機なんて、、、

甘いものではありません、、、

究極の行き詰まった状況で、、、

清水の舞台から飛び降りる、、、不思議な、、、思いっきりがあります。

しいて言えば、、、父が早く逝きすぎたことが、

何らかのブラックホールを引き寄せてしまい

白鳥は飛べなくなったように

天命の配置でした。

清尉と、努力と、工夫と、勤勉さが天性だったわたしの性格は

気が付いた時は74歳に、、、。

父が54歳で早逝したとき、

高校生の弟は「医師になりたい学生」だった。

長男は、内科医一年目で、外科医の院長だった父を喪い、

怪獣並みにスケールの大きい音楽家の未亡人の母を引き受けて、

ノー天気に自分のことだけ考えながら、東大の実験室に通っている妹が

独りよがりのオールドミス候補一位の妹に見えたのでしょうね。

私自身は、男の子のような性格ですが、

父が亡くなったとき、

大学時代の部活の男子学生が40人も来てくれたのですから、

男子は、そのうち大人になるから、

そのうち、、、ほ~ておいてくれれば、、、

来る時が来て、

結婚する気になれば、出てゆくから、、と言っても、

「今年中に出て行け、、、お見合いしろ、、、まだいたのか、、、」

兄貴のパワハラには閉口した。

結局、、付き合う時間もなかった

時間貧乏の外科医の卵と、

考える暇もなかった薬剤師が、

免許のある二人なら、、、

何とかなるだろうと、、、

二間と物置の3畳の10坪の木賃アパートから、

銭湯に通う貧乏暮らしから、、、

とりあえず出発しました。

博士号を取得するまでは、

3か月ごとに移動する勤務であり、

夫という、

相棒は、そのお金で、

本を買い、

医局費用を支払い、

博士号取得のための実験動物を購入して

余ったお金は奨学金返済と

授業料をし送ってくれた母へと

夫は「台所でも治してください」と。

生活費はほとんど入れないで、

博士号取得に全力をかけていました。

 

5年後に博士号が取得できると

留学やら、札幌での仕事やら、、、

医局は居場所をくれたようだった。

 

まともに給料が入るようになって、

はじめての給料日は、

当直を忘れて帰宅して、

満面の笑みで、興奮していました。

このころ、結婚すれば、外科医と結婚しても、

内科医と結婚しても、

普通の幸せな結婚生活になると思いますよ。

とにかく90万円ほど残っていた奨学金を、

何が何でも、後輩の奨学生に回すことが先決なので、

1年間は、家計に入る収入はありませんでした。

風呂のなかった木賃アパートに、

出てゆくときには置いてゆきますのでと、、、交渉して

ほくさんバスオールという

軽量な移動風呂を設置しました。

医師も35~6歳になると

結婚できる実力が備わってきます。

この時期に、留学していたり、病院を巡回して腕を磨いていると

医師は、40歳になり、

気持ちばかり若いですが、

おじさんになって独身という事になります。

我が家の次男は43歳で、やっと

借金もほどほど返済して、

結婚準備に入っております。

医師という職業柄、お世話をしてくださる人々に巡り合えて、

もったいないようなお嬢様が、

お見合いにと紹介されてお会いしています。

永住したいのが伊豆の国市なので、

息子を気に入ってくださるお嬢様も、

伊豆に永住なら、

行きたくないという都会ジェンヌばかりで、

困っております、

伊豆の国市の地元の若いお母さんが

娘さんにくっついてきて

結婚生活の娘の為にと、生活の、ノウハウ教えてくれて

家事も育児もやってくれそうな、おばあちゃんになれそうな

お母さんがいたらいいですね、

44歳になる前に、必ず、

神様は息子の人生の相棒を連れてきて下さると信じています。

医療に生きて、時間貧乏なだけですから、

世の中に貢献できている旦那に、

良い仕事をしているんだと、、、

満足してくださるお嫁さんなら、

毎日、かつ丼や、ビーフカレーぐらいは保証できる月給は

家に入れてくれるはずだと、、、信じてください。

健康で、愛はすべてを乗り越えると信じています。

親から見ると,

良い息子なのですが、、、

医師という仕事を親元離れてするというのは

結婚する相手を見つける暇がなかったのでしょうね、、、。

質素ですが、仕事は設備の整った仕事場であるという事が良いですね。

認めてくれる質素な健康な、自分に自信のある女性が

息子をリードして、よい家庭の作り方を

魅せてください、

運命を待つしかできない年になりましたが

男の43は、男盛りだと思うのですが、

結婚してから、二人の好きな家を買いたいと、、、

巣を創って待つタイプでは無いことが、、、時間貧乏の哀しいところですね、

 

 

現れるような気がする初夏です、

 

             


日本大学とマスコミ

2018-06-05 17:00:10 | Weblog

日本が島国であるというまぎれもなく

長所と短所の併せ持った歴史を学ぶとき、

日本大学の「法学」から発展していったことは

実に興味の湧く学校でした、

大学時代に、教職を選択していたことで

昼間の理工学部の授業が終了してから、

夜学の講義を、大学院生の皆さんと、移動教室で受講する機会が

3年間あり、安保闘争の時代を、粛々と自己のレベルアップにと

ひたすら、、、わき目もせずに受講していた。

政治を考えないわけではありませんでしたが、

思想も、政治も、革命も,、、

むつかしすぎて、行動する自信がありませんでした。

東京大学の、頭の良い学生たちの闘争を傍観していました。

女子学生の死は、記憶から消えることはありません。

医学部では、

「青医連」のような、国家試験ボイコットグループが

スピーカーをもって、

難解な理論を叫んでいました。

教職の同窓生には、他の学部の大学院生がかなり居ました。

先輩の方から、近づいてきてくれて、

日大の学生たちの

政治への関心を討論してくれたり

自宅を開放して、(お金持ちが、広い邸宅に住んでいらしたのが、記憶に残っています。)

泊まり込みで、ディスションしたりしました、

建築課の学生は、女性であっても、

大学院に通って、

設計図をヒキナガラ、

視点は大きな、未開発の、外国への夢に燃えていました。

その中の一人は、化学部の大学院生の女性でした。

帝京大学創設に大きく功労のあった学長さんのゆかりの女性で

男勝りの、はきはきした先輩でした、

地学の実習で「昇仙峡の山野や河原を探索」しながら、

ヒスイの原石のジャモンガンを探して歩き、

大きい石を見つけて、ジャモンガンと思い込んでいたり、、、

学生たちは縦関係で、充実した実習をした思い出が懐かしい、

彼らとは

これから出来る帝京大学の医学部の話などしながら、

學校に、新設の医学部が出来るまでの、

一大学院生の

未来への夢の実現が、絶大なパワーとなって、

大きな力となって

大学の学部そのものの新設という

巨大な夢の実現の為に、学部が新設したら、帝京大のの戦力として貢献したいと

大学院に通いながら、

未来に出来る新設学部の教官を目指して

指導者を夢見て、

教職課程の講義や実習に、英会話にドイツ会話にと

政治活動そっちのけで、自己の研鑽に夢中だった学生のことが思い出されます。

大学は繋がって発展してゆく舞台裏の立役者と一緒に授業を受けていたのでした。

自己の責任において、自主自立の未来に向けての手探りの時代でした。

青春のすべてをかけて頑張っている姿に出逢いました。

つまり、、、

日大は、東大から、多くの教授を迎えていましたし、

東大と掛け持ちの教授は、

同じ問題を出しているのに、

日大生は、興味の対象でない問題には答えていないと、、、愚痴っていましたっけ、、、、(^^M

、東京大学とも、帝京大学とも、ゆかりの深い、大学ですよね。

あの時、教職の実習を一緒に実地した同級生は

慈恵会医科大学の薬理の助教授になって頑張っていましたから

慈恵会医科大学とも仲良しなのかもしれない、

自衛隊の数学の先生をしていた同窓生も居たし、、、

運動部も、日大をボイコットしているより、

アメフトの部活という一連の連帯の問題として、

マスコミ抜きで、

大学同士が兄弟のように結束して

アメフト部連合のような組織で、自浄作用を発揮して、

問題をマスコミによって拡げてしまうと、風評被害がでませんか?

自主自立の校風が学生を育ててきた以上

各大学間が結束して、学生の育成に糧となる部活を運営してくれたら、

日大全体の体質まで云々されることもなくなるのではないのでしょうかね、、、

日大の悪口は言いませんが、、、

平成最後の、、、オーミステイクだと思っているのではないでしょうか?

大学院で机を並べてディスカッションした同窓生は

彼は、帝京大学の勤務しましたから。

教授になられましたから

帝京大とも日大は仲良しなんですね。

******************************

戦後の時代を振り返ると、、、

青白きインテリ時代もありました、

肩ひじ張って、学問にこだわる大学には、、、

頭が良い、、額がある、、、と、拍手を送り

運動なら日大が楽しい、

オリンピックにも出場という

世界レベルに夢をつなげた、

理論と実践は車の車輪とボデイにも似ていて

臨床の実践に切磋琢磨している現場の雄は

論文を書いている暇はないはずですから、、、

東大のゆかりの指導者が、

「学問もできて、運動もプロ級の学生が、東大には居る」と、言っていましたが、

本当のプロになると、どうなのでしょうかね?

天才が目立つだけではないのでしょうか?

天才君は、それはそれとして、、、

スタンダードに考えて、部の結束が

大学間の部活の結束となり、

良い指導者を得て、

応援の予算を、大学からも出していただき、

放送したマスコミからも、出演の運動部活応援金をギャラの代わりにいただいて、

世界に向けて通用するモラルの高い部を作ってゆけば、

今回のことは「塞翁が馬」と言えるのではないかと、、、

茶の間で、老婆心ながら、考えています。

日大は、、、元来は、、、

学生の夢を元気づけたスポーツの選手の多い大学だったのですよね。

体操の時間、、、あの有名な

体操の遠藤先生に、授業をしていただけたのでした、

学問の基礎の分野では7帝大、、と早慶戦の6大学、

東都大学で、箱根マラソンにも実績がありますし、、、

学問に欠かせない実践、技術、創造と言えばよいのか、、?

臨床部門と言えば良いのか、

優秀な学生が多いので、

素晴らしい指導者が部活をけん引すれば

日本のエースの大学になることはわかり切っていると、、、思うのですよ。

*************************

激動の戦後の時代から

国会議員がかなり、、、日大卒業生から出ていますよね、

運動では、戦後の沈滞していた若者に

運動を通して、芸術、芸能能を通して、花やかな面もあった、

世田谷の教養学部では「高橋英樹さん」、、、こういう字だったかな?」

一緒に授業を受けましたよ。

ハンサムで 甘いマスクで、同じ教室に居るだけで、

女子学生はとろけていましたよ。

卒業生は、起業の成功を通して、

ミサワホームは社長が日大そつぎょうでしたよね。

画期的な、パネル構造の発案でしたよね、

南極大陸に、日本基地があり、日大卒のミサワが建っていると

教授が、授業の間のおしゃべりをしていました。

戦後の、アメリカに追いつき追い越せの

イケイケ時代が始まっていましたからね。

国民の生活と身近に活躍しているスポーツニッポンは

希望と夢をくれました。

同窓会は、学友の経営する新宿のレストランで2次会をしましたよ、

*****************************

しかし、、、秀才へのこだわりは、いつの世も根強くて

「頭にこだわる学生たちの時代」になり

価値の偏重がある日本に、

塾や予備校の全盛時代が来ました。

日大の学生カラーとしては

「自分の出来ることを磨く」という、、、ぶれないこだわりがありました、

自主性を認めてくれたのか?、、、学生が多すぎるのか?

結果として、試験を合格点で通過すれば、、出席にはこだわらなかった、

懐の深い、、、求めれば与えられるという、、、設備が整えられていました。

私が、学生の頃は、

4万人の学生を抱えるマンモス大学だった日大。、

実に、今日、現代、11万人と、TVで聞きました、

パソコンスマホの時代になり、人工知能が味方になりました、

基礎的学問より、実践に強かった日大生は、

パソコンの人工頭脳の操作で、東大のスパコンに迫ってゆきます。

医療界の薬品の赤本という、

なくてはならないロングランの名著を

世に出すのに大きな役割を果たして、教授になった知人もいた。

アンドロイドがアプリを

てんこ盛りに捜査して

東大生並みの「答えを出せる時代」が来た、

頭の良しあしは、、、世界中で変わる時代が来た。

情報の時代が来たのだった、

 

アメリカンフットボールも

これからは、「勝ちに行く」というよりも

グローバルな価値観で

日本の大学は、

共存共栄してゆける時代が来たことに気付き

人工知能は、一人歩きの発展をしてゆき

人間の「正しいことは正しいという机上の空論の判断」は

人工知能の出した、条件付き正しさになるだろう。

マスコミで風評被害の基を、評論家が広めても、

音声を消してTVを見るようになるし、

ビビットでは、、、美しいタカラジェンヌの姿だけを

音声消して、楽しんでいるから、、マイペースです。

日大ぼろくそ放送タイムです。

東大万能の時代はどうなるのか?

世界の大学の順番を、ネットで見ていると、

学問は臨床で使われてこそ学問の評価をうける時代になり、

シンガポールなどでは

東大卒であろうと、京大であろうと、

決められた期間に実績を示せなかった者は

去るという厳しい現実だそうですね。

東大日大順天は手をつないでこそ、

畏れ多いことですが

玉体への御手術も、お受けして成功したニュースに

国民は、両陛下への感謝がひとしお深く感じて

ご回復を喜びました。

術後、被災地にお出ましになった陛下のお姿に

日大の医学の技術のたしかさに、

指先にも頭脳があると、マスコミは放送していました。

日本中が感謝した日を思い出します、

日本は敗戦を味わいましたが、

日本という歴史とともに歩んだ日本人の魂が

日本人を存続させています。

時代の作る故なき過ちは

勝たねば、、、負けると、、、戦争の時代の

勝ち負けがすべてであると追い込まれた庶民の中に

今なお残っていると、、、考えても不思議ではない、

変わる時代がやってきたのなら、

かっての時代を築いた英雄は死なず、、、ただ、、、去るのみ。

辞任するのが妥当でしょうね。、、、部活に関しては、過去の人でしょうね。

時代の要求が変わってきたからと言って

親同様だった監督さんの身辺に関して

生徒や父兄が、、、ましてマスコミがとやかく言うのは

ロマノフ王国の悲劇を思い出して、ゾ―とします。

控えた方がよいと思いました。

日本人の日本たる心が、、、世界の平和を牽引する深い心が必要と思いました。

マスコミは両刃の剣ですから

自らの発言が

日本を

世界から相手にされない国にイメージしてしまうことだって

あると思うのです。

マスコミの評論家は、発言をするときには

世界中が見ていることを再確認すべきだと思うのですよね。

司会は、司会に徹すべきことと、

外野の口出しが、場にあっていることを慎重に区別すべきであって、

100年以上の伝統ある大学を、簡単に評価するのは、

みずすましか

あめんぼうと、、、変わりませんよね、

日大という、、、一大ブランドを

一つの部の出来事で、ひっかきまわし、体質ウンヌンまで踏み込むのは

卒業生でなければ、、、わからないことも多いと思うのですよね。

全国に、同窓生が居ることは、、、良いことですよ。

 

***************************

マスコミがこだわる、、、

頭脳明晰の右文左武の東大も

日大医学部の天野先生の技術あってこそと、、、

マスコミはその技術の高さを称賛した、

 

無意識で校風だった「実践に役立つ日大生」が、

医学の分野の他にも実績を示している。

海外に進出し、

戦後の日本の復興の戦力だった時代が

思い出されるのです。

 

富国強兵の戦争時代を振り返り、

大国と、世界と、後進国と、未開国のすべての国で実践できるのは

上下、順番、学問や評論はさておき、

 

マスコミが評論家として、、、

いかに「正しいことを正しい」と

論客の優秀性をTVで見せても、

日大には、計り知れない巨人がいて、

その魂は

「順番がつけられない、、、何かがあるから、、、」

 

日大は100年以上を生き続けていると思うのです。

 

象さんは、、、ぺろぺろな団扇のような生き物だ

象さんは4本柱が動く動物だ、

象さんは、、、紐のようだ、、

象さんは固い尖がって弓なりになった骨だ、、、

 

全部当たっているが、、、

日大に通って、卒業して、、、、中年になって子育てを終わってから

再びフィールドの実践の学会で、再びご指導を受けて、

その懐の深さに感謝で、生涯教育に目覚めた者です。

 

良いところのいっぱいある日大を、

マスコミの評論家が

ぼろくそに言うのを聴いていると、

風評に尾ひれをつけて言うだけなら、、、何でも言えると思うのですが、、、

ダイアナ妃の、、、あの美しさを

苦渋の涙の顔に追い込んだのもマスコミですから

マスコミは「両刃の剣」だと、、、

茶の間の74歳まじかの婆ちゃんは、、、困惑しています。、

世代交代は、時代に沿って

功労者も時代に合わなくなることは必然のことです、

文化、学問、科学、思想、ETC、

繰り返されながら、発展してきましたが、

花束と、武士の情けと、温故知新の感謝、英雄は死なず、、、ただ去るのみ、、、

石をもって追う、、、聖書の一行のことを、、、かみしめながら。

罪を憎んでも、人を憎まずの時代は永遠ですよね、、、!

アメフトの一学生の若かりし日の、、、心の未熟を

東大が頭の良さを発揮してください、、

学生全員の「塞翁が馬」の事件だったね、、、と

手塚治虫氏の居ない漫画の世界は、、、何か足りない、

日大の居ない運動日本は、、、寂しすぎる。

武蔵が死んだら、小次郎は、、、生きていたのか?≫精神が?」」

フェニックスというのは、スポーツ精神のことでしょう。

必ず、、、日大は甦るでしょう!

日本に日大があることが、

教育の行き届いていることの象徴となるように

周りの大学も、

ジャンル   大学学生クラブ活動、

ジャンル   学生アメフト部、、、

ジャンル   スポーツ部結束の予算応援団スタッフ

万感の思いで、

教育のむつかしさを、思い知って

各大学は結束して感じてほしいと思いました。

東と西がにらみ合うのは、大学生の成長のための

にらみ合いで

スポーツマンの精神を大切にして、

問題を広げてしまわないように祈ります。

車社会のように、

飛行機社会のように、

大学にはいろいろのカラーがあって

多くの車種や、機種や、船のように、豪華客船から、潜水艦まで

あり様も、

役立ち様も、

出番も、

機能も、

それぞれの違いこそが

未来の日本を支えてゆくと思えますので、

正しいこと、、、を基準に、

正しいことを主役にすると

生徒はどうなるのでしょうか?

日大をくそみそに言うのは、

マスコミが、夫にガタガタ言っている奥さんに見えてきます、

夫のことは、、、私が一番解っています、、、という、、、思い上がり。

私の場合、、、夫にガタガタ言っては、反省しています、

仕事の世界は、オカメには、、、難解です。

マスコミだって、、、金メダル20個以上の大学が

くそみそに言われるのは、、、もったいないとおもいませんか?!

日本の損害になると、、、

長い目で見ると、、、思いませんか?

 

まず、、、全力で、

学生を守り、

アメフトのクラブが、

より発展してゆくように

予算の集まりやすい組織であることも

世界を視野に入れるなら、

考えるべきだと思いました。

********************

ちなみに、、、、

息子の卒業した大学では、

アメリカンフットボール部が廃部になり、、、ましたそうな、、、?

地下鉄のホームで、

昔、、、試合を見に行ってお話しした教官だった先生とバッタリ出会い、、、ました、

「在学中はいろいろと

ご指導くださったと思いますが、、、

その節は、、、ありがとうございました。」

先生は、白髪が増えていました、

「アメフトの元気すぎた部員が卒業してしまい、、、

何か、、、寂しすぎるんだよね、、、お利巧ちゃんの正しい学生ばっかりで、、、

手がかからなくて、、、感謝はあっても、、、

胸に、、、ぽっかり、、、穴が開いてしまったようでネ、、、」

懐かしい言葉を思い出します。

その先生は、、、今はなくなられましたが、、、

やんちゃな学生を、立派に、社会人に育ててくれました。

時代錯誤かもしれませんが、

アメフトを良く知らない、私は、老婆心ながら、、、

時代が作る悪、、、というものがあるのが解り乍ら

高杉晋作も、西郷隆盛も、、、もしかしたら特攻隊さえ

時代が作り上げた必然的な事物人格であったのだと、、、フト、

タックルの学生が、守られてゆくことを祈らずにはいられません。

これは個人の日記であり、思いつくまま書き綴った徒然草ですよ、

 

 

 

 

 

 

                           日大時代の記憶をたどる


深夜にTVで参観させていただけた、イギリスの素敵な結婚式

2018-06-01 10:54:23 | Weblog

 

真夜中に夢中で見ていた、、、イギリスの王子様と

アフリカ系のアメリカの女優さんとの結婚式。

王冠より、恋を選んだウインザー公のゆかりの

ウインザー城で、人種も、年齢も、身分も、お国も超えて

歴史を塗り替えた結婚式だった。

エリザベス女王が「競馬が大好きで、競馬の観戦にお出ましのときに、

自由なお気持ちでご愛用の、、、由緒ある暖かな感じのシンプルな馬車で

パレードされる「シンデレラの馬車」は

ほのぼのと。心暖かくなる「愛の馬車」が、広大な空を駆けてゆくような

青空だった。

すべてを神様が暖かく包まれて

地球が家族になった思いのする、素敵な結婚式だった。

仕事人間の主人には、、、まだ。話していませんが

この素敵な結婚式にTV参加したことが、、、私の宝物になりました。

おめでとうございます、、、

大人の恋って素敵ですね。

二人で歩んで行く、、、新しい生き方を

世界から、、、祝福の歓声でお祝いしているのが

聴こえてくるようです。