ほんの数日前、義母が咳き込んでいると思ったら、今度は雄太が発熱した。37度5分。今日は学校を休ませようと、静かは担任の先生に電話連絡を入れる。最近、急に冷え込んだ為、小学校でも風邪が再び流行りだしたらしい。お大事に、と担任の先生は丁寧に言い、電話は切れた。
仕事は休んで雄太に付き添った方がいいだろう。義母も完治したとはいえない。義父は こんな時は特に当てにならない。職場の電話番号を見ながら受話器を取ったときだった。背後から義母が静に声を掛けた。
「静さん。今日は職場へ行っておくれよ。私なら、もう熱も下がったし、雄太は おとなしく寝かせておくから。心配いらないよ」
思いもしない義母の申し出に、静の心は揺れた。今日は発注日だ。出来れば休みたくは無い。でも・・・・。迷っている静に義母は言った。
「何かあれば、職場へ電話を入れるから。雄太の熱も微熱程度だから、おかゆでも作ってあったかくして寝かせれば、明日には良くなるよ。それより今日は、発注日なんでしょ? 行ってらっしゃい!」
さすが、カルチャースクールに通う前はスーパーでパート経験がある義母である。静の発注日まで良く覚えていてくれるなんて。静は義母の言葉に甘えることにした。
「じゃ、お願いします。お母さん」
「大丈夫だよ。まかせておき!」
こうして静は思い切って職場へ向かった。雄太のことを思うと後ろ髪ひかれる思いだったことは確かだ。しかし職場に一旦、着いてしまえば、雄太のことは義母に任せてあるのだし、忘れられるだろう。静はそのように考えていた。ところが、買い物客の中には、雄太と同じくらいの年齢の男の子を連れた母親がいた。どうして、午前中に小学生が買い物に付き合っているのだろう。それとも、まだ、幼稚園児なのだろうか? 雄太より体格が良い幼稚園児がいたとしても、不思議ではないが・・・。
「ママ、僕、きつい」
男の子が赤い顔をして母親に訴えた。店内を歩いていた静の足も無意識の内に止まる。
「なるべく早く買い物は済ませるからね。家に帰っても、何もないから。野菜たっぷりのオジヤを作ってあげるからね。それを食べて寝たら、明日には熱も下がるわよ、きっと! それからお医者さまから貰った風邪薬も忘れずに飲まなきゃね」
母親が男の子の目を覗き込むと、男の子は安心したような表情を見せつつも、
「え~! 薬も飲むの? 苦いよ」
と舌を出す。そんな親子の様子を店内でたまたま目撃してしまった静は、家に残してきた雄太のことを思わずにはいられなかった。しかも、静は雄太を小児科へ連れて行くことすらせずに、義母にあずけ仕事を優先したのだ。罪悪感を感じない訳がない。
(雄太、今頃、どうしているかしら・・・? とにかく早く発注をあげて、家へ帰ってあげなくっちゃ!)
静は視覚的に棚を見つつ、商品が売れてしまい、あいている分だけ急いで発注を取っていった。いつもなら、前出しをしながら発注を取るのだが、そんな余裕は今の静には無い。とにかく一刻も早く仕事を早く片付け、雄太のもとへ帰りたかった。
運が良いことに、静は明日から連休だ。本当は一泊で温泉旅行でも・・・と夫の静夫と話し合い、休暇も夫と合わせていたのだが、義母と雄太の二人が風邪では動きようが無い。結果的には、ゆっくりと二人の看病が出来るのだから、良かったといえる。
「お疲れ様でした。息子が発熱したので、先に上がらせて頂きます」
静は先輩スタッフに手短に挨拶し、職場を後にした。
そのとき、静は息子のことで頭がいっぱいで、連休二日目が発注日であることなんて、頭の隅にも無かった。発注日が休みの場合は前もって、発注をかけるのは担当者である静の仕事だということに、全く気付かずにいたのである!
静の看病のかいあって、雄太は順調に回復し、風邪もこじらせずにすんだ。二日後には元気に小学校へ登校し、静も安心して出勤した。家族みんなが元気で居られるって、それだけで有難い事だ。
「温泉は又、いつでも行けるだろ? とにかくおふくろと雄太が元気になったのが何よりなんだから」、と珍しく静が床に着く前に耳元で優しく ささやいてくれた静夫に惚れ直した静だった。
熱がある雄太を見ていてくれた義母のお陰で仕事も休まずに済んだのだ。これ以上の幸せがあるだろうか? いつもは口まで出かかった義父や義母に対する愚痴を引っ込めることばかりに神経を遣っていると思っていた同居にも、恩恵はあったのだ。家族の誰かが倒れた時に助け合う、という最大の利点が。静は上機嫌で家を出た。
静が出勤すると、直属の上司が手招きした。
「井口さん、ちょっといいですか?」
「はい」
出勤早々、何事だろう・・・? 休んでいる間、迷惑をかけたからだろうか。静は不安そうに上司が手招きする方へ身構えたように近付いた。
上司は、ごほん、と咳払いしてから、パソコン画面を開いてみせた。
「昨日の発注分、全く上がっていないようなんだが・・・。連休に入る前に2回分、まとめて発注したのか、それとも忘れていて前倒し発注をあげていないのか、どちらですか?」
「・・・・どちらか?」
静は自分が何を聞かれているのか理解するのに、数秒かかった。
「あ!」
上司は、やっぱり、その驚き方は・・・と呟きながら、忘れていたんですね? と念を押すように静を見た。
「はい。忘れていました。すっかり・・・。休暇に入る前の日の発注をあげて、その日の仕事は完了したかのように勘違いを・・・」
あとは、何といったら良いのか静は分からない。
「大変なご迷惑をおかけしました。申し訳ありません」
これだけを言うのに必死だったのである。
「とにかく今日は、平常心で仕事をして下さい」
「へっ・・・平常心ですか・・・」
静は足元をふらつかせながら、商品が届くプラットホームへ向かった。
そこには学生バイトの男の子がいて、台車を見回していた。
「あっ、こんにちは。これ、定番商品ですよね?」
学生君は、そういうと、一台の台車を指した。
「はい・・・定番です」
本当は、そんなことは、どうでもいい? ことのように思える静だった。
「では、行ってきます」
「はい」
真面目一筋で感心な学生君は、静よりも先に台車を引っ張って、売り場へ突進していった。
静も失敗したからといって、ぼけら~としてばかりも いられない。 学生くんに続いて、雑貨の台車を引っ張っり、売り場へ到着。
学生君が洗剤類を荷出ししている。
静は 彼の隣でトイレットペーパー類を荷出しする。
(それにしても、重いわ、これ)
静は何度もバックと売り場を往復し、テイッシュー類ばかり,大きな箱の補充をした。
いつもは、静よりずっと若い学生くんの方から声をかけてくることなど、めったにない。その彼が何か言いたげなことに、静はようやく気付いた。
「あの~。もし、補充しにくかったら、遠慮せずに、僕の台車、勝手に のけていいですよ」
学生君の言葉に はっとして、静は自分の目の前を見た。 静が今、まさに補充しようとしている商品の真横に、学生くん使用中の台車がで~んとある。
これでは確かに仕事は しにくい。
「大丈夫です、もうすぐ、終わりますから」
静がそういうと、学生君は、(ほんとかね・・・?) という ちょっと心配したような表情を見せた。 それでも時間だけは確実に過ぎている。プラットホームは、ほぼ、からになり、雑貨の荷出しは終了。 静はバックへ戻るとダンボール箱をつぶしていた。
今日の静は、夢遊病者のように、ふらふ~らとしている。
フランクフルトの屋敷内を夜中に歩き回るハイジのような気分で。
そんな時、普段は口数が少ない店長が、めずらしく声をかけてきた。
「井口さん、次は何をしようと思っているのですか?」
次は何を・・・・?
続く