ローマ人の物語もいよいよ最期の時を迎える… 読書はすでに完了!!!しているのだが、なかなか日記に記す機会が… 本を返さなきゃいけないし、いい加減、書いておかないと。…ということで、秋の夜長は 読書体験(感想等を記すことも含めて…です)
前回、「キリストの勝利(上・中・下)3冊の感想を書いた時、「寛容の精神を基盤としたローマ世界に戻そうとした最後のローマ人らしいローマ皇帝」について書いた。今回は、とうとうキリスト教に飲み込まれ、ローマ帝国の国教となってしまったキリスト教世界の中、ローマ人の精神で『お飾りのような皇帝』を支え続けたが故に、哀しい最期を迎えることとなってしまった、将軍スティリコについて、少しだけでも書いておきたい。彼はローマ化したバルバルス、つまり部族出身の父とローマ人の母を持つ混血のローマ人だった。カエサル以降、ローマが最も繁栄していた時代には、混血であることで差別されるようなローマ社会ではなかったらしいが、ローマが衰退していたこの時期、4~5世紀のローマはスティリコには生きずらい時代だったのかもしれない。(semi-barbarusなので) しかし、彼こそ近代の歴史家から、「最後のローマ人」と呼ばれているらしい。異民族であろうが積極的に登用したカエサルや元老院時代に生きたローマ人と同じ考えをもった人、それがスティリコであったのだった。
彼は帝国末期、皇帝テオドシウスに認められた。遺言として皆の前で発表された内容は、皇帝が亡くなったのちのローマでは、跡継ぎであるまだ幼かった皇帝の息子二人の後見人にスティリコがなる、というものだった。それだけ皇帝の信頼が厚かったということで、更に皇帝は軍で実績を上げてきたスティリコを「軍総司令官」に任命。この地位にいた人は、彼のほかに一人しかいない。著者の塩野さんが仰るには、もし、スティリコにさえ、その気があれば、皇帝亡き後、その息子二人を亡き者とし、(実際、末期のローマでは、そんなことが多かった)自分が皇帝を名乗ることも可能な状態だったが、彼のその後の行動は、そのようなことを考えることすらしなかったことを示している。新皇帝は10歳。軍総司令官であるスティリコは軍を指揮する立場。ことは「簡単」であり、もし、そうしさえすれば、その後、10歳から体だけは大きくなった無知な皇帝、ホノリウスに殺されずに済んだのに…。ホノリウスは気は弱いが決して悪い人ではなかったらしいが、スティリコと敵対していた側近に欺かれ、スティリコを死に追いやるサインに判を押したのだった。死期を悟ったスティリコに向かって軍の兵士たちは、「もしも あなたが剣を取るのであれば、我々はあなたに従う」というものお多かった。しかし、それは、スティリコにとっては亡き皇帝と交わした13年前の誓いに背くことを意味する。ローマ人であることを放棄すること、となるのだ。どうする、スティリコ! 自分の命か、それとも…。スティリコは迷わない。命を捨てても越えられない一線だと覚悟を決めたのだった。 皇帝に呼ばれたスティリコは、剣を自ら渡し、死刑となっている。もし、彼が剣を取る選択をしたならば、もしかしたら、ローマ帝国はスティリコの手によって、立ち直ったのでは…?と考えてしまう。だが、誠実でローマ人である彼は、亡き皇帝を欺くようなことは出来なかった。ただただ、幼き皇帝を 成人したのちも、気が弱いだけの皇帝とローマを支え続けた哀しい生涯だった… その先には、「ローマ劫掠(ごうりゃく)」という不孝があるのみ…だったのだ。
ローマ人が行くところには、公共事業がある。橋があり、道があり、水道があり、清潔に保つことで疫病から人々を守ったテルマエがあった。何より人々が安心して暮らせる平和があった。5世紀になると、ローマの国境周辺からあらゆる部族が奪略を繰り返しながら侵入してくるようになる。橋や水道、ローマ街道の修復整備も疎かになり、度々ローマ市民の暮らしも脅かされるようになっていた。中でもゴート族とアラリック。スティリコが生きていた頃は、彼らと同盟協定を結ぶことで、(4千リブレを払うと約束し…)平和を維持で来ていた。しかし、この協定を結んだ本人、スティリコは死んでしまった。金を払うという約束は反故になったと皇帝は思ったようだが、それではゴート族率いるアラリックは納得しない。「金を払え!」とローマに迫ることになる。三万の軍に城壁を囲まれた皇帝、市民はゴート族の恐喝に屈する。そして一度、屈せれば、その後も続くことになり、紀元410年8月24日、遂に 「その時」はきた。
ローマの建国は、紀元前753年。それから数えれば、一千一百六十三年後。800年にわたって不落の都であったローマ(紀元前390年に起こったガリア人襲来以来)「世界の首都」として栄えてきた首都ローマは、わずか5日間で「劫掠」された。
この世界的なニュースについて、イタリア生まれの聖人、ヒエロ二ムスは友人にあてた手紙で次のように書いた。
「西方から世にも恐ろしい知らせがもたらされた。ローマが包囲され、住民の命と引き換えに黄金を払わされたというのだ。ところが、身ぐるみ剝がされた後も再び攻め込まれ、今度は、持ち物すべてを失っただけでなく命までも失うことになった。…途中、略…
世界中を制覇し支配下においていた都市が、今では族の前にひざを屈している。…略」(250ページ7行~)
生き残った人もローマを捨てる決心をしたようだ。生まれ故郷のガリアに戻る決意をしたナマティアヌスは、「帰郷」と題した長編詩を書いた。属州生まれの公人で、行政の最高責任者まで務めたらしい。とてもとても心に残る長編詩なので、一部をここに抜粋したい。
「ローマよ、あなたはこれまで数多くの民族や部族に分かれていた人間たちを一つの国家に統合し、その彼らに法による公正を享受することを教えたのだった。 たしかに、初めはわれわれはローマに征服された。だが、ほどなくそのわれわれも、ローマの許(もと)で生きる良さを実感するようになる。なぜならローマは、強大な軍事力を持ちながらも その行使は自制することで、軍事力すらも より効果的に活用することを知っていたからである。その結果、ローマ帝国に住む人々は、ローマの法の許で、自分たち固有の風習は維持しつづけながらも、それを共有しない他の民族と共生することを学んだのだ。ローマ帝国自体が、多民族の集まった連合国でもあったのだから。
…
ローマによる平和は、我を忘れた自信の賜物ではなく、ローマの栄光は、自分たちだけではなく、帝国中の才能を結集したところから生まれた。ローマが支配者であったのは、このように彼らには、他を支配する資格があったからである。
とはいえ、しばらく前からローマは苦悩から起ちあがれないでいる。だが、いつかはローマにも、傷も治り四肢にも再び力が戻ってくる日が来るだろう。
…
ローマの敵は、今や凱歌を上げているが、いつの日か彼らにも尾羽打ち枯らすときがくる。あのハンニバルさえも、ついには自らの成功を嘆くしかなかったのだった。
敵はローマを廃墟にしたつもりでいるだろうが、いつの日かこの廃墟から新しいローマが生まれてくるだろう。かつては豊かだったのが今では荒廃し見捨てられたライン河地方にも、いつの日か再び人が戻ってくるだろうし、ナイル河沿いの土地も再び西方に大量の小麦を運んで来れるようになるだろう。その時は、イタリアだけでなくヨーロッパ中が、質もよく量も多い葡萄酒の産地になっていることだろう。」
(256ページ10行目~258ページ2行目から抜粋。塩野七生:著『ローマ人の物語(41巻)ローマ世界の終焉』新潮文庫 平成23年9月1日発行)
この詩は船の上で書かれ、彼のその後の消息は分かっていないらしい。彼は当時、40代だったというから、今の私くらいか…。彼の詩ほどローマ帝国が それまで世界にあって、どのような覇者であったのか、統治者として歩んできた長い歴史とその繁栄…滅亡…虚しさ哀しみを語ってくれているものはない。ローマによって征服された属州ガリアに生まれ、ローマ人として公人であった彼が語るからこそ、私のような者の胸を打つものがある。
ローマ人の物語は43巻まで続く。勿論、すべて読んだが、私の要約は、ここまで…で終わりにしたい。無知な私にあらゆることを教えてくれた、著者の塩野七生さん、そして古代ローマ帝国に尊敬と感謝を込めて…。
「日本が台湾を放棄しなければ、見捨てなければ…」年末旅した台湾で、ガイドさんが語ってくれた日本に対する想いを思い出した。李登輝さんが著書の中で語る、日本に対する想いと何故だか重なる部分も…。ダム、水道、治安の良さを当時の日本は台湾にもたらしたのだと現地の人が教えてくれた。戦前の日本はすべて悪!と言われがちだが、(日本人でさえも)古代ローマ人のような日本人も史実の中にいたことを先祖に感謝し、良いことは良いこととして知っておきたいと思う。「ローマ」を「広島」に置き換えて、詩の一部を読んでみたりもした。