今年2冊目は逆説の日本史シリーズ。実は水戸学や”名君”について書かれた16巻も半分読み終わり、こちらも面白くて‼
400ページを超える分厚い本の中に、むか~し歴史の授業で習った ”箇条書き” は、こういうことだったのか!と思ったり、昔の印象と違うな、と思ったり。読み応えがありすぎ。今週からECCジュニアのレッスンも始まり、時間的余裕は殆ど無くなり、なかなか感想を書けない日々… 睡眠時間が削られてしまうため、以下、簡単に書いておきます ( ..)φメモメモ🖊
名君と名高い徳川吉宗が行った ”良いこと”
① 目安箱の設置 将軍に物申すなど、もっての他だった時代に、『意見書』を投書できるというシステムを導入!
② 火消しシステム 火事が多い江戸で、火消しのシステムを整備
③ 琉球~薩摩で栽培されていた唐芋、すなわちサツマイモを全国的に栽培させた。(飢餓対策)
その一方で、経済に関しては、目安箱の意見も完全無視 (死罪にしなかっただけ寛大ともいえるが)
儒学者である吉宗は、頭から ”商売や金儲けは卑しい” ”身体を使う(掃除や土木工事)労働も卑しい” 商売は悪で、幕府が金儲けに関わるなど以ての外、という発想しかないバカ殿だった(井沢さんは経済に関してバカ殿、と繰り返し記述。)
綱吉時代、輸出入も盛んで物は流通し、経済は潤い、文化も栄えた。
吉宗は綱吉の側用人システムをそのまま活用したが、(綱吉を全否定しつつも、このシステムは認めている)倹約を求め、米の増産により逆に米の価値は下がり、武士の収入は減り、困窮。 芝居は禁止、武具も煌びやかで贅沢な品を使うな! 等、倹約を求めた結果、これらを作る商売も衰退…
そんな将軍吉宗がとった政策とは対照的なのが尾張宗春‼ 題して、
芝居見学を自由化した宗春の商都・名古屋活性化計画🤩
日本の大都市、名古屋。しかし昔からこうだった訳ではないらしい。
信長の時代、尾張といえば、清州が連想され、名古屋は忘れ去られていたそうだ。
ところが、徳川政権となり、家康の9男である義直が封ぜられた時、清州を捨てて名古屋に城と町を移転。これを「清州越し」という。(193ページ5行目)
家康は九男を尾張、十男 頼信(よりのぶ)を紀伊へ、十一男 頼房(よりふさ)を水戸家へ封じ、これが徳川御三家となる。(8行目)
当時は五十三次の宿駅は伊勢国の桑名であり、宮(熱田神宮)と桑名は船で移動することが原則だった。つまり、名古屋という町は東海道を往来する通常の旅人は独りも立ち寄らない場所だった! (ここが重要‼)
新たに藩主として尾張に入部した尾張宗春を迎えたのは、こういう状況だった。
結論から言うと、宗春の景気対策、名古屋活性化政策は大成功をおさめた。
幕府(将軍吉宗)が目の敵としていた芝居「小屋」は常設の「劇場」となった。
宗春自身、芝居見物に頻繁に出かけ、農民から買った牛に乗り、ゆっくりと進む。当然移動時間がかかるので、行く先々の茶屋で休憩し、お金を落とす。沿道の住民は、敬愛する宗春のため、提灯で道を照らした。宗春は喜んで褒美を渡す。住民は喜んで更に凝ったデザインの提灯を…と競い合うようになり、その提灯を見物するため旅人も集まる。宿家は儲かる、芝居小屋も増える、遊郭も増えた。
宗春が赴任した年は年に一回しか行われていなかった芝居の興行が2年後には、なんと年百十七回も行われたという。人口も5万台から7万台へと四割も増えた。
名古屋の繁栄を外から眺めていた伊勢商人たちは、
「名古屋の繁華に京(興)が覚めた」 つまり、京都が興ざめするほど名古屋が繁栄した、と評したという。(ここまで202ページまとめ)
吉宗将軍よ~ この名古屋の繁栄を見たまえ! 民の喜びを! あなたの政策は間違っている! 庶民唯一の娯楽である芝居を取り上げ、倹約令で人々の生活を縛る。それがどれほど誤った政策であるか、思い知るがいい!
…と、宗春が言ったとか言わないとか…❓ そんな記録はないそうですが、そのような気持ちだっただろう、とは井沢元彦さんのセリフでございます~✋
宗春を非難する吉宗に対して、実際に宗春は次のように反論したという
倹約とは、他の大名のように重税を採ったり、無闇に落札を発行して民を苦しめることではない。本当の意味の倹約とは、上に立つ者が倹約し、下から絞り上げるようなことはしないことではないか。
実は、「経済バカ殿」の吉宗は、故郷の紀州藩には藩札の発行を認め、紀州藩はこれを濫発することによって民を苦しめていたそうなのです。なので宗春の反論は吉宗の急所を突くことであったのですねぇ。
この後に続く 田沼意次 VS 松平定信 も、前回、ちらっと書いたとおり、授業で習ったこととは真逆でして…とても興味深いのですが、時間の関係上、ここでは省略致します。業績比較表だけご紹介 326ページ
明日も早朝から仕事ですので、ここまでと致します‥‥