🌸 接待の熱き桜湯根尾の里
🌸 薄墨桜竜のやうなる根が走る
薄墨桜で有名な根尾で作った句。
この十日余り さくら、桜 🌸 花 の毎日が続くであろう。
心が弾んでいる。
我が結社の、もう一人の若き代表者の句集を読んでいて、一句 目にとまった。
☆ 東京のすこしはづれの花の駅 大谷弘至
彼は俳句界を牽引している、若きエース である。
毎月、彼の選を受けている。息子より若いけれど、尊敬をしている。
🌻 花の山はづれの宮の桜かな
私の三十年前の、俳句を始めたばかりの時の句である。
地方誌に投句して、二、三回目の句である。
自分が作った句は、すべて 二十年前に一度、俳句から身を引い時に、きれいさっぱり捨て去ったつもりである。
が、この句は花の時季になると思い出す。
眉山の外れにある、椎の宮神社の一本の桜の木。まな裏に浮かぶのである。そんなことはどうだっていい。
△△、、、はずれ 、、 △△ (花)(桜)
これでもう、類想、類句と云えると思うのだ。
俳句なんて、自分が楽しんでいればよい、選に入ろうが、おとされようが、俳句やっている者は自分の信念を連ぬくとよい。
しかし私は、これからも、今までも、類想、類句にはこだわる。
捨てなくてはならないと思う類想句にぶつかった場合は、いくら愛着があっても捨てようと思った次第。
大谷さんの句は勿論立派な句である。
比べるのが悪い、しかし、類想には違いない。
三十年前の句。よしとしようか。
こんなことは、毎日どこかで起きている。
類想、類句は難しい。