はなこのアンテナ@無知の知

たびたび映画、ときどき美術館、たまに旅行の私的記録

経営者の発想、セレブの発想、大陸人の発想

2019年04月26日 | はなこのMEMO
 自分では思いもつかない他人の発想や着想に驚かされることは少なくない。自分の経験知には限りがあるから、他人の言動から謙虚に学ぶ姿勢は大事にしたいと思う。 


 先月の台湾旅行でのこと。高校時代の同級生を中心に古くは小学校からの友人と計8人で行ったのだが、2泊3日の日程なのに、ひとりだけ1週間位の旅行で使いそうな大きなスーツケースを携えて来た友人がいた。

 その人は郷里でコンビニを3店舗も経営しているやり手経営者である。

 曰く、「いつもお世話になっている人へのお土産用に大きな収納スペースが必要なのよ。私もいつもお土産をいただいているから、お返ししなくてはね。」「こちらが多く与えれば、こちらにも多く返って来る。まさにギブ&テイクね。」

 とにかくお金の使いっぷりが豪快だ。コンビニ出店も一店舗当たり4000万円の設備投資が必要らしいが、事業の為なら多額の借金も厭わない豪胆さだ。台湾でも立ち寄ったドラッグストアで、美容シートマスクを大人買いしていた(笑)。将来への不安からお金を使うことにイチイチ躊躇し、チマチマ溜め込む庶民の私とは大違いである。

 そう言う彼女の口癖は「金は天下の回り物。」
 
 台湾は今回で七度目と言う彼女は、数多あるパイナップルケーキもほぼ全種類食べ尽くし、台湾グルメにも詳しかった。そう言えば、昔からグルメでおしゃれだった。生きることに貪欲な人だった。

 社長令嬢として育った彼女の発想は、父親譲りの経営者ならではのものなのだろう。


 先日、お会いした女性は仮に「高輪夫人」と称しておこう。彼女は義父が岩波文庫にその名が載るほど高名な英文学者であり、詩人であったと言う。その義父が健在の頃は自宅の1階の一部をサロンとして開放し、そこには若き日の谷川俊太郎などの詩人、文学者らが集っていたらしい。

 現在はそのサロンであった場所を画廊として改装し、月に一度のペースで貸し出していると言う。先日、私はそこを訪ねたのだが、さすが山の手、近隣の住民も美術への関心が高いのか、私が滞在している間、来訪者が引きも切らなかった。

 その時にお会いした中で96歳の男性が波乱万丈な人生を歩まれた方で、興味深いお話を聞かせていただいた。戦時中、海軍兵として何度も死線をさまよわれたそうだが、悲惨なはずのエピソードを茶目っ気も交えてお話された。

 戦地から引き上げた後、金属加工の会社を立ち上げ、50あまりの特許を取得し、その特許料収入で悠悠自適に暮らしておられるようだ。隠居後は書家としても活躍されたそうで、ご高齢ながら会話にもよどみがなく、足の具合が少し悪い以外はすこぶるお元気だった。その笑顔には戦禍をくぐり抜けた人の強さと優しさがあった。


 元プロ野球選手でタレントの長嶋一茂は、日本のプロ野球史上絶対的なスター選手として名高い「長嶋茂雄の息子」として世間に華々しくデビューした。しかし、大学卒業後にプロ野球界入りしたものの、そのキャリアは僅か8年で終わり、プロ野球選手としては大成しなかった。圧倒的な才能が必要とされる世界で、偉大な父を持ち、その父と同じ道を歩むのは、子どもにとって茨の道を歩むようなものなのかもしれない。

 しかし、その彼も現在ではテレビで何本ものレギュラーを持つ売れっ子タレントである。プロ野球を引退後に始めた極真空手ではシニアの大会で優勝するなど、既に達人の域に達しているらしい。

 その彼は仕事のスケジュールが空けば、すぐさまハワイへ飛ぶと言う。ハワイこそが自分の本拠地だとうそぶく。それどころか、ハワイに行くと言う理由でレギュラー番組も休むらしい。悪びれもせず、それを番組内で言うのだから、"そういうこと"が許される稀有な存在なのだろう(普通のタレントならとっくにクビになっている)

 とにかく生まれながらのセレブだからなのか、発想が常人とは違う。ドライな仕事観、金銭感覚、対人関係、そして自分の身体を鍛えることへの拘り(20人のトレーナーがついているらしい)など、経済的な困窮を知らない人間だからこその独特な哲学に基づく生き方を貫いており、その是非はともかく、他のタレントとは一線を画す存在である。


 先日、同タイトルの漫画が原作の「キングダム」と言う映画を見て来た。中国統一を果たした秦の始皇帝の若き日の物語である。

 奴隷の出である信と後の始皇帝とのやりとりでは、始皇帝の発言が逐一圧倒的な権力を持った人間ならではの発想で、信の反論を許さない、人間の尊厳など一切無視の冷徹さが印象的だった。

 そもそも500年もの間、数多の国が戦いに明け暮れている群雄割拠の中、王家の血を引くとは言え、若き日に「天下統一を果たす」と宣言すること自体大言壮語と受け取られかねないのに、後にそれを実際に果たしたのだから、始皇帝と言う人物のスケールには計り知れないものがある。

 王族として生まれ落ちた時から、将来国王となるべく所謂「帝王学」を学び、上に立つ人間として常に大局を見極めることが求められて来たのだろうから、国王たる者、下々の人間とは発想が違って当然なのだろう。

 王国でなければ、例えば日本のように天皇が国民の統合の象徴と位置付けられ、直接政治に関与できない場合、政治のトップである首相に統治者としての大局観が求められるのだろう。少なくとも政治家を志す人には大局的に物事を見る素養が欲しい。広い視野で天下国家を語れる人であって欲しい。その意味では、終戦以来、日本で真の意味でのエリート教育がなくなってしまったのが、今、政治の世界で深刻な人材不足を招いているのだと思う(元々エリート養成機関として設立された東大には今も他大学を圧倒する多額の予算がつぎ込まれているが、少なくとも国内では頭脳明晰な学生の集まりであるはずの東大生が、本来の建学の意図を汲まずに官僚や政治家を目指さなくなっている。彼らに期待する方が間違っているのか?)

 近年は広大な国土を持つ中国に、島国の日本は圧倒され通しだが、国土の広さの違いはそのまま人間の発想のスケールの違いに反映されているような気がする。ここ数年、習近平主席が提唱する「一帯一路」がまさしく大陸人ならではの発想で、ユーラシア大陸全土を巻き込んで、中国主導の一大経済圏を築き上げようとしている。少なくとも今の日本の政治家にはそのような発想は期待できないし、日本の国力を上げようとの気概も感じられない。

 また、近年、民主主義国家の市民の当然の権利として、国や地域の重要な案件について国民投票や県民投票が実施されることが国内外で多いが、英国のEU離脱を巡るゴタゴタを見る限り、国家の行く末を左右するような重要な案件を、果たして国民投票で決めて良いものなのか疑問を禁じ得ない。なぜなら、国民の教育レベルや知性には当然バラつきがあり、全員が案件の重要性を正確に認識し、流布する情報の正誤を判断し、正しい採決ができるとは思えないからだ。これこそ、選挙によって選ばれた市民の代表である代議員に、その判断を委ねるべき案件だったのではないか? 


 さまざまな発想や着想に触れて、刺激を受けることは本当に多い。それが思索のきっかけにもなっている。だから、常にアンテナを張って、耳をそばだて、自分では思いもつかない発想や着想に、できるだけ数多く出会いたいと思う。そう考えると、自分以外の他人はすべて「思索のヒントを与えてくれる先生」と言えるのかもしれない。
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