はなこのアンテナ@無知の知

たびたび映画、ときどき美術館、たまに旅行の私的記録

運のない人

2006年06月19日 | 映画(2005-06年公開)

映画『胡同愛歌』より

私が主宰する掲示板スレッドに、
常連のSさんが投稿して下さいました。
Sさんは、先頃開催された中国映画祭で、
『胡同愛歌』という作品をご覧になったそうです。
以下は、その投稿に対して、私が寄せたレスです。


映画『ションヤンの酒家(みせ)』より

旧市街のことを「胡同(フートン?)」と言うのですか。
経済発展で古い街が再開発されるのは何処も同じですが、
発展を続ける現代中国の一断面を描いた映画なんでしょうね。
『ションヤンの酒家(みせ)』を思い出します。
重慶の古くからある屋台街が、
再開発の煽りを受けて退去を余儀なくされる。
その屋台街で、一人で一杯飲み屋?を営む
30過ぎの美しい女主人の話なんですが、
この人も『胡同愛歌』のヒロイン同様?美人で、
しかし、なぜか運に恵まれない。

以前、友人と”女性の運”について語り合った折、
「人間の運不運は誰にも平等にあって、
死ぬ時に誰もがプラスマイナス0で終わるじゃないの?」
という私に、
友人は「とことん運の悪い女もいるものよ」と反論しました。

確かに40数年も生きていると、どう見ても
「運が悪いなあ」と思える人が、視界に入って来ます。
とびきりの美人で気立ても良く、女性として申し分ないのに
良縁に恵まれない人。身近にもいます。
もちろん良縁だけが女性の幸福を保証するものでもないけど、
本人が良縁を望んでも叶わないから、
友人として「なぜなのか?」気になってしまう。
そもそも私が結婚できたのも”運”が良かったとしか
言いようがない。周りの友人には結婚しそうもないと言われ、
恋愛経験(両思い)皆無の私が、たった一度の恋愛?で
結婚したのですから。

中島義道氏も著書の中で
「”成功”は、才能や努力を超越して”運”が左右する」
と断言。一人の成功の陰に、才能や努力の甲斐もなく
成功できなかった人々の姿が累々?と存在する。
紙一重のふたつの存在を分けるのは
「運があるか、ないか」の違いだけ。
あ~これまで見聞きして来たこと、自分の経験に照らしても、
何となく納得できます。
殆どの人が才能や努力が報われないものなのだと。
一握りの成功者は、”ただ””運”が良かっただけなのだと。
成功者の「こうしたら成功できる」とノウハウを列挙した
成功ハウツー本が巷に多く出回っていますが、
それは”その成功者だけ”に当てはまる成功法則であって、
誰もが同じことをして同じように成功できるんなら…
誰も苦労しないって!
その論理?を知って、ホッとしている自分もいます。
自分の人生の良し悪しは”運”のせいに出来るから。

映画のタイトルは、内容的には『胡同哀歌』の方が
シックリ来るでしょうか? 一応、邦題ですよね。

圧倒的な才能は世が放っておかない、と思いたいですが、
ゴッホやモディリアーニのような画家もいます。
タッカーのような自動車メーカーもいます。
よく存命中に成功を見ることなく世を去った天才を、
「現れる時代が早過ぎた」
「今、彼らの才能に時代が追いついた」と言われますが、
しかし彼らにしてみれば、一度も世で認められることなく
人生を終えたのですから「運がなかった」。
失意の内に世を去った人は少なくないはず。
天国で喜んでいるのか、それとも地団駄踏んでいるのか。
自分の生きた時代の暗愚をせせら笑っているのか。

また現世の成功者は、その成功や才能に対する評価を
維持するために、笑顔、あるいはクールな表情の陰で、
凄まじい努力をしているのかもしれません。
一度この手で掴んだ成功を、けっして手放さない。
これは”運”だけでは説明がつかない。
「ただ運が良かっただけじゃない」と妬むだけの対象ではなく、
尊敬に値する部分も持ち合わせた人なのではないか?



サッカーの中田ヒデなんて、そうだと思います。
あの自律力は見習いたいものです。  
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