はなこのアンテナ@無知の知

たびたび映画、ときどき美術館、たまに旅行の私的記録

アートについてのあれこれ

2010年02月05日 | はなこのMEMO
この何か月かの新聞記事で印象に残ったことをメモします。全て日経新聞より。

■去る12月13日まで、茨城県立近代美術館で興味深い展覧会が開催されていたらしい。題して「眼を閉じて~”見ること”の現在」。展覧会場で鑑賞や創作体験を通して、積極的な意思を伴う「見る」と自然に眼に入ってくる「見える」の違いや、通常「見せる」ことを目的としている美術作品を楽しむ為に必要な「見る」と言う積極性について考える~「見る」と言うことに着目して、美術の役割を改めて問い直した展覧会と、記者(文化部 小川敦生氏)は伝えている(日経朝刊 2009.11.25 44面)。

「(画中の人物が眼を閉じた)作品の前に立ち、「見る」について考える。見る側も眼を閉じて、心の中でその絵を想像する。その時にも脳はしっかりその絵を見ている。」

「暗闇の中で絵を描く体験。自分が描いているものを「見ず」に、想像しながら描く。結果は想像もつかないし、明るみに出るまで「見えない」。頭の中で「見た」ものと光の下で「見た」もののギャップが面白く、そこには新たな創造の芽を見いだすこともできる。」

「日高理恵子の作品は、見上げる視点で木々を描きながら、その奥に、あえて何も描かないことで「空」を表現している。「見える」状態を抜け出し、その空を「見る」ことを始めると、脳の回路が切り替わり、果てしないかなたを見つめ始めるのを自覚できる」

なかなか含蓄のある言葉が並んで、印象深かった。

視覚障害者 脳裏に心眼~「好きな色はクリーム色。暖かい印象があるから」「青は冷たく透明なイメージ」…視覚障害者の子ども達には大抵好きな色があると言うexclamation2実際に眼で見た色の記憶がなくとも、「色について会話したり、色の描写のある小説を読んだりしているうちに色のイメージが育つ」らしい。記事の筆者はビジュアル作家、田嵜裕季子(たさき ゆきこ)氏(日経朝刊 2010.0114 36面)。ここ10年程、視覚障害者と晴眼者の間のコミュニケーションをテーマに映像作品を手がけて来たそうだ。お互いの世界を知ることで、新たな価値観の創出や多様性の尊重にも繋がると考えてのことだ。

その原点は英国エジンバラへの留学時代に遡る。偶然出会った現地の女子大生と、当時の拙い英語で驚くほど打ち解けられた、「異なる世界がつながった」思いがけない経験が、現在の「「世界」は人を通じて広がるものだということを実感する毎日」につながっている。

エジンバラでは「視覚障害者を取材し、好きな空間だという博物館で動物の剥製に触りながら、なぜ動物が好きなのか話してもらう映像作品を作った。言葉に熱心に耳を傾けることで相手の立場でものを考えるようになり、新しい世界を知る経験になる作品だ。」

「失明した後に「好きな絵が描けなくなった」と嘆くのをやめて彫塑を始め、迫真の作品を作る芸術家になった男性の人生に感銘を受けた。」

「視覚以外の感覚を全開にしてシャッターチャンスを狙う写真家、クロスカントリーをする女性、蓼科の自然の中で環境音楽を作った音楽家など(視覚障害者にも)多様な世界があり、取材した時の新鮮な驚きがいつも胸を去来する。」

「ギャラリーで作品を発表した時には、映像の静止画を、輪郭を立体化できるコピー機で刷って展示し、視覚障害者にも鑑賞してもらえるようにした。」

まず何より視聴覚障害者の色の認知能力の高さに驚いたし、知られざる映像作家の仕事の重みが胸にズシンと来た。

「眼」繋がりで…

「コレクターの眼」が主役の展覧会~自分の感性だけを頼りにひとりのサラリーマンが収集してきた美術作品160点余りが並ぶ展覧会「山本冬彦コレクション展」(佐藤美術館・東京・千駄ヶ谷)(日経朝刊 2010.01.18 44面)。

画廊歩きが趣味だった山本氏は、一目惚れの日本画を29歳で初めて購入して以来30年間、「作品購入こそ若手作家への最高の支援」と言う信念の下、収入の範囲内で購入して来たと言う。その数、1,300点。油絵、日本画、版画とジャンルを問わず。

ユニークなのは、作品を作家の五十音順に並べ、一切の解説を排したこと。「美術館で解説を見ながらの鑑賞は、評価の定まった名所旧跡を追体験する旅みたいなもの。1点購入して自宅に飾るとしたらどれがいいか、先入観なしに本当に好きなものを選ぶつもりで見てほしい」とは山本氏の弁。

自分の鑑賞眼が試される展覧会に出向くのは中々勇気の要るものだけれど(と言っても第三者に鑑賞眼を評価されるわけでもない)、同時に純粋に作品と向き合える楽しさもある。

美術館ボランティアを数年していると、美術史を勉強してなまじ知識量が増えているせいか、展覧会場で作品を「情報」の集積として見ている自分にハッと気づいて、戸惑うことがある。いつの時代に、何と言う作家によって、どのような様式で描かれているのか、同時代の作品の中での位置づけは?云々…文中で山本氏が指摘しているように、まさに自分が、「評価の定まった名所旧跡を追体験する旅」の途上にいるのを自覚するのだ。しかし、心の眼~感性を置き去りにして作品と対峙したところで、果たして鑑賞後に私の中には何が残るのか?その点では、作品に対して何ら偏見を持たずに、感性の赴くままに作品と向き合う子ども達に、教えられることが多いように思う。
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