はなこのアンテナ@無知の知

たびたび映画、ときどき美術館、たまに旅行の私的記録

ぶれない「自分の物差し」を持つ

2010年02月12日 | はなこ的考察―良いこと探し
人間、生きて行く上で、自分の物差しを持つことは必要なんだと思う。それは、つつがなく、或いは自分と言う存在を肯定的に捉えて、必要以上に苦しまずに、悩まずに生きて行く為の智慧や鎧と言っても良いものかもしれない。

では、自分の物差しとは何か?それは自分にとって何が本当に価値のあるものかの判断基準であったり、生きる上で迷いが生じた時に、けっして他人と自分とを比べたりせず、あくまでも自分にとって最良、もしくはより良い生き方を選び取る心の強さなのかなと思う。

価値観や、人生の上で求めるものは人それぞれだ。だから各人それぞれに自分の物差しがあるはずだ。自分の物差しは、それが他者を巻き込んで不幸にするような反社会的なものでない限り、他者に否定されたり、侵害されたりするものではけっしてないし、同時に自分の物差しで、他者を批判したり、否定する権利もなく、ましてや自分の物差しを他者に押しつけるべきではないと思う。

自分の物差しを持つ際に、ひとつの目安となるのが身の程なのだろう。身の程は一言で言うならば自分の器量だろうか?昔から「氏より育ち」と言う言葉があって、出自よりも、どう育てられたか、生きて来たかが大事だと言われているが、現実は「氏(出自)と育ちの両方」共大切なものだ。どんなに本人が努力しても、自分がいつ、どこで、どのような家柄に生まれ、どのような環境の下で育ったかは、一生ついて回る。その意味で、人間が生まれながらに平等なんてあり得ない。

だからこそ、自分の物差しを持つことは重要なんだと思う。生まれながらにして、人生のスタート地点は違うのだ。恵まれた環境の下で育って自分より1歩も2歩も先を行く人がいるかと思えば、後塵を拝している人もいるのだ。しかも家柄や財産や親の庇護と言った外的要素だけでなく、生体エネルギーともいうべき活力(=やたら元気な人からおとなしい人まで、外に向けて放出するエネルギー量)、容貌、能力(知力、精神力、体力、運動能力)と言った個人の内的要素も、人によって大きく異なる。さらに誰もが自分自身のそれまでの歩みは知っていても、他者のことまで、正確に把握できるはずがない。あくまでも他者のことは、現時点の状態しか知り得ないのだ。そんな状況下で、自分と他者を比べることに、何の意味があるのだろう。

人間の不幸は、他者と自分とを比較することから始まる。現時点での両者の差異に一喜一憂することは、上述のことからもナンセンスだと思う。比べるべきは、現在の自分と過去の自分だろう。その前提として、自らの器量を知ることは大切に違いない。

ところで、俗に言う「玉の輿」は、結婚によって自分の社会的地位を引き上げることだが、自分の器量(身の程)を超えるからには、それ相当の覚悟が要るはずだ。それまでの氏や育ちで体得できなかったことを、必死に学ばなければならないのだ。何かを得ることは、同時に何かを失うことでもある。「玉の輿」に乗った人も社会的地位を得ることで、確実に失うものがあるはずだ。ただし、その何かを犠牲にしてでも、自分を未知の厳しい環境に置き、グレードアップさせたい、と言う選択も、自分の物差し次第では「あり」と言える。

自分の器量(身の程)を知り、自分の物差しを持つこと。それは、自らの人生を肯定的に捉える上で、必要なことなのではないか。それが、結果的に自分を、自尊心を守ることになると思う。誰もが、マザー・テレサやオバマ米大統領やアンジェリーナ・ジョリーやマドンナと言った、偉人やリーダーやセレブを目指す必要はないはずだし、他者の目(評価)に絶対的価値を置く必要もないのではないか?自らが思い描く自らの理想像は、あくまでも生きる上での目標であって、自らを追い込む刃ではないはずだ。

世の中に、必要以上に自分自身の在りようを否定し、苦しむ人が少なくないことに、私は正直言って驚き、戸惑い、心を痛めている。自分を痛めつけてまで、そんなに頑張らなくても良いのに、そんなに立派でなくても良いのに。自分のあるがままを愛し、受け入れることは大切だよ。今の自分が好きになれずに苦しんでいる人には、結局、自分自身が、自分を一番理解し、愛せるのだと言うことに、早く気づいて欲しいと思う。

【追記:2010/02/13】

今日、クリント・イーストウッド監督、モーガン・フリーマン主演の映画『インビクタス(INVICTUS~ラテン語で「征服されざる者」「不屈」と言う意味。主人公のネルソン・マンデラが長期にわたる収監中に、心の拠り所となった詩のタイトルでもあるらしい)』を見て来た。

反体制派として27年間にも渡って投獄された経験を持つ、ネルソン・マンデラ氏(1918~ 元南アフリカ共和国大統領)が大統領就任直後、長年に渡るアパルトヘイト(人種隔離政策)で、互いに憎悪感情を拭えない黒人と白人の融和を目指すべく、当時白人中心のスポーツであったラグビーを人種融和の象徴に据えた顛末を描く。奇しくも今年2010年2月11日(木)は、マンデラ氏釈放20周年に当たる。

何よりモーガン・フリーマン演じるマンデラ氏の、人間的スケールの大きさに圧倒された。過去にアパルトヘイトの下、黒人に対して白人によって行われた差別的行為、非人間的対応に対し、「憎悪ではなく赦しを」「復讐ではなく融和を」、「過去を振り返るのではなく未来を志向せよ」と説いたマンデラ氏。華奢な体躯の男性だが、思想の巨人とも言うべき人。27年間、様々な圧力に屈することなく、狭小な独房で自分自身と真摯に向き合い続けた結果、その思想は崇高なまでに結晶化し、その言動には悟りを開いた宗教家の風格さえ漂う(その個人的感情を超越した理想主義に、家族はついて行けず離れてしまったようだが…)

劇中、マンデラ氏は繰り返しこう述べた。”I am the master of my fate.”~我は、我が運命の支配者なり。どんな状況にあろうとも、自分の運命(人生)を決めるのは自分自身である。とても印象的なフレーズだった。


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