はなこのアンテナ@無知の知

たびたび映画、ときどき美術館、たまに旅行の私的記録

言霊を信じようと思った出来事

2022年07月09日 | 今日の言の葉

30代半ばで入学した美大時代、年甲斐もなく同じ学科の友人(当然20歳前後のうら若き乙女達)3人と横浜発夜行バスで奈良(車中泊で翌日の早朝到着)に行き、当時開催中だった展覧会を見て、その日の深夜に奈良を発つ(車中泊で翌早朝横浜着)弾丸ツアーを挙行したことがある。

一番の目当てである展覧会の鑑賞を終えた後は4人で寺巡りをした。

とある名刹を訪れた時のこと。そこの有名な仏像を拝観した後、本堂の離れにいた老女の手招きを受けた。縁側でお茶をいただきながら、老女の話を聞くことになった。

当初は「どこからいらしたの?」「うちの仏像はいかかでしたか?」といった当たり障りのないやりとりが続いたが、途中で老女が急に声を潜めて意外なことを口にした。

「私はここの住職の妻なんですけどね、住職は蛇のように冷たい人間なの。蛇よ蛇。」

それまでの穏やかな会話を突如断ち切るような、積年の恨みが籠った告白に、4人全員固まってしまった。何とも返事のしようがなかった。驚きのあまり、その後どう会話を取り繕ったのか記憶も定かでない。

夫を「蛇のように冷たい人間」と形容するインパクトは凄まじく、暫くそのフレーズが頭から離れなかった。自分には思いもつかない表現だったこともあるのだろう 

 

その翌年である。件の老女の寺の庫裏が全焼する火事があり、離れに住んでいた彼女ひとりだけが亡くなった。それを報道で知り、滅多なことは言うものではないなと恐怖を感じた。強い言葉が吐く毒は自分に返って来る、と。

(尤も自分が年を重ねた今なら、既に老女はかなり高齢であったことから、認知症による被害妄想がそう言わせた可能性もあると考えることも出来る。)

SNSでの発言を見ても感じることだが、心の内に秘めた思いや考えは、身近な人間には案外吐露しづらいものである。自分を知らない不特定の相手にだからこそ、後腐れなく本音を吐けるのかもしれない。ましてや誰かへの恨みつらみなど、その誰かを直接知っている人には絶対言えないだろう。確実に実生活で何らかの影響が出るだろうから。

 

人間の持っている「思念」は私達が思っている以上に強い力を持っている。だからこそ、それを言葉にした瞬間、言葉自体が力を持ち、発した本人やその周囲の人間に影響を及ぼすことになるような気がする。それが「言霊」の実体なのではと私なりに解釈している。

例えば、宗教や思想信条の扱いが一般にセンシティブなのは、それを信じている人の思念(エネルギー?)を肌で感じるからではないか?感じるからこそ、通常ならそれを畏怖して、「他人である自分が冒してはならない」と言う抑制が働く。逆に鈍感な人間は無遠慮に不可侵な領域へ立ち入ろうとするから、思念のエネルギーの影響をモロに受けて”祟り”に遭うわけだ。もちろん、稀に信じるの視野狭窄の果ての妄想で、彼らから誰もが予想外の攻撃を受ける可能性だって否定できない。

そういう怖さがあるからこそ自衛策として、多くの日本人は宗教や思想信条に前のめりになることを避けているのではないか?逆説的に「信じるものがある人は強い、何物も恐れない」とも言えるのかもしれないが…

 

奈良の寺の一件があってから、私は日々の生活で自分の発する言葉の影響は常に意識しなければと、なおさら思うようになった。発言が強ければ強いほど、ネガティブであればあるほど、自分に跳ね返ってくる、或いは、その言葉の影響を受ける、ような気がしてならないからだ。特にネット社会になってからは、デジタル・タトゥーの恐怖がついて回るようになったことも、常に心に留めておく必要があるのだろう。


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