はなこのアンテナ@無知の知

たびたび映画、ときどき美術館、たまに旅行の私的記録

本来、本当に勉強したい者だけが大学には行けば良い

2016年11月15日 | はなこ的考察―良いこと探し
 私は若い頃、出来れば四年制大学の国文学科か社会学科に進学したかったのですが、それは家庭の事情で叶いませんでした。

 私が11歳の時、家を購入した翌年に父が病に倒れ、それまでの仕事を辞めなければならなくなり、その上、父は通院中に交通事故にも遭うなどして、その後長らく家計が大変な状況に置かれたのです。

 さらに私が10歳の時に生まれた末妹は両股関節脱臼症で生まれた為に、約4年間コの字型に開脚した状態で股関節をギプスで固定されていて、特に世話が必要な状態でした。

 父の蓄えが多少あったらしく、どうにか住宅ローンは払い続けることができたので新居を手放すことはなかったのですが、日々の生活費はそれまで専業主婦だった母が仕事に出て捻出する必要がありました。

 当初母が手掛ける予定であった自宅1階の小さな書店兼文房具店は、休日はともかく平日は、まだ10歳か11歳の私が学校から帰って来てから、店番を担当することになりました。夕方には一旦自宅のある2階に上がり、米をとぎ炊飯器をセットし、夕食のおかずを一品作るのも私の担当でした。

 末妹の世話は自宅療養中の父が主に担当したのですが、私が中一の時には、さらに父の郷里で未婚の叔母と住んでいた認知症の祖父を、叔母の結婚を機に引き取ることになったので、私の家は家計と人手の面で大変な状況になりました。

 当時の母の負担は相当なものであったと思います。当時は今のように老人用紙おむつがあったのか覚えていないのですが、祖父は昔ながらに褌を着用しており、所構わず排尿・排便をするので、その後始末も母と私とでやりました。

 結局、書店兼文房具店はすぐ近隣に専業の店が出来たこともあり、私の中学卒業間近に、開業から僅か5年で閉めました。その後は貸事務所として企業に貸し出しました。

 次妹が幼い頃に交通事故死していたこともあり、3人の弟妹とは少し年が離れていたので、両親は私のことをかなり頼りにしていました。私が高校を卒業後は公務員になって家計を助けてくれることを期待していました。ことあるごとに父親には公務員になれと言われました。

 しかし、これといった産業もない地方都市では若年層の就職先は限られており、公務員は人気の就職先のひとつ。競争倍率も高く、採用段階では、現在はともかく当時はコネが堂々とまかり通る状況でした。

 私は高校時代の校内公務員模試では1位の成績で、就職試験も1次のペーパーテストは通るのですが、実際に同級生で採用されたのは、明らかに学校の成績は私より下の、市長の後援会会長の娘や市議会議員の息子、国家公務員にしても一族全員が公務員と言う家の娘でした。

 父は他県の出身者で母は商家の出身と、公務員関係のコネなど皆無。今でもその時に感じた虚しさや悔しさは覚えています。故郷に対する屈折した思いも、このことが原因の一つだと言えるでしょう。

 国家公務員の採用候補者名簿に名前は記載されたものの(漠然と「本当は大学に行って勉強したいなあ」と思っていました。親に黙って共通一次試験を受験し、自己採点では希望の学科へ入学が可能な点数は取っていました)、進路が決まらないまま高校の卒業が迫った頃に、父がどうしたものか、地元の小さな建設会社の一般事務の職を見つけて来ました。有無を言わさず、4月からそこで働くことになりました。

 高校の普通科出身で経理が出来るわけでもなく、何の資格も持っていない私が出来る仕事は限られていました。毎朝の掃除、お茶くみ、日雇い職人の日当計算、見積書の和文タイプ等。ベテランの経理職員の先輩女性から指導を受け、内心嫌々ながら働き始めました。

 一方、高校時代の親しかった友人はほぼ全員が県内外の大学か短大、或は翌年の大学進学を目指して予備校に通っていました。こうした彼我の違いにも、私は打ちのめされていました。

 数年前、会社の元同僚で同い年の友人に「なぜ、はなこちゃんは4年制大学に進学しなかったの?」と聞かれました。両親が学校教師で、地方から都内の大学への進学も許された彼女には、私の過去など想像もつかないでしょう。その時、私は過去の辛かった記憶が一気に蘇って、言葉になりませんでした。


 担当した仕事で特に嫌だったのはトイレ掃除です。会社の事務所の外にトイレは独立してあったのですが、とにかく職人さん達のトイレの使い方が汚い。日に何度も便器の外に飛び散った他人の排泄物を片づけていました。トイレさえ後の人の為にきれいに使えない人達に呆れたと同時に、そうした人々と同じ環境にいる自分がとても惨めに思えました。

 また、ある時、社長の使いで取引先の会社に小切手を届けに行った時には、こちらには何の落ち度もないのに理不尽な扱いを受けたことがありました。人間はどこに勤めているかでその人自身が値踏みされ、ここまで差別されるのかと実感した出来事でした。

 さらに私がうんざりしたのは、ここで働き続けることに明るい自分の未来像を描けないことでした。会社には現場監督が3人いたのですが、年配のベテランの方(この方は私の父と同郷の人でしたが、なかなかの人格者でした)はともかく、2人の30代の現場監督の社内での扱いの差に不快感を覚えました。

 片や社長の息子で福岡の二流大出ながら将来の社長候補、片や地元の国立大出の生真面目そうな男性。跡継ぎの息子は性格自体はそれほど悪くないのですが、やはり社長の息子と言う甘えがその態度の端々に見えました。しかし、彼は跡取り息子だから誰もが一目置いている。

 一方、国立大出で地元では一般的にエリートとして見られる男性は、彼の能力の割には会社の中で軽んじられている印象でした。職人さんの中にはインテリをあからさまに馬鹿にする風潮もありました。小さな会社でのつまらない力関係を傍で見ていて、こんな会社で何十年も働き続ければ、自分が人間として駄目になってしまうと思いました。

 勤務は(月)~(土)8時~18時勤務、毎月の給与は7万円プラス交通費5,000円、1年目はボーナスなし。40年近く前の話ですが、当時としても給与や待遇は良いものではなかったと思います。 

 私は入社して3カ月過ぎた頃には、(いろいろ指導してくださったベテランの女性社員には申し訳ないのですが)翌年の自力での大学進学を心に決めていました。家に給与の内3~3.5万円を入れ、後は贅沢を一切せずに学資の為にひたすら貯金しました。子どもの頃から父親の言われるがままに長子として我慢に我慢を重ねていたのですが、あまりにも絶望的な状況に、堪忍袋の緒が切れてしまったのです。
 
 これからは父が何と言おうが自分の人生を生きる、と心に決めました(さすがに母が可哀想なので、家出は考えもしませんでした)。当時の愛読書は山本有三の「路傍の石」。繰り返し読んで、自分を励まし続けました。


 現実問題として学費の調達は自分でしなければならず、バイトと奨学金で賄おうと考えました。とりあえず入学時に必要な30万円を入学前までに貯めることにしました。さらに私が大学に通っている間、家への入金が滞ることに難色を示すであろう父親を説得する為に、4年制大学は諦め、地元でも就職率の高いことで評判の良い短大の英語科へ進学することにしました。

 その短大の試験科目は現代国語と英語と小論文だったのですが、高校在学時、現代国語の成績は学年トップで英語や小論文(国語教師の指名により在校生代表で学校の創立記念誌にエッセイを寄稿)も得意だったので、特別な勉強はしなくとも合格は確実と見ていました(一応、前年その短大に入学した友人から問題集を譲って貰い、2カ月程勉強はしました)

 実際、その短大には好成績で合格したらしく、入学時に成績順で振り分けられるクラスでは最上位のクラスでした。ある初めての授業では、初対面の教授に「君が○○君か?」と言われました。以来、その教授とは在学中に教授の研究の手伝いをさせていただくなど何かと目をかけていただき、卒業から30年経った今に至るまで親交が続いています。

 在学中は無事奨学金も貸与できて、週に3~4日、夕方6時から夜中の12時まで24時間営業のレストランでウエイトレスのバイトをして学費を賄い、日々勉強に励みました。

 当時はハマトラ・ファッション花盛りの女子大生ブームが起きていましたが、私自身は常にバイトと勉強による慢性的な睡眠不足で、そんな華やかさとは無縁でした。しかし、充実した毎日を送っているとの自負はありました。

 そして、短大もほぼオール優の成績で卒業し、無事大手企業に就職を果たし(←時代状況として当時、女性は専門職でない限り四年制大学より短大の方が就職に有利でした。その短大から私他3人が初めてその企業に就職したこともあり、翌年の短大の就活研修に、就活体験談を語るOBとして招かれました)、以後の人生はあの最初の就職時代からは想像もつかないほど充実したものとなりました。

 
 人生を自ら切り開く為に教育がいかに重要なのかを身を以て知った自身の経験から、無為に過ごしている大学生を冷ややかに見てしまう自分がいます。さまざまな場所で馬鹿丸出しの言動をしている大学生を見かけると、内心腹を立てています。

 せっかく教育に理解のある親の元に生まれ、大学にも何の苦も無く進学させて貰ったのに、なぜ、その幸運に感謝して勉学に励まないのか。大学生としての自覚を持って、知性を磨くことをしないのかと。

 理解ある夫のおかげで、私は36歳の時に改めて四年制大学に社会人入学しましたが、学費を出してくれた夫への感謝を胸に、徹夜も辞さずに猛勉強してほぼオールAの成績を修め、卒業時には総代を務めました。

 しかし、目指す仕事のジャンルによるとは思いますが、やはり「鉄は熱いうちに打て」です。出来れば遠回りのルートを辿らずに若いうちに勉学の機会を持った方が、自身の能力を生かす場の選択肢も多くなります。職業によっては年齢で諦めなければならないものもある。

 私は自分の与えられた環境で最善を尽くしたつもりですが、職業人生では幾ばくかの後悔があります。自分が子どもの頃から憧れた職業には、それに挑戦する機会すらありませんでした(その点、息子は努力の甲斐あって、幼い頃から夢見た職業に就けたので本当に良かったと思います。私の分まで、好きな場所で自分のやりたいことに思いっきり打ち込んで欲しい)

 ところで、この二度目の学生時代に、授業中に講師に全く敬意を払わず教室の後方で私語を続けている学生に対して、私は堪らず口頭で注意したことがありますが、件の学生達には何の反省もなく、逆に悪態をつかれました。日本で最も古い女子大のひとつでこの有様に、とてもガッカリしたのを今でもハッキリと覚えています。だから私は声を大にして言いたいのです。

 他の真面目な学生の勉強を妨害をするような学生は授業に出ないで欲しい。

 エマニュエル・トッド氏によれば、米国の大学では4割の学生が卒業できずに途中でドロップアウトするのだそうです。その原因には成績不振の他に学費が払えない為と言う理由があります。

 そもそも日本(大学の学費が基本的に無料のドイツも。その代わりドイツは中学進学の段階で将来大学進学か職人を目指すかにコースが分かれるので、大学進学率は低く、国家予算に占める高等教育の予算は比較的抑制されているようです。しかし、卒業することが難しいのか、或は大学の居心地が良すぎるのか、平均在籍年数は8年にも及ぶらしい)以外の先進国では一部の富裕層を除いて殆どの学生は、自分自身で学生ローンを組むなどして大学の学費を賄っています。卒業も難しいので学生は必死に勉強する。

 中国もGDPが日本を抜いて世界第2位となるなど国が経済的に豊かになったのに、大学進学率は殆ど上がっていません。つまり、中国の大学生は、苛烈な競争を経た超エリートなのです。

 日本のぬるま湯に浸かった学生(←もちろん、真摯に勉学に取り組んでいる学生は除く)は、もっと世界を見るべきです。自分達がいかに世界の水準に遠く及ばないのか、グローバルの競争社会ではまったく太刀打ちできない非エリートであることを、はっきりと自覚するべきだと思います。

 そもそも、端から勉強する気のない者は大学に進学すべきではないのです。大学を社会人デビューを先延ばしする為のモラトリアムの場にしてはいけないのです。社会人デビューを先延ばしたいだけの幼い人間には、大学以外の器を社会も用意すべきなのかもしれません。 

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