昨日の午後、自宅で何とはなしにテレビを点けたら、オスカー・プロ主催の「全日本国民的美少女コンテスト」の最終審査の模様が放映されていた。
すでに結果は何日も前に報道されていて、グランプリは大阪代表の高校2年生、中国系の林丹丹さん(2015年に芸能界引退)であることは知っていたが、美少女見たさにチャンネルはそのままにすることにした。
個人的には、林丹丹さんの顔立ちは他の出場者に比べてずば抜けて美しいとは思えないし、好みでもないのだが、プロダクションの今後の営業戦略という点から考慮すれば、アジア、特に中華圏を意識した人選というのは見てとれる。何より年齢、語学力、華人的面立ちは即戦力なんだろう。
また現在活躍する過去の受賞者の受賞時の容貌を見ても「大化けした」人がおり、プロの目からみたポテンシャル(潜在能力)の高さが、大きなポイントになったのかもしれない。
それにしてもオスカーの所属タレントはアゴのラインが見事にシャープだなあ。これは採用の絶対条件のようだ。
番組では、最終審査まで残った候補者について事前に取材し、その内容をコンパクトにまとめたプロフィール映像をステージ審査の間に織り込んでいた。これを見れば各人の人となりがわかる仕組み。
そこで注目したのは、東京都代表の、すでに少女モデルとして雑誌で活躍している女の子。あいにく名前は忘れてしまった。彼女のプロフィール映像の見出しは「美の英才教育」だった。
元モデルでレースクイーンでもあった母親による幼少時からの”仕込み”によって、オスカーのプロの目にも「出場者中、最も完成度が高い」と映る美少女ぶり。しかし、これは必ずしも褒め言葉ではないな、と感じた。
先日、菊川怜に関する記事を書くに当たって、彼女の出身校であるO学園のHPを見たのだが、その進学実績一覧で意外なものを目にした。O学園と言えば、各々の地域で1、2と言われる秀才女子が入学する学校だ。進学実績も、数多ある女子校の中では群を抜いて華々しい。
しかし、中には「あれ?」と思うような進学先もある。別にO生でなくても入れそうな大学だ。
そこで、しばしば耳にする話を、ふと思い出した。まず中学受験は精神年齢がモノを言うという説。その意味では早熟な女子の方が男子より有利というか、自覚的に受験勉強に臨める。第2に、私立でも高校入学を受け入れる学校(男子校のK学園等)では、中学受験組より高校受験組の方が成績の伸びが高いという説。
このふたつの説が物語っているのは、中学受験を経験した子供の中には、中学受験の時が、その子にとっての学力(或いは学習意欲)のピークであったかもしれない子供もいる、ということ。あたかもゴムを目一杯伸ばし過ぎたために、ゴムが伸びきってしまって元に戻らないような状態。
話を美少女コンテストに戻すと、プロに「完成度が高い」と言わしめた少女も、そのような可能性を孕んでいる、ということだ。母親は自分がモデルとして果たせなかった夢を、娘に託していると、プロフィール映像で明言していた。その母親の夢を引き継いで、健気に頑張っている少女。
しかし私の目には、その姿が何だか痛々しく映った。番組の中でプロフィール映像を見ていた米倉涼子も、
「親の夢を引き継ぐって、どんな気持ちだろうねえ」
と、半ば同情めいたニュアンスのコメントを口にした。
最近はスポーツの世界でも、親子密着型が目に付く。レスリングの浜口父子、ボクシングの亀田父子、そして、ゴルフの横峰さくら父子。
かつては、卓球の福原愛もそうだったが、彼女のこのところの精神的成長は目覚ましく、以前感じたような痛々しさはもうない。彼女の卓球の競技能力がレベルアップするにつれ、実母より他者の関与が強くなり、母子密着が自然解消した形だろうか?
ゴルフの宮里藍選手父子も、確かに宮里藍は父親の指導でゴルフを学んだが、何れもプロとなった兄二人の存在、高校からの親元を離れた生活、或いは本人の持って生まれた強さなのか、横峰親子に比べ、父子は程よい距離感を保っているように見える。
(2016年時点で、こと横峯さくらと宮里藍に関する見立ては間違っていたのかなと思う。横峯さくらは数年前に結婚し、それ以前から父親を客観視して距離を置くなど、父親からの精神的自立を果たしている。
一方の宮里藍は、世界ランキング1位を獲得する等、渡米後数年間の目覚ましい活躍の後、今日まで続く長いスランプを脱しきれないのは、父親のジュニア時代からの指導に拘泥しているからなのではないか?体格に恵まれない彼女が、過酷な米ツアーに拘り続けるのも、過去に日本での陰湿なイジメがあったとは言え、理解し難い。不振のまま、米国で選手生命を終えるつもりなのだろうか?)
子供は確かに親の血を受け継ぎ、ある程度の年齢まで、親の庇護なしには生きては行けない。だからと言って、子供は親の所有物ではない。ましてや、親子は一体ではない。同一視できるものでもない。まったく別個の人格を持った存在だ。
子供がたとえ親の意にそむいたとしても、それは悪いことではない。たとえ親の期待に応えられなくとも、自分を責める理由にはならない。子供は何も悪くない。
親の期待に応えるべく懸命に努力する子供は健気だし、期待に応えられる能力を持っていることも凄いことだとは思うが、親のためにそんなに頑張らなくていい。子供は親の為に生きているのではない(その逆~親は子供の為に生きている~はあり得るかも…)。
子供の人生はあくまでも子供自身のもの。子供の人生を支配する権限まで、親には与えられていない。
子供達には自らの意思で人生を選び取って歩むことが、本当の人生を生きることなんだと知って欲しい。
自ら選び取った人生の方が、たとえ紆余曲折があろうが、思い通りに行かないものであろうが、ずっとワクワク感に満ちて、自ら生きていると実感できるはずなのだ。
すでに結果は何日も前に報道されていて、グランプリは大阪代表の高校2年生、中国系の林丹丹さん(2015年に芸能界引退)であることは知っていたが、美少女見たさにチャンネルはそのままにすることにした。
個人的には、林丹丹さんの顔立ちは他の出場者に比べてずば抜けて美しいとは思えないし、好みでもないのだが、プロダクションの今後の営業戦略という点から考慮すれば、アジア、特に中華圏を意識した人選というのは見てとれる。何より年齢、語学力、華人的面立ちは即戦力なんだろう。
また現在活躍する過去の受賞者の受賞時の容貌を見ても「大化けした」人がおり、プロの目からみたポテンシャル(潜在能力)の高さが、大きなポイントになったのかもしれない。
それにしてもオスカーの所属タレントはアゴのラインが見事にシャープだなあ。これは採用の絶対条件のようだ。
番組では、最終審査まで残った候補者について事前に取材し、その内容をコンパクトにまとめたプロフィール映像をステージ審査の間に織り込んでいた。これを見れば各人の人となりがわかる仕組み。
そこで注目したのは、東京都代表の、すでに少女モデルとして雑誌で活躍している女の子。あいにく名前は忘れてしまった。彼女のプロフィール映像の見出しは「美の英才教育」だった。
元モデルでレースクイーンでもあった母親による幼少時からの”仕込み”によって、オスカーのプロの目にも「出場者中、最も完成度が高い」と映る美少女ぶり。しかし、これは必ずしも褒め言葉ではないな、と感じた。
先日、菊川怜に関する記事を書くに当たって、彼女の出身校であるO学園のHPを見たのだが、その進学実績一覧で意外なものを目にした。O学園と言えば、各々の地域で1、2と言われる秀才女子が入学する学校だ。進学実績も、数多ある女子校の中では群を抜いて華々しい。
しかし、中には「あれ?」と思うような進学先もある。別にO生でなくても入れそうな大学だ。
そこで、しばしば耳にする話を、ふと思い出した。まず中学受験は精神年齢がモノを言うという説。その意味では早熟な女子の方が男子より有利というか、自覚的に受験勉強に臨める。第2に、私立でも高校入学を受け入れる学校(男子校のK学園等)では、中学受験組より高校受験組の方が成績の伸びが高いという説。
このふたつの説が物語っているのは、中学受験を経験した子供の中には、中学受験の時が、その子にとっての学力(或いは学習意欲)のピークであったかもしれない子供もいる、ということ。あたかもゴムを目一杯伸ばし過ぎたために、ゴムが伸びきってしまって元に戻らないような状態。
話を美少女コンテストに戻すと、プロに「完成度が高い」と言わしめた少女も、そのような可能性を孕んでいる、ということだ。母親は自分がモデルとして果たせなかった夢を、娘に託していると、プロフィール映像で明言していた。その母親の夢を引き継いで、健気に頑張っている少女。
しかし私の目には、その姿が何だか痛々しく映った。番組の中でプロフィール映像を見ていた米倉涼子も、
「親の夢を引き継ぐって、どんな気持ちだろうねえ」
と、半ば同情めいたニュアンスのコメントを口にした。
最近はスポーツの世界でも、親子密着型が目に付く。レスリングの浜口父子、ボクシングの亀田父子、そして、ゴルフの横峰さくら父子。
かつては、卓球の福原愛もそうだったが、彼女のこのところの精神的成長は目覚ましく、以前感じたような痛々しさはもうない。彼女の卓球の競技能力がレベルアップするにつれ、実母より他者の関与が強くなり、母子密着が自然解消した形だろうか?
ゴルフの宮里藍選手父子も、確かに宮里藍は父親の指導でゴルフを学んだが、何れもプロとなった兄二人の存在、高校からの親元を離れた生活、或いは本人の持って生まれた強さなのか、横峰親子に比べ、父子は程よい距離感を保っているように見える。
(2016年時点で、こと横峯さくらと宮里藍に関する見立ては間違っていたのかなと思う。横峯さくらは数年前に結婚し、それ以前から父親を客観視して距離を置くなど、父親からの精神的自立を果たしている。
一方の宮里藍は、世界ランキング1位を獲得する等、渡米後数年間の目覚ましい活躍の後、今日まで続く長いスランプを脱しきれないのは、父親のジュニア時代からの指導に拘泥しているからなのではないか?体格に恵まれない彼女が、過酷な米ツアーに拘り続けるのも、過去に日本での陰湿なイジメがあったとは言え、理解し難い。不振のまま、米国で選手生命を終えるつもりなのだろうか?)
子供は確かに親の血を受け継ぎ、ある程度の年齢まで、親の庇護なしには生きては行けない。だからと言って、子供は親の所有物ではない。ましてや、親子は一体ではない。同一視できるものでもない。まったく別個の人格を持った存在だ。
子供がたとえ親の意にそむいたとしても、それは悪いことではない。たとえ親の期待に応えられなくとも、自分を責める理由にはならない。子供は何も悪くない。
親の期待に応えるべく懸命に努力する子供は健気だし、期待に応えられる能力を持っていることも凄いことだとは思うが、親のためにそんなに頑張らなくていい。子供は親の為に生きているのではない(その逆~親は子供の為に生きている~はあり得るかも…)。
子供の人生はあくまでも子供自身のもの。子供の人生を支配する権限まで、親には与えられていない。
子供達には自らの意思で人生を選び取って歩むことが、本当の人生を生きることなんだと知って欲しい。
自ら選び取った人生の方が、たとえ紆余曲折があろうが、思い通りに行かないものであろうが、ずっとワクワク感に満ちて、自ら生きていると実感できるはずなのだ。