私は基本的に下は小学生から上は大学生まで、主に学生を対象にギャラリートークをさせていただいていますが、年に1~2回、自治体や団体が主催する生涯学習の一環で訪れる成人の方々に対しても、ギャラリートークをさせていただくことがあります。
実は今日実施したギャリートークが、その年に1回あるかないかの、成人を対象としたギャラリートークでした。都内とは言え、かなり遠くからバスでいらしたその団体さんは、あいにくの雨で渋滞に巻き込まれる等して、予定の時間を30分以上遅れて美術館に到着されました。
成人対象と言っても、基本的に児童生徒対象の対話型トークと変わりありません。ただし、成人向けに多少解説を多めにはしています。
結論から言うと、今日のギャラリートークはとても楽しいものでした。参加者がストレートに喜びを表してくださるので、私自身がギャラリートークを実施しながら、励まされているようでした。
例えば、モネの《睡蓮》は部屋の入口から徐々に距離を詰めていって作品の前に立つと、見え方に変化があって面白いのですが、ある方が「絵は目の前にすぐ立って見るもんだと思っていたけど、まず遠くから見て、段々近づいて行くって見方があるんだね。なるほど、こういう見方もあるんだ」と言って、何度も頷かれました。
また、最初の作品では発言のなかった男性が、最後の作品では、すっかり打ち解けた雰囲気で饒舌に作品についてお話されました。皆さんの表情も時間の経過と共に豊かになって、楽しそうにされているのが、こちらにも伝わって来ました。
私が担当したグループは8人で、40代から70代?の年齢幅で、当該美術館に来るのは殆どの方が初めて。美術館体験そのものもあまりない方が殆どでした。
そこで、美術館での作品の楽しみ方についてのヒントを差し上げました。それはあくまでも、ひとつのアプローチの仕方ではありますが…
いまどき、美術作品は本、テレビ、ネットで気軽に見ることができます。それでは、なぜ、皆さんはわざわざ美術館に足を運ぶのでしょう?
確かに昨今のテレビやパソコンの画面の解像度は上がって、作品もくっきりと見えます(美術館には作品と鑑賞者との間に結界が設けられていることも多いので、美術館で見る以上に作品を近接して見られると言う利点も)。
それでは、例えば油絵の絵の具の盛り上がりや筆の跡は、テレビやパソコンで見るのと、実際に美術館で実物を見るのとでは、どう見え方が違うのでしょう?…やはり実物の方がより立体的にくっきりと絵の具の盛り上がりや筆跡が確認できますね。作品を制作中の作家の息遣いまで聞こえてくるような迫力があります。
また、いかにパソコンやテレビ等のモニター画面や画集等の印刷物の「色の再現性」の技術が飛躍的に向上したと言われても、肉眼で間近に見る実物作品の色彩を100%忠実に再現しているとは言えません。オルセー美術館で見たエドワール・マネの≪草上の昼食≫の色彩の鮮やかさと美しさには感動のあまり、しばしその前に立ち尽くした程です。
さらに、テレビやネットや画集で知り得ないこととして、「実物の大きさ」があります。
かの有名なルーヴル美術館所蔵のレオナルド・ダヴィンチ作≪モナ・リザ≫をルーヴルで初めて見た時の驚きは忘れられません。さまざまな媒体で見尽くした作品の実物が、自分の想像以上に小さかったこと。それは、そのけっして大きいとは言えない作品の中で展開する世界の宇宙的な広がりと奥行の深さが、より大きな作品だと錯覚させていたのかもしれません。その逆にオルセーで見たギュスターブ・クールベの≪オルナンの埋葬≫の予想外に大きかったこと。その迫力に圧倒されました。
こうした実物作品と間近に対面することによる驚きや感動の体験こそが、美術館で本物を見ることの意味だと私は考えます。
作品の近くには、必ず作品の題名や作者の名前が書かれたプレートがあります(←これはキャプションと言います)。まず、作品の前に来たら、これは見ないでください。まず、自分の目を信じて、自分の目で、目の前にある作品をじっくり見てください。
作品には何が描かれているのか?作品の中に気になるもの、面白いもの、不思議なもの、とにかく何か引っ掛かるものを見つけてみましょう。同行者がいれば、それを互いに発表してみましょう。
あなたが気付かなかったことを気付いた人がいるかもしれません。同じものを見ても、人によって解釈が違うこともあります。感想だって違います。それが当たり前です。違うから面白いんです。いろいろな見方があって良いんです。そもそも世の中の物事全て、見る人の立ち位置によって見え方が違うではありませんか?
作品を見て、作品を前にして、あれこれ想像を巡らすことが大切なんです。そうすることで、作品は、あなたの心に強く印象づけられます。あなたの記憶に残るのです。
この絵はいつの時代を描いているんだろう?どこを描いているんだろう?描かれた人物の特徴や服装や持ち物、建物や風景で分かるかな?
絵の中の人物は誰なんだろう?何を持っているんだろう?なぜ、持っているんだろう?
絵の中の人物は何をしているんだろう?この表情はどんな気持ちを表しているんだろう?
このポーズには何か意味があるんだろうか?もしかして人物の立場や感情や考えを表しているのだろうか?他の登場人物との関係性を表しているのだろうか?
どうして、作者はこの絵を描いたんだろう?
どうしてこのような色遣い、或いは筆遣いで描いたんだろう?
色の明るさは他の作品と比べてどうだろう?筆遣いもどうだろう?
同じ作者の作品でも時代によって変化しているのは、作者の身に何があったのだろう?何から、或は誰から影響を受けたのだろう?エトセトラ…
例えば宗教画は、聖書の物語の一場面を描いていたりするのですが、最初はとにかく上述のようなアプローチで作品を見て行きます。そこで、その時点で気付いたことを踏まえて、参加者各々に自由に物語を作ってもらいます。
その間、参加者はいろいろな疑問を持ちます。例えば、今回は絵の中の天使の絵を見て、天使は女なのか、男なのかと参加者間で議論しました。天使は女性、と言う前提で見ると、絵の中の天使は二の腕が逞し過ぎる。顔は女性的なだけに不思議な印象を覚えたようです。結局天使は人間ではないので、性別はないのですが(或いは両性具有?)…しかし、それはひとつの知識であって、この場では絵を見てあれこれ想像を巡らせるのが大切。
ひとしきり参加者全員で語り合った後で、目の前の作品が聖書のどの場面を描いたもので、どのような意味があるのか、私が種明かしをしたのですが、別にここで参加者の作品解釈の正解不正解を問うているわけではないのです。
参加者が聖書の勉強をしている生徒なら、正解、不正解を問われるかもしれませんが、ここは美術館。あくまでも作品をじっくり見る事が主眼です。
実はこの時点で、参加者は「作品をじっくり見る」という所期の目的を十分達成しています。参加者が作品を前に、自由に語り合ったことに意味があるのです。
仮に私が最初からこの絵は聖書のどの場面で、こういう意味があります、と解説したとしましょう。参加者はその場でその作品について理解した気にはなるかもしれませんが、帰宅後、果たしてどれだけ絵について、作品そのものについて覚えているでしょうか?(ですから、通常美術館で実施されている解説トークに参加した後は、改めてご自分で作品をじっくり見ることをオススメします)
美術館では常に私のようなサポーターがいるとは限らないのですが、その代わり、キャプションと解説プレートがあります。
まずは作品を見ること。上述の要領でじっくり観察することです。
その後に、キャプションや解説プレートで、題名や作者や、作品について確認しましょう。
それでも疑問があれば、ネットや本で調べてみましょう。
この一連のプロセスこそ、美術館で作品を見ることの醍醐味だと思います。
現実問題、観光等で訪れた大規模な美術館での鑑賞の場合、膨大な量の作品を満遍なく見るのは難しいと思います。その場合はメリハリある鑑賞方法が求められるのかもしれません。言うまでもなく人間の集中力には限界があるので、最初に展示室全体を見渡し、その部屋の作品群の雰囲気を掴んだら、数多ある中から自分なりに気になる作品を幾つかピックアップして、じっくり見ると言うのもアリではないでしょうか?
できるだけ多くの人が気軽に美術館に足を運び、作品との出会いを楽しまれるよういつも願いながら、私はボランティアとして活動しています。
実は今日実施したギャリートークが、その年に1回あるかないかの、成人を対象としたギャラリートークでした。都内とは言え、かなり遠くからバスでいらしたその団体さんは、あいにくの雨で渋滞に巻き込まれる等して、予定の時間を30分以上遅れて美術館に到着されました。
成人対象と言っても、基本的に児童生徒対象の対話型トークと変わりありません。ただし、成人向けに多少解説を多めにはしています。
結論から言うと、今日のギャラリートークはとても楽しいものでした。参加者がストレートに喜びを表してくださるので、私自身がギャラリートークを実施しながら、励まされているようでした。
例えば、モネの《睡蓮》は部屋の入口から徐々に距離を詰めていって作品の前に立つと、見え方に変化があって面白いのですが、ある方が「絵は目の前にすぐ立って見るもんだと思っていたけど、まず遠くから見て、段々近づいて行くって見方があるんだね。なるほど、こういう見方もあるんだ」と言って、何度も頷かれました。
また、最初の作品では発言のなかった男性が、最後の作品では、すっかり打ち解けた雰囲気で饒舌に作品についてお話されました。皆さんの表情も時間の経過と共に豊かになって、楽しそうにされているのが、こちらにも伝わって来ました。
私が担当したグループは8人で、40代から70代?の年齢幅で、当該美術館に来るのは殆どの方が初めて。美術館体験そのものもあまりない方が殆どでした。
そこで、美術館での作品の楽しみ方についてのヒントを差し上げました。それはあくまでも、ひとつのアプローチの仕方ではありますが…
いまどき、美術作品は本、テレビ、ネットで気軽に見ることができます。それでは、なぜ、皆さんはわざわざ美術館に足を運ぶのでしょう?
確かに昨今のテレビやパソコンの画面の解像度は上がって、作品もくっきりと見えます(美術館には作品と鑑賞者との間に結界が設けられていることも多いので、美術館で見る以上に作品を近接して見られると言う利点も)。
それでは、例えば油絵の絵の具の盛り上がりや筆の跡は、テレビやパソコンで見るのと、実際に美術館で実物を見るのとでは、どう見え方が違うのでしょう?…やはり実物の方がより立体的にくっきりと絵の具の盛り上がりや筆跡が確認できますね。作品を制作中の作家の息遣いまで聞こえてくるような迫力があります。
また、いかにパソコンやテレビ等のモニター画面や画集等の印刷物の「色の再現性」の技術が飛躍的に向上したと言われても、肉眼で間近に見る実物作品の色彩を100%忠実に再現しているとは言えません。オルセー美術館で見たエドワール・マネの≪草上の昼食≫の色彩の鮮やかさと美しさには感動のあまり、しばしその前に立ち尽くした程です。
さらに、テレビやネットや画集で知り得ないこととして、「実物の大きさ」があります。
かの有名なルーヴル美術館所蔵のレオナルド・ダヴィンチ作≪モナ・リザ≫をルーヴルで初めて見た時の驚きは忘れられません。さまざまな媒体で見尽くした作品の実物が、自分の想像以上に小さかったこと。それは、そのけっして大きいとは言えない作品の中で展開する世界の宇宙的な広がりと奥行の深さが、より大きな作品だと錯覚させていたのかもしれません。その逆にオルセーで見たギュスターブ・クールベの≪オルナンの埋葬≫の予想外に大きかったこと。その迫力に圧倒されました。
こうした実物作品と間近に対面することによる驚きや感動の体験こそが、美術館で本物を見ることの意味だと私は考えます。
作品の近くには、必ず作品の題名や作者の名前が書かれたプレートがあります(←これはキャプションと言います)。まず、作品の前に来たら、これは見ないでください。まず、自分の目を信じて、自分の目で、目の前にある作品をじっくり見てください。
作品には何が描かれているのか?作品の中に気になるもの、面白いもの、不思議なもの、とにかく何か引っ掛かるものを見つけてみましょう。同行者がいれば、それを互いに発表してみましょう。
あなたが気付かなかったことを気付いた人がいるかもしれません。同じものを見ても、人によって解釈が違うこともあります。感想だって違います。それが当たり前です。違うから面白いんです。いろいろな見方があって良いんです。そもそも世の中の物事全て、見る人の立ち位置によって見え方が違うではありませんか?
作品を見て、作品を前にして、あれこれ想像を巡らすことが大切なんです。そうすることで、作品は、あなたの心に強く印象づけられます。あなたの記憶に残るのです。
この絵はいつの時代を描いているんだろう?どこを描いているんだろう?描かれた人物の特徴や服装や持ち物、建物や風景で分かるかな?
絵の中の人物は誰なんだろう?何を持っているんだろう?なぜ、持っているんだろう?
絵の中の人物は何をしているんだろう?この表情はどんな気持ちを表しているんだろう?
このポーズには何か意味があるんだろうか?もしかして人物の立場や感情や考えを表しているのだろうか?他の登場人物との関係性を表しているのだろうか?
どうして、作者はこの絵を描いたんだろう?
どうしてこのような色遣い、或いは筆遣いで描いたんだろう?
色の明るさは他の作品と比べてどうだろう?筆遣いもどうだろう?
同じ作者の作品でも時代によって変化しているのは、作者の身に何があったのだろう?何から、或は誰から影響を受けたのだろう?エトセトラ…
例えば宗教画は、聖書の物語の一場面を描いていたりするのですが、最初はとにかく上述のようなアプローチで作品を見て行きます。そこで、その時点で気付いたことを踏まえて、参加者各々に自由に物語を作ってもらいます。
その間、参加者はいろいろな疑問を持ちます。例えば、今回は絵の中の天使の絵を見て、天使は女なのか、男なのかと参加者間で議論しました。天使は女性、と言う前提で見ると、絵の中の天使は二の腕が逞し過ぎる。顔は女性的なだけに不思議な印象を覚えたようです。結局天使は人間ではないので、性別はないのですが(或いは両性具有?)…しかし、それはひとつの知識であって、この場では絵を見てあれこれ想像を巡らせるのが大切。
ひとしきり参加者全員で語り合った後で、目の前の作品が聖書のどの場面を描いたもので、どのような意味があるのか、私が種明かしをしたのですが、別にここで参加者の作品解釈の正解不正解を問うているわけではないのです。
参加者が聖書の勉強をしている生徒なら、正解、不正解を問われるかもしれませんが、ここは美術館。あくまでも作品をじっくり見る事が主眼です。
実はこの時点で、参加者は「作品をじっくり見る」という所期の目的を十分達成しています。参加者が作品を前に、自由に語り合ったことに意味があるのです。
仮に私が最初からこの絵は聖書のどの場面で、こういう意味があります、と解説したとしましょう。参加者はその場でその作品について理解した気にはなるかもしれませんが、帰宅後、果たしてどれだけ絵について、作品そのものについて覚えているでしょうか?(ですから、通常美術館で実施されている解説トークに参加した後は、改めてご自分で作品をじっくり見ることをオススメします)
美術館では常に私のようなサポーターがいるとは限らないのですが、その代わり、キャプションと解説プレートがあります。
まずは作品を見ること。上述の要領でじっくり観察することです。
その後に、キャプションや解説プレートで、題名や作者や、作品について確認しましょう。
それでも疑問があれば、ネットや本で調べてみましょう。
この一連のプロセスこそ、美術館で作品を見ることの醍醐味だと思います。
現実問題、観光等で訪れた大規模な美術館での鑑賞の場合、膨大な量の作品を満遍なく見るのは難しいと思います。その場合はメリハリある鑑賞方法が求められるのかもしれません。言うまでもなく人間の集中力には限界があるので、最初に展示室全体を見渡し、その部屋の作品群の雰囲気を掴んだら、数多ある中から自分なりに気になる作品を幾つかピックアップして、じっくり見ると言うのもアリではないでしょうか?
できるだけ多くの人が気軽に美術館に足を運び、作品との出会いを楽しまれるよういつも願いながら、私はボランティアとして活動しています。