九州在住の甥っ子が昨年入学した旧帝大系の国立大学を中途退学して、今冬、大学受験に再挑戦した。どうしても国立私立を問わず東京の大学に進学したかったらしい。
もともと地力のある子なので、無事、慶応大学に一般入試で合格した。今やマスコミ報道を見ても、巷の評判を聞いても、はたまたネットの書き込みを見ても、慶応のブランド力は東大・京大に次ぐ強さだ。日本のトップクラスの企業への就職率や就職後の人的ネットワークの充実ぶりを見ても、慶応大の強さは際立っている。今頃、甥っ子も意気揚々と4月の入学式を心待ちにしていることだろう。
これから学費(理系だから国立の3倍?)と生活費の仕送りで経済的負担が大変になるであろう弟夫婦も(けっして裕福とは言えない、社宅住まいのサラリーマン家庭である)、今後の心配はさておき、息子の希望が叶って喜んでいるようだ。
我が子の幸福を何より想う親は、たとえ自分達は爪に火を灯す思いで耐乏生活を送ってでも、我が子の希望を叶えようとするものだ。ましてや、安易に物を買い与えるのではなく、一生の財産となる教育を授けるのだから、その意義に大きな価値を見出し、すべての労苦が報われると信じて疑わないのだろう。
今回、自分の志を貫徹し、東京の大学への進学を果たした甥っ子は、その親の想いをきちんと汲み取って、まず何よりしっかりと勉学に勤しみ、さまざまな人との出会いや経験を自分の血肉に変えるような、充実した学生生活を送って欲しい。
東京にはそれが可能な環境が、日本の他のどの地域よりも整っている。ただし、それが叶うのは自分の心構え次第だ。
東京への人、モノの一極集中の弊害を指摘されて久しいが、それでも自分の可能性を信じて、新たな人と世界との出会いを求めて、地方から上京する若者は後を絶たない。そうした若者達がまた、東京へ活力を与える存在となり、新たな人とチャンスを呼び込むのだ。その絶え間ない循環が、東京の求心力を強めて来たと言える。
郷里の友人の中には何よりも家族との日常の触れあいを重んじ、我が子を自分の目の届く範囲に置きたいと、県外への進学や就職を認めなかった人もいる。仮に他県への進学や就職を認めても、必ずいつかは地元に戻って来ることを約束させる親も多いようだ。その親の想いに応えて、地元で学び、就職した子ども達。
前途ある若者が少しでも地元に留まらなければ地元の衰退を招くことになりかねないので、それはそれで意味があることだと思う。友人の中にも、東京の高いレベルの大学に合格できる学力が十分ありながら、経済的な理由や親の意向で地元の国立大学に進学し、地元で公務員や教員や自営業者になった人も少なくない。そういう人達が地域の中核的存在となって、現在、郷里を支えているのだろう。
夫の両親は弟夫婦のように我が子の将来を想って、18歳の夫を県外の大学へと送り出した。夫は学歴と学習能力を得たことで、両親が経験し得なかった数々のことをこれまで経験し、彼なりに充実した人生を歩んでいる。少なくとも夫にとって、18歳で郷里を離れたことは良かったのかもしれない。
しかし、郷里に残った両親は今、どう思っているのだろう?我が子の為に自分のさまざまな思いや生活や、それこそ人生の少なからぬ部分を犠牲にした挙げ句、現在の距離的にも心理的にも遠く離れた息子との疎遠を嘆いてはいないのだろうか?全国にはそのような思いを抱えた年老いた親たちが、ごまんといるような気がする。因果なもので私達夫婦も、息子の就職を機に、息子を遠くへ手放すことになりそうだ。息子の新たな旅立ちを祝したい気持ちに偽りはないが、私は息子を手放す寂しさに耐えられるのだろうか?
もともと地力のある子なので、無事、慶応大学に一般入試で合格した。今やマスコミ報道を見ても、巷の評判を聞いても、はたまたネットの書き込みを見ても、慶応のブランド力は東大・京大に次ぐ強さだ。日本のトップクラスの企業への就職率や就職後の人的ネットワークの充実ぶりを見ても、慶応大の強さは際立っている。今頃、甥っ子も意気揚々と4月の入学式を心待ちにしていることだろう。
これから学費(理系だから国立の3倍?)と生活費の仕送りで経済的負担が大変になるであろう弟夫婦も(けっして裕福とは言えない、社宅住まいのサラリーマン家庭である)、今後の心配はさておき、息子の希望が叶って喜んでいるようだ。
我が子の幸福を何より想う親は、たとえ自分達は爪に火を灯す思いで耐乏生活を送ってでも、我が子の希望を叶えようとするものだ。ましてや、安易に物を買い与えるのではなく、一生の財産となる教育を授けるのだから、その意義に大きな価値を見出し、すべての労苦が報われると信じて疑わないのだろう。
今回、自分の志を貫徹し、東京の大学への進学を果たした甥っ子は、その親の想いをきちんと汲み取って、まず何よりしっかりと勉学に勤しみ、さまざまな人との出会いや経験を自分の血肉に変えるような、充実した学生生活を送って欲しい。
東京にはそれが可能な環境が、日本の他のどの地域よりも整っている。ただし、それが叶うのは自分の心構え次第だ。
東京への人、モノの一極集中の弊害を指摘されて久しいが、それでも自分の可能性を信じて、新たな人と世界との出会いを求めて、地方から上京する若者は後を絶たない。そうした若者達がまた、東京へ活力を与える存在となり、新たな人とチャンスを呼び込むのだ。その絶え間ない循環が、東京の求心力を強めて来たと言える。
郷里の友人の中には何よりも家族との日常の触れあいを重んじ、我が子を自分の目の届く範囲に置きたいと、県外への進学や就職を認めなかった人もいる。仮に他県への進学や就職を認めても、必ずいつかは地元に戻って来ることを約束させる親も多いようだ。その親の想いに応えて、地元で学び、就職した子ども達。
前途ある若者が少しでも地元に留まらなければ地元の衰退を招くことになりかねないので、それはそれで意味があることだと思う。友人の中にも、東京の高いレベルの大学に合格できる学力が十分ありながら、経済的な理由や親の意向で地元の国立大学に進学し、地元で公務員や教員や自営業者になった人も少なくない。そういう人達が地域の中核的存在となって、現在、郷里を支えているのだろう。
夫の両親は弟夫婦のように我が子の将来を想って、18歳の夫を県外の大学へと送り出した。夫は学歴と学習能力を得たことで、両親が経験し得なかった数々のことをこれまで経験し、彼なりに充実した人生を歩んでいる。少なくとも夫にとって、18歳で郷里を離れたことは良かったのかもしれない。
しかし、郷里に残った両親は今、どう思っているのだろう?我が子の為に自分のさまざまな思いや生活や、それこそ人生の少なからぬ部分を犠牲にした挙げ句、現在の距離的にも心理的にも遠く離れた息子との疎遠を嘆いてはいないのだろうか?全国にはそのような思いを抱えた年老いた親たちが、ごまんといるような気がする。因果なもので私達夫婦も、息子の就職を機に、息子を遠くへ手放すことになりそうだ。息子の新たな旅立ちを祝したい気持ちに偽りはないが、私は息子を手放す寂しさに耐えられるのだろうか?