挫折からの挑戦
多感な高校時代。希望に胸ふくらませて入学した普通高校を、ある事件を起こして中途退学を余儀なくされた。このことで刻み込まれた挫折感は、改めて受験し直して通学するようになったS工業高校にまで尾を引くはめになった。
クラスメートは一年後輩ばかりで、まるで落第生気分だった。それに学びたくて選んだ電気科ではなかったことも禍した。将来大学へ進みたいという夢を捨てざるを得ない工業高校生活に、何も希望を見出せない状態だった。
興味のない科目は全く勉強する意欲も湧かず、特に電気専門科目は最悪だった。いつも赤点スレスレの成績だったが、それをどうこうする気にもならない自分のだらしなさを持て余す毎日だった。
私は自分の殻に閉じ籠りがちになった。とにかく誰に対しても心を開かなくなった。クラスで浮き上がった存在になってしまったのは仕方のないことだった。
ある日、国語の教科担任だったT先生が私を呼び出した。何を叱られるのかとオズオズしながら職員室に顔を出す私を、意外にもT先生はにこやかに迎えてくれた。
「君を地区弁論大会の本校の代表選手にと思ってね」
予想もしないことだった。私は狼狽したが、結局、渋々ながら頷いた。
T先生の指導で始まった放課後の練習も、私のやる気をなかなか燃え上がらせなかったが、T先生は我慢強かった。
「住職の家に生まれて揉まれてんのや。少々のことには動じへんわな」
と、授業でよく口にしたT先生は、それを実行していった。そして、決して絶やさない笑顔は、しだいに私との距離感を縮めた。弁論のやり方、進め方から、アクセントの矯正に発声訓練等々……。T先生の指導は本格的だった。
「ボクなあ、昔、大学の弁論部に入りたかったんやけど、気が弱うて結局あきらめてしもうたんや。そんなボクの分も君に頑張って貰うで」
そんな冗談口を叩くT先生に、いつしか私は笑顔で応じていた。そして弁論の原稿は、T先生の助言で、いま自分が最も欲しいと願う『友情』について、本音を吐露したものになった。毎日が孤独だったせいで、『友達』と『友情』が高校生活においてどんなに大切な意味を持つものなのか、私は切実に感じ取っていた。
それでも、練習が進む中、不安が募り弱気を生じ止めたくなったときがあった。そんな私の気配を敏感に感じ取ったT先生は、珍しく真剣な表情を作って私と向き合った。
「もうちょっとやのに、いま止めたら何もならへんやないか。人間、挫折は一番簡単に出来るこっちゃ。それは君ならよう知ってるはずや。簡単に出来るもんは後回しにしい。ゴールした後の結果で決めたかて遅うないで。そやろ?大体、君を臆病にしてるもんて何やねん。長い人生から見たらチッポケなもんや。そんなもんに拘ってたら、あかん。君はまだまだ希望に溢れた年齢を生きとるんやから」
その時、私は初めて悟った。T先生が私の過去を知っていることを。ただT先生は、その過去にひと言も直接触れることはしなかった。ポンと肩を叩いてニコッと笑顔を見せるだけだった。それがT先生の優しさだった。
「ボクなぁ、君の素直さに賭けとるんやで」
私の耳に先生の言葉はとても温かく響いた。
加印地区(兵庫県加古川市周辺)青少年防犯弁論大会高校生の部に出場した私は、予期もせぬ二位入賞、続く東播磨地区大会の代表になった。
T先生はまるで我がことのように喜んでくれた。
「そら見てみい、やったやないか。先生が言うたとおりやろが。君は、やったら出来る生徒なんや。自信持たなあかん。昔のことなんかより、今や、今がいっちゃん(一番)大事なんやからな。それを証明したやないか」
「はい」
私は工業高校に進んでから初めて素直に喜びを表現した。胸のうちの嬉しさは」、隠しようがないくらい大きいものだった。
東播磨地区大会もT先生との二人三脚で参加した。三位入賞したが、県大会の代表から外れて、弁論大会へのチャレンジは終わった。それはT先生の人間味あふれた教えとの別れでもあった。
「先生、力いっぱいやったんやけど……」
「うん」
T先生は私の両肩に手を置いて頷いた。
「よう頑張ったやないか、齋藤くん。これで君はS工業高校の堂々たるひとりの生徒や。何も恥じることはないんやからな」
T先生の言葉を私は面映ゆい思いで聞いた。
「そいでもな、国語だけやのうて、他の科目も勉強せなあかんで。担任のA先生も、君が落第せえへんか心配してる。ボクもA先生も、一年遅れでもやり直そうと本校に入って来た君に、何かきっかけを探したろ思うてたんや」
私は言葉を失った。誰からも疎外されてると思っていじけていたのに、ちゃんと私を気にかけていてくれた先生たちがいた、二人も!
T先生に感謝の言葉をと思ったが、胸が熱くなってどうしようもなくなった。頭を下げたまま、込み上げてくるものを必死に堪えるのが精一杯だった。頑張らなきゃ!と思った。
翌年、T先生は他校に移られたが、先生と二人三脚で目指した弁論大会の体験を通じて得た自信は、私を大きく変え、私の心はもう揺らがなかった。T先生の教えと優しさのおかげだった。
多感な高校時代。希望に胸ふくらませて入学した普通高校を、ある事件を起こして中途退学を余儀なくされた。このことで刻み込まれた挫折感は、改めて受験し直して通学するようになったS工業高校にまで尾を引くはめになった。
クラスメートは一年後輩ばかりで、まるで落第生気分だった。それに学びたくて選んだ電気科ではなかったことも禍した。将来大学へ進みたいという夢を捨てざるを得ない工業高校生活に、何も希望を見出せない状態だった。
興味のない科目は全く勉強する意欲も湧かず、特に電気専門科目は最悪だった。いつも赤点スレスレの成績だったが、それをどうこうする気にもならない自分のだらしなさを持て余す毎日だった。
私は自分の殻に閉じ籠りがちになった。とにかく誰に対しても心を開かなくなった。クラスで浮き上がった存在になってしまったのは仕方のないことだった。
ある日、国語の教科担任だったT先生が私を呼び出した。何を叱られるのかとオズオズしながら職員室に顔を出す私を、意外にもT先生はにこやかに迎えてくれた。
「君を地区弁論大会の本校の代表選手にと思ってね」
予想もしないことだった。私は狼狽したが、結局、渋々ながら頷いた。
T先生の指導で始まった放課後の練習も、私のやる気をなかなか燃え上がらせなかったが、T先生は我慢強かった。
「住職の家に生まれて揉まれてんのや。少々のことには動じへんわな」
と、授業でよく口にしたT先生は、それを実行していった。そして、決して絶やさない笑顔は、しだいに私との距離感を縮めた。弁論のやり方、進め方から、アクセントの矯正に発声訓練等々……。T先生の指導は本格的だった。
「ボクなあ、昔、大学の弁論部に入りたかったんやけど、気が弱うて結局あきらめてしもうたんや。そんなボクの分も君に頑張って貰うで」
そんな冗談口を叩くT先生に、いつしか私は笑顔で応じていた。そして弁論の原稿は、T先生の助言で、いま自分が最も欲しいと願う『友情』について、本音を吐露したものになった。毎日が孤独だったせいで、『友達』と『友情』が高校生活においてどんなに大切な意味を持つものなのか、私は切実に感じ取っていた。
それでも、練習が進む中、不安が募り弱気を生じ止めたくなったときがあった。そんな私の気配を敏感に感じ取ったT先生は、珍しく真剣な表情を作って私と向き合った。
「もうちょっとやのに、いま止めたら何もならへんやないか。人間、挫折は一番簡単に出来るこっちゃ。それは君ならよう知ってるはずや。簡単に出来るもんは後回しにしい。ゴールした後の結果で決めたかて遅うないで。そやろ?大体、君を臆病にしてるもんて何やねん。長い人生から見たらチッポケなもんや。そんなもんに拘ってたら、あかん。君はまだまだ希望に溢れた年齢を生きとるんやから」
その時、私は初めて悟った。T先生が私の過去を知っていることを。ただT先生は、その過去にひと言も直接触れることはしなかった。ポンと肩を叩いてニコッと笑顔を見せるだけだった。それがT先生の優しさだった。
「ボクなぁ、君の素直さに賭けとるんやで」
私の耳に先生の言葉はとても温かく響いた。
加印地区(兵庫県加古川市周辺)青少年防犯弁論大会高校生の部に出場した私は、予期もせぬ二位入賞、続く東播磨地区大会の代表になった。
T先生はまるで我がことのように喜んでくれた。
「そら見てみい、やったやないか。先生が言うたとおりやろが。君は、やったら出来る生徒なんや。自信持たなあかん。昔のことなんかより、今や、今がいっちゃん(一番)大事なんやからな。それを証明したやないか」
「はい」
私は工業高校に進んでから初めて素直に喜びを表現した。胸のうちの嬉しさは」、隠しようがないくらい大きいものだった。
東播磨地区大会もT先生との二人三脚で参加した。三位入賞したが、県大会の代表から外れて、弁論大会へのチャレンジは終わった。それはT先生の人間味あふれた教えとの別れでもあった。
「先生、力いっぱいやったんやけど……」
「うん」
T先生は私の両肩に手を置いて頷いた。
「よう頑張ったやないか、齋藤くん。これで君はS工業高校の堂々たるひとりの生徒や。何も恥じることはないんやからな」
T先生の言葉を私は面映ゆい思いで聞いた。
「そいでもな、国語だけやのうて、他の科目も勉強せなあかんで。担任のA先生も、君が落第せえへんか心配してる。ボクもA先生も、一年遅れでもやり直そうと本校に入って来た君に、何かきっかけを探したろ思うてたんや」
私は言葉を失った。誰からも疎外されてると思っていじけていたのに、ちゃんと私を気にかけていてくれた先生たちがいた、二人も!
T先生に感謝の言葉をと思ったが、胸が熱くなってどうしようもなくなった。頭を下げたまま、込み上げてくるものを必死に堪えるのが精一杯だった。頑張らなきゃ!と思った。
翌年、T先生は他校に移られたが、先生と二人三脚で目指した弁論大会の体験を通じて得た自信は、私を大きく変え、私の心はもう揺らがなかった。T先生の教えと優しさのおかげだった。