こころの文庫(つねじいさんのエッ!日記)

家族を愛してやまぬ平凡な「おじいちゃん」が味わう日々の幸せライフを綴ってみました。

新しい年も

2019年01月08日 03時13分49秒 | Weblog
新しい年最初の支援サポーターに出向いた。

その日の午後に、

白内障手術を控えておられると伺っていた。

年を取ると避けられない目の病気だ。

私自身も、40台後半から白内障である。

生活に支障が出るぎりぎりまで、

手術はしてもしなくてもいいらしい。

てなわけで、白内障と共生状態でいる。

「行ってきますわ」

昨年の終わりごろの気弱な言葉がウソみたいに、

いたって元気な様子にホッとした。

「いつもお世話になっています。なかなかこちらへ帰ってこられなくて」

遠方にいられる子供さんに出会って、

合点がいった。

ひとりぼっちの心ぼさから、つかの間でも解放されたのだ。

(手術が無事にお泡って、またお会いしましょう)

笑顔で終えたサポーター新年第一日である。

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子育ての記憶

2019年01月07日 00時31分30秒 | Weblog
 久しぶりの喫茶店である。コンビニの百円珈琲を利用し始めてから、喫茶店で美味い珈琲を堪能する時間はなくなっていた。
「煙草は喫われますか?」
 どうやら店内は分煙になっているらしい。
「いや、全然。煙のこない席がいいな」
「禁煙席にご案内します」
 誘導された席に落ち着くと、やはり空気の澱みを感じない。煙草は喫わない、いや煙草を嫌悪する客には、最高のもてなしである。こうでないと、美味い珈琲は味わえない。
三十代半ばで禁煙した。喫わなくなると、今度は他人がくゆらす紫煙を我慢できなくなった。煙草の匂いが鼻をつくだけで、気分は最悪に。嫌煙意識はいや増す一方である。
 調理師だった若いころ始めた喫煙は自分の嗜好ではなく、職場環境のせいなのだ。同僚の殆どは喫煙者、ヘビースモーカーも目立って多かった。「煙草喫えないんです」と公言する勇気はなかった、持論を主張できない気の弱さもあり、長いものには巻かれろと、煙草を口にした。気分が悪くなっても我慢していると、すぐ慣れた。煙草は百害あって一利なしとの本音は隠し続けて、仲間内でスパスパ、自棄気味に喫った。
 四十前に喫茶店で独立すると、誰彼に気兼ねもなく、煙草は一本も喫わなくなった。カウンター内の仕事をこなすのに、喫煙は邪魔になるだけである。そうでなくても煙草は好きで喫っていたわけではない。付き合いで渋々という状態だったから、独立独歩は禁煙にもってこいの条件を生んでくれた。
 煙草を手にしなくなったが、喫煙するのと同様な日々を余儀なくされた。喫茶店に喫煙はつきものなのだ。客は近くにある化粧品会社の営業部員が多かった。完全メークの女性たちが、なんと煙草をスパスパやる。ティータイムになると、ドーッと来店、瞬く間に店内は煙に覆われる始末。否応なく煙草を喫う状況下に置かれたのだ。間接喫煙である。
 仕事なのだと自分にいい聞かせて、我慢を決め込み仕事に没頭した。
「マスター、煙草喫わないの?」
「君らの喫煙のおこぼれを頂戴してるから、わざわざ喫う必要ないやろ。勿体ないわ」
 常連客に訊かれると、冗談口を叩き煙に巻いた。独立した達成感に、唯一の収入源との思いが加わり、想定以上の頑張りが実現した。
 独立の一年後に子供を授かった。翌年も年子と続いた。ここまでは実家の母の支援を受けて順調な子育てだったが、七年後に三人目が生まれると、事情は一変した。子連れ狼よろしく、赤ちゃんは店内で育てるしかなかった。レジ横の棚に赤ちゃんを寝かせての仕事となった。店内が真っ白になるほどの喫煙環境は気になったが、どうするスベもない。
「マスターに似て、可愛い赤ちゃんやんか」
「忙しい間は、私が世話しといたるわ」
 常連客に人気者の赤ちゃんだったが、それで事態を楽観視するわけにもいかない。
「赤ちゃん、アトピーやったわ」
 深刻な顔で報告する妻の胸に、抱かれた赤ちゃんの額いっぱいに広がるできものは膿み、血も滲んだあばた状態という悲惨な状態に、絶句した。そんな赤ちゃんを、年老いた母に預けるのは無理だ。子連れ狼で店を切り盛りするしか、最善の方法は考えつかなかった。
「禁煙喫茶にしてみるか」
「それで喫茶店やっていけるの?」
「赤ちゃんのアトピー見てられへん。なあ、親やろ、やるしかない。失敗したかて、ええ」
 煙草が喫えない喫茶店など論外の時代だった。目途は立たなくても、わが子のために踏み切るしかない。勿論、珈琲以外の食事メニューを充実させる最低限の対策を講じた。
「都会でも珍しいのに、地方では初めてといっていい禁煙喫茶店や。応援するよ」
 開店案内を手に訪問したA新聞姫路支社の記者は大きな記事にしてくれた。夕刊の一面に掲載されるほど、突飛な話題だったらしい。
「煙草の喫えない喫茶店て、あり得ないわ」
「煙草喫いたいのに、他へいくしかないやろ」
 常連で喫煙する客は捨て台詞を残して、顔を見せなくなった。客数は半分近く減った。覚悟していたものの、かなりショックである。
「私らの赤ちゃんを守るためや。頑張ろ」
 妻の励ましが支えだった。あの手この手を繰り出し、店の経営に奮闘した。
 禁煙喫茶店は、結局一年で破綻を迎えた。
「時代が早かったんやな。残念です。再度挑戦されるときは、必ず連絡ください」
 A新聞の記者は我が事のように嘆き、禁煙喫茶店終焉の記事は、しっかりと掲載された。
 赤ちゃんのアトピーは、かなりの時間を要したが快癒に至った。閉店してから新たに得た仕事も、慣れるまでひと苦労したものの、家族のためと懸命に頑張り、乗り越えた。
(こんな時代やったら、成功してたかなあ~)
 紫煙に無縁の席で飲む珈琲は格別だ。挑戦と忍耐のあの日が、香りの向こうに、蘇る。 
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土産

2019年01月06日 03時09分44秒 | Weblog
大学卒業を目前にした娘は、

ゼミ仲間と旅行を楽しんでいる。

春先には韓国に行くらしい。

旅行から帰った娘の手には、

お土産らしきものが。

大体クッキーの類が多い。

どうみても、形だけとしかしか思えない。

それでも土産を忘れないところ

をよしとするべきかも。

しかし、このお土産、

選ぶのは結構難しい。

私の若いころは、

親せきや親しい友人知人などにも

買って帰ったものだった。

旅行の終わりごろには、

お土産探しに目の色を変えた記憶がある。

そういえば、

家族への土産で

頭を悩ませた思い出も蘇る。

「何よ、これ?これがお土産なの……」

 旅行から帰った私に、家族はいつも失望してみせたっけ。

期待するお土産がないからである。

 家族が希望するのは、

観光地の名物菓子やぴちぴちとれとれの海産物 。

そんな定番を買おうとすれば、

人込みの中をウロウロして、

レジに並ぶのを覚悟しなければならない。

 気が短い私には無理な相談だ。

人込みはイヤ!並ぶのはゴメン!では、

まず家族好みのお土産にはありつけない。

「このタヌキ何よ?」

「縁起がいいんだ」

「フクロウの置物?」

「福を招いてくれるんだ」

 お父さんの趣味は

、お土産にはそぐわなかったらしい。

家族の総スカンを食らって「そうなのか~!」と、

やっと理解する。

が、次の旅行に出るころには、すっかり忘れて、

またやってのけるから始末に負えない。

 この間、京漬物を買って帰ると、

これは家族も納得。

パリポリ食べながら、「お父さん、やるじゃん!」

なんだ、漬物でいいのか?と思ったものだった。



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2019年01月05日 14時05分41秒 | Weblog
「ゆーきや、こんこん。あられやこんこん。ふっても、ふっても~~♪」
 童謡から思い浮かぶ光景。それは子供のころに満喫した、わがふるさとの姿である。
 冬になると、よく雪は降り積もった。ちょっと冷えたかなと思えば、チラチラ白いものが降り出す。こな雪、ぼたん雪、あられ……冬の光景は白く彩られた。楽しくて家を飛び出し駆け回った。手を突き出すと、雪は手のひらに舞い降りる。あっという間に解けた。降り続けると、手のひらに白く積もった。
 夜にしんしんと降り出せば、翌朝はあたり一面真っ白の銀世界である。なぜか胸が感激でときめいた。雪だるまつくりをを競いあう。手製の竹スキーで滑る。そして雪を手で丸めて、楽しい雪合戦だ。ほっぺたを真っ赤にてはしゃぐ子供たちのなかに、わたしはいた。
 もうあの情景の再現は難しい。雪は降らなくなった。暖冬というより温暖化のせいなのだろう。
 あの感動的な銀世界の光景を また目にしたいものだ。
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世間にさらされた日

2019年01月04日 02時18分49秒 | Weblog
「お前の家やないか。気兼ねせんと、いつまでもおったらええがな」
 母はなんとか翻意させようと賢明だったが、もう巣立ちの決心は揺るがなかった。
「心配いらんわ。俺、おとんぼ(末っ子)やろ。兄貴が家の跡取りやんか。どうせいつかは出ていかなあかんし、早いか遅いかや。いつまでも甘えた(甘えん坊)でおられるかいな。もう一人前の大人やで、俺」
 長男が家の跡継ぎで、他の男兄弟は家を出て独立するのが、当時の常識だった。小さいころから、祖父母や両親にいわれ続けた。だから家を出ることは特別でもなんでもない。
 ひとつ違いの兄は結婚が決まり、相手先から花嫁道具が入るのを見届けると、家を出て独り立ちしなければと思いを募らせた。 
仕事は姫路まで通う。家から一時間以上かかるが、家を出た経験がないので、通いしか思いつかなかった。福崎駅から姫路までガッタンゴットンと揺れっぱなしの汽車も、すっかり慣れっこだった。しかし、ぬくぬくした環境から飛び出る日が、ついにやって来た。
 母に独り立ち宣言を告げると、もう親任せの生活は切り捨てる覚悟は定まった。
不動産屋をハシゴした。すべて初体験である。つまり世間知らずだった。(家賃が安くないと、一人暮らしは無理や)家賃にこだわって物件を探した。不動産屋の担当者は渋い顔をしながらも、好意的に動いてくれた。
「ここは大家さんが信用できるし、家賃は敷金なしの五千円。希望に添う物件ですわ」
 担当者の言葉を疑いもせず、即決した。ああだこうだと駆け引きするのは苦手中の苦手だった。物件も外部から一見しただけである。
 契約を済ませ、入居は八月に入った早々。世間はむしむしと、暑さに虐げられていた。
(こんなんあり?蒸し風呂やんか!)
 布団だけを持ち込んで暮らし始めたが、三日で音を上げた。四畳半一間の部屋は窓がなく、玄関は独立していたものの、部屋は壁を隔てた三方に貸し部屋がくっ付いていた。牢獄を連想してしまう物件である。密室状態の中、クーラーも扇風機もなし、団扇を懸命に扇いだが、所詮人力、限界はすぐに来た。五千円という家賃の安さには理由があったのだ。
「実家に思わんことが起こってしもて、急遽帰らなあかんのですわ」
 嘘も方便。実家を槍玉に、退居の意思を不動産屋に伝えた。応じた担当者のにやつきに「やっと分かったか」と侮蔑の意図を感じた。
 住むところを失ったからと言って、そう簡単に実家へ戻れるはずがない。ささやかなプライドが、安易な逃げを許してくれなかった。
「駅裏にあるアパート、よう知ってる大家さんとこやさかい、不動産屋通さんで済むわ」
 有難かった。物件探しはもう懲り懲りだった。上司を頼ると、とんとん拍子に運んだ。
 家賃一万五千円で敷金は三万円。物件はアパートの角部屋でトイレ付き、至極真っ当な物件である。これが相場なんだと思い知った。
 快適な独り暮らしがスタート。今度の部屋は四畳と六畳の二間、しかも窓が前面と後方にあり、太陽と風が入ると俄然気持ちがいい。
 レストランのコックだった。食事つくりはお手の物だったが、アパートで一週間自炊すると、厭きて面倒臭くなった。料理はいいが、片付けが厄介なのだ。職場の賄いで腹を満たすことで、自炊は諦めた。
 しばらくすると、洗濯物がたまりにたまっり、気になって落ち着かない。コインランドリーなど重宝な設備は、かの天才手塚治虫が描いた未来でしか見られなかった時代である。
「洗濯機、質屋さんで安く手に入るよ」
 教えてくれたのは、洗い場で働くパートのおばさん。忙しくなると皿洗いを手伝い、生真面目なおばさんと似た性格から、妙に気が合った。皿を洗いながら、おばさんの愚痴話に付き合うのは、結構楽しかった。契約したアパートの近くに住むおばさんは、あれこれ情報を掴み。進んでお節介を焼いてくれた。
 手に入った中古の洗濯機は、すぐ役立った。とはいえ物干しを使うのも初体験だった。
「男の子が洗濯なんて、えらいねえ」
 隣室には三人家族が住んでいる。引っ越しの挨拶に回って、慣れない挨拶の言葉に詰まり、笑われてしまった奥さんだった。
「着る服がのうなってしまうんで……」
「そりゃ困るわね。ひとり暮らしは初めて?」
「はい。兄の結婚で、実家を出て来たんです」
 言わずもがなのことを口走ってしまった。頬笑む相手に、顔が赤らんだ。実家住まいでは他人との交流は一切しなかった。おかげで恥をかく経験などしなくて済んでいた。それが、今は臨機応変な会釈で対応できている!
「大丈夫なんか?帰って来たら、ええんやで」
 案じる母の電話に感謝したが、自分の人生へ旅立ったことを、きっぱりと告げた。
「俺、やっと自分で人生始めたんや。失敗したかて負けへん。母ちゃんが、そんな俺に育て上げてくれたんや。心配せんといて!」
 
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スタート直前

2019年01月03日 02時32分30秒 | Weblog
5月予定イベントの
参加者内定が続き、
チラシの概要を決め
レイアウトしました。
仕事始めを機に、
また駆け回るつもりです。
成功するか否か、
神のみぞ知る状態です。
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まじめに考えたあの日

2019年01月02日 02時11分42秒 | Weblog
 ふる里加西市に保存された戦争遺跡がある。生まれ育ち今も生活の場であるふる里に暮らして六十六年。その存在を全く知らずにいた。     だだっ広い鶉野飛行場跡は、明石の免許試験所へ自動車免許を飛び入り受験のため、みんなの練習場だった。 
そんな身近に接していたその広場が、あの戦争中、戦闘機紫電や紫電改のテスト飛行に使われていたことを知る由もなかった。
まして、その紫電改が練習飛行中に鉄道事故を誘引し何人もの死傷者が出た負の歴史など知る筈がない。当時軍部も事故を隠していたとか。戦争にまつわる暗雲は田舎も例外なく覆っていたのだ。
 昨年、地元の高校PTAによる『ふるさと講座』の一環に『鶉野飛行場戦争遺跡めぐりウォーキング』が企画された。当時ウォーキングにはまっていたせいで、戦争遺跡めぐりを意識は皆無することなく参加した。
ところがただのウォーキングではなかった。歩いたコースは鶉野飛行場の周囲に点在する防空壕、弾薬置き場、地下指揮所、対空砲銃座…と戦争の歴史を如実に見せつける遺跡群だった。目の前にすると、今も漂う迫りくる重圧感に驚かされた。
「みなさんは、この鶉野飛行場から九州の鹿屋特攻基地を経て戦地へ赴き二度と戻ることはなかった特攻機の若き飛行機乗りが、何人もいたことをご存じだったでしょうか?」
 スタッフの問いかけに、参加者の誰もが無言だった。特攻という言葉自体ピンと来ない。最近映画やドラマでお目にかかった絵空事でしか捉えていなかった。
それが、こんな平和でのんびりした田園都市の一角に存在する飛行場から多くの若者たちが命を的にした戦果を求めて飛び立ったのだと言う。ショックだった。
 特攻機を操縦した若い飛行兵たちが書き遺した遺書は地下指揮所跡の煉瓦壁に貼られてあった。父母や妻子ども、兄弟姉妹、友人恋人にあてた別れの手紙。十代から三十代前半の飛行兵たちの悲壮な決意と、肉親への尽きない愛情が吐露されている。国のために死を余儀なくされた彼らの心情はいかばかりだったのだろうか。とても推し量れない。戦争はいつも不条理極まる犠牲を強いるのが当然なのだ。
 私の叔父もビルマ戦線で戦死した。盆に墓参するたび、その無念さを垣間見る。墓地の入り口に並んで建立されだ、名誉(?)の戦死者を偲ぶ慰霊墓碑の中に、叔父の墓碑銘もある。立派な石柱に刻み込まれた叔父の名前と戦死した戦地名、戦死の日時、年齢が…二十三歳…いくらなんでも若過ぎる。
いつもお参りしながら、叔父の無念さに胸を熱くする。生きていればなにかを成し遂げられたはずである。その無限の可能性は有無をいわさず奪われた。理不尽極まる戦争に腹が立って仕方がない。
手を合わせながら叔父に訊いてみる。(将来何をしたかったの?誰か好きな女の人いたの?)でも、墓碑に眠る叔父は何も答えてくれない。
 特攻隊飛行士たちの遺書に釘付けになりながら、ハッと気づいた。彼らは叔父以上に無念だったに違いない。生きる意志を捨てさせられ、敵を道連れにして死ぬことを命令された片道飛行だったのだ。
生を微塵も考えてはならない、ただただ死ぬことを目的にした飛行命令の冷酷無比、それが戦争の正体である。叔父以上の過酷な懊悩のうの中運命を避ける道は閉ざされ行くしかなかった悲惨さ。それが戦争なのだ。
 平和な現代に生きる私たちは、ともすれば戦火に散った多くの犠牲者たちの無念さを忘れている。あの戦争悲劇の上に生かされていることを忘れてしまっては、次の世代に平和をつなぐ役割を担えない。
 先般、国会で安保法案が通過した。野党は『
戦争法案』と主張する。ともあれ決まるまでの過程に納得できかねるものはあるが、決まった今は、その運用を注意深く見守る必要がある。
危険な方向に国が舵を取らぬように、みんなの平和意識を確固たるものにしなければならない。それが平和を感受する私たちに課せられた役目なのだ。
 鶉野飛行場滑走路跡沿いに設けられた平和祈念の碑苑を前に頭を垂れながら、思うことはひとつ。先人の間違いを二度と繰り返さない。平和は傍観者が手にすることは絶対ない。微力でもひとりひとりが平和への道筋を迷うことなく突き進むことが必須なのだ。
 歩いて巡った『ふる里加西の戦争遺跡』は、私に戦争の愚かしさと冷酷さとを再確認させてくれた。それは平和を考える最高の動機となってくれたのである。誰もが戦争と平和を直視するに違いない戦争遺跡の保存と公開は、遺跡をもつわが故郷の責務だと確信する。
 
 
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新年

2019年01月01日 00時25分35秒 | Weblog
明けましておめでとうございます。
新しい年もよろしく願います。

大晦日。
5月のイベントに参加を依頼していた
北条鉄道ヒーローの参加内諾の一報が。
第1号の記念すべき決定で年を締めくくれたのです。
昨年は最後の最後まで、
OK印で終わることになり、
幸せ気分で
新しい年にトリップです。

今年もより一層飛躍が図れるよう、
家の裏手にある高峰神社に詣でてきました。
さて、どんな一年になるか、
ワクワクハラハラ、いやはや複雑です。
どちらにしても、
やるしかない一年です。
課題をいっぱい抱えすぎて、
先行きに不安はありますが、
やる気満々のスタートを切ります。
皆さんも、
よりよい一年になりますよう祈念します。
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