老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

『おらはおらでひとりいぐも』❶ ~老いと生いと死を見つめる~

2020-09-09 07:59:59 | 老いの光影 第6章 「老い」と「生い」
1668 『おらはおらでひとりいぐも』❶ ~老いと生いと死を見つめる~



凄い婆さんが現れた。
若竹千佐子さん(66歳)
岩手県遠野市生まれ、岩手大学教育学部卒業された知識人でもある。
主婦業の傍ら55歳から小説講座に通いはじめ、8年をかけ本作を執筆され、芥川賞を受賞された。

自分が20代の頃
吉野せいさん 『洟をたらした神』の小説に衝撃を受けた。
福島県小名浜出身、明治時代に生まれた彼女は高等小学校しか出ていない。
彼女も凄い婆さんであった。

『おらはおらでひとりいぐも』を読みはじめると
老いについて 深海の如く奥深く考えさせられる。
自分もいまは老い中にあり、老いの沼に足をいれたひとりだけに
老いの先は死であることも否応なしに意識させられる。

東北弁に素直になれなかったときもあったが
遠野市で暮らしてきた筆者
「わたし」ではなく「おら」の言葉がいちばんなじむ。
13頁のなかで「喉に引っかかった魚の骨はならばご飯をげろ飲みすればすぐ治るども、
心に引っかかった言葉だば、いつまでたってもいづいのす。苦しくてたまらない

ハッとさせられた言葉であった。
「心に引っかかった言葉」を何気なく吐いてはいないか,自省させられる。

「若い頃は、自転車の前と後ろに子供を乗せ坂を下りて買い物をし、
ハンドルの両脇に買い物袋をぶら下げてまた一息に駆け上がるという」時代もあった(36頁)。
「あの頃は自分の老いを想像したことがあっただろうか」(36頁)


20代、30代、40代・・・は老いは無縁であり、いまの自分の老いを想像すらしなかった。

老いは失う(喪失)ときであり、寂しさに耐えるときもであるが、
老いを楽しむときでもある。

人間生きていくのは、ときには悲しいことであり苦労も多いが
頑張れば何とかなる、と思っているうちに老いてしまい
人間の無力さを思い知らされた、と筆者は綴る。

老いは寂しく悲しく、死があるけれども
死は「ただ祈って待てばいいんだ・・・・。人もねずみもゴキブリも大差がね。・・・・・
待つとはなしに待っている同じ仲間でねが、なあんだ、みんな一緒だ」(29頁)

人もねずみもゴキブリも同じく死ぬ。
ジタバタせずとも死は訪れる。
ならば自然の流れに身をまかせ、暮れていく景色を眺めていくこともいいのか・・・・。