Mちゃん(小6):
先週、ブルクミュラーの「やさしい花」が宿題だったのに 練習を怠ってレッスンに臨んだことが先生に一目で見破られ
「へったくそだね~」と一喝されて ソッコー「ゲームオーバー」となっていたのでした。
今日は、先にM3ちゃんのレッスンが始まったときからすぐ、自分でエレクトーンのところに行き、スイッチをいれてヘッドフォンをつけ、熱心に練習をしていました。
なるほど。今日は怒られないように万全の備えをとっているらしい。
さて、出来映えはどうだ?
ふむ。一応、右手と左手の流れが把握でき、対旋律を弾くのにも危うさはなくなってきました。
A-B-Aという構成なので、Aの部分は ほぼクリアできたようです。
Bの部分は、今日初めてレッスンするのですが、分析してあげたあと 少し練習して、装飾音も含めクリアできました。
いよいよA-B-A通しての演奏、「リベンジ」と称してのくり返しもしながら、まずまず合格ラインに到達することができました。
「やったー、合格だ\(^O^)/」と喜ぶMちゃんに、次の課題「せきれい」を弾いてあげました。
「ちっちゃな鳥のようすだからね」
「うん、わかる。チョン、チョン、チョン、って飛んでる感じだね!」
この曲は、たぶんMちゃんのイメージを高めることができたと思うので、次回は期待できそうかな。
「バーナム」の「オクターブのトレモロ」は、子どもの手にはかなり大変な課題です。
Mちゃんも、先週はどうしていいかわからないほど弾けなかったのですが、今日は練習をしてきたらしく、かなりコツをつかんだようで ずいぶんじょうずに弾けるようになっていました。
練習すれば弾ける・・・当たり前のことなのですが、私が長年 子どもたちのレッスンをしてきたり、自分自身の子ども時代のことを考えたりすると、この「練習」という言葉にも 一言では言えない「あるもの」を感じます。
「練習すればできる」→「10倍練習すれば10倍うまくなる」→「とにかくいっぱい練習しなさい」
残念ながら、そうはいかないのが音楽というものです。
音楽が、純粋に「高度な精神活動」である以上、心や頭の伴わない「特訓」では何も得られません。
子どもであっても、ある曲に魅力を感じ、「弾きたい」「すてきに弾きたい」という気持ちがあって初めて、それを実現するための練習をする意欲が高まり、練習の効果も上がるということになります。
私も「練習をしない子ども」であったので、その辺の気持ちはよく覚えています。
「もうわかったからこれでいいや」
「このくらい弾けたらマルになると思うから、もうオッケー」
子どものころの私は、そんなことを思って、いつも2~3回ひいて「わかった」と思った段階で練習をやめ、レッスンにいってマルをもらっていました。
なんて生意気なガキんちょなんや。
しかし、百歩譲って 当時の自分を弁護するならば、与えられた課題の意味がわかっていなかった、練習の目的やポイントを知らなかった、また曲であれば 全体像や雰囲気など何もわからず、魅力を感じていなかった・・・などの原因があったのかな、とも思えます。
何しろ当時の先生は、弾いてもくれないし曲のポイントや時代背景なども何ひとつ教えてくれなかったのですから、子どもとしては雲をつかむようなものだったのです。
そんな私でも、自分が映画を観て素敵だと思った曲や、かっこいいジャズの曲などは、親に楽譜を買ってもらったり、楽譜のないものは耳コピしたりして、すごーく熱心に練習していたのですから、音楽やピアノ自体は好きだったのです。
今、大人になって生徒のみんなに言えることは、一見つまらない練習でも、いつか大好きな曲に出会ったときに それを弾けるだけのテクニックを身につけておくために、やっといた方がいいよ、ということです。
そして大人であり、同時に指導者である自分自身には、「必要なテクニックとそれを身につける練習に、生徒が喜んで取り組むような魅力を感じさせるように」と思っています。
そして、できるだけ弾いてきかせて、曲のバックグラウンドや時代背景なども教えるようにしていますが、それでもあんまり練習しない場合は、私の演奏がかっこよくなかったからか?
先週、ブルクミュラーの「やさしい花」が宿題だったのに 練習を怠ってレッスンに臨んだことが先生に一目で見破られ
「へったくそだね~」と一喝されて ソッコー「ゲームオーバー」となっていたのでした。
今日は、先にM3ちゃんのレッスンが始まったときからすぐ、自分でエレクトーンのところに行き、スイッチをいれてヘッドフォンをつけ、熱心に練習をしていました。
なるほど。今日は怒られないように万全の備えをとっているらしい。
さて、出来映えはどうだ?
ふむ。一応、右手と左手の流れが把握でき、対旋律を弾くのにも危うさはなくなってきました。
A-B-Aという構成なので、Aの部分は ほぼクリアできたようです。
Bの部分は、今日初めてレッスンするのですが、分析してあげたあと 少し練習して、装飾音も含めクリアできました。
いよいよA-B-A通しての演奏、「リベンジ」と称してのくり返しもしながら、まずまず合格ラインに到達することができました。
「やったー、合格だ\(^O^)/」と喜ぶMちゃんに、次の課題「せきれい」を弾いてあげました。
「ちっちゃな鳥のようすだからね」
「うん、わかる。チョン、チョン、チョン、って飛んでる感じだね!」
この曲は、たぶんMちゃんのイメージを高めることができたと思うので、次回は期待できそうかな。
「バーナム」の「オクターブのトレモロ」は、子どもの手にはかなり大変な課題です。
Mちゃんも、先週はどうしていいかわからないほど弾けなかったのですが、今日は練習をしてきたらしく、かなりコツをつかんだようで ずいぶんじょうずに弾けるようになっていました。
練習すれば弾ける・・・当たり前のことなのですが、私が長年 子どもたちのレッスンをしてきたり、自分自身の子ども時代のことを考えたりすると、この「練習」という言葉にも 一言では言えない「あるもの」を感じます。
「練習すればできる」→「10倍練習すれば10倍うまくなる」→「とにかくいっぱい練習しなさい」
残念ながら、そうはいかないのが音楽というものです。
音楽が、純粋に「高度な精神活動」である以上、心や頭の伴わない「特訓」では何も得られません。
子どもであっても、ある曲に魅力を感じ、「弾きたい」「すてきに弾きたい」という気持ちがあって初めて、それを実現するための練習をする意欲が高まり、練習の効果も上がるということになります。
私も「練習をしない子ども」であったので、その辺の気持ちはよく覚えています。
「もうわかったからこれでいいや」
「このくらい弾けたらマルになると思うから、もうオッケー」
子どものころの私は、そんなことを思って、いつも2~3回ひいて「わかった」と思った段階で練習をやめ、レッスンにいってマルをもらっていました。
なんて生意気なガキんちょなんや。
しかし、百歩譲って 当時の自分を弁護するならば、与えられた課題の意味がわかっていなかった、練習の目的やポイントを知らなかった、また曲であれば 全体像や雰囲気など何もわからず、魅力を感じていなかった・・・などの原因があったのかな、とも思えます。
何しろ当時の先生は、弾いてもくれないし曲のポイントや時代背景なども何ひとつ教えてくれなかったのですから、子どもとしては雲をつかむようなものだったのです。
そんな私でも、自分が映画を観て素敵だと思った曲や、かっこいいジャズの曲などは、親に楽譜を買ってもらったり、楽譜のないものは耳コピしたりして、すごーく熱心に練習していたのですから、音楽やピアノ自体は好きだったのです。
今、大人になって生徒のみんなに言えることは、一見つまらない練習でも、いつか大好きな曲に出会ったときに それを弾けるだけのテクニックを身につけておくために、やっといた方がいいよ、ということです。
そして大人であり、同時に指導者である自分自身には、「必要なテクニックとそれを身につける練習に、生徒が喜んで取り組むような魅力を感じさせるように」と思っています。
そして、できるだけ弾いてきかせて、曲のバックグラウンドや時代背景なども教えるようにしていますが、それでもあんまり練習しない場合は、私の演奏がかっこよくなかったからか?