楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

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千住宿(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 15)

2013年07月02日 11時14分16秒 | ひとり歩き旅
(千住宿歴史プチテラス入り口と左手の芭蕉句碑)


(千住宿)
京成線のガードをくぐって、すぐ左手に、
千住宿プチテラスとして無料貸し出しギャラリーとして、
江戸時代の蔵を貸し出している。
訪ねた時は門が閉まっていたが、以前訪ねた時は、
ギャラリーが開いており、展示品の数々を見ることができた。
入り口には、やっちゃば跡地であることが解かる案内板があり、

門の左脇に芭蕉句碑があり、

・鮎の子の白魚送る別哉  芭蕉

と刻まれている。江戸を出るとき、送りの人に 
詠んだ句とされる。

道路の反対側には、やっちゃ場の屋号を示す、

元果物専門問屋 カネカ 水重、
元青物問屋   ㊆   伊勢屋
元果物専門問屋 カネ宗 水宗、

など、往時を物語る屋号が掛かっている。
(屋号 水重の名札)

(屋号 伊勢屋)


その先の交叉点に千住中町商店街のアーケードが見える。
今まで歩いてきた通りが千住中町商店街で,
見えるアーケードは、千住中町商店街ここまでをしるすアーケードである。
(千住仲町商店街のアーケード)


信号を渡ると、(HONCHO CENTER)のアーケードがあり、
信号手前の左右に一里塚があったところであるが、
今は右手の植え込みに一里塚跡の碑があり、
左手には高札場があったところで、
これまた高札場跡の碑がひっそりと建っているだけだ。

(Honcho Centerのアーケードと一里塚跡(右下)の碑)

(一里塚跡の碑)

(千住高札場跡の碑)


しかも旧日光街道沿いにあるのではなく、交差する左右の道に建てられている。
この一里塚は日本橋から二番目の一里塚である。
徳川幕府は、五街道を設置した時、一里ごとに塚を築かせ、
塚には榎を植えさせ、旅人に旅程を知らせると共に、
日陰を作って休憩場所とした。

高札場は、宿場の入り口に建てられていて、
お上(徳川幕府)からのお達しや宿場の決まり事などが書かれており、
旅人は笠を取り、必ずこれを読んで通った。
この高札場は千住宿の江戸側に建てられたものであろう。

信号を渡ると、ここから本来の千住宿へ入っていく。
信号を渡って左手に立派な構えの源長寺がある。
その先、同じく左手に、千住宿の問屋場跡、貫目改め所跡があって、
広場になっている。
旅をする大名の荷物は、問屋を通じて宿場から宿場へと受け継がれていくが、
荷物を運ぶ人足や馬に運ばせる重量を、人足、馬ごとに定められており、
料金も、人足一人いくら、馬一匹いくらと決められていた。
大名の参勤交代には、諸藩にとってかなりな経費が係り、
家来はやりくりに手を焼いていた事情があり、
荷駄の定量を無理矢理増やす輩がいたので、
これを食い止めるために、重量を改める場所があった。
それを貫目改め所といった。
(千住宿問屋場跡と貫目改め所後の碑)


千住宿問屋場跡と貫目改め所跡の碑のうしろは、広場になっており、
右手に問屋場の建物、正面に貫目改め所の建物があったようで、
その建物跡が地面に記されている。
広場中央は荷捌き所であったらしい。
(問屋場跡)

(貫目改め所跡)

(荷捌き所跡)


そもそも参勤交代は、
各藩の財政がぎりぎり賄える程度に消費させるよう、
徳川幕府が考えたものであった。
参勤交代でお金を使い果たさせて、余分な金銭を蓄えさせない仕組みであった。
余計なお金が出来ると、藩の戦力増強につながり、
徳川家に謀反を計画する余裕を持ってしまうからである。

この貫目改め所は、街道の分岐になる宿場に設けられていた。
千住宿では、日光街道と水戸街道の別れ道があった。
また宇都宮宿にも貫目改め所があったが、
ここは奥州街道との分岐である。
中山道では、板橋宿に貫目改め所はあり、ここからは川越街道が分岐している。
中山道の洗馬宿にも貫目改め所があったが、
この宿場では「北国往還、善光寺道」に分岐している。
と言うように貫目改め所は設置されていた。

北千住と言う町は、もと千住宿があった所為かどうか解からないが、
大変繁華で人通りも多く、商店も盛んで活気付いている。
旧日光街道千住宿を進むと、
道路をまたいで、(千住ほんちょう商店街)の、
大きなアーケードが目に入る。
その右手にブルーの建物に白地で大きく(TOPOSトポス)と書いた、
スーパーマーケットがある。

(本町商店街のアーケードとトポスのスーパー)


このアーケードとスーパーの角を右折すると足立都税事務所があり、
都税事務所の植え込みに、「森鴎外旧居橘井堂(きっせいどう)跡」の碑がある。
森鴎外の父親が医者をしていた場所で、
鴎外が東京帝国大学卒業後19歳で医師として医療活動をしていた場所である。
19歳は今では大学二年生の年齢である。
この年令で東京大学医学部を卒業し、医師であったと言うから、
余程優秀な人であったと思われる。

ちなみに現在の医師は6年かけて大学医学部卒業後、
国家試験合格から2年研修医(実務経験を積んで)をして一人前の医師になる。
従って、順調に行っても26歳で一人前の医師になれる。

(足立都税事務所)

(森鴎外旧居橘井堂跡の碑)

コメント (6)
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