(千住宿歴史プチテラス入り口と左手の芭蕉句碑)
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(千住宿)
京成線のガードをくぐって、すぐ左手に、
千住宿プチテラスとして無料貸し出しギャラリーとして、
江戸時代の蔵を貸し出している。
訪ねた時は門が閉まっていたが、以前訪ねた時は、
ギャラリーが開いており、展示品の数々を見ることができた。
入り口には、やっちゃば跡地であることが解かる案内板があり、
門の左脇に芭蕉句碑があり、
・鮎の子の白魚送る別哉 芭蕉
と刻まれている。江戸を出るとき、送りの人に
詠んだ句とされる。
道路の反対側には、やっちゃ場の屋号を示す、
元果物専門問屋 カネカ 水重、
元青物問屋 ㊆ 伊勢屋
元果物専門問屋 カネ宗 水宗、
など、往時を物語る屋号が掛かっている。
(屋号 水重の名札)
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(屋号 伊勢屋)
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その先の交叉点に千住中町商店街のアーケードが見える。
今まで歩いてきた通りが千住中町商店街で,
見えるアーケードは、千住中町商店街ここまでをしるすアーケードである。
(千住仲町商店街のアーケード)
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信号を渡ると、(HONCHO CENTER)のアーケードがあり、
信号手前の左右に一里塚があったところであるが、
今は右手の植え込みに一里塚跡の碑があり、
左手には高札場があったところで、
これまた高札場跡の碑がひっそりと建っているだけだ。
(Honcho Centerのアーケードと一里塚跡(右下)の碑)
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(一里塚跡の碑)
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(千住高札場跡の碑)
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しかも旧日光街道沿いにあるのではなく、交差する左右の道に建てられている。
この一里塚は日本橋から二番目の一里塚である。
徳川幕府は、五街道を設置した時、一里ごとに塚を築かせ、
塚には榎を植えさせ、旅人に旅程を知らせると共に、
日陰を作って休憩場所とした。
高札場は、宿場の入り口に建てられていて、
お上(徳川幕府)からのお達しや宿場の決まり事などが書かれており、
旅人は笠を取り、必ずこれを読んで通った。
この高札場は千住宿の江戸側に建てられたものであろう。
信号を渡ると、ここから本来の千住宿へ入っていく。
信号を渡って左手に立派な構えの源長寺がある。
その先、同じく左手に、千住宿の問屋場跡、貫目改め所跡があって、
広場になっている。
旅をする大名の荷物は、問屋を通じて宿場から宿場へと受け継がれていくが、
荷物を運ぶ人足や馬に運ばせる重量を、人足、馬ごとに定められており、
料金も、人足一人いくら、馬一匹いくらと決められていた。
大名の参勤交代には、諸藩にとってかなりな経費が係り、
家来はやりくりに手を焼いていた事情があり、
荷駄の定量を無理矢理増やす輩がいたので、
これを食い止めるために、重量を改める場所があった。
それを貫目改め所といった。
(千住宿問屋場跡と貫目改め所後の碑)
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千住宿問屋場跡と貫目改め所跡の碑のうしろは、広場になっており、
右手に問屋場の建物、正面に貫目改め所の建物があったようで、
その建物跡が地面に記されている。
広場中央は荷捌き所であったらしい。
(問屋場跡)
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(貫目改め所跡)
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(荷捌き所跡)
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そもそも参勤交代は、
各藩の財政がぎりぎり賄える程度に消費させるよう、
徳川幕府が考えたものであった。
参勤交代でお金を使い果たさせて、余分な金銭を蓄えさせない仕組みであった。
余計なお金が出来ると、藩の戦力増強につながり、
徳川家に謀反を計画する余裕を持ってしまうからである。
この貫目改め所は、街道の分岐になる宿場に設けられていた。
千住宿では、日光街道と水戸街道の別れ道があった。
また宇都宮宿にも貫目改め所があったが、
ここは奥州街道との分岐である。
中山道では、板橋宿に貫目改め所はあり、ここからは川越街道が分岐している。
中山道の洗馬宿にも貫目改め所があったが、
この宿場では「北国往還、善光寺道」に分岐している。
と言うように貫目改め所は設置されていた。
北千住と言う町は、もと千住宿があった所為かどうか解からないが、
大変繁華で人通りも多く、商店も盛んで活気付いている。
旧日光街道千住宿を進むと、
道路をまたいで、(千住ほんちょう商店街)の、
大きなアーケードが目に入る。
その右手にブルーの建物に白地で大きく(TOPOSトポス)と書いた、
スーパーマーケットがある。
(本町商店街のアーケードとトポスのスーパー)
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このアーケードとスーパーの角を右折すると足立都税事務所があり、
都税事務所の植え込みに、「森鴎外旧居橘井堂(きっせいどう)跡」の碑がある。
森鴎外の父親が医者をしていた場所で、
鴎外が東京帝国大学卒業後19歳で医師として医療活動をしていた場所である。
19歳は今では大学二年生の年齢である。
この年令で東京大学医学部を卒業し、医師であったと言うから、
余程優秀な人であったと思われる。
ちなみに現在の医師は6年かけて大学医学部卒業後、
国家試験合格から2年研修医(実務経験を積んで)をして一人前の医師になる。
従って、順調に行っても26歳で一人前の医師になれる。
(足立都税事務所)
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(森鴎外旧居橘井堂跡の碑)
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(千住宿)
京成線のガードをくぐって、すぐ左手に、
千住宿プチテラスとして無料貸し出しギャラリーとして、
江戸時代の蔵を貸し出している。
訪ねた時は門が閉まっていたが、以前訪ねた時は、
ギャラリーが開いており、展示品の数々を見ることができた。
入り口には、やっちゃば跡地であることが解かる案内板があり、
門の左脇に芭蕉句碑があり、
・鮎の子の白魚送る別哉 芭蕉
と刻まれている。江戸を出るとき、送りの人に
詠んだ句とされる。
道路の反対側には、やっちゃ場の屋号を示す、
元果物専門問屋 カネカ 水重、
元青物問屋 ㊆ 伊勢屋
元果物専門問屋 カネ宗 水宗、
など、往時を物語る屋号が掛かっている。
(屋号 水重の名札)
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(屋号 伊勢屋)
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その先の交叉点に千住中町商店街のアーケードが見える。
今まで歩いてきた通りが千住中町商店街で,
見えるアーケードは、千住中町商店街ここまでをしるすアーケードである。
(千住仲町商店街のアーケード)
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信号を渡ると、(HONCHO CENTER)のアーケードがあり、
信号手前の左右に一里塚があったところであるが、
今は右手の植え込みに一里塚跡の碑があり、
左手には高札場があったところで、
これまた高札場跡の碑がひっそりと建っているだけだ。
(Honcho Centerのアーケードと一里塚跡(右下)の碑)
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(一里塚跡の碑)
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(千住高札場跡の碑)
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しかも旧日光街道沿いにあるのではなく、交差する左右の道に建てられている。
この一里塚は日本橋から二番目の一里塚である。
徳川幕府は、五街道を設置した時、一里ごとに塚を築かせ、
塚には榎を植えさせ、旅人に旅程を知らせると共に、
日陰を作って休憩場所とした。
高札場は、宿場の入り口に建てられていて、
お上(徳川幕府)からのお達しや宿場の決まり事などが書かれており、
旅人は笠を取り、必ずこれを読んで通った。
この高札場は千住宿の江戸側に建てられたものであろう。
信号を渡ると、ここから本来の千住宿へ入っていく。
信号を渡って左手に立派な構えの源長寺がある。
その先、同じく左手に、千住宿の問屋場跡、貫目改め所跡があって、
広場になっている。
旅をする大名の荷物は、問屋を通じて宿場から宿場へと受け継がれていくが、
荷物を運ぶ人足や馬に運ばせる重量を、人足、馬ごとに定められており、
料金も、人足一人いくら、馬一匹いくらと決められていた。
大名の参勤交代には、諸藩にとってかなりな経費が係り、
家来はやりくりに手を焼いていた事情があり、
荷駄の定量を無理矢理増やす輩がいたので、
これを食い止めるために、重量を改める場所があった。
それを貫目改め所といった。
(千住宿問屋場跡と貫目改め所後の碑)
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千住宿問屋場跡と貫目改め所跡の碑のうしろは、広場になっており、
右手に問屋場の建物、正面に貫目改め所の建物があったようで、
その建物跡が地面に記されている。
広場中央は荷捌き所であったらしい。
(問屋場跡)
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(貫目改め所跡)
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(荷捌き所跡)
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各藩の財政がぎりぎり賄える程度に消費させるよう、
徳川幕府が考えたものであった。
参勤交代でお金を使い果たさせて、余分な金銭を蓄えさせない仕組みであった。
余計なお金が出来ると、藩の戦力増強につながり、
徳川家に謀反を計画する余裕を持ってしまうからである。
この貫目改め所は、街道の分岐になる宿場に設けられていた。
千住宿では、日光街道と水戸街道の別れ道があった。
また宇都宮宿にも貫目改め所があったが、
ここは奥州街道との分岐である。
中山道では、板橋宿に貫目改め所はあり、ここからは川越街道が分岐している。
中山道の洗馬宿にも貫目改め所があったが、
この宿場では「北国往還、善光寺道」に分岐している。
と言うように貫目改め所は設置されていた。
北千住と言う町は、もと千住宿があった所為かどうか解からないが、
大変繁華で人通りも多く、商店も盛んで活気付いている。
旧日光街道千住宿を進むと、
道路をまたいで、(千住ほんちょう商店街)の、
大きなアーケードが目に入る。
その右手にブルーの建物に白地で大きく(TOPOSトポス)と書いた、
スーパーマーケットがある。
(本町商店街のアーケードとトポスのスーパー)
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このアーケードとスーパーの角を右折すると足立都税事務所があり、
都税事務所の植え込みに、「森鴎外旧居橘井堂(きっせいどう)跡」の碑がある。
森鴎外の父親が医者をしていた場所で、
鴎外が東京帝国大学卒業後19歳で医師として医療活動をしていた場所である。
19歳は今では大学二年生の年齢である。
この年令で東京大学医学部を卒業し、医師であったと言うから、
余程優秀な人であったと思われる。
ちなみに現在の医師は6年かけて大学医学部卒業後、
国家試験合格から2年研修医(実務経験を積んで)をして一人前の医師になる。
従って、順調に行っても26歳で一人前の医師になれる。
(足立都税事務所)
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(森鴎外旧居橘井堂跡の碑)
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