このように 生まれてきて
このように 生かされて
いま 生きている
これこそ 仏心
如来 無量のいのち
ありがたく 手を合わす
(円覚寺)
このように 生かされて
いま 生きている
これこそ 仏心
如来 無量のいのち
ありがたく 手を合わす
(円覚寺)
円覚寺(えんがくじ)は弘安5年(1282)に創建。
開基は元寇の役に活躍した鎌倉幕府の執権 北条時宗、
開山は宋から来朝した高僧 無学祖元 仏光国師(むがくそげん ぶっこうこくし)、
円覚寺創建の主な目的は、蒙古襲来で戦没した多くの霊を敵味方なく弔うことであった。
円覚寺は鎌倉五山の第二位に当たるが、そもそも「鎌倉五山」って何だろう。
(横須賀線左側、臨済宗大本山 円覚寺入口、階段上が総門)

禅宗の五山は(Wikipedia)によれば、
(五山制度はインドの五精舎にならい、
中国の南宗末期に禅宗の保護と統制のため格式高い五つの寺を定めたことに由来する。
鎌倉幕府が 開かれる前年の建久2年(1191)に、
南宋から帰国した僧侶栄西らによって伝えられた禅宗は、
その後隆盛を極め、
鎌倉時代の末期に、幕府により次々と大寺院が建立された。
北条氏は、南宋にならい五山制度を導入、鎌倉の主な禅刹を五山と 呼ぶようになり、
鎌倉幕府滅亡後の室町初期には鎌倉、そして京都にそれぞれに五山が定められた。ー中略。
鎌倉五山は、建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺の五山。
その後、京都五山が決められ、
五山の上に南禅寺が置かれた。
もともとは、寺を格付け管理するための足利氏の政治政略的な格付け、
官が任命権をもって順次格式の高い寺に昇任させる制度。)とある。
鎌倉五山は、建長寺(第一位)、円覚寺(二位)、寿福寺(三位)、浄智寺(四位)、浄妙寺(五位)。
京都五山は、天龍寺(第一位)、相国寺(二位)、建仁寺(三位)、東福寺(四位)、万寿寺(五位)。
五山の上に南禅寺が置かれた。
僧侶は、五山の第五位の寺で修行して、修行が成ると昇格して、次は四位の寺に移り、
更に高僧になると三位へ、そして二位、一位へと昇格していったようだ。
お坊さんも楽ではない、しっかり修行しないと昇格できない。
現在のサラリーマン世界の昇格に似ている。
東海道線「大船駅」で横須賀線に乗り換え「北鎌倉駅」で降りると、
目の前が「円覚寺」である。
横須賀線はここで円覚寺の境内を横切っているのだ。
北鎌倉駅の右手に白鷺池があるが、これは円覚寺のものである。
「大本山円覚寺」の石柱のある参道は
左右に静かなたたずまいの白鷲池を見て進むと、
横須賀線の踏切があり、これを越えると、
右に「臨済宗大本山 円覚寺」の石柱があり、左手には「北条時宗公御廟所」の石柱がある。
この二つの石柱の間を階段で進むと「総門」になる。
総門の扁額に「瑞鹿山」と書かれている。
(横須賀線右側の入口、踏切が見える円覚寺境内)

(白鷺池)

(踏切を渡って「臨済宗 大本山 円覚寺」の総門になる。)

(扁額に「瑞鹿山」とある)

ここにある扁額の「瑞鹿山ずいろくさん(めでたい鹿のおやま)」は、
仏殿開堂落慶の折、開山・無学祖元禅師の法話を聞こうとして、
白鹿が集まったという逸話からつけられたといわれ、
「如意庵」(今は喫茶ルームになっている)の先に、
白鹿が集まったと言われる場所「白鹿洞」がある。
(無学祖元禅師の法話を聞きに鹿が集まった「白鹿洞」)

(山門)

話が反れてしまったが、「瑞鹿山」の総門を過ぎ、
さらに階段を進むと「山門」であり、
ここにある扁額に写真では見難いが「園覚興聖禅寺」と書かれている。
文字は、伏見上皇の勅筆であると言う。(円覚寺より)
その先に仏殿があり、扁額には「大光明寶殿」と記されている。
円覚寺のお宝が納められているに違いない。
ここには円覚寺の本尊である宝冠釈迦如来坐像が安置されている。
お釈迦様が宝冠を戴いている珍しい仏像である。
関東大震災で倒壊したが、昭和39年(1964)再建され、
天井には日本画家 前田青邨画伯監修 守屋多々志画伯作「白龍図」がある。
宝冠釈迦如来の足下に、二抱えもありそうな巨大木魚が目を引いた。
これらがお宝なのであろう。
(仏殿)

(扁額の「大光明寶殿」)

(本尊 宝冠釈迦如来坐像)

(天井画 白龍図)

(巨大木魚)

「 たった一度の人生!
楽しんで終わりたいものです!」 hide-san
(つづく)