増上寺は徳川家の菩提寺で港区役所の前にあります。
JR浜松町駅から歩いて7分くらい。
都営地下鉄三田線では御成門駅、芝公園駅の中間、
都営地下鉄浅草線大門駅からも、歩いて5分程度。
JR浜松町、地下鉄大門駅から歩くと途中に、
増上寺の大門がある。
以前はこのあたりまで敷地があったのと思われます。
(大門)
この大門の脇を抜けて進むと突き当りに、
増上寺の解脱門があり、休祝日には混雑します。
普段でも、写真でご覧のとおり、結構な人で賑わいます。
(解脱門)
解脱門をくぐると本堂ですが、
東京タワーが本堂横に良く見え景観を添えています。
東京のシンボルとなるタワーが見えなくならないように、
最近港区か東京都が景観を保持する条例を作ったようです。
(本堂と東京タワー)

(本堂前から見た解脱門、かなりの人で賑う)

(鐘楼堂)

三田線芝公園駅から帰宅しようと向かうと、
立派な総門が見える。
近づくと「旧台徳院霊廟総門」とある。
屋根に三つ葉葵の徳川家の家紋が入っているのが見える。
「台徳院霊廟総門」は、
江戸幕府二代将軍徳川秀忠の霊廟の総門である。
本来はこの後ろに霊廟があるはずなのだが、
太平洋戦争末期の1945年5月、東京大空襲で大部分の建物を焼失した。
秀忠の墓所は1958年に発掘調査が行われた後改葬されて、
現在は増上寺安国殿裏の徳川家墓所に墓塔が建てられている。
普段はこの徳川家の墓所に入ることはできない。
「旧台徳院霊廟総門」

この総門の両脇の阿吽の仁王様は、
写真が小さくて見難いが、寄木作りで、地肌は砥粉地彩色の仁王像で、
方形の台座に乗った岩座の上に立っている。
港区教育委員会によると、
(平成の修復の際に、体内から修理銘札が発見され、
元は埼玉県の西福寺(現川口市西立野)仁王門に安置されていたもので、
寛政元年(1789)、弘化三年(1847)の二度にわたり修理されているのが解りました。
さらに安政二年(1855)の暴風で破損したまま同寺の観音堂の片隅にあったものを
昭和二十三年(1948)同寺三重塔の修理と同時期に三度目の修理がなされ、
東京浅草寺に移されたと記載されている。ー後略)
現在は港区の指定文化財にになっている。
(芝公園から見た東京タワー)

JR浜松町駅から歩いて7分くらい。
都営地下鉄三田線では御成門駅、芝公園駅の中間、
都営地下鉄浅草線大門駅からも、歩いて5分程度。
JR浜松町、地下鉄大門駅から歩くと途中に、
増上寺の大門がある。
以前はこのあたりまで敷地があったのと思われます。
(大門)

この大門の脇を抜けて進むと突き当りに、
増上寺の解脱門があり、休祝日には混雑します。
普段でも、写真でご覧のとおり、結構な人で賑わいます。
(解脱門)

解脱門をくぐると本堂ですが、
東京タワーが本堂横に良く見え景観を添えています。
東京のシンボルとなるタワーが見えなくならないように、
最近港区か東京都が景観を保持する条例を作ったようです。
(本堂と東京タワー)

(本堂前から見た解脱門、かなりの人で賑う)

(鐘楼堂)

三田線芝公園駅から帰宅しようと向かうと、
立派な総門が見える。
近づくと「旧台徳院霊廟総門」とある。
屋根に三つ葉葵の徳川家の家紋が入っているのが見える。
「台徳院霊廟総門」は、
江戸幕府二代将軍徳川秀忠の霊廟の総門である。
本来はこの後ろに霊廟があるはずなのだが、
太平洋戦争末期の1945年5月、東京大空襲で大部分の建物を焼失した。
秀忠の墓所は1958年に発掘調査が行われた後改葬されて、
現在は増上寺安国殿裏の徳川家墓所に墓塔が建てられている。
普段はこの徳川家の墓所に入ることはできない。
「旧台徳院霊廟総門」

この総門の両脇の阿吽の仁王様は、
写真が小さくて見難いが、寄木作りで、地肌は砥粉地彩色の仁王像で、
方形の台座に乗った岩座の上に立っている。
港区教育委員会によると、
(平成の修復の際に、体内から修理銘札が発見され、
元は埼玉県の西福寺(現川口市西立野)仁王門に安置されていたもので、
寛政元年(1789)、弘化三年(1847)の二度にわたり修理されているのが解りました。
さらに安政二年(1855)の暴風で破損したまま同寺の観音堂の片隅にあったものを
昭和二十三年(1948)同寺三重塔の修理と同時期に三度目の修理がなされ、
東京浅草寺に移されたと記載されている。ー後略)
現在は港区の指定文化財にになっている。
(芝公園から見た東京タワー)
