(小山市の案内看板)
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友沼の八幡神社を後に旧日光街道を進むと小山市間々田に入って行く。
しばらくして左手路傍に小さな馬頭観世音の石塔がある。
歩いていては見落としがちの石塔だ。
(馬頭観世音の石塔)
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(馬頭観世音とその台座)
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表面には、中央に「馬頭観世音」
台座に「これより左 乙女河岸 あじと さのみち」と、
書いてあるらしいが、
土中に埋まっているのかボクには読めない。
その資料によれば
(文化十年(1813)に造られた道標を兼ねた馬頭観世音で、
乙女河岸、網戸(あじと)渡船場方面に向かう道標を兼ねている。)
この文章がボクには解りにくい。川に沿って乙女河岸と網戸渡船場が、
並んであるように思える。
実際には思川の東側に「乙女河岸」(現小山市乙女があり)、
網戸渡船場(現、小山市網戸)は思川の西側にある。
思川を挟んで、乙女河岸があり、対岸の網戸河岸を結ぶ渡しへの道標だ。
(思川に架かる橋)
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(思川の橋脚)
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この先の小山市乙女から思川を舟で対岸の小山市網戸へ渡り、
厄除大師で有名な佐野へ抜ける道の道標であった。
馬頭観世音の石碑を後に少しすると「乙女の一里塚」があることなっている。
それらしいのは一本のケヤキの木とその前にある鳥居と祠、
ここに「乙女の一里塚跡」と書いてあったと思われる白い杭があるが、
風化して何も見えない。
(乙女の一里塚跡?)
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少し先の民家のおばさんに聞くと、
日本橋から18里日光まで18里の一里塚だと言う。
他にもっと先に「間の宿」のエノキがあって、
ここが江戸から18里日光から18里のエノキだと言う。
「間の宿の榎」が訛って「逢いの榎」になり、
今でも縁結びの榎として地元の人に慕われていると言う。
乙女の一里塚を過ぎて、少しすると左に「若宮八幡宮」がある。
小山市教育委員会によれば、
(この境内には大日如来坐像が大切に安置されている。
武州江戸湯島の渡部九兵衛が施主となり、
父母の供養のため生国の下野国都賀郡に安置、
以前は野晒しのため「濡れ仏様」と呼ばれ親しまれていた。)とある。
(若宮八幡宮の鳥居)
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(本殿)
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本殿手前の左手に見える屋根の下に「大日如来坐像」が置かれている。
(大日如来坐像と覆い屋)
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(大日如来坐像)
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(大日如来坐像の台座)
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大日如来坐像の台座には
(施主 武州江戸湯島
渡部九兵衛
法名 峯月道明居士 )と刻まれている。
ここからおよそ1kmほどの間に梨畑が広がり、
ちょうど満開に開いた花が歩く足を元気づけてくれた。
(綺麗に咲いた梨の花)
その先の右側に「仏光寺」の真新しい門柱が見える。
繪唐山 仏光寺と言い、二代将軍秀忠から十石の寺領を与えられた、
格式あるお寺である。
山門が無いためか仁王様が門柱の前にいるのも珍しい。
(佛光寺門柱)
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そのすぐ左手に乙女八幡宮がある。
今は小山市乙女であるが、往時は乙女村の鎮守であったらしく、
石碑には「村社 八幡宮」とある。
(村社八幡宮の石柱と少し奥の鳥居)
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(石の鳥居)
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この鳥居について小山市教育委員会の説明を要約すると、
(乙女八幡宮は、鎌倉時代に創祀されたと伝えられる。
元禄十六年(1703)に当宮別当寺だった光明寺の住僧が願主になって
建立されたこの鳥居には銘文が刻まれており、
それには乙女村船問屋、下館大町(茨城県)の商人、
栃木市の石屋の名が刻まれていることから、
乙女河岸にかかわる人達から崇敬されていたことが分かる。
―以下省略)(小山市指定文化財)
参道を進むと二の鳥居があり本殿が見える。
そして別当寺であった光明寺は、
明治の神仏分離により廃されその跡には土俵が造られ、
子供たちの元気な取り組みを待っているが、
普段は青いシートで覆われて神社の東側にある。
(二の鳥居)
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(本殿)
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(別当寺の跡のブルーシートの土俵)
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陽だまりで目をつむると、子供たちの元気な掛け声が聞こえてきそうである。
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友沼の八幡神社を後に旧日光街道を進むと小山市間々田に入って行く。
しばらくして左手路傍に小さな馬頭観世音の石塔がある。
歩いていては見落としがちの石塔だ。
(馬頭観世音の石塔)
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(馬頭観世音とその台座)
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表面には、中央に「馬頭観世音」
台座に「これより左 乙女河岸 あじと さのみち」と、
書いてあるらしいが、
土中に埋まっているのかボクには読めない。
その資料によれば
(文化十年(1813)に造られた道標を兼ねた馬頭観世音で、
乙女河岸、網戸(あじと)渡船場方面に向かう道標を兼ねている。)
この文章がボクには解りにくい。川に沿って乙女河岸と網戸渡船場が、
並んであるように思える。
実際には思川の東側に「乙女河岸」(現小山市乙女があり)、
網戸渡船場(現、小山市網戸)は思川の西側にある。
思川を挟んで、乙女河岸があり、対岸の網戸河岸を結ぶ渡しへの道標だ。
(思川に架かる橋)
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(思川の橋脚)
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この先の小山市乙女から思川を舟で対岸の小山市網戸へ渡り、
厄除大師で有名な佐野へ抜ける道の道標であった。
馬頭観世音の石碑を後に少しすると「乙女の一里塚」があることなっている。
それらしいのは一本のケヤキの木とその前にある鳥居と祠、
ここに「乙女の一里塚跡」と書いてあったと思われる白い杭があるが、
風化して何も見えない。
(乙女の一里塚跡?)
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少し先の民家のおばさんに聞くと、
日本橋から18里日光まで18里の一里塚だと言う。
他にもっと先に「間の宿」のエノキがあって、
ここが江戸から18里日光から18里のエノキだと言う。
「間の宿の榎」が訛って「逢いの榎」になり、
今でも縁結びの榎として地元の人に慕われていると言う。
乙女の一里塚を過ぎて、少しすると左に「若宮八幡宮」がある。
小山市教育委員会によれば、
(この境内には大日如来坐像が大切に安置されている。
武州江戸湯島の渡部九兵衛が施主となり、
父母の供養のため生国の下野国都賀郡に安置、
以前は野晒しのため「濡れ仏様」と呼ばれ親しまれていた。)とある。
(若宮八幡宮の鳥居)
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(本殿)
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本殿手前の左手に見える屋根の下に「大日如来坐像」が置かれている。
(大日如来坐像と覆い屋)
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(大日如来坐像)
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(大日如来坐像の台座)
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大日如来坐像の台座には
(施主 武州江戸湯島
渡部九兵衛
法名 峯月道明居士 )と刻まれている。
ここからおよそ1kmほどの間に梨畑が広がり、
ちょうど満開に開いた花が歩く足を元気づけてくれた。
(綺麗に咲いた梨の花)
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その先の右側に「仏光寺」の真新しい門柱が見える。
繪唐山 仏光寺と言い、二代将軍秀忠から十石の寺領を与えられた、
格式あるお寺である。
山門が無いためか仁王様が門柱の前にいるのも珍しい。
(佛光寺門柱)
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そのすぐ左手に乙女八幡宮がある。
今は小山市乙女であるが、往時は乙女村の鎮守であったらしく、
石碑には「村社 八幡宮」とある。
(村社八幡宮の石柱と少し奥の鳥居)
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(石の鳥居)
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この鳥居について小山市教育委員会の説明を要約すると、
(乙女八幡宮は、鎌倉時代に創祀されたと伝えられる。
元禄十六年(1703)に当宮別当寺だった光明寺の住僧が願主になって
建立されたこの鳥居には銘文が刻まれており、
それには乙女村船問屋、下館大町(茨城県)の商人、
栃木市の石屋の名が刻まれていることから、
乙女河岸にかかわる人達から崇敬されていたことが分かる。
―以下省略)(小山市指定文化財)
参道を進むと二の鳥居があり本殿が見える。
そして別当寺であった光明寺は、
明治の神仏分離により廃されその跡には土俵が造られ、
子供たちの元気な取り組みを待っているが、
普段は青いシートで覆われて神社の東側にある。
(二の鳥居)
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(別当寺の跡のブルーシートの土俵)
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陽だまりで目をつむると、子供たちの元気な掛け声が聞こえてきそうである。