小金井北の信号を右折すると蓮行寺の山門が見える。
(蓮行寺山門)

そもそも日光街道は、
日光に家康のお墓が有る東照宮があるからだとばかりボクは思っていた。
ところが、考えて見ると家康存命中に日光街道はできていたのだから、
お墓がある所為ではない。
家康が戦勝祈願を二荒山(ふたらさん)神社にしていたからだ。
(ふたらさん)神社は別の呼び方として(にこうさん)神社、
これを(日光)としたようだ。
(ようだ)と言うのはこの話はボクも聞いた話であり、確かめたわけではない。
宇都宮にも二荒山神社があるから、宇都宮の二荒山神社と区別するために、
日光二荒山神社としたのかも知れない。
徳川家康亡き後、天海僧正によって東照宮が造営され、
一旦、家康は静岡の久能山東照宮に葬られたが、
一年後日光東照宮に改葬されたので、
以後、徳川家康の墓参りは、毎年行われたようで、
その際、歴代将軍は、日光御成り道が利用された。
そのためか日光街道沿いの神社仏閣には徳川ゆかりの言い伝えや、
事実が数多く残っている。
ながながと日光街道について述べてしまったが、
表題の蓮行寺も徳川将軍にまつわる言い伝えが残っているからだ。
(ここ蓮行寺は、元徳元年(1329)、日秀上人の開基で、
一節には日行上人の創建ともいわれます。
徳川将軍の日光社参の際には、
宇都宮城主がこの寺で出迎えることになっていたと言うことです。)
(関東地方整備局宇都宮事務所の資料による)
蓮行寺の山門をくぐると正面に本堂があるが、
途中左側に手水場がり、さらに、その左奥が枯山水の庭となっている。
徳川将軍を出迎えた寺院であったからだろうか、
枯山水には鶴が餌を啄(つい)ばんでいる姿が見られ優雅に感じた。
(珠栄山蓮行寺)

(手水場横の枯山水に鶴)

(枯山水と本堂)

蓮行寺を出ると足元のマンホールが、この田舎にしてはモダンであった。
国道4号線に戻り、約300m先の右側、やや奥まった所に薬師堂がある。
奥まったと書いたのは、手前の左手には、上町公民館となっており、
境内右手には、写真を撮る腕前が悪くて、見えますでしょうか、
歴代住職の墓石や地蔵さんが並んでいます。
一節には薬師堂ご本尊は、奈良時代の僧、行基の作と言います。
薬師堂の中を見ましたが暗くて見ることが出来ませんでした。
薬師堂裏手は畑になっており、数百メートル先には東北本線の高架が見えます。
街道を少し歩くと左手に超モダンな建物が、畑のど真ん中に見えてきます。
近づくとこれが下野市役所です。
(マンホール)

(薬師堂)

(薬師堂薬師如来の扁額)

(出来たばかりに見える下野市役所)

下野市役所を通り越して少し先にJR自治医大駅右の信号を過ぎると、
右側に巨木の松が並ぶ林が続きます。
そして(下石橋)の信号を過ぎると左手に丸大食品のマークの看板が見え、
慈母観音像見えてきます。
(JR自治医大駅の看板がある信号)

(巨木の松がある林A)

(巨木の松がある林B)

(巨木の松がある林C)

(下石橋の信号)

(慈母観世音の銅像)

さらに進み、右側に古い長屋門や合掌造りの家などが見ますが、
これはとんかつ屋さんの建物です。
やがて左側に、国道4号線を造った時の名残でしょう、
お寺さんの墓域を道路が横切った感じに、道路わきに墓石が立ち並びます。
そのお墓が並んでいる先に屋根付きの石造群が見えてきます。
道路には背中を見せて並んでいます。
石造群の先に見えるのは、(下石橋北)の信号の立体交差が見えてきます。
(立派な長屋門は街道沿いのとんかつ屋さん)

(道路に背中を見せた石造群と先に見える立体交差)

石造群が背中を見せていると言うことは、
本来の旧日光街道は、この石造群を挟んで反対側にあったと推測されます。
石造物群の表側を見ると、青面金剛の庚申塔やお地蔵さま、
右の頬を手で押さえ物思いにふける半跏思惟像(はんかしいぞう)など、
近隣の村落にあったものが集められた10体のようだ。
(10体の石造群)

(下石橋北)の立体交差を越えて、先に進むと左手に往時を偲ばせる黒塀に、
その黒塀に見合う古い門が見える。
またその先にも由緒ありげな家屋が見える。
旧家であったのであろう。
(黒塀と門)

(由緒ありげな家屋)

すぐ左手には愛宕神社が見えてくる。
(愛宕神社は、創建天平宝字3年(759)と言う古社で、
境内には天照大神、八坂大神、スサノウノミコト、熊野大神の4社が祀られている。
この神社の境内は愛宕山古墳と言われています。)(関東地方整備局宇都宮事務所の資料より)
(愛宕神社の鳥居)

(愛宕神社)

この辺りで東京から93km地点、この先の信号が「石橋」で、
右折するとJR石橋駅。
(東京から93km地点の標識)

(「石橋」の信号)

(蓮行寺山門)

そもそも日光街道は、
日光に家康のお墓が有る東照宮があるからだとばかりボクは思っていた。
ところが、考えて見ると家康存命中に日光街道はできていたのだから、
お墓がある所為ではない。
家康が戦勝祈願を二荒山(ふたらさん)神社にしていたからだ。
(ふたらさん)神社は別の呼び方として(にこうさん)神社、
これを(日光)としたようだ。
(ようだ)と言うのはこの話はボクも聞いた話であり、確かめたわけではない。
宇都宮にも二荒山神社があるから、宇都宮の二荒山神社と区別するために、
日光二荒山神社としたのかも知れない。
徳川家康亡き後、天海僧正によって東照宮が造営され、
一旦、家康は静岡の久能山東照宮に葬られたが、
一年後日光東照宮に改葬されたので、
以後、徳川家康の墓参りは、毎年行われたようで、
その際、歴代将軍は、日光御成り道が利用された。
そのためか日光街道沿いの神社仏閣には徳川ゆかりの言い伝えや、
事実が数多く残っている。
ながながと日光街道について述べてしまったが、
表題の蓮行寺も徳川将軍にまつわる言い伝えが残っているからだ。
(ここ蓮行寺は、元徳元年(1329)、日秀上人の開基で、
一節には日行上人の創建ともいわれます。
徳川将軍の日光社参の際には、
宇都宮城主がこの寺で出迎えることになっていたと言うことです。)
(関東地方整備局宇都宮事務所の資料による)
蓮行寺の山門をくぐると正面に本堂があるが、
途中左側に手水場がり、さらに、その左奥が枯山水の庭となっている。
徳川将軍を出迎えた寺院であったからだろうか、
枯山水には鶴が餌を啄(つい)ばんでいる姿が見られ優雅に感じた。
(珠栄山蓮行寺)

(手水場横の枯山水に鶴)

(枯山水と本堂)

蓮行寺を出ると足元のマンホールが、この田舎にしてはモダンであった。
国道4号線に戻り、約300m先の右側、やや奥まった所に薬師堂がある。
奥まったと書いたのは、手前の左手には、上町公民館となっており、
境内右手には、写真を撮る腕前が悪くて、見えますでしょうか、
歴代住職の墓石や地蔵さんが並んでいます。
一節には薬師堂ご本尊は、奈良時代の僧、行基の作と言います。
薬師堂の中を見ましたが暗くて見ることが出来ませんでした。
薬師堂裏手は畑になっており、数百メートル先には東北本線の高架が見えます。
街道を少し歩くと左手に超モダンな建物が、畑のど真ん中に見えてきます。
近づくとこれが下野市役所です。
(マンホール)

(薬師堂)

(薬師堂薬師如来の扁額)

(出来たばかりに見える下野市役所)

下野市役所を通り越して少し先にJR自治医大駅右の信号を過ぎると、
右側に巨木の松が並ぶ林が続きます。
そして(下石橋)の信号を過ぎると左手に丸大食品のマークの看板が見え、
慈母観音像見えてきます。
(JR自治医大駅の看板がある信号)

(巨木の松がある林A)

(巨木の松がある林B)

(巨木の松がある林C)

(下石橋の信号)

(慈母観世音の銅像)

さらに進み、右側に古い長屋門や合掌造りの家などが見ますが、
これはとんかつ屋さんの建物です。
やがて左側に、国道4号線を造った時の名残でしょう、
お寺さんの墓域を道路が横切った感じに、道路わきに墓石が立ち並びます。
そのお墓が並んでいる先に屋根付きの石造群が見えてきます。
道路には背中を見せて並んでいます。
石造群の先に見えるのは、(下石橋北)の信号の立体交差が見えてきます。
(立派な長屋門は街道沿いのとんかつ屋さん)

(道路に背中を見せた石造群と先に見える立体交差)

石造群が背中を見せていると言うことは、
本来の旧日光街道は、この石造群を挟んで反対側にあったと推測されます。
石造物群の表側を見ると、青面金剛の庚申塔やお地蔵さま、
右の頬を手で押さえ物思いにふける半跏思惟像(はんかしいぞう)など、
近隣の村落にあったものが集められた10体のようだ。
(10体の石造群)

(下石橋北)の立体交差を越えて、先に進むと左手に往時を偲ばせる黒塀に、
その黒塀に見合う古い門が見える。
またその先にも由緒ありげな家屋が見える。
旧家であったのであろう。
(黒塀と門)

(由緒ありげな家屋)

すぐ左手には愛宕神社が見えてくる。
(愛宕神社は、創建天平宝字3年(759)と言う古社で、
境内には天照大神、八坂大神、スサノウノミコト、熊野大神の4社が祀られている。
この神社の境内は愛宕山古墳と言われています。)(関東地方整備局宇都宮事務所の資料より)
(愛宕神社の鳥居)

(愛宕神社)

この辺りで東京から93km地点、この先の信号が「石橋」で、
右折するとJR石橋駅。
(東京から93km地点の標識)

(「石橋」の信号)
