(言問橋西の信号、靴屋のビルの左へ行くのが吉野通り)
(南千住の小塚原刑場と小塚原回向院)
(言問橋西)の信号を斜め左に入っていくのが旧日光街道である。
今は吉野通りといっている。
以前は山谷通りと言ったらしいが、
「山谷」=「ドヤ街」のイメージを払拭したかったのか、
吉野通りに変った。
吉野通りを進むと浅草高校前の信号に出て、
その両脇が山谷掘公園の吉野橋になっていることは、
(旧日光・奥州道中番外記 5)に書いた。
(吉野橋の跡)
(旧日光街道にある浅草高校前の信号)
この通り(吉野通り)は、その昔山谷通りといってドヤ街以外に、
旧日光街道として目に付くものは無い。
次の信号は(東浅草交番前)で、信号角に交番がある。
台東区のお巡りさんがいる。
お巡りさんに「泪橋(なみだばし)」はまだ先ですか」と訪ねる。
「まだ大分ありますよ」とご親切。
「ところでどうして泪橋というのでしょうね。」というと、
「明治通りは以前、川だったのですよ」との答え。
何年も東京に住んでいるのに、東京について殆んど知らないボクは、
明治通りが元は川であったというのを初めて聞いた。
明治通りはかっては思川という小さな川があり、
泪橋はそこに架かっていたという。
小塚原刑場に引かれる罪人とここでお別れした家族は、
この橋で涙したらしい。いや、家族でなく罪人の方かも知れない。
それで泪橋という。
(東浅草交番前の信号)
泪橋はまた別の意味で有名である。
漫画「あしたのジョー」で、ボクサーのジョーが
この泪橋からドヤ街のどん底を抜け出すという設定である。
ボクシングで世界一になる、サクセスストーリーに、
ファンは夢中になった。そしてアニメ映画にもなった。
その「泪橋」である。
次に東浅草二丁目の信号を過ぎ、
表通りは、何の変哲も無い通りであるが、
左右に一本はいると、
いわゆるドヤ街の象徴の簡易宿泊所があるはず。
あるはずと書いたのは、元ドヤ街を東京の名所?
いえいえ地元の人は恥部と思っているはずだからだ。
最近、表通りにコンクリートつくりのビルが出来るようになって来た。
それらは外国人のバックパッカーが宿泊する超格安宿泊所になっている。
歩いていると、歩道上のガードレールにもたれかかった、
数人の外国人女性が、ボクに言わせればフランス人形のような恰好をした、
女性がたむろしている。
(東浅草二丁目の信号)
その次の信号で「泪橋」の信号になる。
明治通りが川であったとすると、旧日光街道はここを橋で渡ったことになる。
「泪橋」を渡ると荒川区に入り、台東区とはお別れである。
JR常磐線と地下鉄東京メトロの南千住駅になる。
地下鉄といっても南千住駅は二階にある。
線路を渡るには、自動車は立体交差で地下にもぐっているし、
歩行者はエレベーターに乗って歩道橋で線路を越える。
JR常磐線の線路を越えた所にもう一台のエレベーターがあって、
これで地上に降り立つと、道路の向うの右手にJR南千住駅が見える。
(泪橋の信号)
(泪橋の信号2)
(泪橋の信号3 明治通りでフランス人形のような恰好の外国人が見える)
左手は、小塚原刑場跡の延命院と小塚原回向院が並んで建っている。
最初に、刑場跡の延命寺を訪ねる。
(ここは品川の鈴が森刑場と並ぶ江戸時代の刑場で、
磔(はりつけ)・斬首などが執行されていました。
「小塚原の首切り地蔵」が、江戸時代の刑死者をはじめとする、
無縁の霊を幾つも静かに見守ってきました。)(荒川区観光振興課)とある。
大きな首切り地蔵尊が鎮座している。
先の東北大震災の折には、石で出来た地蔵尊の腕が落ちて、
修復に大層な費用がかかったようだ。
(首きり地蔵がある延命寺)
(小塚原の首切り地蔵)
(震災で落ちた手の修復に寄付を集める看板)
(修復された地蔵尊)
また小塚原回向院は、墨田区の本所回向院の別院として出来たが、
今は回向院として独立している。
(吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎らの幕末の志士の墓や、
ねずみ小僧次郎吉・片岡直次郎・高橋お伝らのお墓があります。
また杉田玄白や前野良沢らが、ここでの刑死者の解剖見学をきっかけに、
「ターヘル・アナトミア」を翻訳して「解体新書」を表したことから、
近代医学発祥の地として「観臓記念碑」建てられている。)(荒川区観光振興課)
ねずみ小僧次郎吉、高橋お伝のお墓は、両国の回向院にもあった。
小塚原の回向院は両国の回向院の別院であったが、
今は独立して小塚原回向院となったようだが、兄弟寺院なのであろう。
(観臓記念碑)
(小塚原回向院)
また、回向院入り口には、吉展(よしのぶ)地蔵尊が安置されている。
吉展の字を見ると、思い出す事件がある。
(時の売れっ子芸人の息子が誘拐された事件で、
誘拐された子供を生きたまま奪取する手法に、
警察の手違いがあり、
子供は殺される、身代金は取られるという、
惨憺たる事件があった。
その時の子供の名が「吉展ちゃん」であった。)
その吉展ちゃんを悼んで建てられた地蔵のように思われる。
今後かかることの無いよう、冥福を祈って手を合わせて通り過ぎた。
旧日光街道が目の前を通っており、
道路標識に日光街道直進の案内がある。
(吉展ちゃん地蔵尊)
(日光街道直進の案内看板)
(南千住の小塚原刑場と小塚原回向院)
(言問橋西)の信号を斜め左に入っていくのが旧日光街道である。
今は吉野通りといっている。
以前は山谷通りと言ったらしいが、
「山谷」=「ドヤ街」のイメージを払拭したかったのか、
吉野通りに変った。
吉野通りを進むと浅草高校前の信号に出て、
その両脇が山谷掘公園の吉野橋になっていることは、
(旧日光・奥州道中番外記 5)に書いた。
(吉野橋の跡)
(旧日光街道にある浅草高校前の信号)
この通り(吉野通り)は、その昔山谷通りといってドヤ街以外に、
旧日光街道として目に付くものは無い。
次の信号は(東浅草交番前)で、信号角に交番がある。
台東区のお巡りさんがいる。
お巡りさんに「泪橋(なみだばし)」はまだ先ですか」と訪ねる。
「まだ大分ありますよ」とご親切。
「ところでどうして泪橋というのでしょうね。」というと、
「明治通りは以前、川だったのですよ」との答え。
何年も東京に住んでいるのに、東京について殆んど知らないボクは、
明治通りが元は川であったというのを初めて聞いた。
明治通りはかっては思川という小さな川があり、
泪橋はそこに架かっていたという。
小塚原刑場に引かれる罪人とここでお別れした家族は、
この橋で涙したらしい。いや、家族でなく罪人の方かも知れない。
それで泪橋という。
(東浅草交番前の信号)
泪橋はまた別の意味で有名である。
漫画「あしたのジョー」で、ボクサーのジョーが
この泪橋からドヤ街のどん底を抜け出すという設定である。
ボクシングで世界一になる、サクセスストーリーに、
ファンは夢中になった。そしてアニメ映画にもなった。
その「泪橋」である。
次に東浅草二丁目の信号を過ぎ、
表通りは、何の変哲も無い通りであるが、
左右に一本はいると、
いわゆるドヤ街の象徴の簡易宿泊所があるはず。
あるはずと書いたのは、元ドヤ街を東京の名所?
いえいえ地元の人は恥部と思っているはずだからだ。
最近、表通りにコンクリートつくりのビルが出来るようになって来た。
それらは外国人のバックパッカーが宿泊する超格安宿泊所になっている。
歩いていると、歩道上のガードレールにもたれかかった、
数人の外国人女性が、ボクに言わせればフランス人形のような恰好をした、
女性がたむろしている。
(東浅草二丁目の信号)
その次の信号で「泪橋」の信号になる。
明治通りが川であったとすると、旧日光街道はここを橋で渡ったことになる。
「泪橋」を渡ると荒川区に入り、台東区とはお別れである。
JR常磐線と地下鉄東京メトロの南千住駅になる。
地下鉄といっても南千住駅は二階にある。
線路を渡るには、自動車は立体交差で地下にもぐっているし、
歩行者はエレベーターに乗って歩道橋で線路を越える。
JR常磐線の線路を越えた所にもう一台のエレベーターがあって、
これで地上に降り立つと、道路の向うの右手にJR南千住駅が見える。
(泪橋の信号)
(泪橋の信号2)
(泪橋の信号3 明治通りでフランス人形のような恰好の外国人が見える)
左手は、小塚原刑場跡の延命院と小塚原回向院が並んで建っている。
最初に、刑場跡の延命寺を訪ねる。
(ここは品川の鈴が森刑場と並ぶ江戸時代の刑場で、
磔(はりつけ)・斬首などが執行されていました。
「小塚原の首切り地蔵」が、江戸時代の刑死者をはじめとする、
無縁の霊を幾つも静かに見守ってきました。)(荒川区観光振興課)とある。
大きな首切り地蔵尊が鎮座している。
先の東北大震災の折には、石で出来た地蔵尊の腕が落ちて、
修復に大層な費用がかかったようだ。
(首きり地蔵がある延命寺)
(小塚原の首切り地蔵)
(震災で落ちた手の修復に寄付を集める看板)
(修復された地蔵尊)
また小塚原回向院は、墨田区の本所回向院の別院として出来たが、
今は回向院として独立している。
(吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎らの幕末の志士の墓や、
ねずみ小僧次郎吉・片岡直次郎・高橋お伝らのお墓があります。
また杉田玄白や前野良沢らが、ここでの刑死者の解剖見学をきっかけに、
「ターヘル・アナトミア」を翻訳して「解体新書」を表したことから、
近代医学発祥の地として「観臓記念碑」建てられている。)(荒川区観光振興課)
ねずみ小僧次郎吉、高橋お伝のお墓は、両国の回向院にもあった。
小塚原の回向院は両国の回向院の別院であったが、
今は独立して小塚原回向院となったようだが、兄弟寺院なのであろう。
(観臓記念碑)
(小塚原回向院)
また、回向院入り口には、吉展(よしのぶ)地蔵尊が安置されている。
吉展の字を見ると、思い出す事件がある。
(時の売れっ子芸人の息子が誘拐された事件で、
誘拐された子供を生きたまま奪取する手法に、
警察の手違いがあり、
子供は殺される、身代金は取られるという、
惨憺たる事件があった。
その時の子供の名が「吉展ちゃん」であった。)
その吉展ちゃんを悼んで建てられた地蔵のように思われる。
今後かかることの無いよう、冥福を祈って手を合わせて通り過ぎた。
旧日光街道が目の前を通っており、
道路標識に日光街道直進の案内がある。
(吉展ちゃん地蔵尊)
(日光街道直進の案内看板)
昔のイメージほど悪くはなくなりましたね。
元々、山谷は、大阪のあいりん地区に比べたら小規模。
今では、簡易宿泊所が、バックパッカー向けの宿になっていますが、それでも、日雇い労働者と、バックパッカー向けの入り口は違っています。
特に犯罪が多いというわけではないので、外国人からは、安いし支持されるようになったのでしょうね。
今日は又もや暑いお天気に戻ってしまいましたけど。
関東はここ暫く雨の日が続いているようですね。
南千住はJRで通過はしていますが途中下車して
その辺りを歩いた記憶がありませんな。
でもそのお地蔵さんは見覚えがあるのは何かの
本か写真集で見たんでしょうね。
江戸時代の大阪では千日前が刑場とお墓になっていたとか聞きました。
今は水商売の女性で賑わう水かけ不動尊も昔は
刑場や行き倒れの人を
弔ったお寺ですが今はお寺が貸しビルとして
水商売の会社にテナント貸しをしているようですな。
外国人の女性が沢山屯していました。
何も知らなかったボクは、
最初、外国人に扮したオカマだと思っていましたが、
ずいぶん流暢な英語が耳に入ってきましたので、
本物の外国人と知りました。
途中で知り合った二人の女性と二三言葉を交わしましたが、
向う方角が違い分かれました。
楽しかったですよ。
特に杉田玄白らが、罪人の腑分け(解剖)をしたことで知られます。
日本の西洋医学の草分けですね。
稲も伸びてきて日毎にふさふさな苗になっています。
山のゆきも少しずつ消えていますが、
万年雪ですからなくなりはしないで、
また冬になりますよ~。
いつも ありがとうございます♪(*'-^)-☆
どうも私はくじ運が悪いようです。
何も当たらないと諦めが付くのに、
人の名前は当たるのが悔しいですね。
いつも ありがとうございます♪(*'-^)-☆
庶民感覚がよく現われていますね。
あれば戒めと
「刑場橋」もあるのかとおもいましたがなくて!
当時は冤罪あたり前の時代
それでもつとめを果たそうとする多くが~
吉展ちゃんの記憶も僅かに残っていますが
残虐事件多くなり嘆かわしい気持にもなります。
今に花が咲き実がなります。
6月もあと一週間、もう七月ですね。
くじに外れてもそれは当たり前と思って諦めるが勝ち。
その内良いことがあります。
江戸の外れに刑場はあったようです。
このような場所には、良い話は伝わっていませんね。
吉展ちゃん事件など二度とあってはならないように、
願っての地蔵尊に思えます。
明治通りが『思い川』を埋めた跡ですか。
すでに都市化していたのでしょうね。
小塚っ原の刑場も当時は人家もまばらだったようですが、江戸のうちですね。